2017年12月31日日曜日

明治維新は討幕戦から始まる。

話が少しそれたので、本論に戻します。フランス革命は1789年に始まり、1830年に終わった。終わったというのは成果が確定して、それ以後は後戻りしないということです。
日本では、これに相当するものが、1868年に始まり、1871年に終わった。これを明治維新と日本では言うが、これが誤訳され、誤解されてこの時期設定が受け入れられない。私はこれを「日本革命」というべきだと主張する。
フランス革命の終結1830年、日本革命の終結1871年、このような記述が世界史の教科書でなされること、これが私の夢です。そのための論考、考証をしています。
フランス革命の始まりに戻ります。これ以前、フランス絶対主義と呼ばれる世の中で、アンシャン・レジーム、旧体制とも呼ばれ、それ以後の社会とは違うのです。貴族が優越的な立場を持つ社会で、それ以下が平民であった。日本でも武士階級が優越的立場にあり、それ以下が町人、百姓であった。だから、英語フランス語に翻訳するとき、侍・さむらいと言わずに、日本の貴族「ジャパニーズ・ノーブル」というべきだといいたい。侍では、大名、上級旗本が含まれない。これでは下っ端ばかりで、卑屈な集団のように思われる。これも誤解のもとである。
どちらも大土地所有者の代表者が、戦士として中心部の城に集まります。土地所有の形態はさまざまです。領地の個人所有、これはフランス革命前まではそうでした。日本は、領地の集団所有、それが藩と呼ぶ単位で組織され、最高支配者のものは、幕府領とか、天領と呼ばれていた。
日本では、江戸城が中心で、ここに旗本の役職者と300諸侯と呼ばれた大名が集まる。フランスでは、ヴェルサイユ城に集まります。宮殿と訳されるが、これでは誤解を招く。ル・シャトー・ド・ヴェルサイユというから、城なのです。これを宮殿と翻訳したから、これだけでも誤解の種をばらまいたのです。ヴェルサイユ城には、3000の大領主が集まった。どちらの城でも、腰に剣を持つものが主流です。例外は、日本では茶坊主、フランスでは、法服貴族と教会貴族です。フランスでは、読み書きはブルジョアのするものと思われていて、高貴な貴族はするものではないと思われていた。だから彼らが書き役として一定の職権を持ったが、意思決定はその上の剣を持つ大貴族によるものであった。教会貴族は大貴族の親族で、次男、三男が相続に外れた時、ここに派遣されるもので、日本でいう門跡寺院のようなもの、日本でも、江戸時代の初期は天海大僧正などの例がある。
どちらの国も、大土地所有の戦士の集団が中心の城に集まり権力を握っていた。この点が共通点である。この体制を崩すものが市民革命であるが、崩し方は各国の条件によって異なる。日本の場合は、最大の領地を持つ徳川家の本家、将軍(征夷大将軍)の武力と戦って勝つことが必要な条件であった。つまり討幕戦であり、鳥羽伏見の戦いであった。フランスではバステイーユ占領に象徴される市街戦であった。

2017年12月7日木曜日

世界各地の中間層の革命理論

中間層は、さまざまな革命理論を持って社会運動に参加する。時と条件、民族的多様性が違うので、その主義主張に入り込むと、特殊性ばかりで、一般化は不可能になる。しいて共通点を挙げようとすれば、上を削って、下を救い、ほぼ平等の楽園を作れないものかという淡い期待であろう。そこで、前近代社会においては、大土地所有の階級に対して、批判が出てくる。それを倒した後は、大商人、銀行家、大工業化、などの富豪の贅沢に対して批判を強める。ただし、貿易商人で命がけの冒険を克服して貴重な商品をもたらした場合は、住民全体の尊敬を受けるから、非難の対象にはなりにくい。
世界で目立つものといえば、民主主義全盛期の古代アテネ、中世のヴェネチア、ダンテ、ミケランジェロの時代のフィレンツエの一時期、中世ドイツの都市国家ニュールンベルグ(ワグナーの楽劇ニュールンベルグのマイスタージンガーの舞台)、カルヴァンによる宗教支配下のスイス・ジュネーヴ、フランス西部海岸都市国家のラ・ロシエル、オランダ独立戦争を始めたばかりのアムステルだムなどがあげられる。
日本では、初期の貿易都市堺であろうが、後期すなわち織田信長が接近してきたときには、一方に能登屋のような大商人がいて、千利休に対しては「小商いなどやってなはれ」といったというから、格差は広がっていたようである。同じく戦国時代、一向一揆が支配した越前では、「坊主を立てて、わがままを言いて」という言葉が残っているから、中間層の楽園になったのではないか。浄土真宗の寺は寺領を持たないから、大土地支配には関係がない。寺のことは信者の寄り合いで決めるから、キリスト教世界のカルヴァン派に似ている。
このカルヴァン派が市民革命を起こした国は、オランダとイギリスである。オランダでは、アムステルダムを中心とした狭い地域で独立政権を樹立し、そこでは東インド会社を中心とした貿易商人の指導権が実現した。しかし、周囲の湿地帯における軍事力、警察権については中間層に頼ることが必須条件になる。レンブラントの絵画、夜警に見る市民たちのプライドがそれである。フェルメールの絵画もそれを表現している。この国のこの
時代では、大商人と中間層の妥協が成立していたとみるべきだろう。
同じことはイギリスのピューリタン革命にもみられる。それはクロムウエル独裁のころになる。両者のぎりぎりの妥協点の上に彼が護民官・ロード・プロテクターとして軍事独裁政権を樹立した。しかし彼の死後、その成果は消えた。
似たような人物は、イタリアの統一運動で英雄とされるがリバルデイといえるだろう。日本人はあまり知らないが、ローマから南に下がると、この人が英雄とされ、ナポリの駅前にもがリバルデイ広場がある。若者が熱狂的に彼のことを語ってくれたことが、ひどく印象的であった。その時に思い出したのが、鹿児島のタクシーになったとき、運転手に「西郷さんに似てますね」、「イヤーサツマイモばかり食っているからでしょう」。「西郷さんは人気があるでしょう」、「それは絶対です。大久保さんはどうかは知れませんけれど」というような会話があったことを思い出した。
イタリアの若者も、がリバルデイから南イタリアを譲り受けた宰相カヴールのことを批判していた。何かよく似ていると思った。がリバルデイの政策について知るところは少ないが、巨悪を打倒しようとする正義感が強く、彼が立てば、数千人の若者がはせ参じ、強力な集団になった。用兵の妙も加わり、連戦連勝でナポリ王国を征服し、そこの支配者になるかと思われたところ、イタリア統一の大目的を理解して身を引き、サルデニア国王のもとイタリア王国が成立することを助けた。晩年は地中海の島に引退して、身を全うしたが、西郷さんも島に滞在していて、かえって見ると西南戦争に心ならずも巻き込まれたというから、両者共通点が多いような気がする。
21世紀に出てきた中間層の革命理論は、アメリカ発のバノン現象であった。2017トランプ大統領の出現に貢献して、一時は影の大統領といわれた。そのまま実権を握り続けるのかと思うと、そうではなく早々と政府から去った。本人は自分がレーニン主義者だといっている。ということは暴力革命も辞さないという意思表示である。よくこれがアメリカで通用するものだと思うが、強固な支持母体があるといわれている。
それが白人中間層だという。特に多いのが、さびた地帯(ラストベルト)といわれるかつての重工業地帯で働いていた白人労働者であるといわれる。今は収入が減り、失業者が多く、その子供にも将来の見込みがない。絶望で怒り狂っているらしい。この芽は、約40年前、日本車を叩き壊した運動に見ることができる。
この中間層は、かつての労働者階級で、本来は下層であったが、労働組合運動の成功で、生活水準が上がり、労働貴族となり、中間層になったものである。時と条件によって、中間層の在り方は変化する。それだけに、その行方は予測がつかない。

2017年12月4日月曜日

中間層の革命理論・高杉晋作、坂本龍馬、西郷隆盛にその芽をみる。

高杉晋作は、佐幕派の藩政府を倒した後、幕府との戦争に備えて武備充実を図るとき、費用の問題に触れ、「無用高位士の禄を削ぐほか無からむ」と書いた。この伏線としては、「肉食の士人、みな事に耐えず」という観察である。これは、外国軍の攻撃に際して、豊かな上級武士が戦闘では役に立たなかったことを評価した言葉であった。当時は豊かな上級武士だけが肉を食べ、それ以下は魚だけを食べるしかなかったという事情の下でなされた発言である。現代ならば、肉食のほうが馬力が出るはずではないかという疑問が出される。そういう問題ではないと思ってもらいたい。肉食の馬力はあっても、臆病であったり、武術の鍛錬不足であったりすると、戦闘では物の役に立たない。当時の上級武士の多くがそうであり、それでいながら、最高の贅沢をしていたのである。
そこで、上を切って下を救うという中間層の発想が出てくる。彼の家は150石取りの中級武士、このあたりが目安だというのは、明治維新以後、武士の禄を250石にまで引き下げ、さらに3割3分の税金をかけたからである。削減された上級武士の上は、9000石取りの旗本から始まり、3000石取り、1000石取りなどと、ピラミッド型に広がっていく。長州藩でも、1万石取りの上級武士が3人いた。これも250石取りにされたのである。こうした改革は大久保利通を中心として推進された。
坂本龍馬は、幕府の役人が、民の暮らしに関心を持っていないと批判し、「この一言でも幕府を倒さなければならない」といている。これも同じ発想で、上を切って下を救おうというものである。
西郷隆盛が討幕以後薩摩藩で行った改革もその線に沿っている。武士階級を中級武士程度にそろえて、貧富の差が出ないようにした。中間層の理想が実現したかのような瞬間であった。

2017年11月27日月曜日

中間層の革命理論・ロベスピエールと西郷隆盛の共通点

あらゆる社会的激動期に、中間層は独自の理論的指導者を立てて行動する。フランス革命ではロベスピェール、これはすでに説明した。では日本では、となると、それが西郷隆盛であるというのが、これから証明しようとすることである。「相手は市民、こちらは武士ではないか」とまず反論が来るであろう。しかし、それは違う。ロベスピエール、サンジュスト、クートン、これが3人のロベスピエール派の公安委員であるが、サンジュストは貴族、本人もまたマクシミリアン・ド・ロベスピエールと、貴族風に自称していた。つまり、フランス革命もまたなかなか貴族的なので、そこのところを日本人が誤解しているのである。
西郷隆盛は武士とは言うが、下級武士で、殿様のお庭番というかたちで近づいたのが始まりであった。したがって、家も小さい、収入も低い、現代の表現ならば中間層になる。それを横に広げると、中小商人、親方層、文化人などと同じ水準になる。
この中間層は、上層階級に対する批判を持っている。贅沢のし過ぎ、腐敗、悪徳を正したいと思ってている。それが一般論で、出てくる指導者、大衆を動かす理念はその時と条件によって千差万別となる。
まず、旧支配者の権力を撃破する。代わって権力を動かすことになった大商人、銀行家、その他の大ブルジョアジーの姿を見て、これにも憤慨し、「こんなはずではなかったのに」と悩むのである。
言い残したことも、よく似ている。「共和国は滅び、盗賊が勝った」とロベスピエールはいったが、西郷隆盛は「悪く申せば泥棒なり」と新政府の官僚を批判した。「これでは戦死者に対して申し訳がない」とも言った。討幕戦のことを言っている。「脱出す、人間虎豹の群れ」とも書いた。利権に群がる新政府の人間関係を表したものである。自分だけは清廉潔白でありたいという思いがある。ロベスピエールは「アンコリュプチブル」、腐敗しない人のあだ名をもらっていた。そういうところが両者似ている。目指すところは、上層階級の暴利を制限して、下層の水準を引き上げ、豊かな中間層の社会を作ろうとしたものであった。

