2022年6月15日水曜日

07-市民革命ーのこされた問題点

 7 のこされた問題点


推定可能なこと

これまでのように、世界各国の市民革命を分析してくると、その考え方をつかって、資料の不足した国についても、市民革命の時期を推定することができる。

たとえば、イタリアの市民革命の時点である。これは、イタリア統一戦争だとみられる。なぜなら、ドイツ統一戦争とおなじ性格をもっているからだ。統一以前は、貴族または僧侶=領主の支配下にあった。ヴェネチア(ヴェニス)のように、ふるくからの商人共和国の地方でも、そのうえに、絶対主義オーストリアの支配がおおい、オーストリア宮廷貴族が、将軍、長官として支配していた。たとえば、ミラノ市(ロンバルディア地方)を支配し、二月革命のとき市民を弾圧したラデッキー将軍がそれである。

この状態を、カヴールを中心としたブルジョア的貴族がブルジョアジーと同盟して統一を完成した。北イタリアは、カヴール指導下のサルジニア王国軍によって征服され、貴族の権力は撃破された。ナポリ王国では、ガリバルディのひきいる「千人隊」が中心となった反乱により、貴族の権力か撃破され、そののちカヴールの支配下に入った。ガリバルディのひきいた革命的勢力が、カヴールに妥協し、その支配下に入ったことをもってイタリア統一の意義を過小評価する傾向がつよいが、そのような考え方も、市民革命とはなにかをはっきりさせると自然に消えさる。とにかく、貴族の組織した権力を破壊し、ブルジョア的貴族と上層ブルジョアに権力を与えたのだから、そのかぎり市民革命だといえる。

また、インドの独立とおなじ性格をもつものが、インドネシア共和国の成立である。独立以前、オランダ資本が支配し、その同盟者が各地の藩王=大土地所有階級だった。独立は、この権力を破壊し、インドネシアのブルジョアジーの手に権力をあたえた。そのかぎり市民革命である。しかし、農村での大土地所有はのこっている。それは、当然のことだ。ただし、インドネシアの特殊事情がある。それは、ブルジョアジーのなかに、華商と土着資本家の勢力が混合していることで、独立当初、さしあたり華商が指導権をにぎり、商業はもとよりオランダののこした企業も手に入れた。

一九五八年七月一四日におこったイラクの革命は、巨大地主貴族の組織するハシム王朝をたおした市民革命だ。ここでの大地主とは、約一、〇〇〇人くらいの部族の長だった。カセム政権は、これら巨大地主の土地を接収した。こうしたことは、エジプトとおなじだ。

このように、多くの国について推定ができる。資料がふえると、はっきりと証拠づけることが可能となろう、


局地的市民革命

市民革命とは、上級土地所有権者の組織する権力を破壊し、それを上層ブルジョアのものにかえることであり、そのとき、上級土地所有権者の一部はブルジョア化してここに合流する。この基本法則をもって、中世、古代をみると、局地的にそれらしいものができていることに気がつく。もちろん、広い範囲をみると、中世、古代の社会体制だ。ところが、それにかこまれながら、せまい地域で市民革命の成果とみられるものが維持されている。それは、小さな近代国家が、周囲の強大な古代、中世の国家にたいして必死で抵抗し、成果を守っている姿である。

それだけに、そこでは近代文明の先駆的な姿があざやかな形でつくりだされた。それが古代都市国家としてのアテネであり、中世イタリアの都市国家、とくにフィレンツェである。そこでは、ブルジョアジーの支配が実現していた。そのかぎり、この地域は一種の近代国家だった。

日本の堺も、戦国時代、領主の分裂、抗争を利用して独立し、商人支配が実現していた。その商人のなかから、今井宗久や千利久がでてくる。西欧人が、堺をヴェネチアにたとえたのは当然である。

