2024年1月14日日曜日

世界史における近代市民革命

フランス革命は失敗して、7月革命で成果を確定した。

世界史における近代市民革命を論じる時、フランス革命をその典型として扱い、その他の国の事件は、フランス革命と比較してどう違うのかと議論することが、従来の常識であった。この常識は、何処の国の、誰が作ったのかはわからないが、圧倒的な強さを持っていて、それに逆らうことは不可能と思えた。

だから、私も若いころから、フランス革命の勉強を始め、ついにフランス革命の専門家化になってしまった。私の本心は「フランス革命が典型的な市民か革命であるから研究しているのではなくて、典型的な市民革命だと言われているので、これの再検討をしている」というものであった。

私の本心は、「あの人は典型的だが、この人は典型的ではないと言えるか」であって、「とにかく、人間としての共通点を持っていたのなら、人間という定義でまとめられる。片足を失っても人間だ」というものである。

例えば、誰もが言う言葉、「フランス革命は自由、平等を実現したが、日本の明治維新はそれを実現していない」、この一言で、明治維新は古いものという定義にされてしまう。

もし、フランスの市民革命が1830年の7月革命であるとすれば、議論の方法は変わってくる。7月革命で、自由平等は実現したか。議会の選挙方法は、制限選挙制で、国民の約半数は選挙権を持たない。これでは、平等とは言えない。普通選挙制の実現は、もう少し待たなければならない。

つまり、自由、平等、人権、共和制、立憲君主制、法の下の平等などというものは、市民革命の後になってから実現されるものであり、市民革命が直接実現するものではないということだ。

 それでは、7月革命は何もしなかったのか。それはありえない。何もないのに、軍隊相手の市街戦を戦い抜き、ついに国王シャルル10世を退位させ、死傷者も多数出た。国王を亡命に追い込み、首相ポリニヤック大公を逮捕、投獄した。これは革命であった。では、この革命政権は何をしたのか。これについて、正確な解釈をする歴史家がいない。だから、世界的な規模で、市民革命の誤解が広がっている。

ここでは、まず問題点の定義にとどめておき、次回その内容に入ることにする。

2022年6月15日水曜日

08-市民革命ー主な参考文献

 主な参考文献(和書のみ)


天野元之助『支那農村雑記』、同『支那農業経済論』、堀江邑一『現代支那の土地問題』、浜田峰太郎『支那資本機構・財閥・政権』、王承之『中国金融資本論』、中浜義久訳『国民政府の財政報告』、柏井象雄『近代支那財政史』、小林幾次郎『支那財政経済論』、木村増太郎『支那財政論』、園田一亀『奉天省財政の研究』、円谷弘『支那社会の測量』、宮下忠雄『中国幣制史の特殊研究』、香川峻一郎『銭荘資本論』、根岸佶『上海のギルド』、陳伯達『中国四大家族』、山上金男『浙江財閥論』、『現代中国辞典』、『アジア歴史辞典』、大野英二『ドイツ金融資本成立史論』、同『ドイツ資本主義論』、戸原四郎『ドイツ金融資本成立の過程』、シルファート『ドイツ三月革命の研究』(上杉・伊東訳)、林健太郎『独逸近世史研究』、同『近代ドイツ政治と社会』、村瀬興雄『ドイツ現代史』、野津高次郎『独逸税制発達史』、時野谷常三郎『ビスルクの外交』、『西洋経済史講座』、『社会経済史大系』、浜林正夫『イギリス市民革命史』、吉岡昭彦『地主制の形成』、ポクロフスキー『ロシア社会史』(外村訳)、リャシチェンコ『ロシア経済史』(東健太郎訳)、長谷田泰三『英国財政史研究』、佐野学『ロシア経済史』、ソ連科学アカデミー『世界史』、会津晃『アメリカ革命史序説』、ビアード『アメリカ合衆国史』(岸本訳)、ネビンス『アメリカ史』(黒田訳)、菊池謙一『アメリカ合衆国の歴史』、アメリカ学会『原典アメリカ史』、平出宣道『近代資本主義成立史論』(その他は紙数の関係で省略させていただいた)。


小林良彰

こばやしよしあき

07-市民革命ーのこされた問題点

 7 のこされた問題点


推定可能なこと

これまでのように、世界各国の市民革命を分析してくると、その考え方をつかって、資料の不足した国についても、市民革命の時期を推定することができる。

たとえば、イタリアの市民革命の時点である。これは、イタリア統一戦争だとみられる。なぜなら、ドイツ統一戦争とおなじ性格をもっているからだ。統一以前は、貴族または僧侶=領主の支配下にあった。ヴェネチア(ヴェニス)のように、ふるくからの商人共和国の地方でも、そのうえに、絶対主義オーストリアの支配がおおい、オーストリア宮廷貴族が、将軍、長官として支配していた。たとえば、ミラノ市(ロンバルディア地方)を支配し、二月革命のとき市民を弾圧したラデッキー将軍がそれである。

この状態を、カヴールを中心としたブルジョア的貴族がブルジョアジーと同盟して統一を完成した。北イタリアは、カヴール指導下のサルジニア王国軍によって征服され、貴族の権力は撃破された。ナポリ王国では、ガリバルディのひきいる「千人隊」が中心となった反乱により、貴族の権力か撃破され、そののちカヴールの支配下に入った。ガリバルディのひきいた革命的勢力が、カヴールに妥協し、その支配下に入ったことをもってイタリア統一の意義を過小評価する傾向がつよいが、そのような考え方も、市民革命とはなにかをはっきりさせると自然に消えさる。とにかく、貴族の組織した権力を破壊し、ブルジョア的貴族と上層ブルジョアに権力を与えたのだから、そのかぎり市民革命だといえる。

また、インドの独立とおなじ性格をもつものが、インドネシア共和国の成立である。独立以前、オランダ資本が支配し、その同盟者が各地の藩王=大土地所有階級だった。独立は、この権力を破壊し、インドネシアのブルジョアジーの手に権力をあたえた。そのかぎり市民革命である。しかし、農村での大土地所有はのこっている。それは、当然のことだ。ただし、インドネシアの特殊事情がある。それは、ブルジョアジーのなかに、華商と土着資本家の勢力が混合していることで、独立当初、さしあたり華商が指導権をにぎり、商業はもとよりオランダののこした企業も手に入れた。

一九五八年七月一四日におこったイラクの革命は、巨大地主貴族の組織するハシム王朝をたおした市民革命だ。ここでの大地主とは、約一、〇〇〇人くらいの部族の長だった。カセム政権は、これら巨大地主の土地を接収した。こうしたことは、エジプトとおなじだ。

このように、多くの国について推定ができる。資料がふえると、はっきりと証拠づけることが可能となろう、


局地的市民革命

市民革命とは、上級土地所有権者の組織する権力を破壊し、それを上層ブルジョアのものにかえることであり、そのとき、上級土地所有権者の一部はブルジョア化してここに合流する。この基本法則をもって、中世、古代をみると、局地的にそれらしいものができていることに気がつく。もちろん、広い範囲をみると、中世、古代の社会体制だ。ところが、それにかこまれながら、せまい地域で市民革命の成果とみられるものが維持されている。それは、小さな近代国家が、周囲の強大な古代、中世の国家にたいして必死で抵抗し、成果を守っている姿である。

それだけに、そこでは近代文明の先駆的な姿があざやかな形でつくりだされた。それが古代都市国家としてのアテネであり、中世イタリアの都市国家、とくにフィレンツェである。そこでは、ブルジョアジーの支配が実現していた。そのかぎり、この地域は一種の近代国家だった。

日本の堺も、戦国時代、領主の分裂、抗争を利用して独立し、商人支配が実現していた。その商人のなかから、今井宗久や千利久がでてくる。西欧人が、堺をヴェネチアにたとえたのは当然である。

アテネの文化やルネサンスの文芸は、この方面から説明されえないだろうか。


フィレンツェとダンテ

フィレンツェ(フロレンス)も、はじめは貴族の支配下にあった。やがて、ギべリン党(ドイツ皇帝のがわ)とゲルフィ党(ローマ教皇のがわ)の対立がはげしくなった。前者は、貴族の党派であり、後者は上層商人、金融業者を指導者として、都市職人層をもふくめた党派だった。

一二〇〇年代の半ばごろから、貴族はしだいに政権から追われていき、一二九三年「正義の規定」がつくられ、全貴族は公職から追放されるとともに、小市民の利益を守るために「正義の旗士」がつくられ、これがプリオリ(統領=最高の権力者)といっしょになってシニヨリをつくり、シニヨリが市政を担当した。ここで市民革命は達成された。貴族は権力からしめだされ、田舎にひきあげた。経済的に没落しはじめると、強力な都市支配者にやとわれて武力を提供する立場にかわった。貴族の権力を奪回しようとする勢力を、上層ブルジョアジーが小市民層と同盟して阻止している姿であり、そこに民主共和国の政治形態があらわれた。

ダンテは、この運動のなかに入っていた。小貴族の出身で商工業者と近く、医師の組合に属して政治に進出した。組合に属していれば、貴族でも政治に参加できた。

一二九六年、ゲルフィ党は、分裂をおこし、「黒派」と「白派」にわかれた。黒派は、大商人、大金融業者の党派であり、大組合(アルティ・マジョーリ、ポポロ・グラッソ)ともいわれ、商人ギルドの党派だった。この上層ブルジョアジーが、第一段階では権力の指導権をにぎっていた。かれらは、政治的には、ローマ法王ボニファキゥス八世(ボニフェイス)とむすんでいた。

なぜなら、フィレンツェの金融業者は、ローマ法王庁の金融をひきうけていたから。

これに対立する白派は、手工業の親方層を代表し、小組合(アルティ・ミノーリ、ポポロ・ミヌート=小市民)といわれ、職人ギルドの党だった。かれらは、黒派とはげしくあらそい、ダンテは一三〇〇年、プリオリの一人になったが白派の立場にたった。やがて黒派と白派の乱闘事件がおこり、一時黒派は権力から追いだされた。不完全ながら、小市民の勝利である。

だが、黒派はローマ法王の力にたよった。ダンテは、法王にたいする使節としてでかけるが、法王は黒派のがわを支持してダンテと対立した。一三〇一年、黒派はシャルル・ド・ヴァロアの軍隊をよびよせ、法王と黒派の大商人、銀行家の協力のもとフィレンツェは占領された。一三〇二年、ダンテは欠席裁判で追放を宣言され、もし捕えられたときは火刑に処せられることになった。かれは、イタリア中を乞食のように放浪したあげく、ラヴェンナの町で静かな余生をおくった。

このダンテの運命は、一連の市民革命の革命家のものと似ている。ガリバルディ、ガンジー、ロベスピューエル、西郷隆盛など。かれらは一種の理想主義者であり、貴族階級の権力を倒すとき、上層ブルジョアージから小市民層、下層民、貴族の不平分子などがむすぶ同盟をつくる。この同盟は、貴族の権力が倒されたときに破れる。そのあとに、多かれ少なかれ紛争がおき、けっきょく、上層ブルジョアージの支配が確立し、他の勢力は弾圧される。そのとき、理想主義的な人物は、弾圧されるがわに同情的になり、殺されるか、さもなければ権力がら排斥されて無力な立場にかわる。ロベスピエールや西郷隆盛は死に、ガンジーやガリバルディは、無力な存在にかわる。アメリカでも、独立革命ののち、シェイズの反乱(西部農民をひきいたもの)がおこっている。孫文にしても、リンカーンにしても生きのこったばあい、おなじような運命になることは予見できる。

ダンテは、市民の立場にたったために身をほろぼした。そのあと、権力奪回の陰謀をめぐらす白派幹部とも行動をともにせず、一人一党主義をとり、現世でみたされぬ気持を、文学にむけた、そこに神曲が生まれ、それを当時としては画期的なことだが、市民の日用語(トスカナ語=ロ語)でかいた。その神曲のなかに、かれのかつての政治闘争の一ページがきざみこまれた。

地獄篇の一節。巨大な岩盤に無数の穴があいている。穴から人間の足が二本つきでている。罪人が頭からつっこまれ、足だけがでている姿だ。その岩の上に火がもえ、足は焼かれてびくびく動く。このような残酷な刑罰はだれがうけるのだろうかと、穴のそばに立ち、中をのぞくと、その罪人は前ローマ法王であり、かれは、のぞいたダンテを新しくつっこまれる新入りの罪人だと感ちがいしていった。

「もうきたのか。ボニファキウスよ」

かれの政敵ボニファキウス八世は、当時まだ生きていて、各国の君主を破門しては屈伏させ絶大な権力を享受していた。また、フィレンツェの黒派=大銀行家・大商人の保護者でもあった。神曲は、政敵にたいする断罪の書でもあった。


ミケランジェロとマキァベリ

ダンテが、フィレンツェの市民革命の誕生を代表した人物であるとするならば、この二人は、その成果がまさにつぶれようとするときに、最後の抵抗をしめした人物だといえる。

一三〇〇年代、フィレンツェに君臨したのは、パッチ家、アルビッツィ家のような大商業貴族だった。一三七八年のチョンピ(毛梳工)の乱を利用して台頭し、競争者を圧倒しはじめたのが大金融業者メジチ家で、一四三四年、コシモ・デ・メジチが支配者となり、「祖国の父」といわれた。その孫のロレンツォ・デ・メジチは独裁を完成し、フィレンツェは最盛期をむかえ、「花の都」といわれ、豪奢を誇り、文芸がさかえた。

だが同時に、メジチ家は、周囲の封建支配者にも接近し同化しはじめた。かれの次男を口ーマ法王にした。これが、文芸保護、セント・ピーター(サン・ピエトロ)寺院の建設、免罪符の発売(ルターの宗教改革の誘因になった)で有名なレオ一〇世だ。

長男のピエトロ・デ・メジチは、フランス王シャルル八世の攻撃をむかえると降伏と屈服をえらんだ。このとき、フィレンツェ市民は蜂起し、メジチを追放し、共和政治を復活した。この時期に活躍したのがマキァベリだ。一五一二年、メジチ家は復活し、マキァベリは罷免された。

一五二七年、カール五世(スペインとオーストリアの王、ドイツ皇帝)の軍隊がフィレンツェにせまった。アレッサンドロ・デ・メジチは、皇帝と取引し、フィレンツェをあけわたすことをきめ、皇帝の軍隊にまもられた。またもや市民の反乱がおこり、共和制が宣言された。ミケランジェロは、この政権に参加し、防衛築城委員長としてその才能を発揮した。しかし、事態は絶望的だった。メジチは、外部から策謀をめぐらし、法王クレメンス五世もメジチ家出身者としてフィレンツェ占領に奔走し、ドイツ皇帝と協力した。皇帝軍の包囲下にあるフィレンツェでは、上層市民層や貴族の傭兵隊長のなかに、メジチ家に内通するものが多かった。一五三〇年、フィレンツェは降伏し、アレッサンドロ・デ・メジチは帰ってきた。かれはドイツ皇帝の援助のもとにフィレンツェ公国をつくり、皇帝からフィレンツェ公に任命され独裁者になった。これはのちにトスカナ大公国になる。メジチの権勢はますます強まり、カトリーヌ・ド・メジチはフランス国王と結婚した。これが、のちセント・バーソロミューの虐殺をおこしたカザリン母后である。ここで市民革命の成果はきえた。ミケランジェロは敗北者となり追求をうけて一時潜伏したが、かれの天才と名声のために殺されず、芸術活動に専念させられるようになった。このようなかれの立場から、ダヴィテ、モーゼ、鎖を切る奴隷など、圧制者にたちむかうものの姿を題材にえらんだ像がつくられたのだろう。

そして、市民革命としてのイタリア統一の意義を考えあわせるとき、ダンテの帝政論、マキァベリの君主論を、イタリアにおける市民革命の予言の書として評価できないだろうか。


民主主義アテネ

古代アテネが、ソロンの財産政治、ペイシストラトスの僣主政治、クレイステネスの改革(選挙制度の改革とオストラシズム)で民主主義を発達させたことはよく知られている。ベルシア戦争に勝ったのち、最盛期をむかえ、いわゆるべリクレス時代がくる。ペリクレスの親友フェイディアス(フィディアス)が、アテネ女神の像、ゼウスの像をつくった。

この民主主義アテネも、一種の局地的市民革命と考えられる。アテネのはじめは王制で、のち貴族の共和政治(アリストクラティア)になった。ここでは、執政官は貴族からえらばれていた。あいつぐ改革で、貴族は権力から排除されていった。不満をもった貴族は、敵国に内通し、名門貴族アルクマイオンは、マラトンの戦のとき、ペルシア軍に楯で日光を反射させて合図したという。ベルシア王クルクセスの遠征のとき、海軍拡張案を主張するテミストクレスにたいし、陸軍強化案を主張して対立したアリスティデスは貴族に支持されていた。アリスティデスは追放され、テミストクレスのつくった海軍でアテネ市民は救われた。

こうして権力をうばわれた貴族とは、大土地所有者であり、そこにオリーブ、ブドウなどの農園を経営していた。だから、民主主義の確立とは大土地所有階級の権力の破壊になった。そのあとで権力の座にすわったのは、農民でも無産市民でもなかった。たしかに、かれらはデモス(平民)であり、民主主義(デモスクラチア)の担い手だった。かれらが民会をつくり、選挙により政府が組織されたのだが、えらばれたものはかれらの代表者ではなかった。

平民からえらばれ、平民を指導したものは、一種のブルジョアジーだ。ペリクレスのように有名な人物が表面に立っているときは、その背後関係がぼやかされる。だが死ぬと、そのあとにむきだしの形であらわれる。たとえば、ペリクレスのあと、かれの方針を、うけついで政権をうごかしたのはニキアスだ。ニキアスは大財産の所有者、奴隷を多数もち、国営のラウリオン銀山用に一、〇〇〇人の奴隷を賃貸したという。当時、奴隷は「ものをいう家畜」であり、労働力であるとともに、一種の動産だった。アテネの富は、銀山と貿易(天然の良港ピレウスによる)

できずかれたが、貿易のうち奴隷売買からあげる利益は大きな部分をしめた。ニキアスは、それの成果のうえに立つブルジョアの一種だった。

この上層ブルジョアージは、穏健派、保守派であり、ツキジデスによると「寡頭派」だが、これに対立した急進的民主主義者も、ときに大きな勢力をもっていた。急進派の指導者は、ツキジデスが「当時もっとも勢力のあった将軍」(『歴史』)というクレオンである。クレオンは、皮革工場主だった。当時の工場では、奴隷の手工業がつかわれていた。このような工場をエルガステリオンといい、有名な雄弁家デモステネスも、楯の工場主の息子に生まれた。

このように、貿易商人、金融業者、工場主、造船業者などが、ペイシストラスト、テミストクレスを支持し、民主主義の名のもとに小市民層を動員し、貴族政治を破壊し、貴族国家を代表する外敵(ペルシャ、スパルタ)とたたかったのである。だから、これは一種の局地的市民革命といえる。

ただし、これらの商工業者は、奴隷制度のうえに立っている。そこに、近代とちがうところであり、フィレンツェともちがうところである。しかも皮肉なことに、ブルジョアジーのほうが奴隷制にたよることが大きく、貴族のほうは、農園経営に奴隷よりも日傭農夫を使うことが多かった。これは、農業が、つねに一定の労働力を必要とするわけでなかったことによる。

この国家も、ペロポネソス戦争でおわった。スパルタは、貴族政治の国家であり、アテネの貴族は、スパルタとむすんだ。スパルタ軍のアテネ占領は、アテネの貴族政治の再建をもたらした。それとともに、アテネの輝きも失われた。


特殊性について

すべてのものに、普遍性と特殊性がある。そのどちらのがわを研究するのも学問だ。この本は、普遍性を問題にしてきた。しかし、それぞれの国には、その普遍性とともに、特殊性がある。特殊性を知ることも、また今後の問題だろう。

市民革命の思想は、まったく特殊性の問題である。カルヴィン派宗教、自由・平等・友愛、社会契約説、自治・独立、尊王攘夷・王政復古、三民主義等々。これらは、その民族のおかれた具体的状況にふさわしくきめられる。

土地所有権の程度も、特殊性の問題である。上層ブルジョアジーの種類もそうだ。問屋制度の上に立つ大商人もあれば、機械工業のうえに立つ銀行家・産業家もいる。これは、市民革命をむかえたときの産業の発達の程度に関係する。

上級土地所有権者のありかたも多様である。領主―地主―小作という三段階をしめすばあいと、地主貴族―小作人という二段階をしめすばあいとある。

上級土地所有権が組織する権力の形式や、ブルジョアジー以外を支配する形式も多様である。イギリスでは、宮廷貴族が、商業や産業の独占権をあたえられ、その独占権を大商人や産業家に売りつけるという形式で収奪がおこなわれた。また、宮廷貴族が大株主になっている大企業に独占権をあたえるという方法もとられた。そこで、宮廷貴族の権力を撃破する段階に、そのかぎりでの独占の破壊という方向もとられた。このことは、イギリス革命の特殊性である。だが、イギリスをつうじて世界史をみる人は、独占一般の破壊という任務を、市民革命の法則にしようとした。そこから、特権的商業資本の敗北という公式がでてきた。ところが、東インド会社の独占はのこった。そこで、議論が混乱してきた。これは、普遍性と特殊性の混同だ。

このように、特殊性と普遍性とは、注意深く分類して考えるべきである。

また、反動期をもつばあいと持たないばあいとある。これも特殊性である。イギリス、フランスでは王政復古という反動期をもった。この時期に、市民革命の成果が半ば失われ、絶対主義再建をめずす努力もかなり成功し、いま一歩というところで二度の革命(名誉革命、七月革命)

をおこし、市民革命が完成した。この王政復古の時期は、絶対主義でもなく、市民革命後の時期でもない、過度期の特殊なバランスの時期である(日本の王政復古とは、まったくちがうことに注意したい。そこで明治維新を、西洋流に翻訳するとき、王政復古の語をつかうが、これは、内容的にみて、誤解のもとになろう)。

このような過度期の反動は、オランダ独立以後にもあった。ウィレム二世と大商人の対立抗争である。だが、現代に近づくにつれてなくなる。一回かぎりでかたがつく。反動の試みもないではないが弱くていうにたりない。

これも国際的環境からくる特殊性である。はじめの頃は、強大な封建国家にかこまれたなかで市民革命をおこなった。そこで敗北した貴族層は、隣国に強大な支持者をもっている。ときに血縁関係があり、ときには、ウィレム二世のように、かれ自身が他国の領主であるばあいがある。周囲の封建国家からの干渉、圧力がくわえられる。それを、自国の旧支配層が利用して、権力を回復しようとする。イギリスでも、フランスでもそのようなことがおこった。そのため、内乱が長びき、流血の様相がひどくなった。

だが、そのような国際環境がないときは、反動を経験せず、革命も過激な様相をしめさない。アメリカ独立革命はそうである。現代に近づけば、周囲が封建国家でない。市民革命は有利な立場になり、ほとんど封建反動が成功しない。


封建制度と古代のちがい

封建制度とは、上級土地所有権者が権力を組織し、財政の実権をにぎることである。それを破壊し、上層ブルジョアジーの権力にかえるならば、市民革命である。

こういうと、古代との関係が疑問になってわいてくる。古代と封建制度とは、どこがちがうのかと。古代もまた、上級土地所有権者が権力を組織している。まったくおなじである。それにもかかわらず、古代と中世とは、はっきりとして区別がある。とくに、西欧の歴史では・・・。

そのはっきりとした区別の理由を考えてみたい。ある人はいう。古代は奴隷制度であり、中世は封建制度である。奴隷とは、人間が商品になることだと。封建制度のもとでは、奴隷のかわりに農奴があり、時代がすすむと、国によっては、自営農民にまで進化する。

たしかに、これは一つの区別だ。とくに、ローマ帝国を、西欧の中世とくらべるときはそうだ。だが困難は、世界史的な規模で考えるときに生じる。ローマ帝国では、奴隷制農業が大規模に行なわれていたから都合がよいが、おなじく古代といっても、中国の均田制や日本の班田収授の法のもとの農民は奴隷でない。かれらは商品でなく、身分的には公民である。奴隷に相当するものとして奴婢がいて、安寿と厨子王の話ものこるが、これは、労働力のわずかの部分しか占めなかった。

歴史家を困らせているのはこの問題だ。均田農民や班田農民とローマの農業奴隷の共通点をみつけなければ、世界史的な規模で古代と中世の区別がつけられない。それでは、古代と中世の区別はないというのかといえば、感覚的にはありそうだと思う。

ここで、均田制や班田制の租、庸、調にふくまれる徭役が注目された。正規の庸は少ないが、これに雑徭をあわせると年間約一〇〇日の無償労働になる。山上憶良の「貧窮問答歌」にもでてくる、里長が鞭をもって呼びだしにきた労役である。この強制労働に着目し、この労働が貴族や寺院など大土地所有者の土地に使用されたことをもって、一種の奴隷制とする見方がある。国家的規模での強制労働たから、総体的奴隷制ともよばれている。

この考え方は、あるところまで正しい。しかし、十分ではない。考察をさらにすすめよう。

徭役にでる日以外は、自分の土地で働くわけだ。そこから租税をとられるとしても、余りは自分のものになる。それでは、奴隷よりはずっとよい条件にある。

ところが、生産用具のことに、思いいたると、話がかわってくる。もともと、大昔は、石器、木器であり、青銅器ができたとしても貴重品で農具として広くいきわたらず、せいぜい木製の農具をつくるべき工具として使用された。だから基本的生産用具は木器、石器である。やがて鉄器時代に入り、鉄製農具が生産されるが、一度に全農民にいきわたるはずがない。その段階では、鉄製農具は貴重品だ。未開墾地はいくらでもある。未開墾地の所有は、現在考えるほどの意味をもたない。そういう事情のもとで、鉄製農具を独占するものは、富と権力を独占することになる。それだけに、鉄製農具は、貴族や寺院(高級僧侶は貴族出身者)に独占された。均田農民や班田農民には、鉄製農具がない。あれば、土地を開墾して地主になるだろう。

この事情を頭において労働の形を考えよう。貴族や寺院の大きな土地を耕し、かれらの開墾事業にしたがうときには鉄製農具が貸与される。もちろん、その労働は強制労働だ。おわれば、鉄製農具がとりあげられる。自分の土地を耕すときは、木器、石器の農具だ。こう想像するのが自然である。農民には、その時代の基本的生産用具が欠けている。