2017年11月20日月曜日

昔からの間違い・ジャコバン派独裁の理論

フランス革命のいわゆる「ジャコバン派独裁」の理論は多くの誤解の積み重ねのうえに成り立ったものである。ジャコバン派はなくて、ジャコバンクラブがあっただけのこと、ジロンド派が追放されると、ジャコバン派独裁が成立したのではなくて、平原派と山岳派の連立政権ができたので、厳密にいえば、ジロンド派政権の時代も、ジロンド派と平原派の連立政権であった。
山岳派は,はじめ全体としてジャコバンクラブに支持されていたが、ジャコバンクラブでは粛清投票というものが進められ、腐敗、汚職が疑われたものが相次いで除名された。中には、釈明にやってきて、「ギロチンへ」という叫び声に包まれて退場した議員もいた。こうして、ジャコバンクラブそのものも、一年間で変質した。中小ブルジョアジーの集団から、小ブルジョアジーの集団への変化を起こし、その指導者に、「腐敗しない人」のあだ名を持つロベスピエールを押し出したのであった。この段階になって、ジャコバンクラブは山岳派主流に敵対する勢力になった。そうすると、ロベスピエールが公安委員会に来なくなった時には、ジャコバンクラブは野党のような状態になっている。主張している政策はヴァントウーズ法であるが、それは事実上阻止されている。つまり土地革命につながるものは妨害されている。そしてこのままで敗北した。だから、ロベスピエールが「共和国は滅び、盗賊が勝った」と言い残したのである。
このように整理すると、「ジャコバン派独裁が土地革命を行った」とする古くからの理論は間違いになる。この理論は世界中の学者、学生の頭を縛り、その延長として各国の学者が自分の国にこうしたものがあるのかないのかを検証するための努力をしてきた。日本では「土地制度史学会」という一大学会が隆盛を極めたが、これも背景にはそれがある。私も、大学に入るなり、先輩から「日本資本主義社会の機構」平野義太郎著を与えられ、これが聖書のようなものだといわれた。そこにはこの理論が書いてあった。私がフランス革命を研究するに至った原点である。研究した結果、それは無いということになるのだが、そうすると、フランス革命と明治維新の同一性が浮かんだ来るので、この研究は無駄ではなかったと思っている。

2017年11月13日月曜日

テルミドール以後の政変

ロベスピエール派の消滅は、わずか十人ほどの議員の消滅に過ぎなかった・五百数十人の議員はそのままであった。そこを見ると、大した変化があったわけではないと思われる。しかし議会の外では、激変が起こっていた。ジャコバンクラブの活動家、指導者に対する大弾圧がパリのみならず全国規模で続いた。大量処刑も行われた。ナポレオンも投獄された。入れ替わりに、獄中にいたものが大量に釈放された。
しかしまだ政策は何一つ変わっていない。ヴァントウーズ法の実行を阻止しただけであった。公安委員、保安委員の構成もそのままである。山岳派百数十名の存在も変化はない。ロベスピエール派に代表された小ブルジョアジー・プチブルジョアジーの政治的代表者が粛清されただけであった。だから、最高価格制、累進強制公債のような非常手段は維持されたままであった。
こう思われたのは一瞬で、今までとなしくしていた平原派が動き出した。これに腐敗議員テロリストと呼ばれた新興成金の議員が山岳派から転向して、平原派についた。彼らは極めて戦闘的に振舞った。山岳派について、まだ赤いトサカが残っているいるという。ロベスピールの共犯者とも言った。外国軍はすべて撃退し、ヴァンデー反乱を鎮圧し、軍隊が相次いでパリに帰ってきた。もはやパリの治安をジャコバンクラブに頼る必要はなくなった。公安委員会、保安委員会の改選で山岳派が落選した。財政委員会議長カンボンは平原派であったが、山岳派寄りだとみなされて、何度か命を狙われた。
危機を感じた山岳派は二度にわたる大衆運動を掻き立てて対抗したが、敗北し、議会から姿を消した。それでも約500人の議員が残った。平原派とジロンド派の連立政権、これがフランス革命の落ち着いたところで、それは大ブルジョアジーの政権であった。ここのところを、このようにはっきりと書く人はいない。私が最初だと思ってもらいたい。ここがあいまいだから、市民革命の理論がゆがんでしまい、ひいては明治維新の解釈も歪んでしまう。この最も複雑な変化の時期について、私は心血を注いで研究を続けた。その学術書が、小林良彰著『フランス革命経済史研究』、『フランス革命の経済構造』であった。

2017年11月1日水曜日

テルミドールの反革命

テルミドールとは熱の月といい、7月の熱いころのことである。ヴァントウーズ法は風の月で、三月から七月の四か月で劇的に変化が起こった。その真ん中あたりで、ロベスピエールは公安委員会を欠席した。欠席中でも、同じ程度の処刑者の数があったと、のちに国民公会でも報告があったから、彼が欠席しても恐怖政治は進められていたことが分かる。
七月、久しぶりにロベスピエールは国民公会に登壇して大演説を行った。この直前、山岳派は反対するだろうが、平原派の議員は聞いてくれるだろうといった。これが致命的な誤解であった。
まず、山岳派の中の腐敗議員、カンボンの財政政策などを非難し、ヴァントウーズ法に抵抗している議員公務員を批判した。この演説がすぐに否決されたのではない。大喝采の中で承認された。ところが、次の日、登壇しようとすると、妨害された。カンボンが「名誉を傷つけられる前に、私も発言する」言い出した。それから議長席を巡って大混乱が起きた。短刀を持ってきた議員もいた。腐敗議員たちが死に物狂いになった。そのなかでロベスピエール逮捕の決議案が上程され、可決された。平原派はロベスピエールの味方ではなかった。十名の同志だけが逮捕された。これをジャコバンクラブの支配するパリ・コミユーン(市の議会)が武装勢力を率いて救出に来て、市の議事堂に立てこもった。そこを大群衆が包囲して守った。国民公会の側も武力を集めた。カンボンは富裕層の住宅街から、青年を集めて武装させた。両者にらみ合いをしていた時、バラ(バラス)が武装勢力を率いて急襲を加え、ロベスピエール派を全滅させた。バラは平原派のもと派遣委員、マルセイユ・ツーロンでナポレオンを引き立てた人物、当時はイギリス軍を撃退した功労者と思われていた。中級の貴族(子爵)、巨大な財産を手に入れた腐敗議員でもあった。平原派が勝ったことの象徴でもある。さらにフランス革命はどこまでいっても貴族の影がついて回るという意味もある。

恐怖政治の第3期 ロベスピエールの政策

ダントン派、エベール派を排除したころが、ロベスピエールの人気絶頂期であった。この時に、彼の政策として、ヴァントウーズ法という法案が提出され、国民公会で可決された。「反革命容疑者の財産を没収して、貧しい愛国者に無償で分け与える」というものであった。もしこれが実行されれば、土地革命らしいものが、不完全ながら実現したといってもよい。不完全というのは、大財産をもっていても、政治的に中立で、おとなしくしていたならばそのままというのであるから、社会改革としては不完全である。
この法案が出ると、下層階級の中で期待が高まった。これが、エベール派の支持者を減少させ、武装蜂起を失敗に終わらせた。だから国民公会の多数が賛成した。次は実行の段階に入った。この文章の前半と後半を実行する組織を作って活動してもらう必要がある。前半としては、一般警察局という組織を作り、公安委員会所属とした。実際にはロベスピエール派の3人が指揮した。後半の実行は愛国者のリストを作成する人民委員会の選定となり、公安委員会の有志が担当した。
しかしである。人民委員会の仕事は遅々として進まなかった。一般警察局のほうは、保安委員会との縄張りを巡って暗闘が生じた。時に逮捕と釈放が逆になったといわれている。一般警察局は特に公務員の汚職、職権乱用、蓄財、残虐行為に厳しく、議員といえども容赦しないという方針で臨んだ。ここで恐怖を感じたのが、派遣委員として職権乱用を繰り返した者たちであった。バラ,タリアン、フーシエなどであった。彼らは巨大な財産を作って帰ってきた。これをロベスピエールは許そうとしなかった。彼らはダントンの二の舞になると恐怖を感じた。
この恐怖感がロベスピエールの恐怖政治というイメージを作り出した。しかし肝心のロベスピールの側は次第に無力感に襲われ始め、公安委員会を欠席するようになった。ジャコバンクラブで、自分は公安委員会で無力になったといった。後になって、反対派の公安委員たちが、この仕事を引き延ばしたのだと自慢した。

2017年10月30日月曜日

恐怖政治 ロベスピエールの政策 敗北への道

ロベスピエールは公安委員会を欠席し始めた。しかしジャコバンクラブには通った。まだ議員・人民代表としての資格はあるから、「暴君どもと死闘を演じるであろう」といった。暴君と呼ばれた人たちは、彼のことを独裁者といった。彼の一番弟子サン・ジュストは貴族出身の革命家・派遣委員であったが、「革命は凍り付いた」と書いたが、公安委員のメンバーとつかみ合いの喧嘩をした。この間,ルクツーは投獄されて処刑を待つ身の上であった。(ナポレオンのクーデターを実現させた人物)。もう一人の銀行家ぺルゴは告発されたが、カンボン(財政委員会議長)が国民公会で大演説をして、拍手喝さいを浴びて、安全を確保した。ぺルゴはこの時期公安委員会の銀行家と言われていたが、のちにはナポレオンのクーデターを演出した。
この時の対立はすべて、ヴァントウーズ法をまじめに実行するか、それともこれを口先だけの公約にとどめるかという点を巡るものであった。ロベスピエール派議員は約10人,これだけがまじめにやろうとするものであった。残り数百人は「あれは口約束」、エベール派の脅威が去った今となっては、廃案にすればよいと思っている。カンボン財政の立場から、無料はよくないといっていた。公務員の規律違反については、ほとんどの議員が身にやましいものを抱えていた。ただ一人、ロベスピエールが腐敗しない人と呼ばれていたということは、他の議員はそうではないということだから、今やロベスピエールは迷惑な存在になってきた。
五百数十人対十人、これで十人が簡単に無視されなかった理由とは、当時の特殊な事情によるものであった。パリの治安がジャコバンクラブに依存していた。これを敵に回せば、議員の身の上も危ない。そのジャコバンクラブがこのときロベスピエール支持で固まっていた。いざとなれば、数十万人の武装した群衆を集めることができる。このクラブの指導者は何者か。それは小ブルジョアジーと呼ばれた、今でいう中産階級であった。商店主、工房の親方、芸術家、などなど大金持ちではないが、貧しくもない、まじめに働いて、そこそこの収入を持つ、こういう階層であった。一人サンプルを挙げると、ダヴィッドという画家がいる。誰でも知っている。ナポレオンの戴冠式を描いた。彼もこのとき議員であり、「ロベスピエール君毒を飲むか。それなら僕も毒を飲む」といった。こういう階層だから、腐敗に対しては敏感であり、独特の正義感が出てくる。腐敗議員と言われた人たちが釈明に来た時、「ギロチンへ」という叫び声で追い返された。こうなってくると対決は避けられない。
財政委員会議長カンボンは「明日私か、ロベスピエールか、どちらかが死ぬだろう」と父親に手紙を書き送った。これが対立の要点であり、このように整理した歴史家はいない。

2017年10月25日水曜日

恐怖政治の第2期 ダントン派とエベール派の策動

1793年の年末までに穀物の事情は危機を脱して、騒ぎは静まり、過激派は抑えられた。外敵との闘い、ヴァンデー暴動との戦いも、絶望的な状態を脱した。これで穏やかになるかと思われたが、1794年の初めから深刻な肉不足がはきまった。冬の寒さを乗り切るのには、深刻な問題であった。これで人心が動揺したとき、エベールが先頭に立って、買占め人をギロチンにかけよという運動を展開した。獄中の囚人を食ってしまえとも書いた。大商人も小商人も容赦しないとも書いた。大衆運動が高まると、国民公会の全員が良くない、自分はクロムウエルになりたいと言い出して、武装蜂起を呼び掛けた。エベールの足場はコルドリェクラブであり、ジャコバンクラブよりはもう一段下層の人々の集まりであった。エベールの告発によって、多くの人たちが逮捕、処刑された。
ダントン派の人々も攻撃の的になった。旧体制の時代からの国策会社インド会社の清算を巡って、ダントン派の議員たちが私腹を肥やしているというのである。約十人のダントン派議員が逮捕されたが、こちらも反撃して、エベールの背後に外国人銀行家がいる、と暴露した。これを言い出すと一つの論文ができるほどのものであるが、ここではこれが事実であったというだけにしておこう。こうした騒ぎの中で、公安委員会と保安委員会は結束して、ダントン派とエベール派を処刑してしまう。これも恐怖政治ではあるが、まだロベスピエール個人の突出した役割は出てこない。

