2019年9月13日金曜日

中国国民党と中国共産党の協力と分裂

1927年4月蒋介石は国民党の軍隊を率いて上海を占領した。もともと、彼がビジネスで成功した町であったから、旧知も多い。その最大のものは杜月笙であった。中国通称銀行の実力社長、その他有力企業のオーナー経営者、同時に暴力団チンパン(青幫)の親分でもあり、アヘン売買、賭博経営、闇商売も手掛けていた。
軍閥を追放したのち、こういう勢力が中国の支配者になった。これでブルジョアの支配は実現したから、、中国の市民革命は実現したといえる。
ただ現実はかなり複雑なものになった。北伐とは聞こえは良いが、出来立ての国民党軍隊が、大軍閥の正規軍と戦うのであり、勝ち目はなさそうであった。そこで、孫文が「連ソ容共扶助工農」のスローガンを打ち出し、国民党が攻めるとき、共産党が労働運動、農民運動を起こして、軍閥の背後を脅かすことで勝てる、このような方針を示した。だから、今でも、中国共産党指導者は、「孫文先生」と呼んで尊敬しているのである。
この方針は成功し、一年で中国南部を平定することができた。しかし、同時に、共産党に対する弾圧が始まった年にもなる。中国共産党は、「反帝国主義、反封建主義」を掲げていて、権力をとれば、外国資本を没収し、地主の土地を取り上げて、小作農に分配するという方針を唱えていた。そのため、勝ったところでこれを実行し始めた。これに慌てたのは、外国資本であり、その中心はイギリスとフランスであった。イギリスの砲艦は南京を砲撃した。もう一つの混乱は、地主所有地の問題であり、共産党は土地革命を実行し始めた。地主所有地を没収して小作農に与えるというものであった。しかし、国民党の有力者の中には、すでに金の力で土地を買い集めたものがいる。
こうして、国民党指導者の中に分裂が起きた。蒋介石は右派であり、早くから「容共」には反対であった。そこで、上海で共産党弾圧を始めた。彼と親しい財界人が協力した。これを批判したのは国民党武漢政府であったが、それでも、「労、農運動の行き過ぎが商工業者を引きはなしている」という表現であり、最終的には、共産党弾圧に向かった。
こうして、国民革命は商工業者、ブルジョアジー、実業家集団の権力となり、蒋介石がこれを代表した。その限り、国民革命は中国の市民革命になった。

2019年9月9日月曜日

国民革命が中国の市民革命になる。

1911年の辛亥革命から、1927年の国民革命までの約15年間は、まだ前近代的社会であった。支配者は地方の大土地所有者、それの代表者が集まって地方的権力を行使した。それをまとめる中央権力はなかった。ただし、イギリス、フランスその他の先進国の資本は、横断的に活躍し、軍閥の枠を超えていた。
1925年、孫文は、革命軍を率いて、広東軍閥を撃破した。こうして、中国全土から見ると小さな地域に市民革命が成功したことになる。しかしこれで喜ぶのはまだ早い。日本でも、ずっと昔、堺に商人支配の国ができた。しかし、内陸の強大な国家、織田信長の領国が成長すると、その圧力でつぶされた。孫文の時は、その逆が起きた。1926年、隣接する大軍閥、呉佩孚を撃破した。これで、歴史的には「北伐」といわれ、国民革命の名称が使われることになる。
国民革命の中心に大商人、実業家がいる。宗一族のことは前に述べた。孔祥熙は商人出身、広東軍閥打倒の先頭に立ち、広東国民政府実業部長になった。宗子文は広東政府財政部長、中央銀行行長、華僑商人の息子、孫文の樹立した中華民国臨時政府の大総統秘書をしていた。蒋介石は実業家陳一族に引き立てられ、上海の証券取引所で仲買人となり、半年で富商となり、孫文の下で広東政府参謀長になった。
このようにみてくると、国民革命が、商人、実業家集団の革命であり、広東の小国家だから広東の商人が推進するものと考えてはいけないことがわかる。上海その他の大都市で成功し、資金を持って広東にやってくるものが指導権を握っている。その限り、国民革命は西洋流に言うならばブルジョアジーの革命であり、ドイツ語でいうならば、ビュルガリッヘ・レヴォルチオンというのことになる。やがてこの勢力が、武漢、南京、上海を占領して、市民革命を全土に広げることになる。

