2022年6月15日水曜日

03-市民革命-市民革命の各国史

 3 市民革命の各国史


ロシアの絶対主義

ロシアは、一九一七年の三月革命(旧暦二月革命)まで絶対主義の時代であった。つまり、ロマノフ王朝(ツアーリズム)は封建王朝であった。

なぜならツァーリ(皇帝)をとりまき、その方針をきめ、高級官僚、高級軍人になるのは、貴族=地主であったからだ。ロシアの貴族も、農奴解放令ののちは、東ドイツとおなじく、地主・小作関係のうえにたつ地主になった。ということは、上級も下級もふくめて土地所有権をもっていたのである。

地主貴族は、約一〇万人で、そのうち三万の巨大地主が七、〇〇〇万デシャチンの土地をもっていた(一デシャチンは一ha強)。地主のなかで、不在地主と地方地主があり、巨大地主は不在地主であって、最高級の官職をもっていた。皇帝の意志をきめる枢密院議員は、すべて巨大地主で、二一人が合計一七万六、〇〇デシャチンをもち、そのなかの一人は、一一万五、〇〇〇デシャチンをもっていた。

こうした大地主の家系は、古くからの領主=農奴主である。革命直前において皇帝のザンゲ僧をつとめていたドゥビャンスキーの家系は、エリザベート女帝のザンゲ僧でもあり、八、〇〇〇人の農奴をもっていた。ラズモフスキー家(べートーべンの絃楽四重奏曲がささげられたので有名)は、エリザベート女帝の寵臣で一二万人の農奴をもち大公である。エカテリナ(カザリン)二世の寵臣をつとめたポチョムキンやボブリンスキー伯の家系も大地主である。コサック軍団も大地主である。そこで、コサックが皇帝の憲兵として群衆の弾圧に活躍することになった。

この大地主貴族と対等の資格で活動するのは、外国資本である。ドイツのジーメンスは、首都に、一、〇〇〇人の電気工場をつくった。バクーその他の石油業は、ロスチャイルド(英)、ノーベルが支配した。ヴィッカース(英)、シュネーデル(仏)は大砲工場をつくった。フランスの銀行は鉄道事業の融資に進出した。

外国資本と大地主貴族のむすびつきは、皇帝のアレクサンドル三世が、三億ルーブルの金を、西欧の銀行にあずけていたことにも象微される。

これとはべつに、ロシアのブルジョアジーが成長していた。砂糖王チェレシチェンコ、繊維工場主コノヴァーロフ、紡績工場主モロゾフなどがいた。銀行も発達し、ロシア・アジア銀行、ヴォルガ・カマ銀行などがあった。

しかし、ロシアのブルジョアジーは、権力の座にたどりついてはいなかった。もちろん、財政上の実権は、大地主貴族にあり、かれらにはなかった。そのうえ、かれらが、株式会社や企業連合をつくることも自由にならなかった。工場経営についても、皇帝の法律がいろいろ干渉をくわえた。こうして、ブルジョアジーは、大地主貴族と外国資本にたいして、野党的な立場にたっていた。これらの関係を図示すれば左のようになる。







これこそ絶対主義の特徴である。


ロシアの市民革命

ロシア三月革命をえがくとき、ほとんどの本がポルシェヴィキの戦術論に走ってしまうのはもう一つものたりない気がする。これでは、戦術論としての意味はあっても、世界史的な規模での市民革命の理解をさまたげることになる。そこで、いまからこれを、ブルジョアジーのがわからながめてみよう。

ブルジョアジーは野党である。かれらは、財政問題や商工業の規制について、大地主貴族に反感をもつ。有利な立場で経営し、自分らを圧迫するということで、外国資本に反感をもつ。そこで、かれらは革命的になる。その方向は二つある。

一つは、民衆運動とむすび、これを煽動することであり、工場主モロゾフが社会民主党に献金したことはその一例をしめす。このばあい、自分の工場の労働運動に献金するはずがない。とすれば、これは、外国資本のもとでの労働運動をたすけるという狙いがあったはずだ。ここに、社会民主党の内部で、ブルジョアジーとの提携という主張がでてきた理由がある。レーニンの夫人が、ストライキの献金をもとめて、当時高名の学者ツガン・バラノフスキーを訪ねているという事情も、そのような傾向をしめす。

二つは、貴族の一部とむすび、それをうごかして改革やクーデターで権力にわりこもうという試みである。そのためにつくられた政党は、オクチャブリスト(十月党)やカデット(立憲民主党)である。前者には、商人出身のグチコフがいる。名門貴族のがわでは、銀行家の娘を妻にしたユスーポフ公が、自由主義貴族=ブルジョア的貴族としてこの傾向を代表した。

ブルジョアジーの努力は、日露戦争後の大衆的暴動を利用して、ある程度の成果をあげた。

皇帝は、国会を召集するよう圧力をかけられた。長くつづいた第三国会では、オクチャブリストとカデットが多数派をしめた。もちろん、国会の権限が小さなものだったから、かれらは権力のわずかな部分にくいこんだにすぎなかった。それでも、ヴォルガ・カマ銀行頭取の。バルクは、一四年に蔵相となり、そのため国庫資金が補助金や融資として、民間銀行に流れこんだ。

こうして、国家資金の利用をめぐり、大地主貴族とブルジョアジーのあらそいがはげしくなった。

それにくわえて、第一次大戦による財政困難がやってきた。大地主貴族にとってみれば、戦争をやめ、軍事費をつうじてブルジョアジーに流れこむ資金をとめ、ブルジョアジーを権力からしめだす以外に、自分の特権をまもる方法はなくなった。いまや、一大決心を要求されたわけだが、そこに登場してきたのがラスプーチンである。

シベリアの百姓の生まれ、あやしげな新興宗教の教祖、祈祷師、超人的な精力と鋭い眼力をそなえた男、皇太子アレクセイの血友病を祈祷でなおしたというので、皇后のふかい信頼をえた。皇后をママとよび、ただならぬ関係までも噂された。宮廷の貴婦人のあいだをわたり歩き、女官長までが、かれの部屋に入れてくれと一晩涙とともに訴えたという。この男、たんなる色魔ではない。