2017年10月24日火曜日

恐怖政治はなぜ起きたか

ヴァンデー王党派農民の反乱 この時期、もう一つの困難がフランス西部に起きた。それがヴァンデーの深い森を根拠地にした農民の反乱であった。これは王党派であって、フランス革命そのものに反対していた。市民革命はブルジョアジーと農民の同盟によるという理論とは相いれないものである。なぜかというと、それは、この地方では農民の多くが革命がはじまると生活水準が低下したと感じるようになったことにある。宗教領つまり協会、修道院の直領地が国有化され、アシニアと呼ばれる政府紙幣をもったものがこれを買い取ることができるようになった。商人が修道院の建物を買い取り、ワインの貯蔵庫に変えた。パリのノートルダム寺院もそうなった。宗教心の熱い農民にとっては悪魔の仕業と思われただろう。それに加えて、新しく土地の所有者になったものは、利潤追求に熱心で、労働条件は悪くなった。つまりフランス革命で土地をもらうことがなかった農民の大群、これが国王、大貴族を懐かしんで引き起こした反乱であった。大義名分もあるから、迷いがない。革命派の皆殺しが起こり、普通の農婦が殺せ、殺せと叫んで殺戮をしたという。負けかかると、森に逃げ込み、ゲリラ戦に持ち込んだ。この大群がパリに近づいてきた。これも政府とパリ市民の恐怖の的であった。政府軍も血みどろの戦い続け、平原派議員といえども、穏健といえる態度ではなかったといわれている。ここにも、もう一つの恐怖政治があった。大領主の支配を倒したと思ったところ、農民相手の血みどろの戦いになったということである。

2017年10月23日月曜日

恐怖政治はなぜ起きたか ジロンド派の反乱、これを鎮圧した派遣委員

6月ジロンド派は追放された。しかし大多数の議員は自宅軟禁程度で、これなら恐怖政治にはならない。やがて数十人の議員が脱走して郷里に帰り、そこで反乱を組織した。これを「連邦派」の反乱ともいう。ジロンド派が連邦制を主張したからである。マルセイユ、リヨン、ボルドー,ナントなど主要都市というようになったが参加したから、これは一大脅威になった。政府はすぐに派遣委員に全権力をあたえて、鎮圧に向かわせた。これも年末までにほぼ成功した。この時、派遣委員たちが大量虐殺を実行した。大砲刑、溺死刑などの名が残っている。彼らのことをテロリストというようになった。ついでながら、フランス語ではテロのことを「テルール」といい、恐怖政治もこの言葉の日本語訳である。
これら派遣委員には山岳派も平原派もいたので、テロは山岳派のものというわけにはいかない。なぜここまでこじれたのか。ジロンド派はなにをめぐって命がけで抵抗したのか。それは、「累進強制公債」を受け入れることができなかったからである。その内容を要約しよう。財政破綻、戦費調達のため、一年間だけ金持ちは我慢して、累進税を払い上限を中産階級の上程度にとどめる。それ以上の年収を公債のかたちで政府に収めるというものであった。実際には、公債台帳に登録するというものであった。これが返してもらえるのか、事実上の没収になるのかは誰にも分らない。しかし戦争に負けてすべてを失うよりは良いではないか、というのが政府の論理であった。平原派についたブルジョアジーはこれでよいとした。ジロンド派の側の人々は絶対に容認できなかった。これが財界、ブルジョアジーの分裂を作り出した。この背景をさらに分析すると、業種や立場によって、之でも得をする立場と、丸々損をする立場に分かれるが、今それを詳しく分析するだけの紙面はない。こうして、これは一種のブルジョアジーの共食いになった。
こうした共食いはこんごの世界史に登場してくる。もうひとつ、このテロリスト議員には、収賄、略奪、腐敗、汚職の性格が目立っていた。なかには、下層出身で、帰ってきたときには貴婦人を愛人にしていた者もいた。
こうして、この局面については、フランス革命は評判が悪いのである。その中にあって、ロベスピエールは「腐敗しない人」というあだ名をもらっていた。このあたりが、テルミドールの反革命に結びついていく。

2017年10月22日日曜日

恐怖政治、9月5日の事件、穀物の強制調達をめぐって

この事件は年末まで続いたが、重要なことが歴史の上で語られていない。まず、この「革命軍」がどれだけ残虐なことをしたか、はっきりと書いた人はいない。ギロチンを引っ張て行ったことは確かであるが、何人の首を切ったかは書かれていない。ここでの恐怖政治は証明できないのである。これは無理もない。はじめの頃は裕福な農家つまり地主や貴族は漫然と家宅捜査をされ、処刑されたであろう。しかし、その次の村では、情報が伝わっているから、自家消費分を残して、捨てるだろう。革命軍はそれを拾い集めたら目的を達成する。後は早くパリに帰ればよい。当時は荷車での移動であるから、それほど遠くへはいけない。つまりこの影響は限定的であった。
ただし、農業政策という意味では、深刻な結果を残した。この時期が小麦をまく時期であったから、誰もが自家消費分だけをまいて、それ以外の農地を荒れたままにしたのである。本来なら小麦の青い芽がでてきて、畑は一面真っ青になる。そこが黒々としている。誰が見ても来年の食糧不足は目に見えている。ロベスピエールはそれをジャコバンクラブで訴えて、過激派反対の潮流を作り出した。過激派指導者が孤立したところで、保安委員会が彼らの逮捕、処刑を実行した。自殺した人もいる。ラコンブは投獄され、のちに釈放されて、屋台を引いたといわれる。年末になると、ロベスピエールの任期は絶大なものになった。国民公会の議員からすれば、彼が守護神のように見えたのであった。現在はロベスピエールが極左のテロリストのように思われているが、そのテロリストから国民公会をまもったことで人気を博したのであった。

2017年10月21日土曜日

恐怖政治はなぜ起きたか 続 9月2日以後

ともかく、ラコンブ率いる女性の大群の圧力と、ダントンの発言、議長ロベスピエールのまとめで、ある政策の実行が進められることになった。それが、穀物の強制徴発、家宅捜査、物資隠匿と買占め、売り惜しみに対する死刑の実行を含むものになった。それを実行する集団として「革命軍」が即席で組織された。これはフランス革命軍とは別物であったから、ここのところをはっきりさせないで論じる人は、フランス革命の本質を間違えることになる。軍隊はすべて前線に出ているから、いわゆる「革命軍」は急ごしらえの別組織であった。幹部は過激派の指導者、兵士は貧民街の住民出身であった。これが付近の農村に到着すると、「まず大きな家に行け。間違いなく買い占めにんだ。余分な穀物を見つけたら、買占め人としてギロチンにかけろ」という方針をしめされたので、このようにしたのである。これはエベールの書いたものである。これでは恐怖政治になってしまう。これは貧民の側からする恐怖政治であった。

2017年10月13日金曜日

恐怖政治はなぜ起きたか 続

ジロンド派追放が実現しても、まだ恐怖政治は始まらなかった。公安委員会も「眠っている」委員会だとマラーがからかったほどであった。9月5日の事件、これが「恐怖政治が日程に上った」とあるフランス革命史家が書いたが、その意見はあまり活かされていない。この事件、正確に伝えた概説書は見当たらないので、すこし詳述します。フランス軍は国境で敗北を重ねた。ジロンド派の反乱でリヨン、マルセイユ、ボルドーなど主な地方都市は反政府側になった。西部のヴァンデー地方で、王党派の反乱が起こり、それに農民が合流して、パリ目指して攻めてきた。これでは物流が途絶える。それを見越して、買い占め、売り惜しみが進む。ついに穀物が店頭に出なくなり、パン屋はパンを焼けなくなり、主婦は家族に食べさせられなくなった。特に貧困層にしわよせがきて、飢え死に瀕した大群が出現した。この階層を支持者に持って政治指導者になったものが、「アンラジェー」という。怒り狂ったものという意味である。議員の中にはいない。
この指導者たちに率いられて、大群衆が議会・国民公会に向かった。今までになかった現象としては、包丁を持った女性の大群が、クレール・ラコンブという美人女優の指導者とともに、赤い三角帽子をかぶうて議事堂の中へ入ってきたことであった。制止しようとした何人かが刺された。彼女らが議員のそばに座り込む。その力を背景に、ラコンブが議長を押しのけて演説をした。当日の持ち回り議長がロベスピエールであった。しかしこの状況の下で、彼も指導力は発揮できない。彼女の演説の内容が、恐怖政治の実行を要求するものであった。しかし議員は誰も賛成できない。硬直状態に入ったところで、ダントンが賛成を口にした。後ごく少数のコルドリェクラブ出身の議員が賛成した。これで流れが変わって、賛成多数となり、議長が代表として成立を宣言した。
そうすると、腹はともかく、ダントンが提案し、ロベスピエールが宣言したことになる。また、これを貧困者の指導者は大義名分に使う。こうしてこの二人が恐怖政治の指導者として、後世に伝えられたのである。実際は、大衆運動の圧力に屈して、一時的に譲歩した政策であった。ただし、権力を明け渡したのではない。ここが重要なところである。

2017年10月9日月曜日

二十三 恐怖政治はなぜ起きたのか

1793年6月2日ジロンド派追放の後、ジャコバン独裁、ロベスピエール指導、恐怖政治と書くのがすべての解説です。私はこれを訂正しようと思う。まず、次の政権は、平原派と山岳派の連立政権で、山岳派の支持母体がこの時点ではジャコバンクラブになっていた。それ以前、ジロンド派もジャコバンクラブの会員であった。財政委員会を平原派に握られていたのでは、独裁はできない。次に、ロベスピエールは、それから約一か月遅れで公安委員会に入る。その間ロベスピェールの恐怖政治はないのです。次に、どういう権限を持っていたか。目立ったものはないので、公安委員会の政策をジャコバンクラブで説明し、その支持を取り付けることが役割であった。なぜこれが必要か。当時ヨーロッパ諸国との戦争で、軍隊が前線に出払っていて、パリの治安はジャコバンクラブの武装勢力に頼っていたという事情がある。国家の権力機関は他の公安委員が担当していて、二人の副署で有効とされた。つまりロベスピールに関係なく、国家権力は行使されていたのです。もちろん、彼が議長であったというのではない。
というわけで、9月5日までは、まだ恐怖政治らしいものは現れなかった。通常どこの国にでもある犯罪の取り締まりと処罰であった。ジロンド派に対する弾圧が取り上げられるが、反乱を起こした場合だけで、そうでなければ、軟禁状態で、約半数が生き残った。ロベスピエールに対して、「君は三回も私の命を助けてくれた」と書いた手紙も残っているくらいである。つまり「血に飢えた暴君」というイメージは後世の作り話である。それにしても、だれもが知っている「恐怖政治」はなぜ起きたのか。

2017年10月7日土曜日

二十二 ジャコバン派独裁は無かった

フランス革命史では、ジャコバン独裁、山岳派・モンタニヤール独裁、ロベスピエール独裁、公安委員会独裁などという言葉が出てくるが、すべておどおどろろしい印象を与える割には実体がない。これもボナパルテイズム論と同じく、市民革命の解釈に対して誤解、混乱を招く。だからこれを訂正しなければならない。まず、ジャコバンはクラブの名前で、議会の党派の名前ではない。これにたいおうする党派は、モンタニヤール・山岳派と呼ばれる。議会の小高い場所に陣取ったから、このあだ名になった。約150人で、その反対側にジロンド派と呼ばれる議員の集団が陣取った。この派は当時「ブリッソ」の党、「ロラン」の党と呼ばれていて、ジロンド派という言葉は後世につけられたものである。これも約150人であった。その真ん中に約400人の議員がいて、これが「平原」とか「沼、沼沢」と呼ばれていた。これに派をつけて呼ぶには、ためらいが出てくる。なぜなら、まとまりがないからである。「一人一党主義者」の集まりというべきである。普通のフランス革命史では、これを信念のない、ふらふらした日和見主義者のように書くけれども、実際に議事録を読んでみると、そうではない。よく発言している。最終的にこの400人が生き残り、ジロンド派は半減し、山岳派はほぼ全滅した。平原派が万年与党であり、最終的な勝者だといってよい。
それでも、1793年ジロンド派を追放した後、政権は山岳派の手中に入り、いわゆるジャコバン政権となり、独裁を許したのではないかと反論されそうである。そうではない。議会から、正式には国民公会から三つの委員会を選出し、これが臨時行政機関・内閣を指揮するものとした。つまり、委員会が大臣で、今までの大臣が次官に格下げされたようなものになった。三つの委員会は対等で、これをたばねる首相の地位はなかった。公安委員会、保安委員会、財政委員会であり、前二ryは誰でも知っている。しかし財政委員会を知る者はいないのみならず、これを取り上げる歴史書もない。つまり、財務省のない政府というものを論じているのである。そして、財政委員会こそは平原派から選出されたのであった。これをどう見ますか。続きは後で。

