2017年10月2日月曜日

続 ナポレオンを擁立した銀行家、ペルゴとルクツー

この二人の銀行家がナポレオンの権力を作り出したといってよい。これは命を懸けた問題であって、一つ間違えば敵前逃亡とみなされ、銃殺に値する行為であった。それを成功に導くように本国でお膳立てしたこの二人は、どういう人物であったのか。
ペルゴは旧体制の下でパリの銀行家として成功していた。個人の投資銀行であるが、年下の共同経営者を持っていた。それがラフィットで、1830年7月革命のあと首相になり、いよいよ銀行家の天下だといった人である。ペルゴはフランス革命がはじまると、ラファイエットの副官になって、革命政権の中枢に入り込んだ。ラファイエットは侯爵・大領主、16歳でヴェルサイユ城にデビュー、王妃マリー・アントアネットがダンスの相手をしてやろうといってくれたくらいの名門貴族ではあるが、この時は革命の側に就いた。国民衛兵司令官と言って、国王軍の攻撃に対してパリを守るために組織された市民軍であった。つまりいきなり権力を握るのではなくて、まずは旧体制の名門で理解のある大貴族を立てて、影に隠れて実権を握るというやり方である。その後はどのような政権が出てきても、常に協力する。最も過激な政権ができた時でも、全面協力した。そのため公安委員会の銀行家ともいわれた。それでいて、失脚、粛清されることがない。珍しい人物である。
ルクツーは二人いて、ルクツー・ド・カントルー、ルクツー・ド・ラ・ノレーとなる。一族でそれぞれ領地を持っていて、領地の名が後ろについている。つまり貴族であるが、本来は銀行家、貿易商人とくにアメリカニユー・オーリンズとのあいだに貿易船を動かしていた。つまりブルジョア貴族であった。ヴェルサイユ城には入れない。生涯に一、二回大貴族の紹介で王に面会できる程度であった。今問題になるのは、カントルーのほうである。フランス革命の出発点は、国王軍がパリ制圧を目指して侵入したとき、市民軍がこれを迎え撃って撃退したときであるといわれる。この時、ルクツーはパリ守備隊の兵舎に出向いて、自分らの側についてくれたら給料を払うと演説した。じつはこの時、兵舎にはお金がなくて、飢え死にしそうな状態であった。こうして職業軍人を革命の側に合流させた。こういうものがないと、戦闘にはなかなか勝てない。フランス革命というと民衆の蜂起だと思われているが、ルクツーの行為は軍人と銀行家の結合という側面になる。1792年王宮の襲撃、ルイ16世の逮捕という事件のときも、銃を持って参加したというから、なかなか戦士としての性格も持っている。こういうのを日本語では侠商という。しかしその後、こんどは国王の処刑に反対するような言動がたたって、逮捕投獄され、処刑を待つ身になった。運よくテルミドールの変があり釈放された。その何年かのち,ナポレオンと出会うことになる。「たぶんイタリア人であろうが、今後はああいうことはしないといっていた」と書いている。つまり恐怖政治はしないというのである。これがナポレオンに期待した理由であろう。こうして、二人の銀行家が、ナポレオンに期待したのであった。

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