もともと、ロシアの宮廷は、乱交の場である。その点では、フランス絶対主義の宮廷と似ている。問題は、こういう風俗習慣のなかでも、かれが超一流の腕をふるったということだ。ともかく、かれは、宮廷貴族のチャンピオンにおしあげられたのだ。

そこを、かれ自身も自任している。「わたしが死ねば、ロマノフ家は三カ月と持つまい。」かれの計画は、ドイツと単独講和をむすび、国会を解散し、ブルジョアジーの抵抗を打ちくだくことだった。これにたいして、皇帝を廃位し、アレクセイを即位させ、ミハイルを摂政にして立憲君主制へもっていこうとする計画が、ブルジョア的貴族のがわからすすめられた。両者の闘争のぎりぎりのところで、ラスプーチン暗殺がおこなわれた。ユスーポフ公の邸宅によびよせ、ドミトリー・パヴロヴィッチ大公らの一団が毒をのませ、ピストルを打ちこんで殺した。

この行動は極秘でおこなうはずだったがすぐに発覚し、弾圧を覚悟せねばならなかった。

おいつめられたブルジョアジーとブルジョア的貴族は、革命にうったえることをせまられた。

ことのなりゆきとして、かれらが首都の民衆運動をかきたてただろうと想像される。すくなくとも、この革命は、ボルシェヴィキの統制のもとにひきおこされたのではない。この党の指導者は、多く亡命、流刑の状態で、のこっていたものでも、事態の進行に呆然としながらうごいていた。こうして、三月革命で国会を基礎とした政権ができ、権力はブルジョア的貴族と上層ブルジョアの手に入った。

貴族であり、以前の反政府派であったリヴォフ公が首相となり、グチコフが国防大臣、チェレシチェンコが大蔵大臣、コーヴァーロフが商工大臣になった。政府の主要な地位は、オクチャブリストとカデットがにぎった。商工業にたいする規制も廃止され、株式会社や企業連合がぞくぞくとつくられた。

こうして、ブルジョアジーはロシアの主人公になった。しかし土地革命はおこなわれなかった。かれら自身も地主だからである。農奴解放ののち、多くの商人地主があらわれ、二万三、〇〇〇人が一、三〇〇万デシャチン以上をもっていた。

地主としての立場では、宮廷貴旅や田舎地主とおなじ利害をもっていた。だから土地革命は自分の任務と考えていない。自分の任務と考えていたのは、権力と財政の実権、それにつきまとう規制の問題にかぎられていた。そして、それは、三月革命で解決された。そのかぎり、ロシア三月革命は市民革命である。


絶対主義下のオランダ

これは、世界最初の市民革命である。ネーデルランド(その北半分が今のオランダ)は、スペインの属州であり、スペインは宮廷貴族の支配する絶対主義の国であった。ゆえに、ネーデルランドは、スペイン絶対主義の一部であった。この絶対主義の頂点に、摂政で、ネーデルランド総督のマルガリータがあり、それをとりまいてバルレモン(財政会議議長)、ウィグリウス(枢密院議長)、ペルノー(グランヴェラともいいアラス大司教で総督の最高顧問)がいた。のちにスペイン大貴族のアルバ公が総督となり、「血の審議会」を強行した。

この権力をささえたものが、カトリック教会の司教や修道院長であり、かれらは大領地の所有者であった。

さらに、土着の領主が、大から小まであった。カトリックの大領主は、南部で勢力がつよく、北部に中小貴族が多かった。大領主のなかではオレンジー公ウィリアム、エグモント伯(べートーベンの序曲とゲーテの戯曲で有名)などがいて、スペインから独立したうえでの絶対主義、つまり、かれら土着の大領主の支配をうちたてようとして、スペインの宮廷に抵抗した。ウィリアムは、ドイツのナッサウの領主でもあった。

これとはべつに、商工業者が独立運動をすすめていた。その最大の勢力は、アントワープにあつまる大貿易商人、金融業者であり、東インド貿易や、新大陸貿易の仲継貿易によって成長してきた。さらに国内の毛織物工業などを基礎とする商工業者の勢力もあった。これらブルジョアジーのなかに、カルヴィン教がひろがった。この宗教は、勤倹によって富をたくわえるものを選民(=エリート)とよび、かれらこそが、現世でも来世でも支配者になるのは当然だと

説く。はっきりしたブルジョア革命の思想である。スペイン絶対主義にたいする不満が、商工業のなかにカルヴィン教をひろめた。不満とは、スペイン宮廷の財政政策が、かれらに損害をあたえたことである。一五五七年、フィリップ二世の破産政策で、金融業者が大損害をうけた(破産政策については、私のフランス革命論を参照)。六〇年には、スペインから現地へ輸出される羊毛に税金がかけられ、羊毛の輸入が減り、毛織物工業がおとろえた。またフィリップ二世が、不動産に一%、動産に二%の税金をかけるといいだした。これが反抗のロ火をきらせた。

一五六六年、かれらに支持され、資金援助をうけて「乞食団」の請願運動がおこった。この運動の先頭にたったのは土着の貴族数百人であり、「同盟」と自称した。請願の内容は、カルヴィン派迫害の中止、自治の要求であった。もちろん、スペイン宮廷貴族は、請願にとりあわず、バルレモンはかれらを「乞食団」(ゴイセン)とよんだ。

こうして運動は先鋭化し、カルヴィン教徒は、スペイン絶対主義の牙城たる修道院、カトリック教会をおそった。これにこたえて、六七年スペイン宮廷は、多少妥協的なマルガリータをよびもどし、アルバ公を大軍とともに派遣した。かれは、ブリュッセルにつくときびしい宗教裁判をはじめた。異教徒審議会(俗に血の審議会)で、二年間に、八、〇〇〇人以上を処刑した。寄港していたイギリス商人までもまきぞえをくった。エグモント伯のような、穏健な反対派までが処刑され、オレンジー公ウィリアムはドイツの領地へにげた。