2017年10月6日金曜日

続 ナポレオンがクーデターで倒したもの

ナポレオンの背後、支持者に銀行家、産業資本があったことは分かったとして、ならば彼の攻撃の矛先は誰に向けられたのか、この点についての説明が、どの書物や論文にも出てこないのである。だから訳が分からないのである。この上となると、大貴族だけになるが、それはヴァンデミエールの反乱事件で、ナポレオンがこれに砲撃を加えたので、そうではないことが分かる。ならば誰か。これを解明しないことには、ボナパルテイズムの謎は解けない。だからへんてこな理論が出てくる。
この時代、ヨーロッパの強国相手の大戦争が長引き、軍隊への物資供給が一大ビジネスに成長した。そこにあらゆる階層から参入者が現れた。フランス語で「フルニスール・オ・ザルメー」という。軍隊に対する供給者という意味であり、日本語では「御用商人」と言ってもよいが、この言葉には「卑屈」な響きかあるので、この場合は使うと誤解を招く。したがって、「武器商人」と言い換えて、食糧も含むことにしたい。また莫大な「戦利品」の輸送も含むから、その時の「横領」も考慮、想像する必要がある。こうしてこの集団が財界を圧倒するような力を持ち始め、政界トップとの癒着が深刻な問題になった。この頂点に立ったのが、「ウヴラール」という巨大武器商人であった。中小企業者から身を起こし、総裁政府の時には第一総裁バラとの個人的交友関係を深めて、巨利をむさぼったといわれる。この集団の連日連夜の豪遊、腐敗、堕落は後世有名になる。その影響で、軍隊に対する物資供給が滞り、フランス軍の戦力が低下した。これもフランス軍が敗北を重ね始めた理由の一つと言われる。各地の軍司令官から苦情が寄せられるようになった。
さらに財政状態も悪化し、影響が市民生活にも出始めた。この不満を背景に下院では反政府政党が進出し、ジャコバン・クラブが再建され、恐怖政治の公安委員ロベール・ランデが指導者として出てきた。
ナポレオンのクーデターはこの二つの勢力に向けられた。普通の歴史書では後者のほうへの打撃だけが書かれている。しかし、現政権に対する反逆という意味がクーデターであるから、総裁バラと巨大武器商人の複合体制を打倒しなければ、意味がない。バラは圧倒的な武力の前で、ていこうの余地なく退場した。ウヴラールは軟禁された。しかしここからが問題、処罰しようとしても、軍隊への供給が途絶えると困る。両者困ったところで、妥協が成立し、値引きが提案されて、以後正常な活動に戻った。ここで、ナポレオンはイタリアに向かって出動し,マレンゴの戦いで成功する。
この筋書きを見ると、財界の分裂と妥協、これがボナパルテイズムの本質であることが証明できる。

2017年10月4日水曜日

続 第二統領カンバセレスは大工業の経営者

ナポレオンが帰国し、クーデターを起こし、統領政府を樹立した。1799年11月10日のことである。ひと月のちに人選が固まり、第二統領カンバセレスに落ち着いた。これで1804年帝政まで続くことになるが、ナポレオンは戦争に出るから、内政という意味ではこの人物の存在は重要であろう。ジャン・ジャック・レジ・ド・カンバセレス、普通の歴史書にはほとんど登場しないが、ボナパルテイズムの本質をいうときには重要な役割を示すことになる。名前のとおり貴族ではあるが、法服貴族であり、ナポレオン法典の責任者であった。ナポレオンが法典を編纂するわけではない。これは誰でもわかることである。
もう一つの性格、これはどの論文、本にも書かれていない。かれは、繊維工業の王立マニュファクチュアの経営者であった。もちろん実力経営者であって、サラリーマン経営者ではない。こういうのを大塚史学では「前期的商業資本」による「特権的大工業」に分類し、市民革命で打倒されるものというが、なかなかそうではない。つまり、大工業家兼貴族兼法律家の性格を兼ね備えていて、恐怖政治の時は、穏健派議員でありながら、政府からは攻撃されなかったという、不思議な人物であった。ペルゴの万年与党、ルクツーの貴族兼法服貴族と似ている。ナポレオンの権力はこういう方向に落ち着いたといえよう。これで、ボナパルテイズムが財界、経済界の政権であることが証明できる。

2017年10月2日月曜日

続 ナポレオンを擁立した銀行家、ペルゴとルクツー

この二人の銀行家がナポレオンの権力を作り出したといってよい。これは命を懸けた問題であって、一つ間違えば敵前逃亡とみなされ、銃殺に値する行為であった。それを成功に導くように本国でお膳立てしたこの二人は、どういう人物であったのか。
ペルゴは旧体制の下でパリの銀行家として成功していた。個人の投資銀行であるが、年下の共同経営者を持っていた。それがラフィットで、1830年7月革命のあと首相になり、いよいよ銀行家の天下だといった人である。ペルゴはフランス革命がはじまると、ラファイエットの副官になって、革命政権の中枢に入り込んだ。ラファイエットは侯爵・大領主、16歳でヴェルサイユ城にデビュー、王妃マリー・アントアネットがダンスの相手をしてやろうといってくれたくらいの名門貴族ではあるが、この時は革命の側に就いた。国民衛兵司令官と言って、国王軍の攻撃に対してパリを守るために組織された市民軍であった。つまりいきなり権力を握るのではなくて、まずは旧体制の名門で理解のある大貴族を立てて、影に隠れて実権を握るというやり方である。その後はどのような政権が出てきても、常に協力する。最も過激な政権ができた時でも、全面協力した。そのため公安委員会の銀行家ともいわれた。それでいて、失脚、粛清されることがない。珍しい人物である。
ルクツーは二人いて、ルクツー・ド・カントルー、ルクツー・ド・ラ・ノレーとなる。一族でそれぞれ領地を持っていて、領地の名が後ろについている。つまり貴族であるが、本来は銀行家、貿易商人とくにアメリカニユー・オーリンズとのあいだに貿易船を動かしていた。つまりブルジョア貴族であった。ヴェルサイユ城には入れない。生涯に一、二回大貴族の紹介で王に面会できる程度であった。今問題になるのは、カントルーのほうである。フランス革命の出発点は、国王軍がパリ制圧を目指して侵入したとき、市民軍がこれを迎え撃って撃退したときであるといわれる。この時、ルクツーはパリ守備隊の兵舎に出向いて、自分らの側についてくれたら給料を払うと演説した。じつはこの時、兵舎にはお金がなくて、飢え死にしそうな状態であった。こうして職業軍人を革命の側に合流させた。こういうものがないと、戦闘にはなかなか勝てない。フランス革命というと民衆の蜂起だと思われているが、ルクツーの行為は軍人と銀行家の結合という側面になる。1792年王宮の襲撃、ルイ16世の逮捕という事件のときも、銃を持って参加したというから、なかなか戦士としての性格も持っている。こういうのを日本語では侠商という。しかしその後、こんどは国王の処刑に反対するような言動がたたって、逮捕投獄され、処刑を待つ身になった。運よくテルミドールの変があり釈放された。その何年かのち,ナポレオンと出会うことになる。「たぶんイタリア人であろうが、今後はああいうことはしないといっていた」と書いている。つまり恐怖政治はしないというのである。これがナポレオンに期待した理由であろう。こうして、二人の銀行家が、ナポレオンに期待したのであった。

2017年10月1日日曜日

続 ナポレオンを呼び戻した二人の銀行家

ナポレオンは北イタリアからウィーンに迫り、オーストリアを屈服させ、戦争を終わらせた。これで最も強力な敵国を対仏大同盟から離脱させた。これでナポレオンはフランスの英雄になった。1798年エジプト遠征に出発した。陸上の戦争ではかったが、海戦では敗北した。このとき手紙が本国から届いた。フランスが危機にあるので、本人だけが帰ってきてほしいというのである。そこでわずかな供回りを連れて帰国した。
この手紙の差出人はだれか。これがボナパルテイズムの本質を表しているが、ほとんどの歴史書には書かれていない。二人は銀行家であるが、この頃は個人銀行家であり、普通預金の銀行家ではなく投資銀行家であった。ペルゴ、ルクツーという。

続 

ナポレオンは出獄してからしばらくは失業状態であった。しかし、1776年にはイタリア方面軍の司令官になって、遠征し、成功した。彼の軍事的な才能、ツーロン軍港時代の上官・派遣委員バラ・バラ引き立てがてがあった。しかしもう一つの要素はあまり人々が取り上げないものである。彼のイタリア語の名前は、ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテである。イタリアでは由緒正しい貴族であって、フランスでの扱いとは違ってくる。この名前「良いところのナポリ」さんという意味になる。ジョークの様な話なるが、民心掌握には強力な武器になる。フランスに行って出世した貴族が帰ってきたという感じになって、封建支配者以外は好意を持つ。ここに市民革命を武力でうえからひろめたという意味になる。こういう市民革命の実現のしかたがありうることも、理論化の過程で考慮するべきである。
その前にはヴァンデミエール将軍と言われるようになる。この名は「革命暦」からくるもので、1795年その月に王党派貴族つまり旧上流貴族・名門貴族が反乱を起こし、もうすこしで勝つかもしれないというとこにまで攻めてきたという事件であった。仮にもしこれが成功していたとすると、フランスには旧体制、絶対主義が復活したであろうというものであった。政府の側には、総裁政府のトップにバラがいて、副官にナポレオンがなり、反乱を鎮圧した。ナポレオンはますます成功したが、アンギアン公爵は銃殺された。コンデ大公の孫、フランス王国の最高の貴族、ヴェルサイユ城を取り仕切っていた人物の唯一の孫で、これをもってコンデ家の家系は絶えたというので、フランス人にとっては一大事件になった。だからナポレオンのことを悪く言う人たちもまた、フランスには一定数いる。これもまた、市民革命の一つの側面である。

