2022年5月20日金曜日

02-市民革命―毛沢東の歴史理論の間違い

2 毛沢東の歴史理論のまちがい


ブルジョア革命と民主主義

毛沢東は、一九四〇年に『新民主主義論』を発表した。ここで、かれは、独特の歴史理論をつくりあげた。これが、中国近代史の時代区分を誤まらせるもとになった。しかも、その理論は、ひじように混乱し、多くの誤解のつみ重ねのうえにきずきあげられたうえ、そのまちがいはまちがいなりにすじがとおされているので、いまだにすっきりした正解が出てこない。いまから、国民革命の正確な理解のうえにたって、そのもつれをほどいてみよう。

国民革命は、ブルジョア革命であった。ところが、毛沢東はちがうという。中国のブルジョア革命は、かれが論文を発表した一九四〇年でも、まだ完成していないという。だから、いぜんとして、毛沢東たちはブルジョア革命の運動をつづけているのだという。

「中国革命の歴史的特質は、革命が民主主義と社会主義との二つのあゆみにわかれることであり、その最初のあゆみは、現在では、もはや一般的な意味での民主主義ではなく、中国的な、特殊な、新しい型の民主主義であり、新民主主義である」

「この最初のあゆみの準備段階は、すでに、一八四〇年のアヘン戦争から、すなわち、中国の社会が封建社会から半植民地的・半封建的な社会にかわりはじめたときから、はじまったものである。大平天国運動、清仏戦争、日清戦争、戊戌政変、辛亥革命、五・四運動、北伐戦争、土地革命戦争から今日の抗日戦争にいたるまでのこの多くの個々の段階は時間的にはまる一〇〇年も経過しているが、ある点からいえば、それはすべてこの最初のあゆみに属し、それぞれの時期の、それぞれの程度での中国人民のこの最初のあゆみに属している。それは帝国主義と封建勢力に反対し、独立の民主主義社会をうちたてるためにたたかったものであり、最初の革命を達成するためにたたかったものである。そして、辛亥革命は、より完全な意味での、この革命の発端となった。この革命は、その社会的性格からいうと、ブルジョア民主主義革命であってプロレタリア社会主義革命ではない。この革命は、現在でもまだ達成されていないし、なお多くの努力をそそがなければならない。それは、この革命の敵が、ずっと今日まで、なお非常に強い力をもっているからである。孫中山先生が『革命なおいまだ成功せず。同志よ、さらに努力せよ』と言ったのは、このようなブルジョア民主主義革命のことである」(『毛沢東選集』第五巻、三一書房、一六~一七頁、傍点は筆者による)

「この革命は、現在でもまだ達成されていない」というのは、一九四〇年の時期でも、まだ、ブルジョア民主主義革命は達成されていないというのである。これが誤解への第一歩である。

国民革命で、ブルジョア革命はおわったのであり、達成された。ただし、民主主義は、実現していない。ここに、ちょっとした問題がある。民主主義を実現しなければ、ブルジョア革命とはみとめられないかということだ。毛沢東は、そう思っているらしい、だが、これは歴史の事実を無視した考えかたである。フランス革命でも、そのあとにきたナポレオンは、民主主義を廃止した。イギリス革命が、もっとも急進的になったときは、クロムウエル独裁であり、そこに民主主義はない。民主主義は社会の動揺のなかで、あらわれては消える。フランス革命の普通選挙制は、せいぜい一七九二年から、一七九五年の短い期間にすぎなかった。それがすぎると、たちまち消されてしまった。これは、一つのエピソードにすぎない。このようなエピソードならば、辛亥革命ののちにも、国会が召集され、国民党が多数参加したあげく、袁世凱によって弾圧、解散させられたという事実もある。

フランス革命ですら、民主主義を絶対的な成果として、守りつづけたわけではない。だから、「ブルジョア民主主義革命」でなければ「ブルジョア革命」でないというようないい方は、まちがいである。ブルジョア革命と民主主義は、きりはなして論じるべきである。国民革命は、ブルジョア革命であった。しかし、民主主義は、実現しなかったというべきである。


基本任務の思いちがい

国民革命がブルジョア革命でないと、毛沢東がいうとき、その理由を二つのことにもとめる。

それは反帝国主義と土地革命の二つの基本的任務を実現しなかったからという理由である。たしかに、国民革命は、この二つのことを実現しなかった。

だが、ブルジョア革命であるかないかを判定する基準は、この二つのことだとだれがいえるのか。この二つの基準は、毛沢東が、勝手につくったものである。だいたい、フランス革命では、毛沢東の理解しているような土地革命が実現されていない。フランス革命も、国民革命とおなじく、貴族、商人、富裕農民の大土地所有をのこしたのである。地主の土地を、小作農にあたえたようなことはなかった。

反帝国主義の任務というのは、フランス革命でも、イギリス革命でももつはずがない。だから、これは特殊性の問題であり、個別性の問題である。フランスのブルジョア革命には、反帝国主義の任務はなかったが、中国のブルジョア革命のときには、その問題がつけくわわったというべきである。そのようなちがいがあるのに、なおかつブルジョア革命としての共通点はなにかと問うべきである。その共通点があれば、国民革命は、ブルジョア革命だといえる。それが、前章で分析したような、権力と財政の問題である。反帝国主義の問題が解決されていなくても、ブルジョア革命であるかないかをきめる基準は、べつにある。

反帝国主義と土地革命を徹底的に実施することは、毛沢東と中国共産党の考えた基本任務であり、それは、ブルジョア革命のものではなく、かれらプロレタリア革命家の希望であった。

それを実現しないからといって、国民革命はブルジョア革命でないというのは、自分の主観的希望というものさしで、客観的事実をはかっていることになる。かれの文章について、その混乱ぶりをみてみよう。

「帝国主義打倒のスローガンや中国の全ブルジョア民主主義革命の徹底した綱領は、中国共産党が提起したものであり、土地革命は中国共産党だけが遂行した」

「中国の民族ブルジョアジーは、植民地・半植民地国のブルジョアジーであり、帝国主義の圧迫をうけているため、帝国主義時代におかれながらも、ある期間には、またある程度は、外国帝国主義に反対し、また自国の官僚・軍閥政府に反対する(この後者についていうと、たとえば辛亥革命の時期および北伐戦争の時期がそうであった)革命性をたもっていたので、プロレタリアートや小ブルジョアジーと提携して、自分たちの敵とたたかうことができた」

「だが、同時に彼らは、植民地・半植民地のブルジョアであり、経済的にも政治的にもきわめてよわく、そのうえ、もう一つの性格、すなわち、革命の敵に妥協する性格をもっている。中国の民族ブルジョアジーは、革命の時期においてさえも、帝国主義と完全に手を切ることをのぞまない。しかも、彼らは、農村では、小作料による搾取とかたくむすびついている。したがって、帝国主義を徹底的にうちたおすことをのぞまいし、またできもしない。まして、封建勢力にたいしては、なおさらそうである。だから、中国におけるブルジョア民主主義革命の二つの基本問題、二つの基本任務は、いずれも中国の民族ブルジョアジーによっては解決されえない。国民党によって代表される中国の大ブルジョアジーは、一九二七年から一九三七年のこの長い期間にわたって、ずっと、身を帝国主義のふところに投じてきたし、また封建勢力と同盟をむすんで、革命的な人民とたたかってきた」

「この点も、中国のブルジョアジーが欧米諸国の歴史におけるブルジョアジー、とくにフランスのブルジョアジーとちがっている点である。欧米諸国では、とくにフランスでは、それらの国がまだ革命時代にあったころは、それら諸国のブルジョアジーは革命の遂行にかなり徹底的であった。中国のブルジョアジーはこの点での徹底性さえもっていない」(同二五~二六頁)。

毛沢東は、中国のブルジョアジーと国民政府が、地主制をのこしたことを、封建勢力と同盟して、人民とたたかってきたという。このいいかたにも問題がある。たしかに、土地革命をもとめる農民運動を弾圧して、地主制をまもった。そのかぎりでは、同盟している。だが、軍閥官僚地主の、権力をうばい、かれらを二流の支配者、地方的な支配者に叩きおとし、ときには、かれらの地主的土地所有を喰いあらしていったのである。だから、この同盟は、単純な同盟ではなく、一度たたいておいて、つぎに目下の同盟者としてかかえこんだという程度のものである。そこに、あきらかな、力関係の変化がみとめられる。

ところが、毛沢東は、その力関係の変化をみとめていないようだ。それは一九二七年から三七年の時期についてのつぎのような言葉についてうかがわれる。

「反革命のがわでは、帝国主義に指揮された地主階級と大ブルジョアジーとの同盟によってる専制主義をおこなった」(同、六五頁)。

このようないい方が、国民革命の見方をまちがわせた。かれは、フランス革命のブルジョアジーが、もっと徹底的だというが、そのようなことはなく、地主制も保存し、旧貴族の多くを上流階級の人間としてのこしている。東洋人は、ややもすると、西洋を美化し、必要以上に模範的に考えるくせがある。これなども、その一例だろう。軍閥も地主とブルジョアジーの権力だという言い方がある(日本では多い)。もし、そのようにあいまいに考えていると、国民革命で、何らの変化もなかったのだというふうな誤解がでてくるだろう。


錯覚が錯覚をうむ

国民革命がブルジョア革命でないという錯覚は、つぎのおもいちがいを毛沢東におこさせた。

それはまだ自分らが、いぜんとしてブルジョア民主主義革命をめざしているのだというおもいちがいである(五二頁参照)。

ところが、それにしてはすこしおかしいことがある。どこの国でも、ブルジョア革命では、ブルジョアジーが権力をにぎったのである。ところが、毛沢東のめざしているのは、自分が権力をにぎろうとしている革命である。そして、かれらはブルジョアジーの代表者ではない。そこで、毛沢東は、かれらのおもいちがいを、植民地・半植民地の革命の一般理論として、それなりにすじをとおしてしまった。そこに、ますますこみいった問題がでてきたのである。

「このような植民地・半植民地の革命の第一段階、すなわち、最初のあゆみは、その社会的性格からいうと、基本的にはいぜんとしてブルジョア民主主義的なものであり、その客観的な要求は、資本主義の発展のための道をはききよめる。だが、このような革命は、もはやブルジョアジーに指導された資本主義の社会とブルジョア独裁の旧い型の国家を樹立することを目的とする旧い型の革命ではなくて、プロレタリアートに指導された、第一段階では新民主主義の社会と革命的諸階級の連合独裁の国家を樹立することを目的とする、新しい型の革命である」

