2017年12月31日日曜日

明治維新は討幕戦から始まる。

話が少しそれたので、本論に戻します。フランス革命は1789年に始まり、1830年に終わった。終わったというのは成果が確定して、それ以後は後戻りしないということです。
日本では、これに相当するものが、1868年に始まり、1871年に終わった。これを明治維新と日本では言うが、これが誤訳され、誤解されてこの時期設定が受け入れられない。私はこれを「日本革命」というべきだと主張する。
フランス革命の終結1830年、日本革命の終結1871年、このような記述が世界史の教科書でなされること、これが私の夢です。そのための論考、考証をしています。
フランス革命の始まりに戻ります。これ以前、フランス絶対主義と呼ばれる世の中で、アンシャン・レジーム、旧体制とも呼ばれ、それ以後の社会とは違うのです。貴族が優越的な立場を持つ社会で、それ以下が平民であった。日本でも武士階級が優越的立場にあり、それ以下が町人、百姓であった。だから、英語フランス語に翻訳するとき、侍・さむらいと言わずに、日本の貴族「ジャパニーズ・ノーブル」というべきだといいたい。侍では、大名、上級旗本が含まれない。これでは下っ端ばかりで、卑屈な集団のように思われる。これも誤解のもとである。
どちらも大土地所有者の代表者が、戦士として中心部の城に集まります。土地所有の形態はさまざまです。領地の個人所有、これはフランス革命前まではそうでした。日本は、領地の集団所有、それが藩と呼ぶ単位で組織され、最高支配者のものは、幕府領とか、天領と呼ばれていた。
日本では、江戸城が中心で、ここに旗本の役職者と300諸侯と呼ばれた大名が集まる。フランスでは、ヴェルサイユ城に集まります。宮殿と訳されるが、これでは誤解を招く。ル・シャトー・ド・ヴェルサイユというから、城なのです。これを宮殿と翻訳したから、これだけでも誤解の種をばらまいたのです。ヴェルサイユ城には、3000の大領主が集まった。どちらの城でも、腰に剣を持つものが主流です。例外は、日本では茶坊主、フランスでは、法服貴族と教会貴族です。フランスでは、読み書きはブルジョアのするものと思われていて、高貴な貴族はするものではないと思われていた。だから彼らが書き役として一定の職権を持ったが、意思決定はその上の剣を持つ大貴族によるものであった。教会貴族は大貴族の親族で、次男、三男が相続に外れた時、ここに派遣されるもので、日本でいう門跡寺院のようなもの、日本でも、江戸時代の初期は天海大僧正などの例がある。
どちらの国も、大土地所有の戦士の集団が中心の城に集まり権力を握っていた。この点が共通点である。この体制を崩すものが市民革命であるが、崩し方は各国の条件によって異なる。日本の場合は、最大の領地を持つ徳川家の本家、将軍(征夷大将軍)の武力と戦って勝つことが必要な条件であった。つまり討幕戦であり、鳥羽伏見の戦いであった。フランスではバステイーユ占領に象徴される市街戦であった。