2017年9月29日金曜日

二十一 ナポレオン、ユダヤ系銀行家、商人

ナポレオンは早くから、マルセイユの有力商人と深い関係にあった。兄はそこの娘と結婚していた。自分もその妹と婚約にまでいった。その意味では、純粋貴族ではなく、ブルジョア貴族の入り口にあった。じつはフランス革命の本来の目的はこれであった。つまり、貴族独裁から、両者手を携えるという程度の変革が期待されたのではあるが、旧勢力の頑強な抵抗があったので、戦いが激烈を極めたというのが、先回りした結論になる。次にユダヤ系銀行家のことであるが、私はある縁でユダヤ系銀行家の最大といわれるロートシルド、フランス語読みでロチルド銀行の重役に紹介され、本店に招かれた。「ここは戦略の中心部です」という部屋にも案内されたが、そこでは役員が働いていた。「誰にも見せないところですが」という言葉がついいていた。「いったいなぜ私を」とききたおところであったが、帰りに資料をもらい、これを使って後日この銀行の経営史を論文に書いた。
なぜそこまで好意的なのか、これが分からなかったが、後日ハットひらめくことがあった。
フランス滞在中に、よく「あなたはユダヤ人ですか」と聞かれました。ある人は非常に執拗であった。「ノン・ジャポネ」「いや日本人だ」これくらいの迫力で
いいかえす。しかし相手も引かない。「日本人は分かるが、日本人のユダヤ人だろう」。「日本には日本人しかいない」、「いやそんなことはない、ユダヤ人は全世界にいる。ハバロフスクにはユダヤ人自治共和国がある。すぐそばじゃないか」。ここでわたしはぐっと詰まった。とにかくユダヤ人としての外見を持っているらしい。「そういえば、あの重役も私に似ていた様だ。背の高さも同じくらい、黒目、黒髪、だから好意的だったのではないか」、こう考え始めたとき、私がボナパルト君と似ているのだ、このように思うと、ナポレオン・ボナパルトとユダヤ人銀行家の関係は、あのようにあっという間にできあっがてしまったのではないかと想像し始めた。
そうすると、残るところ、その遺伝子を持った祖先はどこからきたか、想像だけでもしてみたい。シベリアからはあり得ない。南蛮人はどうか。これでもないだろう。先祖としては室町時代の墓もあったからだ。残るところ、古代の帰化人か。ある時、播州赤穂が秦氏の支配下にあったということを知った。これではないか。これを「はたし」と読むが、太秦とはローマ帝国のことである。唐の都長安に太秦寺があり、太秦景教流行の碑がここで発掘された。つまりローマ帝国のネストリウス派キリスト教の信者が迫害を逃れて東に動き、長安まで来たのである。景教の僧、つまり牧師が日本に来たという記述もある。ほとんど知られていないことだが、弘法大師空海が長安でこの景教の指導者と親交をもち、共同で密教経典を翻訳しようとしたが、なぜか帰国後は一切口にしなかった。このことは外国には知られていて、外国人が、この碑のコピーを高野山に作ったという。この景教の指導者は浄海というが、アダムともいう。これで事の本質は分かる。つまりこの集団にユダヤ人の遺伝子があるのではないか。じつは、わたしの母が、赤穂の地元の武士の家系であったと聞かされている。これで「ははあ」と思った。また私の妻の実家が空海の母方の屋敷跡で、そこに空海の母阿刀玉衣・あとたまよりの木像があった。高野山ふもとの九度山に行った人である。この一族も帰化人だといわれている。実に不思議なめぐりあわせである。こういう縁を持った人物がボナパルト論を書いていると思ってください。

2017年9月28日木曜日

続 ナポレオンには不思議なご縁がある。

物語風に描くといいだすと、突然筆が滑ったようで、厳密な正確さを欠いたようです。ナポレオンが下士官のままでツーロン軍港攻撃にさんかしたと書きましたが、将校になっていました。つまりフランス革命の三年間で人材登用が進み、そうなったわけです。ここに市民革命の大きな成果があるわけで、隣国は旧体制のままなので、優秀な人間でも、浮かび上がれないのです。こうした条件がナポレオンの活躍の場を実現したのです。だから、すでに能力を背景にして上昇し始めていたのです。「ド」がないとも書きましたが、正確に言うと、「ディ」というイタリア語は本来持っていました。しかし名前をイタリア語からフランス語のように切り替える時、遠慮したのでしょう。貴族社会では肩身の狭い状況だったのでしょう。
さてこの子孫でボナパルト君という人にパリで会いました。身長は私と同じ160センチ、横に座っている学生は180センチくらい、前者はソルボンヌの学生、後者はグランゼコールの学生です。ボナパルト君は「自分は試験に落ちたけれども、コルシカに帰ると名家の扱いになる」と言っていました。私は彼に「自分は日本人だけれども、あだ名はナポレオンです」と言いました。すると二人は、「本当によく似ている」と言っていました。私は肌の色が白くて、日本人の中では困っているくらいなので、どこかで遺伝的要素が入り込んだのではないかと思うのです。
もう一つ、パリで、ロートシルド銀行の重役に紹介されました。この話は続きで。

2017年9月27日水曜日

十九 二人の銀行家がナポレオン・ボナパルトの政権を作った

ナポレオン3世のことは分かったとして、ボナパルテイズムの名はナポれレオン1世のファーストネームであるから、これを正確に論じなければ説得力がない。少し長くなるので、物語風に書きます。世界で一つしかない正しい説明です。生まれはコルシカ島、昔からのフランス領ではなかったので、のちにルクツーという銀行家が「ナポレオンという軍人に出会った。おそらくイタリア人だろうが、もうこれからは恐怖政治のようなことはしないといっていた」と書き残している。これが重要なキーワードになる。
同じコルシカ島出身でも、コルベール侯爵はコルシカ王の系譜、だからヴェルサイユで優遇され、この一族からルイ14世の財務長官を出した。彼の重商主義は高校の教科書にも載っている。しかしナポレオンは最低クラスの貴族、貴族の称号である「ド」もつかない。つまり「シャルル・ド・ゴール」のように「ド」が付くのが普通の貴族であって、それが無いということは最低の水準になる。当然ヴェルサイユには無縁であるから、国王にも親近感はない。士官学校は卒業した軍隊に入ったが、下士官・伍長で、これ以上上がる望みは旧体制の中ではありえなかった。そこでフランス革命には中立の立場に立ち、1792年8月10日チユイルリー宮殿の襲撃事件の時は、セーヌ河の対岸で見物をして、作戦について評論をしていた。つまり国王が危ないのに、そのために戦おうという気は無かったのである。
翌年1793年イギリス軍がツーロン軍港を占領した。マルセイユも中央政府に反乱をお越した。ナポレオンはフランス軍の下士官としてイギリス相手の戦争に参加した。このとき、全権委員として政府から派遣されてきたのが、バラ、という貴族であった。英語読みでバラスという。子爵だから、中級貴族になるが、財産の相続争いで、不遇な状態であった。家柄は良いから、ヴェルサイユ城には入れた。海軍大臣の頭を本で叩いて、インドへ左遷されたという経歴を持つ。こういう人物は危機の直面すると恐ろしい力を発揮する。さらに彼もこの地方の領主であったから、派遣されたというよりもむしろ、故郷に帰ってきたというのが正し。だから、ツーロン軍港の奪還はバラの功績であった。のちにこれがナポレオンの功績のように言われるが、なんでも歴史の解釈はそうなるものであろう。バラが軍隊を指揮しているとき、下士官のナポレオンを見出した。砲撃の才能があるということだ。これが当時の上流貴族にはなかった。貴族は一般に騎兵としての腕を磨いている。しかしここの戦争は、イギリス海軍相手の砲撃戦であった。弾が当たらないとどうにもならない。バラはナポレオンを引き立てて、砲撃戦の前面に出した。この戦争が終わってみると、ナポレオンは将軍になっていた。その頃、パリでは、ロベスピエールの全盛期、ジャコバンクラブの全盛期を迎え、ナポレオンもそれに賛同するような言動があったので、「ジャコバン将軍」の呼び名が付けられた。それもつかの間、1794年7月ロベスピエールが失脚すると、彼も投獄され、釈放されてでてくると、地位も名誉も失った状態になった。

2017年9月26日火曜日

十八 ボナパルテイズムに3人のユダヤ人が関係している

ナポレオン3世を皇帝の座に押し上げたのは、財務大臣になったフールであり、彼はユダヤ人の投資銀行家であった。フランス革命の頃にパリにきて投資銀行を作り、成長していった。本家はドイツ・フランスにまたがるユダヤ系金融業者であった。どいつ語ではフルトFuldとなる。これを英語流で発音すると、ファルドとなる。これを聞くと、多くの日本人が「ああ、あの人」と思うだろう。21世紀のリーマンショックの引き金になった人である。つまりこの一族は、今なおドイツ、フランス、アメリカをまたにかけるユダヤ系の巨大金融業者である。フールに敵対し、ナポレオン3世とも険悪な関係になった大銀行家ロチルドはドイツからフランス、イギリスに進出して、ヨーロッパ中に支店を開いたロートシルドの分家であった。
マルクスはナポレオン3世の反ロチルドの動きなどを評価して、反資本家の性格があると見た。フールのことは目に入らなかった。同時代のことだからやむを得ないとはいえ、ボナパルテイズムを反資本家・反労働者の運動と定義したことは、彼の学問的名声と負いまって、歴史学の中に、幻影を事実とする間違いを持ち込んだ。彼は、「偉大な人物が生存している間は、世間の人々は批判したり、無視したりする。死ぬと高く持ち上げ、その長所ではなくて、欠点を悪用する」と書いているが、この問題はまさに予言通りになってしまった。なお、マルクスもユダヤ人であった。妻はイエニー・フォン・ヴェストファーレンという大貴族の令嬢であった。ウェストファリア・ケルンの近く・のことである。フールの出身地に近い。わからないはずはないと思うのだが、この問題は引っかかりやすいのだ。
ついでながら、1930年代のドイツでナチスが台頭した現象も同じような思い違いをもたらした。一方に保守党があり、これは資本家陣営とみなされる。他方に社会党、共産党があり、これは労働者の政党とみなされる。これらが大恐慌の混乱の中で鋭く対立した時、国家社会主義ドイツ労働者党と称して、両者を攻撃したのが、この頭文字をとってナチスであった。これは中産階級の運動であると思われた。この武装集団がSĀ・ナチス突撃隊であり、社会党、共産党を全滅させ、党首ヒットラーを権力の座に押し上げた。次にいよいよ社会主義の実現を目指そうとしたが、ヒットラーは動かない。突撃隊隊長エルンスト・レームは社会主義実現を目指してヒットラーに圧力をかけた。結果はどうなったか、ある日銃声がして、何が起こったかがわからなかったが、レームは現れなくなり、突撃隊は解散され、ヒットラー親衛隊が組織された。ナチスの「ス」すなわち社会主義の意味は消えた。こうして、ドイツ重工業資本の権力が確立した。これがことの本質であった。つまりどのようにしても、動産支配の実態が出てくるのである。

2017年9月25日月曜日

十七 ボナパルテイズム論という大間違い。

前回にかいた財界の分裂について、その大先輩というべきものがフランスにあった。ナポレオン・ボナパルトの名を取って、ボナパルテイズムという。事の起こりは、甥のルイ・ナポレオンが1848年2月の「2月革命」のあと、クー・デターで権力を握って、議会を解散し、独裁権を獲得し、のちに帝政を実現したことに始まる。これについて、同時代のマルクスが論文を書いた。ナポレオンの支柱は、軍隊の中核を構成する中産階級としての農民だという。フランス革命で利益を得た勢力だともいう。このとき、資本家陣営と労働者階級は相戦って、どちらも決定的な勝利を収めるには至っていなかったともいう。それほど事態は流動的であった。その時、中産階級を足場として、両者と戦い、武力で権力を握る。ナポレオン・ボナパルトと同じだというのである。こういう権力が出現することはありうるというのである。このとき、マルクスが科学的歴史観を提唱していたから、マルクス主義全盛期になると、ボナパルテイズム論が歴史解釈の中枢に据えられることになった。
しかし、これは彼の自己矛盾だと私は思った。彼は階級史観を説いている。中産階級の権力はを主張することは自己矛盾を起こす。それが本当に事実ならばそれでよいが、そうではなくて、ルイ・ナポレオンの背後にフールという大投資銀行家がついていたのである。かれはナポレオンのもとで財務大臣になり、任期なし、の実力大臣であった。たしかに、ロテイルド・ドイツ語読みでロートシルド、英語読みでロスチャイルドという最大級の投資銀行家がいて、かれは反ナポレオンであった。両者は冷たい関係になったが、十数年のちに和解した。これを見ても財界の分裂が証明できる。ボナパルテイズムもまた、動産支配者の一つの権力であった。この点マルクスは十分にマルクス的だはなかったといいたいのである。

