2017年8月25日金曜日

絶対主義均衡説という大間違い 続の2

エンゲルスが絶対主義の均衡説を唱え、これが科学的歴史観の中で、絶対主義についての定理として扱われた。疑問を呈すると、科学的歴史観に反対するのかと批判される。マルクスはどういっているのかと考えた。そうすると、一か所だけ、それは、大土地支配者の王朝だったと書いている文章を見つけた。しかしそれ以上議論も論証もしていない。俗にマルクス、エンゲルスというけれども、絶対主議については意見が違う。エンゲルスの均衡説ならば、天皇制絶対主義説を正当化できるが、マルクスの意見ならば、明治以後の日本は絶対主義ではないということになる。そうすると労農派に賛成することになるが、肝心の労農派が均衡説そのものに間違いはないいうのだkから、労農派に賛成といっても、こちら側から袋だたきにされてしまう。友人のなかでこういうことを口にし始めたが、これは不用意にしゃべると危ない、まだ18歳の少年だ。庇護者もいない。つぶされてしまう。こう考えてやめようかと思ったが、これは重大な真理であって、これに障害を賭けても悔いはないのではないかと思い出した。もともと東大の理科に入ったのは、この分野での真理の探究で何事かをなすという意気込みであった。それが歴史科学、社会科学の熱気の中で向きを変えて、ここで絶体間違いのない基本法則を確立したいと考えた。まずはヴェルサイユの貴族たちがどこに大領地をもっているか、これを実証することが重要であった。

2017年8月23日水曜日

絶対主義均衡説という間違い 続

絶対主義均衡説が主張されたのは、約150年前ドイツ人エンゲルスがイギリスで書いた文章を人々が引用したことに始まる。絶対主義という言葉はもっと古く、フランスでは1600年代、イギリスでは1500年代に使われ、これは誰いうとなく広がった言葉であった。それ以前の、分権的ヨーロッパ諸国、分裂割拠の時代から、王権のもとで統一国家が形成された、国王の権力がかつてない水準に高まったことに、感覚的評価で「絶対主義」といったのである。
この絶対主義を、貴族は没落しかかり、ブルジョアジーは上昇しつつあり、両者の力が均衡に達したとき国王が官僚組織をもって、両者の上に立ち、絶対的な権力をふるうという学説であった。この学説は、当時盛んになった科学的歴史観のなかで、一大勢力を占めた。そこで、これに間違いはないと欧米諸国の有名教授たちが大学で講義したものであった。それから約100年の間に日本にも輸入され、全盛期を極めた。この理論は特に日本に強い影響を与えた。それは天皇制絶対主義説と言われるもので、「戦前の天皇制は絶対主義だ」という学説の根拠になった。これを言い出したのは旧ソ連で、それを受けて、これを信奉する学派と反対する学派に分かれて論争が続いた。いわゆる日本資本主義論争であった。私が大学に入ったときにはこれが花ざかりで、理科の授業に出席しているのに、右も左もこれをやっていて、どちらかの側に立った意見を言わないと馬鹿ではないかと笑われるような雰囲気であった。これにおされて、わたしも図書館で社会科学の本を読みだしたが、そうすると、「彼は勉強を始めた」という評判になった。いま思えばとんでもない話ではあるが、これが積み重なって、文転することになった。

2017年8月22日火曜日

六 絶対主義均衡説という大間違い

約150年前から科学的歴史観のなかに一つの真理のように主張されたものである。私の学生時代でも、有名教授が「絶対主義均衡説、そこに誤りがあるわけではない」と、まず話の糸口にするという風潮があった。日本の歴史学で,講座派対労農派の対立というのがあり、ほぼ全員がどちらかの側であったときにでも、この均衡説についてはどちらも賛成という状態であった。しかしこれが間違いのもとであった。フランス革命前、つまり旧体制をフランス絶対主義というが、これに均衡説をあてはめると、貴族とブルジョアジーの勢力均衡のうえに、国王と官僚が独自の勢力を築くということになる。そうするとその官僚は領主であっては困ることになる。そこで領地を失ったという理論になる。理屈が先に立って事実をゆがめてしまったのである。実際には、大領主が権力の主要部分を握っていたのである。