この状態をおそれた貴族の多くは、スペイン王への忠誠をしめし、宣誓書をだした。アルバ公は、全国会議を召集し、スペイン軍の軍事費として新税を提案した。すべての動産と不動産に一%を課税し、三三〇万フロリンの収入になった。また動産の取引税一〇%、不動産取引税五%が要求されたが、これは全国会議の抵抗によりひっこめられ、そのかわりに、二〇〇万フロリンが支払われることになった。この増税は、いままでの苛酷な政策とあいまって商工業を破滅させ、多くの商人が亡命した。


市民革命としてのオランダ独立戦争

中小マニュファクチュアの経営者や労働者さらに農民が森にかくれてゲリラ戦をはじめた。

こうした対スペイン戦は、しだいに二つの勢力のもとに統制されていった。一つは、ドイツ領から軍隊を編成して南部に進撃したオレンジー公であり、もう一つは、北部のカルヴィン教徒の反乱を支持し指導した大商人である。この大商人は、アントワープからアムステルダムにうつったものである。そして、オレンジー公の作戦が成功せず、北部の反乱が優勢になってきたとき、反乱の指導権は、アムステルダムの大商人の手に入った。オレンジー公は北部にまねかれ、全権力があたえられた。ここで、大貴族と大商人の同盟がつくられ、形式はオレンジー公の全権だったが、実質的には、大商人が実権をにぎった。

一五七四年のライデン市の包囲戦で勝利し、七九年北部諸州はユトレヒ同盟を結成した。ここに成立したネーデルラント連邦共和国(オランダという言葉は、この中で有力だった州ホラントの名からきた)は、総督にオレンジー公をすえた。八四年かれは、スペインの刺客に暗殺された。

大商人は、つぎにイギリス貴族レスター伯をむかえたが、かれがイギリスの指令にもとづいて、反乱をおこしたためかれを追放した。そのあとで、オレンジー公の息子が総督にえらばれ、スペイン軍を各地でやぶり、

一六〇九年休戦条約をむすんだ。ここで、オランダの独立は正式に承認された。

一六〇二年、アムステルダムの貿易商人は、東インド会社をつくり、ここが国際貿易の中心地となって繁栄した。かれら大商人は、政治制度の理想として、各州の地方分権をとなえた。

そして、ホラント州では、一九議席のうち、一八人までがかれらの代表者でしめられた。

地方分権制度のなかで、ホラント州が指導権をにぎれば、大商人が全国の指導権をにぎることになった。

こういう傾向にたいして、新しい絶対主義を再建しようという勢力もないではなかった。その勢力は、土着の貴族層を足場として、総督オレンジー公ウィリアム二世のがわからなされた。

かれは軍事力、とくに陸軍をにぎり、大商人の勢力をおさえようとつとめた。ブルジョアジーの分裂も利用した。それは、大商人が、仲継貿易の利潤を優先して、自国の工業を保護しようとせず、中小マニュファクチュア経営者や職人は、大商人の支配下で発展をとめられていたことからきた。

ウィリアム二世は、中央集権主義をとなえて大商人と対立し、一六二一年からスペインとの戦争がはじまると、主戦論をとなえて、講和派の大商人と激突した。ついにアムステルダムを占領し、ホラント州の指導者を投獄し、スペインとの戦争をおしすすめた。これで絶対主義は再建されたかにみえた。このとき、大商人は、総督の方針に反して、スペイン軍に武器食糧を供給した。

この戦争は、三十年戦争のひとこまであり、それがおわるとスペインとの戦争もおわった。一六四八年、オランダ共和国の独立は正式に承認された。五〇年に、ウィリアム二世は死んだ。そののち、大商人が勢力をもりかえし、地方分権政策をとった。共和国の財政の半分以上を負担し海軍の大部分をもっていたホラント州が、全国の指導権をにぎったが、それは大商人の指導権を意味するものであった。

まとめてみよう。独立以前のオランダは、スペイン宮廷貴族の支配下にあった。それは、絶対主義国の植民地であった。独立戦争は、土着の貴族と大商人の指導のもとに、それ以下の階層の協力をえて達成された。独立ののち、絶対主義再建をめざす貴族層と、ブルジョア共和国をつくろうとする大商人の闘争がつづいたが、財政的に強みをもった後者が勝ち、この国では大商人と貴族の同盟のなかで、大商人が指導権をにぎるという権力が確立した。独立戦争は、絶対主義を、ブルジョア・貴族支配(基本的にはブルジョア権力)の国家にかえた。そのかぎり、市民革命である。


イギリス革命をめぐる問題点

イギリス革命、すなわち、ピューリタン革命(一六四二年)にはじまり名誉革命(一六八八年)におわる変化が市民革命であることは、まずまちがいのないこととされている。だから、イギリスでは、市民革命の時点をあれこれ議論する必要がない。

ところが、べつの議論がつづいている。それは「なぜ、イギリス革命は市民革命か」という疑問をめぐってである。これにたいする解答らしいものがいくつかあるにせよ、それらがどうもあやふやなもので、反論の余地をのこしているからである。そして、じじつ、いままでの解答は、すべてまちがっていた。まず、その実例をしめそう。

イギリス革命で特権会社が新興産業資本によって圧倒されたといい、この傾向、すなわち、特権的商業資本が中産的生産者層(マニュファクチュアの経営者)に敗北したことをもって市民革命の根拠とする説がある。ドッブ『資本主義発展の研究』も、その傾向をもっているが、はっきりと主張するところまではいっていない。しかし、この主張には無理がある。いくつかの特権会社が、革命のあいだに消減したことは事実であっても、生きのこって強力な支配者になった特権商人のグループもいる。東インド会社の株主であった大商人がそれである(くわしくは、拙著、前掲書参照)。