ここで、ローマの奴隷との共通点がみつけられた。それは、基本的生産用具が大土地所有者に独占され、直接的生産者がそれを持てないという状態だ。封建制度の時代になると、大土地所有者は土地のみをもち、基本的生産用具が農民の手に入る。この差は、それだけ、基本的生産用具の量が社会的にみて増加したことで生じる。古代は、支配者が、大土地所有者であり、かつ基本的生産用具の独占者である。直接的生産者の手にはそれが欠けている。中世では、支配者は大土地所有者である。これが基本的な境界線ではあるまいかと考える。ゆえに、中世においても、初期は、基本的生産用具が十分に行きわたらず、それに対応して、賦役労働や下人の労働が残ると思われる。


未解決の問題

私は、市民革命の基本法則を解いたと思う。市民革命の時期をしめし、なぜ市民革命かという理由もしめした。このことについて、一応の自信はある。だが、解きたいのにどうしても解けない問題がある。これは将来の課題にしたいが、読者諸君も考えてほしい。

どこの国にも、まず封建制度があり、大土地所有者が権力をにぎっている。しだいに商工業が発達してくる。ブルジョアジーが強力になる。それに対応して、封建制度も再編成されて生きのひる。だが、いつまでも生きのびることはない。あるときに、大土地所有者の権力は破壊され、ブルジョアジーの支配が実現する。つまり、市民革命は、商工業の発達にともなう必然的現象だ。

問題は、その必然性がなぜくるのかということ、さらに、いろいろな国で、それぞれちがった商工業の発達段階でおこるのはなぜかということだ。

農業からあがる所得と、商工業からの所得の量的なひらき、つまり、後者が前者を追いこしはじめたとき、その必然性が生じるのではないかとも考えた。そうはいっても、整然たる論理で説明できない。

また、市民革命をひきおこすのは、きまって財政赤字である。貴族階級が財政を私物化し、国庫を喰いものにし、そこに生じる巨大な赤字が、ブルジョアジーを破滅のせとぎわにおいつめるとぎに生じる。赤字が決戦の条件をつくる。そのとき、貴族階級のなかで心ある人物は、その危険を知る。日本では、小栗上野介がそのことを予感していた。ラスプーチンにしても、没落を予感していた。そこで、もし、赤字が人為的にくいとめられるものなら、あるところで喰いとめ、革命に至らしめず、譲歩くらいで支配を維持できそうなものである。

ところが、それができない。貴族階級は、しゃにむに国庫にむかって突進し、財政をくい荒し、赤字を破減的にし、ついに自分の権力を滅ぼす。それは運命的な姿であり、動物の世界にある死の行進に似ている。この全体的な必然性を数量的に、商工業の発達度と大土地所有者の権力と財政の関係から解明できれば、市民革命の必然性が解けたといえよう。

これが解けると、ヘーゲルが『歴史哲学』で考察した、人間歴史が人間の意志から独立しているという必然性を解明したことになろう。

「人間はなにによって導かれるのか。なによりもまず、自分の欲望によってだ。・・・・・・愛、そのほかの動機はまれで、その作用範囲はせまい」「情熱がなければ、世界における偉大なものは、なにもなさない。情熱は、エネルギーの主観的側面で、そのかぎり、エネルギーの形式側面だ」(エネルギーのもとは「欲望」だと解釈してよい)

「歴史は、意識された目的からはじまらない。・・・・・・重要なものは、その行動が、人間にとって無意識的だということだ」

「歴史では、人間の行動をつうじて、人間が志し、かつ達成しようとするもの、人間が直接に知り、こうしようと欲するものとは別の結果が・・・・・・」

人間は「自分の利害を実現するが、こうして実現されたものは、かれらの意識やもくろみにはなかった、まったく別のものをつくりあげる。たとえ、それがかれらの利害の一部をなしているとしても」

市民革命という世界史的な事件も、その壮大な理想主義的外見にかかわらず「物欲」からひきおこされた。国家財政から、だれがいちばん多くのものをひきだすかだ。出てきた結果は、いろいろな階層の利害がからみあった結果であり、どの階層のもくろみにもはずれたものだった。もちろん、偉大な指導者の理想からも大きくずれた結果として。

上層ブルジョアジーの利害が最終的に実現されたが、そこへいきつく過程は、またかれらの意のままにならぬ道、じぐざぐの道をとってのみ可能だった。かれら上層ブルジョアジーもまた、財政赤字のために破滅のふちにおいこまれ、絶望的な反抗をこころみたあげく、えたいの知れぬ運命にもまれ、必死になってもがいているうちに権力の座にすわってしまった。そのような運命が、市民革命の自然法則であり、歴史の客観性だ。それをヘーゲルは「理性」の働きだといったが、それはちがう。そのような上品なものではなく、もっと下品なもの、「物欲」のからみあう現象、つまり経済の働きが基礎をなしていた。

06-ドイツ史に対する誤解

 6 ドイツ史に対する誤解


ドイツと日本

ドイツ、日本、イタリアは、第二次大戦の同盟国であるが、市民革命の時期が誤解されつづけているということでも、また兄弟分だ。そのなかで順序をつけると、ドイツが長男で、あとが二、三男である。なにごとにつけても、二、三男は、長男を基準にしてはかられる。

「西欧絶対王政は、封建社会の最終段階にあらわれるが、わが国の絶対王制たる天皇制国家は、西欧絶対王政のごとき封建反動として機能することなく、逆に封建的ギルド諸制限を撤廃し、資本主義を発展させるという歴史的任務を遂行したのである。ブルジョア革命を敗北せしめたドイツ絶対君主国家が、ブルジョア革命の歴史的任務を遂行せざるをえなかったという、レーニンの洞察した事情と対応する(『民主主義革命における二つの戦術』)。だからといって、天皇制国家が統治機構として有する絶対主義的性格を否定する必要はない。揖西ら四人のように、維新後の日本が資本主義社会であるからということで、天皇制国家を絶対主義として否定するのでは、国家機構と国家機能を混同する大塚、堀江らの絶対主義論の誤りを裏返しの形でくり返すことになろう。エンゲルスが『ドイツにおける社会主義』で『ドイツ国は半封建的形態の君主だが、つきつめていくと、それはブルジョアジーの経済的利害によって左右されている』といっているように、絶対主義はあくまで統治機構の概念として理論的に整理しておかないと混乱するばかりだとおもう」(『明治維新史研究講座』平凡社、第五巻、五〇頁)

こういう議論は、ちかごろかなり有力である。つまり、どうみても、明治維新以後の日本は封建制度ではない。感覚的にみるとやはり資本主義の国だ。そうすると、明治維新が市民革命ということになるが、いままでそれをかっちりと証明したものがいない。どうもこまったと思っているところへ、この議論がでてきた。

なにもこまることはないよ。ドイツもそうだ。なにしろドイツ統一以後は、フランス、イギリスをぬき、たいへんな先進国になったが、それにしても「絶対主義」「半封建」の国なんだ。

レーニンやエンゲルスがそういっている。だから安心して、社会の内容と政権の形式をわけてしまえ。内容は資本主義、形式は絶対主義。こういっても、べつに矛盾はしないのだ。だから日本も、政権は絶対主義で、社会の内容は資本主義なのだと。

ドイツのことをよく知らないと、こういわれてしまえばそれでおわりだ。じつのところ、こういう理論がまかりとおると、私が『明治維新の考え方』で「明治維新=市民革命」を証明した苦心は水のあわとなる。私があえてドイツの歴史をくわしく分析した理由はここにあった。

私の意見によると、ドイツ統一により、ドイツの市民革命はおわった。だから政権(=統治機構)も内容(=機能)もすべて資本主義制度のものにかわった。だからこそ先進国に上昇したのだと。おなじく、日本も明治維新によって市民革命をおわった。そして資本主義制度(政権も内容も)をつくり、先進国へ上昇したのだ。こうして、兄弟は仲よく、べつな角度から、正しい評価をうけることになった。ドイツの歴史は、日本人にとって、よそごとではなかった。

さて、これですっきりしたわけだが、問題がすっきり片づいたわけではない。エンゲルスなどの言葉をどうするかといわれよう。いまからそれにうつろう。


マルクスの誤解

ドイツ史について、エンゲルスらの言葉を真理として盲信するわけにはいかない。いろいろな誤解があるからだ。

「三月から一二月(一八四八年)にいたるプロシアのブルジョアジー、そして一般にドイツブルジョアジーの歴史は証明している。ドイツでは、純粋にブルジョア的な革命は、そしてまた立憲君主制の形態のもとにおけるブルジョア支配の樹立は不可能である。ただ封建的、絶対主義的反革命か、そうでなければ、社会共和主義的革命か、そのどちらかが可能なだけである」(マルクス『新ライン新聞』)この言葉は極端である。政治的煽動とみればともかく、学問的には大ざっぱすぎる。こんな言葉でも神聖な文句として引用されるから(「東ドイツにおける農民解放」『西洋経済史講座』Ⅳ、九四頁)、ひとこといわねばならない。

正確にいうと、この二つのあいだにブルジョア支配の君主制(これは本質的に独裁)または帝制がありうる。なにも立憲君主制や共和制だけが、ブルジョア支配の形式ではない。フランス革命ののちでも、ナポレオンの第一帝政があった。これは選挙制をつぶしたのだから独裁制である。それでも、ブルジョア支配だ。そして、ドイツ帝国は、そのようなブルジョア君主制になった。下院の普通選挙をみとめたのだから、ナポレオンよりもやや民主的で、イギリス流の立憲君主制よりもやや非民主的性格であらわれた。マルクスの見方は、あまりにも形式論にとらわれすぎたものである。

それに、マルクスは「純粋にブルジョア的」というが、そんなものはフランスに要求しても、イギリスに要求してもむりである。三月革命で権力をにぎった上層ブルジョアジーが、すぐに貴族・ユンカーと手をにぎったことを「純粋でない」といいたいようだが、イギリスでもフランスでもそういうことはみられるのである。フランス革命では、ラファイエットなどの貴族が表面にあらわれる。ナポレオン時代でも、むかしの名門貴族が宮廷に入り、元老院議員になる。

七月革命ののちでも、ルイ・フリィリップやラファイエットが表面にでてくる。こうした貴族の一派はどのような市民革命にも登場するし、権力をにぎったブルジョアジーは、いつでも貴族を同盟者(対等かそれ以下)にする。

マルクスのいう一八四八年一二月のころは、まえに分析したように、自由主義貴族と上層ブルジョアの代表者が、政府の多数派をつくっている時期である。まだ絶対主義へもどっていない。それを絶対主義へもどったといわせるものは、自分らが弾圧されてしまったという危機感である。たしかに、マルクスの目ざす運動からすれば、何もかもつぶされてもとにもどっている。しかし、上層ブルジョアにとっては、いちどくわえた獲物をはなしていない時期である。

その意味で、ブルジョア革命の成果はのこっている。マルクスは、自分のめざす目標と、上層ブルジョアの目ざす目標を混同している。ここにまちがいがあった。


エンゲルスのあいまさ

エンゲルスは、ドイツ統一の意義をかなり正確に感じとっている。つまり、ブルジョア支配が実現した事実を肌で感じている。ところが、歴史理論が問題になると、形式論にわざわいされてしまう。そこで、本質を見たようで見ていない言葉がとびだす。

「ドイツの国家は、半封建的形態の君主国だが、つきつめていくと、それはブルジョアジーの経済的利害によってうごかされている。・・・・・・こういうドイツに対抗して、今日のフランス共和国もまた革命―もちろんブルジョア革命にすぎないが、それでも革命は革命である―を代表することはうたがいない」(「ドイツにおける社会主義」、一八九一年)

この言葉がいかに利用されたかは、まえにみた。

エンゲルスは、「形態」をおもくみているが、どの形態が封建的で、どの形態がブルジョア的かというような規則を、あらかじめきめつけて歴史を判断するのは正しくない。政治形態などは、ときと条件によってめまぐるしく変化するものだ。共和制や立憲君主制でなければいけないときめてかかるのは形式論である。

ブルジョア革命であるかないかを判断するためには、形式の背後を、つまりブルジョアジーが実質的に権力をうごかしているかどうかを見なければならない。そして、実質論では、エンゲルスも正しい見方にたっているようにみえる。


エンゲルスの小細工

頭のよい人間がまちがいをやると、仕末がわるい。まちがいはまちがいなりに、すじをとおすからだ。そこで、凡人は、そのまちがいの体系のなかにひきこまれ、いいくるめられて信じきってしまう。そういうことが、エンゲルスの理論におこっている。

それがボナパルティズム論である。エンゲルスは「均衡」をよくもちだす。絶対主義を「貴族とブルジョアの均衡」だといった。これは、私が前回の著書で批判したことである。おなじいいかたで、ブルジョアジーと労働者階級の均衡をもちだす。この両陣営が、どちらも相手を圧倒しつくせない「均衡」の状態に入ったとき、それ以外の、第三者の階級がその対立均衡を利用して政権をにぎり両者をおさえる、と。図に示すと左のようになる。










マルクスとエンゲルスによると、この第三者が、自作農であったばあいが、フランスの帝政だという。これはナポレオンの支配、すなわち第一と第二帝政、とくに第二帝政をいう。エンゲルスは、この図式で統一ドイツを説明する。

それは、第三者にユンカー・貴族をもってくる方法である。ビスマルクに代表されるユンカー階級は、ブルジョアージと労働者の対立を利用して権力をにぎっていると解釈する。だから、ブルジョアージはまだ権力の座に達していないが、さりとて絶対主義でもない。その中間だ。

だから「半封建」だ。そして、ずるずるべったりに、ユンカー・貴族がブルジョアジーと同化してしまい、ドイツのブルジョア革命というものは、ずるずるとなしくずしにすすみ、一九〇〇年ごろには完成するだろうというのがその主張だ(『住宅問題』、『ドイツ農民戦争序文』参照)。

「こういうわけで、プロシアは一八〇八年~一三年に開始し、四八年にちょっとおしすすめたブルジョア革命を、今世紀のおわりにボナパルティズムの気持のいい形態で完成するという、めずらしい運命をもっている。……われわれはおそらく、一九〇〇年には、プロシア政府がほんとうにいっさいの封建的諸制度をとりのぞき、フランスが一七九二年にたっていた地点に、ついにプロシアもまたたどりつくのをみるだろう」

ここで、エンゲルスの誤りは頂点にたっした。かれは市民革命を、質的な変化とみず、ずるずるべったりな量的変化とみている。これはおかしい。「一八〇八年に開始し」というが、そののちでも、プロシアは絶対主義の時代である。市民革命は開始されていない。開始されたのは市民革命でなく、市民革命をめざす運動であり、また絶対主義の支配者たる貴族・ユンカーが、その運動にたいしておこなった譲歩である。そこで実現したものは改良だ。農奴解放や度量衡の統一、さらに国内関税の廃止は改良だ。こういうものが、市民革命とともに実現するとはかぎらない。絶対主義の時代に、改良、譲歩として実現するばあいもある。ここでエンゲルスは、「革命」と「革命運動」、「改良」と「革命」を混同している。

さて、一八四八年の三月革命まで、プロシアは絶対主義の国家だった。そのまえに、多くの改良(エンゲルスによるとブルジョア革命とよばれるもの)があったのにかかわらずだ。ここで、はっきりさせるべき問題がのこる。そのような改良があるのに、なおかつ、絶対主義であった理由はなにかと。それが、権力と財政の実権をめぐる問題である。エンゲルスには、そこのげんみつさがない。つまり、かれは「市民革命とはなにか」ということを正確に考えないでものをいっていたのだ。


ボナパルティズム論の誤り

エンゲルスは、自分の誤りを「ボナパルティズム論」のなかですじをとおしてしまった。この理論に目をくらまされてしまうと、エンゲルスのほうが正しいのかと思ってしまう。そこで、この理論をしらべてみる。

結論をさきにいおう。「ボナパルティズム」とは、まったくのナンセンスである。これは、架空の理論であり、おもいちがいにすぎない。

「二代目ボナパルトの治世で(第二帝政)、はじめて国家は完全に独立したようにみえる。国家機構は、ブルジョア社会に対抗してじゅうぶんな基礎をかためたので、その先頭にたつのは、一二月一〇日会の首領、すなわちブランデーとソーセージとで買収した酔ぱらいの暴兵たちにかつがれ……た外国からやってきた山師でじゅうぶんである。……しかし、それにもかかわらず、国家権力は、けっして宙にういているものではない。ボナパルトは、一つの階級、しかもフランス社会でいちばん数の多い階級、すなわち分割地農民を代表する。ブルボン家が大土地所有者の王朝であり、オルレアン家(七月王政)が貨幣の王朝であったように、ボナパルト家は農民大衆の王朝である。ブルジョア議会に屈伏するボナパルトではなく、ブルジョア議会を追いちらすボナパルトこそ農民のえらんだ人物であった……」(マルクス『ルイ・ボナバルトのブリューメール一八日』)

これが、ボナパルティズム論の経典だ。だが、この文章はまちがいである。一八四八年二月、二月革命で七月王政はたおれ、権力は共和派と社会主義者の同盟の手に入った。六月、社会主義派は追放、弾圧された。つづく大統領選挙で、共和派のカヴェニャック将軍と、ルイ・ナポレオンが争い、後者が勝った。議会は、共和派系がつよい。そこで、ナポレオンと議会の対立となり、クーデターで共和派を弾圧し、議会を解散し、第二帝制をつくった。

マルクスによると、このときの共和派がブルジョアを代表し、社会主義者は労働者を代表し、その対立を利用して権力にたっしたナポレオンは、自作農民の代表者だということになる。しかし、事実をみると、ナポレオンを支持して権力につかせたのは、一群の上層ブルジョアである。シュネーデル(クルゾー工場を経営して機械王といわれる)は強力な支持者で、第二帝政の立法院議長になった。大銀行家オディエは、フランス銀行の有力者であり、統領委員会をつくってナポレオンのクーデターをたすけた。大株式仲買人フールも強力な支持者で、ナポレオンとフランス銀行をむすびつけた。こうして、フランス銀行が、クーデターの費用として、二、五〇〇万フランを貸しつけると決定したとき、それが実行された。フランス銀行の重役は、上層ブルジョアの名門でかためてあり、俗に二百家族といわれる。

第一次大戦のとき、首相としてヴェルサイユ条約をすすめたクレマンソーは、ひじょうな権力をもち「虎」とあだ名されたが、「あなたほどの権勢をもっている人はないでしょう」ときかれると「あるさ、それはフランス銀行の重役さ」と答えた。

そのフランス銀行の重役、すなわち上層ブルジョアのエリートの協力をえて、はじめてナポレオン三世の権力はかたまった。だから、ボナパルティズムとは上層ブルジョアの権力である。農民が支持したということについていえば、それはあくまで、支持者大衆だったというにとどまる。支持者大衆が何かということと、権力を牛耳るものは何かということとは、別の問題だ。

ときにはあざむかれて支持するばあいもある。大統領選挙のとき「ナポレオン万才!金持をたおせ、貴族を処刑せよ、ギロチン万才」の叫びをもって、カガリ火をたいて祝った農民もいる。

しかしこのような支持は幻想でしかなかった。ナポレオンは金持をも、貴族=大地主をも保護した。というのは、けっきょく、かれらの代表者として権力をにぎったからだ。そこで、こんどはクーデターのとき、貧しい自作農や小作農が、ナポレオンに反対して暴動をおこし弾圧された。

このことの意味について、マルクスは誤解している。「しかし誤解しないでもらいたい。ボナパルト王朝が代表するのは、革命的農民でなく、保守的農民である」(同)。前者は、貧しい自作農や小作農、農業労働者だ。かれらは土地革命をのぞんでいる。後者は、富農層であり土地所有権をまもるということで、ブルジョア的大地主や貴族地主と利害の一致をもっている農民である。それは正しい、ただこの事実からナポレオン権力が農民の権力で、ブルジョアジーや大地主から独立し、その上位にあるようにいうことがまちがっているわけだ。富農層は、ブルジョアジーや大地主のあとにくっついて支持し、支持者大衆としての人的資源をさしだしていたにすぎない。

あと一つ、それでは、ナポレオンの親衛隊が「ブルジョアをやっつけろ」と叫んで行動したのは何と説明できるだろうか。じつは、共和派系のブルジョアが攻撃されたのである。これは、中・小ブルジョアジーであり、二月革命の指導勢力だった。ナポレオンは、自分が上層ブルジョアに支持されていることをかくし、巧妙な宣伝戦でこういう手段を利用し、共和派と労働者のあいだにくさびを打ちこんだにすぎない。もちろん、ふくざつな動乱のなかにあって、一部の上層ブルジョアは、共和派をあやつった。ロートシルド家がそうである。だが、これとても、やがてナポレオンと仲なおりをする。おちついたところは、七月王政の延長だった。

ナポレオン一世の権力(第一帝制)は、上層ブルジョアの権力である(この事実は、拙著『フランス革命経済史研究』参照)。だから、いわゆるボナパルティズム論は、信用しがたい。


レーニンの誤解

いわゆるボナパルティズムなどはない。第二帝政とは、本質的に上層ブルジョアの権力である。農村の地域にかぎっては、貴族や大地主が地方的な権力をにぎっている。なにもかわったものはない。あるとすれば、みかけのうえだけのことだ。

おなじことで、統一ドイツの本質は、上層ブルジョアの権力である。ユンカーの権力とはみかけのうえのことだ。みかけにとらわれるのは、本質を見ぬく目をもたないからだ。

これで問題は、きわめてはっきりする。本質的にユンカー・貴族の権力か、それとも上層ブルジョアの権力かである。前者は絶対主義、後者は市民革命後の社会である。こう整理すれば、つぎの言葉もおなじ種類の誤解だと気がつく。

「もし諸君が問題を『歴史的』に観察したいなら、ヨーロッパのどの国の実例も、ほかならぬ、けっして『臨時』ではない一系列の政府がブルジョア革命の任務を実現したこと、革命をうちやぶった政府すら、やはりこの敗北した革命の任務を実現しないわけにはいかなかったことを諸君にしめすだろう」(『レーニン全集』大月版、第九巻、三一頁)

この言葉が、どのように利用されるかはまえにみた。ところが、この言葉は、ドイツの歴史についてのマルクス、エンゲルスの誤りを基礎にしたものだ。もし、貴族・ユンカーが、ブルジョア革命を打ちやぶったときは、ブルジョア革命の任務をはたすはずがない。ただし、この革命運動のなかで、マルクスたちのめざした革命(これは上層ブルジョアの利益をめざしたものではなく、労働者や中産層のものである)は打ちやぶられた。だから、その革命の任務ははたされない。しかし、上層ブルジョアのめざす「革命」は、マントイフェル内閣の時代をのぞいて成功した。この時代でも、完全に打ちやぶられはしなかった。だからブルジョア革命の任務は実現されていた。まして、統一後はそうだ。

どうも、マルクス、エンゲルス、レーニンは、自分のめざす「革命」と、上層ブルジョアの立場からする「革命」を混同し、ブルジョア革命の勝敗を、自分の「革命」のものさしではかっている。これは、主観と客観の混同であり、歴史を科学としてあつかおうとするときに、いちばん気をつけなければならないことである。


カイゼルは去ったが将軍はのこった

いままでの議論は、つぎにくる一九一八年のいわゆる「一一月革命」の評価につながる。マルクス・レーニン主義史学では、統一ドイツは市民革命を完成していないのだから、いずれは市民革命をへなければならないことになる。そこで、それにふさわしい歴史的転期、すなわち、第一次大戦末期、キール軍港水兵の反乱につづく、ベルリン蜂起、カイゼル亡命、ワイマール共和国の成立が市民革命だとされる。

「一九世紀の未完成のブルジョア民主主義革命にもとづき、ドイツは半絶対主義君主国にとどまっていた。……それゆえレーニンはドイツ帝国主義の性格を……『ユンカー的ブルジョア的帝国主義』であるとしたのである。……スパルタクス派はブルジョア民主主義革命を徹底的に最後まで遂行するという革命勢力の主要任務がまだ完了していないことを確認した。……一一月革命はその歴史的任務をはたさなかった。ブルジョア民主主義革命さえも……完全には遂行されえなかった。ただし、支配階級の階級的勢力のあるていどの移動はたしかにおこなわれた。

ユンカーブルジョア帝国主義は、ブルジョアユンカー帝国主義にかわった」(一一月革命四〇周年のためのドイツ社会主義統一党テーゼ)

これが誤りのしめくくりだ。そうではなく、一九世紀の末期(一八七一年)に、市民革命はおわっていた。それからはまさに、ブルジョア・ユンカーの権力にかわった(まえのほうが権力の指導権をにぎるという言葉の約束で)。それでは、一一月革命とはなにか。

これはなんでもない。政治の形式の変化だけで、本質はなにもかわらなかった。『カイゼルは去ったが将軍はのこった』という小説がある。まさにそのとおりで、権力の本質はかわらなかった。だから「一一月革命」は革命ではない。それは政変であった。

05-市民革命ー市民革命としてのドイツ統一戦争

 5 市民革命としてのドイツ統一戦争


自由主義のいきづまり

一八五八年、国王は発狂し、弟のウィルヘルムが摂政になり、六一年、即位してウィヘルム一世となった。摂政のときおこなわれた下院選挙で自由党が絶対多数をしめ、一〇月、マントフェルの保守党内閣は退陣した。かわって、自由主義貴族アウェルスヴァルト、パートフシュヴェーリンらが内閣をつくり、「新時代」がきた。

この内閣は、上層ブルジョアジーとの協調にむかった。五九年、サルジニア・フランス連合とオーストリアの戦争がはじまった。イタリア統一戦争である。このとき、プロシアは軍隊を動員するため「動員債」を発行し、軍備をととのえなければならなかった。五分利付で九、〇〇〇万マルクの公債だったが、国立銀行だけでは消化できず、大蔵大臣パートフはハンゼマンに協力をたのみ、ハンゼマンは、銀行家ブライヒレーダー、ワルシャウアー、メンデルズゾーン、シックラーらをあつめて公債を引受けた。