十六 市民革命以後は経済界の分裂抗争が政争と連動する。

内外の情勢が平穏な時は、動産支配の上にたつものはそれなりの安定を維持し、日ごろのビジネスに没頭している。戦いの基準は、どれだけ儲けるかである。利潤追求が原則になる。しかし、動乱が始まると、それにも対応しなければならない。しかしビジネスは過酷なもの、これに全身、全霊を撃ち込まなければ競争に負ける。古来「侠商」と呼ばれる人たちがいて、動乱の時に活躍する。日本では、岡田平蔵、五代友厚,石倉屋卯平などなど、多くの人たちがビジネスと国の将来を両立させようとしてきた。しかしこれは長続きしない。そこで、動乱の中で、大衆の支持を得ている指示か、社会運動家、あるいは軍人などと結び、資金援助をして、それに権力を獲得させる。自分は背後にいて姿を見せない。見せても財務大臣程度で控えめにしている。「かくれた実力者」になる。この場合、大衆運動の標的を攻撃するから、一見すると反経済界、反財閥、反ビッグビジネスになる。に見える。またそのような幻想を大衆に振りまくので、学者やジャーナリストがそのように主張する。実際、ニューデイールでもGМ、フォードなどは課税を強化され、忍び寄る社会主義と批判した。しかし大恐慌のどん底が過ぎると、元に戻る。これが普通だとして、時には、とくていの二次ネスパーソンに対する打撃が、その存在の抹殺にまで発展する。それをみると、反財界の運動のように見えてくる。このようなある種のテクニックに惑わされると、歴史理論が間違ってくる。じつは間違った人間はそれで幸せであった。幻影を現実と思い、疑似餌に食いついた魚のように誘導されていった。もしこの時真実を言う人間がいたらどうなる。それは抹殺される。そこで真理は消え、疑似餌に食いついた理論だけが残る。人間社会はこれで幸せなのだが、之では明治維新が市民革命であることを証明できなくなるので、あえてにがい真実を主張するのである。とはいうものの、私も最後部分については、はっきりと言い切っているわけではない。

2017年9月24日日曜日

十五 ニューデイールをめぐるアメリカ経済界の分裂

1929年の大恐慌とそれに対する対策として実行されたニューデイール政策は、反対派からは≪忍び寄る社会主義≫といわれ、賛成派からは労働者、農民のための政策と賛美された。巨大企業に課税し、その資金で国営企業としてのテネシー河開発機構を作った。今でいう大規模公共事業であった。自由主義、自助努力、セルフヘルプの国にとって、仰天するような大変革であった。これを反財閥の、労働者、農民の運動の成果とみる学説が戦後の日本でも盛んになった。
これが正しければ、一時的にしろ、アメリカで財閥が実権を失うことになったとの主張ができる。そのような学説が当時は多かった。本当にそうか。じつは、ロックフェラー財閥の当主ははじめからルーズヴェルト大統領と親しく、通勤列車で同席していた。自動車のクライスラーも支持者であった。興業を中心とした新興財閥jジョセフ・ケネデイ・この息子が大統領になる・新興銀行家ジャンニーニのバンク・オヴ・アメリカなどが支持者であった。これをみると、経済界の分裂があったということで、反財閥、反経済界の権力ができたということではない。こういうことを、私は六十年前、東大西洋史学科の卒業論文で書いた。

2017年9月23日土曜日

十四 市民革命以後の支配者

市民革命以後、成功者、支配者はその本質を隠そうとする。そこが前時代とは違うところ、そのかわり、国防となったときには、自分だけが体を張って出ていくことはない。そのため、これが支配者だと証明することが難しい。そこにこの理論を広める時の困難がある。しかしこれを突破しないと、明治維新が市民革命であることを証明することにならない。
2017年のアメリカ合衆国でトランプ大統領が出現した。国務長官テイラーソンとともに、ビジネス界の大成功者である。その他政権中枢に投資会社で成功したもの、ゴールドマン・サックス出身者など、だれがみてもビジネス・パーソンの支配であることは明らかであろう。これに軍人のトップが加わっている。アイゼンハウアー元大統領が、退任の演説で「軍・産複合体制」の支配について警告したが、今は産業を支配する金融が前面に出てきている。「軍・金複合」体制だ。官僚ではなく、軍であることは、アメリカの特殊事情によるものである。官僚は、大統領次第で入れ替わるからである。対立候補のヒラリー;クリントンについては、トランプが「ウォール街から献金を受けている」と暴露して、ヒラリーはビッグビジネスの側というイメージが定着した。こうなると、どちらが勝ってもビッグビジネスの支配という本質は変わらない。ここが重要なことで、市民革命以来、どこの国でもこういうことが起こっているのである。
もうひとつ重要なことがある。そうではありながら、そうではなさそうなことが起きる。そのなさそうなことに人々は引っ張られ、あたかも幽霊を現実のものと思い込むように信じ込んでしまう。それがトランプ政権についてもあった。それは白人中産階級の反乱という命題である。この運動を代表したのが「バノン大統領」とよばれた現象であった。つまり、バノンがトランプを選挙で勝たせた。つまり白人中産階級が勝利した。ある種の革命の様なものが出来た。さていよいよ彼らのための革新的政策だ。賛成、反対どちらの陣営も身構えた。しかしバノンは去り、軍金複合体制がホワイトハウスを支配した。つまり動産支配の本質に戻った。こういうことは、歴史の中でよく起こり、人々がその本質をよく知ることなしに、現象面だけが語り伝えられるために、支配の本質がわからなくなるのである。ここで確認しておきたいこと、「白人中産階級の反乱は幻想であった、ビッグビジネスの支配だけが続いた」、この考え方を歴史に応用しようとするのである。

2017年9月22日金曜日

十三 復古主義、民主主義、宗教、国家主義、民族主義が前面にでてくる。

大変革の時期であるから、様々な主義主張、イデオロギーが噴出する。その中で、その国の置かれた条件に当てはまったものが採用される。復古主義はイギリス、アメリカ、フランスで採用された。日本もそうであった。あちらは古代ローマ、こちらは古代天皇制であった。地球上にこれ以外の伝統を持つ国がないという意味では、日本は特殊な国であった。民主主義は古代アテネ、ローマを呼び起こすものであるが、ローマを持ち出せば、復古主義とのだきあわせで利用できる。そのため、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリアなどで採用され、多くの国に広がった。宗教支配という意味では、オランダ、クロムウエルのイギリスがピューリタンの宗教革命を伴った。民族主義としては、清朝時代の排満興漢の思想が国民革命のイデオロギーになったことにみられる。しかしこのようなものは、すべて時と条件にあわせてつくられたもので、普遍性ではなくて個別的なものに属する。そこに目をくらまされていては、事の本質が理解できない。本質とは、岩倉具視の言う「これからは金の世の中」であり、ラフィットのいう「さあ、いよいよ銀行家の天下だ」が、世界史の共通法則になる。

2017年9月21日木曜日

十二 新時代は支配の本質を隠そうとする。

市民革命の本質を見誤ることが多いのは、新時代の支配者が国民に正確な姿を知られたくないと思うからである。旧時代ならば、自分が住民をまもっているという姿を見せることができる。特に西洋諸国はそうである。しかし、新時代では、ビジネスで成功すれば支配者になれる。しかしそれが国民大衆から尊敬されるかどうかは疑問であろう。汚く儲けて、きれいに使えという言葉もある。金持ち喧嘩せずという言葉もある。流動資産はいつ盗まれるかわからない。だから、隠せるものは隠しておこうとなる。さらにもう一つの問題がある。これは特に、19世紀とそれ以前に市民革命を実現した国について言える。いつ外国から攻め込まれるかわからない。また周囲の貴族社会から、成り上がりものの集団と笑いものにされる。戦争となると、以前は支配者だけが戦った。今度は、自分らが責任持って戦いますといえるかどうか。それは無理というものでしょう。中産階級いかから人を募って、戦士にしなければならない。これらの人たちが、「所詮この世は金の世の中」という信念を持つと、戦って勝てるかというのである。唯一金持ちが尊敬される場合がある。それは冒険商人が必需品をもたらしてくれる場合である。オランダ、イギリス、ヴェネチア、アテネなどがそうである。こうして一般的には支配の本質を隠そうとする。之が分かりにくくしているのである。

2017年9月20日水曜日

十一 新時代の支配の形式は多様であり、そこに法則はない 

旧時代はどこの国も実質的な王政であり、支配者ははっきりしていた。むしろそれを押し出す傾向があった。これを倒した新時代では、さまざまな支配の形式を採用する。外見的復古主義、民主主義、それも制限選挙制と普通選挙制、一院制、二院制、個人崇拝にもとずく独裁、過渡期の三頭政治、などなど、これは誰もが知っているので、詳しく羅列する必要はない。そこには法則性はない、之だけを確かめておけば十分である。この確認が特に必要な国は、ほかならぬわが日本であろう。明治維新が市民革命に相当する、というと、「市民革命には民主主義が伴う。討幕から約二十年間民主主義は全くなかった。フランスにはブルジョア民主主義革命があった」と反論される。これを絶体と信じているから、こう人にそれ以上どう説得することができるかというのである。もはやお手上げという心境になったものである。しかし、フランスでも、ナポレオンが軍事クーデターで、議会を廃止して、独裁政権を樹立したのであった。これも市民革命後の国家形態である。イギリスのクロムウエル政権もそうである。むしろ積極的に「市民革命は独裁政権を作ることもありうる」と定義するべきであろう。こうすれば、ブルジョア民主主義革命は必須の条件ではなくなる。

2017年9月16日土曜日

外見的復古に惑わされるな

明治維新があたらしい世の中をを作ろうとしたのだというと、これは特に外国人が、しかも知日派の人たちですら、強硬に反対してくる。これでは、「フランス革命に遅れること40年で市民革命を達成した」といっても、聞く耳を持たぬということになってしまう。戦後しばらくの間、「世界には先進国、後進国、それにアルゼンチと日本があるな」どと言われていたが、これは日本がわけのわからぬ国としてきわだっていたことの証拠である。「新しいことをしようとするときに、古代天皇制のような古いものを持ち出してくるというような国が、いったいどこにあるのですか」。これはハーバード大学の日本研究家クレイグ教授の反論であった。これが大多数のヨーロッパ人の反論である。
これにたいするわたしの反論は、以下のようなものであった。これは日本人に覚えておいてほしい。フランス革命では、ナポレオンの執政政治、統領政治があるが、これはフランス語の「コンシュラ」の翻訳である。その語源は「コンスル」で、古代ローマ紀元前二回にわたって、三頭政治の形式で実現した。独裁制への移行過程に出てくる。次に、ナポレオンは皇帝になった。議会には上院と下院を設け、上院はフランス語で「セナ」と呼ばれた。これは古代ローマの「セナトウス」からきているもので、貴族を意味する。古代ローマもきぞく、近代のフランスでも貴族を集めたものになった。つまり、二千年前の古いものを持ち出して気ではないか。さらにいうと、アメリカ合衆国の憲法はどうか。古代ローマの皇帝制度と同じではないか。アメリカの上院議員をシネターというが、これも古代ローマのセナトウスの英語流の発音になる。もう一つ、イギリス革命の最も革命的であった時期、クロムウエルの軍事独裁政権が成立したが、その形式が「ロード・プロテクター」、「護国卿」「護民官」の制度であった。これもまた、古代ローマに現れた制度であった。西洋諸国も古いものを持ち出して新しい国家を作ったではないか。こう反論したところ、ぐっとつまって何も出てこなかった。そばで奥様、日本人、が聞いておられて「それはその通りじゃないの」と、嬉しそうに言われたのが印象的であった。

2017年9月15日金曜日

九 大塚史学の間違いを正す

1950年、昭和25年私が大学に入ったころ、どこからともなく大塚史学という言葉が聞こえてきた。これに心酔した友人が、大塚助教授の講義を聞きに行こうと誘ったことがある。大塚久雄、高橋幸八郎と、何度も繰り返していたから、自然に覚えてしまった。この理論が天皇制絶対主義説を正当化する有力な理論になる。要点はこうである。
貴族とブルジョアジーの勢力均衡のなかで、後者の部分を「前期的商業資本」と呼ぶ。前時代の支配者つまり封建支配者にすり寄り、庇護され、自分の中にもそうした要素を含みながら成長してきた大商人だからである。この部分がすでに、市民革命以前、王権の支柱として権力の側にいたかのように言う。これに対抗する「自生的産業資本、中小生産者」が市民革命のさなか、前期的商業資本または彼らが組織する大企業を打倒する。こういう変化があるので、イギリス、フランスは先進的であり、ドイツ、日本は後進的性格を持ったままであるという理論であった。当時のドイツ、日本はこの程度の位置づけであった。
この理論に疑問を感じたのは、フランスについての実証の根拠が事実に反しているのではないかというところからであった。イギリスの大塚、フランス高橋と研究分野が定まり、ともに学会の権威であった。その高橋幸八郎氏の著書の中で、前期的商業資本の組織する大企業として、アンザン炭鉱会社、ル・クルゾーが紹介されていた。これらが、フランス革命のさ中、「圧服」されたと書かれていた。そういうものかと思っていたところ、幕末、横須賀に造船所を作ったのがこのル・クルゾーであったことを知った。これで愕然とした。圧服されたものがどうして日本に造船所を作るのだ。フランス革命のあと、よみがえったのかなと思っていたところ、高橋教授のおとうと弟子中木康夫、名古屋大学教授、の著書で、「断絶、廃棄」となっていることを知った。そこで私が十年後「断絶していない、連続している」と主張し、その根拠を実証をともなって発表した。以来、大塚史学の断絶論、小林の連続論と位置づけられたが、私の本心では「そんなところに議論の本質はなく、市民革命の基本法則にこの問題は入ってこない」という程度のものであった。