つぎに、王党派貴族の領地が没収され、売りはらわれたことを理由にするばあいもある。ただし、これは、あくまで領地の売却であり、領主権の廃止ではない。そのうえ、売られた領地の多くは、革命後に、もとの所有者へかえったことが証明されている。また、領地の没収売却は、なにも市民革命の専売特許ではなく、イギリス絶対主義が確立したころ、ヘンリー八世が修道院の領地を没収売却したこともある。

そこで、多くの書物では、このことを市民革命の理由にしたいのだが、そうはっきりと、いい切ると反論をうけそうなので、気をもたせるような、もたせないようなあいまいな言いかたをとっている。しかし、ここでは、はっきりといい切ろう。領地の没収売却は、市民革命の理由にはならないと。つぎに、国王の独裁から議会の権力へ変化したことを理由にするばあいがある。だがその国王の支柱が何で、議会の支柱が何かということをあきらかにしなければ、問題を解決したことにならない。この考え方によると、絶対主義均衡論で王権を説明し、市民革命後の議会をおなじ均衡で説明する。前も後も、国家権力の支柱がかわっていない。王の権力だけがうばわれたということだが、それが王個人のものだとするなら、なぜ流血の戦争をともなわなければならなかったかを説明できない。国王のがわにも多数の支持者がいて、最後まで議会とたたかったからこそ内乱をともなったはずだ。革命の前も、ジェントリと特権組合員、革命のあともジェントリと特権組合員では、市民革命による本質的な変化はなにもなかったことになる。これは、均衡論のもつ宿命的な誤りであり、均衡論の誤りについては、以前に指摘しておいたとおりである(拙著、前掲書参照)。(ジェントリは下級貴族、特権組合員とは大商人のことをいう)

もう一つ、ジェントリ論争というものがある。まず、トーニーが、市民革命を説明するため、革命のがわにたち上昇していったジェントリが、資本主義的農業経営に成功したものであると主張した。こういえば、旧式の貴族対新興の資本主義的貴族の対立という図式ができて、それなりに市民革命の理由が説明されそうである。ところが、これには有力な反論がでてきた。トレヴァ・ローパーの批判であり、ここにジェントリ論争がくりひろげられた。この論争は、実証という点からみるとトーニー説に無理があるようだ。


イギリス革命はなぜ市民革命か

トーニーを批判するトレヴァ・ローパーの説は、実証的に強みをもち、ここから市民革命の本質を説明することができる。

かれは、貴族とジェントリが土地経営で区別されえないという。革命のがわにたったジェントリが、資本主義的経営に成功したというトーニーの説はまちがいであり、独立派のジェントリは、官職からしめだされて没落した不満分子だという。これにたいして、王のがわにたったものは、官職をもち、そこから莫大な収入をあげたものであると説明する。これにくわえて、商工業、金融業で成功したものも勃興した貴族・ジェントリのむれに入るという。ただし、かれには一貫した歴史理論がない。そこでいまから、イギリス絶対主義と市民革命の理論をつくろう。

絶対主義とは、領主(=上級土地所有権の所有者)の一派が権力を組織し、財政を自由にする時代である。イギリスのばあいも領主(貴族とジェントリ)の一派が権力をにぎっていた。

革命直前の宮廷で、王の寵臣となり王権をうごかしていたのは、バッキンガム公であった。かれのことは、小説『三銃士』にも書いてある。かれは絶大な権力をにぎり、国庫から莫大な金をひきだした。そこで一六二五年に召集された議会は、かれにたいする非難を集中し、罷免を要求した。しかし、チャールズ一世は、議会の解散を強行し、バッキンガム公をかばった。二八年に召集された議会は、「権利請願」を可決し、王に承認させた。このとき、バッキンガム公は暗殺された。

そのあとを、ロード・ストラットフォード体制という。ロードは、蔵相になったこともあるが、このときはカンタベリー大主教となり、教会領を所有した。ストラットフォード伯は、ジェントリ出身であり、アイルランド総督、大法官(上院議長兼国璽掛長)、スコットランド遠征の総司令官となった。ロードのあと蔵相になったのは、ロンドン主教ウィリアム・ジャックスンである。

これを頂点として、セシル卿(エリザベスの宰相)、レスター公、ベッドクォード伯などの宮廷貴族が、高級官職の所有者となっていた。国庫は、かれらの利益に奉仕していた。官職をもっことは大きな収入をえることを意味し、官職の値段も高くなった。記録長官の職は、一六一四年の二、二〇〇ポンドから、二〇年ののちに一万五、〇〇〇ポンドに高まった。

地方行政の官職としては、治安判事があり、ジェントリがその地位をえた。こうして、国家権力は、領主の一派によってにぎられていた。

もちろん、官職=権力からしめだされ、不満をもった領主もいる。かれらの立場は、つぎの言葉にしめされている。

「地方の無官のジェントルマンにとっては、財をつみ、家名をあげることはとても不可能だ。相続地をうけつぐほかに、宮廷人になるか、法律家になるか、またはなんでもよい、なにかほかの職にありつかなければならない」

これとはべつに、王権と特権商人との関係があった。王は、東インド会社その他の企業に特権や独占権をあたえて保護した。そのかぎり王と特権商人とは協力できた。しかし、財政赤字が増加してくると、王はかれらからさまざまな方法で金をとりたてた。特許状を濫発して売りつけ、このため東インド会社のような古くからの特権会社も、あたらしく王に支払わねばならなくなった。また船舶税をかけた。赤字に窮すると、ロンドン市へ借金を申込み、ことわられると東インド会社の倉庫にあるコショウを差押え、ロンドン塔に保管されていた貿易基金の金塊を没収した。こうして大商人が王とするどく対立したとき、ピューリタン革命がはじまった。

国王軍と議会派の内乱がはじまると、貴族とジェントリの多くが国王のがわについた。議会がわではエセックス伯を中心とした一部の貴族は、大商人とむすんで長老派をつくり、クロムウェルなど一部のジェントリが独立派をつくった。内乱がすすみ、長老派が王と妥協しはじめると、独立派が台頭し、クロムウェル独裁が出現するが、この政権のがわにも多くの大商人がいる。東インド会社は、議会やクロムウェルに金を貸しつけた。金匠銀行家のトーマス・ヴァイナーやエドワード・バックウェルは巨額の金をクロムウェル政権に貸しつけた。クロムウェル政権とは、上層ブルジョアと独立派ジェントリーの同盟であった。