さて困難はそれからだ。この戦争がおわると、フランスのナポレオン三世は、ライン沿岸(西部ドイツ)に領土をひろげる野心をしめしはじめた。これに対抗するには、ドイツ統一がぜひ必要だった。しかし、オーストリアは、ドイツ連邦を牛耳り、ドイツ統一を妨害する。プロシア以外の中小諸国の政府は、オーストリアにしたがい、プロシアには敵対的である。こうした事情のなかで、プロシアのとるべき道は、二つしかなかった。このまま静観して自減するか、それとも、思いきった冒険をして、ドイツ統一の主人公になって死中に活をもとめるかだ。ここで大問題になったのは、軍事費の増加だった。孤立したプロシアが、ヨーロッパの二大国を相手にして勝負をするには、軍備拡張、とくに陸軍の増強がぜったいに必要となる。それは増税になる。ところが、これをすすんで負担するものがいない。

まず、中小ブルジョアジーを背景とする自由党左派が反対の声をあげた。

「租税の公正な負担、立憲君主民主主義にもとづくドイツ統一」である。だがこれは自由党の右派、すなわち自由主義貴族と衝突した。自由主義貴族は、やはり貴族として減免税の特権をもっている。自分からそれをすてることはない。ついに左派は自由党を脱党し、「民主主義者」と合流して「進歩党」をつくった(一八六一年)。

ここで注意すべきことは、進歩党も自由党もドイツ統一にたいする昔の情熱を失っていったという傾向である、なるほどロではとなえている。だが、空論であり、空論であることが自分でもわかっているから、大ドイツ主義をとなえる。つまり、オーストリアをふくめた統一である。ゆるぎない絶対主義の国オーストリアを、どのようにして「民主主義的統一ドイツ」に含められるのだろうか。いきつくところは、ドイツ統一に反対の役割をはたすということだ。進歩党の主な目標は、軍備拡張に反対し、その費用があれば「民生」の向上にまわせということになった。

自由主義貴族も、ドイツ統一を高唱すると自分に租税がふりかかってきそうになった。それよりも現状のままで権力の座に居すわり、ぬくぬくとした環境にいたい。そうすれば、自由主義的風潮にものり、いい顔をつづけられる。だから、穏健自由党は、軍備拡張、ドイツ統一の主張をひかえるようになった。こうして自由主義は、昔の意味を失い、そのとなえる理想とは逆に、結果的にはドイツの分裂をつづけさせ、封建的ドイツの残存に協力する役割に転落した。それは同時に、国際的にみると、ドイツの自減につうじた。自由主義の進歩的役割はおわった。


ビスマルクの登場

もちろん保守党の首領ゲルラッハは、統一運動に反対で、封建的分裂を最上と考えている。

だがこの保守党の一角がくずれて、ここからドイツ統一をめざす勢力がつくられはじめた。そのあらわれは、ユンカーの出身の将軍ローンにみられる。

軍備拡張が問題になりかかったとき、陸軍大臣はボーニンだった。かれは軍事費の増加に反対し、「民衆の幸福をふみつぶすことになる」といった。これにたいして、摂政は「プロシアのような国では、軍事的必要は、財政的、経済的な事情にしばられるわけにいかない」と声明して対立した。五九年ボーニンは辞職し、ローンが陸軍大臣となり、参謀総長にモルトケを登用し、摂政と相談して軍備拡張案をつくり、九五〇万タラーの増加を議会に要求した。

このときの内閣は、まだ穏健自由党の首相アントン親王、外務大臣シュライニッツを中心とした自由・保守の連立内閣だった。議会では自由党左派が優勢で、軍事費を二回までみとめ、三回目を拒否した。六一年、下院が解散され、総選挙となったが、このときはっきりとした党派にまとまった進歩党が第一党になった。自由党内閣は退陣し、アドルフ親王を中心にした保守党内閣が、六二年に成立した。だが、下院は、進歩二三五、保守一〇〇、自由二三の議席であり、軍備拡張案はとおる見通しがない。九月、この内閣もつぶれた。

進退きわまったウィルヘルム一世は、退位しようかと考えた。このとき、陸軍大臣ローンがこの難局にあたるべきただ一人の人物だといってビスマルクを推せんし、ビスマルク内閣が成立した。


ビスマルクはユンカーの代表者でない

ドイツ統一にのりだしたビスルクは、だれの代表として行動したのであるか。ふつうの書物には、かれがユンカーの代表者だと書かれている。

統一ドイツの「初代宰相ビスルクもこのユンカー層の代弁者で、かれは約二〇年間その地位にあった……」(ソビエト科学アカデミー、『世界史』江口監訳、近代8、八〇頁)

だが、それはちがう。たしかにユンカー出身である。そして、三月革命のときはユンカーの戦闘的な闘士として活躍した。そのため、宮廷党の首領ゲルラッハの信用をえた。かれの推せんで、一八五一年、ビスルクは、ドイツ連邦議会のプロシア代表になった。ここでの経験をとおして、かれはユンカーの代表者としての立場からはなれていったのである。オーストリアとの対決が、宿命的であると知ったことによる。

着任してから一カ月ののち、レオポルト・フォン・ゲルラッハにそのことを書いた。

「オーストリアとプロシアの親善協約があるのに、ここでは、オースリアかプロシアかという党派的な立場が問題になっているように思えるのは悲しいことである。ここでの分類は、オーストリア的、プロシア的、またはどちらでもないというふうにひかれなければならないだろう。ところで、隣国の君主たちは、はっきりと反プロシア的であり、心の底から親オーストリア的である」

ビスルクとトゥーン(オーストリア代表)は、ドイツ連邦の共同艦隊(北海艦隊)の問題について対立した。この艦隊の水兵の給料を、どのようにして支払うかというのである。ロートシルドが保管している共同基金から支払うというビスマルクにたいし、トゥーンは、この資金に手をつけず、これを担保として借款をしようといった。このはげしい対立のため、共同艦隊は解散され、競売された。これについてビスマルクはいう。

「けっして個人的な対立でなく、両国政府のものであり、一時的なものでなく、政治的、歴史的関係によるものである」

「われわれは、おたがいに、ロの前にある空気を吸っている。どちらかが屈伏するまで、敵対しなければならない。それがいかに不愉快なものであっても、それは無視できない現実だと思う」

また、のちの思い出としていう。

「私は、私の転向について思い出す。それは私が、いままで知らなかったシュワルツェンべルグ公の、一八五〇年一二月七日の訓令を見たことである。……私はそこで、かれ(オーストリア首相)の政策『プロシアの地位をおとしのちに叩きつぶす』を知った。これが私の青年時代の幻想を破ったのである」

こうして、オーストリアとの対決をさとった瞬間に、宮廷党の首領ゲルラッハと対立した。ビスマルクは、フランスとの関係を改善して、オーストリアにあたろうと考えた。

「われわれは、国内政策ではまったく一致しているが、君の対外政策には賛成できない。それは現実を無視しているといわなければならない。……同盟は、共通の利益、目的があってこそ成立する。……ところが、わが国が同盟しようとしているオーストリアとドイツ諸国については、わが国の利害が一致しないのであった。……もちろん、私は、フランスと同盟してドイツに陰謀をくわだてようとするのではない。しかし、フランス人がわが国に冷静な態度をとっているかぎり、かれらと親しくするのは、かれらに冷くするよりも合理的ではなかろうか」(五七年五月二日)

こういう考え方は、正統派のユンカーには受入れがたい。かれらにとって、ナポレオン三世とは、革命の成上り者であり、ブルジョア君主制の代表である。それだけに、ビスマルクの考え方をきくと、正統派ユンカーの目には、ビスマルクが「革命」に同調しているように思える。そこでゲルラッハは答える。

「それでは君は、プロシアとオーストリアが対立し、ボナパルト(ナポレオン三世)がデッサウまで支配し、ドイツでは、かれに相談なしになにごともできなくなるという状態を幸福だと考えるのだろうか。……私の政治的原則は革命にたいする闘争であり、またつねにそうだろう。君は、ボナパルトに革命のがわにつかないよう説得できない。かれは、革命そのものである。なぜなら、かれは革命から利益をえているからである」(五月六日)

こうして、ゲルラッハとビスマルクの友情はさめた。そのとき、ビスマルクは、宮廷党=正統派のユンカーの代表者であることをやめた。それではだれの代表者になるかといっても、すぐには新しい勢力がつくれるわけではない。さしあたりは孤立する。その頃、かれは駐露大使として、国内の事情からはなれた立場にたつことになる。かれはただ、オーストリアとの対決、ドイツ統一という目標をもっただけである。その目標のために現実に可能な方法をとり、それに賛成するあらゆる勢力を結集するという態度がきまった。

「じつに政治家は、森のなかをすすむ旅人ににている。かれの目標は知っているが、そこへ行きつく道についてはあらかじめ定めていない」


ビスマルクのマキュベリズム

かれは権力をにぎると、軍備拡張、オーストリアとの対決の政策をすすめる。国内では、進歩党、自由党、保守党との対決になる。いわば、全部を敵にまわしているようにみえるが、かれにとって都合のよいことに、この三派はまた敵対している。そのあいだをぬって、かれはどこに支持者をみつけようとするのか。

その第一は、ドイツの中小諸国のブルジョアジーである。かれらは、ドイツ統一をのぞみ、プロシアがそれにのりだすならばたすけようとかまえている。五九年、オーストリアとフランスが講和をむすび、フランスの領土的野心がドイツにうつった頃、この危険にめざめた中西部ドイツのブルジョアジーが国民同盟をつくった。その中心人物は、ハノーヴァー人のべニクセンである。かれらの利益を代表して、この年経済学者の大会がフランクフルトにひらかれ、「工業上の自由、国民的統一の実現」を主張した。

五九年八月、国民同盟は宣言した。

「われわれは、祖国ドイツの独立が危くなっていることをしる。それは、オーストリアとフランスの講和によって、かえって増大した。この危険のもっとも大きな理由は、ドイツの体制の欠点からくる。この体制をただちに変革することによってのみ、危険をのぞくことがてきる。……このために、ドイツに強力な中央政府をつくり、全ドイツの国民議会を召集する必要がある。……そしてプロシアが、強力で自由な体制にむかってすすむかぎり、ドイツ人はプロシア政府を最大限に助けなければならない」

この運動は、ドイツ諸王国の政府と対立し、ハノーヴァー政府は国民同盟を弾圧した。ビスマルクはそこに目をつけた。国民同盟の流れをくむブルジョアの支持をえて、各国政府を撃破しようというのだ。この政策は、ながい時期にわたって、しだいに整理されてきた。

「プロシアの利益は、オーストリア以外の多くの連邦人民の利益と完全に一致する。しかし、ドイツ連邦諸国政府の利益とは一致しない」(一八五八年三月)

このばあい「人民」とは、ブルジョアジーと解するのであり、かれは、ブルジョアジーが下層階級と同盟した革命の道をすてはじめたことを知っていた。

五一年「革命的な歌を高唱」した青年にたいし、「ブルジョアの思想として注目すべきことは、『所有階級』がそれにたいして憤りをあらわしていることである」という。このブルジョアジーと同盟しても、財産をくつがえす「革命」にはならないだろうとみた。

しかし、プロシアでは事情がちがう。国民同盟のながれをくむのは、進歩党であり、進歩党は自由を要求し、軍事予算に反対する。これでは現実に、ドイツ統一を妨害する。プロシアでは、これを弾圧しなければならない。そのふくざっな関係についていう。

「われわれは、小国ゴータ派(国民同盟の前身)にたいして、ちょうどルイ一三世、一四世が、ドイツのプロテスタントにたいしたのとおなじ関係にたっている。わが国においてかれら『ゴータ派』はなんの役にもたたないが、小国においては、かれらは、わが国について何かを知ろうとつとめているただ一つのものである。かれらのほかは、『黒』(オーストリア派)か、または民主主義者である」(五三年一一月、ゲルラッハあての手紙。ルイ一三世、一四世などのフランス国王は、国内での新教徒を弾圧しながら、ドイツの新教徒をたすけて、敵国オーストリアの力を弱めたことがあった。この故事をいう)

こうして整理されたかれの考えかたはローンへの手紙にまとめられた。

「私の感じをところでは、わが国のいままでの政策のおもな欠点は、われわれがプロシアでは自由主義的に、外国にたいしては保守的に、すなわち、われわれの国王の権利を安く、外国の君主をあまり高く買ったことである。それは、諸大臣の立憲的な傾向と、正統主義的な外交政策のためである。私は、私の君主には極端なまでに忠実だが、よその国の君主には、一滴の血もやる気はない」

これは、ビスマルクをローンが推せんする三カ月前のものである。そこで、首相になってもその方針をつらぬく。

かれは、「普通選挙法」の草案を紙ばさみのなかにかくしもっていた。そして、六五年オーストリアが全ドイツ君主会議を召集したとき、プロシア王に出席させず、あわせて将来、普通選挙制を実施すると声明し、国民同盟の支持をえることにつとめた。中小諸国の政府の足元をさらおうという政策である。


決死の鉄血宰相

六二年九月、ビスマルクが首相になり、軍備拡張案が下院に提出され、進歩党の反対にあって通過しないとみると、六三年五月、上院の承認だけで四年間は有効だといい、下院を無視して軍備拡張を実行した。

ドイツ統一は「言論によってではなく、鉄と血によってのみ実現される」

これにたいして、進歩党はごうごうたる非難をあびせ、自由主義貴族もビスマルクに反対し、シュヴェーリン伯などは「今に革命がおきる」と脅迫した。

だがビスマルクは、六月、出版条例で追い打ちをかけ、政府批判派の新聞を弾圧した。非難はますますはげしくなり、ついに自由党に同調する皇太子夫妻(妃が英国ヴィクトリア女王の娘として主憲主義者)までうごき、皇太子は、ダンツィッヒ市で市長の要請をうけて市民のまえにたち、出版条例を暗に非難した。

こうした反対を、かれは覚悟していた。かれが首相になる直前、王と会見したときの問答がそれをしめす。

「君は、多数決にこだわらず支配しようとするのか」(王)

「そうです」(ビスマルク)

「予算案が成立しなくてもか」(王)

「そうです」

「なによりもまず、王は、退位のことについてふれた文書を仕未し、そのうえ、こうした考えかたをすてさらねばなりません」

もし革命がおきたばあい、「私はストラットフォード伯のように死にますから、陛下は、ルイ一六世のようにでなく、チャールズ一世のように信念をもって死んでいただきたい」

やがて、シュレスヴィッヒ・ホルシュタイン問題がおきた。ここには、キール軍港があり、ドイツ民族の住民が多いのに、デンマークに占領されている。三月革命のとき、革命運動はデンマークからの解放運動になり、これを利用してプロシアは出兵してデンマークと対戦したが成功せず、八月、マルメーの休戦で手をひいたことがある。

六三年、デンマーク王が死ぬと、ビスマルクは、ドイツ統一の第一歩として、この地方を獲得しようとした。「だがあらゆる人が私に反対である。オーストリア、ドイツの諸君主、プロシア宮廷の貴婦人、自由党、イギリスである。ただナポレオン三世だけは反対でない。王すらも、ながいあいだ私の考えをとり入れようとはしなった」「皇后、皇太子夫妻、ドイツ諸君主、そのうえ、ドイツの与論をつくっているとおもわれるひとびとの非難は、王に影響をあたえないはずがなかった」

自由主義的な皇太子は、ビスマルク外交を「暴力的無責任」と非難した。


貴族の一部とビスマルク

ビスマルクは、まさに四面楚歌のなかにいる。それでいながら、がっちりと権力をにぎっている。失脚もせず、殺されもしない。それならば、なにか強力な支持者がいるはずだ。その支持者を知ることが、ドイツ統一の本質をみるためにもっとも重要なことである。

かれの支持者はなにか。それは、最初からまとまった勢力としてあったわけではないが、諸党派、諸階級の対立、混乱のなかから、かれのもとにあつまってきたものである。保守党=ユンカーの少数派、ブルジョア的大貴族のかなりの部分、上層ブルジョアのうち軍需工業に関係をもつものである。

貴族・ユンカーのうち、きっすいの軍人のなかに、オーストリアにたいする屈伏を憤慨し、プロシア王国軍の強化をのぞむものがかなりいた。こういう人びとは、宮廷党の政策に反対し、ビスマルク支持のがわにまわる。陸軍大臣ローンはその一人である。ナッメル将軍は、五一年、ときの王弟(のちの国王)に書いた。

「私は去年一一月、愛国の誇りをもって、祖国の奮起と興隆をみた。それは、ちょうど一八一三年(祖国解放戦争)のときとおなじであった。残念なことに、私の誇りはたちまちきえた。

……私は、政冶について多くを知らない。とくにマントイフェルの政策についてはそうである。しかし、たとえこのような政略についてわずかしか知らないとしても、殿下の武力にたいして期待をもち、また将来についても期待をもつものである」

つぎに、貴族・ユンカーのうち、商工業に進出した人物、または、商工業者とさまざまな動機で結合し、同情者の立場にたった人物がいる。

カルドルフは、メクレンブルグの貴族、シレジェンに騎士領をもっていた。四〇年代製鉄所を経営し、六九年国営ケーニッヒス製鉄所とそれに付属する鉄鉱床・炭坑の払下げをうけ、合併して七一年に株式会社合同ケーニッヒス・ラウラ製鉄所を設立し、監査役主席になった。

シュトウームは、ザールの貴族でザールの大鉄鋼業者だった。この二人は、六六年、保守党から脱退して、自由保守党をつくった。自由保守党は、もちろんビスマルクの完全な与党である。

オーベル・シレジェンの大貴族であり、かつ鉄鋼業を経営しているドネルスマルクも、ビスマルクの支持者である。このような、大土地所有(=貴族)、山林鉱山所有、工鉱業経営の結合の三位一体をしめすものには、ティーレヴィンクラー、レナルト、フルドシンスキー(鉄鋼)、プレス、ラティボール、ホーヘンローヘ(石炭)などがいる。


ビスマルクと大銀行家

大銀行家の多くも支持者である。ブライヒレーダーは、ユダヤ人でベルリンの大銀行家、フランスの大銀行家。ロートシルドと深い関係にあり、その代表者格だった。ビスマルクは、ブライヒレーダーととくに親しく、私財の管理をまかせきりにし、かれが買入れた品物の請求は、ブライヒレーダーにされることが多かった。ビスマルクは、かれが提案したプロシア国立銀行の案を採用し、大蔵大臣ではつくりだせなかった軍事費をかれにたのんだ。かれは、英仏二国にいるロートシルド家と協力し、プロシア公債の発行に成功した(イギリスでは、ロスチャイルドと発音する。もとはドイツの家族からでて、兄弟がそれぞれ英仏に派遣されて住みついたのである。両国ともに最大級の銀行で、英国のロスチャイルドは、首相ディスレリーがスエズ運河株を買収するとき借金を申しこむと、大英帝国を質に入れるといわせて金を借した。またド・ゴール大統領のもとでの首相ポンピドゥーは、ロートシルド銀行の出身である)。ビスマルクは、かれのおかげで議会や大蔵省を無視できた。鉄血宰相の自信の背影である。

ブライヒレーダーは、七一年、フランスとの賠償問題がもちあがったときも、ヴェルサイユによばれている。

またビスマルクは、ブライヒレーダーの仲介で、プロシア軍事公債引受のための「ロートシルド・コンソルティウム」をつくった。これは、ディスコント・ゲゼルシャフトが指導権をもち、ブライヒレーダー、ロートシルド、ダルムシュタット銀行が参加する公債引受団である。

これで、ハンゼマン(ディスコント・ゲゼルシャフト頭取)、メーヴィセン(ダルムシュタット銀行)も、かつては自由主義者だったが、いまはビスマルクを支持するがわにまわったことがわかる。

ビスマルクは、フランクフルトのロートシルド家も支持者につけた。この大金融業者は、かつてビスマルクが北海艦隊の問題で、オーストリアと対立したとき、オーストリアのいいなりになったので、ビスマルクは怒り、絶縁しようとした。このとき、カール・ロートシルド(四男)がビスルクを訪問してあやまり、そののち、二人のあいだは親密になった。ビスマルクは、ときの首相に「これからのちロートシルドに、プロシア王国の宮廷御用をまかせてはどうか」という手紙をだしている。また「ロートシルド家は、けっして反プロシア的な傾向をもっていない」とも報告した。こうして、プロシア公債引受団に参加したロートシルドは、プロシアとオーストリアが開戦したとき、オーストリア公債の引受けを拒否し、メッテルニッヒ夫人が「これからは、ロートシルド家を紳士としてあつかわない」と宣言するまでオーストリアに憤慨された。

これら大銀行家は、たしかに特権的でもあり、寄生的ともいわれるような性格をもっていた。しかし、ユンカー保守党とまったくおなじ利害をもっていたというわけでもない。たとえばかれらが「プロシア農工信用組合銀行」をつくり、ここに大貴族の富をひきこもうとしたとき、宮廷党の内閣に拒否された(一四一頁参照)。そのかぎり対立があるわけであり、ビスマルクが商工業を育成しようとすれば、そちらへむかうのはとうぜんだ。

たとえば、五七年の経済恐慌で破産したドルムトン鉱山会社を、ブライヒレーダーとベルリン商業銀行が買取り、製鉄所と合併し、プロシア鉱山会社をつくる申請が六六年二月になされた。すると、三月に許可された。宮廷党が許可をひきのばしたのとは大ちがいである。


クルップとビスマルク

クルップは、三月革命のときに、自分の労働者を革命に参加させなかった。工場にくれば賃金を支払った。それだけの統制力をもっていた。ところが、プロシア政府とは、ながいあいだ対立していて、政府の援助をうけられなった。

それは、かれがほかの工業家とちがって、時代の先に立っていたからである。かれは、どんどん、優秀な製品をつくった。優秀な製品には、それだけ大きな設備がいる。そのためには、政府の財政からの援助がいる。当時の政府には、そのための余裕がない。そこでいきおい冷次になる。

陸軍省は、クルップの申し出をことわり、耐久性がないことを承知のうえで、安上がりの青銅製の重砲をつくらせていた。クルップは、プロシアに野砲もすくなく、陣地砲も古くなったことを忠告していた。その意見は採用されなかったが、軍人のなかの少数は、クルップの仕事を理解していた。

ホーヘンローエ公は、砲兵に属し、大砲の試験委員としてクルップの大砲のすばらしさをみとめた。そして、これを拒否した陸軍省を「この時代の、もっとも笑うべき官庁」といった。

ショルンは国防大隊中尉から、のちに大審院長になったが、クルップの胸甲のすばらしさをみとめた。かれは、クルップと四〇年あまりの交友関係をもった。

こうした状態は、宮廷党内閣の退陣、自由主義貴族の内閣成立でうちやぶられた。五九年五月、政府は、クルップに野砲として、三〇〇門の鋳鋼砲を注文した。このおかげで、兵器工場としてのクルップ会社が生まれた。かれを支持したものに、摂政ウィルヘルム一世、首相ホーヘンツォルレン・アントン親王、あたらしく総務局長になったフォイグレーツ将軍などがいる。

しかし、支持はまだ十分でなかった。内閣には強力な敵がいた。それは、皮肉なことに、自由主義者の通商大臣フォン・デル・ハイトだった。クルップは、かれと個人的に喧嘩をしたことがある。そこでかれの鋼鉄をプロシア国鉄に採用してもらおうと運動しても成功しなかった。

かれの製品の優秀さは、外国や、ほかのドイツ諸国ではみとめられて注文がきていた。その事臂を説明し、首相アントン親王に、もしかれの工業が外国へ追いだされたとすると「その責任は、大臣ハイトのものである」とまで書いた。首相と摂政はクルップのがわに立ち、クルップの製品を採用すべしと通商大臣に命令したが、大臣は命令の手紙を四週間放っておいて、拒否の返事をした。

六五年、クルップの危機がきた。政府のもっていたミューゼン鉱山(鉄)が競売された。このため、かれはその鉄鉱石を利用できなくなった。そこで、鉄の品質はやや劣るが、ザイン鉱山を国庫から買うことにきめた。だが、これにはげしい反対がおこった。ハイトを中心にした官僚、新聞の勢力である。かれらは、競売にせよと主張した。クルップはいう。

「わたしは、おなじ材料からおなじ製品をつくるために鉄鉱石が必要だった。とくに大砲のためにそれが必要だった。わたしは陸相ローンをたずねた。だがかれがそのときしめしたものは、わたしが、ほかのものをたずねてなんども経験したような無関心であった」(まったく無関心ではなかったが、役目をとびこえ、王に直接進言するのをことわったのである)

「わたしは心配と興奮のあまり病気となり、数週間のうちにみるかげもなくやせおとろえ、おかげで髪はまっ白になった。もしあのとき、炭坑と鉄鉱所が手に入らなかったら、工場は減んでいたろう」

このとき、強力な援助をしたのはビスマルクだった。かれは、クルップの工場を視察し、邸宅に二晩とまりこんで会談し、意気投合した。そのときにビスマルクがいったという言葉がある。

「わたしは、あることを正しいと考え、またそれが必ず達成できると考えると、もっとも老練で小利口な人間が、それを不可能だといっても、わたしはどこまでもやりぬく」

このすぐのちに、鉱山の事件がおきた。ビスマルクは、クルップを強力に援助し、プロシアの名誉と義務」のために全力をあげるといった。国王に直接進言し、クルップへの売却を実現した。

「とにかく採用ときまった。だが、これは当時の官庁行政の恥だったが、ビスマルクは国王とともに、わたしにこのための援助をしてくれた」


自由主義的ブルジョアとビスマルク

ふるくから信念として自由主義をもっていたブルジョアジーは、ビスマルクにたいして微妙な態度をとった。その自由主義思想は、ビスマルクの弾圧政治に反対だ。しかし冷静にみると、その政策はかれらの利益になることが感じられる。ときには、実質的な利益をえることがある。すると、経済政策には賛成せざるをえない。信念と実利の分裂がおこった。そこで、口先で反対するが、まあまあということで結局協力するようになる。

ながいあいだ、通商大臣を歴任したハイトは、ビスマルクと衝突して辞職したが、議員としては、ビスマルクの方針に賛成した。

ハンゼマンのディスコント・ゲゼルシャフトも軍事公債引受けで協力した。なお、この銀行は、オーストリアの公債を六四年に引受けた。これは同国とプロシアの戦争の直前である。かれの自由主義的信念と、絶対主義国の公債を引受けてその国の経済をたすけることは矛盾するが、商売とわりきっている。こうみると、ハンゼマンのその場かぎりの利益と、国家的見地からみたながいあいだの利益とは矛盾する。かれの自由主義や、経営だけでは、自分らの階級を救うことがではない。ここにビスマルクの歴史的意味があった。ビスマルクの政策のほうが、かれらの長期的利益を実現していた。その意味では、賢明な指導者と、おくれた大衆(といっても有産階級の)のずれがあったわけだ。