2017年8月20日日曜日

誤訳、誤解 日本人は西洋諸国の領地を誤解する

日本人に領地、領主権のことを西洋諸国と比較するために説明することは難しい。日本人が幕藩体制の領主権、領地だけがすべてだと思うからである。しかし、西洋諸国ではそうではない。たとえて言えば、戦国時代以前の日本の領主権の在り方だと思えばよい。大、中、小、の領主がいて、それぞれが個人所有であり、一つの地域の大領主をトップにたてて、中、小、の領主が集まる。しかし、領地の所有権はそのままになっている。じつは、西洋諸国はこれなのである。だから比較はしやすい。日本に一国一城令が出て、藩単位に領主権が統合され、藩主が統合された領主権を代表し、家禄を与えるという形式で、領主権の再分配を行った。これはある意味では、藩単位の国有化政策といえる。日本の歴史上にこのようなものはあったのかとおもうかもしれないが、じつは律令制、班田収授法がこれに相当する。等しく土地を与えるとは言うけれども、位田,職田を設けて、以前の大土地所有を保証したのである。このようなことを考え合わせて比較考察すると、どちらの国でも、土地を支配する者が権力を組織していたという一点で共通点を見出すことができる。

2017年8月19日土曜日

誤訳、誤解、ヴェルサイユ城の実態

ヴェルサイユには3000の大領主が集まっていた。この大領主という言葉は、固有名詞として使われていた。つまり、それぞれの地域を代表する大領主がヴェルサイユに集まり、国王に忠誠を誓うことにより、国家の統一が維持されていたのである彼らが離反すれば、国家は分裂する。かれらは古い家系を維持していた。日本と違って、両親ともに家系が証明されなければならない。
また女性に相続権がある。同じ言葉でも、伯爵夫人の場合もあれば、女性伯爵の場合もあった。女性伯爵は当然自分の大領地をもっていたのである。男性の大領主は腰に剣をつけていたから、剣のきぞくともよばれた。月給だけの貴族ではない。またヴェルサイユ城を出ると、自分の邸宅にかえるが、そこにはちょくぞくの貴族、戦士がいた。これなら、日本の江戸城に似ているではないか。

2017年8月16日水曜日

誤訳、誤解続 ヴェルサイユの実態

城か宮殿か、これは重要なことである。城なら武装した戦士が集まるところ。宮殿なら国王の住所、出入りするのは使用人、日本ならば宮内庁の職員、解雇されたら、無収入になる者たちである。この意識で「フランスの宮廷貴族は領地を失って王のまわりにあつまった貴族であった」と、大学の授業で、有名教授が講義なさっていた。私も聞いて、ふむふむと思っていた。つまり、サラリーマン貴族だ。それなら、旧体制のフランスと、明治以後の日本が同列に並ぶ。あるとき、フランス文学を読んでいるときに、そうではなくて、ヴェルサイユの貴族たちは、フランスのどこかに大領地をもっているのではないかと思い出した。ある貴婦人が自分の領地に帰り、ヴェルサイユに戻ってきたとき、「あああの懐かしい臭いがする」といった。つまり、この貴婦人は、自分の領地とヴェルサイユをいったりきたりしている。それなら、日本の参勤交代と同じではないか。これは一度実証してみる価値がある。こういうところが、私の研究の原点であった。

2017年8月15日火曜日

誤訳、誤解続 ヴェルサイユ宮殿かヴェルサイユ城か

フランス語では、ルシャトー ド ヴェルサイユという。直訳すればヴェルサイユ城となる。最初からこうしておけば、歴史学上の混乱はすくなくてすんだはずである。なぜなら、「ああ、江戸城と同じ」と思うからである。それを宮殿と訳し、日本語に定着させたから、日本中に誤解がひろがった。宮殿ならば、明治以後の皇居と同じようなものと思われ、社会状態も旧体制のフランスと明治以後のの日本が同じと思われる。

