2022年6月15日水曜日

06-ドイツ史に対する誤解

 6 ドイツ史に対する誤解


ドイツと日本

ドイツ、日本、イタリアは、第二次大戦の同盟国であるが、市民革命の時期が誤解されつづけているということでも、また兄弟分だ。そのなかで順序をつけると、ドイツが長男で、あとが二、三男である。なにごとにつけても、二、三男は、長男を基準にしてはかられる。

「西欧絶対王政は、封建社会の最終段階にあらわれるが、わが国の絶対王制たる天皇制国家は、西欧絶対王政のごとき封建反動として機能することなく、逆に封建的ギルド諸制限を撤廃し、資本主義を発展させるという歴史的任務を遂行したのである。ブルジョア革命を敗北せしめたドイツ絶対君主国家が、ブルジョア革命の歴史的任務を遂行せざるをえなかったという、レーニンの洞察した事情と対応する(『民主主義革命における二つの戦術』)。だからといって、天皇制国家が統治機構として有する絶対主義的性格を否定する必要はない。揖西ら四人のように、維新後の日本が資本主義社会であるからということで、天皇制国家を絶対主義として否定するのでは、国家機構と国家機能を混同する大塚、堀江らの絶対主義論の誤りを裏返しの形でくり返すことになろう。エンゲルスが『ドイツにおける社会主義』で『ドイツ国は半封建的形態の君主だが、つきつめていくと、それはブルジョアジーの経済的利害によって左右されている』といっているように、絶対主義はあくまで統治機構の概念として理論的に整理しておかないと混乱するばかりだとおもう」(『明治維新史研究講座』平凡社、第五巻、五〇頁)

こういう議論は、ちかごろかなり有力である。つまり、どうみても、明治維新以後の日本は封建制度ではない。感覚的にみるとやはり資本主義の国だ。そうすると、明治維新が市民革命ということになるが、いままでそれをかっちりと証明したものがいない。どうもこまったと思っているところへ、この議論がでてきた。

なにもこまることはないよ。ドイツもそうだ。なにしろドイツ統一以後は、フランス、イギリスをぬき、たいへんな先進国になったが、それにしても「絶対主義」「半封建」の国なんだ。

レーニンやエンゲルスがそういっている。だから安心して、社会の内容と政権の形式をわけてしまえ。内容は資本主義、形式は絶対主義。こういっても、べつに矛盾はしないのだ。だから日本も、政権は絶対主義で、社会の内容は資本主義なのだと。

ドイツのことをよく知らないと、こういわれてしまえばそれでおわりだ。じつのところ、こういう理論がまかりとおると、私が『明治維新の考え方』で「明治維新=市民革命」を証明した苦心は水のあわとなる。私があえてドイツの歴史をくわしく分析した理由はここにあった。

私の意見によると、ドイツ統一により、ドイツの市民革命はおわった。だから政権(=統治機構)も内容(=機能)もすべて資本主義制度のものにかわった。だからこそ先進国に上昇したのだと。おなじく、日本も明治維新によって市民革命をおわった。そして資本主義制度(政権も内容も)をつくり、先進国へ上昇したのだ。こうして、兄弟は仲よく、べつな角度から、正しい評価をうけることになった。ドイツの歴史は、日本人にとって、よそごとではなかった。

さて、これですっきりしたわけだが、問題がすっきり片づいたわけではない。エンゲルスなどの言葉をどうするかといわれよう。いまからそれにうつろう。


マルクスの誤解

ドイツ史について、エンゲルスらの言葉を真理として盲信するわけにはいかない。いろいろな誤解があるからだ。

「三月から一二月(一八四八年)にいたるプロシアのブルジョアジー、そして一般にドイツブルジョアジーの歴史は証明している。ドイツでは、純粋にブルジョア的な革命は、そしてまた立憲君主制の形態のもとにおけるブルジョア支配の樹立は不可能である。ただ封建的、絶対主義的反革命か、そうでなければ、社会共和主義的革命か、そのどちらかが可能なだけである」(マルクス『新ライン新聞』)この言葉は極端である。政治的煽動とみればともかく、学問的には大ざっぱすぎる。こんな言葉でも神聖な文句として引用されるから(「東ドイツにおける農民解放」『西洋経済史講座』Ⅳ、九四頁)、ひとこといわねばならない。