2017年9月13日水曜日

亡命貴族の財産没収売却は土地革命にならなかった。

フランス革命の土地問題が紛らわしいのは、もうひとつ、ヴェルサイユの大貴族が革命に反対して、オーストりアその他に亡命し、外国軍とともにフランスに攻めてきたので、かれらの土地財産を没収、売却して、戦費に充てるという意味の政策が実施されたことにある。これを領主権の無償廃止と混同するから、土地革命説の誤解が出てきたのである。領主権廃止の後も、貴族は直営地をもち、城にも住んでいる。亡命貴族になると、この城と大規模な土地が没収された。これが売却されたとき、土地革命になったか、これを巡って多くの学者が実証的研究を行った。結果は違うというものであった。政府は軍資金を必要としている。少しでも高く売りたい。そこで入札、競売にかける。その時、土地のない農民が競り落とすことができるかというのである。フランス革命の第3段階でこの土地の細分競売が実施された。これでも、競争だから、貧民が入る余地はない。つぎに証券を渡してそれで最小単位の農地を手に入れることができるようにした。それでも競争には勝てない。最後に、ロベスピエール派と呼ばれる十人の議員が「まだ売れ残っている亡命貴族の土地を貧しい愛国者に無償で分け与える」という法令を提案して可決させた。これが1794年三月のことであった。しかしここまでで、その運動は止まった。実施に段階で、ひきのばしに出会った。フランス革命政府と議会の多数の反対に出会い、ロベスピエール派は粛清、殺害された。これがテルミドールの反革命と呼ばれる事件であった。だから、フランス革命では土地革命は実現されていない。なお、没収された土地については、約20年の後、「亡命貴族の10億フラン」という補償があり、時価で補償金をもらった。土地を取り上げられた大貴族は、それに見合うだけの金融資産の所有者に変わっただけのことであった。これで土地革命と言えるのかな、これが結論になる。日本の武士階級の解体のほうが、よほど徹底的であったといえる。つまり、フランス革命にはいわゆる土地革命はなかったという結論になる。

2017年9月8日金曜日

八 土地革命説の続 領主権廃止の効果

フランス革命では、領主権が二段階で廃止された。第一段階は1789年バスチーユ占領、ヴェルサイユ行進で国王ルイ十六世をパリに移し、ヴェルサイユの大領主、大貴族から権力を切り離し、国民議会、つまり旧三部会に権力の指導権をもたせたことであった。この時、領主権、封建的特権の有償廃止が公布された。ある部分、年貢,貢租ともいう、など、領主が土地を貸していた部分に対する封建地代は20年分ていどの一括支払いで廃止してやろうというものであった。これでは実質的には続くことになる。
第二段階、1792年、いわゆるジロンド派政権が成立した。この時にはジロンド派という言葉はなかった。王権停止、共和国の宣言、普通選挙に基づく国民公会の招集、国王一家の投獄などが普通の歴史書で書かれているが、この時に領主権、封建的特権の無償廃止が公布されたのであり、土地革命論ではこれが重要である。ところが、教科書や大学の講義では、之には触れていなかった。もう一年後だと書いていた。しかし実際にはこの年のことであった。
さて、領主権が無償で廃止されたらどうなる。日本人ならば、大名、武士は一気に転落、無収入、こういうことが本当に起きるのか。彼らは剣を持っている集団であり、政府はそれに対抗するだけの力を持っているのか。ありえない。そこで日本では、まず政府に領主権収入を集め、政府から従来どうりの権利を保障した。その後、段階的にその額を縮小した。つまり有償廃止である。これをもって、日本の改革は不徹底だったとまずほとんどの学者が主張していた。「フランス革命は徹底的だなあ」という感想である。
本当にそうか。実はここに、日本人のだれもが気が付かなかった事実があるのだ。西洋の領地は個人所有であった。大貴族は大領地を、小貴族は小領地をもっていた。それぞれの領地に直営地、直領地、「近くの土地」とよばれる土地があり、集落はその向こうにある。この近くの土地は貴族の個人財産とみなされ、領主権廃止の影響をうけない。つまり、領主権が無償で廃止されても、約半分の土地は残るのである。しかも、城、館の周辺にである。これでフランス革命以後でも貴族大土地所有が残ることになる。

2017年9月6日水曜日

フランスに貴族大土地所有が残存している。

まず社会科学の入口に入ったとき、平野義太郎の土地革命論に出会い、そんなものかなと思った。やがて「それにしては、あれはどうなる」という疑問が出てきた。フランス文学、オペラに出てくるフランス貴族は19世紀、城または館に住み、自分の土地を馬で駆け回り、パリに出ては豪遊をしている。「おかしい。フランス革命で失ったのではないか」。こうなると、どちらが正しいか決着をつけないといけない。まさか、小説やオペラ「椿姫」がないものを書いているとは思えない。とすれば、土地革命説がうそを言っていることになる。これについては、文学、芸術が科学的であり、社会科学が誇大妄想ということになるのではないか。こう考えたところで、「これは大変なもの相手に戦うことになる」と思った。まず身近な友人に話してみたところ、良い反応は帰ってこない。「そんな大それたことを言うのであれば、自分で実証してから言え」と、冷たい返事が返ってくる。これが全員の反応とみてよい。そこで事実を調べ始めた。様々な事実を原書から引き出し、異論の余地のないように集め、これも「フランス革命経済史研究」に載せた。現在、フランスにおける貴族大土地所有の残存を主張しても、当時ほどは反対されないであろう。テレビなどで、その実態が放映されている。だからこれは事実なのだ。だからこの部分については、当時の社会科学が間違っていたというしかない。こうして、「フランス革命でいわゆる土地革命はなかった」と言い始めたのであるが、「それなら領主権の無償廃止とか、亡命貴族財産の没収売却という法令はどうなる」と反論が出てきた。当然のことであって、これをすべて合理的に説明できないと、説得力はない。そこで更なる解明が続くことになるが、ついてきてくれる人が何人になるか、「よほど頭のよい人でないと無理だ」、こう私が弱気になるほど、内容が複雑になる。次回そこに入るので、なんとか忍耐力を持って読んでほしい。

2017年9月5日火曜日

八 土地革命説の間違いをただす

世界に広がった土地革命説 いままで紹介してきた絶対主義均衡説の誤りを正す努力をしたとして、すぐに別の反論がぶっつけられてくるのが目に見えている。それは土地革命説の側からである。「フランス革命では土地革命、農民革命が実現した。日本では、地主制が残存した。これでは封建制の名残が一掃されていないではないか」。つまり、日本資本主義は封建的せいかくをつよくひきずってきたのだが、フランスはそうではないと。私は先輩から、平野義太郎著「日本資本主義社会の機構」という本をもらった。「この本にすべてのことが書かれている。これが正しい」という。当時の初任給の3分の1くらいの価格で宝物のようであった。そこに「フランス革命では貴族の大土地所有を国有化の規模で収容し、これを農民に平等に分け与える」と書いてあった。これが正しいとすれば、天皇制絶対主義説が有利になる。反対する労農派もこれを認める。これではどうにもならない。私は、果たしてフランス革命でそのようなことが行われたのかと疑問をていするところから、この論争に決着をつけようとした。

2017年9月4日月曜日

絶体主義均衡説が科学的歴史観を歪め、日本史に誤解をもたらした

エンゲルスの書いた均衡説が19世紀ヨーロッパで多くの人たちに支持され、20世紀ソ連で政府公認の理論となり、日本社会に対する判断の根拠になった。これを32年テーゼという。天皇制絶対主義説であり、地主と財閥の勢力均衡を軸にしていた。反対する側もエンゲルスの理論には疑問を持たなかった。もし、均衡説が誤りであれば、この論争そのものが一気に崩れる。その決め手は、ヴェルサイユに集まった貴族たちが、領地を失っていたのか、それともその時点で領主であったのか、もしヴェルサイユから追放されたとき、失業者のようになるのか、それとも自分の領地にかえって領主としての生活ができるのかどうか、これが決め手になり、あとは実証の問題になる。私はこつこつと事実を集め、それは約十年後に出版した「フランス革命経済史研究」のなかで紹介することができた。ヴェルサイユの著名な大貴族がどのような領地をもっているか、その人がどのような官職を持っていたかなどの事実を網羅している。これで、絶対主義均衡説は間違いであることを証明できた。すると天皇制絶対主義説も間違いになる。それに反対してきた労農派も、根拠薄弱で、ピントが狂っていることになる。そうすると、日本の市民革命が戦後の改革に相当するかのように評価してきた学説は間違いとなり、明治維新がフランス革命に相当するものであるという側に正当性が出てくるのである。多少のエピソードを付け加えます。ルクセンブルグ大公、モナコ大公も当時ヴェルサイユに伺候していた。ルクセンブルグはフランス語読みで、リュクサンブールとなり、この名をつけた公園が今もパリにある。大貴族のトップはこういうもので、独立すれば小国の君主になりうるものでもあった。

2017年8月25日金曜日

絶対主義均衡説という大間違い 続の2

エンゲルスが絶対主義の均衡説を唱え、これが科学的歴史観の中で、絶対主義についての定理として扱われた。疑問を呈すると、科学的歴史観に反対するのかと批判される。マルクスはどういっているのかと考えた。そうすると、一か所だけ、それは、大土地支配者の王朝だったと書いている文章を見つけた。しかしそれ以上議論も論証もしていない。俗にマルクス、エンゲルスというけれども、絶対主議については意見が違う。エンゲルスの均衡説ならば、天皇制絶対主義説を正当化できるが、マルクスの意見ならば、明治以後の日本は絶対主義ではないということになる。そうすると労農派に賛成することになるが、肝心の労農派が均衡説そのものに間違いはないいうのだkから、労農派に賛成といっても、こちら側から袋だたきにされてしまう。友人のなかでこういうことを口にし始めたが、これは不用意にしゃべると危ない、まだ18歳の少年だ。庇護者もいない。つぶされてしまう。こう考えてやめようかと思ったが、これは重大な真理であって、これに障害を賭けても悔いはないのではないかと思い出した。もともと東大の理科に入ったのは、この分野での真理の探究で何事かをなすという意気込みであった。それが歴史科学、社会科学の熱気の中で向きを変えて、ここで絶体間違いのない基本法則を確立したいと考えた。まずはヴェルサイユの貴族たちがどこに大領地をもっているか、これを実証することが重要であった。

