2018年12月14日金曜日

西郷隆盛対大隈重信で説明すると、明治維新がよくわかる、小林良彰の歴史観

西南戦争になると、テレビでも歴史書でも、大久保利通対西郷隆盛の対決で歴史が語られる。西郷隆盛の背後には、不平士族の一団が控えている。これは誰にでもわかる。大久保の背後は、これは誰も言わない。大久保、岩倉、三条、天皇については言う。しかしこれでは、圧倒的な兵力をどうやって動かしたのかが説明できない。
大久保は西郷の死の直後暗殺される。西郷の死で、不平士族の運動は消滅した。ならば、大久保の死で、大久保の路線も消滅したのか。そうではなく、伊藤博文が後任になって、何事もなく政府は続いた。つまり、政府の側は、大久保がいてもいなくても大して変わることはないのだ。変化があったとすれば、内務卿、内務省の重みが、少し下がり、その分大隈重信の発言力が強まったということだろう。
これからの4年間は、大隈の時代といってもよい。つまり大久保がいなくなると、大隈が引き継ぐ。この二人の背後に何があるのかということ、ここに疑問を持たなければならないだろうが、その疑問を持つ人が、日本にはいない。私は60年前にその疑問を持った。持ちさえすればすぐにわかる。財界、実業家集団、日本ブルジョアジーである。
大隈重信の略歴をまとめる。佐賀藩士、伝統的学問に疑問を持ち、さらに蘭学よりも西学、つまりオランダ語ではなく英語による西洋文明の導入の重要性を唱えた。当時としては、先見性の極みといってよい。このせいで、学校からは退学になった。討幕論を唱えたが、佐賀藩の大勢は動かない。藩主はぐずぐずしていて、じれったいといっている。
一人で京都にやってきたが、新政府では参与、外国事務局判事、外国官副知事、になり、事実上の外務大臣としての仕事にあった。つまり、この時点では、この上に、上級公家、改革派大名が、名誉職として、上役にいたからである。実務としては、イギリス公使パークスと交渉にあたり、相手側に好印象を持たれた。
明治2年、1869年、会計官副知事、この時、由利公正(会計官)の辞任があり、7月、大蔵大夫、民部大夫となる。上には大蔵卿の松平慶永がいた。しかし、名君といわれても、個人になるとただの人といわれたように、能力がないから、大隈が事実上の財務大臣であった。この時、政府の金を持って、大村益次郎とともに、彰義隊討伐を行った。
彰義隊については、西郷隆盛は融和的、消極的であった。大村の戦略、大隈の財政資金、佐賀藩の持つアームストロング砲、この三つの威力で、短期決戦になった。西郷隆盛の威力は落ち、大隈重信の威力は上がった。
西郷は引退し、大隈は財政の最高権力者になった。ここまでは、公式的な歴史、これから先が本質論です。大隈は住友、鴻池という大商人から、軍資金を預かって、新政府に入ってきた。東京遷都になると、三井組の江戸における大番頭三野村利左エ門と親しくなり、「みのり、みのり」と大事にしたという。三野村は事実上の江戸における三井の代表者、幕末勘定奉行小栗上野の介に深く取り入っていた人物である。三野村も、大隈邸に上がり込んで、留守中でも、取り巻きの機嫌を取っていた。
やがて、大隈の下に井上薫という長州藩士が付いた。この人物、幕末にロンドン留学を果たした。三井と井上は急に接近して、西郷隆盛が井上に「三井の番頭さん」と声をかけたほどであった。大隈は、三大商人のうち、島田組と親密になり、「島田は大隈さんの何だったから」と、いのうえにいわせるようになった。
やがて、廃藩置県が起きる。この時、旧上級公家、旧大名を最高権力から外した。次第に、伝統的権威をはぎ取っていったわけだ。そうすると、当然、大隈重信が大蔵卿になるものと思われた。ところが、その地位に、大久保利通が付いた。これは西郷隆盛の意向であった。「この度は、俗吏もぬれねずみのごとく相成り」と西郷が手紙に書いている。
つまり、西郷の理想論、理想国家からすれば、大隈のやり方を抑える必要があるというのである。
しかし、その直後、「何分、十分な選択あいいかず、残念至極」と書いた。これは、大隈を参議にという声を無視できず、認めたということである。こうして、最高権力者4人が、参議になった。西郷、大久保、板垣、大隈であった。
征韓派の下野で、板垣、西郷が去る。大隈は大蔵卿となり、事実上の財務大臣になる。そのころ、島田組の破産事件がおこる。しかし大隈は困らない。急速に成長してきた三菱商会の岩崎弥太郎と手を結び、「隈印は三印なり」と井上が書いたように、公然の秘密になった。
このように実業家集団の上を私歩いた、大隈重信、井上薫は「フラグ」といった。風のまにまに動くから。西郷隆盛は「俗吏」と呼んだ。大隈は「板垣と西郷は、戦争の話ばかりして、実務は任せるといって、印鑑を預けた」といっている。これでは、最終的に実業家集団が勝つだろう。こうして大久保亡き後、大隈が最高権力者になるが、この政権に武士的要素はなくなっている。つまりは、ブルジョアジーに純化されたといってよい。