正確にいうと、この二つのあいだにブルジョア支配の君主制(これは本質的に独裁)または帝制がありうる。なにも立憲君主制や共和制だけが、ブルジョア支配の形式ではない。フランス革命ののちでも、ナポレオンの第一帝政があった。これは選挙制をつぶしたのだから独裁制である。それでも、ブルジョア支配だ。そして、ドイツ帝国は、そのようなブルジョア君主制になった。下院の普通選挙をみとめたのだから、ナポレオンよりもやや民主的で、イギリス流の立憲君主制よりもやや非民主的性格であらわれた。マルクスの見方は、あまりにも形式論にとらわれすぎたものである。

それに、マルクスは「純粋にブルジョア的」というが、そんなものはフランスに要求しても、イギリスに要求してもむりである。三月革命で権力をにぎった上層ブルジョアジーが、すぐに貴族・ユンカーと手をにぎったことを「純粋でない」といいたいようだが、イギリスでもフランスでもそういうことはみられるのである。フランス革命では、ラファイエットなどの貴族が表面にあらわれる。ナポレオン時代でも、むかしの名門貴族が宮廷に入り、元老院議員になる。

七月革命ののちでも、ルイ・フリィリップやラファイエットが表面にでてくる。こうした貴族の一派はどのような市民革命にも登場するし、権力をにぎったブルジョアジーは、いつでも貴族を同盟者(対等かそれ以下)にする。

マルクスのいう一八四八年一二月のころは、まえに分析したように、自由主義貴族と上層ブルジョアの代表者が、政府の多数派をつくっている時期である。まだ絶対主義へもどっていない。それを絶対主義へもどったといわせるものは、自分らが弾圧されてしまったという危機感である。たしかに、マルクスの目ざす運動からすれば、何もかもつぶされてもとにもどっている。しかし、上層ブルジョアにとっては、いちどくわえた獲物をはなしていない時期である。

その意味で、ブルジョア革命の成果はのこっている。マルクスは、自分のめざす目標と、上層ブルジョアの目ざす目標を混同している。ここにまちがいがあった。


エンゲルスのあいまさ

エンゲルスは、ドイツ統一の意義をかなり正確に感じとっている。つまり、ブルジョア支配が実現した事実を肌で感じている。ところが、歴史理論が問題になると、形式論にわざわいされてしまう。そこで、本質を見たようで見ていない言葉がとびだす。

「ドイツの国家は、半封建的形態の君主国だが、つきつめていくと、それはブルジョアジーの経済的利害によってうごかされている。・・・・・・こういうドイツに対抗して、今日のフランス共和国もまた革命―もちろんブルジョア革命にすぎないが、それでも革命は革命である―を代表することはうたがいない」(「ドイツにおける社会主義」、一八九一年)

この言葉がいかに利用されたかは、まえにみた。

エンゲルスは、「形態」をおもくみているが、どの形態が封建的で、どの形態がブルジョア的かというような規則を、あらかじめきめつけて歴史を判断するのは正しくない。政治形態などは、ときと条件によってめまぐるしく変化するものだ。共和制や立憲君主制でなければいけないときめてかかるのは形式論である。

ブルジョア革命であるかないかを判断するためには、形式の背後を、つまりブルジョアジーが実質的に権力をうごかしているかどうかを見なければならない。そして、実質論では、エンゲルスも正しい見方にたっているようにみえる。


エンゲルスの小細工

頭のよい人間がまちがいをやると、仕末がわるい。まちがいはまちがいなりに、すじをとおすからだ。そこで、凡人は、そのまちがいの体系のなかにひきこまれ、いいくるめられて信じきってしまう。そういうことが、エンゲルスの理論におこっている。

それがボナパルティズム論である。エンゲルスは「均衡」をよくもちだす。絶対主義を「貴族とブルジョアの均衡」だといった。これは、私が前回の著書で批判したことである。おなじいいかたで、ブルジョアジーと労働者階級の均衡をもちだす。この両陣営が、どちらも相手を圧倒しつくせない「均衡」の状態に入ったとき、それ以外の、第三者の階級がその対立均衡を利用して政権をにぎり両者をおさえる、と。図に示すと左のようになる。