アテネの文化やルネサンスの文芸は、この方面から説明されえないだろうか。


フィレンツェとダンテ

フィレンツェ(フロレンス)も、はじめは貴族の支配下にあった。やがて、ギべリン党(ドイツ皇帝のがわ)とゲルフィ党(ローマ教皇のがわ)の対立がはげしくなった。前者は、貴族の党派であり、後者は上層商人、金融業者を指導者として、都市職人層をもふくめた党派だった。

一二〇〇年代の半ばごろから、貴族はしだいに政権から追われていき、一二九三年「正義の規定」がつくられ、全貴族は公職から追放されるとともに、小市民の利益を守るために「正義の旗士」がつくられ、これがプリオリ(統領=最高の権力者)といっしょになってシニヨリをつくり、シニヨリが市政を担当した。ここで市民革命は達成された。貴族は権力からしめだされ、田舎にひきあげた。経済的に没落しはじめると、強力な都市支配者にやとわれて武力を提供する立場にかわった。貴族の権力を奪回しようとする勢力を、上層ブルジョアジーが小市民層と同盟して阻止している姿であり、そこに民主共和国の政治形態があらわれた。

ダンテは、この運動のなかに入っていた。小貴族の出身で商工業者と近く、医師の組合に属して政治に進出した。組合に属していれば、貴族でも政治に参加できた。

一二九六年、ゲルフィ党は、分裂をおこし、「黒派」と「白派」にわかれた。黒派は、大商人、大金融業者の党派であり、大組合(アルティ・マジョーリ、ポポロ・グラッソ)ともいわれ、商人ギルドの党派だった。この上層ブルジョアジーが、第一段階では権力の指導権をにぎっていた。かれらは、政治的には、ローマ法王ボニファキゥス八世(ボニフェイス)とむすんでいた。

なぜなら、フィレンツェの金融業者は、ローマ法王庁の金融をひきうけていたから。

これに対立する白派は、手工業の親方層を代表し、小組合(アルティ・ミノーリ、ポポロ・ミヌート=小市民)といわれ、職人ギルドの党だった。かれらは、黒派とはげしくあらそい、ダンテは一三〇〇年、プリオリの一人になったが白派の立場にたった。やがて黒派と白派の乱闘事件がおこり、一時黒派は権力から追いだされた。不完全ながら、小市民の勝利である。

だが、黒派はローマ法王の力にたよった。ダンテは、法王にたいする使節としてでかけるが、法王は黒派のがわを支持してダンテと対立した。一三〇一年、黒派はシャルル・ド・ヴァロアの軍隊をよびよせ、法王と黒派の大商人、銀行家の協力のもとフィレンツェは占領された。一三〇二年、ダンテは欠席裁判で追放を宣言され、もし捕えられたときは火刑に処せられることになった。かれは、イタリア中を乞食のように放浪したあげく、ラヴェンナの町で静かな余生をおくった。

このダンテの運命は、一連の市民革命の革命家のものと似ている。ガリバルディ、ガンジー、ロベスピューエル、西郷隆盛など。かれらは一種の理想主義者であり、貴族階級の権力を倒すとき、上層ブルジョアージから小市民層、下層民、貴族の不平分子などがむすぶ同盟をつくる。この同盟は、貴族の権力が倒されたときに破れる。そのあとに、多かれ少なかれ紛争がおき、けっきょく、上層ブルジョアージの支配が確立し、他の勢力は弾圧される。そのとき、理想主義的な人物は、弾圧されるがわに同情的になり、殺されるか、さもなければ権力がら排斥されて無力な立場にかわる。ロベスピエールや西郷隆盛は死に、ガンジーやガリバルディは、無力な存在にかわる。アメリカでも、独立革命ののち、シェイズの反乱(西部農民をひきいたもの)がおこっている。孫文にしても、リンカーンにしても生きのこったばあい、おなじような運命になることは予見できる。

ダンテは、市民の立場にたったために身をほろぼした。そのあと、権力奪回の陰謀をめぐらす白派幹部とも行動をともにせず、一人一党主義をとり、現世でみたされぬ気持を、文学にむけた、そこに神曲が生まれ、それを当時としては画期的なことだが、市民の日用語(トスカナ語=ロ語)でかいた。その神曲のなかに、かれのかつての政治闘争の一ページがきざみこまれた。