2018年12月12日水曜日

西郷隆盛ではなく三井組が明治維新の勝者になった。小林良彰の歴史観

明治維新の激動の中で、最終的に勝ったものを一つ挙げよといわれると、三井組ということになる。前回に紹介したような、団琢磨の役割から納得できると思う。
西郷隆盛は、薩摩何氏の集団を率い、薩長同盟を代表して長州藩士、奇兵隊の集団を味方につけて、幕府軍を撃破した。しかし軍資金が足らない。これを藩の財政資金から賄うことができれば、薩摩、長州両藩で、旧幕領を戦利品として、分捕ることができる。そうすれば、薩、長両藩の指導者が大領主になる。これなら、封建権力の再編成になる。しかし、軍資金が足らなかったので、これをまずは、三井組にお願いした。
最初、西郷隆盛は、小松帯刀ともに三井の主人三井八郎右衛門を訪ね、そこで合議に達したらしい。証明するものはないが、その姿は執事の記録にあった。二人が「平伏するような態度であった」と書かれているという。戦争がはじまると、薩摩の指導者が、三井組の「穴倉に金を受け取りに行ったもんじゃ」といったことが書き残されている。
彼は大山巌、のちの陸軍大将、元帥、各大臣を歴任、この時代では、西郷隆盛に「弥助」と呼ばれて可愛がられた。会津攻撃の指揮官にもなった。
三井組の金力と、薩摩の武力で討幕が実現した。その後どちらが勝つかということになる。実はこれに似たことが、すでに260年前に起きている。豊臣秀吉が天下を取った。秀吉の武力と、千利休に代表される商人層の資金力の合同で天下統一を実現した。これは誰でも知っている。その後、利休の切腹で、商人層の力は抑え込まれる。徳川家康が天下を取った。茶屋四郎次郎、後藤徳乗などの商人層が家康を資金面で支えた。茶屋は家康の寝所に出入り自由であった。しかし、幕府権力が安定すると、商人層は江戸城から締め出される。こういうことは、フランス絶対主義が確立するときにも起きている。
したがって、中央権力から商人層が締め出されると、絶対主義への逆戻りとなり、その逆だと市民革命になる。明治政府では、士族を擁護するものたちが排除され、千利休の生まれ変わりとして、三井組が政府の後ろ盾になった。
東京遷都の後、しばらくは大隈重信が三井組代弁者のようになった。明治4年、廃藩置県のころになると、財政官僚井上薫(長州出身)が三井の「番頭さん」と呼ばれるようになった。井上は伊藤博文とともに、幕末にロンドン留学を経験している。近代的経営を助言した。三井組では、率先して、学力のある少年を採用し、のちには大卒、洋行帰りを採用した。すべて、時代の先取りであった。
井上は下野すると、三井組の中に会社を作り、これが三井物産に発展した。社長には元幕臣の益田孝になり大発展と遂げた。三井組変じて三井合名として、ホールでイング・カンパニーになると理事長になった。益田が引き立てた団琢磨が後を継いだ。三井の主人は経営に口を出さない。益田,団で日本最大の財閥を統制した。「財閥権勢に奢れども」といわれた。
テレビでは、西郷対大久保の対決のように言うけれども、大久保の後ろ盾が実業家集団で、その最大のものが三井組であるから、この対決は西郷対三井組だというのが正しい。だから大久保が暗殺されても、政府は微動だにもしないのである。つまり実業家集団が権力を安定させたのである。
こういう単純なことはわかるはずだ。私は数十年前から書いている。しかし、いつまでたっても、日本では、西郷対大久保の対立で歴史を説明する人ばかり、聞く人々もそればかり、疑問すら感じない。何とかならないかといいた。