(同、一九頁)。

よそ目でみると、国民革命でブルジョア革命はおわったから、毛沢東は、社会主義革命をめざして国共内戦をつづけているのであるが、本人は、ブルジョア革命がおわっていないとおもっているから、「プロレタリアートの指導するブルジョア革命」をめざしているとおもっている。これを新民主主義革命と名づける。かれの見とおしによると、将来には、新民主主義革命のつぎに、社会主義革命が待っているということになる。

「この革命の最初のあゆみ、すなわち第一段階は、けっして中国ブルジョアジーの独裁する資本主義社会を建設することではなく、また建設できるものでもなくて、中国プロレタリアートを先頭とする中国の革命的諸階級の連合独裁のもとでの新民主主義社会を建設することであり、これによって、この第一段階はおわる。そして、その後には、さらにこれを第二の段階に発展させて、中国の社会主義社会をうちたてる」(同、二三頁)。

「中国革命は二つの歴史的段階にわかれ、その第一段階は新民主主義革命である。これは中国革命のあたらしい、歴史的特質である」(同、二四頁)。

「このような新民主主義共和国は、一方では、旧い形態の、欧米型の、ブルジョア独裁の資本主義的共和国とは異なっている」「しかし、それは他方では、ソヴェト同盟型の、プロレタリア独裁の、社会主義の共和国とも異なっている」「だが、そのような共和国は、ある歴史的時期のあいだはまだ植民地・半植民地国の革命に適用することはできない。したがって、あらゆる植民地・半植民地国の革命がある歴史的時期のあいだとりうる国家形態としては、第三の形態のほかにない。それが新民主主義共和国といわれるものである」「したがって、全世界の多種多様な国家体制も、その権力の性格からわけると、基本的にはつぎの三つよりほかはない。すなわち(一)ブルジョア独裁の共和国、(二)プロレタリア独裁の共和国、(三)いくつかの革命的諸階級の連合独裁の共和国がそれである」「第一のものは、旧い民主主義の国家である」「第二のものは、ソヴェト同盟に存在している」「第三のものは、植民地・半植民地国家の革命がとる過渡的な国家形態である」(同、二七~二八頁)

「現段階の革命の基本任務は、主として外国の帝国主義と自国の封建主義とたたかうことであり、ブルジョア民主主義革命であって、まだ資本主義をくつがえすことを目標とする社会主義革命ではないからである」(同、六七頁)。

こうして、「植民地・半植民地」→「新民主主義革命」→「社会主義革命」という図式ができあがった。この図式は、中国で、正しいものとされている。そこで、現在の「文化革命」を、最後の段階のものとおもっているようなふしがある。林彪副主席の演説がそれである(昭和四二年一一月六日)。

「毛主席は、この問題を解決して、勝利のうちに史上初のプロレタリア文化大革命を指導した」(一一月七日付の『朝日新聞』)。

だが、これはおもいちがいである。毛沢東は、新民主主義革命が、ロシア社会主義革命とブルジョア革命の中間のものだというが、そうではない。ロシアの歴史と比較するなら、国民革命が、ロシアの三月革命(旧暦の二月革命)とおなじくブルジョア革命であり、いわゆる「新民主主義革命」は、ロシアの一一月革命(旧暦一〇月革命)とおなじく、社会主義革命である。だから、ソ連とおなじく、共産圏、社会主義圏に入るのである。ただ、両者のいちばん目立ったちがいは、新中国に民族ブルジョアジーが参加していることである。これは、前にのべたような事情、すなわち、中国が半植民地国であり、かつ四大財閥の横暴がひどかったことから実現した。しかし、このときの民族ブルジョアジーとは、主流ではなく、脱落者であり、主流は外国資本と四大財閥である。そして、主流となる勢力は敗北した。だから、基本的にはおなじであり、同盟者の構成に特殊性があるというべきだ。


過渡期と目標の混同

毛沢東のまちがいは、さらにすすむ。それは、かれが、「新民主主義革命」の内容を「抗日統一戦線」だと理論づけたことだ。

「このような新民主主義の国家形態は、抗日統一戦線の形態である」(同、二九頁)。

これは、あきらかなまちがいである。抗日統一戦線とは、日本軍に抵抗するすべての勢力の同盟だった。そのなかには、蒋介石の国民党も入っていた。入らないものは、汪精衛に代表される、親日派のみであった。この同盟をつくるためには、土地革命や、資本の国有化政策をひっこめなければならない。それどころか、八時間労働制もひっこめて、一〇時間労働制でがまんした。

「親日派の大ブルジョアジーは、はやくから徹底的に日本に降伏し、あやつり人形の登場を準備している。欧米派の大ブルジョアジーは、いまなお抗日をつづけているが、妥協的傾向がいぜんとして大きい。・・・・・・かれらは、抗日統一戦線内の頑固派である。中間勢力には、中位のブルジョアジー、進歩的な地主および地方の実力派がふくまれており・・・・・・かれらは抗日統一戦線内の中間派である。共産党の指導下にあるプロレタリアート、農民および都市小ブルジョアジーの進歩勢力は・・・・・・抗日統一戦線内の進歩派である」(「現在の抗日統一戦線における戦術の問題」、『毛沢東選集』、第五巻、一三二頁)。

「労働政策について。・・・・・・中国の現状のもとでは、八時間労働制を普遍的に実施することはまだむずかしく、ある一部の生産部門では、十時間労働制がなおゆるされなければならない。・・・・・・労働者はかならず労働規律をまもり、資本家に利益をあげさせなければならない。そうしなければ、工場は閉鎖される。それは、抗日にも不利になるし、労働者にも損になるであろう」

「土地政策について、現在が、徹底した、土地革命を実行する時期ではなく、過去の土地革命時代の一連の方策をいまの時期に適用することができないということを、党員や農民に説明しなければならない。現在の政策についていえば、一方では、地主が小作料・利子の引下げを行なうよう規定すべきであり、そして、はじめて、基本的な農民大衆の抗日への積極性をよびおこすことができる。だが、しかし、引下げすぎてはならない。小作料は、一般に二割五分引下げを原則とすべきである」

「徴税政策について。・・・・・・負担をすっかり地主や資本家におしつけてはならない」

「経済政策について。・・・・・・外部の資本家で、わが抗日根拠地にきて事業をおこしたがっているものはこれを吸収しなければならない。民営企業を奨励し、政府経営の国営企業はたんに全企業の一部とみなすべきである」

「国民党の軍隊にたいしては、ひきつづき、犯されず、犯さずの政策をとり、できるだけ友好関係をのばすべきである」(「政策について」、『選集』第五巻、一六三~一六七頁)。

さて、かんじんなことは、この抗日統一戦線と、いわゆる「新民主主義革命」とが、まったくちがう内容をもっていることである。日本が敗北し、つづいて国民党と共産党との全面的な内戦がはじまり、国民党が敗北して、中華人民共和国の成立が宣言されたとき、うちだされた経済政策といえば、外国資本、官僚資本=四大財閥の没収、土地革命=地主の土地没収である。国民党との共存政策はけしとんだ。つまり、この時期には、抗日統一戦線の内容がすてられ、「過去の土地革命時代」の方針にもどったのである。だからいわゆる新民主主義革命は、抗日統一戦線とおなじものではない。そのことは、毛沢東自身もべつのところでいっていることである。

「中国で樹立されるこのような共和国は、・・・・・・経済においてもまた新民主主義的でなければならない。

大銀行、大工業、大商業は、この共和国の国家的所有となる。・・・・・・

この共和国は、将来ある種の必要な方法によって、地主の土地を没収し、それを土地のない農民や土地のすくない農民に分配し・・・・・・農村における封建的関係を一掃し、土地を農民の私有にうつすであろう」(「新民主主義論」、同、第五巻、三一~三二頁)。

これで、毛沢東の自己矛盾はあきらかだろう。かれは、「新民主主義革命」の目標として、土地革命、大資本の没収を考えた。だが、抗日統一戦線をつくったときには、この目標をひっこめていた。そして、抗日統一戦線の時期がおわり、国共内戦の時期になって、もとの目標にむかった。抗日統一戦線の形態とは、新民主主義革命ではなく、国共内戦よりも、抗日が大問題となったときの、一時的な過渡期の政策であり、それは、国民革命と新民主主義革命の中間にあるものにすぎなかった。

毛沢東は、過渡期と目標を混同したのである。もし、どうしても新民主主義と抗日統一戦線をおなじものといいたいのなら、そのあとでできた、中華人民共和国を新民主主義というべきでない。経済の内容がちがうからだ。じっさい、中国で、外国資本と四大財閥の資本を没収すれば、基本的な資本をすべて没収したことになる。まして土地革命も実行したのだから、新中国の成立とは、基本的にロシア一〇月革命とおなじ社会主義革命であったというべきである。

こうして、中国近代史の時代区分は、すっきりしたものになる。国民革命は、ブルジョア革命であった。(いわゆる新民主主義革命、すなわち一九四九年の新中国の成立は、社会主義革命である。抗日統一戦線とは、そのあいだの過渡期にすぎない。

毛沢東は、まず、フランス革命をなにかひじょうに徹底的なものと信じこんだ。そこで、国民革命をブルジョア革命でないと思った。そこから、理論的なむりをかさねて、ついに自分のしていることの歴史的な評価を見失ったのである。

 

01-市民革命―中国の市民革命

 1 中国の市民革命

はじめに

ここで、まずはじめに中国の問題をとりあげるのは、二つの理由からである。一つは、日本の隣国であり、よかれあしかれ、日本人は中国の影響をうけ、そのため日本人の中国への関心も強いからである。二つは、中国のブルジョア革命の時点が、まだはっきりとみとめられず、そのため、中国史の時代区分がひじょうに混乱しているからである。ここでは、国民革命が、中国のブルジョア革命であることを証明しようとおもう。この証明が正しければ、毛沢東の歴史理論がまちがいだということになる。毛沢東の歴史理論は、国民革命がブルジョア革命を完成させていないというところから出発する。

これは、毛沢東の『新民主主義論』で、はっきりと打ちだされたものである。それによると、国民革命は、ブルジョア民主主義革命の任務を果たさなかった。だから、その課題は、ひきつづき中国共産党の解放戦争にもちこまれた。そこで国共内戦の時期の、中国共産党のめざす目標は、新しい型のブルジョア民主主義革命だとされる。それを新民主主義革命と名づけた。毛沢東によれば、これは、フランス革命のような古いブルジョア革命でもなく、ロシア一〇月革命のような社会主義革命でもない。第三の、中間の型の革命だという(五九~六〇頁参照)。

