2021年12月12日日曜日

09-フランス革命史入門 第二章の四 国民議会の権力

 四 国民議会の権力


宮廷貴族の敗北と亡命

国王は譲歩することを決心した。軍隊の撒退を声明し、国民議会に出席して「朕は国民とともにある」といい、和解を宣言した。国王と国民議会、あるいは国王とパリ市民との関係だけについてみると、国王の譲歩でけりがついた事件であるかのようにみえる。しかし、国王をとりまいていた宮廷貴族の立場からみるならば、最強の者の敗北であり、権力者の敗退であった。

ブローイ元帥は、パリでの敗北を知ると、国王に「ヴェルサイユを離れて軍隊の中に入り、反撃の機会をうかがうべきである」と説いた。しかし、すでに軍隊とともに移動するだけの資金、食糧がなかった。そこで、国王は泣いて屈伏したのである。

それでも、国王の安全はまだ保障されていたが、軍事クーデター計画に指導的役割を果した宮廷貴族の運命はみじめなものであった。バスチーユ総督ローネイ侯爵、パリの総監(任命市長)フレッセルは首を切られた。群集はその首を槍につきさしてねり歩いた。ネッケル追放後の財務総監になったフーロン(ブローイ元帥の会計官)は街燈につるされた。その婿のベルチエ(王妃の財政総監、パリの財政総監)も捕えられた。群集は、義父フーロンの死顔にロづけさせ、縛り首にし、心臓をえぐり、二人の頭を槍でつきさして行進した。

パリでの市街戦を指揮した司令官ブザンヴァル男爵は、政権回復の陰謀をおこない、捕えられて処刑された。フランス衛兵連隊長デュシャトレ公爵は変装して逃げた。船の中で見破られ、水の中に投げこまれそうになったが、二、三人の乗客に助けられた。竜騎兵を突入させたランベスク太公は、石で打ち殺されそうになったが、すばやく逃げのびた。ブローイ元帥は、逃亡の途中ヴェルダンでつかまり、殺されそうになったが、まだ勢力を保っていた軍隊の圧力で釈放された。

ポリニャック公爵夫妻の首には懸賞金がかけられた。宮廷貴族の主だった者は、変装して村から村へと隠れ家をたどって逃げのびた。アルトワ伯爵、コンデ太公、コンチ太公、ポリニャック公爵夫妻をはじめとするもっとも有力な宮廷貴族の一団が逃亡した。本来、国王は彼らの代表者であった。いまや旧支配者は逃亡し、国王だけが、第三身分の捕虜同然の身の上として、フランスにとどまることになった。


法律革命論の誤り

バスチーユ襲撃に象徴される反乱と革命で勝利者になった者は誰かといえば、それはブルジョアジーであることに疑いはない。だが、これについて、もう少しはっきりさせておかなければならないことがある。ブルジョアジーの勝利を一般論としては認めるが、その根拠はかならずしも確かなものでないという場合が多いからである。

たとえばフランス革命の第一段階は法律家の革命であったという意見がある。なぜならば、第三身分議員の半数が法律家だからである。このような説明の仕方も多い。ソブールは「法律革命」という、いい方をしている(『フランス革命』上巻、八八頁)。

マチエは、フランス人民が主権者になったと書いたり、ブルジョワ階級の時代がきた(『フランス大革命』上巻、一〇四頁)といういい方をするだけで、あまりはっきりとした定義はしていない。また「貴族と対等になるために大革命をおこなった当のブルジョワさえも、長い間、いぜんとして貴族を自分らの指導者、首領として選んでいた」(上巻、一二一頁)といって、ラファイエット侯爵をひきあいにだしている。

法律家の革命をもっとはっきり強調しているのは、デュプーであり、これがフランスの歴史家の一般的な傾向を代表している。

「革命の原動要因となるのは、まず最初に短期の『法律家の革命』を遂行した自由職業人・知識人のブルジョワジー、ついでジロンド派と共同した大ブルジョワジー・中ブルジョワジー」(デュプー『フランス社会史』八七頁)。

これでは、後にでてくるジロンド派の方が、ブルジョアジーとしての規模が大きいような感じをうける。

河野健二氏も「『法律革命』ではなく『社会革命』が、ブルジョア的ではなく民衆的な改革がここにはじまる」(『フランス革命小史』岩波新書、一二〇頁)といういい方で、一七八九年を法律革命、一七九二年の八月十日を社会革命という。同じような発想である。

他方でマチエのように、人民といったり、ブルジョアジーといったり、貴族を指導者にしたというと、この時点のブルジョアジーが、なにかたいした勢力をもたなかったかのように受けとられてしまう。どのフランス革命史でもこうした傾向が強い。

一方で自由主義貴族、他方でジロンド派とともに後からくる大ブルジョアジーの間にはさまれて、バスチーユ襲撃直後のブルジョアジーは、なにか規模の小さい、比較的力の弱いブルジョアジーであるかのように扱われている。

しかし、これは、この時点での指導的ブルジョアについて、十分な研究がなされていないからである。個々の実例をもっとよく調べるならば別な結論がでてくる。この時点で権力をにぎったブルジョアは、ブルジョアのうちで最上層の者であり、経済活動では最強の力をもつ者であった。また、それだけに、貴族の資格をもつ者も多く、領地をもつ者も多かった。つまりは、貴族的なブルジョアジーであった。


上層ブルジョアジーの勝利

権力に返り咲いたネッケル自身が最大級の銀行家であり、自分の娘をスタール男爵と結婚させ、貴族社会に入りこんでいた。

宮廷銀行家のラボルドは、食料品商業をおこない、商船隊をもつ貿易商人でもあり、同時に領地と城をもち、植民地の農園をもち、貴族になって侯爵の称号をもち、娘をノアイユ伯爵と結婚させていた。彼もこの時点での革命派であり、五万リーブルの愛国献金をおこなった。この献金は、宮廷側の反革命罪を調査するためにあてられ、ランベスク太公、ブザンヴァル男爵の罪状があきらかにされた。また、バスチーユ占領のときに起こった財務総監フーロンの虐殺も、ラボルドがけしかけたものであったといわれている。

ドレッセール一族は銀行、絹織物商業、貿易業を手広く経営し、ケース・デスコントや火災保険会社の理事をだしていた。この一族は、積極的に使用人、下僕を巻きこみ、武装して市街戦に参加し、負傷者をだした。バスチーユの襲撃のときは、自分の邸宅を弾丸製造工場にして、そのあとでも一大隊の食料を供給するための資金を提供した。


ボスカリは銀行家でもあり、貿易商人でもあり、帽子製造工場を経営する工業家でもあった。火災保険会社の理事、ケース・デスコントの理事長にもなった。バスチーユ襲撃の前夜、政府に貸付けたケース・デスコントの資金を返済してもらうように、ヴェルサイユに行って交渉した。しかしこの交渉は成功しなかった。その直後パリで市街戦がはじまり、ボスカリ一族は武装して戦闘に参加した。

パリのヴィヴィエンヌ通りはインド会社の建物があり、株式取引所が開かれていた。その近くに銀行家、徴税請負人、株式仲介人が集まっていて、ここが上層ブルジョアジーの中心街となっていた。この町はフランス衛兵連隊の一部をあらかじめ買収した。

七月一三日から一四日にかけて、銀行家ルクツーも兵舎をおとずれ、防衛に十分なだけのフランス衛兵をつれてきた。

このように、兵士の反乱は、自然発生的に起きたのではなかった。むしろ、士気が乱れていた所に乗じて、上層のブルジョアが積極的に働きかけ、買収し、ブルジョアジーの側の軍隊に仕立てあげたのである。


財政政策の逆転

それだけに、勝利したパリでは、このような上層ブルジョアが政治、軍事の指導権をにぎったのは当然である。

国民衛兵(国民軍)が組織されてパリの治安にあたったが、ここに加盟できるのは、自分で武装をととのえることのできる者だけであり、第一次選挙人以上と決められていたから、財産をもたない職人や労働者は除外された。

それは、小ブルジョア以上の者で組織される軍隊になった。その司令官に自由主義貴族ラファイエット侯爵を据えた。表面をみると、まだ貴族的色彩がのこっているようにみえる。しかし、実際の軍務は、ラファイエット一人だけですすめることはできない。彼の下の副官がそれぞれの分野を担当した。その副官の中に、多くの大銀行家が名をつらねていた。その意味で、国民衛兵も上層ブルジョアの支配下にあったのである。

また七月一四日以後、国家財政の実権は王権の手をはなれて、国民議会にうつり、実際には、国民議会の財政委員会が運営することになった。そして、財政委員会をうごかした者もまた、上層ブルジョアの一団であった。

当時の見聞録にも、ブルジョアジーの指導権をはっきりと指摘したものがある。

「資本家達は、彼らの金庫が心配のあまりし闘いにふみきった」。

「ネッケルの罷免は破産の合図だった」。

「国庫はブルジョアジーの手に確保され、誰もこれをとりあげることができない。ケース・デスコントは同じく彼らの保護のもとにあり、支払はいつものとおりおこなわれている」(七月一六日)。

ネッケルが復職すると、さしあたりの財政資金として三〇〇〇万リーブルの借款を国民議会に要請した。

「これは財政委員会にまわされ、明日報告されることになる。借款は通過するだろう。必要はさしせまっている。パリはわきたっている。投機業者、資本家は議会のために大いにつくしたから、彼らのためには、なんらかのことをしてやらなければならなくなっている」。

こうして借款が通過し、国家財政の危機が回避された。ブルジョアジーの新政府であり、契約を破棄するおそれはないから、円滑に成立したのであった。ブルジョアジーは、新政府を自分のものとみなしたのである。

すでにネッケルが罷免された直後、宮廷側の財政政策にたいして、国民議会は先手をうち、それに歯止めをかけるような声明をだした。

「公債はフランスの名誉と忠誠にかけて保護され、国民は必ず利子を支払い、『破産』という不名誉な言葉はつかわず、どのような権力といえども、デノミナシォンの形で公的信用を破る権利がない」。

必ず利子を支払うということは、歴代の王国政府がやってきたように、国家の破産を口実にして利子を切下げることをしないという意味である。また、デノミネーションは、今日のデノミという意味ではなくて、公債価値の切下げという意味であり、これも今日の社会ではありえない。それは資本主義の社会だからありえないのであり、それ以前の絶対主義の社会では、ありえたわけである。まだブルジョアジーが権力をにぎっていなかったからである。そうした意味で、これらの宣言に、ブルジョアジーが権力と財政政策の実権をにぎったことの本質があざやかに示されている。

ゆえに、この時点で権力をにぎったブルジョアジーとは、最上層のブルジョアジーであり、とくに公債の買入れとか、政府への物資納入とかの形で、政府にたいして巨額の金を貸付けていた上層ブルジョアジーの一団であったということができる。法律家とか知識人とかいう、財産規模の小さい、あいまいなものではなかった。


自由主貴族の協力

最上層のブルジョアジーが権力をにぎったとはいっても、まだ彼らの社会的な権威は、全国的に認められるほどのものではなかった。絶対主義のもとでは、古い家系の貴族だけが、社会的に価値のある者だった。まだ、貴族社会そのものだったからである。

銀行家ネッケルが自分の娘をスタール男爵と結婚させたとき、「なに者でもない男が、なに者かになろうとすれば娘が必要である」といわれた。どんなに巨富を積んでも、貴族でなければとるに足りない者であった。