マルクスとエンゲルスによると、この第三者が、自作農であったばあいが、フランスの帝政だという。これはナポレオンの支配、すなわち第一と第二帝政、とくに第二帝政をいう。エンゲルスは、この図式で統一ドイツを説明する。

それは、第三者にユンカー・貴族をもってくる方法である。ビスマルクに代表されるユンカー階級は、ブルジョアージと労働者の対立を利用して権力をにぎっていると解釈する。だから、ブルジョアージはまだ権力の座に達していないが、さりとて絶対主義でもない。その中間だ。

だから「半封建」だ。そして、ずるずるべったりに、ユンカー・貴族がブルジョアジーと同化してしまい、ドイツのブルジョア革命というものは、ずるずるとなしくずしにすすみ、一九〇〇年ごろには完成するだろうというのがその主張だ(『住宅問題』、『ドイツ農民戦争序文』参照)。

「こういうわけで、プロシアは一八〇八年~一三年に開始し、四八年にちょっとおしすすめたブルジョア革命を、今世紀のおわりにボナパルティズムの気持のいい形態で完成するという、めずらしい運命をもっている。……われわれはおそらく、一九〇〇年には、プロシア政府がほんとうにいっさいの封建的諸制度をとりのぞき、フランスが一七九二年にたっていた地点に、ついにプロシアもまたたどりつくのをみるだろう」

ここで、エンゲルスの誤りは頂点にたっした。かれは市民革命を、質的な変化とみず、ずるずるべったりな量的変化とみている。これはおかしい。「一八〇八年に開始し」というが、そののちでも、プロシアは絶対主義の時代である。市民革命は開始されていない。開始されたのは市民革命でなく、市民革命をめざす運動であり、また絶対主義の支配者たる貴族・ユンカーが、その運動にたいしておこなった譲歩である。そこで実現したものは改良だ。農奴解放や度量衡の統一、さらに国内関税の廃止は改良だ。こういうものが、市民革命とともに実現するとはかぎらない。絶対主義の時代に、改良、譲歩として実現するばあいもある。ここでエンゲルスは、「革命」と「革命運動」、「改良」と「革命」を混同している。

さて、一八四八年の三月革命まで、プロシアは絶対主義の国家だった。そのまえに、多くの改良(エンゲルスによるとブルジョア革命とよばれるもの)があったのにかかわらずだ。ここで、はっきりさせるべき問題がのこる。そのような改良があるのに、なおかつ、絶対主義であった理由はなにかと。それが、権力と財政の実権をめぐる問題である。エンゲルスには、そこのげんみつさがない。つまり、かれは「市民革命とはなにか」ということを正確に考えないでものをいっていたのだ。


ボナパルティズム論の誤り

エンゲルスは、自分の誤りを「ボナパルティズム論」のなかですじをとおしてしまった。この理論に目をくらまされてしまうと、エンゲルスのほうが正しいのかと思ってしまう。そこで、この理論をしらべてみる。

結論をさきにいおう。「ボナパルティズム」とは、まったくのナンセンスである。これは、架空の理論であり、おもいちがいにすぎない。

「二代目ボナパルトの治世で(第二帝政)、はじめて国家は完全に独立したようにみえる。国家機構は、ブルジョア社会に対抗してじゅうぶんな基礎をかためたので、その先頭にたつのは、一二月一〇日会の首領、すなわちブランデーとソーセージとで買収した酔ぱらいの暴兵たちにかつがれ……た外国からやってきた山師でじゅうぶんである。……しかし、それにもかかわらず、国家権力は、けっして宙にういているものではない。ボナパルトは、一つの階級、しかもフランス社会でいちばん数の多い階級、すなわち分割地農民を代表する。ブルボン家が大土地所有者の王朝であり、オルレアン家(七月王政)が貨幣の王朝であったように、ボナパルト家は農民大衆の王朝である。ブルジョア議会に屈伏するボナパルトではなく、ブルジョア議会を追いちらすボナパルトこそ農民のえらんだ人物であった……」(マルクス『ルイ・ボナバルトのブリューメール一八日』)