2019年9月8日日曜日

辛亥革命は市民革命ではなかった。

1911年の辛亥革命は、市民革命にはならなかった。もし、孫文の率いる中華民国臨時政府が成功し、全中国を支配したならば、市民佳カウ明の成功といえるだろう。しかしそれは弾圧されて、権力は袁世凱の手に移った。袁世凱は満州人ではなく、台頭してきた漢人大地主の勢力を代表する存在であった。この系譜は、曽国藩、李鴻章、袁世凱と続いている。
清朝政府の統治機構の中で、動乱に乗じて、満州貴族の中に割り込み、妥協しながら、政権に近づいたものであった。土壇場で態度を翻し、満州貴族を政権から追放し、独裁権を握った。同時に、孫文の作った臨時政府もつぶした。
こうして、辛亥革命は、土地支配者の政府の中で、勢力後退をもたらしたものであり、その変化とは、異民族としての満州貴族から、漢民族の大地主への変化であった。これは、孫文の唱えていた「排満興漢」を実現したものではあったが、孫文の理想とは程遠いものであった。
その後、孫文は「三民主義」を唱えて、新たな革命像を模索した。しばらくは政治犯扱いで、各地を転々とした。彼を支えたものは、中国人とは限らず、日本人の実業家、政治家も参入した。九州の炭鉱業者、それと結ぶ政治運動の大物「頭山満」などがいた。本国では、海南東、広東の華僑商人宗耀如・宗子文親子は熱烈な支持者で、次女宋慶齢は、秘書になりり、孫文と結婚した。
だから、孫文が勝てば市民革命になるはずで、辛亥革命でできた政権はそれに敵対するものであった。

2019年9月7日土曜日

市民革命以前の中国

市民革命以前と以後を分ける基本的変化は何か、それは今までフランス革命、イギリス革命、アメリカ独立革命で分析してきたように「それ以前は、土地支配の上に国家権力が構成され、それ以後は動産支配、実業家の支配、企業家の支配、フランス語ならばオム・ダフェール、英語ならばビジネスマン、現代ならビジネス・パーソンが権力を組織する社会に変化する」というものである。この点だけは、人種、民族の壁を越えて、共通点がある。だから、この点だけに、自然科学的な一般法則が歴史の中にあるというのである。
れぃしは個別的なものだという人は多いが、これだけは一般法則で分類できるものである。(もっとも、それを理解するには、理科的能力を必要とします。これは私の皮肉だと思ってください)。
中国の「この時点」を理解することは、至難の業です。特に年々難しくなってきている。なぜなら、中国人がこの時代のことを知らなくなってきているからです。つまり昔のことはどうでもよいからです。特に、異民族に支配された時のことは思い出したくもない、これがどこの国にもあるからでしょう。
その異民族、満州族に約300年間支配されてきました。日本の幕藩体制に例えると、満州人が、日本の武士階級で、漢民族は、日本の農、工、商であったと思えばよい。日本では同一民族で差がつくが、この国では、服装でも、髪の形でも差がついた。
日本の武士は城下町に住んだが、満州族は、騎馬軍団で都城に住み、周辺住民に領主権を行使していた。やり方は千差万別ではあるが、上級土地所有権を握って、その収入で生活し、戦士として被支配者に対してにらみを利かしていたという点では同じであった。
日本の場合、討幕戦という一つの戦争で、次の支配権は実業家集団に移行し、市民革命になったが、中国ではそうならなかった。
1911年、辛亥革命が起きる。清朝政府は倒れた。袁世凱が実権を握り、孫文の作った中華民国臨時政府をつぶした。袁世凱は、1916年死去する。これで、軍閥割拠の時代に入る。これは市民革命か?そうだという人はいない。満州族は追い出された。満州族の領主権は消滅したが、それを横取りしたのが、各地で二流の支配者に甘んじていた漢民族の大土地所有者であった。日本に例えていうと、幕末の庄屋、名主、などに相当する。それぞれの地域で権力を組織した。しかし全国的権力を組織するだけの余裕がない。そこで、それぞれの地域の有力軍人を押し立てて、軍閥割拠の時代を作った。したがって、この時代はまだ、土地支配の上に権力が構成されていたのである。だから前近代社会であった。

2019年2月11日月曜日

初期明治政府の社会主義的部分

これを見てびっくり仰天する人が多いと思います。その説明を。
第一、幕末、武士階級が領地を所有していました。しかしその所有は集団所有でした。各藩の単位で、領主権は藩主に集中され、藩主から分け与えられる形式で、領主権収入の一部がそれぞれの武士に与えられました。このさらに先をたどると、戦国時代、大、中、小の領主が、それぞれ、領地をもっていました。この個人的領地所有を、藩単位の集団所有に転化したのが、「一国一城令」でした。昔の個人所有の領主たちは、藩のトップである大名に領地をさしだし(悪く言えば取り上げられ)、代わりに、大名の部下、家臣としての職務を務めるという形式で、昔の収入を保証された。
このやり方が、社会主義の統治形態なのです。一度所有権を集中し、恩寵という形で分け与える。そこで、多数いた領主が消滅し、一人の独裁者に代表され、あとは家来として、恩寵を与えられる。だから、「さむらい」という言葉が定着した。「さぶらう」、仕えるという意味です。
廃藩置県で、大名の領地を国家に集中した。討幕戦で手に入れた幕領と合わせ、全国の領主権を天皇に集中した。だからといって、天皇が自由にできるというものではない。その配分方法は官僚たちが決めた。もし、この官僚たちが、旧大名、旗本であったのなら、、「領地所有者の権力集中」だから、「絶対主義」の完成です。この時代でいうならば、ロシア、オーストリア帝国、これらが代表的なものでした。当時の国際情勢からするならば、このコースもあり得ないわけではなかった。
しかし、日本では、官僚たちが、領地所有からはみ出したもの、「取るに足らぬ存在」のものばかりであった。その最たるものは伊藤博文、「武士の下男」、脇差のみで、大刀を持てない。高杉晋作が椅子に座って写真を撮っても、そのそばで片膝ついてかしこまったいる。だからとても長州藩の代表者になることはできない。
こういう人物が、工部省を任されて、「官営模範工場」の建設を推進した。今世界遺産になって人気のある富岡製紙所もその一つ。新事業は、電信、鉄道、郵便、鉱山その他に広がった。旧領地収入の一部がそこにつぎ込まれた。つまりこれは、重要産業の国有化と同じこと、社会主義的工業化であった。
もしこの部分が収益を上げて、財政収入に貢献したならば、国営企業の経営幹部が発言力を持ち、政府を牛耳る。それが進めば、社会主義になる。現実は逆で、赤字続きで、財政の重荷になった。当時は金属貨幣の時代、国際的な決済では、紙幣の出る幕はなかった。つまり、明治14年の時点で、明治政府は行き詰ってしまった。
資本主義的か、社会主義的かを巡る変化の時は、政争を伴う。大隈重信追放、明治14年政変は、その一つでもあった。ただし、どちらかが社会主義的というのではない。どちらも、官営工業の払い下げやむなしと認めたが、「分け前を巡って」相手を攻撃したというものであった。その後、手打ちが行われたころに、三菱も相当なものを手に入れた。そして、財界支配は安定した。