そこで、多くの上層ブルジョアは金のカで貴族の称号を買い、領地を買い、城を買った。それでもやはり、成り上り者としかみられていなかった。彼らが全国民に新しい主権者であると宣言してみても、伝統的権威がないから、威信を確立することはできない。

そこに自由主義的な宮廷貴族の役割があった。宮廷貴族の野党的立場の人間、権力争いで破れたために進歩主義者にかわった人間、より以上の財産を求めて銀行家や大商人の娘と結婚した宮廷貴族が、そのようなグループを作っていた。

彼らの社会的な存在は、ちょうど権力に到達した最上層のブルジョアと似たものであった。そこで両者の協力体制、同盟が成立し、新政権の表面に名門の自由主義貴族が立った。ネッケルの復職とともに、ネッケル派の大臣が返り咲いた。これらは、サン・プリースト伯爵のような宮廷貴族と、ボルドー大司教、ヴィエンヌ大司教のような自由主義高級僧侶であった。ラファイエット侯爵は国民衛兵司令官になった。最初の財政委員会の代表者にはエギョン公爵がなった。

陸軍大臣は、とくに長い間貴族によって引きつがれていた。軍事は、ブルジョアジーの苦手とする分野だからである。はじめはサン・プリースト伯爵で、一七九一年の末から一七九二年の三月まではナルボンヌ伯爵、その年の五月まではグラーヴ侯爵と、自由主義貴族が軍隊の実権をにぎっていた。ジロンド派の将軍で一時陸軍大臣を兼任したデュームリエも名門貴族である。

平民出身の将軍が大量に出てきた恐怖政治の時代でも、デュボワ・ド・クランセとかバラ伯爵のような名門貴族が、地方軍司令官や軍事委員になって国防のために活躍した。ブルジョア革命とはいっても、ブルジョアジーだけに純化されたわけではなく、ブルジョアジーの側に立って活躍する貴族の多くが目立つのである。


大恐怖とバスチーユの相違

七月一四日から八月四日にかけて、フランスの農村各地において大恐怖とよばれる農民の暴動が発生し、全土が一時無政府状態にあるかのような混乱におちこんだ。この運動は、必ずしもバスチーユ襲撃の運動と連帯するものではなく、ときにはそれに逆行し、ときには一致し、ときにはまったく無関係に、自律的にひきおこされた。革命とは、相対立する二つの陣営に諸階級が整理され、その後に決戦をおこなうという性質のものではない。むしろ、経済困難と人心不安の中で、あらゆる階層が入り乱れて闘い、旧秩序がバラバラになって崩壊したときに、つぎの社会を担う階級が、権力を組織して、新体制を作りあげていくのである。そうしたことが、この短い時期におこなわれた。

大恐怖は、さまざまな動機で発生した。もともと、七月一四日以前から、各地で農民の反乱が起こり、領主の城が焼打ちされていた。バスチーユ占領の噂が広まるとともに、農民の運動が爆発的に広まった。通信の発達していない当時であるから、いろいろな噂やデマが流され、それに応じて農民が動きだした。

イギリス軍が上陸して、すべてを焼きはらっているという情報をもとに、農民が武装して騒乱を起こしたこともある。盜賊が農村を略奪しているとふれまわった者がいて、これをきっかけに、農民が武装して領主の城におしいり、盗賊をさがすというロ実で、城の財産を略奪し、封建権利証書を焼いたところもある。

フランシュ・コンテ、ドーフィネ、ブルゴーニュ、アルザス、ノルマンディー、リムーザンの各州で、一五〇以上の城が炎上した。多くの寺院も焼かれた。貴族や僧侶が、恐怖につつまれて逃げまわった。ブルゴーニュでは、村の弁護士が盗賊の首領となり、王の命令と称して、「三カ月間すべての城、地代帳、寺院、風見をもつ邸宅をもやす許可を与える」とふれまわった。

こうした暴動について、国民議会の側は国王と王党派の煽動のせいだといった。しかし、貴族の側は、国民議会の指導者が全国民を武装させるために、盗賊がうろついているという情報を流して農民を煽動したのであるといった。この暴動を発案したのが、ミラボー伯爵であるという説も残されている。国民議会の議員チボドーは、「市民を武装させようとしたミラボーの天才に賛辞が集まった。パリから発せられた通知は全国に広がり、盗賊のくることを告げた」といった。

いくつかの都市でも、同じような暴動が起こった。フランス第二の都市リヨンでは、飢えた貧民が暴動を起こし、関門と徴税局事務所を襲撃しただけではなく、ブルジョアジーが三身分合同のために建てた門柱をくつがえした。この暴動は、ブルジョアジーにも敵対するものになった。ポワシーでは、買占めの容疑をうけた一人のブルジョアが群集におそわれ、国民議会の代表によって救出された。パリでも、サンジェルマンの入市関税事務所が破られ、徴税官が買占めの容疑者としておそわれた。

このように、大恐怖の動きは、都市でも農村でも国民議会の動きとは独立して、ときにはそれと対立して進行している。都市の暴動の多くは、国民議会に集まるブルジョアジーにたいしてもむけられた貧民の暴動であり、すでに反ブルジョア的な傾向を示している。

農村で城を襲撃し封建権利書をもやした暴動は、国王側の貴族に対してのみならず、国民議会側の貴族、ブルジョアに対しても攻撃のほこ先をむけた。宮廷貴族も地方貴族も法服貴族も領主であったが、自由主義貴族もまた領主であり、最上層のブルジョアたちもまた多く領主であったからだ。

国民議会の側に立つ自由主義貴族や商業貴族の側からみるならば、七月一四日で王権に反抗し、やっと権力をにぎったと思った瞬間、足もとの農民から反乱を起こされ、自分の城が襲撃されたのである。それだけに、大恐怖は国民議会の権力を強めるものではなかった。

ただ、国王側の宮廷貴族の足もとまでゆるがし、宮廷貴族がパリ市民にたいする軍事的反撃を農村で準備するための機会を失わせた限り、フランス革命にとって有利な条件を作ったことは認められるであろう。


封建権利廃止の宣言の意味

大恐怖は、国民議会の中ではげしい討議の対象になった。強硬派は、農民の反乱を武力で鎮圧せよと主張した。七月二〇日、ラリー・トランダル伯爵は、ブルジョア民兵を地方に作り、これで騒動を鎮圧せよと提案した。こうした意見は、デュポン・ド・ヌムール、ムーニエなど国民議会の右派が主張した。

彼らも、王権にたいする限りは革命派であったが、領地をもつブルジョアまたは自由主義的な領主の立場を露骨に代表して、封建権利の全面的維持に固執したのであった。ムーニエは「屋根瓦の日」いらいのはなばなしい革命家ではあったが、自由主義的大領主テッセ伯夫人、エナン公夫人のサロンの弁士となり、彼らの気分を強く主張したのである。

しかし、国民議会の多数は、大恐怖に対して正面からたちむかうことは不利であると悟った。彼らは、まだヴェルサイユに駐屯する国王の軍隊の脅威をうけている。この軍隊は撤退しただけで、解体はされておらず、いつでも反撃できる体制にある。もし国民議会が農民の鎮圧にまわり、農民の反感を買ったときに、国王軍から反撃されれば、農村における支持者を失って敗北するかもしれない。

ただし、それでは全面的に封建権利を廃止するのかといえば、自由主義的領主やブルジョア領主は、改革によって一挙に領主としての収入を失ってしまう。そこで、妥協案がまとめられ、農民に期待をもたせるような形で、封建権利廃止の宣言がおこなわれた。

封建権利を二つに分けて、人身にまつわるものと土地にまつわるものに区別し、前者を無償で廃止するが、後者は有償で廃止するというものである。こうした提案が、八月四日、ノアイユ子爵によって出され、これに自由主義貴族の多くが賛成して可決された。

無条件で廃止されるものは十分の一税、領主裁判権、マンモルト(死亡税または農奴制)、狩猟権、鳩小屋の権利などであった。

有償で廃止されるものは、封建貢租と不動産売買税である。これらは有償で買戻すことができると定められた。したがって、完全に買戻されるまでは、その徴収が厳格に実施されると規定されていた。

こうして、領主権は単純な地代に転換された。さしあたり、当時の農民の多くは、有償廃止の意味をあまりよく理解できず、ともかく廃止されたということを早合点して、貢租も無条件で廃止されたかのように誤解した。そのような誤解が広まっても、国民議会の議員もあえて訂正しようとせず、ただ廃止という点に力点をおいて、お祭りさわぎをした。こうして、八月四日の宣言をきっかけに、農民の暴動はしずまり、農村に平静さがとりもどされた。

八月四日の宣言で廃止されたものについては、たとえていうならば領主権の半分が廃止されたものと考えてよい。後の半分がまだ維持されていて、これの廃止をめぐって、つぎの内乱(一七九二年八月一〇日の蜂起)がひきおこされることこなる。

大恐怖と封建権利廃止の宣言の扱い方について、ほとんどのフランス革命史が誤解をまねくような形で書いている。七月一四日のバスチーユ占領を描くと、そのすぐあとに大恐怖を紹介し、それから八月四日の宣言を紹介して、ここでフランス革命の第一段階を終りとする。ソブールの『フランス革命』も、マチエの『フランス大革命』もそのようになっている。

そうすると、バスチーユ占領の運動の結果が八月四日の宣言であるかのように受けとられる。これが固定化すると、まるでバスチーユ占領の運動の目的が封建権利廃止の宣言であるかのように思いこまれていく。これが一つの常識になってしまって、多くの学者が、ブルジョア革命の基本的課題は領主権の廃止であると定義するような風潮を作りだした。バスチーユ襲撃ー大恐怖ー八月四日の宣言を結びつけるからである。ほとんどのフランス革命史が、このような理論的見解を基本にしているが、とくに河野健二氏の『フランス革命小史』では、この見解で筋をとおすための努力がなされている。

しかし、これは誤解もはなはだしいものである。バスチーユ襲撃は、八月四日の宣言に直接結びつかない。もっとくわしくいうならば、七月一四日の運動は、領主権(封建権利)廃止の宣言には直接結びつかないのである。大恐怖は、勝利したブルジョアジーにもむけられたので、八月四日の宣言は、勝利したブルジョアジーが足場をかためるために、やむをえない譲歩の手段として打ちだしたものであり、彼らがそれを目ざして奪闘したものではなかった。最上層のブルジョアジーがもとめて奪闘したものといえば、国家財政の実権であった。このことをもう一度確認しておく必要がある。

ただ、八月四日の宣言には、そのほかに租税の平等とか文武の官職にすべての市民を登用するとか、金銭的特権を廃止するとかいう項目がある。これは、貴族の減免税特権の廃止、また貴族が官職を独占していたことへの否定が含まれていて、バスチーユ襲撃の目標と一致している。

また、官職売買の廃止は高等法院、法服貴族の廃止につながるものであり、パリ、リヨン、ボルドーの都市の特権廃止は、ブルジョアジーの中での不平等の解消を目ざすものであった。これらは最上層のブルジョアジーにとっての目標ではなく、むしろ維持したいものもあっただろうが、ひとたび動きだした革命の潮流に逆らえずに譲歩の手段として放棄したものと考えるべきである。