これが、ボナパルティズム論の経典だ。だが、この文章はまちがいである。一八四八年二月、二月革命で七月王政はたおれ、権力は共和派と社会主義者の同盟の手に入った。六月、社会主義派は追放、弾圧された。つづく大統領選挙で、共和派のカヴェニャック将軍と、ルイ・ナポレオンが争い、後者が勝った。議会は、共和派系がつよい。そこで、ナポレオンと議会の対立となり、クーデターで共和派を弾圧し、議会を解散し、第二帝制をつくった。

マルクスによると、このときの共和派がブルジョアを代表し、社会主義者は労働者を代表し、その対立を利用して権力にたっしたナポレオンは、自作農民の代表者だということになる。しかし、事実をみると、ナポレオンを支持して権力につかせたのは、一群の上層ブルジョアである。シュネーデル(クルゾー工場を経営して機械王といわれる)は強力な支持者で、第二帝政の立法院議長になった。大銀行家オディエは、フランス銀行の有力者であり、統領委員会をつくってナポレオンのクーデターをたすけた。大株式仲買人フールも強力な支持者で、ナポレオンとフランス銀行をむすびつけた。こうして、フランス銀行が、クーデターの費用として、二、五〇〇万フランを貸しつけると決定したとき、それが実行された。フランス銀行の重役は、上層ブルジョアの名門でかためてあり、俗に二百家族といわれる。

第一次大戦のとき、首相としてヴェルサイユ条約をすすめたクレマンソーは、ひじょうな権力をもち「虎」とあだ名されたが、「あなたほどの権勢をもっている人はないでしょう」ときかれると「あるさ、それはフランス銀行の重役さ」と答えた。

そのフランス銀行の重役、すなわち上層ブルジョアのエリートの協力をえて、はじめてナポレオン三世の権力はかたまった。だから、ボナパルティズムとは上層ブルジョアの権力である。農民が支持したということについていえば、それはあくまで、支持者大衆だったというにとどまる。支持者大衆が何かということと、権力を牛耳るものは何かということとは、別の問題だ。

ときにはあざむかれて支持するばあいもある。大統領選挙のとき「ナポレオン万才!金持をたおせ、貴族を処刑せよ、ギロチン万才」の叫びをもって、カガリ火をたいて祝った農民もいる。

しかしこのような支持は幻想でしかなかった。ナポレオンは金持をも、貴族=大地主をも保護した。というのは、けっきょく、かれらの代表者として権力をにぎったからだ。そこで、こんどはクーデターのとき、貧しい自作農や小作農が、ナポレオンに反対して暴動をおこし弾圧された。

このことの意味について、マルクスは誤解している。「しかし誤解しないでもらいたい。ボナパルト王朝が代表するのは、革命的農民でなく、保守的農民である」(同)。前者は、貧しい自作農や小作農、農業労働者だ。かれらは土地革命をのぞんでいる。後者は、富農層であり土地所有権をまもるということで、ブルジョア的大地主や貴族地主と利害の一致をもっている農民である。それは正しい、ただこの事実からナポレオン権力が農民の権力で、ブルジョアジーや大地主から独立し、その上位にあるようにいうことがまちがっているわけだ。富農層は、ブルジョアジーや大地主のあとにくっついて支持し、支持者大衆としての人的資源をさしだしていたにすぎない。

あと一つ、それでは、ナポレオンの親衛隊が「ブルジョアをやっつけろ」と叫んで行動したのは何と説明できるだろうか。じつは、共和派系のブルジョアが攻撃されたのである。これは、中・小ブルジョアジーであり、二月革命の指導勢力だった。ナポレオンは、自分が上層ブルジョアに支持されていることをかくし、巧妙な宣伝戦でこういう手段を利用し、共和派と労働者のあいだにくさびを打ちこんだにすぎない。もちろん、ふくざつな動乱のなかにあって、一部の上層ブルジョアは、共和派をあやつった。ロートシルド家がそうである。だが、これとても、やがてナポレオンと仲なおりをする。おちついたところは、七月王政の延長だった。

ナポレオン一世の権力(第一帝制)は、上層ブルジョアの権力である(この事実は、拙著『フランス革命経済史研究』参照)。だから、いわゆるボナパルティズム論は、信用しがたい。