そこで、一九四九年の新民主主義革命が完成したのちに、新民主主義革命から社会主義革命へという方針がうちだされた。それが、今の文化革命だと思っているかいないかは、わからないとしても、ともかく奇妙なことは、第三の型の革命を行なったというのに、常識では、中国がソ連と同じく、共産圏もしくは社会主義圏のなかに含まれていることである。常識では、中国の一九四九年に完成した革命(いわゆる新民主主義革命)が、ロシア一〇月革命とおなじものであると思われている。それならば、国民革命は、ブルジョア革命ではなかったのか、という推理もできる。ところが、毛沢東はちがうというのである。そこで、ちがうという根拠をしらべてみると、かれもかれなりに、フランス革命と国民革命を比較して、結論をひきだしている。

はたしてその対比のしかたは正しかったか。つまり、毛沢東の、フランス革命にたいする見方は正しかったかどうかというのである。この点に目をむけてみると、明治維新とフランス革命を比較するときに、日本人がフランス革命を誤解していたのとおなじ誤解を見ることができる。日本人が、いかにフランス革命を誤解していたかということについては、すでに別の書物で指摘しておいた(拙著『フランス革命経済史研究』、『明治維新の考え方』)。おなじように、毛沢東は、フランス革命を、何かひじように徹底的なものとして理解し、そのようなものが、国民革命ではなされていないことを強調している。ここに、東洋人が、西洋をみるときの色眼鏡ともいうべきものをみることができる。その色眼鏡をとりはらってみると、中国史の分析は、もっとちがったものになるだろう。私の研究によると、国民革命は、フランス革命とおなじく、ブルジョア革命である。だから、新民主主義革命とよばれるものは、ロシア一〇月革命とおなじものだということになる。これによって、近代中国史の時代区分は、きわめてすっきりしたものになる。以下は、そのような角度からする分析である。なお辛亥革命がブルジョア革命であるという意見もあるが、あとでみるように、そのあとにきた軍閥の時代がまだ一種の封建制度であるため、そのような意見は論外だとしたい。


基本理論

まず、ブルジョア革命とはなにか、ということをきめておかなければならない。もしこれについて、まちがった考え方をもち、それをあてはめようとすると、なにもかも狂ってしまう。

ブルジョア革命の中心は、土地革命だという考え方がある。この土地革命という言葉についての解釈は、人によってまちまちだが、もっとも常識的には、地主の土地を没収して、小作人や農業労働者に与え、自作農をつくりだすものとされていいる。こういう考え方を明治維新にあてはめると、明治維新は、地主制をのこしたから、ブルジョア革命ではないという結論になる。おなじく、国民革命も、地主制をのこしたから、ブルジョア革命ではないということになる。そうすると、イギリス革命も、アメリカ独立革命も、ロシア二月革命も、そうではないということになる。

これはおかしいのであって、その誤解のもとは、フランス革命の土地問題から、正確な結論をひきださなかったことによる。私の研究によると、フランス革命は、貴族の大土地所有、商人や富農の大土地所有をのこしたのであり、フランス革命でも地主制をのこしたのである。だから、ブルジョア革命の任務は、土地革命ではない。

ブルジョア革命の任務は、商業資本にたいする産業資本の勝利だという説もある。このばあい、商業資本には、特権的、前期的、寄生的性格があるものとされ、産業資本は、自生的な産業経営からでてきたものとされる。そうすると、明治維新で三井などの大商人が、新政府とむすんだことは、ブルジョア革命ではないことをしめすものだといえる。おなじく国民革命で、国民党がむすんだ商人、銀行家が、とても「産業資本」とよびうる性資のものでないから、ブルジョア革命ではないともいえる。

これも、私の研究によると、フランス革命にたいする誤解からきている。フランス革命でも、いわゆる「商業資本」は、敗北せずに生きのこったのであり、生きのこったものは、革命後の政権の支柱になった。だから、商業資本にたいする産業資本の勝利は、ブルジョア革命の任務ではない。

それでは、基本的任務はなにかということになる。それは、権力と財政の問題である。絶対主義は、封建制度の最後の段階であり、そこでは、領主の一派が国家権力をにぎり、国家財政を自分の利益になるように利用していた。他の領主は権力からしめ出され、たんなる地方的な支配者にとどまった。大商人、上層ブルジョアは、かなり王権にくいこんだが、権力をにぎるまでにはならず、王権とのあいだには、一面協力、一面敵対の関係があった。それを図示すると、つぎのようになる。


王=領主の一派

-領主の多数Ⅱは全面協力

-ブルジョアⅠは一面協力、一面敵対


国家財政が赤字となり、その負担がブルジョアジーに転嫁され、破産するか、反抗するかの問題をつきつけられたとき、革命がはじまり、領主の一派の組織する権力は破壊され、ブルジョアの上層が権力をにぎる。それとともに、財政政策が転換し、領主を犠牲にして、ブルジョアジーと商工業の発達のために、国家財政が利用される。これが、フランス革命で、無条件に実現されたものであり、これがブルジョア革命の基本的成果だと考えられる。

そのほかのことは、副次的なものであり、特殊的なものであり、基本的なものではない。

これをまとめるならば、つぎのようにいえる。封建制度の時代は、上級土地所有権の所有者が、権力と財政の実権をにぎっている。ブルジョア革命は、その権力を破壊し、ブルジョアの上層の手にうつす。それとともに、財政の実権がうつり、ブルジョアジーと商工業の発展に利用される。これが各国で実現されたのはいつであるか、というのが問題である。


政治史のまとめ

社会経済史的な分析に入るまえに、政治史をまとめておこう。

「明」の末期に、満州方面のツングース族(女直、女真ともいう)が建国して「清」と称した。明と清が戦争しているうちに、明の西部で李自成のひきいる反乱がおこり、反乱軍は北京を占領し、明の皇帝は自殺した。明の将軍呉三桂は、清に降伏し、清軍を手びきして李自成を攻めた。こうして、満州人は中国に侵入し、一六七三年の三藩の乱で呉三桂も滅ぼされ、中国は満州人が支配するようになった。これが清である。

大平天国の乱のとき、満州人が敗北をかさねて弱体ぶりをさらし、かえって、漠人地主の曽国藩、李鴻章などが、義勇兵を組織して、これを滅ぼすのに腕をふるった。そのあとにくる「同治中興」の時代に、漢人地主は高級官僚となって権力の座にくいこんだ。

一八九八年、「戊戌変法」を行なった光緒帝を、西太后が幽閉して「戊戊政変」をおこしたとき、李鴻章の後継者袁世凱(エンシーカイ)は、武力を提供して協力した。

一九〇八年、西太后が死に、三歳の宣統帝が即位すると、それをとりまいて満人内閣が成立し、袁世凱など漢人官僚は追放された。いわば、大平天国以前の状態にもどり、満州人の独裁が復活した。

これとは別に、孫文を中心とした中国革命同盟会が、一九〇五年に結成され、革命をめざしていた。一九一一年、鉄道国有令をきっかけにおこった四川暴動から、一〇月の武昌新軍の反乱に発展し、一九一二年一月、孫文を総統とした中華民国臨時政府が成立する。だが、袁世凱は、清朝から独裁権をあたえられて革命軍を攻撃しながら、妥協をこころみ、自分が中華民国の大総統になり、孫文を辞職させ、他方で宣統帝を退位させて満州貴族を追放した。

ここで満州人の支配はきえた。だが、それにかわって袁世凱の独裁がはじまった。孫文、宗教仁は、国民党を組織して袁に対立したが弾圧された。一九一六年、袁が二一カ条要求を受入れ、皇帝に即位すると、雲南で反乱がおこり、各省が独立を宣言し、袁は皇帝の地位をとりけし、妻子と妾を切り殺して狂い死にした。これからのちは、軍閥割拠の時代である。

北京では、段祺瑞(トワンスーチン)が総理となって袁の権力をひきつぐが、もはや全国に命令する実権をもたなかった。安徽の孫伝芳(スンチュワソノー)、河南の呉佩孚(ウーペイフー)、山西の閻錫山(イエンシーシャン)、甘粛の馮玉祥(フエンユイシャン)などをはじめとする大小さまざまの軍閥が争い、勢力の交代もはげしかった。北京政府は、のちに奉天軍閥張作霖(ツァンツオリン)の手に入った。

孫文は、一九一七年、広東政府をつくり、国民党の拠点とした。五四運動ののち中国共産党が結成されると、孫文は連ソ容共扶助工農の方針をうち出し、国共合作をすすめた。二五年孫文が死ぬと、蒋介石を中心とした国民党右派が力を強めてきた。二六年七月国民革命軍の北伐がはじまった。二七年三月上海を占領すると、蒋介石は共産党を弾圧し、南京に国民政府をつくった。七月、武漢でも国民党左派の汪精衛(ワンチンウェイ)が共産党を弾圧し、国共合作はおわった。

これから、蒋介石は国民政府だけの軍事力で北伐をつづけ、北京から張作霖を追放し、各地の軍閥を服属させて統一を強めた。他方、中国共産党は、書記長陳独秀(ツエントウシュー)を追放して、土地革命の方針をうち出し、瑞金に中華ソヴィェト臨時共和国をつくった。三〇年から三三年にかけて、蒋介石は五回の掃共戦をすすめたが成功せず、三四年に共産党は長征をはじめ、三五年に毛沢東の指導権が確立した。

これとはべつに、日本は三一年満州事変をおこし、張学良(ツアンシユリャン)の軍閥政権をたおして、満州国をつくり日本に服属させた。三七年日本軍が全面的に侵入し、抗日統一戦線が結成された。第二次大戦ののち、四六年国共分裂がおこり、人民解放軍は、土地改革、四大家族財産の没収の方針をうちだし、攻勢に転じ、四九年中華人民共和国の成立が宣言された。


辛亥革命の敵対者

清朝の支配者は、満州人貴族である。かれらは、軍団に編成されて、全国の要所に住み、漢人=中国人を支配した。日本にたとえるならば、日本の武士階級が満州人で、町人以下が漢人だといえよう。