ジーメンスとビスマルク

ジーメンスは、現在大電機会社で、日本の富士電機と提携し、大株主になっている。戦前、日本海軍と取引きをして、ジーメンス事件という有名な汚職事件もおこした。

ウェルナー・フォン・ジーメンスは、農民の子で、砲兵士官になり、四七年一〇月、技師のハルスケといっしょに電気機械の小さな工場をつくった。資金は、いとこで法律顧問官のゲオルグ・ジーメンスから六、〇〇〇タラーを借りてつくった。これが、ジーメンス・ハルスケ商会のはじまりである。

かれは、三月革命のとき、キールで市民軍を組織してデンマークの要塞を攻略し、司令官になったことがある。このとき、電気機雷と砲撃で名をあげた。そののちは、電線を敷設することに活動し、政治的には、国民同盟に入って自由主義とドイツ統一をとなえた。六二年の選挙で当選し、議員となって進歩党にくわわった。この党は、ビスマルクの軍拡案に反対投票をした。ジーメンスはいう。

「問題の中心は、政府案でプロシア陸軍がじっさいに二倍になり、それとともに陸軍予算がふくれたことであった。国内の空気は、この軍事費の負担にたえられない。それは国民をすべて貧困のどん底につきおとすというようだった。……プロシアがドイツを統一するといった信念、プロシアの興隆にたいする信念は、かげをひそめた。ドイツの統一と、将来の発展にたいするもっとも真剣な狂信者も、プロシアの愛国者ですら、この新しい、ほとんど調達不可能のような軍事費を背負いこむことは、みとめられないと考えた。議会の大多数は、心苦しく思いながらも、政府の再編成案を否決してしまった」

このとき、かれは否決を心苦しく思ったため、ビスマルクと進歩党との調停をしようと努力した。そうして匿名のパンフレット「軍事問題について」をかいた。

プロシアがオーストリアをやぶったのち、ビスマルクが下院に軍事予算の「事後承認」案をだしたとき、進歩党の幹部はこれも認めまいとした。このとき、ジーメンスは党大会で熱心に力説し、政府と進歩党の妥協につとめ、そのため軍事予算は承認された。

こういうかれの態度は、それなりに原因がある。というのは、プロシアがオーストリアをやぶった原因のひとつに、鉄道と電信を有効につかった戦術があった。軍備拡張に電信の発達がともなったのである。五〇年の電信局四〇、電信線四、〇〇〇キロメートルが、六六年には電には電信局一、二〇〇、電信線五〇万キロメールとひじょうな発達をしめした。ジーメンスは、この注文にあずかれるわけだ。そのような波にのって、かれの会社は、自己資本だけで成長していった。そこに、ビスマルクとの一致があった。


ビスマルク権力の背影

ビスルク権力の支柱は、貴族・ユンカーの一部、とくにエ鉱業に進出したブルジョア的貴族と、重工業の産業資本家、大銀行家である。

これを足場として、一方でユンカーの保守派=宮廷党をおさえ、他方で自由派の貴族や進歩党をおさえる。進歩党の背後には、軍拡で利益をうることのない商工業者の不満があった。自分の支持者もよせあつめで不安だが、反対派も分裂していることがつよみだ。

かれは労働運動にも目をつける。指導者ラッサールと会見し、「われわれは、ブルジョアとの闘争で、利害が一致しているではないか」とさそいをかける。これは、進歩党系をはさみうちにしようとする策略である。

しかも、国内では自由主義を弾圧し、国外には自由主義をしめし、オーストリアとの戦争を準備して軍備の増強につとめる。

この政策はまた、当時の経済状態の必要に一致した。五七年に深刻な経済恐慌があり、工鉱業はとくに打撃をうけた。ハルペン会社やフェニックス会社は破産寸前となり、ドルトムント鉱山会社は破産して、ベルリン商業銀行に買取られた。しかし、不況のため五〇年代は営業が停止されたままだった。

こういう沈滞をやぶったのが軍備拡張である。これとともに鉄道、電信がのびた。それが好況へ転じさせた有力な原因になった。クルップ、ジーメンスはもちろんのこと、多くの産業資本家がこの波にのって成長した。

グリロは、不況のときに鉱山を買いあつめ、好況になるとともに大規模な炭鉱を開発し、鉄とむすびつけた。

シュトロウスベルクは、ドイツ統一までに鉄道に関係する総合的企業をつくりあげた。また、ボルジッヒ(機関車)、ティッセン(ザールの炭鉱業カイザー鉱山の経営者)、シュティネンス(ルールの石炭)らが大いに発展した。

ティッセンやシュティネンスはのちに、ナチスの支持者となり「死の商人」だといって非難されるが、この時代は新興産業資本家ととし、プロシアの未来をにない、自分の利益とドイツの利益を一致させることができたのだ。ビスマルクのさぐりあてた方針が、期せずしてかれらの利益と一致した。


ビスマルクの勝利

六四年、プロシアとオーストリアの同盟軍がデンマーク軍をやぶり、一〇月のウィーン条約でシュレスヴィッヒ、ホルシュタイン、ラウエンスブルグの三州がドイツの手に入った。

つぎの問題は、この三州をだれがとるかということだった。ビスマルクは、プロシアがとり、とくにキール軍港をとりたいと考えた。

オーストリアは、これをプロシアへやるかわりに、プロシアの領土がほしいといった。

他のドイツ諸国は、この三州を独立の小国家にして、アウグステンブルグ公を君主にたてたいといった。

ただ、ハノーヴァー王国だけは、これにも反対した。そうすれば、アウグステンブルグ公が自由主義的憲法を発布し、プロシアのがわにつくからというのである。つまり、この国は、もっとも反プロシア的な態度だった。

オーストリアは、領土をプロシアにもとめて拒否されると、独立国をつくる案にかたむいた。

こうなれば、戦争はさけられない。ビスマルクは、イタリア国王との同盟をもとめ、ナポレオン三世には、ライン地方をゆずってもよいというロぶりをもらして中立の態度をさそい、戦争の体制がととのうと、開戦を主張した。

プロシア国内では反対がうずまいた。保守党=宮廷党の多数は反対した。かれらは、ビスマルクを「革命家」あつかいにした。自由党も反対した。皇后、皇太子夫妻は、ビスマルクを罷免して、三州を独立国にして妥協しようとした。皇太子は「オーストリアとの戦いは兄弟戦である」といって反対した。下院では、多数派の進歩党が戦争に反対して軍事公債を拒否した。

こうしたなかで、ビスマルクは、「いっそのこと、窓から身を投げて死んだほうがどんなに楽か」と考えたそうだ。

けっきょく、ビスマルク、ローン、モルトケの主戦論がおしきり、六六年六月二一日、オーストリアに宣戦した。オーストリアの要求により、ドイツ連邦議会は、多数でプロシアに宣戦した。

ハノーヴァー、バーデン、ザクセン、ヘッセン・カッセル、ヘッセン・ダルムシュタット、バイエルン、ヴェルテンベルグなどの諸国がプロシアとの戦争に入った。これらの国の貴族は、オーストリアが自分らの貴族政治のとりでだと考え、プロシアの勝利は、すなわち、自分達の権力の滅亡だと知っていた。

ヘッセン・カッセル侯は、六二年に議会を廃止しようとし、ビスマルクは、ここの議会を援助した。

ヘッセン・ダルムシュタットでは、ドイツ分裂を主張するダルヴィークが大臣になり、プロシアと対立していた。

さて、プロシアは、オーストリアとドイツのほとんどの諸国を敵にまわして開戦したが、六六年七月三日、ケーニッヒスグレーツ(サドワ)の会戦でオ1ストリア軍を撃破した。これで勝利は決した。オーストリアは屈伏し、プロシアの行動をみとめた。ハノーヴァー王国は、一〇月プロシアに合併された。ここの王のゲオルグ五世は、海外に亡命して王位を主張しつづけたが、ビスマルクは王室財産を没収し、この資金でハノーヴァーの新聞を買収し、プロシアを支持させた。ザクセンはプロシア軍に占領され、国権をすてた。ヘッセン・カッセルは合併された。ヘッセン・ダルムシュッタットは、領土の一部を合併され、国権をすてた。

この成功は、国内での反対派をよわめた。進歩党の多くは脱党して、八月国民自由党をつくり、ビスマルク支持にまわった。べクセンが党首になり、ハンブルグの大商人ヴェールマン、自由主義貴族シュヴェーリンをはじめ、ザクセンの繊維工業家、鉄鋼業者が参加した。辞職していた銀行家ハイトは、大蔵大臣にもどって全面的に協力した。

保守党からもビスマルクの支持者が脱党し、自由保守党をつくり、ビスマルクの与党になった。これは、すぐのちに帝国党と名をかえた。


北ドイツの統一

六七年二月二四日、北ドイツ連邦が組織された。北ドイツ諸国二二カ国があつめられ、軍事、外交、逓信、運輸などの実権がプロシア王と首相の権限に入った。上下両院をつくり、下院には普通選挙制をとり入れた。これをさだめた憲法に、保守党と進歩党が反対した。保守党は、普通選挙に反対し、進歩党は、立憲政治の不十分さのゆえに反対した。しかし、帝国党と国民自由党が賛成した。

度量衡は統一され、同業組合(ギルド=ツンフトの特権)、旅券制、ライン河・エルべ河の河川税(通行税)は廃止された。政府は、産業の育成、鉄道網の整備に力を入れた。

ビスマルクは議会にたいして、過去の議会無視をあやまり、かれの方針をあとからみとめた「事後承認案」が通過した。こうして、かれの権力は強化された。


ドイツ統一の完成

南ドイツ諸国のバイエルン、ヴェルテンベルグ、バーデンなどは、プロシアに賠償金を支払っただけで、いぜんとして独立していた。バイエルンでは、六六年一二月、ホーヘンローエが首相兼外相となり、ビスマルクと協力し、保守派(=カトリック派)貴族をおさえ、プロシア風の軍隊改革をすすめ、南ドイツ諸国の統一につとめた。この人物は、バイエルンの名門貴族で、プロシアの官界にも入ったことがあり、四六年に帰国して家名をついだ開明的な貴族である。

だが、七〇年三月、保守派貴族の反撃をうけて辞職した。いぜんとして、南ドイツでは、貴族独裁=絶対主義が腰をすえていた。

この権力を破壊することは、プロシアの軍事力からするとやさしいことだった。ただそれを妨害した強大な力があった。それは、フランスのナポレオン三世である。かれは、南ドイツに領土的野心をもち、そのためドイツの分裂をのぞんだ。プロシアにとって、オーストリアとフランス相手に、二正面作戦をすることはむずかしい。そこでビスマルクは、北ドイツの統一だけにとどめ、フランスと決戦をするための準備として、オーストリアに寛大な講和条件をしめした。背後をかためると、軍隊を動員し、エムス電報事件を利用して、七〇年七月一九日開戦にもちこんだ(スペイン王のあとつぎをフランスとプロシアのどちらからだすかという争いがあったとき、ナポレオン三世からプロシア王にひくことを要求した最後通告があった。王は、保養先からビスマルクに、電報でゆずれと訓令したが、かれは、この電報を偽造してあくまでゆずらぬと発表し、フランスをして宣戦をよぎなくさせた)。

開戦してみると、プロシア軍は準備がととのっているのに、フランスのほうは準備不足だった。九月二日、ナポレオン三世はセダンで降伏し捕虜になった。パリの反乱でフランスの臨時政府が成立し、七一年二月、休戦協定がむすばれ、五月、フランクフルトの講和で戦争はおわった。

そのあいだに、ビスマルクは南ドイツの諸国の統一をすすめた。バイエルン王ルートヴィッヒ二世は、連邦制にしがみつき、国家元首を交代制にしようといったが、ビスマルクにしりぞけられた。それ以上の反対は不可能だった。七一年一月一八日、ヴェルサイユ宮殿でドイツ帝国の成立が宣言され、プロシア王ウィルヘルム一世がドイツ帝国の皇帝になった。ドイツ統一は完成した。


ブルジョア革命の完成

ドイツ統一の歴史的意義は、ドイツにおけるブルジョア革命の完成ということである。

ドイツ帝国では、首相と大臣が外交、軍事、司法、交通、郵政、通商、関税の権力をにぎり、その他の権限が、それぞれの小国家にのこされた。帝国政府の財政は、間接税と、各小国家からの貢納金でまかなわれ、各小国家は直接税を徴収できた。連邦参議員には、それそれの王侯家、都市参事会員とともに、指名による議員が入り、帝国議会の議員は、全ドイツの普通選挙でえらばれた。

それぞれの小国では、むかしの政治制度がつづいている。それだけに、そこをみると貴族の権力がつづいている。とくに、メクレンブルグやバイエルンはそうだ。

しかし、そのうえに帝国の中央権力、すなわちビスマルクの権力がかぶさり、間接税と貢納金をとる。おもな権限も中央政府にある。のこされたものは、地方自治としての意味あいしかもたないものである。そこで、統一ドイツの社会的性格は、ビスルク権力の性格によってきまる。ビスルク権力の支柱は、帝国党と国民自由党、すなわち、ブルジョア的貴族と上層ブルジョアである。ドイツ統一は、プロシア以外の国において、貴族独裁からブルジョア的貴族と上層ブルジョアの支配にかえた。そのかぎり、全ドイツの規模でブルジョア革命は完成した。

プロシアでは、三月革命でブルジョア革命がおこなわれ、マントイフェル内閣で反動期をむかえたが、完全な絶対主義にもどりえず、ビスマルク権力の成立で、その成果はたしかなものになった。

こうみてくると、ドイツにおける市民革命の時点はいっかという質問にたいしてこたえることができる。それは、三月革命にはじまり、ドイツ統一戦争によっておわったと。


与野党の逆転

全ドイツで貴族とブルジョアの立場はかわり、与野党の立場は逆転した。プロシアの保守党には、クライストレツォー(かつてライン州長官として、自由主義を弾圧したユンカー)などが幹部としてのこっていたが、帝国議会では議席がひどくへった。この党は、いつまでも帝国憲法に反対した。

ほんらいの貴族の主張、すなわち分裂主義は中央党に代表された。この党は、カトリックを主張していたが、カトリック教徒はつねに分裂主義者であり、オーストリアの味方だった。この党をつくったのはヴィルンホルスト(ハノーヴァー王国のもと法相)、ライヘンシュペルガー(プロシア最高裁判所判事、ライン州のカトリック派司教の首領で、ドイツの分離主義者、国会議員)、ルートヴィッヒ・フォン・ゲルラッハ(宮延党の首領)である。かれらの出身地はちがっていても、貴族独裁=絶対主義へもどるという理想で一致していた。南ドイツの貴族・高級官僚やプロシアのカトリック派大貴族、マインツ司教など高級僧侶(教会は大土地所有者であり、高級僧侶は貴族出身者である)が指導権をにぎり、そこに南ドイツの富農、ハノーヴァーの農民、ライン地方の手工業者、オーベル・シレジェンにいるポーランド系の労働者(ドイツ人新教徒の工場主と対立した)などが人的資源を供給した。この党の性格は、一種の反資本主義的性格をもつ民衆を支持者にし、指導権が旧封建支配者の手にあるというものだった。

ビスマルクは中央党をはげしく弾圧した。いわゆる文化闘争である。中央党のがわではマインツ司教が指導者となった。ポーゼン大司教は投獄され、ブレスラウ大司教、ケルン大司教は逃亡した。七五年、プロシアの一二の司教職のうち、八つがあいたままになっていた。こうして、封建支配者は弾圧されるがわにまわった。

これにかわって、帝国党や国民自由党はビスマルクの与党になり、あたらしく合併された地方のブルジョア的貴族や上層ブルジョアを吸収して強化された。バイエルンのホーヘンローエは帝国党の指導者となり帝国議会副議長になった。西南ドイツブルジョアジーの代表者バッサンは国民自由党に参加した。進歩党も、帝国憲法に反対しなくなった。

政府と上層ブルジョアの協力は、ますます強くなった。六七年から六九年までのプロシア政府の公債の多くは、民間銀行の引受団が引受けた。そこには、ディスコント・ゲゼルシャフト、ベルリン商業銀行、ロートシルド、オッペンハイムなどがいる。七〇年八月の公債について、ビスマルクは政府機関だけで消化しようとし、民間銀行をのぞこうとした。だが、これは成功せず、民間銀行の協力をもとめなければならなくなった。そこで、いままでの引受団にあたらしく二つの株式銀行をくわえて引受けさせた。七〇年一〇月の公債六、〇〇〇万マルクは、ディスコント・ゲゼルシャフト二一%、国立銀行一四%、ブライヒレーダーとロートシルド一五%の割合で引受けられた。ディスコントゲゼルシャフトは、総額三億六、六〇〇万マルクのうちの二四%を引受けている。この銀行の頭取は、もとの自由主義ブルジョアたるハンゼマンである。

ビスマルクが好むと好まざるとにかかわらず、ドイツ統一をめざすかぎりは、全面的に上層ブルジョアにたよらなければならないという現実をしめしている。こうして、上層ブルジョアは、ドイツの支配者へ上昇した。


進歩的改革

帝国政府は、商工業の発展の障害をとりのぞいていった。

七〇年六月一一日、株式会社設立の自由をみとめた。これによって、多くの個人企業が株式会社にかわり、ドイツ人の資本が集中されて経済発展をすすめただけでなく、外国資本の企業を、ドイツ資本が取得していった。たとえば、フランス資本のシャルルデティリュ会社は、ドイツに買いとられて、ゲルゼンキルヘン会社となり、会長にハンゼマン、取締役にオッペンハイム、グリロ、エミール・キルドフ(専務)が入った。株式を引受けたのは、ディスコント・ゲゼルシャフトそのほかの銀行だった。

七二年、全ドイツの度量衡が統一された。

同年、郡条令をだし、ユンカーから領地警察権をうばった。これでユンカーは、地方住民にたいする支配権をうしない、たんなる地主へ転落した。

七三年、郵便制度を統一し、統一民法典の起草がきまった。

貨幣制度の改革も重要である。以前は、全ドイツで七種類の単位があった。プロシアのタラー(銀)、南ドイツのグルデン(銀)、ブレーメンのタラー(金)など。これを、七一年の鋳造法、七三年の鋳貨法で、マルク金本位制をさだめて統一した。七五年の銀行法でプロシア銀行をライヒス・バンク(帝国銀行)に改組し、これで中央銀行券を発行することにした。二〇世紀に入ると、中央銀行券は、銀行流通高の九〇%ちかくになった。貨幣制度の統一がなされた。


貴族・ユンカーの没落

一九〇〇年、ビスルクが退陣すると、カプリヴィ内閣ができたが、ここにユンカー出身者を一人もふくんでいない。この内閣は、ユンカーと保守党の反対をおしきって、穀物関税を、トンあたり五マルクから三・五マルクに引下げた。

ドイツ統一がなされてから、工業が繁栄するとともに、東部ドイツの農業労働者は、大挙して工業へむかい、農業労働力は不足した。農業労働者の賃金は高くなった。それにくわえて、穀物関税引下げによる穀物価格の下落である。九二年ごろには、穀物価格が生産費以下といわれるようになり、ユンカーの負債がふえて絶望的な状態になった。

そこでユンカーは、農業の防衛に狂奔するようになった。そのとき、全ドイツの大土地所有者、大農業資本家と目標が一致し、かれらがあつま0て農業者同盟をつくった。九四年の議会で、農業者同盟は政府を攻撃したが主張はとおらなかった。


財政政策の変化

国家財政は、上層ブルジョアに奉仕するようになった。

クルップは、六六年、国王、ビスマルク、ローンの協力をえて、プロシア国立銀行(ゼーハンドルングまたは海商ともいう)から数百万マルクを借り入れることに成功した。この金でさしせまった借金をかえすことができた。ついで国家から注文をうけ、国庫からの貸付金も清算できた。七三年の不況のとき、ふたたびゼーハンドルングを中心とした融資団は、三、〇〇〇万マルクの救済資金をあたえた。このようにクルップは、国家財政を利用することにより、鉄鋼王にのしあがった(このゼーハンドルングが、むかしはユンカーの農業に融資をしていた機関であることに注意すべきである)。

海軍は、石炭をイギリスから買っていた。エミール・キルドフ(ゲルゼンキルヘン会社専務)が中心になってつくった石炭輸出組合は、海軍に圧力をかけ、七七年からドイツの石炭を買わせた。しかもその値段は独占価格であり、九七年からは世界市場価格を大きくこえていた。

第一次大戦をめざしてなされたイギリスとの建艦競争では、クルップとシュトゥームが装甲板と大砲の供給を独占した。海軍用装甲板について、価格の五〇%の利潤をとり、二〇年間で、六、〇〇〇万から一億三、〇〇〇万マルクもうけたという。また一九〇一年、中央党員の質問によると、クルップとシュトゥームは、アメリカ海軍に装甲板をトンあたり、一、九二〇マルクで供給するのに、ドイツ海軍には、二、三二〇マルクで供給し、年に約三〇〇万マルクの損害をあたえているという。しかし、この質問にたいして、海軍大臣ティルピッツは、クルップ、シュトゥームの代弁者として弁護した。


ブルジョア的貴族のキャスティング・ヴォート

貴族・ユンカーとブルジョアジーの関係は逆転したが、両者は、ともだおれになるまでたたかいぬく運命をもちあわせているわけではない。ともに支配者であり、ともに労農運動で背後をおびやかされている。また、商工業者は家柄がよくないので、成功すると貴族の伝統的権威で身をかざりたくなる。貴族のもつ巨大な財産を、商工業にひき入れる必要もある。貴族・ユンカーのがわでもおなじだ。いつまでも、田舎にすっこんでひねくれていてもしかたがない。ブルジョアと縁組し、資金を商工業に投じ、財産をふやすほうがよい。こうして、貴族・ユンカーとブルジョアジーは混合していく。メーヴィセンは帝国党に加入し、八四年には貴族になった。クルップの娘は、貴族出身の外交官を婿にむかえた。

帝国党(シュトゥームやカルドルフ)がこれをすすめ、「結集政策」といわれた。ドイツ艦隊協会には、ブルジョアのがわからクルップ、キルドルフらが金をだし、大土地所有者のがわからヴィード、ザルムホルストマールが会長に入り、士地所有貴族で工業家のラヴェンネらが指導権をにぎった。カリ産業では、一九〇八年につくられた「商業連合」が持株会社として多くの企業を統制したが、ここにも貴族とブルジョアが混合している。

ブルジョア的貴族は、貴族・ユンカーとブルジョアのあらそい、つまり、農業と工業の対立のときには、キャスティング・ヴォートをにぎった。

穀物関税引下げをめぐって農業同盟と工業家が対立したとき、シュトゥームは、九四年に賛成しながら、一九〇二年になると穀物関税を引きあげ、その関税収入で艦隊をつくる政策を主張した。艦隊建設は、シュトゥームに巨利をえさせた。

ラインとエルべをむすぶ運河が政府によって計画されたときと、ロシア公債がドイツで売りだされたときに、おなじことがおこった。この二つに、ユンカーは大反対だった。安い穀物が入りこむことになる危険があったからである。しかし西部の工業家や銀行家は大賛成だった。このときのかぎをにぎったのは、オーベルシレジェンのブルジョア的大貴族だった。その中心はドネルスマルクであり、運河法案はプロシア下院で否決され、ロシア公債については、八七年、ドネルスマルクがビスマルクに手紙をだし、禁止を要求して実現させた。かれらは、安い石炭が入ってくることを警戒したのである。


04-市民革命ードイツ三月革命の再評価

 4 ドイツ三月革命の再評価


はじめに

つぎにドイツをとりあげよう。ドイツの問題は、中国その他のことより、もっと重要である。これが解けるなら、ブルジョア革命の問題のもっともむずかしい応用問題を解いたことになる。

ドイツのブルジョア革命の時期を、自信をもってしめした人はいない。ある人は、一八四八年の三月革命だといい、ある人は、一八一八年一一月の帝制ドイツの崩壊だという。しかし、それをはっきりとした根拠をもって断言するような人はいない。ふつうは、ドイツのブルジョア革命は、どうもはっきりとしないと思われている。

以下では、そのはっきりしないものを、はっきりさせようとする。ドイツのブルジョア革命は、二つの時期にわかれた。まず、三月革命は、プロシアの領内でのブルジア革命であった。

つぎに、ビスマルクによるドイツ統一戦争が、ドイツの他の領土でのブルジョア革命を完成した。

この見方からすると、いままでの議論は、まちがいだらけだということになる。そのまちがいは、レーニン、エンゲルス、マルクスにまでおよんでいる。じつのところ、ドイツにたいする、かれら三人のまちがった見方が、のちのマルクス主義史学者達に引用され、ひきのばされて、日本や中国その他の国の歴史研究にわざわいをもたらしたのである。

だから、ドイツ近代史の時代区分をはっきりさせることは、わざわいの根本をとりのぞくことになる。それだけに、以下の証明が正しいかどうかは本書の勝負のきめ手になる。そのつもりで、耳なれないドイツの人名、件名がでてきても、忍耐力をもって読みとおしていただきたい。

なお、ブルジョア革命とはなにか、については、第1章をみて確認していただきたい。


ドイツ史のまとめ

一八〇六年、ナポレオンはアウステルリッツの会戦で勝利すると、西ドイツの諸小国をオーストリアからきりはなし、ライン連邦をつくった。ここで、ドイツ帝国としての神聖ローマ帝国は消えた。ナポレオンが没落し、ウィーン会議で、ドイツ連邦ができた。これは、ドイツの三五の国家と、四つの自由市でつくられた。このなかで、もっとも領土が大きく、もっとも強力な国家は、オーストリアだった。

つぎにくるのが、プロシア(プロイセン)であり、プロシアは、このときから、西ドイツのライン州を合併した。この国は、ナポレオンに敗北し、チルジットの講和を結んでから民族意識がたかまり、シュタイン・ハルデンベルグの改革で、農奴解放その他の改革がおこなわれた。