レーニンの誤解

いわゆるボナパルティズムなどはない。第二帝政とは、本質的に上層ブルジョアの権力である。農村の地域にかぎっては、貴族や大地主が地方的な権力をにぎっている。なにもかわったものはない。あるとすれば、みかけのうえだけのことだ。

おなじことで、統一ドイツの本質は、上層ブルジョアの権力である。ユンカーの権力とはみかけのうえのことだ。みかけにとらわれるのは、本質を見ぬく目をもたないからだ。

これで問題は、きわめてはっきりする。本質的にユンカー・貴族の権力か、それとも上層ブルジョアの権力かである。前者は絶対主義、後者は市民革命後の社会である。こう整理すれば、つぎの言葉もおなじ種類の誤解だと気がつく。

「もし諸君が問題を『歴史的』に観察したいなら、ヨーロッパのどの国の実例も、ほかならぬ、けっして『臨時』ではない一系列の政府がブルジョア革命の任務を実現したこと、革命をうちやぶった政府すら、やはりこの敗北した革命の任務を実現しないわけにはいかなかったことを諸君にしめすだろう」(『レーニン全集』大月版、第九巻、三一頁)

この言葉が、どのように利用されるかはまえにみた。ところが、この言葉は、ドイツの歴史についてのマルクス、エンゲルスの誤りを基礎にしたものだ。もし、貴族・ユンカーが、ブルジョア革命を打ちやぶったときは、ブルジョア革命の任務をはたすはずがない。ただし、この革命運動のなかで、マルクスたちのめざした革命(これは上層ブルジョアの利益をめざしたものではなく、労働者や中産層のものである)は打ちやぶられた。だから、その革命の任務ははたされない。しかし、上層ブルジョアのめざす「革命」は、マントイフェル内閣の時代をのぞいて成功した。この時代でも、完全に打ちやぶられはしなかった。だからブルジョア革命の任務は実現されていた。まして、統一後はそうだ。

どうも、マルクス、エンゲルス、レーニンは、自分のめざす「革命」と、上層ブルジョアの立場からする「革命」を混同し、ブルジョア革命の勝敗を、自分の「革命」のものさしではかっている。これは、主観と客観の混同であり、歴史を科学としてあつかおうとするときに、いちばん気をつけなければならないことである。


カイゼルは去ったが将軍はのこった

いままでの議論は、つぎにくる一九一八年のいわゆる「一一月革命」の評価につながる。マルクス・レーニン主義史学では、統一ドイツは市民革命を完成していないのだから、いずれは市民革命をへなければならないことになる。そこで、それにふさわしい歴史的転期、すなわち、第一次大戦末期、キール軍港水兵の反乱につづく、ベルリン蜂起、カイゼル亡命、ワイマール共和国の成立が市民革命だとされる。

「一九世紀の未完成のブルジョア民主主義革命にもとづき、ドイツは半絶対主義君主国にとどまっていた。……それゆえレーニンはドイツ帝国主義の性格を……『ユンカー的ブルジョア的帝国主義』であるとしたのである。……スパルタクス派はブルジョア民主主義革命を徹底的に最後まで遂行するという革命勢力の主要任務がまだ完了していないことを確認した。……一一月革命はその歴史的任務をはたさなかった。ブルジョア民主主義革命さえも……完全には遂行されえなかった。ただし、支配階級の階級的勢力のあるていどの移動はたしかにおこなわれた。

ユンカーブルジョア帝国主義は、ブルジョアユンカー帝国主義にかわった」(一一月革命四〇周年のためのドイツ社会主義統一党テーゼ)

これが誤りのしめくくりだ。そうではなく、一九世紀の末期(一八七一年)に、市民革命はおわっていた。それからはまさに、ブルジョア・ユンカーの権力にかわった(まえのほうが権力の指導権をにぎるという言葉の約束で)。それでは、一一月革命とはなにか。

これはなんでもない。政治の形式の変化だけで、本質はなにもかわらなかった。『カイゼルは去ったが将軍はのこった』という小説がある。まさにそのとおりで、権力の本質はかわらなかった。だから「一一月革命」は革命ではない。それは政変であった。

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