満州貴族は、封建的大土地所有者である。かれらは、「旗地」という私有地をもち、小作させていた。べつに「官田」からあがる年貢は、満州人の生活にあてられた、そのほかの土地は漢人が所有し、その土地には銀で徴収する租税(地丁銀)がかけられた。だから、この時代は、封建制度の時代である。なぜなら、封建的大土地所有者が、全国的な規模で権力をにぎり、財政を自由にしているからである。

満州貴族は、支配者として、商人ブルジョアにも課税した。当税(とうぜい)(質屋の営業税)、牙(が)税(仲買人の営業税)、落地税(一種の市場税)、釐金(りんきん)税(国内を通る商品にたいし、価格におうじてかける租税)などがあり、この金額も清朝の末期になるほど多くなった。こうして、商工業者の清朝にたいする反感がつよまってきた。かれらは、孫文の中国革命同盟会の後援者となった。

宋耀如(ソンヤネヅー)は、海南島出身の華僑で、大財産の持主だった。かれは、孫文に献身的な援助をあたえ、その次女の宋慶齢(ソンチンリン)は孫文の秘書となり、結婚した。彼女は現在、中国の副主席である。

文化大革命のさなか、紅衛兵が、彼女はぜいたくな暮しをしていると攻撃したことがあった。その非難はすかさず、周恩来首相によっておさえられた。この二つの記事は、彼女の歴史的位置のふくざつさをあらわしているものだ。宋の末娘の宋美齢(ソンメイリン)は、蒋介石夫人となって今は台湾にいる。

息子の宋子文(ソンツーウエン)は、のち中国四大財閥の筆頭になり、今でもアメリカと台湾に巨大な財産をもっている。

孔祥燕(コンツヤンシー)は、山西省の高利貸、為替業者で地主という家に生まれ、織物、石油、顔料の取引店を天津、上海、重慶に経営していた。辛亥革命に参加し、しばらく山西軍司令官になった。かれも、のちに四大財閥の一人になり、今は、台湾、アメリカに大財産をもち、アマゾン流域の大地主でもある。

かれの妻は、宗慶齢の姉の宗靄齢(ソンアイリン)である。ごくさいきん死んだ。

陳其美(ツエンチーメイ)は、上海の淅江財閥の政治代表者である。かれは、蒋介石を孫文にひきあわせて、中国革命同盟会にひきいれ、辛亥革命で上海を占領し、上海都督になった。その子陳立夫(ツエンリーフー)と甥の陳果夫(ツエンクオフー)は、のちに四大財閥の一つ陳家をつくり、国民党の特務機関CG団を組織した。

孫文が南京に中華民国臨時政府をつくり、大総統になったとき、張静江(ツアンチンチャン)や虞洽卿(ウーチャーチン)が熟心に援助した。張静江は、資産数百万両をもち、孫文、蒋介石を援助し、蒋介石の同郷の先輩として、蒋を浙江財閥にむすびつけた。この運動のため財産の多くを失うほど献身的に援助した。

虞洽卿は、オランダ銀行の買弁(ばいべん)として実業界に入り、四明銀行、寧紹汽船、三北汽船などの会社設立に参加し、重役になった。成上り者とみられることもあったが、張静江とともに浙江財閥の大御所といわれた(買弁とは、外国企業の営業に協力して利潤をえた中国商人のことをいう)。

なお、浙江財閥とは、上海財界の実力者の代名詞で、楊子江の南側の浙江省の出身者が多かったために使われた名前である。

このように、辛亥革命のがわに立って、その運動の強力な支持者になったのは、商人ブルジョア層であった。一九一〇年、孫文が広東で反乱をくわだてたときも、南洋地方に活躍する華商がその資金をだした。

このほかに、同盟会は雑多な勢力をひきいれた。とくに、小地主や富裕農民は、鉄道国有令にたいする反対運動の中心勢力であり、この階層の子弟は、武昌新軍の下級将校や下士官となり、そこに同盟会の結社が組織された。孫文と同盟会は、商工業者と小地主、富農その他の階層を、満州貴族をたおす運動にむすびつけたのである。


軍閥の本質

辛亥革命で満州貴族は敗北し、満州へ逃げた。しかし、商工業者は、中国の支配者になれなかった。このあいだに立って魚夫の利をせしめたのは、軍閥であった。

まず、北洋軍閥の巨頭袁世凱が権力をにぎり、満州貴族を追放しながら、孫文、宗教仁の国民党を弾圧した。満州貴族の地位に、北洋軍閥がとってかわっただけである。一九一五年、雲南地方の反乱により、各省が独立を宣言し、軍閥がそれぞれの地方を支配し、雲南の革命軍も、軍閥に変身していった。この革命軍に参加した朱徳ですら、一時は軍閥にかわり、妾をたくわえアヘンを吸っていた。

さて、この軍閥の本質とは、何物だろうか。

まず袁世凱家は、河南彰徳で全県の三分の一の土地を所有する大地主である。

袁の先輩李鴻章は、安徽合肥の大地主である。その土地からあがる年貢は、毎年五万石にのぼったという。

四川軍閥劉文輝(リューウエンフユイ)と親しい索観瀛(スオクワンイン)は、四川理藩卓克基(ツォクワチ)の土司(封建地主)である。祖先は、清の乾隆帝のとき、清朝に服属した。邸宅は、広さ一〇丈、高さ八丈の一枚岩の上に、四つの厳密とした高桜がたてられ、周囲は稠堡でまもられている。一、二階は台所、貯蔵所、下人の寝室で、三、四階は華麗に装飾され、四面にガラス窓がはられている。かれのもっている機関銃や歩兵銃は、劉文輝が贈ったものである。住民は、かれに租税をおさめ、柴、肉、護衛兵の費用を負担する。かれをみると住民はひざまづき、とおりおわってからはじめておきあがる。

四川省の軍人は、すべて大地主であるといわれた。たとえば、楊森(ヤンセン)、鄧錫侯(テンシーホー)などは「地連千百、田隔数県」といいつたえられた。

李鴻章の指揮した准(わい)軍の将軍たちは、大きなもので数百敏(もう)、小さなもので数十敏をもち、周囲を壕でめぐらし、邸宅のなかにトーチカ、砲台、秘密の廊下をもち、小作人の住居をめぐらし、いちばん小規模のものでも、五〇〇人あまりがすんでいたという。この小作人がときに兵士となり、砲手となり、カゴかきとなった。

このような大地主の姿は、とても近代的地主といえるものではなく、土豪の名でよばれるにふさわしく、封建地主、半封建地主としての性格をしめしている。かれらは権力の座につき、満州貴族のものだった「官田」、「旗地」を奪った。こうして、ますます所有地を増加させ、大土地所有者として、満州貴族のあと釜にすわった。軍閥政権は、小地主を没落させた。広東の軍閥陳爛明(ツエンチンミン)は、これら小地主の土地が売りに出されたとき、不正な手段で横領していった。


軍閥と商人

商人は、軍閥に支配され、収奪される立場におかれた。軍閥は、自分の領土の入口に関所をつくり、商品に租税をかけた。陳爓明は、将軍府をつくり、商品の売買はすべてここをとおさせた。

租税の種類もさまざまで、釐金(りんきん)税、統税(通行税)、塩税、省営貿易(みやげ物などは独占して巨額の利潤をとった)などの方法をとった。

とくに釐金税は悪税とされていた。形式もまちまちで、ある商品は一つの釐金局で課税され、あるものは数カ所の局で課税される。あるものは、売買のときに課税される。税率も、生産費の一パーセントから一四パーセントのあいだでいろいろある。とくに、砂糖、穀物などの生活必需品が課税の対象になった。全国で、釐金局が七〇カ所、徴税局が五、三〇〇あった。だから西北の原産地で一ピクル三元で卸される羊毛が、天津につくまでに運賃と租税が一一元かけられた。ところが、天津からニューヨークまでの運賃は、一ピクルについて一元五〇仙にしかならない。このようなことは、商業の発達をひじように妨げた。だから、国民党は、権力をにぎるとすぐ、釐金税とそれに似た租税の全廃を命令したのである。

また軍閥は、勝手に紙幣や公債を流通させ、濫発しておきながら、無効にするというやり方で、商人以下の階層に損害をあたえた。四川軍閥は四川地方銀行の紙幣を濫発し、張作霖は奉天幣を濫発した。山東で張宗昌が下野したとき、かれの発行した省銀行券二、三〇〇万元が無効となり、一九二八年、張作霖が没落したとき、河北省銀行券一、六〇〇万元が無効となった。

このような政策にたいして、商人ブルジョアは、ときに抵抗した。袁世凱が皇帝になり、中国銀行、交通銀行から巨額の資金を借りた。このため全国に金融恐慌がおきた。そのとき北京政府はこれらの銀行の兌換停止を命令したが、中国銀行上海支店長宗漢章(ソンハンツアン)、副支店長張公権(ツアソコンチュエン)は、北京政府の命令を拒否し、兌換に応じて市場を安定させた。宗漢章は、上海銀行公会会長になり、張公権は、数多くの銀行、会社の役員を兼任し、国民政府ができてからは鉄道部長になった。

また、北京政府は財政が窮乏すると、公債をつのり、毎年元利の返済を実行せず、公債所有者を泣かせた。もちろん、政府発行の公債は、各銀行がひきうけ、これを市場に流通させるのであるから、政府が返済を実行しなければ銀行家は損失をうけることになる。ところが、一九二二年、北京政府はまた新公債を計画した。このとき上海銀行公会は「これ以後、政府が新公債を発行しても、わが銀行界はこれを抵当として受取らない。各地の証券取引所にたいしても、これを売買しないように警告する」と決議した。

また、軍閥政府は、悪貨を鋳造し、これを上海に輸出して財界を混乱させた。上海銀行公会は、安徽省造幣廠にたいして警告したが、とりあげられないので、受取りを拓否した。

このように、軍閥と商人ブルジョアのあいだには、対立がある。この対立は、財政赤字がふえるほど大きくなるはずのものだ。それが、国民革命の成功の原因であり、商人ブルジョアが国民政府を全面的に援助した理由である。