地獄篇の一節。巨大な岩盤に無数の穴があいている。穴から人間の足が二本つきでている。罪人が頭からつっこまれ、足だけがでている姿だ。その岩の上に火がもえ、足は焼かれてびくびく動く。このような残酷な刑罰はだれがうけるのだろうかと、穴のそばに立ち、中をのぞくと、その罪人は前ローマ法王であり、かれは、のぞいたダンテを新しくつっこまれる新入りの罪人だと感ちがいしていった。

「もうきたのか。ボニファキウスよ」

かれの政敵ボニファキウス八世は、当時まだ生きていて、各国の君主を破門しては屈伏させ絶大な権力を享受していた。また、フィレンツェの黒派=大銀行家・大商人の保護者でもあった。神曲は、政敵にたいする断罪の書でもあった。


ミケランジェロとマキァベリ

ダンテが、フィレンツェの市民革命の誕生を代表した人物であるとするならば、この二人は、その成果がまさにつぶれようとするときに、最後の抵抗をしめした人物だといえる。

一三〇〇年代、フィレンツェに君臨したのは、パッチ家、アルビッツィ家のような大商業貴族だった。一三七八年のチョンピ(毛梳工)の乱を利用して台頭し、競争者を圧倒しはじめたのが大金融業者メジチ家で、一四三四年、コシモ・デ・メジチが支配者となり、「祖国の父」といわれた。その孫のロレンツォ・デ・メジチは独裁を完成し、フィレンツェは最盛期をむかえ、「花の都」といわれ、豪奢を誇り、文芸がさかえた。

だが同時に、メジチ家は、周囲の封建支配者にも接近し同化しはじめた。かれの次男を口ーマ法王にした。これが、文芸保護、セント・ピーター(サン・ピエトロ)寺院の建設、免罪符の発売(ルターの宗教改革の誘因になった)で有名なレオ一〇世だ。

長男のピエトロ・デ・メジチは、フランス王シャルル八世の攻撃をむかえると降伏と屈服をえらんだ。このとき、フィレンツェ市民は蜂起し、メジチを追放し、共和政治を復活した。この時期に活躍したのがマキァベリだ。一五一二年、メジチ家は復活し、マキァベリは罷免された。

一五二七年、カール五世(スペインとオーストリアの王、ドイツ皇帝)の軍隊がフィレンツェにせまった。アレッサンドロ・デ・メジチは、皇帝と取引し、フィレンツェをあけわたすことをきめ、皇帝の軍隊にまもられた。またもや市民の反乱がおこり、共和制が宣言された。ミケランジェロは、この政権に参加し、防衛築城委員長としてその才能を発揮した。しかし、事態は絶望的だった。メジチは、外部から策謀をめぐらし、法王クレメンス五世もメジチ家出身者としてフィレンツェ占領に奔走し、ドイツ皇帝と協力した。皇帝軍の包囲下にあるフィレンツェでは、上層市民層や貴族の傭兵隊長のなかに、メジチ家に内通するものが多かった。一五三〇年、フィレンツェは降伏し、アレッサンドロ・デ・メジチは帰ってきた。かれはドイツ皇帝の援助のもとにフィレンツェ公国をつくり、皇帝からフィレンツェ公に任命され独裁者になった。これはのちにトスカナ大公国になる。メジチの権勢はますます強まり、カトリーヌ・ド・メジチはフランス国王と結婚した。これが、のちセント・バーソロミューの虐殺をおこしたカザリン母后である。ここで市民革命の成果はきえた。ミケランジェロは敗北者となり追求をうけて一時潜伏したが、かれの天才と名声のために殺されず、芸術活動に専念させられるようになった。このようなかれの立場から、ダヴィテ、モーゼ、鎖を切る奴隷など、圧制者にたちむかうものの姿を題材にえらんだ像がつくられたのだろう。

そして、市民革命としてのイタリア統一の意義を考えあわせるとき、ダンテの帝政論、マキァベリの君主論を、イタリアにおける市民革命の予言の書として評価できないだろうか。