2017年8月23日水曜日

絶対主義均衡説という間違い 続

絶対主義均衡説が主張されたのは、約150年前ドイツ人エンゲルスがイギリスで書いた文章を人々が引用したことに始まる。絶対主義という言葉はもっと古く、フランスでは1600年代、イギリスでは1500年代に使われ、これは誰いうとなく広がった言葉であった。それ以前の、分権的ヨーロッパ諸国、分裂割拠の時代から、王権のもとで統一国家が形成された、国王の権力がかつてない水準に高まったことに、感覚的評価で「絶対主義」といったのである。
この絶対主義を、貴族は没落しかかり、ブルジョアジーは上昇しつつあり、両者の力が均衡に達したとき国王が官僚組織をもって、両者の上に立ち、絶対的な権力をふるうという学説であった。この学説は、当時盛んになった科学的歴史観のなかで、一大勢力を占めた。そこで、これに間違いはないと欧米諸国の有名教授たちが大学で講義したものであった。それから約100年の間に日本にも輸入され、全盛期を極めた。この理論は特に日本に強い影響を与えた。それは天皇制絶対主義説と言われるもので、「戦前の天皇制は絶対主義だ」という学説の根拠になった。これを言い出したのは旧ソ連で、それを受けて、これを信奉する学派と反対する学派に分かれて論争が続いた。いわゆる日本資本主義論争であった。私が大学に入ったときにはこれが花ざかりで、理科の授業に出席しているのに、右も左もこれをやっていて、どちらかの側に立った意見を言わないと馬鹿ではないかと笑われるような雰囲気であった。これにおされて、わたしも図書館で社会科学の本を読みだしたが、そうすると、「彼は勉強を始めた」という評判になった。いま思えばとんでもない話ではあるが、これが積み重なって、文転することになった。

2017年8月22日火曜日

六 絶対主義均衡説という大間違い

約150年前から科学的歴史観のなかに一つの真理のように主張されたものである。私の学生時代でも、有名教授が「絶対主義均衡説、そこに誤りがあるわけではない」と、まず話の糸口にするという風潮があった。日本の歴史学で,講座派対労農派の対立というのがあり、ほぼ全員がどちらかの側であったときにでも、この均衡説についてはどちらも賛成という状態であった。しかしこれが間違いのもとであった。フランス革命前、つまり旧体制をフランス絶対主義というが、これに均衡説をあてはめると、貴族とブルジョアジーの勢力均衡のうえに、国王と官僚が独自の勢力を築くということになる。そうするとその官僚は領主であっては困ることになる。そこで領地を失ったという理論になる。理屈が先に立って事実をゆがめてしまったのである。実際には、大領主が権力の主要部分を握っていたのである。

2017年8月20日日曜日

誤訳、誤解 日本人は西洋諸国の領地を誤解する

日本人に領地、領主権のことを西洋諸国と比較するために説明することは難しい。日本人が幕藩体制の領主権、領地だけがすべてだと思うからである。しかし、西洋諸国ではそうではない。たとえて言えば、戦国時代以前の日本の領主権の在り方だと思えばよい。大、中、小、の領主がいて、それぞれが個人所有であり、一つの地域の大領主をトップにたてて、中、小、の領主が集まる。しかし、領地の所有権はそのままになっている。じつは、西洋諸国はこれなのである。だから比較はしやすい。日本に一国一城令が出て、藩単位に領主権が統合され、藩主が統合された領主権を代表し、家禄を与えるという形式で、領主権の再分配を行った。これはある意味では、藩単位の国有化政策といえる。日本の歴史上にこのようなものはあったのかとおもうかもしれないが、じつは律令制、班田収授法がこれに相当する。等しく土地を与えるとは言うけれども、位田,職田を設けて、以前の大土地所有を保証したのである。このようなことを考え合わせて比較考察すると、どちらの国でも、土地を支配する者が権力を組織していたという一点で共通点を見出すことができる。

2017年8月19日土曜日

誤訳、誤解、ヴェルサイユ城の実態

ヴェルサイユには3000の大領主が集まっていた。この大領主という言葉は、固有名詞として使われていた。つまり、それぞれの地域を代表する大領主がヴェルサイユに集まり、国王に忠誠を誓うことにより、国家の統一が維持されていたのである彼らが離反すれば、国家は分裂する。かれらは古い家系を維持していた。日本と違って、両親ともに家系が証明されなければならない。
また女性に相続権がある。同じ言葉でも、伯爵夫人の場合もあれば、女性伯爵の場合もあった。女性伯爵は当然自分の大領地をもっていたのである。男性の大領主は腰に剣をつけていたから、剣のきぞくともよばれた。月給だけの貴族ではない。またヴェルサイユ城を出ると、自分の邸宅にかえるが、そこにはちょくぞくの貴族、戦士がいた。これなら、日本の江戸城に似ているではないか。

2017年8月16日水曜日

誤訳、誤解続 ヴェルサイユの実態

城か宮殿か、これは重要なことである。城なら武装した戦士が集まるところ。宮殿なら国王の住所、出入りするのは使用人、日本ならば宮内庁の職員、解雇されたら、無収入になる者たちである。この意識で「フランスの宮廷貴族は領地を失って王のまわりにあつまった貴族であった」と、大学の授業で、有名教授が講義なさっていた。私も聞いて、ふむふむと思っていた。つまり、サラリーマン貴族だ。それなら、旧体制のフランスと、明治以後の日本が同列に並ぶ。あるとき、フランス文学を読んでいるときに、そうではなくて、ヴェルサイユの貴族たちは、フランスのどこかに大領地をもっているのではないかと思い出した。ある貴婦人が自分の領地に帰り、ヴェルサイユに戻ってきたとき、「あああの懐かしい臭いがする」といった。つまり、この貴婦人は、自分の領地とヴェルサイユをいったりきたりしている。それなら、日本の参勤交代と同じではないか。これは一度実証してみる価値がある。こういうところが、私の研究の原点であった。

2017年8月15日火曜日

誤訳、誤解続 ヴェルサイユ宮殿かヴェルサイユ城か

フランス語では、ルシャトー ド ヴェルサイユという。直訳すればヴェルサイユ城となる。最初からこうしておけば、歴史学上の混乱はすくなくてすんだはずである。なぜなら、「ああ、江戸城と同じ」と思うからである。それを宮殿と訳し、日本語に定着させたから、日本中に誤解がひろがった。宮殿ならば、明治以後の皇居と同じようなものと思われ、社会状態も旧体制のフランスと明治以後のの日本が同じと思われる。

2017年8月13日日曜日

誤訳その2

旧体制についての誤訳もある。日本の武士階級を外国ではさむらいと訳す。これが最大の誤解で、これを使って相互理解理解を図ることは不可能である。さむらいとは主人に仕える武士のことであり、江戸城に詰めている武士はさむらいでなく、、大名と上級旗本であり、家来に指示を出すがわになる。この存在が全く説明できない。西洋の戦士はノーブルつまり貴族と言われる。日本の公家が貴族と権訳されている。これでは誤解だらけになる。正しくは、武士階級を日本の貴族と翻訳するべきである

2017年8月9日水曜日

六 誤訳そのニ 市民革命という言葉

 この言葉は、日本で盛んに使われているが、イギリス、フランス、アメリカではつかわれていない。むりに使うと感情的にいやがられ、対話にならない。この言葉は、ドイツ語から来たものである。ビュルガリッヘ レヴォルチオン、これを日本語にしたものである。それに間違いはないが、市民の定義に問題がある。今は、皆が市民である。この感覚で考えると間違いが起きる。中世以来、城壁都市があり、それをブルグといった。実際の発音はバーグに近い発音である。つまり、ハンブルグもハンバーグも同じことであり、 実際の発音はその中間にある。
このブルグに住む人をブルガーと言い、その複数形がビュルガーとなる。フランス語ではブルジョアとなり、その一般形がブルジョアジーとなる。英語にはこの言葉がない。ブルグが無いからである。だから、アメリカ人も使わない。フランス人はブルジョア革命という言葉を嫌う。このため、この問題を彼らと話し合うことが困難なままである。
さらなる問題がある。城壁都市の住民すべてが市民かというとそうではない。ずばりいうと、金持ちだけが市民であった。後の住民は無権利状態であった。日本でも、集合住宅としての長屋の住人は町人ではなく、大家さんは町人であり、その上のほうを見ると、三井家の主人などに行き着く。そうなってくると、話が違ってくる。ドラクロワの自由の女神を思い出してほしい。女神と武装した人は別だ。現実に戦う人と、それを導いていく人は別ではないか、こうかんがえると、なにかヒントはでてきませんか。

2017年8月8日火曜日

六 誤訳が誤解ヲ招いている、その一

明治維新を英語に翻訳すると、レストレーションとなり、フランス語ではレストラシオンとなる。政党としての維新の会ができたとき、西洋ではこれをこのように報道した。かれらが明治維新を紹介するとき、明治レストレーションという。そうすると、彼らはえらく古いものがでてきたと思う。イギリス、フランスでは、この言葉が革命で倒された旧政権の復活を意味するからである。フランスでは約二十五年目、1815年ナポレオンが敗北して、王政が復活した。このことをいう。それならば、徳川幕府が倒れて,二、三十年目にゆりもどしがあって、復活したとき、これをそういえばよいのである。維新という言葉には、新しいものを続けるという内容があるだけであり、古いものを脱ぎ捨てるという決意のほうが強かったのである。このあたりの誤解が、とくにイギリス人、フランス人、アメリカ人につよい。これは困ったものである。

2017年8月7日月曜日

世界各国における市民革命の時点

オランダ独立戦争、現地ではネーデルラント自由戦争という、が市民革命の先駆といわれるがこれは正しい。そうではないという学説が一つあるが、それは間違いである。それ以後、イギリス革命、ピューリタン革命と名誉革命、アメリカ独立革命と南北戦争、フランス大革命と七月革命、と続き、次にドイツ三月革命とドイツ統一戦争がそれになる。さらに、ここにイタリアと我が国日本が加わる。前者はリソルジメントと呼ばれるイタリア統一戦争、後者は1868年の討幕戦争と1871年の廃藩置県であった。その他の国は、20世紀に入ってからということになる。
つまり、日本はドイツ、イタリア並だというのであり、これが正しい位置づけになる。古代、中世にも限られた地域でのみの市民革命はあった。国家とは言えないほどの小さい地域、山、水、砂漠、草原に囲まれた地域、城壁都市などである。スイス、ヴェネチア、フィレンツエ、ㇻ・ロシエル、サマルカンドなど国際貿易の重要拠点であった。戦国時代の堺もその列に加わることができるだろう。これらの地域では、貿易商人、金融業者が権力の中心にいた。ただし、国家的規模の権力を握ることはなかった。逆に小国の悲しさで、征服されて滅ぶこともあったのである。

2017年7月26日水曜日

四、それ以前は土地、家柄の時代である。

前近代社会は土地支配の上になりたっていた。日本の江戸時代、幕藩体制といわれ、徳川の本家が七百万石、関東一円と各地方の天領を支配していた。つぎに親藩、連枝、譜代の大名領があり、ここまでが政権を支える勢力であった。全国の土地収入の三分の二に相当する。残りが中立、やむを得ず服従の大名領であった。
領地のなかで、武士と呼ばれる戦士の集団が、それぞれの持ち分を世襲の権利としてもっていた。いわば集団所有ふぇある。
フランスの前近代社会では、ヴェルサイユ城に三千人の大領主が集まり、政権を組織していた。つぎに日本のような集団所有はなく、領地は個人のものであった。大、中、小の領主がいて、これらが戦士、貴族であり、剣を持つ。日本の武士と同じである。
こうした土地万能の社会を破壊したあとに来るものが、近代社会である。

2017年7月23日日曜日

三、新時代を象徴する一言

1830年の7月革命で首相になった銀行家のラフィットは、新国王ルイーフィリップを迎えて、「さあ、いよいよ銀行家の天下だ」といった。その後の十数年は、オートバンクの専制政治立ったと言われる。上層銀行という意味である。
新国王は財布の王と翻訳されるが、これは誤訳で、もとのフランス語は、証券取引所といういみである。これを見るだけでも、新時代の支配者集団は誰かが納得できるだろう。
日本では、明治維新、討幕の直後、岩倉具視が西園寺公望に「これからは、いちにもににも金の世の中、いまなら土佐屋敷が安く手に入る。これを買いなさい。きっ
とおためになる」といった。西園寺公望はやがて住友家と縁組みをして、首相、元老として、第二次大戦まで権力を動かすことになる。

2017年7月21日金曜日

二不動産支配と動産支配の違い

前時代の支配者は不動産、すなわち土地支配のうえにたち、新時代の支配者は動産支配のうえにたつ。もちろん、両者共同で支配するということもありうるが、指導権争いの結果どちらかが勝利する。

2017年7月19日水曜日

1近代市民革命の基本法則

近代市民革命の基本法則とは、大土地所有者の集団の権力を破壊し、実業家の集団が新権力を組織することである。