要約 第二章ー四 国民議会の権力

バスチーユ占領が報告されると、国王は敗北を悟った。軍隊を撤退させ、和解の声明を出した。これで騒ぎが治まったかのように見える。そこで、多くの歴史家は政治革命であるとか、法律革命、自由平等の思想の勝利などと、経済、財政から離れた結論を唱える。しかし、これでは首尾一貫性がない。財政問題で騒ぎが起きたのだから、財政問題でけりをつけなければおかしい。理科出身の「理屈っぽさ」かもしれないが、理論が首尾一貫していないと気が済まない。それが、この時点の解釈に出てくる。国民議会が権力を取ってどうしたのか。

商人、銀行家の復讐

商人、銀行家は決死の覚悟で立ち上がった。彼らの本性に反してである。彼らは本来慎重、臆病、控えめをよしとしている。「資本は臆病である」ともいわれる。「金持ち喧嘩せず」ともいわれる。ところがその本性に反した人がいた。ラボルドという宮廷銀行家の名が出てくる。ネッケルの後任の財務総監フーロンの虐殺をけしかけた。(わかりやすく説明すると、ラボルドは国家に大金を貸しつけていた。フーロンは、これを踏み倒す政策を実行しようとした)。だから復讐のため虐殺させた。(金をばらまいて、殺させたということが当時分かっていた)。

亡命貴族の大量発生

これが一例で、ラボルドが献金して、調査が始まり、フーロンの側の人物の名が明らかにされた。その人たちの首に懸賞金がかけられた。捕まれば首を持っていかれる。これで、パニックになり、大勢の人たちが逃げ出した。その逃げた人たちが、今まで権力の最高、最強の地位についていたものであった。(大貴族、大領主)。例えば、ポリニヤック公爵夫妻。

だれが勝って、だれが負けたか

この文脈で行くと、勝った側はラボルド、商人銀行家、金を貸して、その権利を確保した。負けた側は支配者でありながら金を借りて、それを踏み倒そうとした側ということになる。国王個人の立場はあいまいとなる。

財政政策の逆転

国民議会は「破産という言葉は使わない」と宣言した。「利子を必ず支払う」とも言った。「公的信用を破らない」とも言った。これで、国家に金を貸し付けていたブルジョアジーの権利は守られた。だからフランス革命の初期のスローガンは「自由、平等、財産」であった。これを差し置いて、法律革命だとか、政治革命というのは、本質を見ない言葉に過ぎない。

自由主義貴族の協力

ブルジョアジーが勝ったとは言うものの、それが前面に出るというものではないよと書いている。本来ブルジョアジーは前面に出ないものである。なぜなら、実業に忙しいから。また資本は臆病であるから。勇敢なものは、貴族、戦士になってくれ。これが本音です。そこでどういう貴族と協力していくのかが紹介されている。


08-フランス革命史入門 第二章の三 バスチーユ占領

三 バスチーユ占領


国民議会の宣言

一七八九年五月五日、三部会がヴェルサイユに召集された。三部会のうち、第一身分(僧侶)の議員は約三〇〇人で、このうち二〇〇人ぐらいが司祭(中・下級僧侶)であった。第二身分(貴族)の議員二七〇名のうち、地方貴族の数が多く、これに宮廷貴族、法服貴族が加わった。第三身分に同情的な自由主義貴族の数は少なく、九〇名くらいであった。それにしても、その革新性の度合はさまざまであった。第三身分の議員数は六〇〇であり、この中の約半数が法律家であった。また、ブルジョアジーの階層に属する者が多かった。そして、当時の法律家のほとんどは、なんらかの形でブルジョアジーと深い利害関係をもっていた。

すでに三部会が開会される以前から、第三身分代表者はさまざまな形で差別待遇をうけていた。僧侶や貴族の代表者は、国王に一人一人挨拶をすることができたが、第三身分の議員は、ひとまとめにして国王にお目通りをさせられた。三部会の会場に入るときも、僧侶と貴族は正式の戸口から入場させられたが、第三身分の代表者は、小さな裏門から入場させられた。

肝心の開会式では、国王が三部会を独立した権力機関としては扱わず、国王の命令のもとに、財政赤字解消の方法に努力するべきものという立場から説教しただけであった。人数別の採決か身分別の採決かについても、口をつぐんだままであった。財務総監ネッケルの演説でも、財政の状態についての数字上の説明が長々とつづき、根本的な改革案についてはふれるところがなかった。

ネッケルは財政状態の深刻さをわざとかくして、ある程度の改革でなんとかなりうるものという調子で演説をした。しかし、実際は深刻な赤字であり、ヴェルサイユに到着した三部会の議員にたいしても、一人八〇〇リーブルの俸給の支払ができず、四カ月間、俸給支払は停止されたままですぎていくことになる。

こうした状態に、第三身分代表者はいらだちを感じ、それそれのグループを作って対応策を協議しはじめた。さしあたりの大問題は、人数別採決か身分別採決かであった。身分別採決をするのであれば、第三身分代表者数を倍化したことには意味がなかった。あくまで人数別採決にもちこむことが必要であったが、第一身分と第二身分の議員は、それぞれ別の部屋で資格審査をおこなっていた。第三身分の代表者は、人数別採決の突破口として、資格審査を全員で、すなわち身分別ではない方法でおこなわせようとして、第一身分、第二身分に働きかけた。

この問題をめぐって、かれこれ一カ月の時間が過ぎていった。

第三身分の議員は、しだいに国王と貴族、僧侶の保守派にたいする反撥心をつよめた。その結果、六月一七日ミラボー伯爵とシエース副司教の提案により、自分自身の名称を「国民議会」とよぶことに決定した。そのうえで、国民議会の権限についていくつかの決議をおこなった。国王と国民議会の間にはいかなる拒否権もないこと、国民議会を否定する行政権力はありえないこと、国民議会の承認しない租税徴収は不法であり、いかなる新税も、国民議会の承認なしには不法であると宣言した。ただし、現在の租税については、不法ではあるが、国民議会が解散されるまでは一時的に合法性を与えると決議して、現状を一時的に承認した。こうした租税徴収についての宣言は、どのフランス革命史にも書いてあることで、常識的なものになっている。

だが、もう一つの宣言は、どの革命史にも紹介されていない。しかし、フランス革命の本質を知るためには、より以上に重要なものである。それは、国債の安全を宣言したものであり、ブルジョアジーの破産を救うべき性質のものであった。

「国民議会は、王と協力し、王国の再生の原則を定め、公債の点検と長期公債への借り換えに従事し、これ以後、国家の債権者に名誉を与え、フランス国民の信義にかけて彼らを保護することを宣言する」。

租税徴収権が財政収入をめぐる基本的課題であるとするならば、公債や国庫への債権の問題は、財政支出をめぐる基本的な問題点であった。絶対主義時代の王権は、破産に直面すると公債を切りすて、国庫への債権者をふみにじることによって、危機を切りぬけてきた。それに歯止めをかけたのであるから、財政政策の逆転をねらったものであり、王権にとっては致命的なものであった。


国民議会解散の計画

こうした第三身分議員の動きについて、僧侶部会が影響をうけた。多くの司祭と少数の司教が、第三身分への合流にかたむいた。貴族部会の大多数は、第三身分の行動に反対であった。六月一九日、貴族部会はクロワ公爵の提案により、第三身分議員の決議にたいする非難を可決し、これを国王に提出した。

「彼らは、彼らの宣言を法律にかえる権利があると信じた。彼らは、自分の宣言を印刷し発送した。租税を破壊し租税を再設した。彼らは疑いもなく、王と三つの身分の権力を自分に与えることができると信じた。われわれは、抗議を国王陛下のもとに提出する」。

この決議にたいしては、少数の自由主義貴族クレルモン・トネール侯爵、モンテスキュー侯爵、ラ・ロシュフーコー・リャンクール公爵、エギョン公爵、ラメット伯爵などが反対しただけであった。

僧侶部会は、第三身分への合流を主張する者と、僧侶部会が独自の権限をもつと主張する者の二つにわかれて、激論をつづけた。合同を主張する者は、多くの下級僧侶と少数の自由主義的な高級僧侶であった。その指導者には、ボルドー大司教シャンピオン・ド・シセ、ヴィエンヌ大司教ルフラン・ド・ポンピニャン、シャルトル司教デュヴェルサックであった。

僧侶部会の独自性を主張したのは、高級僧侶の保守派であり、その指導者はパリ大司教ジュイニェ、ラ・ロシュフーコー枢機卿、モーリー枢機卿であった。激論の結果、一四九票対一三五票の少差で合同派が勝った。

敗北した高級僧侶は、事態の重要さを国王に報告して、なんらかの対策をすすめた。翌日の六月二〇日、国王の命令によって、国民議会の会議場が兵士によって閉鎖された。式部長官ブレゼ侯爵が国民議会の集会を禁止し、国王があらためて三部会を召集するという命令を伝えた。しかし、国民議会の議長バイイはこの命令に抗議して、隣接する球技場(テニスコートとよばれているが、現在のようなラケットをもつテニスとはちがう)になだれこみ、ここで国王の命令に反して国民議会の決議を採択した。

「国民議会は王国の憲法を設定し、公共の秩序を再建し、王国の真の原則を維持するために召集されたのであるから、なにびともその決議を妨害することはできない。議員が集まる所であれば、それがどこであろうとも、国民議会を構成することになる。すべての国民議会のメンバーは、憲法が制定され、それが堅固な土台の上に確立されるまでは決して解散しないことを誓う」。

これが、のちに「テニスコートの誓い」と呼ばれた。

六月二三日、三部会が王の命令によって集められることになっていた。この頃になると、すでに四〇〇〇人の軍隊が出撃の用意をととのえていた。これに対抗して、国民議会を応援するべき群集がパリやヴェルサイユから集まり、武力衝突の近いことを示すような雰囲気になった。群集が集まると、軍隊がこれを散らしてまわった。

そのような状態の中で、まず僧侶、貴族の議員が会議場にひきいれられたが、第三身分の議員は、雨の中に立たされたままであった。ついに、第三身分を代表して、ミラボー伯爵が式部頭に「国民を王のもとにみちびけ」とどなりつけ、入場させた。その会議に、国王が高級貴族、近衛兵に囲まれて入場し、国王の方針を演説した。

国王の承認しない議案はいっさい無効であると宣言し、身分別にわかれて決議をおこなうことを命令し、貴族の政治的特権と減免税特権は尊重し維持する決意をあらためて強調した。封建的特権は、財産として尊重することも宣言した。財政面では、新税は三部会の承認なしには実施しないが、借款は一億リーブルにかぎって、国民的危機のときにはおこなうことができると宣言した。

これでは、国民議会との全面的対決であった。国王が退出すると、貴族の大多数と高級僧侶の多数、それに何人かの司祭が退出した。第三身分の議員はぼうぜんとしていたが、そこへ式部長官ブレゼ侯爵が入ってきて、解散の命令を伝えた。ミラボー伯爵が第三身分を代表して、「銃剣の力によらなければ、われわれをここから動かすことはできない」と大声でやりかえした。議員は叫び声をあげてこれに賛成した。ブレゼ侯爵がこの状態を国王に報告すると、近衛兵三中隊を率いて国民議会に進撃し、必要とあれば切りすてよという命令がだされた。この軍隊を迎えたとき自由主義貴族の一団が剣を手にして立ちはだかり、「第三身分代表を救い、彼らとともに死のう」と呼びかけた。その決意のまえに式部長官は動揺し、襲撃をあきらめて軍隊をひきあげた。