2019年2月2日土曜日

大隈重信追放は、三菱商会の岩崎弥太郎締め出しを意味した。

明治14年政変、(1881年)、いわゆる薩長藩閥政府出現、こういう言葉遣いが定着しているので、明治維新をなにか古めかしいものと思わせる効果が、まかり通っている。こういうことが、誤解の種をまき散らす。例えば、この時の長州藩出身の代表的政治家は、陸軍(山形有朋)、内務(伊藤博文)、外務(井上薫)であった。
これ以後確かに、長州系はこの3人に代表されていく。しかし、山形は足軽出身、伊藤は仲間出身(農民身分、、はじめ、武士の仲間には加えてもらえなかった)、井上は正規の武士ではあったが、兄がいる。つまり家を継ぐ立場にはない。だから、武士団を代表する資格はもともとないのである。ということは、この3人、長州藩士を代表するものではなく、悪く言えば「はずれもの」であった。では何を代表して力があったのか、それは財界を代表したからであった。特に、三井組であり、その中の三井物産の益田孝であった。
薩摩出身の政治家も同じような立場であって、薩摩藩を代表するような立場にはなかった。この時期彼らは、五代友厚(新興企業家)、川崎正蔵(川崎造船)と結びすいていた。
これに対して、大隈重信(参議筆頭、大蔵卿)(今でいうならば、財務大臣で、、首相の扱い)は、三菱の岩崎弥太郎と密着していた。「隈印は三印なり」井上が言い残している。
この大隈と岩崎がなぜ政界、財界で孤立し、具合が悪くなったのか、それは三菱商会の海上輸送独占の弊害が出てきたからである。内容というと、料金体系とか、保険の加入とか、営業面での話題になる。これを言い出すと、経営史の内容になり、文章が膨大になるので、省略します。とにかく、三菱の横暴、これが他の実業家の活動の妨げになった。当時の記録では、それに対する批判、改革案、が多く出ている。
他方で、三菱、大隈の側からも、不満が出ていた。北海道開拓使払い下げ事件であった。国費をつぎ込んだ北海道の開拓の事業を、五代友厚中心の合同企業に払い下げようとするものであった。
こうして、財界の二大陣営が激突した。互いに相手を非難しあった末、一種のクーデターで、大隈重信を権力から追放した。これが、明治14年の政変であった。この時、明治天皇も反対であった。それを、井上薫大声を出して押し切った。「雷公」と言われた理由であった。
大隈追放の後、同じ佐賀藩出身の佐野常民が後を継いだ。一年後、薩摩出身の松方正義が財政改革の推進を期待されて、大蔵卿に就任した。彼は、それまで、北九州の旧日田天領の代官、知事に就任して、財政改革に成功し、その手腕を認められた。
松方が改革を始めると、大久保、大隈のインフレーション政策から、松方デフレといわれる物価下落、増税、国有財産の売却が進められた。反対運動も高まり、それが自由民権運動の激化につながったが、政府の側の支持は強かった。
この時期、政府を支持する財界人は、政府との合弁で、「共同運輸会社」を設立して、三菱との競争を始めた。三井、住友、五代、渋沢(第一銀行)、大倉、安田などであった。これは、海上輸送の分野での、生死をかけて死闘であった。その中で、岩崎弥太郎は死んだ。「日本男児」が言い残した言葉であったという。彼の死後、妥協が話し合われ、海上輸送は合併して「日本郵船」となった。財界の分裂、死闘はひとまず収束した。そのころ、自由民権運動も、穏健路線に転換していった。つまり、どこまで行っても、財界支配は揺るがなかったのである。