その他、バイエルン(バヴァリア)、ハノーヴァー、ザクサン(サクソニア)、ヘッセンなどをはじめとする中小諸国にわかれていた(地図参照)。













一八三四年、関税同盟が、プロシアを中心にしてむすばれ、オーストリアをのぞいた大多数が加入した。この頃から、鉄道が発達し、機械制工業の発達がめだってきた。

一八四七年の経済恐慌のあと、四八年三月、ベルリン、ウィーンをはじめ、ドイツ各地で革命がおこり、オーストリア宰相メッテルニッヒは亡命し、プロシア王は、カンプハウゼン内閣を任命せざるをえなくなった。そのほかの国でも、議会に権力が入り、それぞれの国の代表者がフランクフルト国民議会にあつまり、ドイツ統一を論議した。

だが、すぐに反革命の動きがつよまり、オーストリアでは絶対主義が復活し、中小諸国でも議会の権力はせばめられていった。フランクフルト国民議会のつくったドイツ統一についての憲法も、プロシア王をはじめ、各国の君主によって拒否された。ライン州では、憲法実施を要求する反乱がおきたが、国王軍により弾圧された。

こうして、ドイツ分裂はつづいたが、ドイツ連邦のなかでの二大国、オーストリアとプロシアの対立がつよくなった。

そのなかで、一八六一年ビスマルクが、プロシアの宰相に任命された。かれは、ドイツを統一するために、オーストリアとの戦争を準備すべきだと考え、議会の反対をおしきって軍備を拡張した。

一八六六年、両国は開戦し、ケーニッヒスグレーツ(サドワ)の会戦で。プロシアが大勝し、プロシアは、北ドイツを合併して、北ドイツ連邦をつくった、だが、南ドイツを統一することは、フランスのナポレオン三世の反対があり、実現できなかった。

ビスルクは、オーストリアに寛大な講和条件をしめし、これをだきこみながら、フランスとの戦争を準備した。エムス電報事件をきっかけに、一八七〇年両国は開戦し、セダンの戦いで、ナポレオン三世が降伏すると、南ドイツの統一を妨害するものはいなくなった。七一年、ヴェルサイユ宮殿で、プロシア王ウィルヘルム一世は、ドイツ皇帝に即位する儀式をあげた。

こうして、ドイツ統一が実現した。外交、軍事、司法、交通、郵政、通商、関税の権限は、首相と大臣の手に集中された。議会としては、普通選挙による帝国議会と、任命制による連邦参議院があった。

一八一八月一一月、第一次大戦の敗北とともにおきた反乱で、帝制ドイツは倒れ、社会民主党の政権が生まれ、ワイール憲法が制定され、ドイツは共和国になった。この共和国は、ナチス政権の成立までつづいた。


貴族とユンカー

一八四八年の三月革命までは、ドイツ諸国のすべてで、貴族が支配していた。貴族は、もちろん、大土地所有者であり、上級土地所有権の所有者である。だから、この時代のドイツ諸国は、封建制度、または絶対主義のもとにあったということができる。

ただし、貴族の土地所有のかたち、貴族所有地のしめる割合、土地経営のしかたについては、地方によってまちまちである。

オーストリアでは、まだ農奴制がのこっていた。ここの貴族は、農奴を所有する領主であった。

プロシアでは、シュタイン・ハルデンベルグの改革のため農奴制がなくなっていた。一八〇七年、一〇月勅令で営業の自由、移動の自由がみとめられて、農奴は、身分的な隷属から解放された。一八一一年の調整勅令、一六年の調布告で、農奴が自作農になる道がひらかれた。

もちろん、土地革命がおこなわれたわけではないから、自作農の数や、その面積にはかぎりがあった。解放の条件はきびしく、領主に賠償金をはらうか、土地の半分または三分の一を返さなければならなかった。しかも、解放されたのは、古い農場をもち、役畜を使用したものにかぎられた。解放されなかった農奴の土地は、領主にとりあげられたものが多く、また一度独立しても賠償金を滞納したものは土地をとりあげられた。この改革によって、ドイツでは上級土地所有権と下級土地所有権の分裂はなくなった。この点は、フランス革命前の状態とちがう。

むしろ、フランス革命ののちにできた貴族大土地所有や地主制に似ている。だからそれ以後のプロシアでは、「貴族の土地」といえば領地をさし、その所有権は、上級も下級もふくめてもっていたのである。

こうして、プロシアでは、貴族が直領地(直営地)をふやし、大土地所有者としてのこった。

それとともに、少数の富農や中貧農の自作農がでてきた。このなかで、ユンカーとよばれる貴族の一派があった。これは、どちらかといえば、身分のひくい、小貴族である。

ビスマルクの出身もそれだが、男爵で、公、侯、伯、子、男の最下級である。所有地の大きさは、五〇〇haから五、〇〇〇haのていどである。これらユンカーは、いろいろな農業労働者をつかい、農場経営をおこなった。つかわれるものには、コゼーテン、ゲルトナー(現物で支払いをうける)、インストロイテ(日雇いの賃金労働者)があり、かれらは、ユンカーから、わずかの耕地、菜園地を貸与された。ユンカーは、また領地警察権、領地裁判権、狩猟権をもち、免税特権をもっていた。そのほかに、上級の大貴族があった。プロシアでもっとも富裕な領主は、アルフェンスレーベン・エルクスレーベン伯、アルニム・ボイツェンブルグ伯である。前者は、ハルベルシュタットの近くに広大な領地をもっていた。リヒノフスキー侯は、オーベル・シレジェンの大領主である。シュヴェーリン、ドネルスマルク、ホーヘンローエ、ラティボールなどの大貴族もいる。

これら、大貴族とユンカーをあわせた貴族階級の頂点に、プロシア王(ホーヘンツォルレン家)があった。その所有する土地は、一九二六年になっても一五万七、〇〇〇エーカーであり、二つの分家が、八万三、八〇〇エーカーをもっていた。王の支柱である高級官僚、軍隊の将校は、ユンカーとその一族からでてきた。また、何人かの大貴族も権力の座についた。一八三五年から四二年まで、大蔵大臣の地位にあったアルフェンスレーべン・エルクスレーベン伯や、三月革命直前の首相であったアルニム・ボイツェンブルグ伯はその例である。だから、プロシアの国家権力は、領主の一派によって、にぎられていたことがわかる。

新しく合併されたライン州プロシアでは、フランス革命の影響で、領主権が廃止され、フランスとおなじような土地所有の型をしめしていた。中貧農の自作地、富農やブルジョアの大土地所有とならんで、貴族、僧侶の大土地所有がのこった。そのため、ケルン大司教や、ザールの貴族シュトゥームのような大土地所有貴族もいた。

メクレンブルグ大公国では、一八〇二年に農奴解放がなされた。だが、土地の五八%は二五〇エーカー以上の大土地所有者の手にあり、大土地所有者は、だんだん、農業労働者をつかう大農経営にうつっていった。もっとも貴族主義的な国家で、ドイツ統一ののちでも、この地方の身分代表制議会は、七〇〇人の騎士領の所有者と、四九人の都市代表者の議員でつくられていた。

バーデン大公国、ヘッセン・カッセル、ヘッセン・ダルムシュタットのような西南ドイツは、ライン州プロシアと似た状態にある。

ハノーヴァー王国、バイエルン王国、ザクセン王国、ヴュルテンベルグ王国などでも、農奴解放は段階的にすすみ、一八三三年に完全になくなった国と、バイエンルとヴェルテンベルグのように、一八四八年になって、やっと解放が完成した国とがある。

だが、いずれにしても、貴族=大土地所有者が権力をにぎっていることにかわりはない。ただ、政治の形式はさまざまだった。バーデンは、一八一八年に憲法を制定して、もっとも自由主義的だといわれ、ヘッセン・ダルムシュタットは反動的な国で知られた。


自由都市のブルジョアジー

自由都市では、大商人が、市参事会を牛耳り、権力をにぎっていた。

フランクフルトには、ロートシルドやべートマンのような、個人銀行があった。べートマン家は、一八一四年までに、ひとりで、巨額のオーストリア公債をはじめ、ドイツ内外の国家、諸侯の公債六九種を引受けていた。そのあとから、ロートシルド家が進出してきた。ヘッセン・カッセル侯の宮廷御用係として資金を蓄積し、オーストリアをはじめとする各国君主の公債を引受けた。

ハンブルグ、ブレーメン、リューベックなどハンザ諸都市では、熱帯産商品の仲継貿易や、対英貿易(イギリスの工業製品と、ユンカーの農産物の交換)をおこない、この資金で金融業をおこなう大商人が支配した。そのなかの一人、ブレーメンのゲーヴェコートは、北アメリカとの貿易に、蒸気船をはじめてつかった。

そのため、これら自由都市では、ブルジョア革命は、おわっているわけである。しかし、その範囲は、都市だけにかぎられ、そこの商人は、ドイツの封建支配者にたいして寄生的であるため、全ドイツのブルジョア革命の点から考えると問題にならない。そのうえ、ときには、封建支配者とむすんで、ブルジョア革命への動きにさからうような方向をとることがある。たとえば、プロシア絶対主義政府の御用機関である王立振替貸付銀行などの国立銀行は、ハンブルグ銀行の流れをひいていた。のちに、この銀行とプロシアの民間銀行とは、利害が対立するようになる。いわば、ブルジョアジーのなかで、もっとも貴族的性格のつよいものである。


絶対主義下のブルジョアジー

まだ絶対主義の時代にある場所でも、ブルジョアジーは成長していた。ベルリンでは、大銀行家がかなりいた。ブライヒレーダー、メンデルズゾーン(有名な音楽家の家系)、デュルブリュック、オルデンハイト、シックラー、ワルシアウァーなどがいる。

ライン州プロシアには、ケルンの銀行家オッペンハイム、シュタイン、シャーフハウゼン、カンプハウゼン、ヘルシュタット、クレフェルトの銀行家べッケラート、エバーフェルト銀行の頭取アウグスト・フォン・デルハイト(糸商人でもあり、その取引についての金融業も経営した)、アーヘンの羊毛商人ハンゼマン(商店の小僧から叩きあげ、商業裁判所長官になった)などがいて、指導者格になっていた。

これら、ライン州の商人、銀行家は、産業革命に進出して、鉄道、鉱山、機械制工業に出資したり、経営に参加したりした。ハンゼマンは、三七年に、ライン鉄道会社を設立した。

クルップ家は、一五八七年、エッセンに住みつき、ブドーを取引する商人だったが、のちに鉄や武器の商売をはじめ、この都市で最大の商人になり、市参事会員や市長や商人ギルドの長をだした。フリードリッヒ・クルップは、一八一一年、エッセンに小さな鋳鋼工場をつくり、イギリスが秘密にしていた鋳鋼製法をさぐりだしてとり入れ、ナポレオンの軍隊に役立てた。アルフリート・クルップは、一八三〇年、いままでの小さな機械製作工場に水力を導入し、三四年関税同盟が成立して工鉱業が発展すると蒸気機関をとり入れ、四〇人から五〇人の職工をもつ工場を経営した。これが、のちに巨大な鉄鋼業者となり、ヒットラーの兵器廠になり、「死の商人」といわれ、第二次大戦後は主人が戦犯でとらえられて、刑務所でサラ洗いをしていたこともある。釈放されてからはむかしの地位をとりもどし、ソ連に工場をつくり、フルシチョフと乾杯し、わが国にもきて八幡製鉄などと合弁合社をつくる話をすすめたこともある。主人はさいきん死んだが、同族会社で大衆株主をもっていなかった。その個人財産は世界第六位といわれた。

シュティネンスは、石炭とライン川の船舶運送業をかねた商人だったが、鉱山に投資し、四一年、エッセン付近の炭坑で堅坑による採炭をはじめ、大鉱山組合カイザーを支配した。

ハニエル兄弟は、大商人だったが、一八一〇年、グーテホフヌング製鉄所を経営し、これとともに、ライン沿岸に一、〇〇〇万㎡の炭鉱を開発し、これがコンコルディア鉱山会社になった。五三年からは、コークスを用いた製鉄に成功した。

メーヴィセン家は、商人、銀行家だが、繊維工業を経営した。また、ハンゼンマンとともに、鉄道建設を指導した。

シュペーターは、中ライン銀行を経営するが、ロートリンゲン(ロレーヌ)、ルクセンブルグの鉄鋼王になった。

ヘルシュタットは、絹、屑リボン工場を経営した。

また、手工業者やマニュファクチュアの経営者から、大工業家に上昇したものもいる。

ピーペンシュトックは、ルールで、針金工場を経営していたが、四一年、製鉄、圧延工場をつくった。

ボルジッヒは、手工業者出身だが、三七年、ベルリンに蒸気機関車をつくる工場を設立して有名になった。それから発展して、オーベル・シレジェンの石炭、鉄鉱、熔鉱炉、製鋼圧延工場を経営した。

ルール地方には、何人かの炭坑王がでてきた。ボルン、グリロ(ドルトムント鉱山組合)、ヘーヴェル(ハルペン会社)などがある。

銀行家、商人と産業家とは、ふくざつにからみあっている。

シャーフハウゼンは一八二二年、シュティネンスの鉱山に貸付けた。またハニエルのグーテホフヌング製鉄所にも貸付けた。シャーフハウゼン銀行頭取ダイヒマンは、親密な銀行家とともに、ピーペンシュトックの工場を合資会社に変えた。

ヘルシュタットは、クルップの工場を拡大するとき、三〇年と四二年に貸付けをおこなった。

シェラーは商人で、クルップと同郷であり、商業で蓄積した資本を、三四年にクルップの事業に投下した。それから一〇年ののち、シェラーにかわって、フリッツ・ゼリングがクルップの協力者になった。ゼリングは莫大な財産家だった。

ケルンの銀行家オッペンハイム、ベルリンの銀行家メンデルズゾーンは、一方で公債引受けに活躍しながら、他方では鉄道株の引受けにも進出した。フランクフルトのべートマン家も鉄道株に進出した。ただし、ロートシルドなど、フランクフルトの金融業者の大部分は、株式の引受けにのり気でなかった。銀行家と商人の産業進出は、地方や個人によって差があった。

オーベルシレジェンでは、亜麻工業、製鉄、冶金工業が発達し、バリーは冶金工場と精錬所をもっていた。ザクセンでは、綿製品の問屋が紡績工業に進出して、紡績工業が発達していた。


貴族対ブルジョアジー

貴族の一派は、国家権力と財政の実権をにぎり、国庫を自分たちの利益のためにつかった。そのことが、ブルジョアジー以下の階層の利益と衝突し、三月革命をひきおこした。プロシアを例にとろう。

一八四〇年、フリードリッヒ・ウィルヘルム四世が即位してから、国庫の余剰金の消耗がはげしくなり、三年目には、莫大な赤字に苦しむようになった。その出費の増加とは、補助金、下賜金、宮廷の式典費、王の巡幸費の増加だった。このような出費を利用して収入を得るのは、宮廷で王をとりまいている宮廷貴族、高級官僚(=ユンカー)である。

租税収入についていえば、貴族に減免税の特権があった。地租は、一八六一年まで、多くの騎士領が免税の特権をもっていた。

所得税のかわりとして、階級税というのがあり、一八等級に国民を区別して、それそれの税額をかけたが、僧侶、教員、将校、軍人、産婆は免税された。僧侶や軍人の上層は、貴族、ユンカーの一族でしめられる。

営業税は、ブルジョアジーから中小商人にまでかけられる。

このように、利害の対立が直接にあらわれるものもあるが、間接的に、まがりくねって衝突するものもある。

その一つに、株式会社をめぐる問題がある。この時代、世界的にみて、重工業中心の産業革命が進行しはじめていた。その必要に応じるためには、巨大な資本を準備しなければならなかった。そのためには、株式会社を設立して、零細資本を集中しなければならない。これが、当時の、産業発達の至上命令である。ところが、これが、ユンカーの政府に反対された。

当時、国立銀行として、王立振替貸付銀行、王立海外貿易会社(ゼー・ハンドルング)の二つがあった。前者は、紙幣発行の権利を独占し、それの利益は、もちろん国家=ユンカー・貴族の利益になっていた。後者は、外国塩の専売権をもち、その利益からあがる資金で公債を引受けたり、民間〈の低利融資をおこなった。この事業は、損失をよくだし、そのたびに国庫資金で埋めあわせた。民間の貸付とは、商工業の援助を意味するのでなく、農場経営の援助が中心で、すなわち、ユンカーの利益になっていた。

こうして、ユンカーの御用機関となっている銀行とはべつに、ブルジョアジーは、自分らの事業に役立つ銀行を株式会社でつくりたいと考えた。とくに、一八四〇年代になると、商品流通が増加して、通貨の不足を感じるようになっていた。ここで、ハンゼンは、一八二八年、ライン州に株式会社の発券銀行を設立しようとしたが、プロシア政府に拒否された。また、一八四五年、メーヴィセンを中心として、ケルン銀行の設立を計画したが、政府は拒否した。政府は、国立銀行の競争者がでてくるのをおそれたのである。

また、発券をしない株式銀行の設立も要求されていたが、政府は許可しなかった。けっきょく政府のしたことは、王立振替貸付銀行をプロシア銀行に改組して株式会社とし、民間人の参加をみとめただけである。しかし、ここでは民間人=ブルジョアはつねに少数派になるように仕組まれていたから、実質的にはなにもかわらなかった。


進歩に敵対した貴族支配

この時代、ブルジョアジーと商工業が、社会の進歩を代表し、その発達をおさえた貴族・ユンカーの権力は、進歩に敵対するものになった。しかも、進歩をさまたげることにより、外国資本の支配に道をひらき、軍事力を弱めて国家の独立すら危くさせた。

たとえば、プロシア政府は鉱山業に税金をかけ、その徴収の形式をたもつために鉱山業の発達をおくらせ、イギリス資本の進出をまねいた。ライン河の西岸の鉱山には、純収入の一二%の租税をかけて原価にくり入れさせたが、それを実行するため鉱山共有組合という小規模経営を強制し、鉱山監督局が経営の内部にまで干渉した。だが、この時期になると、株式会社による大規模な鉱山経営が必要になってきた。

そこで、一八四五年、メーヴィセン、マリンクロット、カンプハウゼン、シャーフハウゼン、ダイヒマン(すべてケルンの銀行家・商人)がケルン鉱山会社の設立を準備した。四七年三月、株式会社として政府に申請されたが、政府は七月になって拒否した。このとき、カンプハウゼン、メーヴィセンがつくった請願書は、意味深いものがある。

「プロシアでは、地下の宝庫の大部分がねむっている。その原因は、個人の力にあまるような大規模な事業をおこすべき資本や、企業精神が不足していることである。そのため、豊かな鉱区が、ますます外国の投機の対象になろうとしている」

クルップは、自分の工場を改良して、優秀な機械、武器をつくる努力をつづけていた。プロシアでつかう「工具鋼」は、イギリスから買入れられていた、クルップは、これを生産しようとした。そのためには、蒸気機関や旋盤台をもつ新エ場が必要だった。そこで、クルップの母は、国王に国家資金の・貸付を願った、だがこれはゆるされず、資金は、いとこのミュラーの援助や、所有地の売却、晒布工場の売却でつくらなければならなかった。

また、当時のプロシア軍の胸甲は、品質が悪く、重さはずいぶんあるが、二五メートルはなれたところからでも小銃弾がつらぬいた。クルップは、目方が半分で抵抗力が二倍の胸甲をつくることを政府に申し出た。これも陸軍省は拒否し、古くからの御用をつとめる工場に注文をだした。

大砲についてもおなじである。プロシアの大砲、小銃が旧式のものとなっていたことは、だれもが知っていた。そこで、クルップは、鋼鉄でつくった大砲と小銃の見本をつくり、四四年に、陸軍大臣フォン・ボイエンにさしだした。そして「このような武器のために、ぜひ必要な設備がいる」といった。ところが陸軍省は、クルップの製品について「安上がりという要求にこたえられず、とくに必要とするわけではない」と答え、採用しなかった。

こうした事件は、貴族・ユンカーのもつ財政上の特権が、ドイツ社会の進歩と対立したことをしめす。鉱山の事件は、財政収入を確保する必要についてである。クルップと政府のやりとりは、クルップの工業に財政上の援助をあたえるならば、それだけ支出でふえ、ユンカーのほうにまわる国家資金がヘるという関係をしめしている。しかも、新しい鉄鋼業は、巨大な設備を必要とし、民間の資本だけでは、じゅうぶんな発展ができない。ここに、ドイツ経済の発達をのぞみ、ドイツの興隆をのぞむならば、貴族・ユンカーのもつ財政上の特権をとりあげなければならないという因果関係がでてくる。財政上の特権をうばうためには、その権力組織を破壊し、これを商工業者の代表者の手ににぎらなければならない。この時代の商工業者は、自分自身の利益と、ドイツ社会の発展との一致を見いだしていた。こうして、三月革命をむかえた。


貴族の反主流とブルジョア的改革運動

三月革命には、ながい前史がある。ブルジョアジーは、何回となく攻勢にでて、貴族を譲歩させ、少しずつ弊害をとりのぞいた。そのような運動の、一進一退はつづいた。

封建制度の例にもれず、ドイツ諸国では、度量衡の統一もなく、国内に無数の関所があって、国内関税=通行税を徴収していた。こうした分裂割拠は、政治的にも経済的にも、経済の発展をさまたげ、ブルジョアジーの活動に不自由をもたらした。この制度的な悪をとりのぞこうという運動がおこされ、その先頭に貴族の一派を代表してシュタインが立った。

かれらは、一八一六年に、プロシア国内の度量衡を統一し、一八年の関税法で、すべての国内関税を廃止し、国境をとおる商品にだけに関税をかけた。いままでは逆で、国境には関税が

なく、国内の都市や州ごとに関税があり、外国産の商品であろうと、国内産のものであろうと税金をかけていた。この改革で、プロシアの産業の発達が約束されたことになる。それからプロシアは、ドイツの他の国との関税協定をすすめ、一八三四年、関税同盟がむすばれ、オースリア以外のドイツ諸国のあいだの関税はほとんどきえた。これは、経済的統一の第一歩であり、そののちの一〇年間に、商品流通は二倍にふえた。ところがこの進歩にも、闘争がつきまとった。関税同盟の憲章を起草したのは経済学者リストである。かれは、ドイツ商工業者同盟の指導者だった。これにたいして、ユンカーの指導者フォン・デルマルヴィッツは割拠主義をとなえ、ドイツの統一運動に強力な反対運動をおこした。オーストリア宰相メッテルニッヒは、リストをきびしく追求し、リストはアメリカへ亡命した。

強大な貴族の権力にくらべ、ブルジョアジーは、まだ弱かった。そこで、かれらの利益は、かれらが直接主張するわけにはいかず、貴族のなかの一派に代弁してもらう形になった。その貴族は、貴族のなかの反主流派である。野党的になった動機は、いろいろある。権力からとおざけられた不平もあろう。商工業、銀行業に手をだして、ブルジョア化し、ブルジョアジーと利益の一致をみいだしたものもあろう。こういう一群の貴族が、さしあたりは、ブルジョアジーの利益代表のかたちで、王権に反対した。

ザールの貴族シュトゥームは、鉄鋼業に進出し、オーベル・シレジェンの大貴族ドネルスマルクは、鉱山業を経営した。ポンメルンのユンカーのビューロー・クーメローは、二三年に私立騎士銀行を設立し、その資金をブルジョアジーにあおいだ。

また、アウエルスヴァルト、シュヴァーリン、アルデンホーフェンなどは、ブルジョア的貴族であり、自由主義貴族の代表者格だった。


改革運動の失敗から革命へ

財政の困難が、衝突をはげしくした。プロシア政府は、急場をしのぐため借款にたよろうとした。一八四二年、プロシアのうちの八つの州にある地方議会の常任委員が、ベルリンにあつめられた。地方議会では、貴族が、つねに過半数をしめるようにしくまれていた。そこで、あつめた王の政府も、あつめられた議会代表者も貴族だった。政府は、借款をもとめ、これは国有鉄道の建設のためだと説明したが、常任委員のがわは拒否し、憲法の制定と自由主義をもとめた。こうして、妥協はならなかった。議会での対決という妥協的な手段が役立たないと知ったブルジョアジーは、革命をめざして、労農運動の指導者と手をにぎりはじめた。カンプハウゼン、ハンゼマンらの自由主義者は、カール・マルクスとむすび、ケルンで「新ライン新聞」を創刊した。

つぎにひらかれた各州の本会議も、改革を要求し、憲法と出版の自由をもとめた。

政府の財政困難はますますつよまり、四六年の秋、ロートシルドに借款を申しこんだが、ことわられた。このときになると、このような特権的寄生的な大金融業者でも、貴族の権力の前途に見きりをつけた。かれは、この借款が「未来の国民代表」に保証されるなら貸そうといったのみである。

こうして王は、四七年二月、各州議会の議員でつくられた連合地方議会を召集しなければならなくなった。この議会に、両派は、それそれちがった期待をかけていた。王は、この議会が、王の提案、すなわち増税と借款を承認し、必要がなくなれば解散できるものと考えていた。いわば、御用議会のつもりでいた。だが、自由主義者でつくられた自由連盟は、この議会を制し、議会が定期的に召集され、権力をもつようになることをのそんでいた。いわば、この議会をイギリス流の立憲君主制の道具にしようと考えていた。

このため、両派はまっこうから衝突した。王は、開会式で「私は、近代的な意味の憲法を、けっして与えないだろう」と宣言した。王をとりまくユンカーを代表して、ビスマルクは自由主義者とまともに衝突した。

「いまや問題は、一つの権威ある、法律的拘束力をもつ宣言を与える権限をもつものはだれか、ということにかかっている。私の考えでは、それはただ王だけであり・・・・・・プロシアの王は、国民からではなく、神のめぐみによって、実際の絶対的な王冠をもち、その法律を、自由な意志で、国民のうえにほどこすのであり、これはまったく、歴史上まれにみる例である」

このときのビスルクは王権神授説のチャンピオン、絶対主義の尖兵だということができる。

こういう対立のなかで、二種類の公債を発行する提案が王のがわからだされ、これを議会は否決した。王は、議会を譴責したうえで解散した。ブルジョアジーは完全に左に寄り、「ブルジョアジーの著名な政治家で社会主義者と自称しないものは、ほとんど一人もいなかった」

(『革命と反革命』)。


三月革命の政治的成果

一八四八年三月一八日、ベルリンで市街戦がはじまり、翌日、市民軍が勝って国王軍は撤退し、王は、市民軍の圧力で、首相にカンプハウゼン(ケルン商業会議所会頭)、大蔵大臣にハンゼマン(アーヘン商業会議所会頭)を任命させられた。プロシアの国家権力は、上層ブルジョアジーの手に入った。