王権による譲歩と弾圧政策

この日、国王の周辺は混乱して、強硬派と柔軟派の議論がつづけられた。その中で、ネッケルの罷免が主張されたという噂がながれた。国民議会の会場の周囲を群集がとりかこんでいたが、議員が解散すると、群集が宮殿にむかって殺到した。彼らは「ネッケル!」と叫びながら乱入した。フランス衛兵(パリ、ヴェルサイユの守備隊)は発砲命令をうけたが、服従しなかった。こうした動揺を鎮めるために、ネッケルが宮殿に呼びだされて、「辞職しない」と言明した。群集は彼を歓迎し、邸宅まで連れて帰った。

ネッケル罷免を主張したとみられたパリ大司教は、襲撃されて寺院に避難した。何人かの貴族議員が襲われた。ヴェルサイユは無政府状態に入りかかった。パリでも、大群集がパレ・ロワイヤル(オルレアン公の宮殿)に集まり、街頭でも集会が開かれて、「われわれの議員が危険に瀕している」と叫ばれていた。

六月二四日、王の命令に反して、一五〇人の司祭と五人の司教が第三身分に合流した。これに反対したパリ大司教は、群集に襲われ、家まで追いかけられて石を投げられた。パリ大司教が国民議会に参加すると約束して、やっと群集をなだめることができる状態であった。群集を鎮圧するべき軍隊があてにならないので、六月二六日、宮廷の対策会議がすすめられ、一時的に譲歩しながら時間をかせいで、全国から軍隊を呼びあつめる計画がたてられた。そこで、翌日の二七日、国王はいままでの態度をかえて、貴族と僧侶の部会にたいして第三身分へ合流することを命令した。

このような一時的な譲歩にたいしてすら、貴族部会でははげしい反対があった。多くの議員が、このような王の命令に服従する必要がなく、国王よりはむしろ王制を選ぶのが義務であるといった。ここに、貴族と国王の関係の本質が表現されている。国王はあくまでも貴族階級の第一人者であるべきで、それをはなれた国王を貴族階級は認めることができない。それにしても当時は情勢が不利であった。そこで、貴族部会は、一応王の命令に服従すると答えざるをえなかった。

こうして時間をかせぎながら、軍隊の集結がおこなわれた。宮殿のまわりに大規模な軍隊と武器を集め、警戒体制をとった。当時の記録では、パリが三万人の軍隊に包囲されていると書かれてあった。バスチーユ要塞監獄の総督ローネイ侯爵は城壁に大砲を据えつけ、兵員を増強して、周囲のサン・タントワーヌ街をおびやかした。

ランベスク太公の指揮するドイツ人連隊と騎兵連隊が、モンマルトル高地に出動した。ここに、パリにむけての砲台を作るという噂が流れた。

こうした軍事クーデターのための準備と平行して、一連の強硬政策が秘密のうちに準備され、それが噂となって流れた。御前会議で、三部会の解散、議員を自宅へ強制送還すること、財務総監ネッケルの罷免、一〇億リーブルの強制借款、ロレーヌをオーストリアに六〇〇万リーブルで売却することなどの政策がきめられたといわれた。これはほぼたしかなことであった。

強制借款はブルジョアジーを破産させる政策であり、三部会の解散は国民議会の権力を否定して、国王と貴族の絶対主義的権力を再確認する政策である。ネッケル罷免も、ブルジョアジーを保護しようとする政策をやめさ

せるためである。こうした噂がパリに流れると、パリではますます反抗的な気運がたかまった。


宮廷貴族の軍事クーデーター

国王が頼みとする軍隊に動揺が広がり、これにパリ市民が積極的に働きかけた。すでに、軍隊にたいする給料支払が遅れていた。近衛兵すらが不満を口にし、フランス衛兵の兵士は、将校の命令に従おうとしなくなった。

兵士と下士官がパレ・ロワイヤルに行進して、群集と挨拶をかわし、第三身分万歳と唱えて帰るようになった。

軍隊の中に王権に抵抗するための秘密クラブがつくられ、これが発覚して関係者が逮捕された。そうすると、六月三〇日、パレ・ロワイヤルにいた二〇〇人あまりのブルジョア達が救出を叫んで行進した。たちまち群衆は

四〇〇〇人にふくれあがり、その先頭に、何人かの労働者が鉄棒をもってたった。牢獄に到着して門をこわし、逮捕されていた者を釈放した。急を聞いてかけつけた竜騎兵と軽騎兵それぞれ一中隊が、はじめは剣を抜いていたが、群集と対峙すると剣をおさめ、脱帽して挨拶をかわし、ぶどう酒で乾杯して、国民万歳と唱えた。この事件で、国王もフランス衛兵連隊長デュシャトレ公爵も、群集の力におされて処罰を撒回せざるをえなかった。

時がたつにつれて、ますます軍隊の士気が乱れ、兵士、下士官がパレ・ロワイヤルに出入りすることが多くなった。もし、軍事クーデターの計画を先にひきのばすと、パリ市民がすべての軍隊を脱走させるだろうという心配がおこり、宮廷の側は早急な決断を迫られた。

七月一一日、国王と宮廷貴族は思いきった勝負にでた。ネッケルとネッケル派の大臣モンモラン伯爵、ラ・リュゼルヌ伯爵、サン・プリースト伯爵、ピュイセギュール伯爵を罷免した。ネッケルにたいしては、ひそかに国

外に退去せよという命令がだされ、彼はそれに従った。

かわって、宮廷貴族の強硬派が大臣をかためた。財政審議会議長にブルツイユ男爵、財務総監にフーロンが就任した。ブルツイユ男爵は名門の宮廷貴族で、マリー・アントワネットの寵臣であり、抜群の行動力をもってい

て、宮廷貴族の頼みの綱と考えられていた。

軍事クーデターのための軍事指導者として、ブローイ(ブログリオ)公爵(元帥)が総司令官兼陸軍大臣となった。彼も軍事的才能を高く評価されていた人物であり、ヴェルサイユ宮殿を野営地にかえて、戦場にのそんでいるように命令を下してまわった。パリに駐屯する軍隊の司令官にはブザンヴァル男爵を任命した。彼は、レヴィヨン事件を弾圧した軍人であった。ブローイ元帥はブザンヴァルに対して、パリで暴動が起こったときの戦略について指示を与えた。

「下層民がケース・デスコントと国庫のまわりに集まるようなことがあれば、全兵力をあげてこれを守るように」。

貴下がパリで最初の運動をみるやいなや、スイス兵団を国庫と株式取引所に進撃させてこれを守れ。全般的騒乱が起こると、パリの全部を守ることは不可能であるから、株式取引所、国庫、バスチーユ、廃兵院を守るにとどめること」。

この命令は、軍人らしい簡にして要を得た指令である。ブローイ元帥が、すでにパリ市民との純軍事的衝突を想定し、それに勝ちぬきながら、国家財政の実権だけをまず確保しようとした姿勢がうかがわれる。

こうした戦略をみると、フランス革命史でよくいわれるように、ルイ一六世は無能であったとか、宮廷貴族は皆女性的でなすすべを知らなかったというような描き方は、正確でないことがわかる。宮廷の側にも、行動力が

あり、軍事的才能を十分に発揮できる人物はいたのである。


革命の成功

国民議会は軍隊の撤退を国王に要求した。パリの選挙人代表がヴェルサイユにきて、ネッケルの罷免に抗議した。しかし、国王はそれを拒否して、「もしパリになんらかの騒乱があれば、それはお前達の責任だ」と答えた。パリでは、国王の命令として外出禁止、集会の禁止が布告された。

パレ・ロワイヤルでは、王の布告を無視して大群集が集まっていた。七月一二日、軍隊が出撃をはじめた。パレ・ロイヤルでは、カーミュ・デムーランが「武器をとれ、市民よ」の言葉に象徴される有名な演説をおこない、軍事的抵抗以外に救われる道がないことを煽動した。

この群集が、ネッケルとオルレアン公爵の胸像をかついで五、六千人となり、街頭にでて竜騎兵と衝突した。胸像はこわされ、小銃が発射され、石が投げられて双方に死傷者がでた。パリの関門ではドイツ人連隊が発砲し

て、一人が死に、多くが負傷した。

司令官ブザンヴァル男爵はパリに散らばっていた軍隊をルイ一五世広場に集結した。群集はチュイルリー宮殿に集まったが、これをめがけて竜騎兵で突入するようブザンヴァル司令官はランベスク太公(ドイツ人連隊長)に命令した。竜騎兵の突撃にたいして、群集はバリケードを築き、石やビンを投げて抵抗した。ランベスク太公もサーベルで群集の一人を傷つけたが、抵抗がはげしくて竜騎兵は後退をした。

パリ市民の恐怖感が高まり、警鐘が鳴らされ、武器商店が略奪され、「武器をとれ」の叫び声がパリをかけぬけた。フランス衛兵の兵士が群集の側に加担して、ドイツ人連隊を襲撃し撃退した。こうした混乱の中で、治安を維持する必要があり、パリ選挙人会議は常設委員会をつくり、新しいパリの権力機構を組織しはじめた。

七月一三日の夜警鐘が鳴らされ、国民議会の多数が逮捕されかかっているとか、パリ選挙人の多数も逮捕されるだろうという噂が流れた。国王の側は、国民議会の指導者を絞首刑にすることも考えていた。軍隊の離反をくいとめるために、ヴェルサイユでは貴族、貴婦人が兵士の中に入り、金とぶどう酒を配って歩いた。

七月一四日、ふたたび軍隊が出動しはじめると、パリ市民の側も恐怖につつまれ、群集がフランス衛兵とともに廃兵院におしかけ、約三万の小銃を奪って分配し、バスチーユ要塞監獄にむかった。ここで一〇〇人近くの死者をだしたが、占領に成功した。

バスチーユは、かつて政治犯の収容所であり、この中に王権に抵抗した政治犯がとじこめられているとみられたが、占領してみると、普通の犯罪人ばかりであった。その意味では、バスチーユ襲撃は見当ちがいであったともいわれる。しかし、それとは別な意味があった。城壁から大砲をのぞかせて周囲の町をおびやかしていたこと、内部に武器弾薬を貯えていたことは、それなりの軍事的目標になって当然のことであった。

バスチーユ占領は、国王の軍隊とパリ市民の軍事力の優劣を示す象徴的な事件であった。国王の軍隊がパリ全体で敗北しただけではなく、フランスの地方都市でも国王の軍隊が敗北した。多くの地方で軍隊に反乱が起こり、国王の側はこれ以上軍事的行動を続けることができなくなった。バスチーユは、そうした情勢の象徴であった。

国民議会議長ラ・ロシュフーコー・リャンクール公爵がパリの情勢を報告し、バスチーユの陥落を告げたとき、国王は「一揆だろう」といった。それにたいして、公爵は「いえ陛下、革命でございます」といったという。これは、ものごとの本質を端的に表現している言葉である。

要約 第二章の三 民衆がバスチーユ要塞監獄を襲撃し、占領したというのは間違い

どの本でも、教科書でもこう書いているが、間違いです。なぜなら、こう書くと、パリでの動きと、ヴェルサイユで行われていた国民議会(三部会の第三身分=平民代表)と王権の対立抗争の歴史が連動しません。財政問題を軸にして、三部会が招集されたのだから、それの結果としてバスチーユ占領がないとおかしい。ところが、いきなり民衆がという説明では、話に首尾一貫性がない。(一貫性を感じない人が多いのかな。私は少年時代から、なんだかおかしいと感じていました)。