民主主義アテネ

古代アテネが、ソロンの財産政治、ペイシストラトスの僣主政治、クレイステネスの改革(選挙制度の改革とオストラシズム)で民主主義を発達させたことはよく知られている。ベルシア戦争に勝ったのち、最盛期をむかえ、いわゆるべリクレス時代がくる。ペリクレスの親友フェイディアス(フィディアス)が、アテネ女神の像、ゼウスの像をつくった。

この民主主義アテネも、一種の局地的市民革命と考えられる。アテネのはじめは王制で、のち貴族の共和政治(アリストクラティア)になった。ここでは、執政官は貴族からえらばれていた。あいつぐ改革で、貴族は権力から排除されていった。不満をもった貴族は、敵国に内通し、名門貴族アルクマイオンは、マラトンの戦のとき、ペルシア軍に楯で日光を反射させて合図したという。ベルシア王クルクセスの遠征のとき、海軍拡張案を主張するテミストクレスにたいし、陸軍強化案を主張して対立したアリスティデスは貴族に支持されていた。アリスティデスは追放され、テミストクレスのつくった海軍でアテネ市民は救われた。

こうして権力をうばわれた貴族とは、大土地所有者であり、そこにオリーブ、ブドウなどの農園を経営していた。だから、民主主義の確立とは大土地所有階級の権力の破壊になった。そのあとで権力の座にすわったのは、農民でも無産市民でもなかった。たしかに、かれらはデモス(平民)であり、民主主義(デモスクラチア)の担い手だった。かれらが民会をつくり、選挙により政府が組織されたのだが、えらばれたものはかれらの代表者ではなかった。

平民からえらばれ、平民を指導したものは、一種のブルジョアジーだ。ペリクレスのように有名な人物が表面に立っているときは、その背後関係がぼやかされる。だが死ぬと、そのあとにむきだしの形であらわれる。たとえば、ペリクレスのあと、かれの方針を、うけついで政権をうごかしたのはニキアスだ。ニキアスは大財産の所有者、奴隷を多数もち、国営のラウリオン銀山用に一、〇〇〇人の奴隷を賃貸したという。当時、奴隷は「ものをいう家畜」であり、労働力であるとともに、一種の動産だった。アテネの富は、銀山と貿易(天然の良港ピレウスによる)

できずかれたが、貿易のうち奴隷売買からあげる利益は大きな部分をしめた。ニキアスは、それの成果のうえに立つブルジョアの一種だった。

この上層ブルジョアージは、穏健派、保守派であり、ツキジデスによると「寡頭派」だが、これに対立した急進的民主主義者も、ときに大きな勢力をもっていた。急進派の指導者は、ツキジデスが「当時もっとも勢力のあった将軍」(『歴史』)というクレオンである。クレオンは、皮革工場主だった。当時の工場では、奴隷の手工業がつかわれていた。このような工場をエルガステリオンといい、有名な雄弁家デモステネスも、楯の工場主の息子に生まれた。

このように、貿易商人、金融業者、工場主、造船業者などが、ペイシストラスト、テミストクレスを支持し、民主主義の名のもとに小市民層を動員し、貴族政治を破壊し、貴族国家を代表する外敵(ペルシャ、スパルタ)とたたかったのである。だから、これは一種の局地的市民革命といえる。

ただし、これらの商工業者は、奴隷制度のうえに立っている。そこに、近代とちがうところであり、フィレンツェともちがうところである。しかも皮肉なことに、ブルジョアジーのほうが奴隷制にたよることが大きく、貴族のほうは、農園経営に奴隷よりも日傭農夫を使うことが多かった。これは、農業が、つねに一定の労働力を必要とするわけでなかったことによる。

この国家も、ペロポネソス戦争でおわった。スパルタは、貴族政治の国家であり、アテネの貴族は、スパルタとむすんだ。スパルタ軍のアテネ占領は、アテネの貴族政治の再建をもたらした。それとともに、アテネの輝きも失われた。