2017年12月7日木曜日

世界各地の中間層の革命理論

中間層は、さまざまな革命理論を持って社会運動に参加する。時と条件、民族的多様性が違うので、その主義主張に入り込むと、特殊性ばかりで、一般化は不可能になる。しいて共通点を挙げようとすれば、上を削って、下を救い、ほぼ平等の楽園を作れないものかという淡い期待であろう。そこで、前近代社会においては、大土地所有の階級に対して、批判が出てくる。それを倒した後は、大商人、銀行家、大工業化、などの富豪の贅沢に対して批判を強める。ただし、貿易商人で命がけの冒険を克服して貴重な商品をもたらした場合は、住民全体の尊敬を受けるから、非難の対象にはなりにくい。
世界で目立つものといえば、民主主義全盛期の古代アテネ、中世のヴェネチア、ダンテ、ミケランジェロの時代のフィレンツエの一時期、中世ドイツの都市国家ニュールンベルグ(ワグナーの楽劇ニュールンベルグのマイスタージンガーの舞台)、カルヴァンによる宗教支配下のスイス・ジュネーヴ、フランス西部海岸都市国家のラ・ロシエル、オランダ独立戦争を始めたばかりのアムステルだムなどがあげられる。
日本では、初期の貿易都市堺であろうが、後期すなわち織田信長が接近してきたときには、一方に能登屋のような大商人がいて、千利休に対しては「小商いなどやってなはれ」といったというから、格差は広がっていたようである。同じく戦国時代、一向一揆が支配した越前では、「坊主を立てて、わがままを言いて」という言葉が残っているから、中間層の楽園になったのではないか。浄土真宗の寺は寺領を持たないから、大土地支配には関係がない。寺のことは信者の寄り合いで決めるから、キリスト教世界のカルヴァン派に似ている。
このカルヴァン派が市民革命を起こした国は、オランダとイギリスである。オランダでは、アムステルダムを中心とした狭い地域で独立政権を樹立し、そこでは東インド会社を中心とした貿易商人の指導権が実現した。しかし、周囲の湿地帯における軍事力、警察権については中間層に頼ることが必須条件になる。レンブラントの絵画、夜警に見る市民たちのプライドがそれである。フェルメールの絵画もそれを表現している。この国のこの
時代では、大商人と中間層の妥協が成立していたとみるべきだろう。
同じことはイギリスのピューリタン革命にもみられる。それはクロムウエル独裁のころになる。両者のぎりぎりの妥協点の上に彼が護民官・ロード・プロテクターとして軍事独裁政権を樹立した。しかし彼の死後、その成果は消えた。
似たような人物は、イタリアの統一運動で英雄とされるがリバルデイといえるだろう。日本人はあまり知らないが、ローマから南に下がると、この人が英雄とされ、ナポリの駅前にもがリバルデイ広場がある。若者が熱狂的に彼のことを語ってくれたことが、ひどく印象的であった。その時に思い出したのが、鹿児島のタクシーになったとき、運転手に「西郷さんに似てますね」、「イヤーサツマイモばかり食っているからでしょう」。「西郷さんは人気があるでしょう」、「それは絶対です。大久保さんはどうかは知れませんけれど」というような会話があったことを思い出した。
イタリアの若者も、がリバルデイから南イタリアを譲り受けた宰相カヴールのことを批判していた。何かよく似ていると思った。がリバルデイの政策について知るところは少ないが、巨悪を打倒しようとする正義感が強く、彼が立てば、数千人の若者がはせ参じ、強力な集団になった。用兵の妙も加わり、連戦連勝でナポリ王国を征服し、そこの支配者になるかと思われたところ、イタリア統一の大目的を理解して身を引き、サルデニア国王のもとイタリア王国が成立することを助けた。晩年は地中海の島に引退して、身を全うしたが、西郷さんも島に滞在していて、かえって見ると西南戦争に心ならずも巻き込まれたというから、両者共通点が多いような気がする。
21世紀に出てきた中間層の革命理論は、アメリカ発のバノン現象であった。2017トランプ大統領の出現に貢献して、一時は影の大統領といわれた。そのまま実権を握り続けるのかと思うと、そうではなく早々と政府から去った。本人は自分がレーニン主義者だといっている。ということは暴力革命も辞さないという意思表示である。よくこれがアメリカで通用するものだと思うが、強固な支持母体があるといわれている。
それが白人中間層だという。特に多いのが、さびた地帯(ラストベルト)といわれるかつての重工業地帯で働いていた白人労働者であるといわれる。今は収入が減り、失業者が多く、その子供にも将来の見込みがない。絶望で怒り狂っているらしい。この芽は、約40年前、日本車を叩き壊した運動に見ることができる。
この中間層は、かつての労働者階級で、本来は下層であったが、労働組合運動の成功で、生活水準が上がり、労働貴族となり、中間層になったものである。時と条件によって、中間層の在り方は変化する。それだけに、その行方は予測がつかない。

2017年12月4日月曜日

中間層の革命理論・高杉晋作、坂本龍馬、西郷隆盛にその芽をみる。

高杉晋作は、佐幕派の藩政府を倒した後、幕府との戦争に備えて武備充実を図るとき、費用の問題に触れ、「無用高位士の禄を削ぐほか無からむ」と書いた。この伏線としては、「肉食の士人、みな事に耐えず」という観察である。これは、外国軍の攻撃に際して、豊かな上級武士が戦闘では役に立たなかったことを評価した言葉であった。当時は豊かな上級武士だけが肉を食べ、それ以下は魚だけを食べるしかなかったという事情の下でなされた発言である。現代ならば、肉食のほうが馬力が出るはずではないかという疑問が出される。そういう問題ではないと思ってもらいたい。肉食の馬力はあっても、臆病であったり、武術の鍛錬不足であったりすると、戦闘では物の役に立たない。当時の上級武士の多くがそうであり、それでいながら、最高の贅沢をしていたのである。
そこで、上を切って下を救うという中間層の発想が出てくる。彼の家は150石取りの中級武士、このあたりが目安だというのは、明治維新以後、武士の禄を250石にまで引き下げ、さらに3割3分の税金をかけたからである。削減された上級武士の上は、9000石取りの旗本から始まり、3000石取り、1000石取りなどと、ピラミッド型に広がっていく。長州藩でも、1万石取りの上級武士が3人いた。これも250石取りにされたのである。こうした改革は大久保利通を中心として推進された。
坂本龍馬は、幕府の役人が、民の暮らしに関心を持っていないと批判し、「この一言でも幕府を倒さなければならない」といている。これも同じ発想で、上を切って下を救おうというものである。
西郷隆盛が討幕以後薩摩藩で行った改革もその線に沿っている。武士階級を中級武士程度にそろえて、貧富の差が出ないようにした。中間層の理想が実現したかのような瞬間であった。