こうして、ピューリタン革命は領主の一派の権力を破壊し、これを上層ブルジョアの支配にかえた。王政復古によって、独立派ジェントリは後退した。そのあと、絶対主義再建をめざす貴族と、これに抵抗する上層ブルジョアの対立がつづくが、名誉革命で後者の勝利がきまった。

立憲君主制の名のもとに、実際は上層ブルジョアが支配した。大金匠銀行家ダンカムは、ロンドン市長となり、最大の富をもっていた。かれら金匠銀行家と対立するロンドン大商人は、イングランド銀行をつくり、その株主や重役となった。この銀行の発展とともに金匠銀行家の役割はおとろえる。イングランド銀行は毎年、大蔵省の幹部に新年の贈物として金をおくり、また銀行の重役が下院議員となり国庫を利用した。

貴族とジェントリは階級としての権力をうばわれた。だが、かれらの財産はのこり、あるものはブルジョア化をすすめ、あるものは没落した。こういう動向も、ほかの国の市民革命とおなじである。


アメリカの革命をめぐる問題点

アメリカ独立戦争が、アメリカの市民革命であることは、ひろくみとめられている。だが、ここでも問題がのこる。なぜ、市民革命であるか、また、なぜ独立革命がおきたのかという議論が一つ、もう一つは、南北戦争をなんと解するかである。

独立革命について、「自治」「独立」「民主主義」といった思想的な原因を主張する人がアメリカに多い。しかし、これは、論外としよう。

つぎに、イギリス商人とアメリカ商人の対立で説明する人もある。しかし、それでは、アメリカ社会の内部におこった変化を説明できないし、市民革命の理由にならない。

また、土地革命論を理由にする人もいる。「王党派の地所の大没収が、州議会によって、戦争のさなかに広く行なわれた。・・・・・・土地は、究極的には、大部分、小所有者の手中に移ったのである」(ジェイムソン『アメリカ革命』久保芳和訳、未来社、五〇頁、六一頁)。こういう意見をもとにして、ある高校世界史の教科書では「王党派大地主の土地が没収され、農民にわけられた」と書いている。しかし、これは事実に反する。農民にわけたのではなく、競売したのであり、競売にはだれでも参加できた。とうぜん、大商人や大地主が資金にものをいわせて多くの部分を買いしめた。

なぜこのような無理をしたかというと、市民革命の基本的成果が土地革命だと思いこんだからである。だから、アメリカ独立が市民革命であるためには、土地革命がなければならないと思い、思ったことを事実のように書いてしまったわけだ。ここで、またしても、私のフランス革命論が必要となる。「フランス革命でも、土地革命は行なわれていない」(この点は、拙著参照)。

これで、この問題はかたづいた。

商業資本に対する産業資本の勝利ということはどうか。こういうことも、いいたいそぶりをする人はいるが、事実をみるとむりなことがわかっているので、におわす程度にとどめられているのが現状である。これも論外である。それでは、なぜ、アメリカ独立は、市民革命であるか。


封建制度としての植民地アメリカ

アメリカ合衆国をつくった一三州のうち、八つの州はイギリス王の直轄領であり、三つの州(メリーランド、ペンシルヴェニア、デラウェア)は領主植民地であり、小さな二つの州(ロードアイランド、コネティカット)が自治植民地だった。

各州の権力は、総督と参事会(参議会)の手にあり、その下に官吏がいた。王領地では、これらは、イギリス国王から任命された。領主植民地では、領主のほとんどがイギリスにいるため、領主が総督と参事会を任命した。自治植民地では、代議院からえらばれた。代議院は、各州にあり、財産選挙制であったから、ここでは大地主、大商人が指導権をにぎっていた。

自治植民地以外の州では、代議院の権限は大きくなく、その決議を総督が否認することもできた。そして、総督と代議院の対立は、独立革命が近づくにつれて増大した。

ここで、総督、参事会員、官吏とはなにものかということになる。かれらは、大領主または大地主である、ニュー・ハンプシャー州の総督ウェントワースは大領地をもっていた。イギリス国王や各領主自身が大領地の持主でその土地を総督や官吏にあたえた。ペン一族は、ペンシルヴェニアそのほか二州の大領主で、はじめの頃は四、七〇〇万エーカ一(一エーカーは1/2ha弱)の土地をもち、これを分割、売却したが、独立革命のときでも最大級の土地所有者としてのこった。メリーランドの領主ボルチモアは巨大な土地や農園をもち、その土地を一族や高級官吏にあたえ、また、一族を高級官吏に任命した。

こうして、植民地アメリカでは、上級土地所有権の所有者の一派が、国家権力を組織していた。それは、封建制度の一つの段階である。

これに対立して、権力からしめだされた大地主、大商人が、代議院を舞台として抵抗した。こちらのがわに、独立革命の指導者の系譜がみられる。一七三三年のニューヨーク州総督コスビは、州最高裁判所裁判長を免職にした。免職されたがわは、出版業者を利用して総督を攻撃させ、総督が、出版業者を検挙したとき、この弁護をひきうけたのはアレクサンダー・ハミルトンである。ワシントンもジェファーソンも大地主または大農園主であり、奴隷の所有者である。

かれらは、自由、自治の名のもとに、権力と財政の実権を総督から奪い、自分らのものにしたいと思った。そのような要求は、代議院の主張として表現されている。

租税の種類、種目を決定する権利、総督の俸給、そのほかあらゆる俸給を決定し、予算の決定権をにぎり、公金支出についての会計検査を行なう権利、裁判官の俸給をきめる権利、代議院の議長をきめる権利、特許状をあたえる権利……。