特殊性について

すべてのものに、普遍性と特殊性がある。そのどちらのがわを研究するのも学問だ。この本は、普遍性を問題にしてきた。しかし、それぞれの国には、その普遍性とともに、特殊性がある。特殊性を知ることも、また今後の問題だろう。

市民革命の思想は、まったく特殊性の問題である。カルヴィン派宗教、自由・平等・友愛、社会契約説、自治・独立、尊王攘夷・王政復古、三民主義等々。これらは、その民族のおかれた具体的状況にふさわしくきめられる。

土地所有権の程度も、特殊性の問題である。上層ブルジョアジーの種類もそうだ。問屋制度の上に立つ大商人もあれば、機械工業のうえに立つ銀行家・産業家もいる。これは、市民革命をむかえたときの産業の発達の程度に関係する。

上級土地所有権者のありかたも多様である。領主―地主―小作という三段階をしめすばあいと、地主貴族―小作人という二段階をしめすばあいとある。

上級土地所有権が組織する権力の形式や、ブルジョアジー以外を支配する形式も多様である。イギリスでは、宮廷貴族が、商業や産業の独占権をあたえられ、その独占権を大商人や産業家に売りつけるという形式で収奪がおこなわれた。また、宮廷貴族が大株主になっている大企業に独占権をあたえるという方法もとられた。そこで、宮廷貴族の権力を撃破する段階に、そのかぎりでの独占の破壊という方向もとられた。このことは、イギリス革命の特殊性である。だが、イギリスをつうじて世界史をみる人は、独占一般の破壊という任務を、市民革命の法則にしようとした。そこから、特権的商業資本の敗北という公式がでてきた。ところが、東インド会社の独占はのこった。そこで、議論が混乱してきた。これは、普遍性と特殊性の混同だ。

このように、特殊性と普遍性とは、注意深く分類して考えるべきである。

また、反動期をもつばあいと持たないばあいとある。これも特殊性である。イギリス、フランスでは王政復古という反動期をもった。この時期に、市民革命の成果が半ば失われ、絶対主義再建をめずす努力もかなり成功し、いま一歩というところで二度の革命(名誉革命、七月革命)

をおこし、市民革命が完成した。この王政復古の時期は、絶対主義でもなく、市民革命後の時期でもない、過度期の特殊なバランスの時期である(日本の王政復古とは、まったくちがうことに注意したい。そこで明治維新を、西洋流に翻訳するとき、王政復古の語をつかうが、これは、内容的にみて、誤解のもとになろう)。

このような過度期の反動は、オランダ独立以後にもあった。ウィレム二世と大商人の対立抗争である。だが、現代に近づくにつれてなくなる。一回かぎりでかたがつく。反動の試みもないではないが弱くていうにたりない。

これも国際的環境からくる特殊性である。はじめの頃は、強大な封建国家にかこまれたなかで市民革命をおこなった。そこで敗北した貴族層は、隣国に強大な支持者をもっている。ときに血縁関係があり、ときには、ウィレム二世のように、かれ自身が他国の領主であるばあいがある。周囲の封建国家からの干渉、圧力がくわえられる。それを、自国の旧支配層が利用して、権力を回復しようとする。イギリスでも、フランスでもそのようなことがおこった。そのため、内乱が長びき、流血の様相がひどくなった。

だが、そのような国際環境がないときは、反動を経験せず、革命も過激な様相をしめさない。アメリカ独立革命はそうである。現代に近づけば、周囲が封建国家でない。市民革命は有利な立場になり、ほとんど封建反動が成功しない。


封建制度と古代のちがい

封建制度とは、上級土地所有権者が権力を組織し、財政の実権をにぎることである。それを破壊し、上層ブルジョアジーの権力にかえるならば、市民革命である。

こういうと、古代との関係が疑問になってわいてくる。古代と封建制度とは、どこがちがうのかと。古代もまた、上級土地所有権者が権力を組織している。まったくおなじである。それにもかかわらず、古代と中世とは、はっきりとして区別がある。とくに、西欧の歴史では・・・。