まず三部会で様々な小競り合いがあった

貴族、聖職者は正門から、第三身分は裏門からという差別待遇から始まる。財政赤字はたいしたものではないといいながら、議員への給料が支払われない。こういうことは知らなかったでしょう。集まったところで、「討論する必要はない。こちらのいうことを承認するだけでよい」などといわれる。採決方法は「身分別」だといわれる。これで第三身分代表は激怒した。こういういきさつを書いている。

テニスコートの誓いへの道

テニスコートの誓い、これはどこにでも乗っている。しかし、この「財政赤字」に直結する内容は紹介されない。憲法制定などの法律的、政治的内容を知らされる。それだけでは不十分だということで、ここでは財政面のことが書かれている。まず自分らを国民代表の国民議会だと自称し、租税徴収の権限を持っているとした。これをいうことは、貴族に対する減税、免税の特権を廃止するという意味であった。もう一つ、国家に対して貸し付けたお金は保護されると宣言したことである。これが非常に重要なことで、国王を取り巻く大貴族たちは、国家の破産を宣言して、「破産したから返さなくてもよい」という政策を実施するつもりでいた。これをされると、商人、銀行家は破産する。その手前の政策として、利子支払い停止というのもある。現代社会でも、いくつかの国家がしてきた。これらをされると、破産者が続出する。この政策を阻止すると宣言した。これが、パリの実業家たち切実な願いであた。

7月11日の政変

こうした国民議会の動きを、機先を制して抑え込もうとした計画が、7月11日の政変であった。断固たる行動をとるという保守派で固めた政府を作り、妥協的な財務総監ネツケルヲ罷免し、国外追放にした。これで情勢が激変した。新政府は大貴族(大領主)の超保守派、しようとすることは分かっている。パリの財界指導部は経済活動を停止して、抵抗運動に向かった。それが具体的に書かれている。民衆を掻き立てただけではなくて、自分たちも武装し、パリ駐屯軍(フランス衛兵)に出向いて、お金を出すから、味方に付いてくれと頼んだ。その結果、ヴェルサイユから進軍してきた国王の軍隊と衝突し、戦闘の結果勝つことができた。だからバスチーユ占領は国民議会と連動している。目的は、財政赤字の責任を、どちらに押し付けるかの戦いであり、そのためには権力を取るしかなかった。だから民衆が主体ではなくて、財界が主体であった。こういうことをはっきり書いている。

07-フランス革命史入門 第二章の二 三部会招集をめぐる紛争

二 三部会召集をめぐる紛争


ブリエンヌの弾圧政策と抵抗運動

一七八七年四月、財政はブリエンヌ伯爵にまかされた。彼はツールーズ大司教であった。高級僧侶で名門の宮廷貴族が、財政運営の正面にたったのであるが、財務総監としてではなく財政審議会議長として、財務総監に命令する立場にたった。財務総監には、はじめヴィユドゥイユ伯爵を据え、のちにランべールに代えた。

ブリエンヌは実質的な首相に近い権力をにぎり、財政状態の改善をめざして必死の努力をした。まず、終身年金の新設による借款をおこない、つづいて土地税のかわりに印紙税を提案した。印紙税こそは、貴族よりブルジョアジーにたいして負担が重く、アメリカ独立革命のロ火を切らせた悪税である。それをあえて提案せざるをえなかったほど、身動きのつかない財政状態に追い込まれていた。

印紙税にたいしては、高等法院の勢力が反対運動の先頭に立った。パリ高等法院はこの命令の登録を拒否した。ブリエンヌは、国庫破産に直面して四億二〇〇〇万リーブルの公債増発を発表した。このとき、オルレアン公爵がこの公債は不法であると抗議し、国王に対立した。一七八七年一一月二〇日のことであった。翌日、オルレアン公爵はパリから追放された。高等法院は、国王の措置にたいして抗議行動を起こした。

こうして、オルレアン公爵に代表される自由主義貴族と、高等法院の勢力が同盟して王権に対決してきたので、王権の側は、高等法院を抑圧することにきめた。この計画は、ブリエンヌと法務大臣ラモワニヨンによって立案された。高等法院を追放し、そのかわりに全権裁判所を新設して、これを宮廷貴族の中から任命された司法官によって組織した。こうして、長い伝統のあった法服貴族から司法権がとりあげられ、宮廷貴族の手におさめられた。

しかし、この措置は全国的な動揺をひきおこした。さしあたり、反対運動の先頭に立ったのは貴族であったが、しだいにブルジアジーを巻きこみ、さらに下層の人民を騒乱状態の中にひきいれていった。

ラファイエット侯爵はアメリカ独立戦争に参加し、陸軍少将で、自由主義貴族の代表者であった。彼はオーヴェルニュとブルターニュに領地をもち、それぞれの地域で影響力をもっていた。彼の指導のもとで、オーヴェルニュの地方議会がブリエンヌの政策に抗議声明をだした。ブルターニュでは、地方貴族と高等法院が同盟して貴族の集会を開き、一二名の代表をヴェルサイユへ送り、国王に抗議させようとした。しかし国王は、一七八八年七月一五日、これらの代表をバスチーユ要塞監獄に投獄した。

この事件でラファイエットは軍籍をうばわれた。ラファイエットに同調した数名の宮廷貴族が国王から恩寵を与えられる権利をうばわれた。六月には、べアルンの貴族が、追放されていた高等法院の判事を実力で救出した。

同じ六月に、ドーフィネの中心都市グルノーブルで、「屋根瓦の日」といわれた騒乱事件がおきた。グルノーブル高等法院が追放されようとしたとき、市民が国王の軍隊にたいして屋根瓦をなげつけて撃退し、高等法院を守った事件である。このとき、高等法院の判事達は、市民の運動をきらって国王の命令にしたがおうとしたが、市民の運動にひきとめられるような形になってしまった。



三部会召集の圧力

そのあと、七月二一日有名な「ヴィジル決議」がおこなわれた。「屋根瓦の日」に指導的役割を演じたムーニエとバルナーヴが、大工業家クロード・ペリエのもつヴィジル城に非合法の州三部会を召集した。将来召集されるべき三部会では第三身分代表者の数を二倍にし、身分別投票をなくして人数別投票とすること、そのような三部会が召集されるまでは納税を拒否するというものであった。このとき、五〇人の僧侶、一五六人の貴族、二七六人の第三身分代表者が集まり、議長には名門貴族を据えたが、書記にムーニエがなった。

ここで、ムーニエが革命家としてはなばなしく登場してきた。彼は、グルノーブルの裕福な毛織物商人の子で貴族の資格をもち、判事の職を買いこんだ法服貴族の一人である。彼の盟友バルナーヴは、同じく検事の子で、弁護士をしていたから、ともに法服貴族の階層に属していた。

全国的な反対運動のために、増税は成功せず、公債を自由な形式で募集しても、もはやこれを買いいれてくれる者がいなくなった。一七八八年八月のはじめ、「国庫は空になるだろう」という報告をブリエンヌはうけた。

窮地に立って、病院を建てるための寄付金とか雹害被害者にたいする救済基金までも使いこんだ。こうなるともはや財政のルールを無視したことになる。それでも足りずに、ついに国庫支払の停止をしなければならない日が迫ってきた。

ここにきて、ブリエンヌは八月一六日、国庫支払についての新しい命令をだした。現金支払は一部分だけとして、その他を国庫証券でおこなうというのである。このような時期に受け取る国庫証券は、たちまち下落してしまう。この証券を受け取った銀行家や商人が、それぞれ商品を買い入れようとするとき、だれもその証券を受け取ってくれない。つまりは、銀行家や商人の破産がひきおこされることに通じる。

この命令は、ブルジョアジーの中に恐慌状態をひきおこした。二日後にブリエンヌはケース・デスコント紙紙幣の強制流通を命令した。

パリでは、ケース・デスコントの紙幣をもつ者が現金とのひきかえを要求して殺到し、取付けさわぎをひきおこした。こうして、パリは騒乱状態になった。しかも、国庫には五〇万リーブルの資金しか残らず、政府は破産の危機に直面した。こうした責任をとらされて、ブリエンヌが辞任させられた。

国王と宮廷が当てにするべき者としては、ネッケルしかいなかった。国王も王妃も個人的にはネッケルを嫌っていたが、国家破産の脅威をつきつけられると、彼を呼びもどす以外にはなかった。ネッケルの立場は強くなった。彼は財務総監就任の条件として、高等法院の追放を解除し、三部会を召集することをもちだした。国王は屈伏して、翌年の五月一日に三部会を召集すると約束した。

ネッケルが財務総監に就任したとき、その歓迎はかつてなかったほどであった。パリは街灯を照らしてネッケルを歓迎し、国債の価格は三〇パーセント上昇した。ケース・デススコントの株価も、三五五〇リーブルから四三〇〇リーブルに上昇し、事業が活気をとりもどした。財政赤字については、ネッケルの個人的な信用を利用してケース・デスコントから資金を借り入れ、当面の破産を回避した。こうして、世人の関心の的は、三部会の選挙へと移った。


貴族革命論の誤り

ここまでの運動を貴族革命と定義する学説が盛んである。これは、ルフェーブルが強調したものであるが、日本の学者が積極的にとり入れ、最近かなり通説の段階にまで広がってきた。三部会の召集を王に認めさせるところまで運動を進めたのが、法服貴族、地方貴族、自由主義貴族であり、つまりは、貴族が国王に反抗して三部会の召集をかちとったのであるから、これは貴族の反抗であり、貴族革命であったというのである。

しかし、この考え方は完全な誤りである。なぜなら、国王の側にもまた貴族がいて、しかもそれが貴族の主流であったからだ。ブリエンヌ伯爵(大司教)が政治的代表者であったが、その裏に一流の貴族達がひかえていた。彼らは、三部会の召集にすら反対であった。ラファイエットが名士会で三部会の召集を要求したとき、完全に孤立した発言にとどまり、議長のブルボン公爵から「なんと貴下は三部会の召集を要求するのか」といわれた。宮廷貴族の本流の中では、三部会の召集を口にすることすら、危険きわまりない思想だと思われたのである。

貴族全体が三部会の召集を要求したのではなく、貴族の中のある分派がそれを要求し、他の分派は反対していたのである。しかし、全国的な騒乱状態と、国庫が空になるほどの財政危機をつきつけられたときに、反対派が国王とともに譲歩せざるをえなくなったというのが真相である。これを貴族革命というと、貴族全員が国王に反抗したかのように受けとられて、はなはだしい誤解をまねく。そうではなく、最強の貴族集団にたいして、野党的な貴族が反抗し、それにブルジョアジー以下の抵抗運動が合流したものと解釈するのが正当である。

そして野党的な貴族とは、宮廷内で冷遇されている自由主義貴族、宮廷にすら入れない法服貴族、これに地方貴族が加わったものであり、それぞれの思わくをもって反抗したのである。自由主義貴族は、反抗運動にのって宮廷での指導権をにぎりたかった。法服貴族は、司法権の拡大強化をのそんでいた。地方貴族は、古い分権的封建制の復活をのそみ自分達の境遇の改善を夢みていた。このようなさまざまな目標をもった貴族達が、宮廷貴族の本流に対決して、さしあたり、三部会召集の要求と、ブリエンヌの政策にたいする反対で足並をそろえただけであった。これは貴族革命というべきものではなく、貴族内部の分派抗争に、ブルジョアジー以下の反抗運動が絡みあってきたものというべきである。