2018年12月6日木曜日

西郷隆盛以後士魂商才も変質する

士魂商才はずっと続くように思われるが、重要なところで、変質していくのである。五代友厚は大資産家だと思われたのに、死後整理してみると、私財をほとんど残さなかった。つまり事業は、私財を蓄えるのではなく、国家、社会の発展のために行うものという気概があった。
この気質が西郷隆盛の気質に一致していた。「子孫のために、美田を買わず」、「命もいらぬ、名もいらぬ。金もいらぬものは始末に困る者なり」、この困る者でなければ、天下の大事は成し遂げられないといっている。
彼と協力した山岡鉄舟は、「子爵」という爵位を与えるという政府申し出に、「食うてねて、働きもせぬご褒美に、またも華族(蚊族)となりて、血を吸う」との返事をして断った。爵位にはお金が付くからである。つまり金儲けを避ける気質があった。しかし、幕臣の木村という人物が、パン屋をはじめて成功すると、木村屋を言う屋号を書いてやり、明治天皇に献上して、ほめてもらい、「キムラヤのアンパン」を広めてやった。一種の士魂商才であろう。
勝海舟になると、子爵を与えるといわれると、「今までは、人並の身と思いしが、五尺にたらぬ、子爵(四尺)なりとは」と、抗議の歌を詠んだ。五尺は当時の平均身長、「俺の功績をなめるな」という思いであった。そこで、一つ上の伯爵になった。当然、「名誉も金も」上がる。ここで、西郷隆盛とは食い違ってくる。しかし、だれも「勝海舟に士魂がないとは言わないだろう」。士魂の内容が変わっていく。資本主義が安定するから、「金も名誉もある方がよい」という風潮になる。したがって、士魂を持ちながら、財閥の中枢にいることになる。これが団琢磨の姿であった。
団琢磨を襲撃した人物は「財閥権勢に奢れども、国を憂うる力なし」という昭和維新運動の歌に沿って、「財閥の最大のものは三井であり、三井の中心が団男爵であったから」撃ったと供述した。
このように士魂も変質するようだ。

2018年12月5日水曜日

明治、大正、昭和と続く士魂商才

明治維新前後の士魂商才について書きましたが、この流れは昭和の半ばまで続きます。誰もが知っていいるようで、意外に知らないのです。
例えば、平民宰相原敬が、家老の家柄で、上級武士の家系であることを知っていますか。平民どころか殿様に準ずる生まれでしょう。なぜ平民と称されたか、それは「爵位」と辞退したからです。この人がなぜ商才で取り上げられるか、それは「当主古河潤吉が病弱なので、経営を私が見た」と書いているからです。古河とは、だれでも知っている、古河
財閥のこと、足尾銅山、富士電機で知られています。
ついでながら、富士電機、これはドイツのジーメンス(シーメンス)と資本提携をして、その技術を導入したもの、長い間、筆頭株主でもあったが、このジーメンスも、ドイツの貴族ヴェルナーフォン・ジーメンスが設立したもの、つまり、日独両国の士魂商才が手を結んだといえる。富士通はこの子会社としてできたもの。
同じく、銅を基本にした財閥に、住友がある。二代目の理事、伊庭貞剛が代官の家系出身である。つまり、中、下級武士というところ、そのうえに立つ住友家の主人の人脈に上級公家西園寺公望がいる。住友家と縁組した。西園寺500石といわれたから、実質上級武士の地位にある。しかも天皇家と姻戚関係にある。首相を二度務め、昭和初期の激動期には、次期首相を天皇に助言する役割を担っていた。
陸奥宗光であるが、元の名を伊達小次郎という。紀州藩の上級武士の家に生まれ、、京都では三井の隠密になった。つまり、忍術の心得もあった。勝海舟の作った海軍操練所に入った。長崎で海援隊に入り、「武士を捨てても食っていけるのは俺と彼だけ」坂本龍馬に言わせたから、商才は見抜かれていたのだろう。しかし士魂も強かった。海援隊の船が沈没した事件で、紀州藩の重臣を襲撃した。「すごいいやつ」と皆におそれられた。西郷隆盛に同感し、西南戦争に呼応して挙兵しようとして、逮捕投獄された。その後、伊藤博文の尽力で出獄、古川市兵衛の足尾銅山経営に協力、自分の次男潤吉を養子に出した。古川市兵衛は早く死ぬから、彼が、その事業の代表者になった。その時、原敬を見込んで、経営者として引き入れた。外務大臣になるが、「カミソリ大臣」といわれ、実力は抜群であった。
三井財閥でも、益田孝が三井物産の経営で成功し、三井財閥の指導者になった。彼は幕臣、幕府消滅により失業、通訳をしていたが、井上薫と協力して、商事会社を三井の中に設立した。井上が大蔵大輔(今の財務次官)に戻ると、経営を一手に引き受けた。山形有朋、伊藤博文と、北海道で馬に乗って、疾走した。「なかなかうまい」とほめると、「これでも幕府の騎兵の頭でしたから」といったらしい、
三井物産が三池炭鉱を買収した時、鉱山技師の団琢磨を引き立てた。団も中級武士の出身、はじめ藩主に随行して欧米視察、途中でアメリカに留まり学問を収め帰国したというから、封建主義から出発して、個人主義になったような人物である。
昭和初期、三井合名理事長、日本経済連盟、工業倶楽部、を設立して、指導者になった。衆議院で労働組合法案が成立した時、貴族院でこれを握りつぶすことに指導権を発揮した。
暗殺の脅威が迫っていた。危ないから、裏門を使ってくれという頼みに対した、「自分は何も悪いことはしていないから、必要がない」といって正門から出入りした。すれ違いざま、一発の銃弾を撃ち込まれた。「うむ、やったな」といって倒れたという。これも士魂といえるだろうか。