そのはっきりとした区別の理由を考えてみたい。ある人はいう。古代は奴隷制度であり、中世は封建制度である。奴隷とは、人間が商品になることだと。封建制度のもとでは、奴隷のかわりに農奴があり、時代がすすむと、国によっては、自営農民にまで進化する。

たしかに、これは一つの区別だ。とくに、ローマ帝国を、西欧の中世とくらべるときはそうだ。だが困難は、世界史的な規模で考えるときに生じる。ローマ帝国では、奴隷制農業が大規模に行なわれていたから都合がよいが、おなじく古代といっても、中国の均田制や日本の班田収授の法のもとの農民は奴隷でない。かれらは商品でなく、身分的には公民である。奴隷に相当するものとして奴婢がいて、安寿と厨子王の話ものこるが、これは、労働力のわずかの部分しか占めなかった。

歴史家を困らせているのはこの問題だ。均田農民や班田農民とローマの農業奴隷の共通点をみつけなければ、世界史的な規模で古代と中世の区別がつけられない。それでは、古代と中世の区別はないというのかといえば、感覚的にはありそうだと思う。

ここで、均田制や班田制の租、庸、調にふくまれる徭役が注目された。正規の庸は少ないが、これに雑徭をあわせると年間約一〇〇日の無償労働になる。山上憶良の「貧窮問答歌」にもでてくる、里長が鞭をもって呼びだしにきた労役である。この強制労働に着目し、この労働が貴族や寺院など大土地所有者の土地に使用されたことをもって、一種の奴隷制とする見方がある。国家的規模での強制労働たから、総体的奴隷制ともよばれている。

この考え方は、あるところまで正しい。しかし、十分ではない。考察をさらにすすめよう。

徭役にでる日以外は、自分の土地で働くわけだ。そこから租税をとられるとしても、余りは自分のものになる。それでは、奴隷よりはずっとよい条件にある。

ところが、生産用具のことに、思いいたると、話がかわってくる。もともと、大昔は、石器、木器であり、青銅器ができたとしても貴重品で農具として広くいきわたらず、せいぜい木製の農具をつくるべき工具として使用された。だから基本的生産用具は木器、石器である。やがて鉄器時代に入り、鉄製農具が生産されるが、一度に全農民にいきわたるはずがない。その段階では、鉄製農具は貴重品だ。未開墾地はいくらでもある。未開墾地の所有は、現在考えるほどの意味をもたない。そういう事情のもとで、鉄製農具を独占するものは、富と権力を独占することになる。それだけに、鉄製農具は、貴族や寺院(高級僧侶は貴族出身者)に独占された。均田農民や班田農民には、鉄製農具がない。あれば、土地を開墾して地主になるだろう。

この事情を頭において労働の形を考えよう。貴族や寺院の大きな土地を耕し、かれらの開墾事業にしたがうときには鉄製農具が貸与される。もちろん、その労働は強制労働だ。おわれば、鉄製農具がとりあげられる。自分の土地を耕すときは、木器、石器の農具だ。こう想像するのが自然である。農民には、その時代の基本的生産用具が欠けている。

ここで、ローマの奴隷との共通点がみつけられた。それは、基本的生産用具が大土地所有者に独占され、直接的生産者がそれを持てないという状態だ。封建制度の時代になると、大土地所有者は土地のみをもち、基本的生産用具が農民の手に入る。この差は、それだけ、基本的生産用具の量が社会的にみて増加したことで生じる。古代は、支配者が、大土地所有者であり、かつ基本的生産用具の独占者である。直接的生産者の手にはそれが欠けている。中世では、支配者は大土地所有者である。これが基本的な境界線ではあるまいかと考える。ゆえに、中世においても、初期は、基本的生産用具が十分に行きわたらず、それに対応して、賦役労働や下人の労働が残ると思われる。


未解決の問題

私は、市民革命の基本法則を解いたと思う。市民革命の時期をしめし、なぜ市民革命かという理由もしめした。このことについて、一応の自信はある。だが、解きたいのにどうしても解けない問題がある。これは将来の課題にしたいが、読者諸君も考えてほしい。