三部会選挙をめぐる騒乱状態

三部会の召集が決定されたあと、その形式についての争いがはじまった。一七八八年七月二五日、パリ高等法院は、三部会が一六一四年の形式で召集され、組織されるべきであると声明した。これは僧侶、貴族、第三身分それぞれ同数の議員で三部会を構成し、採決を身分別でおこなうことを意味した。これでは、第三身分が少数派になってしまうかもしれない。

高等法院があえてこの方針を打ちだしたのは、彼ら自身もまた貴族であり、第三身分とは一線を画したかったからである。高等法院としては、第三身分を支配しながら、宮廷貴族の権力を削減して、自分達の手で新しい貴族支配の国を作ろうというもくろみがあった。これに気がついた第三身分は、高等法院を裏切者と考え、攻撃をはじめた。

「公衆の討論は様相をかえた。王、専制政治、憲法に関するものは副次的問題となり、第三身分と他の二つの身分との闘いが主なものになった」

とマレ・デュパンが書いた。各地ではげしい論争がおこなわれ、自由主義貴族とくにラファイエット侯爵、ノアイユ子爵、カステラーヌ公爵、タレイラン司教などが、第三身分の代表数倍加を承認するように高等法院に働きかけた。

高等法院の中にも譲歩を主張する者が多くなり、とくにデブレメニルとデュポールがその先頭に立って動いた。その動きにおされて、高等法院の保守派も譲歩することに決意して、一二月五日第三身分代表者数の倍加を認める声明をだした。これで高等法院と第三身分の決裂は回避された。

「高等法院は国民となった。すべての人々はデブレメニル氏によって提案されたこのすばらしい命令に賛成している」。

一二月一二日、名士会が召集されてこの問題を討議した。多数は第三身分代表者数倍加にたいして反対を唱えた。とくに王弟アルトワ伯、コンデ太公、コンチ太公、ブルボン大司教、アンギアン公(コンデ太公の孫)の五人は、宮廷貴族のトップを代表して反対を声明した。

一二月二七日の閣議では、はげしい討論がおこなわれた。ネッケルは第三身分代表者数の倍加を主張し、これにネッケル派の大臣が賛成した。国王と王妃も、反対をひかえて承認せざるをえなくなった。この結果、一七八九年一月二四日、三部会の召集と選挙の規則が公布された。

三部会の選挙戦は、各地での騒乱をともないながらすすめられた。その騒乱の内容には、さまざまなものがあった。ブルターニュでは貴族が第三身分の勢力と衝突し、武装して議事堂にたてこもったことがあった。多くの州で、僧侶貴族と高等法院が同盟して、第三身分と紛争を起こした。ブザンソン市では、高等法院が群集から略奪された。しかも、その地の軍隊は、自由主義貴族の指揮下にあったので鎮圧に出動しなかった。

農村では、領主にたいする反乱が拡大していった。一七八八年一〇月、ブルターニュ州知事ベルトラン・ド・モルヴィルが、

「民衆の反乱は王権にたいしてではなく、貴族や土地所有者にたいしてむけられた」

と報告している。農村では、領主の封建的特権にたいする反乱とか、大土地所有者にたいする貧農の反抗とかいった農村独自の問題点をめぐって、騒動が拡大しつつあった。これは、第一身分第二身分対第三身分の争いとか、王権=宮廷貴族にたいする他の勢力の対立といった図式とは別に、ある程度、農村における独自の階級対立が尖鋭化したものであった。


レヴィヨン事件

パリでは、レヴィヨン事件とよばれる暴動が発生した。一七八九年四月二七日、三部会の選挙戦の最中に、第三身分の議員候補者レヴィヨンの家を群集が襲撃し、これに軍隊が発砲した事件であった。

レヴィヨンは壁紙製造の工場主で、三〇〇人の労働者を使い、当時としては大工業家であった。彼が、労働者の賃金引上要求にたいして、「労働者は黒パンとソラマメを食っておればよい。麦などは食うものではない。日雇、職工は一五スーあれば立派にくらせる」といったので、労働者が反乱を起こしたといわれている。

そうすると、この事件は、工場主対労働者の階級闘争であったかのように思われる。建物を占拠した群集にたいして、ブザンヴァル男爵の率いるパリ守備隊が発砲し、五〇〇人の死傷者をだし、軍隊の側も九二人の死傷者をだした。騒動に参加した群集は、一時数千名に達したといわれるから、当時の大事件であった。

ところが、この事件の評価は、歴史家によってまちまちである。ソブールの『フランス革命』では、この事件はとりあつかわれていない。マチエの『フランス大革命』では、この事件を、ブルジョアジーと貴族を含む有産階級にたいする労働者の対立として、現代的な意味での階級闘争のように紹介している。

しかし、事件の背景はもっと複雑であった。レヴィヨンの工場を襲撃した者が、そこで働く労働者であったとう証拠はほとんどなく、よそから来た労働者、職人、その他下層階級の者であった。それから見ると、新式の大工場と没落しつつある手工業者の対立が、爆発したものと解釈できる。レヴィヨンの新式工場が設立されるときでも、壁紙製造の同業組合が、同業組合の特権にたいする侵害であると抗議した事件があり、その延長として、新式工場にたいする手工業者の反感が底流にあった。

それに加えて、誰かが金をばらまいて群集を煽動したともいわれている。騒動に参加した者の多くが、一二リーブルをもっていて、死にぎわに、「神様、たったあの情けない一二リーブルのためにこんな目にあわされるとは」といった男もいた。

それでは、金を与えて煽動した者は誰であるかというと、さまざまな解釈がのこされている。オルレアン公が煽動したという説と、ロワという僧侶がレヴィヨンと訴訟関係にあって、恨みをはらすために金を群集に与えたという説がある。もう一つは、宮廷の側がこの運動を助長したという解釈がのこされていて、これが意外に納得できるものである。

はじめ群集がレヴィヨンの家を包囲したとき、軍隊はすぐには出動せず、騒動が拡大してからやっと行動を開始した。レヴィョンは第三身分の代表者として、第三身分代表者数の倍加のために積極的に発言した。その意味では、彼は王権に対立する革命家の一人として登場しつつあった。事実、フランス革命がはじまると、彼は愛国者としての待遇をうけ、一七九〇年には工場を再建して、革命政府に紙幣のための紙を供給している。

彼は、フランス革命の側に立ったブルジョアジーの一人であった。王権の側からみれば、レヴィヨンこそが危険人物であった。彼を背後から攻撃した貧民の運動を一時的に大目にみて、国王に敵対すれば、貧民の暴動から守ってくれる者がいないことを思い知らせようとした策略とみることができる。

しかし、暴動が拡大して、貴族とブルジョアジーを含めた全有産階級にたいする運動に転化しはじめるやいなや、これを鎮圧することを決意したと解釈するのが適当であろう。その意味で、レヴィヨン事件をフランス革命の前史として扱うことはできない。むしろ、その後にくる恐怖政治の時代の、貧民の暴動の前史として理解することができる。

要約 第二章 二 三部会招集を巡る紛争・ブリエンヌの弾圧政策と抵抗運動

この部分を普通の概説書でいうと、「財政破綻になり、三部会招集が要求され、次に第三身分の人数倍加が要求され、その方針のもとに選挙が行われて、1789年5月5日ヴェルサイユに三部会が招集された」という文章に要約される。。しかし、実際にはそう簡単にいくものではなかったことが紹介されている。まず、三部会絶対反対という集団があった。大貴族、(大領主)の主流派、コンデ大公家以下多数がこれで、、ラファイエット侯爵など少数の反主流派が商人、銀行家の味方をして、「正義の味方」として、時の権力者にはむかったのだ。その具体的実例を紹介している。

ブリエンヌの財政政策

少し詳しいフランス革命史なら、この名が登場する。だから、さらに詳しい要点を紹介した。彼は伯爵、大領主、大貴族、大司教、つまり、第一身分でもあり第二身分でもあった。財務総監として名が出てくるが、実際には財政審議会議長、財務総監を指揮監督できる。実質首相であった。彼の出してくる手段は、商人、銀行家に負担をかぶせて、困難を切りぬけるというものであった。だから、ことごとく反対に出会う。反対派はラファイエットのような正義派の貴族、野党的な法服貴族、地方貴族などであった。その具体的な状態が紹介されている。

屋根瓦の日、ヴィジル決議

フランス革命史に残る二つの事件が紹介されている。三部会招集、第三身分人数倍加、これが全国に先駆けて、華々しく打ち上げられた。今ではフランス革命の先駆けとして、高く評価されている事件であった。

クロード・ペリエの名を記憶しておいてほしい

この点を強調するのは、数ある歴史家の中で私だけです。グルノーブル(ドーフィネ州)の商人上がりの城主(ヴィジル城)、領主、一代限りの貴族、当時のこの行動は、危険極まりない反体制的行動であった。悪くすると、バスチーユ行き、拷問、処刑が待っている。.そのうえ、大勢の貴族、財界人を自分の城に招いて、大宴会をする。莫大な支出になる。こういうかけを、彼は生涯に一回だけした。あとは実業に専念し、。貿易から、工業へ進出し、銀行業を起こし、息子はカジミール・ド・ペリエという、貴族銀行家になった。だが、1830年の七月革命で、二代目首相兼内務大臣になり、閣議の議長を自分が勤めた。つまり、40年のちに、クロード・ペリエの息子がフランスの最高権力者になった。ここに革命の実態があると私は言う。

貴族革命説の誤り

いわゆる貴族革命説は誤りだという。確かに王権に反抗した貴族はいる。しかしそれは主流派ではない。理由は様々ではあるが、反体制的な気分を持った貴族が、庶民(大商人といえども、貴族から見ると庶民になる)の味方になってやろうと思った、その時の行動が、歴史では大きく取り上げられる。主流派の貴族については語られなくなる。こうして、倒錯の歴史観が出来上がる。この流れの中で、「貴族革命説」なども出てくる。それは間違いだといっている。


06-フランス革命史入門 第二章の一 革命の原因―財政の破綻

第二章フランス革命の開始


一 革命の原因-財政の破綻


基本的原因は何か

フランス革命が、第一身分(僧侶)、第二身分(貴族)にたいする第三身分(平民)の闘いであるというようないい方も多いが、このような形で割り切れるものではない。僧侶の中には、高級僧侶から下級僧侶まであり、下級僧侶ははじめ平民の側に立ったからである。

第二身分の貴族にしても、宮廷貴族、地方貴族、法服貴族に加えて、ブルジョアから成り立った商業貴族があり、お互いに対立していた。宮廷貴族の中でも、権力の中枢にいるものとはずれたものとがあり、はずれたものは、自由主義貴族となって国王にさからってきた。

革命の直前には、地方貴族や法服貴族、それに自由主義貴族と商業貴族を加えたものが三部会の召集を要求して王権と対立した。そのために、この段階では貴族革命であったと主張されるほど、王権との対立抗争を演じた。