2017年8月13日日曜日

誤訳その2

旧体制についての誤訳もある。日本の武士階級を外国ではさむらいと訳す。これが最大の誤解で、これを使って相互理解理解を図ることは不可能である。さむらいとは主人に仕える武士のことであり、江戸城に詰めている武士はさむらいでなく、、大名と上級旗本であり、家来に指示を出すがわになる。この存在が全く説明できない。西洋の戦士はノーブルつまり貴族と言われる。日本の公家が貴族と権訳されている。これでは誤解だらけになる。正しくは、武士階級を日本の貴族と翻訳するべきである

2017年8月9日水曜日

六 誤訳そのニ 市民革命という言葉

 この言葉は、日本で盛んに使われているが、イギリス、フランス、アメリカではつかわれていない。むりに使うと感情的にいやがられ、対話にならない。この言葉は、ドイツ語から来たものである。ビュルガリッヘ レヴォルチオン、これを日本語にしたものである。それに間違いはないが、市民の定義に問題がある。今は、皆が市民である。この感覚で考えると間違いが起きる。中世以来、城壁都市があり、それをブルグといった。実際の発音はバーグに近い発音である。つまり、ハンブルグもハンバーグも同じことであり、 実際の発音はその中間にある。
このブルグに住む人をブルガーと言い、その複数形がビュルガーとなる。フランス語ではブルジョアとなり、その一般形がブルジョアジーとなる。英語にはこの言葉がない。ブルグが無いからである。だから、アメリカ人も使わない。フランス人はブルジョア革命という言葉を嫌う。このため、この問題を彼らと話し合うことが困難なままである。
さらなる問題がある。城壁都市の住民すべてが市民かというとそうではない。ずばりいうと、金持ちだけが市民であった。後の住民は無権利状態であった。日本でも、集合住宅としての長屋の住人は町人ではなく、大家さんは町人であり、その上のほうを見ると、三井家の主人などに行き着く。そうなってくると、話が違ってくる。ドラクロワの自由の女神を思い出してほしい。女神と武装した人は別だ。現実に戦う人と、それを導いていく人は別ではないか、こうかんがえると、なにかヒントはでてきませんか。

2017年8月8日火曜日

六 誤訳が誤解ヲ招いている、その一

明治維新を英語に翻訳すると、レストレーションとなり、フランス語ではレストラシオンとなる。政党としての維新の会ができたとき、西洋ではこれをこのように報道した。かれらが明治維新を紹介するとき、明治レストレーションという。そうすると、彼らはえらく古いものがでてきたと思う。イギリス、フランスでは、この言葉が革命で倒された旧政権の復活を意味するからである。フランスでは約二十五年目、1815年ナポレオンが敗北して、王政が復活した。このことをいう。それならば、徳川幕府が倒れて,二、三十年目にゆりもどしがあって、復活したとき、これをそういえばよいのである。維新という言葉には、新しいものを続けるという内容があるだけであり、古いものを脱ぎ捨てるという決意のほうが強かったのである。このあたりの誤解が、とくにイギリス人、フランス人、アメリカ人につよい。これは困ったものである。

2017年8月7日月曜日

世界各国における市民革命の時点

オランダ独立戦争、現地ではネーデルラント自由戦争という、が市民革命の先駆といわれるがこれは正しい。そうではないという学説が一つあるが、それは間違いである。それ以後、イギリス革命、ピューリタン革命と名誉革命、アメリカ独立革命と南北戦争、フランス大革命と七月革命、と続き、次にドイツ三月革命とドイツ統一戦争がそれになる。さらに、ここにイタリアと我が国日本が加わる。前者はリソルジメントと呼ばれるイタリア統一戦争、後者は1868年の討幕戦争と1871年の廃藩置県であった。その他の国は、20世紀に入ってからということになる。
つまり、日本はドイツ、イタリア並だというのであり、これが正しい位置づけになる。古代、中世にも限られた地域でのみの市民革命はあった。国家とは言えないほどの小さい地域、山、水、砂漠、草原に囲まれた地域、城壁都市などである。スイス、ヴェネチア、フィレンツエ、ㇻ・ロシエル、サマルカンドなど国際貿易の重要拠点であった。戦国時代の堺もその列に加わることができるだろう。これらの地域では、貿易商人、金融業者が権力の中心にいた。ただし、国家的規模の権力を握ることはなかった。逆に小国の悲しさで、征服されて滅ぶこともあったのである。