とはいえ、軍閥と商人ブルジョアがつねに敵対していたというわけではない。そのあいだは、一面協力、一面敵対の関係である。

たとえば、金城銀行は、北四行といわれる銀行グループのうちの中心で、天津に本店を、北京に支店をおき、一九一七年、二〇〇万元で設立された。この資本金の大部分は、北京軍閥官僚が出資した。この総経理周作民(ツオウツォミン)は、北京政府の公職も兼任していた。こうして軍閥と協力していながら、張作霖が国民政府により、北京を追われたときは、北京にのこって臨時治安維持会委員となり、国民政府の支配がはじまると国民政府財政委員会、東北政務委員として協力する。おなじく、金城銀行の重役呉鼎昌(ウーテインツアン)も、北京政府の財政部次長をつとめて、軍閥政権に協力しながら、のち国民政府の実業部長となった。


軍閥の悪政

軍閥の財政はひじょうに乱れていた。赤字が増大すると、さきにみたような方法とともに、増税もおこなった。四川軍閥は、田賦(でんぶ)(地租)を六〇年分だけ先取りした。そのうえ、田賦や

釐金税に地方付加税をつけ、この付加税が本税より高くなった。

また軍閥は、財政資金に困ると、農民にアヘンを作らせ、これに重税をかけて軍資金のもとにした。とくにひどかったのは、雲南、四川、貴州、福建などであり、稲のかわりにケシが植えられ、農村経済が破壊された。

このような悪政の原因を、財政のがわからながめてみよう。

一九二五年の北京政府(実権は直隷省のわく内にかぎられていた)の収入はつぎのようである(四億六、一八〇万両=六億五、六五二万元)。


田賦=一九.六%

塩税=二一.四%

関税=二六.一%

釐金税=一〇.〇%

その他=七.二%


支出のうち大きなものはつぎのものである。


財政部=四五.七%

陸軍費=四六.一%


このほか、公債発行で収入をえた。一九一二年から一九二七年にかけて、内国債と政府証券四四億七、八〇〇万元、外国債六三億四、七〇〇万元その他であり、年平均一三億九、二〇〇万元の公債である。

問題は、釐金税のような悪税を納めた正規の財政収入ですら支出がまかなえず、巨額の公債発行にたよらなければならない理由はなぜかということだ。ここに軍閥が攻撃された原因がある。

この理由とは、大地主が権力の座にいて、財政を喰いものにしていたことである。軍閥の時代は、大地主が官僚、高級軍人になった。かれらが、さまざまの形で国庫から横領した。

その一つに「中飽」(ちゅうほう)がある。これは地方の徴税官が、租税を横領することである。これで、もともと入るべき収入が政府に入らない。租税の大半が、県知事、微税局長のところまでに着服されてしまった。

支出の面では、軍事費や機密費が圧倒的な割合をしめる。奉天省張作霖軍閥の一九二六年の軍事費は四、一〇〇万元、張作霖の個人機密費は一、〇〇〇万元で、計五、一〇〇万元となった。ところが、このときの歳入は、わずか二、三〇〇万元である。このような巨大な支出は、何のためにつかわれるのだろうか。この中には、たしかに、いつの時代にでも必要な防衛費がふくまれているだろう。だが、政冶のあり方によっては、不必要なものもあるはずだ。

その一つは、軍閥同士の争いである。お互いにたえす領土を狙いあっている。そのため、お互いに必要以上の軍隊を養わなければならない。もし、統一国家になれば、軍隊の規模を小さくできる。こうして、財政面からみても、軍閥割拠は社会悪だということになる。またそれに輪をかける事情がある。必要があってもなくても、軍隊をふやすと、それだけ高級軍人の地位がふえる。それが、大地主の官職になる。高級軍人は、高い俸給をとり、公金を自由にできる。巨額の軍事費は、単純な軍事費でなく、官僚地主の国庫横領の手段でもあった。

このような事情であったから、張作霖の改革派大臣王樹翰(ワンスーハン)、王永江(ワンヨンチャン)は、「官吏の中飽の厳禁、不正官吏の免職、軍隊の縮小、兵工廠を半分以下に縮小すること、張作霖の個人機密費の廃止」を主張し、それからでてくる資金を、産業振興、交通、教育、開墾のほうにむけるべきだといったのである。だが、このような意見は、軍閥官僚地主の頂点にいる張作霖とあわず、改革の努力も効果がなくて辞職させられた。

こうみてくると、軍閥の時代の中国は、官僚地主の支配する社会であり、上級土地所有権の所有者の一派が権力をにぎり、財政を自由にし、他の地主と商人ブルジョアとは、一面協力、一面敵対の関係にあるといえる。それを図にしめすと左のようになる(この時代の大地主は、上級土地所有権の所有者である)。


軍閥=大地主

-小地主-農民

-商人ブルジョア-都市平民


こうして、軍閥の時代は、封建制度の一つの階段だといえる。だから、辛亥革命は、ブルジョア革命ではなく、一つの封建制度から、べつの封建制度へうつった動乱にすぎなかった。つぎの国民革命が、そうなるかどうかは、この図式がくずれて、商人ブルジョアが権力を握ったかどうかにかかってくる。


国民革命軍の背影

国民革命軍は、さまざまな社会勢力からなっていた。その指導的勢力は、商人ブルジョアである。

孔祥煕軍は一九二四年、孫文の指令のもとに、軍閥呉佩孚をたおす運動に活動し、二六年には、広東国民政府実業部長になった。

宋子文は、二四年に広東政府財政部長、中央銀行行長になった。かれは、孫文が中華民国臨時大総統になったときの秘書でもあり、神州信託公司副総理でもあった。

蔣介石は、張清江にひきたてられ、陳其美の甥の陳果夫とともに、上海の証券物品取引所で仲買人となり、半年で富商になった。孫文のもとで広東政府参謀長になり、ソ連に留学しながら、上海では杜月笙(トウユエセン)とも親しくなった。杜月笙は青幇(チンパン)の親分である。この組織は、アヘン売買、バクチ経営、ヤミ商売を行なっていた。かれは実業界でも有力者であり、上海商業儲蓄銀行理事、通匯銀行、中国通商銀行董事長として、浙江財閥の首領の一人である。この杜月笙と青幇は、のちに蔣介石が上海総工会を弾圧したとき、全面的に協力した。

孫文が死ぬと、蔣介石は国民党の右派を代表して行動した。上海取引所で協力した戴季陶(タイチータオ)とともに「孫文主義学会」をつくり、連ソ容共に反対し、国民党大会の「反帝反軍閥の革命」の方針に反対して、「軍事力による全国統一」を主張した。そしておこしたのが、二六年の中山艦事件で、共産党員の追放をこころみた。このように、上層ブルジョアは、蔣介石をとおして、国民党右派を牛耳っていた。

だが、いかに蔣介石が純軍事力で統一するといってみても、小さな広東政権が強大な軍閥を撃破できるわけではない。軍閥の足もとをゆさぶる勢力と同盟しなければ、勝利はおぼつかない。そこで、かれも一時主張をひっこめて、国民党左派の方針にしたがうことになる。

さて、国民党の第ニの勢力は民族資本家(四ニ頁参照)と小地主である。かれらは国民党左派の支持者であった。とくに小地主からは、国民革命軍の将校を多くだした。かれらは軍閥支配に反対だが、さりとて土地革命には反対だ。そこで、二七年、まだ共産党が国民党左派との同盟を考えていたとき、第五回大会で小地主と革命軍将校の土地は没収しないと決定したのである。

共産党は、労働者と農民の運動を指導した。とくに、外国資本の工場で働いている労働者は、その運動がそのまま反帝国主義、反軍閥になる。また、軍閥官僚地主のもとの小作農は、反軍閥の闘争をもっとも身近かな利益だと感じる勢力である。

だから、連ソ容共とは、軍閥官僚地主の権力に反対するあらゆる勢力、商人ブルジョアの上層、民族資本家、小地主、労働者、農民を一時的に統一したものであった。だが、この統一は、軍閥を倒すとともにおわる運命にある。上層ブルジョアは、ただ権力と財政の実権をにぎりさえすればよい。ところが、小作農は、土地革命をのぞむ。労働者は、賃上げや、工場の国営化をのぞむ。このようなことはブルジョアにとって受入れがたい。かれらもときに土地を買って地主になり、また軍閥のあとで、自分が地主になろうとしているのであって、制度としての地主制を廃止する気はない。国共合作は、軍閥打倒とともにおわる運命にあった。


国民政府の支柱

二五年、孫文は広東軍閥陳爛明を撃滅した。二年六の北伐で、大軍閥呉佩孚、孫伝芳が平定された。二七年四月、総司令官蒋介石は、上海に入ると、軍閥打倒に協力した共産党と総工会を弾圧し、国民政府をつくった。武漢革命政府は、蔣介石を非難しながら、共産党をおさえようとしていた。

「革命の前途は、商工業者がこれを支持するかどうかにかかっている。だが、労農運動のいきすぎが、かれらをひきはなしている」

七月、武漢でも国民党左派の汪精衛が共産党を弾圧した。こうして国共分裂がきまってしまうと、政権の中心に右派の蔣介石がが立つようになった。

蔣介石がは、小軍閥を吸収し、二八年北伐をつづけて、北京から張作霖を追放した。二九年二月、のこった軍閥の閻錫山、馮玉祥などが反蔣連合をつくり、これに国民党左派の王精衛が参加して、それぞれ四〇万人を動員する反蔣戦争がおこった。これは張学良(張作霖の子)の調停で妥協となり、蒋介石は、田賦の微税権を軍閥の手にのこした。

だから、この時期の中国は、中央政府を国民党がつくり、地方にはまだ軍閥が支配権をにぎっていたといえる。さて、この国民政府とはなにものだろうか。ひとくちにいって、国民政府は、上層ブルジョアそのものである。

蔣介石が、上海で共産党を弾圧したとき、杜月笙とその輩下の青幇は全面的に協力した。

張清江と虞洽卿は、蔣介石の北伐を援助するために、浙江財閥の資金を動かした。このとき、北伐の成功は軍資金にかかっていた。張静江と虞洽卿の仲介で、上海の銀行業界の指導者(秦潤郷(チンズイチン)、銭永銘(シエンヨンミン)、季馥蓀(リーフースン)、張公権)と、国民政府の要人孔祥煕、宗子文が協議し、四億七、四〇〇万元の公債を募集して目的をはたした。

銭永銘は、神戸高等商業学校を卒業し、交通銀行董事長となり、中央銀行その他十行の重役を兼任し、多くの会社の重役になった。国民政府が財政に困ったとき、かれを国民政府財政部次長にむかえ、上海財界からの公債募集を成功させた。

李馥蓀は、山口高等商業学校を卒業し、浙江銀行総経理となった。宗子文と親しく、国民政府のためにつくし、北伐費の公債が募集されたとき、国債管理委員会主席となって目的をはたした。