カンプハウゼン内閣は、五月二二日、プロシア国民議会(憲法制定議会)を召集した。この議会は、間接、平等、秘密、普通選挙制にもとづいていた。

オーストリアでは、三月一三日、ウィーンで暴動がおこり、宰相メッテルニッヒは亡命した。

しかし、ウィーンのブルジョアジーは、宮廷の奢侈品産業に大きくたよっていたので妥協的な傾向がつよく、宮廷貴族のほとんどはのこっていた。メッテルニッヒの追放は、この騒ぎを利用した貴族内部の政権交代にすぎなかった。五月、宮廷貴族は、国民軍と学生軍団の中央委員会を解散させようとした。ここで、あたらしい衝突がおこり、宮廷貴族はウィーンににげ出して、インスブルックに行き反撃の準備をした。

ザクセン王国では、市民の暴動の圧力で、出版、集会、言論の自由など自由主義的改革がおこなわれた。

ハノーヴァー王国、ヴュルテンベルグ王国、バイエルン王国、メクレンブルグ大公国、ヘッセン・カッセル、ヘッセン・ダルムシュタットらの諸国でも、自由主義的改革が実施された。だが、これらの国で、貴族が権力を手ばなした程度はさまざまであり、一時的な譲歩をしめして切りぬけたばあいも多い。

これとはべつに、五月一八日フランクフルト国民議会が召集された。別名パウロ教会ともいう。ここに、ドイツ各国から代表者があつまり、ドイツ統一が審議されるはずであった。代表の選出方法は、各国にまかされた。右派には、リヒノフスキー侯(大貴族)、バリー(大工場主)を先頭とする一群があり、中央右派が最大多数で、ダールマン、ヴェルカー等、当時の有名な学者の一群がいた。国民議会の議長は、初代がヘッセン・ダルムシュタットの首相ガーゲルンであり、五月から六月にかけて、中央右派のミルデ(ブレスラウの工場主)がなった。

この議会の任務は、統一ドイツの憲法をつくることであり、憲法委員会委員長には、バッサーマン(出版業者、バーデンの自由主義指導者)がなった。統一ドイツの内閣をつくったが、この大蔵大臣にベッケラート(ラインの銀行家)、商業次官にメーヴィセンがなった。

こういう事情をみると、フランクフルト国民議会は、ブルジョアジーの権力機関になったといえる。この議会と、それが発布する憲法やつくった内閣を、ドイツ各国の政府が尊重すれば、これでドイツのブルジョア革命はおこなわれたといえる。だが、すぐに反動の波がおしよせて、各国政府は国民議会を尊重しなくなったので形式的なものとなり、いわば、政治的な遊戯にすぎなくなった。

これらをまとめると、三月革命は、プロシアにブルジョア革命をおこし、オーストリアでは、国内を二つにわって、どちらが勝っかわからぬ状態をつくり、他の国では、貴族の権力が傷つけられたていどが、まちまちだったといえよう。


三月革命の経済的成果

権力をにぎったプロシアのブルジョアジーは、その地位を利用して、経済的混乱からブルジョアジーを救うために活動した。その中心に、蔵相ハンゼマンが立った。

三月二七日、プロシア銀行のケルン支店が割引を制限して金融恐慌をおこさせた。二九日、シャーフハウゼン銀行が支払停止においこまれた。このときハンゼマンはメーヴィセンと相談して救済にのりだし、八月二八日の命令でシャーフハウゼン家は株式会社に改組された。メーヴィセンは、この銀行の債権者団の指導者格だった。かれは、四八年九月一五日、政府からシャーフハウゼン銀行の取締役に任命された。かれの指導のもとにおこなわれた改組の要点とは、債権者に株(三九七万タラー=一二〇万マルク)を与え、その半分は五二年までに償還することとし、そのあいだの確定配当は政府が保証した。五二年以後は、政府の監督から解放された。この事件は、国家財政が、はじめてブルジョアジーの死活の利益に役立てられたものとして注目するべきである。こうして、待望の株式銀行がブルジョアジーの指導のもとにつくられ、これが工鉱業への金融をひきうけるようになった。

また、四八年九月、アウエルスヴァルト=ハンゼマン内閣(実権はハンゼマンにあった)が、民間発券銀行の設立を許可し、五〇年代に六つの銀行が設立された。これについで、四九年一〇月二二日、ケルン鉱山会社の設立が許可され、五二年、ヘルダー鉱山製鉄株式会社の設立が許可された。ヘルダー連合では、メーヴィセンが管理役会長になり、シャーフハウゼン銀行が発起業務をひきうけた。

他方で、貴族・ユンカーの特権がけずられた。まず、ユンカーの領地裁判権が廃止され、四九年一二月、将校等の免税特権が廃止された。


絶対主義へもどったオーストリア

まもなく、ドイツ各地で貴族の反撃が成功し、多くの国では、絶対主義が復活した。復活の原因はいくつかある。

貴族やユンカーの勢力が結集されたこと。

手工業者が、ブルジョアジーに反対し、古いギルド制にもどることを主張したが、これが貴族に利用されたこと。

ブルジョアジーと労働者階級の対立がはげしくなり、これが革命勢力の分裂をおこさせ、貴族はこの分裂を利用して各個撃破したこと。

貴族が農民にたいしてある程度譲歩し、農奴制のひどいところでは、その状態をやわらげた。

そこで、とくに上層農民が満足して保守化した。ここで、貴族は安心してブルジョアジーを権力から追い出すために行動できるようになったこと。

こうして、オーストリアが、復活した絶対主義国のチャンピオンになった。皇帝と宮廷貴族は、インスブルックに逃げ、ラデッキー将軍(行進曲で有名)の軍隊に守られた。イエラッチ、ウィンディッシュグレーツらが中心になり、反革命の勢力が組織された。これにくらべて、革命勢力の分裂はすすみ、権力の座にいるブルジョア官僚は、失業者にあたえていた政府補助金を打切り、これに反対しておこされた労働者の示威運動を、八月二三日弾圧し、多数を殺した。こうしてブルジョアジーの支持者がへってきた時期が、貴族の反撃のチャンスだった。

皇帝と宮廷貴族は、まずオルミュッツに移り、準備をととのえると、一〇月、ウィンシッシュグレーツの指揮する六万人の軍隊でウィーンを攻撃し、一一月一日占領した。議会は、クラメリーという田舎町にうつされ、ハンガリアの反乱が平定されはじめた四九年三月、議員は追放されて、議会は解散された。議会がつくった自由主義的憲法は廃止され、これにかわって皇帝の優越をさだめた欽定憲法がつくられた。そして、五一年になると、この憲法すら廃止し、これにもとづいた議会も解散し、完全な絶対主義へもどった。フランクフルト国民議会からも、すぐ代表団をひきあげた。このうごきの先頭に、宰相のシュワルツェンベルグ公が立った。


手工業者とブルジョアジーの対立

手工業の親方は、ギルド(ツンフト=日本の座=同業組合)を復活し、工業の発達をおさえることをのぞんでいた。革命の混乱は、かれらがその目標にむかって政治的に努力する機会をあたえた。

六月二日、ハンブルグで北ドイツ手工業者第一回代表者会議がひらかれ、満場一致で「営業の自由」を禁止すべしと決議した。手工業者のなかでは、特権をにぎる親方層と、これに対立する職人層があり、職人層は労働者と自称しはじめた。七月一五日、フランクフルトでひらかれた一般手工業者会議では、親方層が職人層をしめだし、「一般手工業者条例」を決議した、そのなかには「蒸気機関の使用を制限すること、営業の自由を廃止すること」などがあった。

かれらの圧力で、四九年二月九日の勅令がだされ、多くの手工業に同業組合が復活した。このうごきは、ブルジョアジーとまっこうから衝突する。手工業者は、重税に反対ということで、革命のがわに立つ。だが、機械制工業の発達によって没落していくという恐怖から、工業の発達に抵抗するかぎり、反ブルジョアである。これが貴族・ユンカーの利益と一致する。株式会社設立の禁止ということでは、足並がそろう。そこで、貴族・ユンカーは、同業組合の復活という要求をうけいれて、手工業者を反革命の陣営にひきいれたのである。当時のドイツでは、まだまだ手工業の親方層の力は強大だった。


プロシアの反革命

プロシアの反革命陣営の中心は、カマリラ(宮廷党)である。これはユンカーで組織され、首領はゲルラッハ兄弟だった。

レオポルト・フォン・ゲルラッハは、将軍、王の待従武官長であり、王ととくに親しかった。

ルートヴィッヒ・フォン・ゲルラッハは、マグデブルグ上告裁判長だった。その副官とみなされたのは、オットー・フォン・ビスマルクであり、三月二〇日、すでに自分の領地の農民を武装させて、革命派に包囲されていた国王の救出をはかり、ローン、メーレンドルフ、プトリヴィッツなどの将軍を説いて失敗したこともある。

宮廷党の指導者は、六月、「十字新聞」(クロイツア・ツァイトウンク)を創刊した。この創刊には、ゲルラッハ、ビスマルク、クライストレッオー男爵、枢密院議員ニーブールなどユンカーの右翼が参加し、理論的指導者は、国王に信頼されていたシュタール教授だった。十字新聞は、ユンカー・貴族の特権を弁護し、上層農民にも影響力をひろめていった。そのおかげで、七月、第一回ユンカー会議が「所有権保護協会」の名でひらかれ、ここに、ゲルラッハのような右翼から、多少ブルジョア的なユンカーであるビューロー・クーメローまでを含めて、土地所有権の防衛という一点で同盟をかためた。

権力をにぎっているカンプハウゼン内閣は、これら貴族・ユンカーを抑えることよりも、自分の背後をおびやかした中小市民、労働者を抑えることに気をくばった。必要とあれば、貴族・ユンカーのにぎっている軍隊をつかって、下層民の反抗を弾圧しようとした。そのために、三月三〇日、ベルリンから撤退していたプロシア軍を呼びもどした。六月七日、王弟ウィルヘルムを、亡命先のロンドンから呼びもどした。かれは、三月革命を挑発した責任として、革命派の攻撃のまとになっていた。議会では、三月革命のときの市街戦の戦士の功績が否定された。

こうした政策を反革命と感じたベルリン市民は、六月一五日、反乱をおこして武器庫をおそったが、カンプハウゼン内閣はこれを弾圧した。こうして革命勢力は分裂した。六月二〇日、カンプハウゼンは退陣し、自由主義貴族を代表するアウエルスヴァルトが首相になったが、実権は蔵相ハンゼマンの手にあり、俗にハンゼマン内閣といわれる。

しかし、しだいにユンカーの圧力はつよまった。一一月二日、ブランデンブルグ内閣が成立した。ブランデンブルグ将軍は、国王の伯父である。九日、プロシア国民議会は、内閣不信任を声明した。政府は、ウランゲル将軍のひきいる四万の軍隊をベルリンにひきいれ、議員を追放し、一一日には国民軍を解散した。一三日、戒厳令と国民議会の解散令がだされた。

議員たちは、納税拒否を決議し、税金不払運動をおこすため各地に散った。ライン州ではマルクス、デュッセルドルフではラッサールなど社会主義者がこの大衆運動をおこしたが、弾圧された。こうして革命勢力は敗北した。

一二月五日、プロシア国民議会の解散と、欽定憲法発布の勅令がでた。この憲法によると、国王は議会をいつでも解散できること、議会は上院と下院にわかれ、下院は普通選挙制であること、大臣は議会の解散中に自由に法律を発布できること、これらの権限に反抗がおこれば戒厳令をしく権利があることなどが規定された。こうして、王権は昔のような権力をとりもどし、絶対主義が復活したかにみえた。


プロシアに絶対主義はもどったか

たしかにほんとうの意味の民主主義はなくなった。だからといって、絶対主義へ逆もどりしたとはいえない。

政府には、首相ブランデンブルグを中心とする多数派と、これに対立する少数派があった。

多数派の一人に、ミルデ(工場主)のあとをうけて商業大臣兼公共労働大臣になったフォン・デル・ハイト(銀行家)がいた。

少数派の中心には、内務大臣マントイフェル男爵、文部大臣ラーデンベルグがいた。かれらは、宮廷党を代表し、ビスマルクもかれらの入閣に力をつくした。これが、絶対主義の再建をもくろむ勢力だった。

多数派と少数派は、下院の選挙法をめぐってはげしく対立した。多数派は普通選挙制をとなえ、少数派は、はげしく反対して押し切られた。

マントイフェル「国家の福祉を無能力者の手にゆだねることは、ただ革命党だけが要求できることである」

ターデン・トリーグラフ(宮廷党の中心人物)「私はいっさいの新選挙法に抗議する。一万ポンドの人肉『人間の骨も含めて』が一人の選挙人をえらび、おそらく四〇〇万ポンドの人肉が、一人の議員を出すという原理を承認できない。つまり私は、ぜったいに選挙法ぜんたいに反対する」

ビスマルク「私は、この選挙法とはげしく闘いぬいたが、残念ながら効果はあがらなかった。上院の選挙法も下院の選挙法も、ともにその存在をみとめるわけにはいかない」

ゲレラッハ「この憲法は、私の考えていたものよりも、いっそう悪いものだ」「第一次選挙や頭数による選挙と仲なおりするわけにはいかない」

こうした少数派=宮廷党の反対にたいして、首相ブランデンブルグ将軍は答えた。

「最善をおこなうことではなく、可能なことをおこなうのが問題である」

この事情をみると、上層ブルジョアの代表者ハイトの立場と、それに同調することを主張する貴族・ユンカーの立場が主流であり、絶対主義の再建をめざすユンカーはまだまだ無力であることがわかる。このような力関係により憲法がつくられ、これにもとづいて、四九年二月二六日、新しいプロシア議会が召集された。

ところで、この普通選挙では、革命的な大衆を代表する急進派が進出し、かならずしも上層ブルジョアジーに有利な結果にならなかった。そこで、無産大衆をしめだし、財産別の選挙制度をつくるということで、上層ブルジョアと貴族・ユンカーが一致した。商業大臣ハイトもこのことを主張した。これが下院の解散ののち、四九年五月三〇日に公布された「三級選挙法」である。五〇年一月三〇日、多少修正されて正式に成立した。

「したがって、けっきょくパウロ教会にたいする。すなわち革命にたいする戦争ということになるが、これは、われわれが一年前には希望できなかったことである」(レオポルト・フォン・ゲルラッハ)。だが、そのなかでも、多数派と少数派のあらそいがつづけられた。少数派は貴族・ユンカー独裁に有利なほうにひっぱろうとし、多数派は、この選挙法が、上層ブルジョアジーに有利のように仕組んだ。

「保守派に有利な選挙の結果を期待するためには、ブルジョアジーと商工業者に、ある種の優越をみとめるべきである」(ビューロー・クーメロー)

三級選挙法について、政府から相談にあずかったおもなものは、ハンゼマン、アルデンホーフェン、アルフェンスレーベン、アルニムだった。ハンゼンは大蔵大臣をやめたといっても、まだプロシア銀行総裁の地位にいる。アルデンホーフェンは、ライン州の大土地所有貴族で、ライン州のブルジョアジーの指導者とひじょうに深いむすびつきをもっていた。あとの二人は、自由主義化した宮廷貴族である。だから、三級選挙法には、上層ブルジョアジーの意志がつらぬかれている。

少数派の宮廷貴族は、上層ブルジョアジーの地位をみとめたくはなかったので、三級選挙法ができてしまうと、これにも文句をつけた。

「すべての第一次選挙と等級選挙制度は、違法な破壊的な制度であり、ゆくゆくは、祖国に思いがけない恥をもたらすことになろう」(シュタール教授)。

「私には、桃色のほうが、赤色よりも、いっそう危険なようにみえる。だから私は、ガーゲルン(上層ブルジョア代表の穏健自由主義者)よりもヴァルデック(急進派)を好む」(ルートヴィッヒ・フォン・ゲルラッハ)。

つまり、いぜんとして上層ブルジョアが自由主義貴族をひっぱって、権力をうごかしているのであり、絶対主義の復活をめざしている勢力は、少数派として押しきられ、泣きごとをならべている段階だといえよう。


パン屋とくつ屋の王冠

民主主義のうえに立って、ドイツ統一をめざそうとするフランクフルト国民議会は、四九年三月二八日、ドイツ帝国憲法をつくった。これは、プロシア王を全ドイツの皇帝とし、立憲君主制、普通選挙制、言論、出版、結社の自由をさだめたものだった。いうなれば、現実を無視した机上の空論である。

四月三日、三二名の議員が、帝位奉呈使節としてプロシア王に面会した。王は、この申しこみをことわった。

「パン屋やくつ屋の親方の恩寵による帝冠」を馬鹿にしたのだ。

四月一二日、フランクフルト国民議会は、帝国憲法を守ると宣言した。これにこたえて、小商人、職人、労働者、中貧農らの憲法支持の大衆運動が高まった。このうごきにのって、プロシア、ハノーヴァー、ザクセン、バーデン、ヴェルテンベルグの議会が、帝国憲法を支持すると決議した。南ドイツでは運動が強力で、それにおされてヴェルテンベルグ王国や中小諸国が憲法を承認した。

プロシア政府は、四月二七日、この憲法に同調した下院を解散し、帝国憲法は無政府主義的文書だと声明し、各国の君主会議を召集した。各国の議会が解散され、つづいて憲法戦争がはじまった。

プロシア王国軍とザクセン王国軍とは、五月五日、ドレスデンで、バクーニン、ボルンのひきいる反乱軍を破り、五月一三日、リープクネヒト、エンゲルスのひきいるバーデン・プファルツ革命軍を弾圧した。マンハイム、ハイデルベルグの市民はバーデン大公を追放して、臨時政府をつくったが、プロシア軍に弾圧された。五月一八日、フランクフルト国民議会は、解散され、七月、憲法戦争はおわった。


オーストリアとプロシアの対立

革命運動がおわると、つぎに、ドイツ統一をめぐってオーストリアとプロシアが対立するようになった。この対立は、ひとくちでいえば、絶対主義を守る貴族と、統一をめざす上層ブルジョアの対決である。

上層ブルジョアが権力の指導権をもっているプロシアでは、プロシア王の指導するドイツ統一をめざす努力がすすめられた。自由主義的な名門貴族シュライニッツ、おなじく自由主義的な将軍ラドヴィッツが、あいついでブランデンブルグ内閣の外務大臣となり、プロシアを中心とするドイツ連合を計画し、これにガーゲルンらフランクフルト国民議会の残党が、ゴータにあつまって賛成した。そこで手はじめとして、外相ラドヴィッツの提唱する三王同盟が、四九年五月二六日、プロシア、ザクセン、ハノーヴァーのあいだいむすばれた。そのうえ、この運動に上層ブルジョアジーの支持をえるため、同盟の規約に「三級選挙法」をつけくわえた。六月、この同盟に参加した国は、二八をかそえるようになった。

こうしたうごきに反対したのが、オーストリアである。オーストリアでは絶対主義が復活し、ハンガリアの反乱も静まって国内体制がかためられた。首相シュワルツェンベルグ公は、ザクセン、ハノーヴァーの国王をプロシアからひきはなし、オーストリアの指導する四王同盟(ハノーヴァー、ザクセン、バイエルン、ヴェルテンベルグ)をつくった。

大国に逃げられたプロシアは、五〇年三月、付近の小国だけをあつめ、エルフルトでプロシアのつくった連邦憲法を可決した。このエルフルト議会では、自由主義貴族アウエルスヴァルトが議長になった。

これに対抗して、オーストリアは、フランクフルトで革命前の連邦議会をひらいた。

ドイツは、プロシア陣営とオーストリア陣営に分裂して対立したが、プロシアの外相シュライニッツは、オーストリアとのあいだに妥協、互譲を実現してドイツ統一をすすめようとした。

だが、対立はさけられなかった。

ヘッセン・カッセル侯国は、プロシアの陣営についていたが、ここの君主たるヘッセン侯が議会を解散し、絶対主義の復活をめざしたので革命がおこり、五〇年九月に追放された。オーストリアがわは、ヘッセン侯の王位を回復するため、軍隊を派遣し革命に干渉した。

プロシアは自分の同盟国にオーストリアが干渉し、絶対主義の復活をたすけることを見殺しにできない。強硬派の将軍ラドヴィッツが外相になり、軍隊を動員してオーストリアと対立した。

オーストリアは強気であり、最後通告をつきつけてきた。プロシアは、屈伏するか開戦するかをえらばねばならなかった。閣議では、開戦を主張するラドヴィッツと、和解を主張するマントイフェルが対立した。しかし、このときのプロシアは、開戦にふみきって勝つ見込みがなかった。

五〇年一一月六日、ブランデンブルグ首相は辞職しラドヴィッツは罷免された。かわってマントイフェルを首相とする内閣が成立し、一一月二八日、マントイフェルはオルミミュッツでシュワルツェンベルグ公と会見し、プロシアが中心になってつくった連邦の解散をうけいれた。

プロシアの屈伏である。ヘッセン・カッセルではヘッセン侯が王位にもどり、絶対主義を再建した。五一年には、ドレスデン会議でドイツ連邦が復活し、すべては革命前にもどった。

プロシアとオーストリアの対立は、自由主義貴族=上層ブルジョアと絶対主義をめざす宮廷貴族の対立だった。プロシア国内では、自由主義貴族と宮廷党の対立だった。だから、オーストリアの圧力でうまれたマントイフェル内閣は、すなわち宮廷党の内閣だった。ほんらいの貴族・ユンカーが権力を回復した。宮廷党とオーストリアとは意見が一致する。ともに、統一ドイツをのぞまず、ふるい分裂割拠のドイツをのぞむ。それが、貴族・ユンカーの権力を安定させているからだ。それだけにかれらは、オーストリアに屈伏したとはおもっていない。ビスマルクの意見は、その立場をよく表現している。四九年九月六日、プロシア中心の三王同盟についていう。

「私は、このような悪い状態が、民主的譲歩、またはドイツ統一計画によってのそかれるとはおもわない。弊害は、もっと根のふかいもののである。そして私は、プロシア国民のなかに、フランクフルト(国民議会)的な理論で、ドイツを統一しようというのぞみがあることに反対する。・・・・・・われわれは、プロシア人であり、プロシア人としてとどまりたいとおもう」(統一したドイツのドイツ人になりたくないという)

五〇年一二月、オーストリアにたいする屈伏を憤慨していた自由主義議員にたいしていった。「ドイツのいたるところで、憲法が危くなったと叫んでいる議員がいるが、この半病の議会の花形たちのために、ドン・キホーテの役割を演じることが、プロシアの名誉になるとは断じて思わない」


プロシアの反動

マントイフェル内閣は五一年、自由主義貴族アウエルスヴァルトに休職を命じ、ハンゼマンをプロシア銀行総裁から追放した。ユンカー会議議長のクライストレッオー男爵は、ライン州長官となり、自由主義者を徹底的に弾圧した。ユンカー会議から保守党が結成され、上下両院とも保守党が圧倒的多数をしめ、下院はゲルラッハ、上院はシュタール教授が指導権をにぎった。貴族政治の支柱たる教会には完全な自由をあたえ、ライン州のカトリック派の首領ライヘンシュペルガーがこれに協力した。

この時代は、重病の王をとりまく宮廷党の天下だった。かれらはブルジョアジーと商工業の発達もおさえようとした。

前蔵相ハンゼマンが中小商工業のための信用組合として、ベルリン信用組合をつくる計画をたてたが、宮廷党が妨害して成功しなかった。

五六年、銀行家ブライヒレーダー、ロートシルド、ハーバーらが、ベルリン農工信用会社をつくろうとしたのも禁止した。

五六年、メーヴィセン、オッペンハイム、メンデルズゾーン、ブライヒレーダー、ハンゼマンらが、ベルリンで農業会社を設立しようとしたのも禁止した。この農業会社という名で、工業、運輸業に手を出そうとしたからである。

五六年、メーヴィセン、オッペンハイム、メンデルズゾーン、ワルシァウァーらの上層ブルジョアが、ラティボール(オーベルシレジェンの大貴族で炭鉱業を経営)、レーデルン、アルニムらの大土地所有貴族と協力して、ベルリンにプロシア農商工信用銀行をつくろうとした。だが、これも禁止した。

ユンカーでかためた陸軍省は、あいかわらずクルップの大砲を拒否していた。一八五〇年クルップは、六ポンドの鋳鋼砲を自分が費用をだして製作し、直接国王へ献上するという方法を考えた。だが国王は、かれの進歩と努力に感謝するが、むだな努力をしないようにいった。クルップは、これも陸軍省のさしがねだと債慨した。五三年、王弟ウイルヘルム(のちの一世)は、個人の資格でクルップの自宅と工場を訪問し、かれをほめた。だが工場で見た製品は、プロシア政府の注文したものではなく、他の国へ行くものだった。このように、国王や王弟ですら、優秀な武器を採用したくてもできなかった。


ブルジョア的少数派の抵抗

こういう反動があったといっても、ユンカー・貴族が、すべてをもとにもどすことはできなかった。プロシアで、ユンカー独裁は復活しなかった。多数派と少数派が逆転しただけである。

ブルジョアジーの代表者として、商業大臣フォン・デル・ハイトがのこっている。

かれの努力で関税同盟はすすめられ、一八五四年、いままで加入をこばんでいたハノーヴァー王国をくわえることに成功した。これで、全ドイツ(オーストリアは別として)が一つの関税地域にまとまった。

ユンカーの妨害をおしきって成功した事業もいくつかある。

ハルペン会社の場合がそれだ。これはドルトムント付近の炭坑に関係のある貴族ヘーヴェルが、七四人の株主をあつめてつくったが、このうち、一〇〇株以上の大株主は商人や医者だった。この会社は、五六年二月に申請され、年末までひきのばされたすえ許可された。

五二年、ヘルダー鉱山会社がつくられ、メーヴィセンが会長になった。

五三年、ダルムシュタット銀行がつくられ、その株がパリの取引所にも上場された。この管理役会長はメーヴィセンであり、参加したのは、オッペンハイムらの銀行家である。かれら銀行家は、株式銀行をプロシアでつくることができないと思い、フランクフルトにつくることを考えた。しかしそこでは、ロートシルドなど銀行家に反対され、ヘッセンダルムシュタットの首都ダルムシュタットにつくった。ここでも条件があり、お礼として鉄道を敷かなければならなかった。このような苦心をして、やっと株式銀行をつくり、鉄道、鉄鋼、船舶、繊維の会社をおこした。このとき、宮廷党の機関紙「十字新聞」は、ロートシルドといっしょになって、銀行をつくることに反対の宣伝をした。このばあいは、産業に進出する上層ブルジョアと、これに対立するユンカーならびに、もっとも貴族的・寄生的な金融業者の同盟が対決し、後者の力をもってしても、前者の努力をつぶすことができなかったことをしめしている。