これが対立の本質であり、独立革命の原因である。そこから、植民地アメリカの権力構造を次のような図式でしめすことでできる。






この図式にくわえて、もうすこし複雑な問題がある。それは、植民地という性格からくる。

本国のイギリスは、市民革命をおわり、大商人の支配する国である。国王の方針は議会がきめる。国王から任命される総督は、植民地では領地の代表者だが、本国との関係では、イギリス大商人の代表となる。そこで、「総督=イギリ大商人」という図式もつけ加えねばならない。

本国大商人の利益をはかるための糖密条例などがつくられ、そのなかの最大勢力東インド会社の利益のために、高価な茶が植民地に強制され、ボストン茶事件をおこした。

この本国大商人に対抗して成長していたのが、植民地のがわの大商人であり、ときには本国の統制に違反しながら活動したので密貿易商人でもあった(もちろん、当時、この言葉は犯罪とはみなされていなかった)。その最大のものはハンコックである。かれは、ボストン茶事件の黒幕であり、独立宣言にも署名しているが、かれの署名は、他人のものよりひときわ大きい字でかかれている。ニューヨークのリヴィングストンも密貿易で成上がったが、印紙条例反対運動を指導した。

また、大商人口ジャー・シャーマン、ロバート・モリス、チャールズ・トムソンなどが独立革命のがわにたった。

イギリス大商人と、南部農園主の対立もあった。南部の農園で生産されるタバコ、藍、皮革などは、イギリス工業製品と交換されたが、この交換はイギリス大商人の手ににぎられ、植民地物産は買叩かれ、工業製品は高く売りつけられた。そのため南部農園主の負債が増加した。

ジェファーソンの計算によると、ヴァージニア州が、イギリス商人に負っている負債は、独立革命のはじめに二〇〇万ポンドで、これはこの州に流通している貨幣の二〇~三〇倍になったという。もし正直に支払おうとするなら、南部農園主の破産である。そこで、かれらは、代議院をうごかして負債からのがれる法令をつくらせた。破産法、支払停止法、不換紙幣による支払いなどである。これが、イギリス商人の利益と衝突し、本国議会はことごとく拒否した。農園主にとって、イギリスからの独立は債務の切りすてを意味した。そこに、かれらが独立革命のがわにたった理由がある。農園主の実例としてはワシントン、ジェファーソンはもちろん、ヴァージニア州を代表したジェームス・マディソン(合衆国憲法の父)などがいる。


市民革命としてのアメリカ独立戦争

独立戦争のとき、イギリスのがわにたった王党派は、総督以下、植民地の権力を組織していた大土地所有者の一派である。

権力からしめだされ、代議院によって野党的立場にたっていた大地主、農園主、大商人は、愛国派となり独立革命を指導した。かれらは、職人、農民層からなる急進派とていけいし、かれらの力を利用して戦争に勝った。

大商人、大地主は愛国派のなかの保守派であり、急進派とむすんだとしても、自分の財産をそこなうような社会改革には反対した。そして、愛国派の保守派はワシントンを代表者として、運動の指導権をにぎりつづけた。また、王党派でもなく愛国派でもない中立派、日和見主義派の大商人、大地主が多くいた。かれらは、その経済力のゆえに、独立後のアメリカで、愛国派の保守派とならぶ権力をふるった。

独立革命によって実現したものは、上級土地所有者の一派の権力を破壊し、これに大商人と大地主をおきかえたことである。それとともに、イギリス商業資本からの独立を達成した。

ここで成立した大商人と大地主の権力のうち、どちらが指導権をにぎっただろうか。これが重要な問題である。もちろん、アメリカの場合、大商人はほとんど大地主でもあったが、それにしても、財政上の必要が、大商人の指導権を実現したと解釈できる。

ロバート・モリスは、ペンシルヴェニアの大商人で、一時急進派が、かれの小麦粉を差押えようとしたことがあった。急進派は、買占の禁止を名目にしたのである。そのときかれは「人が自分の適当と思うやり方で自分の財産を処分することを妨げるのは、自由の原則に反する」といった。

やがて、ワシントンの軍隊の物資欠乏がひどくなった。大陸会議も、軍隊にわずかの金しか出せなかった。軍隊に暴動がおこり、イギリス軍の司令官は、密使をおくって反乱を煽動した。この危機にあたって、モリスとの協力の必要がみとめられ、一七八一年から、かれは大陸会議の財政を指揮した。かれは、北アメリカ銀行をつくり、軍隊に資金を供給した。このおかげで、ワシントンの軍隊はもちこたえた。戦争ののち、憲法制定議会がひらかれたとき、ワシントンは、モリスの邸宅に会期中とまっていた。

ワシントン内閣の蔵相として、経済上の実権をにぎっていたのはハミルトンであり、かれは大商人の代弁者だった。第二代大統領ジョン・アダムスは、マサチュセッツ州の商業界の代表者である。ハミルトンの妻は、ニューヨーク最大の金持シャイラーの娘であった。

こうみてくると、独立革命は、上級土地所有者の組織する権力を破壊し、それを上層ブルジョアジーの権力におきかえたといえる。そのかぎり、独立革命は市民革命である。


南北戦争の解釈

つづいて南北戦争を考えよう。これを考えるためには、合衆国が連邦制であることを思いださねばならない。つまり、中央政府としての連邦政府があるといっても、各州の自治権も強く、州はなかば独立国だという事情がある。このうち、北部諸州では大商人の勢力がつよい。だが南部諸州では、大農園主=奴隷主の勢力がつよかった。南部の州の権力は、農園主によって組織された。

そのうえに、連邦政権がおおい、これは大商人と大地主・農園主の同盟であり、大商人の指導権のもとにあった。

この状態のもとで、一八六〇年をむかえた。共和党を代表してリンカーンが大統領に当選した。共和党は、北部産業資本を代表した。その利益のために、保護関税政策、大陸横断鉄道の建設、工鉱業の育成などがはじめられた。ここで、商業資本は敗北し産業資本が勝利した。

