2018年8月15日水曜日

その時桂小五郎はどこにいたか、禁門の変以後

2018年8月12日、NHKの大河ドラマで、西郷隆盛が桂小五郎と出会い、幕府を倒さなければならないという意見を口にするという場面がありました。ドラマだから、どう書こうが問題はないのですが、この時、桂小五郎がどこにいたのかは、ほとんどの人が知りません。だから一言。
逃げの小五郎、遅れの小五郎、池田屋の変で有力な尊王攘夷の志士たちが新選組に切られた時、彼は遅れてやってきて、難を逃れました。禁門の変の時は、長州軍の中にいて、京都突入に反対しました。久坂玄瑞も反対、突入は時期尚早、こういう意見でしたが、「医者、坊主に戦争のことがわかるか」と反論され、押し切られました。これで長州軍は突入しました。
久坂は医者、桂は坊主ということです。つまり桂は、正規の武士ではなく、養子なので、血筋DNAでは武士とはみなされなかったのです。こういう人は意外に多いのです。坂本龍馬、勝海舟、藤田東湖などもそうです。もちろん、戦国大名の多くはそうですから、あまりめくじらを立てる必要はありません。しかし、当時の同僚からはそうみられている、それが重要で、人一倍努力する、そのことで、文武両道の達人になりました。新選組の局長近藤勇ですら恐れを感じたといいます。
しかし禁門の変では戦った記録はない。姿が消えるのです。敗残兵は長州に帰ります。桂はどこへ行ったか分からない。こういう状態が続きます。何処にいたか。まず、但馬の国、兵庫県養父郡養父町養父市場、ここの浄土宗のお寺にかくまわれます。ここが天領なので、徳川家の宗派のお寺になります。これから2,3分の距離に、郡代官所がありました。随分危ない話ですが、当時牛市場があり、街道筋の旅人が出入りしていたので、木は森の中に隠せという理屈でしょう。この郡代官所の隣が、私の祖父の家でした。小さいときから、この話はよく聞かされました。
やがて、危なくなります。姿を消します。今度は、但馬の国出石町の商人、金物屋にかくまわれます。ここでしばらく潜伏しておるうちに、第一時長州征伐は終わり、長州藩の内戦、高杉晋作の側の勝利となり、武備恭順の段階に入ります。ところが肝心の高杉晋作は、下関開国論を口にして、攘夷派の怒りを買い、逃げ出します。こうなると、長州をまとめるものがいない。困り切って、桂はどこにいるか、こういうことで探し当てられて、連れ戻されます。それ以後、長州藩の中心で人をまとめ、西郷と協力して同盟を結びます。
ところで、この出石ですが、ここの藩主が仙谷家で、私の祖母の祖母が仙谷騒動時代のお姫様であったと、言い伝えられ、肖像画の中に私とよく似たひとがいると私の母が言っていました。多少の縁がありそうです。
それはともかく、桂が純粋の武士ではない、これが武士と商人の同盟による明治維新の実現の中で、彼の動向を決めた要因になったのでしょう。この点は今後詳しく書きます。

2018年8月6日月曜日

西郷隆盛はなぜ禁門の変で長州軍を撃退したか

歴史家がわからずに書いている代表的な問題であります。来島又兵衛率いる長州軍が、御所を守る会津藩兵を撃破して、御所になだれ込もうとした時、西郷隆盛率いる薩摩藩兵が発砲して、来島は戦死、長州軍は敗北します。なぜ西郷隆盛は発砲命令を出したか。これが誰にもわかっていない。ことしのNHK連続テレビを見てもあいまいで、本心がわからない。実は、本人は「きんけつしゅご」、つまり御所を守るためだと書き残している。「それは本当」と探りを入れると、「実はそうでもない」という答えが返ってくるはず。
では本心は。長州軍の主流派は、尊王攘夷派であった。天皇を囲んで、政権を握ると、その命令の下、攘夷戦を行うという使命感を持っていた。大体の構想としては、西日本を天皇の直轄地として、東日本は幕府に任せるというものであった。西日本には幕府の領地は少ないから、幕府の死活問題にはならない。薩摩にとっても、この問題で、賛成、反対はない。
では、発砲せざるを得ない対立点は何か。それは「攘夷」の問題であった。すでに薩摩は、この二年前に、イギリス軍と戦争をして、講和条約を結び、貿易を始めていた。このことを長州藩士は知っていた。そこで、薩摩の商船が関門海峡を通過しようとした時、砲撃を加えて、炎上させた。「関はよいしょこしょの、前田の海よ、うまくやけます、さつまいも」。
この点について、西郷隆盛は「暴人」と書いている。これが中央で権力を握ったら、全国的にこれをやりだす。薩摩のみならず、外国の船に向かって攻撃を加えることになる。つまり攘夷戦になる。これはまずいでしょう。というので、発砲を命じた。しかし、薩摩藩兵の中にも、まだ攘夷派はいる。だからはっきりと本心を言うわけにはいかない。ゆえにあいまいなのです。
次に長州征伐となり、講和を結んで帰京するころに、長州では、高杉晋作の挙兵で開国容認の政権ができた。そうすると、両藩が対立する条件が消えていく。それに加えて、商人層の警戒感が薄れる。両藩の同盟と、それに対する大商人の資金協力という構図が出来上がり、討幕の見通しが立つことになる。こうした事件の渦中にいる西郷隆盛は、いちいち本心を言うわけにはいかないのです。そこのところを勝海舟は「落としどころをよく知っている」と評価するのです。