2018年8月6日月曜日

西郷隆盛はなぜ禁門の変で長州軍を撃退したか

歴史家がわからずに書いている代表的な問題であります。来島又兵衛率いる長州軍が、御所を守る会津藩兵を撃破して、御所になだれ込もうとした時、西郷隆盛率いる薩摩藩兵が発砲して、来島は戦死、長州軍は敗北します。なぜ西郷隆盛は発砲命令を出したか。これが誰にもわかっていない。ことしのNHK連続テレビを見てもあいまいで、本心がわからない。実は、本人は「きんけつしゅご」、つまり御所を守るためだと書き残している。「それは本当」と探りを入れると、「実はそうでもない」という答えが返ってくるはず。
では本心は。長州軍の主流派は、尊王攘夷派であった。天皇を囲んで、政権を握ると、その命令の下、攘夷戦を行うという使命感を持っていた。大体の構想としては、西日本を天皇の直轄地として、東日本は幕府に任せるというものであった。西日本には幕府の領地は少ないから、幕府の死活問題にはならない。薩摩にとっても、この問題で、賛成、反対はない。
では、発砲せざるを得ない対立点は何か。それは「攘夷」の問題であった。すでに薩摩は、この二年前に、イギリス軍と戦争をして、講和条約を結び、貿易を始めていた。このことを長州藩士は知っていた。そこで、薩摩の商船が関門海峡を通過しようとした時、砲撃を加えて、炎上させた。「関はよいしょこしょの、前田の海よ、うまくやけます、さつまいも」。
この点について、西郷隆盛は「暴人」と書いている。これが中央で権力を握ったら、全国的にこれをやりだす。薩摩のみならず、外国の船に向かって攻撃を加えることになる。つまり攘夷戦になる。これはまずいでしょう。というので、発砲を命じた。しかし、薩摩藩兵の中にも、まだ攘夷派はいる。だからはっきりと本心を言うわけにはいかない。ゆえにあいまいなのです。
次に長州征伐となり、講和を結んで帰京するころに、長州では、高杉晋作の挙兵で開国容認の政権ができた。そうすると、両藩が対立する条件が消えていく。それに加えて、商人層の警戒感が薄れる。両藩の同盟と、それに対する大商人の資金協力という構図が出来上がり、討幕の見通しが立つことになる。こうした事件の渦中にいる西郷隆盛は、いちいち本心を言うわけにはいかないのです。そこのところを勝海舟は「落としどころをよく知っている」と評価するのです。

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