どこの国にも、まず封建制度があり、大土地所有者が権力をにぎっている。しだいに商工業が発達してくる。ブルジョアジーが強力になる。それに対応して、封建制度も再編成されて生きのひる。だが、いつまでも生きのびることはない。あるときに、大土地所有者の権力は破壊され、ブルジョアジーの支配が実現する。つまり、市民革命は、商工業の発達にともなう必然的現象だ。

問題は、その必然性がなぜくるのかということ、さらに、いろいろな国で、それぞれちがった商工業の発達段階でおこるのはなぜかということだ。

農業からあがる所得と、商工業からの所得の量的なひらき、つまり、後者が前者を追いこしはじめたとき、その必然性が生じるのではないかとも考えた。そうはいっても、整然たる論理で説明できない。

また、市民革命をひきおこすのは、きまって財政赤字である。貴族階級が財政を私物化し、国庫を喰いものにし、そこに生じる巨大な赤字が、ブルジョアジーを破滅のせとぎわにおいつめるとぎに生じる。赤字が決戦の条件をつくる。そのとき、貴族階級のなかで心ある人物は、その危険を知る。日本では、小栗上野介がそのことを予感していた。ラスプーチンにしても、没落を予感していた。そこで、もし、赤字が人為的にくいとめられるものなら、あるところで喰いとめ、革命に至らしめず、譲歩くらいで支配を維持できそうなものである。

ところが、それができない。貴族階級は、しゃにむに国庫にむかって突進し、財政をくい荒し、赤字を破減的にし、ついに自分の権力を滅ぼす。それは運命的な姿であり、動物の世界にある死の行進に似ている。この全体的な必然性を数量的に、商工業の発達度と大土地所有者の権力と財政の関係から解明できれば、市民革命の必然性が解けたといえよう。

これが解けると、ヘーゲルが『歴史哲学』で考察した、人間歴史が人間の意志から独立しているという必然性を解明したことになろう。

「人間はなにによって導かれるのか。なによりもまず、自分の欲望によってだ。・・・・・・愛、そのほかの動機はまれで、その作用範囲はせまい」「情熱がなければ、世界における偉大なものは、なにもなさない。情熱は、エネルギーの主観的側面で、そのかぎり、エネルギーの形式側面だ」(エネルギーのもとは「欲望」だと解釈してよい)

「歴史は、意識された目的からはじまらない。・・・・・・重要なものは、その行動が、人間にとって無意識的だということだ」

「歴史では、人間の行動をつうじて、人間が志し、かつ達成しようとするもの、人間が直接に知り、こうしようと欲するものとは別の結果が・・・・・・」

人間は「自分の利害を実現するが、こうして実現されたものは、かれらの意識やもくろみにはなかった、まったく別のものをつくりあげる。たとえ、それがかれらの利害の一部をなしているとしても」

市民革命という世界史的な事件も、その壮大な理想主義的外見にかかわらず「物欲」からひきおこされた。国家財政から、だれがいちばん多くのものをひきだすかだ。出てきた結果は、いろいろな階層の利害がからみあった結果であり、どの階層のもくろみにもはずれたものだった。もちろん、偉大な指導者の理想からも大きくずれた結果として。

上層ブルジョアジーの利害が最終的に実現されたが、そこへいきつく過程は、またかれらの意のままにならぬ道、じぐざぐの道をとってのみ可能だった。かれら上層ブルジョアジーもまた、財政赤字のために破滅のふちにおいこまれ、絶望的な反抗をこころみたあげく、えたいの知れぬ運命にもまれ、必死になってもがいているうちに権力の座にすわってしまった。そのような運命が、市民革命の自然法則であり、歴史の客観性だ。それをヘーゲルは「理性」の働きだといったが、それはちがう。そのような上品なものではなく、もっと下品なもの、「物欲」のからみあう現象、つまり経済の働きが基礎をなしていた。

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