しかし、これは貴族革命ではなくて、王権をとりまいた宮廷貴族の本流にたいする、他の貴族の連合であり、貴族階級の内部抗争というべきものである。

第三身分もまた、複雑な内部対立を含んでいた。第三身分のトップにたつ上層ブルジョアジーでも、貴族の資格をもち領主となっている者と、貴族の資格をもたず、領地ももたず、ただ農村には保有地をもつだけといった者もある。そうすると、領主権の廃止とか、貴族の称号と特権の廃止をめぐって、ブルジョアジーの内部抗争がありうる。事実、これがのちのフィヤン派とジロンド派の対決点になる。

中・小ブルジョアジーと上層ブルジョアジーの間にもまた、さまざまな形での利害対立がある。そして、それらを含めたブルジョアジーと、そのもとで働いている労働者の間にもまた、賃金、労働条件をめぐる階級闘争がある。

手工業者とブルジョアジーの対立もあった。ブルジョアジーとくに大工業家が生産を増加させると、同業の手工業者が没落する。このような形の対立は、レヴィヨン事件となって、三部会召集の最中にひきおこされた。手工業の中でもまた、親方の組合と徒弟、職人の対立があり、ときに流血の闘争に発展している。

農村でも、領主にたいする土地保有者(所有者)の対立があるが、土地保有者の中にもまた、大、中、小の対立があり、大土地所有者のもとで働く貧農、農業労働者は、領主であろうと土地保有者であろうと、すべてを含めた大土地所有者の勢力との間に利害対立をもっていた。

このような複雑な対立がありながらも、その対立が、つねに無秩序に動きまわっていたわけではない。対立を内に秘めながらも、日常生活においては使う者と使われる者の協力関係、あるいは取引関係があり、社会的な慣習のうえにたって、さまざまな形での協調がすすめられていたのである。

そうした対立と協調のうずの中にあって、フランス革命という大事件が進行したのであるが、そうしたばあい当然一連の事件の原因は、副次的な原因と基本的な原因に分類されるべきであろう。さまざまな運動が起こったとしても、それがなければフランス革命は起こらなかったというべきものと、それがなくてもフランス革命は起こったというべきものに分類できるはずである。


宮廷貴族の財政的特権

フランス革命の根本的な原因は、国家財政の破綻であった。これがなければ、フランス革命は起こらなかったはずである。だから、フランス革命の展開と結果もまた、この問題を軸にして観察するべきである。三部会の召集を王に決意させたのも、財政の赤字であった。

一七八八年の八月、すでに「国庫は空になるだろう」といわれた。そのころネッケルが財務総監に就任したが、国庫には五〇万リーブルの資金しか残っていなかった。国王はこの財政窮迫の打開をネッケルに頼もうとしたのであるが、その交換条件として、ネッケルが三部会の召集を要求した。国王と宮廷貴族は、いやいやながら譲歩したのである。三部会の召集は財政危機のもたらしたものであるが、バスチーユ襲撃をひきおこしたのもまた財政問題であった。そこで、フランス革命の説明は、財政問題を軸にして展開しなければならない。

極端な財政赤字がなぜできたかといえば、二つの大きな原因が問題になる。まず財政支出の側では、宮廷貴族への出費がある。すでに、宮廷貴族が、どのような形で国王から巨額の資金を引きだしてきたかをみてきた。こうした宮廷貴族の特権は、国王個人の力をもってしても止めることはできなかった。

極端にいえば、宮廷貴族の国庫略奪である。そのことをルイ一五世が明快に指摘した。

「朕の宮殿での盗みは莫大なものだ。しかしそれを止めるわけにはいかない。多くの高官が盗みに没頭し、すべてを使いはたしている。朕の大臣のすべてがそれを正そうとつとめた。しかし、実施の段階でしりごみをして、計画を放棄した」。

国王が、臣下の宮廷貴族を泥棒呼ばわりしているのである。そこに、財政支出における赤字の原因があった。

これを打ち切ればよいのであるが、打ち切ろうとすると宮廷貴族の反撃にであう。宮廷貴族は権力の中枢をにぎっているのである。国王といえども、これを切りすてるわけにはいかなかった。


貴族の減免税特権

財政収入の側についていえば、貴族の減免税特権が赤字の原因になった。この減免税特権は、さらに二つにわかれる。合法的な減免税と、法律を越えた減免税である。法律による減免税としては、たとえば直接税のタイユ(人頭税)が、貴族は四台のすきで耕せる耕地について免除されていた。

間接税のうち、たとえば酒を中むにしたエード(補助税)は貴族と僧侶が免除されていた。塩税も貴族と高級僧侶が免除されていた。そこで、密造者や密輸人が女子修道院を根拠地にして活躍した。ここには官吏がふみこめないからである。

このような減免税とは別に、脱税も多かった。火事がおこったとか、娘が結婚したとかいって、免税の申請を国王や総督にだして認めてもらう。二十分の一税の台帳に、土地、財産収入を少なく申告して負担をへらす。

この操作は、貴族が総督や知事との個人的なつながりを利用してできた。直接税としてのカピタシオンをぜんぜん払わない宮廷貴族もいた。権力の座にいたから、こうしたことができたのである。

当時の批判として、「もし貴族と僧侶が平民と同じ割合で支払うならば、王の収入は莫大なものになるだろう」という指摘があった。これが、ものごとの本質を正確についている。貴族が、支払うべき租税を支払わず、そのうえ、宮廷貴族が国庫から資金を略奪する。この二つによって、財政の破綻がひきおこされた。合理的に考えるならば、財政の建て直しのためには、貴族の減免税特権を廃止して、宮廷貴族にたいする支出を打ち切ればよいのである。このことを、多くの改革者や請願者が主張していた。

しかし、権力をにぎっているのは貴族、とくに宮廷貴族である。自分の損になるような改革はするはずがない。

宮廷貴族が財政赤字でゆきづまると、別な解決策で切りぬけようとした。それは貴族の特権をそのままにしておいて、ブルジョアジー以下の第三身分にたいする増税をおこなうか、それともなにかの方法で金を吸いあげることであった。増税としては、臨時租税として徴収されたカピタシオンや二十分の一税があった。パリ入市関税の厳格な徴収は、問接税の増徴になった。検査税をきびしくして、工業家や手工業者にたいする増税をはかった。

それにしても、まだ当時、租税を治める者の数はかぎられていて、労働者、日雇農、職人、徒弟などは税金を納めなかったから、増税にも限度があった。そこで、もう一つの方法に頼ったのであるが、これがフランス革命の直接的な引き金となった。


貴族によるブルジョアジーの収奪

それは、俗な言葉でいえば、借金ふみたおし政策である。イギリス革命や日本の幕末のころをみると、同じような意味の政策では、商人に御用金を命じて金をとりあげるという方法がおこなわれた。フランス革命のころは、もう少し信用機構が発達していたので、より複雑な形式をとった。

すでに証券がかなり流通していて、財政赤字になると、さしあたり国債その他の証券を発行して資金を集めることができた。また終身年金の制度があり、その契約金をおさめさせることによって、一時的に国家に巨額の資金を集めることができた。また、王の名前で富くじを発行して、臨時収入とした。さしあたり、このような方法は誰の利益を傷つけるわけでもないから、円滑におこなわれ、赤字の解消に役立つ。

しかし、それだけに、やがては償還しなければならない国債の元本や、利子支払、年金支払のための基金が、財政支出の中の重要項目となってきて、これが大きな負担になる。そのときこの部分を切りすてるのである。この部分は、いわば過去につみかさねられた、ブルジョアジーにたいする債務である。ブルジョアジーは、大口の国債保有者、年金契約の保有者である。彼らは、国家が契約の条件を忠実に守ると信じて、出資したのである。

ところが、財政赤字に直面すると、王権はこれを切りすてようとした。そのときには、国家の破産を宣言するから、これを破産政策と呼んだ。ブルジョアジーから見ると、どのような政府が、あるいはどのような大臣が破産政策をとるかは、過去の実績からよくわかっていた。彼らは、自分の貸付けた金の運命については、もっとも敏感であるのに、たびたびその債権の価値を引き下げられたことがあった。

ルイ一四世の死後、三億三〇〇〇万リーブル以上の赤字が残った。この赤字が財政審議会で処理されたが、そのときの議長はノアイユ公爵であった。このときの政策は、ブルジョアジーにとってきわめてきびしいものであった。政府の発行した証券を検査し、そのうちの約半分を無効と決めて、総額五億九〇〇〇万リーブルから二億七〇〇〇万リーブルに引き下げた。つぎに国債の利子を引き下げた。こうしたことは、今目の社会では考えられないことである。

つぎに、上層の金融業者の財産がどのようにしてできたかを調査するための臨時法廷を作った。国庫との不正取引を調べるというのであるが、取調べが厳重なために、多くの者が自殺をした。このように、ルイ一五世の初期に、ブルジョアジーの財産を傷つけ、彼らを自殺に追い込むほどのきびしい政策がすすめられた。

ルイ一五世の末期には、財務総監にテレー僧院長が就任して、同じような赤字解消政策をおこなった。国庫証券の支払停止を命令し、年金を総額三〇〇万リーブル切り下げ、国庫にたいする貸付金の利子を強制的に引き下げた。これで、多くの商人、金融業者が破産し、自殺者をだした。啓蒙思想家ヴォルテールも大財産家であったが、この政策で二〇万リーブルの損害をこうむった。彼の僧侶にたいする批判ははげしいが、その批判の根源は、まったく思想的なものというよりはむしろ、こうした金銭的な被害によるところが大きいはずである。

他方で、宮廷貴族の年金は切り下げなかったから、テレーの政策は宮廷貴族の利益を守りながら、ブルジョアジーに犠牲を転化するものであった。またテレーは増税を考えたので、パリ高等法院が反対した。そうすると、高等法院を更迭して、パリの・フルジョアにたいする二十分の一税を増徴し、一四〇万リーブルに引き上げた。総徴税請負人に契約金の増加を要求して国庫収入を増やした。これで徴税請負人の利益は削減されることになった。

こうした意味では、宮廷貴族と徴税請負人の間にも、深刻な亀裂が入ることになる。インド会社の配当を制限して、その差額を国庫におさめ、この資金で皇太子(のちのルイ一六世)とマリー・アントワネットの結婚式の費用をひねりだした。こうみてくると、テレー僧院長の財政政策は、国王と宮廷貴族を守りながら、ブルジョアジーとの契約を破棄して、その財産を大きく傷つけたことになる。


チュルゴーの財政改革

ルイ一五世が死に、ルイ一六世が即位すると、テレー僧院長が財務総監を辞任した。これにかわって、新しく改革派の財務総監として登場したのが、重農主義者として有名なチュルゴーであった。そのあと、財政の担当者はクリュニー、ネッケル、フルーリ、ドルメッソン、カロンヌ、ブリエンヌと続き、ついに抜きさしならない段階にきて三部会の召集が叫ばれるようになった。

これらの財務総監のうち、チュルゴーとネッケルが有名であり、概説書にも取りあげられるほどである。そこで、人々はチュルゴーとネッケルが当時の実力者であるかのように思い、彼らの政策が、あたかもルイ一六世の政策であるかのように思うばあいが多いが、これは誤解である。むしろ、後世にほとんど知られていない財務総監クリュニー、フルーリ、ドルメッソンが当時の宮廷貴族の本流を代表した保守派であり、実力派であった。