鉱山にたいしても、有利な改革がつづけられた。五二年三月、プロシア商業大臣の命令で鉱山税が半分になり、石炭販売価格を国家がきめる制度はなくなり、鉱山経営は、経営者にまかされるようになった。

こうして、産業の発達がおしすすめられた。鉄道は四倍にのび、貿易は約三倍にふえ、機械制大工業の発達とともに、手工業がきえていった。「五〇年代の偉大な事実」である。

もちろん、こうした発達にはドイツブルジョアジーだけでなく、外国資本も貢献した。五二年、アーヘンにフェニックス会社(鉄鋼)がつくられたが、これはフランス資本によりつくられ、銀行家オッペンハイムが導入した。

五六年、大炭鉱会社ヒベルニアがつくられ、イギリス式堅坑で採炭をはじめたが、これは、アイルランド人によってつくられた。


クリミア戦争-ドイツ保守勢力の分裂

一八五四年、クリミア戦争がおこると、ロシアのがわにつくか、英仏のがわにつくかでドイツ世論は分裂した。この分裂は、ついに宮廷貴族・ユンカーのなかにまでひろがり、絶対主義の勢力を弱めた。

ゲルラッハを首領とする宮廷党=保守党は、皇后エリザベート(バイエルン王の長女、オーストリア皇帝の伯母)をかつぎ、「十字新聞」は、絶対主義国としての「正統派」ロシアをたすけるべきだと主張した。

自由主義貴族は、自由党にまとまり、王弟ウィルヘルムとその妃アウグスタをかつぎ、「国民新聞」で英仏のがわにつくことを主張した。

ドイツ連邦のなかでは、オーストリアが領土の問題から英仏のがわにつき、ロシアを攻撃しようと主張した。ここでおもしろいことに、プロシアのユンカー=保守党とオーストリアは対立するはめになり、自由主義貴族とオーストリアが一致するようになった。このため、ドイツの保守陣営は混乱、分裂した。

このとき、ビスマルクは、ドイツ連邦でのプロシア代表として、中立を提案し、オーストリアの提案を否決させることに成功した。

「これは、私が連邦議会で多数派の先頭にたったただ一つの場合であり、オーストリアが少数で敗れたただ一つの場合であった」

保守党でもなく、自由党でもなく、さしあたりは中立をとなえて、オーストリアに対決するという別な一派が、ビスマルクを中心にしてつくられはじめた。


反動の過大評価を改める

ここまでみてくると、三月革命がプロシアでのブルジョア革命をもたらしたことが理解できる。たとえそれが、マントイフェル内閣のもとでおしかえされたとしても、その成果がぜんぜんなくなったわけではない。ちょうど王政復古後のフランスのように生きつづけており、ちょっとした政変でもとにもどるべきものになった。あとにみるように、六一年には選挙の結果により、保守党内閣は退陣した。そうすると、ほんらいの市民革命の成果は生きかえったことになる。

ところが、いままでの学説では、このプロシアでの反動が過大評価されてきた。その結果は、プロシアにユンカー独裁が復活したという評価でおわった。

「未完成な市民社会を前提とする近代社会は、ドイツまたは旧ロシアならびに日本などのように、半ば封建的な諸条件によって構造づけられる・・・・・・西ドイツにおいてのみ一七八九年以降、一八四八年にいたるあいだにマニュファクチュア時代が確立され、したがって西ドイツにのみ産業的市民をもったドイツでは、三月革命による典型的な市民革命の遂行は不可能であった。

革命過程において一八四八年の三月から一一月まで、産業的市民が革命の指導権を掌握したが、一二月以降四九年にかけてプロイセンのユンカー貴族が局面を掌握した。かくして、ドイツの市民革命は、半封建的国家としてのドイツ市民社会を生みだしたにすぎない」(「市民革命」『世界史事典』平凡社)

そうではない。四八年一二月から四九年にかけて、ユンカーが局面をにぎったわけではない。そのころは、まだブルジョア的貴族をついたてとして、上層ブルジョアが権力の中心に喰いついていた。五〇年一一月、マントイフェル内閣の成立によって、はじめてユンカー貴族の指導権がはっきりしてくる。そこの、微妙だが、はっきりとしたちがいを見ずに、大ざっぱにかたづけて半封建というのは粗雑にすぎる。

もう一つ、多少は正確にみながら、けっきょく見ていない例をあげよう。

「ウィルヘルム四世は以前のとおり王座についており、側近も以前とおなじでした。ブルジョア出身で一八四八年に大臣になった人々は罷免されました。それにひきかえ、あとでドイツ皇弟ウィルヘルム一世になった霰弾太子はベルリンに帰ってきました。こうしてユンカーが欲したとうり、安寧と秩序がふたたび支配することになったのです。そうはいっても、四〇年代の出来事にたいする驚愕はなおいくらかのこっていました。それでユンカーは少しばかり、大ブルジョアは大いに、お互の間で譲歩してもよいと思っていました。しかし、犠牲を負担せねばならなかったのは大衆でした」(クチンスキー『ドイツ経済史』高橋正雄訳、有斐閣、七九頁)

大衆うんぬんはわかりきっていることだ。問題は、ユンカー独裁が復活したのかどうかということである。そうではないことを言葉のはしに臭わせている。譲歩の程度がどれほどかということが大切である。これを正確にみるなら、マントイフェル内閣とそれ以前とはひじょうにちがうことに気がつく。ところがそれをせずに、とつぜん大衆をもちだして話題をそらせてしまう。こういうやり方は、科学的でなく、むしろアジ演説に近い。これでは、正確な観察ができない。

いままでの見方は、だいたいこの程度のもので、そこから三月革命後のドイツを半封建だときめつけてきた。だが、プロシアについては、そのような単純化した見方は成立しえない。


03-市民革命-市民革命の各国史

 3 市民革命の各国史


ロシアの絶対主義

ロシアは、一九一七年の三月革命(旧暦二月革命)まで絶対主義の時代であった。つまり、ロマノフ王朝(ツアーリズム)は封建王朝であった。

なぜならツァーリ(皇帝)をとりまき、その方針をきめ、高級官僚、高級軍人になるのは、貴族=地主であったからだ。ロシアの貴族も、農奴解放令ののちは、東ドイツとおなじく、地主・小作関係のうえにたつ地主になった。ということは、上級も下級もふくめて土地所有権をもっていたのである。

地主貴族は、約一〇万人で、そのうち三万の巨大地主が七、〇〇〇万デシャチンの土地をもっていた(一デシャチンは一ha強)。地主のなかで、不在地主と地方地主があり、巨大地主は不在地主であって、最高級の官職をもっていた。皇帝の意志をきめる枢密院議員は、すべて巨大地主で、二一人が合計一七万六、〇〇デシャチンをもち、そのなかの一人は、一一万五、〇〇〇デシャチンをもっていた。

こうした大地主の家系は、古くからの領主=農奴主である。革命直前において皇帝のザンゲ僧をつとめていたドゥビャンスキーの家系は、エリザベート女帝のザンゲ僧でもあり、八、〇〇〇人の農奴をもっていた。ラズモフスキー家(べートーべンの絃楽四重奏曲がささげられたので有名)は、エリザベート女帝の寵臣で一二万人の農奴をもち大公である。エカテリナ(カザリン)二世の寵臣をつとめたポチョムキンやボブリンスキー伯の家系も大地主である。コサック軍団も大地主である。そこで、コサックが皇帝の憲兵として群衆の弾圧に活躍することになった。

この大地主貴族と対等の資格で活動するのは、外国資本である。ドイツのジーメンスは、首都に、一、〇〇〇人の電気工場をつくった。バクーその他の石油業は、ロスチャイルド(英)、ノーベルが支配した。ヴィッカース(英)、シュネーデル(仏)は大砲工場をつくった。フランスの銀行は鉄道事業の融資に進出した。

外国資本と大地主貴族のむすびつきは、皇帝のアレクサンドル三世が、三億ルーブルの金を、西欧の銀行にあずけていたことにも象微される。

これとはべつに、ロシアのブルジョアジーが成長していた。砂糖王チェレシチェンコ、繊維工場主コノヴァーロフ、紡績工場主モロゾフなどがいた。銀行も発達し、ロシア・アジア銀行、ヴォルガ・カマ銀行などがあった。

しかし、ロシアのブルジョアジーは、権力の座にたどりついてはいなかった。もちろん、財政上の実権は、大地主貴族にあり、かれらにはなかった。そのうえ、かれらが、株式会社や企業連合をつくることも自由にならなかった。工場経営についても、皇帝の法律がいろいろ干渉をくわえた。こうして、ブルジョアジーは、大地主貴族と外国資本にたいして、野党的な立場にたっていた。これらの関係を図示すれば左のようになる。







これこそ絶対主義の特徴である。


ロシアの市民革命

ロシア三月革命をえがくとき、ほとんどの本がポルシェヴィキの戦術論に走ってしまうのはもう一つものたりない気がする。これでは、戦術論としての意味はあっても、世界史的な規模での市民革命の理解をさまたげることになる。そこで、いまからこれを、ブルジョアジーのがわからながめてみよう。

ブルジョアジーは野党である。かれらは、財政問題や商工業の規制について、大地主貴族に反感をもつ。有利な立場で経営し、自分らを圧迫するということで、外国資本に反感をもつ。そこで、かれらは革命的になる。その方向は二つある。

一つは、民衆運動とむすび、これを煽動することであり、工場主モロゾフが社会民主党に献金したことはその一例をしめす。このばあい、自分の工場の労働運動に献金するはずがない。とすれば、これは、外国資本のもとでの労働運動をたすけるという狙いがあったはずだ。ここに、社会民主党の内部で、ブルジョアジーとの提携という主張がでてきた理由がある。レーニンの夫人が、ストライキの献金をもとめて、当時高名の学者ツガン・バラノフスキーを訪ねているという事情も、そのような傾向をしめす。

二つは、貴族の一部とむすび、それをうごかして改革やクーデターで権力にわりこもうという試みである。そのためにつくられた政党は、オクチャブリスト(十月党)やカデット(立憲民主党)である。前者には、商人出身のグチコフがいる。名門貴族のがわでは、銀行家の娘を妻にしたユスーポフ公が、自由主義貴族=ブルジョア的貴族としてこの傾向を代表した。

ブルジョアジーの努力は、日露戦争後の大衆的暴動を利用して、ある程度の成果をあげた。

皇帝は、国会を召集するよう圧力をかけられた。長くつづいた第三国会では、オクチャブリストとカデットが多数派をしめた。もちろん、国会の権限が小さなものだったから、かれらは権力のわずかな部分にくいこんだにすぎなかった。それでも、ヴォルガ・カマ銀行頭取の。バルクは、一四年に蔵相となり、そのため国庫資金が補助金や融資として、民間銀行に流れこんだ。

こうして、国家資金の利用をめぐり、大地主貴族とブルジョアジーのあらそいがはげしくなった。

それにくわえて、第一次大戦による財政困難がやってきた。大地主貴族にとってみれば、戦争をやめ、軍事費をつうじてブルジョアジーに流れこむ資金をとめ、ブルジョアジーを権力からしめだす以外に、自分の特権をまもる方法はなくなった。いまや、一大決心を要求されたわけだが、そこに登場してきたのがラスプーチンである。

シベリアの百姓の生まれ、あやしげな新興宗教の教祖、祈祷師、超人的な精力と鋭い眼力をそなえた男、皇太子アレクセイの血友病を祈祷でなおしたというので、皇后のふかい信頼をえた。皇后をママとよび、ただならぬ関係までも噂された。宮廷の貴婦人のあいだをわたり歩き、女官長までが、かれの部屋に入れてくれと一晩涙とともに訴えたという。この男、たんなる色魔ではない。

もともと、ロシアの宮廷は、乱交の場である。その点では、フランス絶対主義の宮廷と似ている。問題は、こういう風俗習慣のなかでも、かれが超一流の腕をふるったということだ。ともかく、かれは、宮廷貴族のチャンピオンにおしあげられたのだ。

そこを、かれ自身も自任している。「わたしが死ねば、ロマノフ家は三カ月と持つまい。」かれの計画は、ドイツと単独講和をむすび、国会を解散し、ブルジョアジーの抵抗を打ちくだくことだった。これにたいして、皇帝を廃位し、アレクセイを即位させ、ミハイルを摂政にして立憲君主制へもっていこうとする計画が、ブルジョア的貴族のがわからすすめられた。両者の闘争のぎりぎりのところで、ラスプーチン暗殺がおこなわれた。ユスーポフ公の邸宅によびよせ、ドミトリー・パヴロヴィッチ大公らの一団が毒をのませ、ピストルを打ちこんで殺した。

この行動は極秘でおこなうはずだったがすぐに発覚し、弾圧を覚悟せねばならなかった。

おいつめられたブルジョアジーとブルジョア的貴族は、革命にうったえることをせまられた。

ことのなりゆきとして、かれらが首都の民衆運動をかきたてただろうと想像される。すくなくとも、この革命は、ボルシェヴィキの統制のもとにひきおこされたのではない。この党の指導者は、多く亡命、流刑の状態で、のこっていたものでも、事態の進行に呆然としながらうごいていた。こうして、三月革命で国会を基礎とした政権ができ、権力はブルジョア的貴族と上層ブルジョアの手に入った。

貴族であり、以前の反政府派であったリヴォフ公が首相となり、グチコフが国防大臣、チェレシチェンコが大蔵大臣、コーヴァーロフが商工大臣になった。政府の主要な地位は、オクチャブリストとカデットがにぎった。商工業にたいする規制も廃止され、株式会社や企業連合がぞくぞくとつくられた。

こうして、ブルジョアジーはロシアの主人公になった。しかし土地革命はおこなわれなかった。かれら自身も地主だからである。農奴解放ののち、多くの商人地主があらわれ、二万三、〇〇〇人が一、三〇〇万デシャチン以上をもっていた。

地主としての立場では、宮廷貴旅や田舎地主とおなじ利害をもっていた。だから土地革命は自分の任務と考えていない。自分の任務と考えていたのは、権力と財政の実権、それにつきまとう規制の問題にかぎられていた。そして、それは、三月革命で解決された。そのかぎり、ロシア三月革命は市民革命である。


絶対主義下のオランダ

これは、世界最初の市民革命である。ネーデルランド(その北半分が今のオランダ)は、スペインの属州であり、スペインは宮廷貴族の支配する絶対主義の国であった。ゆえに、ネーデルランドは、スペイン絶対主義の一部であった。この絶対主義の頂点に、摂政で、ネーデルランド総督のマルガリータがあり、それをとりまいてバルレモン(財政会議議長)、ウィグリウス(枢密院議長)、ペルノー(グランヴェラともいいアラス大司教で総督の最高顧問)がいた。のちにスペイン大貴族のアルバ公が総督となり、「血の審議会」を強行した。

この権力をささえたものが、カトリック教会の司教や修道院長であり、かれらは大領地の所有者であった。

さらに、土着の領主が、大から小まであった。カトリックの大領主は、南部で勢力がつよく、北部に中小貴族が多かった。大領主のなかではオレンジー公ウィリアム、エグモント伯(べートーベンの序曲とゲーテの戯曲で有名)などがいて、スペインから独立したうえでの絶対主義、つまり、かれら土着の大領主の支配をうちたてようとして、スペインの宮廷に抵抗した。ウィリアムは、ドイツのナッサウの領主でもあった。

これとはべつに、商工業者が独立運動をすすめていた。その最大の勢力は、アントワープにあつまる大貿易商人、金融業者であり、東インド貿易や、新大陸貿易の仲継貿易によって成長してきた。さらに国内の毛織物工業などを基礎とする商工業者の勢力もあった。これらブルジョアジーのなかに、カルヴィン教がひろがった。この宗教は、勤倹によって富をたくわえるものを選民(=エリート)とよび、かれらこそが、現世でも来世でも支配者になるのは当然だと

説く。はっきりしたブルジョア革命の思想である。スペイン絶対主義にたいする不満が、商工業のなかにカルヴィン教をひろめた。不満とは、スペイン宮廷の財政政策が、かれらに損害をあたえたことである。一五五七年、フィリップ二世の破産政策で、金融業者が大損害をうけた(破産政策については、私のフランス革命論を参照)。六〇年には、スペインから現地へ輸出される羊毛に税金がかけられ、羊毛の輸入が減り、毛織物工業がおとろえた。またフィリップ二世が、不動産に一%、動産に二%の税金をかけるといいだした。これが反抗のロ火をきらせた。

一五六六年、かれらに支持され、資金援助をうけて「乞食団」の請願運動がおこった。この運動の先頭にたったのは土着の貴族数百人であり、「同盟」と自称した。請願の内容は、カルヴィン派迫害の中止、自治の要求であった。もちろん、スペイン宮廷貴族は、請願にとりあわず、バルレモンはかれらを「乞食団」(ゴイセン)とよんだ。

こうして運動は先鋭化し、カルヴィン教徒は、スペイン絶対主義の牙城たる修道院、カトリック教会をおそった。これにこたえて、六七年スペイン宮廷は、多少妥協的なマルガリータをよびもどし、アルバ公を大軍とともに派遣した。かれは、ブリュッセルにつくときびしい宗教裁判をはじめた。異教徒審議会(俗に血の審議会)で、二年間に、八、〇〇〇人以上を処刑した。寄港していたイギリス商人までもまきぞえをくった。エグモント伯のような、穏健な反対派までが処刑され、オレンジー公ウィリアムはドイツの領地へにげた。

この状態をおそれた貴族の多くは、スペイン王への忠誠をしめし、宣誓書をだした。アルバ公は、全国会議を召集し、スペイン軍の軍事費として新税を提案した。すべての動産と不動産に一%を課税し、三三〇万フロリンの収入になった。また動産の取引税一〇%、不動産取引税五%が要求されたが、これは全国会議の抵抗によりひっこめられ、そのかわりに、二〇〇万フロリンが支払われることになった。この増税は、いままでの苛酷な政策とあいまって商工業を破滅させ、多くの商人が亡命した。


市民革命としてのオランダ独立戦争

中小マニュファクチュアの経営者や労働者さらに農民が森にかくれてゲリラ戦をはじめた。

こうした対スペイン戦は、しだいに二つの勢力のもとに統制されていった。一つは、ドイツ領から軍隊を編成して南部に進撃したオレンジー公であり、もう一つは、北部のカルヴィン教徒の反乱を支持し指導した大商人である。この大商人は、アントワープからアムステルダムにうつったものである。そして、オレンジー公の作戦が成功せず、北部の反乱が優勢になってきたとき、反乱の指導権は、アムステルダムの大商人の手に入った。オレンジー公は北部にまねかれ、全権力があたえられた。ここで、大貴族と大商人の同盟がつくられ、形式はオレンジー公の全権だったが、実質的には、大商人が実権をにぎった。

一五七四年のライデン市の包囲戦で勝利し、七九年北部諸州はユトレヒ同盟を結成した。ここに成立したネーデルラント連邦共和国(オランダという言葉は、この中で有力だった州ホラントの名からきた)は、総督にオレンジー公をすえた。八四年かれは、スペインの刺客に暗殺された。

大商人は、つぎにイギリス貴族レスター伯をむかえたが、かれがイギリスの指令にもとづいて、反乱をおこしたためかれを追放した。そのあとで、オレンジー公の息子が総督にえらばれ、スペイン軍を各地でやぶり、

一六〇九年休戦条約をむすんだ。ここで、オランダの独立は正式に承認された。

一六〇二年、アムステルダムの貿易商人は、東インド会社をつくり、ここが国際貿易の中心地となって繁栄した。かれら大商人は、政治制度の理想として、各州の地方分権をとなえた。

そして、ホラント州では、一九議席のうち、一八人までがかれらの代表者でしめられた。

地方分権制度のなかで、ホラント州が指導権をにぎれば、大商人が全国の指導権をにぎることになった。

こういう傾向にたいして、新しい絶対主義を再建しようという勢力もないではなかった。その勢力は、土着の貴族層を足場として、総督オレンジー公ウィリアム二世のがわからなされた。

かれは軍事力、とくに陸軍をにぎり、大商人の勢力をおさえようとつとめた。ブルジョアジーの分裂も利用した。それは、大商人が、仲継貿易の利潤を優先して、自国の工業を保護しようとせず、中小マニュファクチュア経営者や職人は、大商人の支配下で発展をとめられていたことからきた。

ウィリアム二世は、中央集権主義をとなえて大商人と対立し、一六二一年からスペインとの戦争がはじまると、主戦論をとなえて、講和派の大商人と激突した。ついにアムステルダムを占領し、ホラント州の指導者を投獄し、スペインとの戦争をおしすすめた。これで絶対主義は再建されたかにみえた。このとき、大商人は、総督の方針に反して、スペイン軍に武器食糧を供給した。

この戦争は、三十年戦争のひとこまであり、それがおわるとスペインとの戦争もおわった。一六四八年、オランダ共和国の独立は正式に承認された。五〇年に、ウィリアム二世は死んだ。そののち、大商人が勢力をもりかえし、地方分権政策をとった。共和国の財政の半分以上を負担し海軍の大部分をもっていたホラント州が、全国の指導権をにぎったが、それは大商人の指導権を意味するものであった。

まとめてみよう。独立以前のオランダは、スペイン宮廷貴族の支配下にあった。それは、絶対主義国の植民地であった。独立戦争は、土着の貴族と大商人の指導のもとに、それ以下の階層の協力をえて達成された。独立ののち、絶対主義再建をめざす貴族層と、ブルジョア共和国をつくろうとする大商人の闘争がつづいたが、財政的に強みをもった後者が勝ち、この国では大商人と貴族の同盟のなかで、大商人が指導権をにぎるという権力が確立した。独立戦争は、絶対主義を、ブルジョア・貴族支配(基本的にはブルジョア権力)の国家にかえた。そのかぎり、市民革命である。


イギリス革命をめぐる問題点

イギリス革命、すなわち、ピューリタン革命(一六四二年)にはじまり名誉革命(一六八八年)におわる変化が市民革命であることは、まずまちがいのないこととされている。だから、イギリスでは、市民革命の時点をあれこれ議論する必要がない。

ところが、べつの議論がつづいている。それは「なぜ、イギリス革命は市民革命か」という疑問をめぐってである。これにたいする解答らしいものがいくつかあるにせよ、それらがどうもあやふやなもので、反論の余地をのこしているからである。そして、じじつ、いままでの解答は、すべてまちがっていた。まず、その実例をしめそう。

イギリス革命で特権会社が新興産業資本によって圧倒されたといい、この傾向、すなわち、特権的商業資本が中産的生産者層(マニュファクチュアの経営者)に敗北したことをもって市民革命の根拠とする説がある。ドッブ『資本主義発展の研究』も、その傾向をもっているが、はっきりと主張するところまではいっていない。しかし、この主張には無理がある。いくつかの特権会社が、革命のあいだに消減したことは事実であっても、生きのこって強力な支配者になった特権商人のグループもいる。東インド会社の株主であった大商人がそれである(くわしくは、拙著、前掲書参照)。

つぎに、王党派貴族の領地が没収され、売りはらわれたことを理由にするばあいもある。ただし、これは、あくまで領地の売却であり、領主権の廃止ではない。そのうえ、売られた領地の多くは、革命後に、もとの所有者へかえったことが証明されている。また、領地の没収売却は、なにも市民革命の専売特許ではなく、イギリス絶対主義が確立したころ、ヘンリー八世が修道院の領地を没収売却したこともある。

そこで、多くの書物では、このことを市民革命の理由にしたいのだが、そうはっきりと、いい切ると反論をうけそうなので、気をもたせるような、もたせないようなあいまいな言いかたをとっている。しかし、ここでは、はっきりといい切ろう。領地の没収売却は、市民革命の理由にはならないと。つぎに、国王の独裁から議会の権力へ変化したことを理由にするばあいがある。だがその国王の支柱が何で、議会の支柱が何かということをあきらかにしなければ、問題を解決したことにならない。この考え方によると、絶対主義均衡論で王権を説明し、市民革命後の議会をおなじ均衡で説明する。前も後も、国家権力の支柱がかわっていない。王の権力だけがうばわれたということだが、それが王個人のものだとするなら、なぜ流血の戦争をともなわなければならなかったかを説明できない。国王のがわにも多数の支持者がいて、最後まで議会とたたかったからこそ内乱をともなったはずだ。革命の前も、ジェントリと特権組合員、革命のあともジェントリと特権組合員では、市民革命による本質的な変化はなにもなかったことになる。これは、均衡論のもつ宿命的な誤りであり、均衡論の誤りについては、以前に指摘しておいたとおりである(拙著、前掲書参照)。(ジェントリは下級貴族、特権組合員とは大商人のことをいう)

もう一つ、ジェントリ論争というものがある。まず、トーニーが、市民革命を説明するため、革命のがわにたち上昇していったジェントリが、資本主義的農業経営に成功したものであると主張した。こういえば、旧式の貴族対新興の資本主義的貴族の対立という図式ができて、それなりに市民革命の理由が説明されそうである。ところが、これには有力な反論がでてきた。トレヴァ・ローパーの批判であり、ここにジェントリ論争がくりひろげられた。この論争は、実証という点からみるとトーニー説に無理があるようだ。


イギリス革命はなぜ市民革命か

トーニーを批判するトレヴァ・ローパーの説は、実証的に強みをもち、ここから市民革命の本質を説明することができる。

かれは、貴族とジェントリが土地経営で区別されえないという。革命のがわにたったジェントリが、資本主義的経営に成功したというトーニーの説はまちがいであり、独立派のジェントリは、官職からしめだされて没落した不満分子だという。これにたいして、王のがわにたったものは、官職をもち、そこから莫大な収入をあげたものであると説明する。これにくわえて、商工業、金融業で成功したものも勃興した貴族・ジェントリのむれに入るという。ただし、かれには一貫した歴史理論がない。そこでいまから、イギリス絶対主義と市民革命の理論をつくろう。

絶対主義とは、領主(=上級土地所有権の所有者)の一派が権力を組織し、財政を自由にする時代である。イギリスのばあいも領主(貴族とジェントリ)の一派が権力をにぎっていた。