秦潤卿は、中国墾業銀行董事長で、上海銭業公会の指導者である。

張公権は、中国銀行はじめ、南西行系銀行の指導者であった。

北京を中心にした北四行系銀行の周作民、呉鼎昌も、国民政府に協力した(四七頁参照)。

このように、上海、北京の財界が国民政府の中心になったが、広東政府のころからの政商の一群は、もちろんつねに政府と一体だった。その代表者は、孔祥煕と宗子文である(二八頁参照)。

孔祥煕は、アメリカ、エール大学を卒業し、国民政府実業部長、財政部長、行政院副院長になり、財政金融にかかわりのあるあらゆる委員会に参加し、中央銀行総裁となり、多くの銀行の重役を兼ねた。

宗子文は、ハーバード大学を卒業し、国民政府財政部長、中国銀行董事長になり、公債発行について、浙江財閥と国民政府とのむすびつきにつとめた。孔と宗は、義兄弟でもあり、二人は力をあわせて中国財界を支配した。

こうして、国民政府とは、広東政府時代からの政商と、上海、北京を中心に活動する上層ブルジョアの結合体である。その中で、どちらが指導権をにぎるかという問題はのこるが、だいたい、孔、宋の手に指導権があったといえよう。

たとえば、二八年、国民政府が中央銀行をつくったとき、初代総裁は孔祥煕であり、副総裁、三常務、理事、五平理事、主席監事、三監事はすべて浙江財閥出身者だった。


政策の変化

権力の変化は、財政政策の変化をもたらした。その内容をひとロでいえば、軍閥官僚大地主の利益を犠牲にして、上層ブルジョアの利益を確保することである。

たとえば、公債政策の変化である。軍閥の時代、公債の元利支払いは、じゅうぶんに実行されなかった(二三頁参照)。ようするに、借金をふみたおしていたのである。これに応募したブルジョア層は、ときに損をした。だが、国民政府の時代になると、公債発行は、上層ブルジョアにとって、巨大な利益を確実に得ることになった。なによりもまず、公債発行の政策を、浙江財閥の指導者銭永銘(銭新之)がきめた。かれは、上海海関の輸入付加税(二分五厘)を公債の担保とし、これを上海商会、銀行公会、銭業公会の有力者でつくる委員会の管理のもとにおき、元利の償還基金とした。委員会主席は、李馥蓀である(三二頁参照)。公債は年利八分四厘であった。利回りが高く、担保は確実だ。そのうえ、銀行は、公債を額面価格の五割から七割でひきうけ、元利の償還のときは、額面価格で支払われた。また発券銀行は、銀行券発行のとき、全額準備金のうち、四〇%を公債であてることができた。こうして、公債引受は、巨大な利益になった。

また国民政府は、商品流通に課税された釐金税とそれに似た租税を廃止した。国民政府は、財政報告でいう。

「釐金はもとより幣政、改革実施は急務である。すでに国民政府は、一九三〇年一〇月一〇日を期して、釐金と釐金に似た租税のすべてをいっせいに廃止するべきことを命令した。政府は、この大計に絶対的な決心をもち、本年一〇月、財政状態がどうであろうとかならず主張をつらぬき、このような財政上の悪政と、貨物の流通をさまたげる毒物を根本的になくそうと決心している。こうして、はじめて、わが国の商売を慰めることができる」

また、政府は経済諸建設計画をすすめ、その費用は年とともに増加した。


経済建設費

一九三四年 二、六七〇万元

一九三五〃九、七三〇万〃

一九三六〃一四、九五〇万〃


この経済建設費は、全国経済委員会、建設委員会の管理にまかされ、特別の項目として計上された。この二つの委員会は、国家機関のなかでもっとも重要なものとなり、これを上層ブルジョアの中心人物が牛耳った。孔祥煕と宗子文が、両委員会の常務委員となって実権をにぎり、二人の親友陳光甫、銭新之が両委員会の委員となり、張公権、呉鼎昌、李馥蓀、張静江、虞洽卿らが委員となり、張静江は建設委員会主席である。

このように、商工業とブルジョアジーの発展は、財政政策からすすめられたが、軍閥官僚地主は、その犠牲をおわされ、はなはだしいばあいは、袁世凱家や安徽の張敬堯家(ツアンチンヤオ)(七~八万畝を所有)、倪嗣冲(ニエスツナン)家(七~八万畝)の土地のように、国民革命で没収され、地方の社会事業にあてられたばあいもある。こうして、軍閥の支柱であ0た巨大地主の数はしだいにヘり、辺境地方民に集中しているていどになった。

ただし、国民革命は、土地革命(地主の土地を没収して、小作人に与える)を目的にしたものではない。だから、軍閥官僚地主といえども、へたをしなければ、地主としては生残れる。だから、かれらの多くは、国民革命ののちも、地方の名家=豪紳=地主としてのこった。たとえば、

皖北阜陽では、程香圃(ツアンンヤンプー)(八、〇〇〇畝)、倪歩蟾(ニュプツアン)(七、〇〇〇畝)、寗価臣(ニンチャツェン)(八、〇〇〇敏)、寗馨遠(ニンンソュエン)(三、〇〇〇畝)、寗釣衡(ニンテイヤオフエン)(四、〇〇〇畝)、登賛卿(テンツアンチン)(二、〇〇〇畝)、呂清福(リユチンフ)(二、〇〇〇畝)、董巒青(ファンルアンチン)(四、〇〇〇畝)、朱代俸(ツータイフォン)(七、〇〇〇畝)、注濯清(ワンツオンチン)(二、〇〇〇畝)、謝老香(シエラオシャン)(六、〇〇〇畝)、李廉若(リーリエンゾウ)(五、〇〇〇畝)、寗紫臣(ニンツーツェン)(三、〇〇〇畝)が、むかしの軍閥の高級官僚であり、のちに地方の豪家としてのこった。


四大財閥の成長

国民革命で権力をにぎった上層ブルジョアのグループのなかから、しだいに発展のひらきがあらわれ、最大の利益をせしめたグループが、四大財閥として成長してきた。それが蔣、宋、孔、陳の財閥である。

もちろん、その名は、蔣介石、宋子文、孔祥燕、陳立夫と陳果夫(二人はいとこ)であり、国民革命の運動に、はやくから参加している政商、政治家である。しかも蔣、宋、孔は血縁関係でむすばれている。宋子文の姉は孔祥煕夫人であり、蔣介石夫人の宋美齢も、彼の妹である。

しかも、蒋介石は宋美齢がキリスト教徒で、一夫一婦制しかみとめなかったため、三人の前夫人を離婚したといういきさつもある。

この四大財閥は、国家財政をわがものにすることと、アメリカ資本を導入する先頭に立つことにより、ほかのブルジョアグループをひきはなして発展した。

総統蒋介石の地位はいうまでもない。孔祥熈は、染料、石油、綿布をあつかう大商人として出発し、国民政府工商部長、中央銀行総裁、財政部長、行政院副院長となった。

宋子文は、綿花、綿糸、綿布の売買を独占する中国綿業公司の理事長であり、外米輸入を独占する華南米業公司の理事長であり、中国銀行を支配していた。国民政府財政部長、行政院副院長になった。

陳家は、交通銀行と中国農民銀行を所有し、陳立夫のひきいる特務機関CC団が交通銀行を支配し、国民党中央執行委員会秘書長、組織部長、国民政府教育部長であった。陳果夫は、中国農民銀行理事長であった。陳家は、国民党の最右翼を代表していた。

四大財閥の権力は、一九三四年の幣制改革で決定的なものになった。これは、この年におきた激烈な金融恐慌をきりぬけるため、政府のおこなった貨幣制度の改革である。まず銀貨の使用を禁止し、銀を国有として政府にさしださせた。そのかわりの貨幣として、銀行紙幣=「法幣」を国でさだめたが、この法幣を発行する権利は、中央銀行、中国銀行、交通銀行、中国農民銀行だけにかぎられた。つまり、四大財閥の支配する銀行だけが、紙幣を発行できたのである。そのほかの銀行は、紙幣発行を禁止され、外国為替の売買も、この四銀行にかぎった。こうして、この四銀行は、全国の民間銀行をだしぬいて発展し、民間銀行は、それに支配されていくことになった。

三六年の政府系銀行の資本と積立金は、全国銀行の三割六分、預金は五割九分、兌換券発行額は七割八分、貸付額は五割五分、資産総額は五割五分をしめた。

第二次大戦がおわってみると、四大財閥の資本は、二〇〇億ドルといわれ、全中国の資本総額の約八〇%を支配するまでになった。貿易と基幹産業は、国有の名のもとに四大財閥が独占した。かれらが「官僚資本」といわれた理由である。

蒋介石は、数十の兵器工場、一六〇の重化学工場を支配した。妻の宗美齢は、航空委員会秘書長として、アメリカの将軍シェンノートと合弁会社中米実業公司をつくり、民間航空を独占し、空輸された中米商品の販売権を独占した。

宋子文は中国銀行を中心にして、鉄道、鉱山、電気、紡績を支配し、国民党資源委員会をとおして、華北の八大重工業を支配した。

孔祥煕は、中央銀行を支配し、貿易、機械、炭鉱、タバコ、製薬の工場を支配し、アメリカとむすんで貿易を独占した。

陳立夫は、中国農民銀行を中心として、放送、新聞、農機具、自動車、絹織物、蚕糸業、林経営、綿花買付の分野を支配した。

こうして、四大財閥は、中国ブルジョアジーの王になった。


外国資本と買弁ブルジョア

中国の歴史を論じるとき、いろいろな形容詞をつけたブルジョアがでてくる。民族ブルジョア、親日派ブルジョア、買弁ブルジョアなどである。そこで、これらの実態を知らねばならない。これらを考えに入れることは、中国におけるブルジョア革命の時期を証明するために、絶対に必要だとはいえない。しかし、議論をするときに、紛糾をさけようとすれば必要である。

そもそも、中国は半植民地の国家であり、外国資本が特権的な立場で活動し、外国の権力が陰に陽に力をふるう。そのため、ブルジョアジーの分裂が、ほかの国よりひどくなるのはとうぜんだ。