だが南部がのこった。南部農園主は、自由貿易を主張し、奴隷州の拡大を要求して北部産業資本の利益と対立した。北部産業資本の製品をうりつけられるよりは、安いイギリス製品を買うことをのぞんだ。ついに分離、独立を宣言し、ジェファーソン・ディヴィスを大統領にたててアメリカ連邦と称した。もしこの独立がながくつづいたなら、南部諸州は、農園主=奴隷主の国家ができたことになる。これは、上級土地所有権者の権力である。ローマ帝国の再現ともいえようが、北部に敗北して実現しなかった。南部諸州も、北部産業資本の支配下におかれた。

この経過をみるなら、南北戦争とは、南部諸州内部における市民革命の完成だということができる。しかし、市民革命は土地革命を任務としていない。だから、農園主の権力を破壊しただけであり、奴隷は解放しても、農園主の土地所有権を奪うことはなかった。そこで、南部に旧農園地=大地主がのこり、その土地をニグロの小作人(ジェア・クロッパー)が耕すという関係が現代にまでつづいた。

独立革命は、連邦政権の規模での市民革命を達成し、南北戦争は、南部諸州の内部で市民革命を完成させた。ようするに、アメリカの市民革命は、独立戦争にはじまり、南北戦争によって終った。


インドの市民革命

インドの独立が市民革命である。独立以前、植民地インドでは、中央政権をイギリスがにぎり、地方権力を大土地所有者の強力な一派が組織した。

直接統治の地区では、イギリスが地主(ザミンダール)をつくりだし、これがイギリス統治の足場になった。五六二の藩王国では、藩王が統治の足場になり、藩王は最大の地主で、その地方の大地主階級の権力組織を代表していた。

ゆえに、植民地インドの内部構造は、封建国家としての性格をもっている。ただし、ここにも植民地として特殊な要素がくわわっている。先進資本主義国イギリスの一部とされ、イギリス資本は、最上の立場で入りこみ、製茶、石炭、ジュート、貿易、ホテルなどの重要部門をおさえていた。だから、イギリス資本と封建支配者の同盟がつくられており、藩王国にイギリスの総督や官僚がくると、豪華な宴会がひらかれ、夫人に多くの贈りものがなされた。その宴会で、政治的談合がおこなわれた。

この権力からしめだされたものが二つあった。一つは、商人地主層であり、もう一つは、これとからみあっているが、民族資本家である。この不平分子が、独立運動の指導階級になる。

第一回インド国民会議に参加したもののうち、商人=金融業者四分の一、地主四分の一、知識人二分の一という割合である。独立運動の大衆的勢力として、農民、職人、労働者が参加してくるが、運動の指導権は、つねにこれら上層階級の手ににぎられ、それをこえることはなかった。

上層階級の指導者のなかで、きわだった発達をしめしたのが、民族資本家である。二〇世紀のはじめから、紡績、製鉄の方面に民族資本が進出した。

ジャムシェドシ。タタは、はじめ綿花、アヘンの貿易で資金を蓄え、これを一九七四年に紡績工場へ投資した。それでもかれは、イギリス人専用ホテルにとめてもらえなかったので、インド最大をほこるタージマハル・ホテルをつくった。一九〇四年、かれが死ぬと、その子ドラブジ・タタは鉄鋼業をおこそうとし、一九〇七年に成功した。これが、タタ財閥のもとになる。

ガニシャム・ダス・ビルラは、二〇世紀のはじめ、ジュートの商業をおこなっていたが、やがて、紡績工業に進出した。

これら民族資本は、ガンジーの指導するスワデシ運動(国産品愛用、イギリス製品排斥)を利用して大発展をしめした。とうぜん、かれらは、この運動を指導した国民会議派の支持者であった。

デザイはいう。「産業資本家たちは、二〇世紀の最初の一〇年間に民族運動の軌道に入りはじめた。この階級はインド国民会議派にひかれはじめた。そして、スワデシと英国品排斥の綱領を熱心に支持した。それが、同時に、かれらの階級的利益に役立ったからだ」

タタが鉄鋼業をおこす資金に困ったとき、スワデシ運動が高まり、タタは、スワデシ産業に投資すべしと宣伝した。すると、三週間で建設資金が集まったという。

ビルラは、ガンジーと父子のような関係だったといい、「チラックとゴカーレをのぞけば、わたしがつきあいをもたなかった政治指導者はいなかった」という。ガンジーが死んだところも、ビルラ邸であった。独立運動に、三五億円に相当する資金をつぎこみ、ガンジーのサチャグラハを援助した。この運動にのって、かれの企業も大発展をとげた。

こうして、独立運動は、民族資本によって指導され、その攻撃のほこさきは、イギリス資本と地主階級の同盟した権力にむけられた。独立の達成は、イギリス資本の支配をおわらせるとともに、地主階級の権力を撃破し、それを民族資本の権力にかえた。そのかぎり、市民革命である。


国民会議派の本質

独立を達成すると、インドの権力は国民会議派が組織した。この会議派の支柱は民族資本である。

タタ財閥からは、ジョン・マッタイが、運輸相、蔵相に入り、バーバが商相に入った。前者はタタ・サンズ会社(タタ財閥の総経営代理社)の重役、後者はタタ財閥のセントラル銀行重役である。タタ財閥は、一九五七年の総選挙に二億二、五〇〇万円相当の献金をおこない、会議派議員のうち三五%がタタ派である。故ネール首相もタタ財閥と親密で、ジャムシェデシ・タタの功績をたたえている。

ビルラ財閥からは、パント内相、デザイ現副首相(ガンジー現首相のあと釜をねらっているが、敵が多すぎてうまくいかないといわれている)、デベール国民会議派議長をだした。インド政府が、ビルラ商会の政府とよばれたこともあり、会議派議員の四〇%がビルラ派である。ビルラを代表した最大の人物は、故サルダル・パテル副首相兼内相である。

このパテル内相は「鉄人」「鉄腕パテル」ともよばれ、独立したころの内政の実権は、かれの手にあった。ネールは、首相兼外相として「第三勢力論」「中立主義」「社会主義」など理想主義をとなえたが、それはあくまで対外放送であり、内政は、パテルの手によっておこなわれた。