革命直前の宮廷で、王の寵臣となり王権をうごかしていたのは、バッキンガム公であった。かれのことは、小説『三銃士』にも書いてある。かれは絶大な権力をにぎり、国庫から莫大な金をひきだした。そこで一六二五年に召集された議会は、かれにたいする非難を集中し、罷免を要求した。しかし、チャールズ一世は、議会の解散を強行し、バッキンガム公をかばった。二八年に召集された議会は、「権利請願」を可決し、王に承認させた。このとき、バッキンガム公は暗殺された。

そのあとを、ロード・ストラットフォード体制という。ロードは、蔵相になったこともあるが、このときはカンタベリー大主教となり、教会領を所有した。ストラットフォード伯は、ジェントリ出身であり、アイルランド総督、大法官(上院議長兼国璽掛長)、スコットランド遠征の総司令官となった。ロードのあと蔵相になったのは、ロンドン主教ウィリアム・ジャックスンである。

これを頂点として、セシル卿(エリザベスの宰相)、レスター公、ベッドクォード伯などの宮廷貴族が、高級官職の所有者となっていた。国庫は、かれらの利益に奉仕していた。官職をもっことは大きな収入をえることを意味し、官職の値段も高くなった。記録長官の職は、一六一四年の二、二〇〇ポンドから、二〇年ののちに一万五、〇〇〇ポンドに高まった。

地方行政の官職としては、治安判事があり、ジェントリがその地位をえた。こうして、国家権力は、領主の一派によってにぎられていた。

もちろん、官職=権力からしめだされ、不満をもった領主もいる。かれらの立場は、つぎの言葉にしめされている。

「地方の無官のジェントルマンにとっては、財をつみ、家名をあげることはとても不可能だ。相続地をうけつぐほかに、宮廷人になるか、法律家になるか、またはなんでもよい、なにかほかの職にありつかなければならない」

これとはべつに、王権と特権商人との関係があった。王は、東インド会社その他の企業に特権や独占権をあたえて保護した。そのかぎり王と特権商人とは協力できた。しかし、財政赤字が増加してくると、王はかれらからさまざまな方法で金をとりたてた。特許状を濫発して売りつけ、このため東インド会社のような古くからの特権会社も、あたらしく王に支払わねばならなくなった。また船舶税をかけた。赤字に窮すると、ロンドン市へ借金を申込み、ことわられると東インド会社の倉庫にあるコショウを差押え、ロンドン塔に保管されていた貿易基金の金塊を没収した。こうして大商人が王とするどく対立したとき、ピューリタン革命がはじまった。

国王軍と議会派の内乱がはじまると、貴族とジェントリの多くが国王のがわについた。議会がわではエセックス伯を中心とした一部の貴族は、大商人とむすんで長老派をつくり、クロムウェルなど一部のジェントリが独立派をつくった。内乱がすすみ、長老派が王と妥協しはじめると、独立派が台頭し、クロムウェル独裁が出現するが、この政権のがわにも多くの大商人がいる。東インド会社は、議会やクロムウェルに金を貸しつけた。金匠銀行家のトーマス・ヴァイナーやエドワード・バックウェルは巨額の金をクロムウェル政権に貸しつけた。クロムウェル政権とは、上層ブルジョアと独立派ジェントリーの同盟であった。

こうして、ピューリタン革命は領主の一派の権力を破壊し、これを上層ブルジョアの支配にかえた。王政復古によって、独立派ジェントリは後退した。そのあと、絶対主義再建をめざす貴族と、これに抵抗する上層ブルジョアの対立がつづくが、名誉革命で後者の勝利がきまった。

立憲君主制の名のもとに、実際は上層ブルジョアが支配した。大金匠銀行家ダンカムは、ロンドン市長となり、最大の富をもっていた。かれら金匠銀行家と対立するロンドン大商人は、イングランド銀行をつくり、その株主や重役となった。この銀行の発展とともに金匠銀行家の役割はおとろえる。イングランド銀行は毎年、大蔵省の幹部に新年の贈物として金をおくり、また銀行の重役が下院議員となり国庫を利用した。

貴族とジェントリは階級としての権力をうばわれた。だが、かれらの財産はのこり、あるものはブルジョア化をすすめ、あるものは没落した。こういう動向も、ほかの国の市民革命とおなじである。


アメリカの革命をめぐる問題点

アメリカ独立戦争が、アメリカの市民革命であることは、ひろくみとめられている。だが、ここでも問題がのこる。なぜ、市民革命であるか、また、なぜ独立革命がおきたのかという議論が一つ、もう一つは、南北戦争をなんと解するかである。

独立革命について、「自治」「独立」「民主主義」といった思想的な原因を主張する人がアメリカに多い。しかし、これは、論外としよう。

つぎに、イギリス商人とアメリカ商人の対立で説明する人もある。しかし、それでは、アメリカ社会の内部におこった変化を説明できないし、市民革命の理由にならない。

また、土地革命論を理由にする人もいる。「王党派の地所の大没収が、州議会によって、戦争のさなかに広く行なわれた。・・・・・・土地は、究極的には、大部分、小所有者の手中に移ったのである」(ジェイムソン『アメリカ革命』久保芳和訳、未来社、五〇頁、六一頁)。こういう意見をもとにして、ある高校世界史の教科書では「王党派大地主の土地が没収され、農民にわけられた」と書いている。しかし、これは事実に反する。農民にわけたのではなく、競売したのであり、競売にはだれでも参加できた。とうぜん、大商人や大地主が資金にものをいわせて多くの部分を買いしめた。

なぜこのような無理をしたかというと、市民革命の基本的成果が土地革命だと思いこんだからである。だから、アメリカ独立が市民革命であるためには、土地革命がなければならないと思い、思ったことを事実のように書いてしまったわけだ。ここで、またしても、私のフランス革命論が必要となる。「フランス革命でも、土地革命は行なわれていない」(この点は、拙著参照)。

これで、この問題はかたづいた。

商業資本に対する産業資本の勝利ということはどうか。こういうことも、いいたいそぶりをする人はいるが、事実をみるとむりなことがわかっているので、におわす程度にとどめられているのが現状である。これも論外である。それでは、なぜ、アメリカ独立は、市民革命であるか。


封建制度としての植民地アメリカ

アメリカ合衆国をつくった一三州のうち、八つの州はイギリス王の直轄領であり、三つの州(メリーランド、ペンシルヴェニア、デラウェア)は領主植民地であり、小さな二つの州(ロードアイランド、コネティカット)が自治植民地だった。

各州の権力は、総督と参事会(参議会)の手にあり、その下に官吏がいた。王領地では、これらは、イギリス国王から任命された。領主植民地では、領主のほとんどがイギリスにいるため、領主が総督と参事会を任命した。自治植民地では、代議院からえらばれた。代議院は、各州にあり、財産選挙制であったから、ここでは大地主、大商人が指導権をにぎっていた。

自治植民地以外の州では、代議院の権限は大きくなく、その決議を総督が否認することもできた。そして、総督と代議院の対立は、独立革命が近づくにつれて増大した。

ここで、総督、参事会員、官吏とはなにものかということになる。かれらは、大領主または大地主である、ニュー・ハンプシャー州の総督ウェントワースは大領地をもっていた。イギリス国王や各領主自身が大領地の持主でその土地を総督や官吏にあたえた。ペン一族は、ペンシルヴェニアそのほか二州の大領主で、はじめの頃は四、七〇〇万エーカ一(一エーカーは1/2ha弱)の土地をもち、これを分割、売却したが、独立革命のときでも最大級の土地所有者としてのこった。メリーランドの領主ボルチモアは巨大な土地や農園をもち、その土地を一族や高級官吏にあたえ、また、一族を高級官吏に任命した。

こうして、植民地アメリカでは、上級土地所有権の所有者の一派が、国家権力を組織していた。それは、封建制度の一つの段階である。

これに対立して、権力からしめだされた大地主、大商人が、代議院を舞台として抵抗した。こちらのがわに、独立革命の指導者の系譜がみられる。一七三三年のニューヨーク州総督コスビは、州最高裁判所裁判長を免職にした。免職されたがわは、出版業者を利用して総督を攻撃させ、総督が、出版業者を検挙したとき、この弁護をひきうけたのはアレクサンダー・ハミルトンである。ワシントンもジェファーソンも大地主または大農園主であり、奴隷の所有者である。

かれらは、自由、自治の名のもとに、権力と財政の実権を総督から奪い、自分らのものにしたいと思った。そのような要求は、代議院の主張として表現されている。

租税の種類、種目を決定する権利、総督の俸給、そのほかあらゆる俸給を決定し、予算の決定権をにぎり、公金支出についての会計検査を行なう権利、裁判官の俸給をきめる権利、代議院の議長をきめる権利、特許状をあたえる権利……。


これが対立の本質であり、独立革命の原因である。そこから、植民地アメリカの権力構造を次のような図式でしめすことでできる。






この図式にくわえて、もうすこし複雑な問題がある。それは、植民地という性格からくる。

本国のイギリスは、市民革命をおわり、大商人の支配する国である。国王の方針は議会がきめる。国王から任命される総督は、植民地では領地の代表者だが、本国との関係では、イギリス大商人の代表となる。そこで、「総督=イギリ大商人」という図式もつけ加えねばならない。

本国大商人の利益をはかるための糖密条例などがつくられ、そのなかの最大勢力東インド会社の利益のために、高価な茶が植民地に強制され、ボストン茶事件をおこした。

この本国大商人に対抗して成長していたのが、植民地のがわの大商人であり、ときには本国の統制に違反しながら活動したので密貿易商人でもあった(もちろん、当時、この言葉は犯罪とはみなされていなかった)。その最大のものはハンコックである。かれは、ボストン茶事件の黒幕であり、独立宣言にも署名しているが、かれの署名は、他人のものよりひときわ大きい字でかかれている。ニューヨークのリヴィングストンも密貿易で成上がったが、印紙条例反対運動を指導した。

また、大商人口ジャー・シャーマン、ロバート・モリス、チャールズ・トムソンなどが独立革命のがわにたった。

イギリス大商人と、南部農園主の対立もあった。南部の農園で生産されるタバコ、藍、皮革などは、イギリス工業製品と交換されたが、この交換はイギリス大商人の手ににぎられ、植民地物産は買叩かれ、工業製品は高く売りつけられた。そのため南部農園主の負債が増加した。

ジェファーソンの計算によると、ヴァージニア州が、イギリス商人に負っている負債は、独立革命のはじめに二〇〇万ポンドで、これはこの州に流通している貨幣の二〇~三〇倍になったという。もし正直に支払おうとするなら、南部農園主の破産である。そこで、かれらは、代議院をうごかして負債からのがれる法令をつくらせた。破産法、支払停止法、不換紙幣による支払いなどである。これが、イギリス商人の利益と衝突し、本国議会はことごとく拒否した。農園主にとって、イギリスからの独立は債務の切りすてを意味した。そこに、かれらが独立革命のがわにたった理由がある。農園主の実例としてはワシントン、ジェファーソンはもちろん、ヴァージニア州を代表したジェームス・マディソン(合衆国憲法の父)などがいる。


市民革命としてのアメリカ独立戦争

独立戦争のとき、イギリスのがわにたった王党派は、総督以下、植民地の権力を組織していた大土地所有者の一派である。

権力からしめだされ、代議院によって野党的立場にたっていた大地主、農園主、大商人は、愛国派となり独立革命を指導した。かれらは、職人、農民層からなる急進派とていけいし、かれらの力を利用して戦争に勝った。

大商人、大地主は愛国派のなかの保守派であり、急進派とむすんだとしても、自分の財産をそこなうような社会改革には反対した。そして、愛国派の保守派はワシントンを代表者として、運動の指導権をにぎりつづけた。また、王党派でもなく愛国派でもない中立派、日和見主義派の大商人、大地主が多くいた。かれらは、その経済力のゆえに、独立後のアメリカで、愛国派の保守派とならぶ権力をふるった。

独立革命によって実現したものは、上級土地所有者の一派の権力を破壊し、これに大商人と大地主をおきかえたことである。それとともに、イギリス商業資本からの独立を達成した。

ここで成立した大商人と大地主の権力のうち、どちらが指導権をにぎっただろうか。これが重要な問題である。もちろん、アメリカの場合、大商人はほとんど大地主でもあったが、それにしても、財政上の必要が、大商人の指導権を実現したと解釈できる。

ロバート・モリスは、ペンシルヴェニアの大商人で、一時急進派が、かれの小麦粉を差押えようとしたことがあった。急進派は、買占の禁止を名目にしたのである。そのときかれは「人が自分の適当と思うやり方で自分の財産を処分することを妨げるのは、自由の原則に反する」といった。

やがて、ワシントンの軍隊の物資欠乏がひどくなった。大陸会議も、軍隊にわずかの金しか出せなかった。軍隊に暴動がおこり、イギリス軍の司令官は、密使をおくって反乱を煽動した。この危機にあたって、モリスとの協力の必要がみとめられ、一七八一年から、かれは大陸会議の財政を指揮した。かれは、北アメリカ銀行をつくり、軍隊に資金を供給した。このおかげで、ワシントンの軍隊はもちこたえた。戦争ののち、憲法制定議会がひらかれたとき、ワシントンは、モリスの邸宅に会期中とまっていた。

ワシントン内閣の蔵相として、経済上の実権をにぎっていたのはハミルトンであり、かれは大商人の代弁者だった。第二代大統領ジョン・アダムスは、マサチュセッツ州の商業界の代表者である。ハミルトンの妻は、ニューヨーク最大の金持シャイラーの娘であった。

こうみてくると、独立革命は、上級土地所有者の組織する権力を破壊し、それを上層ブルジョアジーの権力におきかえたといえる。そのかぎり、独立革命は市民革命である。


南北戦争の解釈

つづいて南北戦争を考えよう。これを考えるためには、合衆国が連邦制であることを思いださねばならない。つまり、中央政府としての連邦政府があるといっても、各州の自治権も強く、州はなかば独立国だという事情がある。このうち、北部諸州では大商人の勢力がつよい。だが南部諸州では、大農園主=奴隷主の勢力がつよかった。南部の州の権力は、農園主によって組織された。

そのうえに、連邦政権がおおい、これは大商人と大地主・農園主の同盟であり、大商人の指導権のもとにあった。

この状態のもとで、一八六〇年をむかえた。共和党を代表してリンカーンが大統領に当選した。共和党は、北部産業資本を代表した。その利益のために、保護関税政策、大陸横断鉄道の建設、工鉱業の育成などがはじめられた。ここで、商業資本は敗北し産業資本が勝利した。

だが南部がのこった。南部農園主は、自由貿易を主張し、奴隷州の拡大を要求して北部産業資本の利益と対立した。北部産業資本の製品をうりつけられるよりは、安いイギリス製品を買うことをのぞんだ。ついに分離、独立を宣言し、ジェファーソン・ディヴィスを大統領にたててアメリカ連邦と称した。もしこの独立がながくつづいたなら、南部諸州は、農園主=奴隷主の国家ができたことになる。これは、上級土地所有権者の権力である。ローマ帝国の再現ともいえようが、北部に敗北して実現しなかった。南部諸州も、北部産業資本の支配下におかれた。

この経過をみるなら、南北戦争とは、南部諸州内部における市民革命の完成だということができる。しかし、市民革命は土地革命を任務としていない。だから、農園主の権力を破壊しただけであり、奴隷は解放しても、農園主の土地所有権を奪うことはなかった。そこで、南部に旧農園地=大地主がのこり、その土地をニグロの小作人(ジェア・クロッパー)が耕すという関係が現代にまでつづいた。

独立革命は、連邦政権の規模での市民革命を達成し、南北戦争は、南部諸州の内部で市民革命を完成させた。ようするに、アメリカの市民革命は、独立戦争にはじまり、南北戦争によって終った。


インドの市民革命

インドの独立が市民革命である。独立以前、植民地インドでは、中央政権をイギリスがにぎり、地方権力を大土地所有者の強力な一派が組織した。

直接統治の地区では、イギリスが地主(ザミンダール)をつくりだし、これがイギリス統治の足場になった。五六二の藩王国では、藩王が統治の足場になり、藩王は最大の地主で、その地方の大地主階級の権力組織を代表していた。

ゆえに、植民地インドの内部構造は、封建国家としての性格をもっている。ただし、ここにも植民地として特殊な要素がくわわっている。先進資本主義国イギリスの一部とされ、イギリス資本は、最上の立場で入りこみ、製茶、石炭、ジュート、貿易、ホテルなどの重要部門をおさえていた。だから、イギリス資本と封建支配者の同盟がつくられており、藩王国にイギリスの総督や官僚がくると、豪華な宴会がひらかれ、夫人に多くの贈りものがなされた。その宴会で、政治的談合がおこなわれた。

この権力からしめだされたものが二つあった。一つは、商人地主層であり、もう一つは、これとからみあっているが、民族資本家である。この不平分子が、独立運動の指導階級になる。

第一回インド国民会議に参加したもののうち、商人=金融業者四分の一、地主四分の一、知識人二分の一という割合である。独立運動の大衆的勢力として、農民、職人、労働者が参加してくるが、運動の指導権は、つねにこれら上層階級の手ににぎられ、それをこえることはなかった。

上層階級の指導者のなかで、きわだった発達をしめしたのが、民族資本家である。二〇世紀のはじめから、紡績、製鉄の方面に民族資本が進出した。

ジャムシェドシ。タタは、はじめ綿花、アヘンの貿易で資金を蓄え、これを一九七四年に紡績工場へ投資した。それでもかれは、イギリス人専用ホテルにとめてもらえなかったので、インド最大をほこるタージマハル・ホテルをつくった。一九〇四年、かれが死ぬと、その子ドラブジ・タタは鉄鋼業をおこそうとし、一九〇七年に成功した。これが、タタ財閥のもとになる。

ガニシャム・ダス・ビルラは、二〇世紀のはじめ、ジュートの商業をおこなっていたが、やがて、紡績工業に進出した。

これら民族資本は、ガンジーの指導するスワデシ運動(国産品愛用、イギリス製品排斥)を利用して大発展をしめした。とうぜん、かれらは、この運動を指導した国民会議派の支持者であった。

デザイはいう。「産業資本家たちは、二〇世紀の最初の一〇年間に民族運動の軌道に入りはじめた。この階級はインド国民会議派にひかれはじめた。そして、スワデシと英国品排斥の綱領を熱心に支持した。それが、同時に、かれらの階級的利益に役立ったからだ」

タタが鉄鋼業をおこす資金に困ったとき、スワデシ運動が高まり、タタは、スワデシ産業に投資すべしと宣伝した。すると、三週間で建設資金が集まったという。

ビルラは、ガンジーと父子のような関係だったといい、「チラックとゴカーレをのぞけば、わたしがつきあいをもたなかった政治指導者はいなかった」という。ガンジーが死んだところも、ビルラ邸であった。独立運動に、三五億円に相当する資金をつぎこみ、ガンジーのサチャグラハを援助した。この運動にのって、かれの企業も大発展をとげた。

こうして、独立運動は、民族資本によって指導され、その攻撃のほこさきは、イギリス資本と地主階級の同盟した権力にむけられた。独立の達成は、イギリス資本の支配をおわらせるとともに、地主階級の権力を撃破し、それを民族資本の権力にかえた。そのかぎり、市民革命である。


国民会議派の本質

独立を達成すると、インドの権力は国民会議派が組織した。この会議派の支柱は民族資本である。

タタ財閥からは、ジョン・マッタイが、運輸相、蔵相に入り、バーバが商相に入った。前者はタタ・サンズ会社(タタ財閥の総経営代理社)の重役、後者はタタ財閥のセントラル銀行重役である。タタ財閥は、一九五七年の総選挙に二億二、五〇〇万円相当の献金をおこない、会議派議員のうち三五%がタタ派である。故ネール首相もタタ財閥と親密で、ジャムシェデシ・タタの功績をたたえている。

ビルラ財閥からは、パント内相、デザイ現副首相(ガンジー現首相のあと釜をねらっているが、敵が多すぎてうまくいかないといわれている)、デベール国民会議派議長をだした。インド政府が、ビルラ商会の政府とよばれたこともあり、会議派議員の四〇%がビルラ派である。ビルラを代表した最大の人物は、故サルダル・パテル副首相兼内相である。

このパテル内相は「鉄人」「鉄腕パテル」ともよばれ、独立したころの内政の実権は、かれの手にあった。ネールは、首相兼外相として「第三勢力論」「中立主義」「社会主義」など理想主義をとなえたが、それはあくまで対外放送であり、内政は、パテルの手によっておこなわれた。

パテルの鉄腕は、二つの方向にむけてふりおろされた。一つは藩王の強制的統合、藩王国軍の解散であり、もう一つは、労働組合、農民運動の弾圧である。独立とともに、強大な藩王は、独立国家をつくろうという野心をもっていた。これが実現すると、封建国家の再生になる。パテルは、藩王をあつめて統合を強要し、抵抗したハイデラバード藩王にたいしては、軍隊を出動させて降伏させた。こうして、地主階級は、ブルジョアジーの権力に服した。

ただし土地革命を行ったわけではない。民族資本家も地主である。だから地主制は保存され、旧藩王には莫大な補償金があたえられた。たとえば、ハイデラバード藩王には、年金五〇〇万ルピー(約三億八、〇〇〇万円)、そのほかで一、〇〇〇万ルピーをあたえた。藩王に毎年支払う年金は、約五、六〇〇万ルピー(四〇億円余り)になる。こうして、地主階級は、ブルジョアジーと混合していった。ジャイプール藩王は、ジャイプール銀行(シンガニア財閥)に出資し、バローダの藩王は、バローダ銀行(ワルチャンド財閥)に出資した。大地主の組織する右翼政党ヒンズー・マハサバ(ガンジーの暗殺者を出した)やR・S・Sなどにも、ダルミア、ゴエンカ、シンガニアの財閥が出資して協力している。

インドブルジョアジーの頂点に財閥がいる。ビルラは軽工業、商業、新聞、銀行業を支配し、三億ルピー(一ルピー=七五円)の資本をもつ連合商業銀行、七つの紡績工場、五つの精糖工場そのほか九五の会社を支配し、その資産は数年前の評価で七五〇億円前後であった。

タタは、重工業を支配し、タタ鉄鋼会社のジャムシェドプール製鉄所には約五万人が働き、七億ルピーの資産、インド鉄鋼の約八〇%を生産した。タタ機関車製造、タタ航空機工業、タタ水力発電会社、タタ化学工業など多数の会社をもち、インド中央銀行は最大の銀行で一二億ルピーの資産をもつ。ビルラ、タタが二大財閥である。

これより小さい、六〇〇億円以上の財閥として、ダルミア、シンガニア、ヒラチャンド・ワルチャンド、フカムチャンドがある。

ダルミアは、銀行、石炭、電力、鉄鋼、航空、化学、新聞などを支配し、約三〇の工場をもち、カルカッタに大邸宅をもつ。五七年の総選挙では、一五億円を献金した。

シンガニアは、ジュート王で、全国の都市につねに二〇〇台の自動車をおき、アルミ工業を独占し、綿紡績、鉄鋼など四三の会社を支配し、銀行も経営する。一人で四〇の会社の重役をかねている。

ワルチャンドは、銀行とともに造船、土建業を支配する。

フカムチャンドは、綿花王といわれ、綿花貿易の六〇%、繊維の一八%をにぎる。かれは、六二歳のとき、若い娘と結婚するため若返りの手術をうけ、ソ連からよんだ医師に手術代として一カ月一〇〇万ルピー(七、五〇〇万円)を支払った。悲しき六〇歳の現代版だ。

これから下へいくほど数も多くなり、一、〇〇〇万ルピー以上の資産をもつものは、三〇〇家あるといわれる。これらの勢力が国民会議派を牛耳り、政府はかれらに財政上の便宜をはかる。たとえば、タタ、ダルミアの民間航空が赤字をだすと、五三年に政府は国有化し、株主に補償金をあたえて危機を救ってやった。五カ年計画の立案者一四名のなかで、九名が大財閥の代表者、関係者である。インド民族資本は、独立によってインドの支配者になった。


エジプトの市民革命

一九五二年の、自由将校団による革命、ファルーク王朝の倒壊がエジプトの市民革命である。

イギリスがエジプトを支配していらい、イギリスは土地の私有化をすすめ、地主貴族の大土地所有がつくりだされた。もちろん、それとともに中小土地所有もつくられ、さらに、外国会社や外国人の大土地所有もあらわれた。アブキール会社は、約一万二、〇〇〇haをもっていた。

ファルーク王朝時代、権力は大土地貴族の手にあった。王と王族は、革命後接収された土地が一二万エーカーであり、大地主の土地で接収されたのが二〇万エーカーにたっした。このうちの大きなものは、一万エーカー以上である。二〇〇エーカー以上の地主が約二、五〇〇人いた。

外国銀行は、綿花取引や土地抵当貸付をつうじて地主階級とむすびついていた。こうした外国資本とエジプト大地主階級の同盟にたいして、しだいに力をつよめてきたのが民族資本である。かれらは、ヨーロッパ商品からエジプト工業をまもるための保護関税の設定、民族工業製品にたいする課税の廃止、民族工業に融資するための銀行の設立、民族工業育成のための財政投融資を要求した。民族資本は、第一次大戦のときに成長をとげ、一九一七年には、エジプト商工委員会を組織し、一九二〇年には民族資本の銀行としてミスル銀行をつくり、この銀行が民族工業発達の中心になった。そして、民族運動の指導者タラアト・ハルブが、ミスル銀行総裁になった。二二年には、民族資本の助成金を国庫から支出させることに成功した。

しかし、支配者のがわの譲歩もかぎりがあった。高級官僚、高級将校の地位を大地主がにぎり、かれちは無能で腐敗していた。イスラエルを相手としたパレスチナ戦争で敗北したとき、その責任を問うという名目でナセルの革命がおこされた。はじめナギブ少将が大統領になったが、ナセルの指導権のもとにある革命委員会と対立して失脚した。そのあとに確立したナセル政権の支柱は、ミスル銀行を中心としたエジプト民族資本である。

土地革命として大地主の土地が接収されたが、それは巨大地主のものだけであり、地主制は保存された。こうして、エジプト革命は、イギリス資本と巨大地主の同盟した権力を破壊し、それを民族資本の権力にかえた。そのかぎり、市民革命である。