外国資本は、清朝や袁世凱や軍閥と対等あるいはそれ以上の関係で中国に入っている。中国の鉄道の資本は、ほとんどイギリスのものであり、タバコのほとんどは、イギリスとアメリカの資本で経営されている。内国航海運輸事業のほとんどは、イギリスの資本で、アメリカ、日本がそれについでいる。石油事業のほとんどはアメリカである。鉱山は、日本とイギリスをはじめ、各国で開発されている。紡績工業では、日本が圧倒的で、イギリスがこれにつぐ。電話、水道、電気、ガスなどの公共事業も、ほとんど外国資本ににぎられている。外国銀行とくに、香港上海銀行(イギリス)、インドシナ銀行(フランス)、モルガン商会(アメリカ)、徳華銀行(ドイツ)、横浜正金銀行(日本)、ロシア銀行などは、清朝の時代から借款を中国政府にあたえてきた。一九一三年の借款では、担保として中国の関税、塩税、タバコ税、釐金税がとられ、外国は中国の財政につよい発言力をもつようになった。

陳爓明のような軍閥は、その資産の大半を外国銀行に預金した。四川軍閥の劉湘は、外国から長期、短期の借款をうけいれた。こうして、中国の支配者とは、軍閥と外国資本のむすびついたものであるといえる。すると、まえにかいた図式は、もうすこし補充しなければならない。


僚主    外国

官地=軍閥=資本

   |-多数の小地主    |農民

    -民族ブルジョアジー |中産層、その他

               |労働者


そのうえ、もう一つ買弁ブルジョアジーというのがるる。これは、まったく外国資本の利益に奉仕し、その手先となってうごくものである。それだけに、軍閥とおなじ立場にたてる。それは一般の商工業の立場からはなれて、軍閥のがわに上昇したものである。

この買弁ブルジョアジーと国民党のがわのブルジョワジーとの衝突の実例をあげよう。孫文が、広東国民政府をつくったとき、広東七二行の買弁商人に租税を課すことにした。これを、馬路業(まろ)権統一案という。この七二行は、この政策に反対し、陳廉伯(ツェンリエンポ)(香港上海銀行の買弁)の指導下に商団聯防をつくり、秘密大会で広東国民政府軍は、広東から撤退すべきであると決議した。二四年八月、商団は秘密のうちに武器を買入れ、これを広東政府が没収すると、商団は罷市をはじめた。

この闘争に、民団(大地主のもつ私兵)がくわわり、商団と民団は、広東政府軍と衝突した。陳廉伯は、香港ににげて闘争を指導した。

このとき、広東政府軍に参加していた軍閥茫石生(ファンスーセン)は、孫文の反対をおしきって商団と妥協し、武器をかえした。

また、イギリス領事は「広東政府軍が商団を攻撃すれば、イギリス海軍を動員する」と声明し、日本領事も同調した。

九月、広東政府は、北伐の軍事公債を商団にわりあてた。商団は反対し、広東郊外の仙山市で、武装罷市を決議した。仙山市の軍閥李福林(リーフーリン)は商団に協力した。孫文は、商団攻撃を決心し、商団軍を撃滅した。

この事件は、中国の民族ブルジョア(そこに宋、孔、陳なども入る)と、買弁ブルジョア、軍閥、外国列強の対抗関係をしめすものである。ただし、外国列強のすべてではない。イギリス、日本は軍閥を支持していたが、アメリカは、中国進出にでおくれていたため、新勢力の国民党を助けて、イギリス、日本の勢力をくつがえそうとねらっていた。そのため、外国列強は、分裂していた。


民族ブルジョアとは

民族ブルジョアという言葉が、国民革命のときにも、第二次大戦ののちでもよく使われる。

こういう言葉は、便利なようでもあり、ときには議論をまちがわせるもとにもなる。なぜなら、おなじ言葉でも、ちがった時期では、ちがったものをさすことになるのに、そのちがいを知らずに、おなじ言葉だから、おなじ内容だと思いこむことになるからである。

国民革命のときの民族ブルジョアとは、買弁ブルジョア以外のブルジョアをさしている。つまり、国民政府を支持したブルジョアである。そのなかには、さまざまなものがいる。宋、孔、陳は、最右翼だ。浙江財閥のブルジョアグループもいる。このため、上海商会に、商人革命を声明するものもでていた。

また、民族資本による工場経営者もいる。これは、とくに第一次大戦で、外国資本が弱まったときに成長した。大戦前は民族資本の紡績工場は二一だけだったが、大戦後の一九二二年に六九にふえた。また、製粉、マッチ、毛織物、化学工場の分野にも民族資本が進出した。

紡績大王栄宋敬は、一五歳で上海の銭荘の徒弟となり、投機で資本をたくわえると工場経営をはじめた。上海、無錫に十数カ所の紡績工場を経営し、染料、機械にも進出した。

その弟は麺粉大王栄徳生(ソオントセン)で、製粉工場を経営した。かれは、土地も五〇~六〇畝をもっている。

郭順(クオスン)は、上海、広東で紡績、織物の工場や百貨店を経営して、広東財界を代表した。

呉蘊初(ウーインツ)は、上海を中心に硝酸、塩酸(日本の味の素をまねしたものをつくる原料)、ソーダー、漂白粉、アンモニア、陶器の化学工場を経営した。

范旭東(ファンシトン)は、京都帝国大学理学部を卒業し、空中窒素の固定に成功し、天津、南京でソーダ、硫酸、アンモニアをつくる永利化学公司の社長であり、華北、四川で製塩業をおこなった。

マッチ王劉鴻生(リューホンセン)は、マッチ、セメント、毛織物、煉炭、紡毛の工場を経営した。

かれらは、第一次大戦ののち、外国資本が中国に帰ってきはじめると、その競争におされて、破産、休業においこまれた。紡績業では、二三年以後、中国人工場は休業または慢性的操短の状態になった。これらの経営者は、外国資本と軍閥支配がつづくかぎり、つねにおいつめられる。外国資本は、中国人より有利な条件で工場を経営し、外国商品は、世界最低の関税を支払って流入する。釐金税その他の国内関税は、さまざまな等級にわかれ、外国商品に軽く、民族資本の商品に重い。そのため、かれらは「反帝国主義、反軍閥」という、国共合作のスローガンに賛成したのである。

ところで、民族ブルジョアといっても、民族性を純粋にもちつづけたわけではない。複雑な経済活動は、かれらの性格をあいまいにした。

宋、孔、陳は、外国列強の一派アメリカとむすんでいる。だから、かれらも、のちになれば、買弁とよばれるほうにすすむ要素をふくんでいる。

上海財界の指導者も、純粋な民族資本ではない。たとえば、上海商業儲蓄銀行の頭取虞洽卿は、オランダ銀行買弁として成長してきた人物であり、三井物産の買弁をしたことがある。

紡績大王栄宋敬は、この銀行の重役になっている。呉蘊初は、工場を建設する資金を金城銀行から借りている。金城銀行は、北京軍閥が出資してできたものであり、のちに親日派の背後に立つ。また、かれらの工場に電力を供給するのは、イギリス資本である。

してみると、かれら民族ブルジョアジーは、反帝国主義を徹底的につらぬくというわけにはいかない。国民革命でできたことは、対外関係の多少の改善というていどである。

さて国民革命が成功すると、外国資本のなかにも、力関係の変化がおこり、アメリカが指導

権をにぎった。国民政府の経済建設に、アメリカは二、〇〇〇万ドルの借款をあたえた。この資金は、蔣、宋、孔、陳の手をとおして中国に流れこみ、四大財閥の成長を助けた。四大財閥の買弁的性格がつよくなった。チャイナ・ロビーといわれた一群のアメリカ政治家(タフト、デューイ、ニクソンなど)と、宋美齢の交友関係は有名である。

この発展にくらべて、浙江財閥や、民族資本の工場経営者は、とりのこされた。だから、国民革命に参加した民族ブルジョアジーのなかで、また買弁と民族の分裂がすすむことになる。

ただし、そのばあい、個人をとりあげてみると、あるものは四大財閥のがわにうつり、あるものは、とりのこされるほうにのこるということで、区別は集団のあいだに立てられるべきである。

だから、これからのちの民族資本とは、とりのこされていったグループということになる。

このグループが、新中国成立のとき、民族資本として新政府のがわについたのである。

虞冾卿は、第二次大戦がはじまると、蒋介石とともに奥地に入り、西北企業、陜西墾業、興華冶金公司の重役になって開発事業をすすめたが、かれの経営する商業と航空事業が、宋美齢の中米実業公司に圧迫されていった。そこで虞洽卿のあとをついだ盛丕華(スエンペイファ)は、人民政治協商会議に参加した。

張公権は、三五年に宋子文のために中国銀行総経理の地位を追われ、鉄道部長、行政院顧問

になっていた。第二次大戦で、蔣介石とともに奥地に入ったが、四九年には国民党を除名された。

張公権の兄張君(ツァンチユンマイ)は、第二次大戦後、中国民主同盟の幹部として、政治協商会議に参加した。ただし、張兄弟は、のちアメリカに移住した。

呉蘊初は、日本軍により上海の工場をほとんど破壊され、奥地にのこった工場は、四大財閥にとられた。かれは、新中国の華東行政委員会委員になった。

栄宋敬の工場は、日本軍に没収され、かれは香港ににげた。かれのあとをついだ栄毅仁は、紡績を独占しようとした宋子文におびやかされた。栄毅仁も新中国のがわについた。

范旭東の永利公司の重役をしていた李燭塵(リーツーツェン)も、政治協商会議に参加した。

だから、国民革命のときの民族ブルジョアとは、ブルジョアジーの主流をさし、新中国成立のときの民族ブルジョアとは、ブルジョアジーの脱落者をいうのである。


親日派ブルジョアとは

上海を中心にした浙江財閥の中心は、南四行とよばれる銀行である。これにたいして、北京を中心にした四つの銀行がある。金城銀行、塩業銀行、大陸銀行、中南銀行である。これらの経営者、呉鼎昌(塩業、金城)、周作民(金城)、銭永銘(大陸)らは、もともと北京軍閥の官僚に入ったこともある。

張作霖が満州に逃げたのちは、国民政府に合流した。

かれとむすんだ官僚は、何応欽(ハーインチン)、張群(ツアンチュン)などである。

何応欽は、西安事件で蒋介石が中共がわの人質としてとらえられ、航日統一戦線をむすぶことを強要されていたとき、中共がわを爆撃し、抗日統一戦線をぶちこわそうとした人物である。