パテルの鉄腕は、二つの方向にむけてふりおろされた。一つは藩王の強制的統合、藩王国軍の解散であり、もう一つは、労働組合、農民運動の弾圧である。独立とともに、強大な藩王は、独立国家をつくろうという野心をもっていた。これが実現すると、封建国家の再生になる。パテルは、藩王をあつめて統合を強要し、抵抗したハイデラバード藩王にたいしては、軍隊を出動させて降伏させた。こうして、地主階級は、ブルジョアジーの権力に服した。

ただし土地革命を行ったわけではない。民族資本家も地主である。だから地主制は保存され、旧藩王には莫大な補償金があたえられた。たとえば、ハイデラバード藩王には、年金五〇〇万ルピー(約三億八、〇〇〇万円)、そのほかで一、〇〇〇万ルピーをあたえた。藩王に毎年支払う年金は、約五、六〇〇万ルピー(四〇億円余り)になる。こうして、地主階級は、ブルジョアジーと混合していった。ジャイプール藩王は、ジャイプール銀行(シンガニア財閥)に出資し、バローダの藩王は、バローダ銀行(ワルチャンド財閥)に出資した。大地主の組織する右翼政党ヒンズー・マハサバ(ガンジーの暗殺者を出した)やR・S・Sなどにも、ダルミア、ゴエンカ、シンガニアの財閥が出資して協力している。

インドブルジョアジーの頂点に財閥がいる。ビルラは軽工業、商業、新聞、銀行業を支配し、三億ルピー(一ルピー=七五円)の資本をもつ連合商業銀行、七つの紡績工場、五つの精糖工場そのほか九五の会社を支配し、その資産は数年前の評価で七五〇億円前後であった。

タタは、重工業を支配し、タタ鉄鋼会社のジャムシェドプール製鉄所には約五万人が働き、七億ルピーの資産、インド鉄鋼の約八〇%を生産した。タタ機関車製造、タタ航空機工業、タタ水力発電会社、タタ化学工業など多数の会社をもち、インド中央銀行は最大の銀行で一二億ルピーの資産をもつ。ビルラ、タタが二大財閥である。

これより小さい、六〇〇億円以上の財閥として、ダルミア、シンガニア、ヒラチャンド・ワルチャンド、フカムチャンドがある。

ダルミアは、銀行、石炭、電力、鉄鋼、航空、化学、新聞などを支配し、約三〇の工場をもち、カルカッタに大邸宅をもつ。五七年の総選挙では、一五億円を献金した。

シンガニアは、ジュート王で、全国の都市につねに二〇〇台の自動車をおき、アルミ工業を独占し、綿紡績、鉄鋼など四三の会社を支配し、銀行も経営する。一人で四〇の会社の重役をかねている。

ワルチャンドは、銀行とともに造船、土建業を支配する。

フカムチャンドは、綿花王といわれ、綿花貿易の六〇%、繊維の一八%をにぎる。かれは、六二歳のとき、若い娘と結婚するため若返りの手術をうけ、ソ連からよんだ医師に手術代として一カ月一〇〇万ルピー(七、五〇〇万円)を支払った。悲しき六〇歳の現代版だ。

これから下へいくほど数も多くなり、一、〇〇〇万ルピー以上の資産をもつものは、三〇〇家あるといわれる。これらの勢力が国民会議派を牛耳り、政府はかれらに財政上の便宜をはかる。たとえば、タタ、ダルミアの民間航空が赤字をだすと、五三年に政府は国有化し、株主に補償金をあたえて危機を救ってやった。五カ年計画の立案者一四名のなかで、九名が大財閥の代表者、関係者である。インド民族資本は、独立によってインドの支配者になった。


エジプトの市民革命

一九五二年の、自由将校団による革命、ファルーク王朝の倒壊がエジプトの市民革命である。

イギリスがエジプトを支配していらい、イギリスは土地の私有化をすすめ、地主貴族の大土地所有がつくりだされた。もちろん、それとともに中小土地所有もつくられ、さらに、外国会社や外国人の大土地所有もあらわれた。アブキール会社は、約一万二、〇〇〇haをもっていた。

ファルーク王朝時代、権力は大土地貴族の手にあった。王と王族は、革命後接収された土地が一二万エーカーであり、大地主の土地で接収されたのが二〇万エーカーにたっした。このうちの大きなものは、一万エーカー以上である。二〇〇エーカー以上の地主が約二、五〇〇人いた。

外国銀行は、綿花取引や土地抵当貸付をつうじて地主階級とむすびついていた。こうした外国資本とエジプト大地主階級の同盟にたいして、しだいに力をつよめてきたのが民族資本である。かれらは、ヨーロッパ商品からエジプト工業をまもるための保護関税の設定、民族工業製品にたいする課税の廃止、民族工業に融資するための銀行の設立、民族工業育成のための財政投融資を要求した。民族資本は、第一次大戦のときに成長をとげ、一九一七年には、エジプト商工委員会を組織し、一九二〇年には民族資本の銀行としてミスル銀行をつくり、この銀行が民族工業発達の中心になった。そして、民族運動の指導者タラアト・ハルブが、ミスル銀行総裁になった。二二年には、民族資本の助成金を国庫から支出させることに成功した。

しかし、支配者のがわの譲歩もかぎりがあった。高級官僚、高級将校の地位を大地主がにぎり、かれちは無能で腐敗していた。イスラエルを相手としたパレスチナ戦争で敗北したとき、その責任を問うという名目でナセルの革命がおこされた。はじめナギブ少将が大統領になったが、ナセルの指導権のもとにある革命委員会と対立して失脚した。そのあとに確立したナセル政権の支柱は、ミスル銀行を中心としたエジプト民族資本である。

土地革命として大地主の土地が接収されたが、それは巨大地主のものだけであり、地主制は保存された。こうして、エジプト革命は、イギリス資本と巨大地主の同盟した権力を破壊し、それを民族資本の権力にかえた。そのかぎり、市民革命である。

0 件のコメント:

コメントを投稿