張群は、国民党の政学会系の首脳となり、外交部長、国防最高委員会秘書長、行政院長を歴任した。政学会は、親日派のグループである。

呉鼎昌は、塩業銀行総経理、金城銀行重役で、政学会の大物となり、国民政府実業部長、総統府秘書長を歴任し、第二次大戦中、ビルマルートをおさえる必要にこたえ、貴州省主席として活躍した。

銭永銘も、実業部農本局長となり、蒋介石の金融財政の相談役の一人であった。

ところが、これら北四行系の人物は、日本と国民政府のあいだにあって、複雑な行動をする。

三五年頃は、かれらが国民政府の行政院をおさえ、宋、孔、陳などアメリカ派と対立し、政府を日本との妥協にむけた。銀国有令のときも、北四行系の銀は、南に輸送しなかった。もちろん、これは日本北支駐屯軍梅津中将の要求と一致した。

日本との全面的な戦争がはじまっても、北四行系の首領周作民は、上海のフランス租界にとどまり、重慶へはいかなかった。

こうした勢力にささえられて、王精衛の南京政府(親日政権)が第二次大戦中につくられた。

だが、けつきよく、政学会の力は弱まり、欧米派の蔣、宋、孔、陳におされていった。


地主制のうつりかわり

地主制はのこった。だが、そのなかで地主としてのこる人物はかわった。ひと口にいえば、旧軍閥官僚から、新官僚資本家への変化だ。それは封建地主から、ブルジョア地主への変化だ。

北伐の直後は、国民政府が、地方軍閥と妥協し、その独立をみとめていた。だが三四年、紅軍の長征がはじまると、それを追撃し、この追撃を利用して国民政府軍が、軍閥の支配する領土に侵入した。貴州、四川、山西、山東の地方である。三六年、粤漢鉄道が開通すると、広西軍閥も降伏した。

また軍閥の領土では、資本の逃避がはげしく、産業はおとろえた。軍閥が、地方建設運動をとなえて外国から借款をうけ入れようとしても、この頃になると、外国も国民政府を相手にしたため成功しなかった。その資金は、上海一〇銀行の組織する農業貸款団、国民政府農本局、国民政府綿花統制委員会をとおして受入れることになった。また国民政府は、アメリカ、イギリスの軍事援助で、海軍、空軍が優勢になった。

こういう事情で、国民政府は軍閥を圧倒し、三七年、地方軍閥が徴収していた田賦を手に入れ、軍事公債を軍閥の領土にわりあてた。

このような変化は、地主の構成にも変化をあたえた。

三五年の四川省一〇県の調査では、地主所有地のうち、九〇%は新地主が所有し、一〇%を旧地主が所有した。新地主の数の割合は、三一%であり、旧地主の数は六九%である。新地主は、商業を経営するものが多く、国民政府の官僚、銀行とつながりをもっていた。

陳伯達(ツエンポター)はいう。「旧地主はすべて『土地の且那』といわれているが、新地主の大部分は、国民党の四大買弁金融寡頭政治権力とたがいにむすびつき、そのうえ直接に投機市場において、波

乱をまきおこすことのできる、ハイカラな新しい且那からなっている」と。

軍閥をやぶったブルジョアが、その土地所有までも喰い荒し、自分が地主になっていったのである。かれらの土地投機は、なにも中国だけにかぎらない。蔣、宋、孔は、南米とくにアマゾン流域の大地主にもなった。しかし、かれらの主な経済活動は、商工業、金融業であるから、ブルジョアジーとしての基本的性格はかわらない。その意味で、おなじく地主制といっても、軍閥の時代とは本質的にちがう。


ブルジョア革命の時点

国民革命までは、中国は、軍閥=大地主の支配する国家であった。それは、基本的に、封建制度の時代であった。

国民革命は、それをブルジョアジーの支配する時代にかえた。権力と財政の実権が、大地主からブルジョアジーに移行した。そのかぎり、中国のブルジョア革命は完成した。この変化は、地理的にみて段階的にすすんだ。まず、広東国民政府の成立したところで、ついで南京国民政府の領土で、つぎに軍閥を屈伏させていったところでおこなわれた。

最後に満州事変である。これは、張学良軍閥の権力をくつがえしたブルジョア革命である。

ただし、くつがえしたのは、中国ブルジョアジーではなく、日本軍であった。もちろん満州の内部にも、協力する勢力は多かった。そこに事変の主謀者石原莞治の理想、「五族協和、日本権益の返還、満鉄の日満合併経営、治外法権撤廃」の主張があった。しかし、指導権は、日本軍ににぎられた。だから、新しい権力が安定するとともに、日本資本が支配し、理想主義者石原莞治は失脚した。地主は、農村の範囲にかぎられた二流の支配者に転落した。そのうえで、権力をにぎったブルジョアジーが、土地を買込んで地主にもなった。こうして、第二次大戦までに、中国のブルジョア革命はおわった。その変化を図に示すと左のようになる。


軍閥=×大地主

|―ブルジョア

|―小地主

→国民政府=ブルジョア

→地主

→国民政府=四大財閥

|―地主

|―民族ブルジョア



00-市民革命―まえがき、目次

三一書房617

市民革命

小林良彰著



まえがき

この本の目的は、世界各国の市民革命(ブルジョア革命)の時期をはっきりとしめすことである。また、イギリスのように、市民革命の時期が、常識としてみとめられているところでは、なぜそれが市民革命であるかという根拠をしめした。

世界各国の市民革命のことについて書かれた本は無数にある。それにもかかわらず、あえて私がこの本を書いたのは、市民革命にかんするいままでの学説が、ほとんど皆誤りをふくんでいたと思ったからだ。私は、その誤りを訂正し、正しい歴史解釈をあきらかにしたい。たとえば、ドイツの市民革命の時期はどこにあるかと問おう。これにたいする私の解答は、三月革命からドイツ統一戦争だということになる。ところが、いままでそう断言した人はいなかった。

それだけでも、この本のもつ意義がある。あるいはまた、中国の市民革命の時期はいつかと聞こう。毛沢東は、国民革命でもまだそれが完成していないという。この本は、国民革命が中国の市民革命だと説明している。

このようなくいちがいは、一事が万事だ。

私は、去年『明治維新の考え方』(三一新書)を書いた。ここで、明治維新が、日本の市民革命であることを証明した。しかし、それを主張すると、かならず、次の質問がまちかまえる。

「ではドイツはどうか」「イタリアはどうか」等々。そのため、明治維新についていえば、つぎに世界各国についていわねばならないことを知っていた。ドイツ、中国その他について、はっきりした考え方をもち、その考え方が、明治維新の解釈と首尾一貫していなければ、せっかく、明治維新について新しい解釈をもちこんでも、学問体系としては完結しない。その意味で、この本は前掲書の姉妹篇だ。比較、対照して、熟考されることをのぞむ。

なお、市民革命についての議論は、つねに、「典型的市民革命」とよばれるフランス革命に回帰する。ゆえに、フランス革命にたいする正確な理解がなによりも大切で、ここでのわずかな狂いが、他国の解釈のなかでは、何倍にも拡大される。そのような実例も、数多くしめしてあるが、それだけに、私は、フランス革命にたいする正確な結論をひきだすべく、『フランス革命経済史研究』(ミネルヴァ書房)を書いた。その中で、フランス革命の成果として、いままで強調され、したがって、市民革命の基本法則だとされてきたことが、すべて事実無根であることを証明した。そのうえにたって、フランス革命の成果は、まったく別のものであり、それは権力と国家財政の実権をめぐる問題であることをしめした。この見方が、世界各国の市民革命を考えるときの、基本線になっているので、疑問を感じた人はそれを参照されたい。



目次


まえがき


1 中国の市民革命


はじめに

基本理論

政治史のまとめ

辛亥革命の敵対者

軍閥の本質

軍閥と商人

軍閥の悪政

国民革命軍の背影

国民政府の支柱

政策の変化

四大財閥の成長

外国資本と買弁ブルジョア

民族ブルジョアとは

親日派ブルジョアとは

地主制のうつりかわり

ブルジョア革命の時点


2 毛沢東の歴史理論のまちがい


ブルジョア革命と民主主義

基本任務の思いちがい

錯覚が錯覚をうむ

過渡期と目標の混同


3 市民革命の各国史


ロシアの絶対主義

ロシアの市民革命

絶対主義下のオランダ

市民革命としてのオランダ独立戦争

イギリス革命をめぐる問題点

イギリス革命はなぜ市民革命か

アメリカの革命をめぐる問題点

封建制度としての植民地アメリカ

市民革命としてのアメリカ独立戦争

南北戦争の解釈

インドの市民革命

国民会議派の本質

エジプトの市民革命


4 ドイツ三月革命の再評価


はじめに

ドイツ史のまとめ

貴族とユンカー

自由都市のブルジョアジー

貴族対ブルジョアジー

進歩に敵対した貴族支配

貴族の反主流とブルジョア的改革運動

改革運動の失敗から革命へ

三月革命の政治的成果

三月革命の経済的成果

絶対主義へもどったオーストリア

手工業者とブルジョアジーの対立

プロシアの反革命

プロシアに絶対主義はもどったか

パン屋とくつ屋の王冠

オーストリアとプロシアの対立

プロシアの反動

ブルジョア的少数派の抵抗

クリミア戦争-ドイツ保守勢力の分裂

反動の過大評価を改める


5 市民革命としてのドイツ統一戦争


自由主義のいきづまり

ビスマルクの登場

ビスマルクはユンカーの代表者ではない

ビスルクのマキュベリズム

決死の鉄血宰相

貴族の一部とビスマルク

ビスマルクと大銀行家

クルップとビスマルク

自由主義的ブルジョアとビスマルク

ジーメンスとビスマルク

ビスマルク権力の背影

ビスマルクの勝利

北ドイツの統一

ドイツ統一の完成

ブルジョア革命の完成

与野党の逆転

進歩的改革

貴族・ユンカーの没落

財政政策の変化

ブルジョア的貴族のキャスティング・ヴォート


6 ドイツ史にたいする誤解


ドイツと日本

マルクスの誤解

エンゲルスのあいまいさ

エンゲルスの小細工

ボナパルティズム論の誤り

レーニンの誤解

カイゼルは去ったが将軍はのこった


7 のこされた問題点


推定可能なこと

局地的市民革命

フィレンツェとダンテ

ミケランジェロとマキァベリ

民主主義アテネ

特殊性について

封建制度と古代のちがい

未解決の問題


主な参考文献