ややもすると、歴史の中に改革派が大きく取りあげられ、保守派が切りすてられる。これが歴史の誤解をはなはだしくする。個人の才能からいえば、改革派の方がゆたかであり、研究に価する。しかし、だからといって、彼らが当時の社会で実力をもっていたとはいえない。むしろ多くの場合、改革派は当時孤立していて、後世で有名になることが多い。ところが、後世で有名になると、人々は、その人物が後世で評価されているほどの名声を、当時の社会でももっていたものと思いこんでしまう。いかに改革派が当時の社会で孤立し、苦しい立場に立っていたかという理解が忘れられてしまう。こうした側面に気をつけて、フランス革命の前史を見なければならない。

チュルゴーは古くからの貴族で、パリ高等法院検事総長代理、リモージュの知事であったが、名門の宮廷貴族ではなく、宮廷では本流を代表するものではなかった。むしろ、テレー僧院長の極端な抑圧政策にたいする反対運動に押しあげられて登場してきた、野党的な財務総監であった。それだけに、彼の就任は重農主義者や自由主義貴族から歓迎された。モンテスキュー侯爵、コンドルセ侯爵、ヴォルテール、デュポン・ド・ヌムールなどであった。

チュルゴーは、テレーの政策を逆転させた。彼は、宮廷貴族の脱税を摘発して納税を要求した。その反面、テレーが無効にした国庫にたいする債権をもとに戻して、支払を再開した。債権者はブルジョアジーであったから、この政策は、ブルジョアジーを優遇して宮廷貴族を傷つけるものであった。チュルゴーは、ルイ一六世にたいして、宮廷貴族の特権を削減することを宣言した。

「陛下の宮廷人へばらまく金がどこからきているのか、考えていただきたい。恩賜金、年金、金銭的特権がもっとも危険で濫用されている。租税にたいする役得が、必ずしも徴税に必要ではないのに、この役得が貴族の腐敗をもたらしている。私は宮廷の大部分から、恩賜金をもらうすべての者から嫌われ、恐れられるだろう。」

こうした方向は、宮廷貴族の本流と真向から対立するものであった。それにしても、彼はある程度の改革に成功した。王領地での賦役を廃止し、穀物商業の自由を打ちだした。小年金所有者には支払いながら、大年金所有者(宮廷貴族が多い)にたいして支払を延期した。ギルド(同業組合の制度)を廃止し、商工業の自由、営業の自由を実現した。一般的に、経済的自由主義がチュルゴーの原則であった。

次にアメリカ独立戦争への参加の中止、僧侶の免税特権の廃止、僧侶財産の売却を考えた。ここにきて、高級僧侶の反感が決定的なものになった。また、宮廷貴族実力者がチュルゴー罷免に動いた。とくに、二人の有力な貴婦人が王妃が王妃マリー・アントワネットを動かして、チュルゴー追い出しを策謀した。それはランバル公爵夫人(王妃付き女官長)、ポリニャック公爵夫人(皇太子養育係)である。これに王弟アルトワ伯が加わった。

チュルゴーの失脚した直接のきっかけは、穀物商業の自由化政策であった。自由化がはじまると買占めがおこなわれ、食糧品の値段が騰貴して、貧民がパン屋を襲撃するといった食糧暴動が起こった。これに軍隊が出動して、「小麦粉戦争」といわれるさわぎになった。このときチュルゴーは、自由化政策の原則をつらぬけず、穀物を強制的な価格で買い入れて別の州にまわした。経済理論における自由主義が、必ずしも現実には貫徹できなかったということの実例である。

チュルゴーは、この暴動の責任をとらされて辞任した。ところが、この暴動に参加したものの中に、アルトワ伯の下僕がいて、これが赦免されている。この暴動が、アルトワ伯を中心とした宮廷貴族のけしかけたものだということは、当時公然の秘密になっていた。チュルゴーは宮廷貴族の特権に挑戦したために、改革半ばにして追い出されたのである。


ネッケルの財政改革

チュルゴーが辞任したあと、一七七六年の五月から一〇月にかけて、クリュニーが財務総監になった。彼は、歴史的には無名の人物であるが、宮廷貴族の本流を代表していて、チュルゴーの改革を廃止した。当然、財政危機が深刻になったが、王の富くじを実施して、そこからの資金で一時的に財政危機を回避した。

彼が死ぬと、つぎに財政をまかされたのは、ジュネーヴから来た銀行家ネッケルであった。

ただし、彼は新教徒でもあり、名門貴族ではなかったので、財務総監になることはできなかった。財務総監にはダブロー・デ・レオーを据え、その下の「国庫の総監」の資格で、実質的に財政をうごかした。この地位は徴妙なものであり、財政を動かすとはいっても、国王を囲む閣議には参加できなかったために、権力をふるうにも限度があった。

ネッケルは銀行家であり、チュルゴーと同じくブルジョアジーの側に立つ改革派であった。しかし、重農主義者ではなかったために、穀物商業の自由については熱意をみせず、むしろ穀物商業の規制の方向にすすんだ。王領地におけるマンモルト(農奴制=死亡税)を廃止した。宮廷貴族の官職約四〇〇を廃止して、財政支出を押えた。

ただし、彼の行動はかなり政治的であった。ある貴族の官職を廃止しながら、他の貴族の官職を保存するというやり方で、貴族の反対運動を分断することによって、反対運動を押えた。

つぎに、ネッケルは「会計報告書」と称する国家予算の現状報告書を発表し、財政がほぼ収支均衡していることを宣伝し、国庫にたいする信用を高めておきながら、公債を増発し、終身年金契約を増加させて、財政収入の増加を計った。のちになって、ネッケルが赤字を過小評価したという批難があびせられて、赤字論争が起こることになる。しかし、さしあたりこの時期には貴族やブルジョアジーが「会計報告書」を信用し、とくにブルジョアジーは安心して国債の購入、終身年金契約の増額に応じた。国王も、そうした形でネッケルが財政収入を実現してくれたかぎり、救いの神としてネッケルを支持した。

それにしても、官職をうばわれた宮廷貴族の反感は高まった。やがて、海軍大臣サルチーヌが莫大な公金を浪費していたことがわかった。ネッケルは、これを取りあげて罷免に追い込み、ネッケル派のカストリ侯爵を後任にすえた。この事件が、宮廷における反ネッケル運動を爆発させた。ネッケルは、それをのりきるために閣議に入ることを要求したが、国王はこれを拒否した。王妃もネッケル罷免のために策謀した。そうした環境のもとで、彼はついに辞任せざるをえなくなった。


カロンヌの反動的財政政策

そのあと、一七八一年五月フルーリが財務総監になった。フルーリは、宮廷貴族の本流を代表していて、ブリオンヌ伯爵夫人に推薦された。ブリオンヌ伯爵夫人は、ランベスク太公(ロレーヌ公爵)の妻でもあり、この夫婦は宮廷貴族の右派を代表した人物であった。そこでネッケルの改革が逆転されて、増税と借入金が増加しただけであった。

一七八三年、同じく宮廷貴族の本流を代表してドルメッソンが財務総監になった。彼も似たような政策を続け、赤字を増加させた。赤字に困ると、ケース・デスコントの資金を強制的に国庫に借り入れた。この事件でケース・デスコントの信用が落ち、ケース・デスコント紙幣をもっている者が、正貨への交換を要求して取付けさわぎをおこした。このような政策は、信用機構とブルジョアジーの経済活動を麻痺させるものであった。

一七八五年カロンヌが財務総監になった。彼も、アルトワ伯爵ポリニャック公爵、ヴォドルイユ伯爵など有力宮廷貴族に支持されて登場してきた。彼は、宮廷貴族にたいして惜しげもなく国家資金をばらまき、赤字をますます増加させた。その反面、公債の増発、借款の増加、貨幣の改鋳によって収入の増加を計ったが、国債や借款の増加が利子負担を増加させ、将来の赤字増加の原因を作った。

パリを城壁で囲んで、入市関税を増徴した。株式市場を操作して、投機によって利益をひきだした。ケース・デスコントからの七〇〇〇万リーブルの強制借款をおこない、信用を動揺させた。このため、ケース・デスコントの理事をしていた大銀行家二人が破産したほどであり、その連鎖反応をうけて、火災保険会社もパリ水道会社も、クルゾーも経営困難におちいった。

一七八六年、カロンヌは財政改革案を発表した。このとき、財政収入は約四億七四〇〇万リーブル、財政支出は約五億七五〇〇万リーブルで、これに臨時支出一二〇〇万リーブルを加え、赤字は約一億一二〇〇万リーブルになるといわれた。こうした破滅的な赤字を解消する手段として、臨時土地税を提案し、これを承認させるために名士会を召集した。

名士会は、宮廷貴族、高級僧侶、上級の法服貴族、その他知事、州議会の議員、都市の吏員などから選ばれた、一四四名の代表者からなっていた。これが七つの部会にわかれて、それぞれの議長に二人の王弟、オルレアン公爵、コンデ太公、ブルボン公爵、コンチ太公、パンチェーヴル公爵が任命された。こうした顔ぶれからみるならば、名士会は、王権に忠実な決議をするものとみられていた。

しかし、すでに膨大な赤字のために、人心が動揺していた。そのうえ、ネッケル派の名士も多かった。一七八七年二月、カロンヌが赤字の説明をするときに、ネッケルの時代から赤字が多く、ネッケルの会計報告が嘘であったと報告したために、ますます論争が大きくなった。

ネッケル派の貴族や僧侶が臨時土地税に反対し、支出の削減、租税の軽減を主張して抵抗した。そのため、臨時土地税は決議されなかった。そのうえ赤字論争が一般に知られて、国家への信用が失われたため、いまにも騷動が起こりそうな情勢になった。それに加えて、カロンヌのスキャンダルが摘発され、財務総監の辞職に追い込まれた。

要約 第二章 フランス革命の開始 一 革命の原因ー財政破綻

フランス革命の原因が財政破綻だということは、全ての教科書に書いてあるので、これを疑う人はいない。問題はその中身になる。なぜ破綻したか。どうすれば改善できるか。これを正確に理解しようといいう。もう一つ、第一身分、第二身分に対する第三身分の戦いだとも思われているが、それぞれの身分の中でも、貧富の差があり、単純に、第三身分が勝ったというものではないことも指摘している。

宮廷貴族の財政特権

これが最大の原因だという。つまりヴェルサイユ城に集まる3000人ー4O00人の大領主、これが権力を組織しているから、財政特権を持っている。財政支出の面では、できるだけ多くのお金を、国庫から自分が引き出せるかという競争があった。国王個人が、「私のものを盗んでいる」といったが、国王の権力で止めることはできなかった。財政収入の面では、貴族が減税、免税の特権を持っていた。大貴族ほど、その特権が大きい。「少なく収めて、大きく引き出す」であった。

貴族によるブルジョアジーの収奪

権力を握っていた大領主たちは、財政運営の面で、ブルジョアジーを収奪した。様々な方法を紹介しているが、ルイ15世末期、テレー僧院長が財務総監になり、ひどいことを行った。多くの商人、銀行家が破産し、自殺者を出した。パリのブルジョアに対する増税を行った。ヴォルテールという啓蒙思想家も、20万リーブルを失ったという。

チュルゴー、ネッケル、カロンヌの財政改革

歴代有名な財務総監の改革を紹介する。それぞれ、パトロンになる大貴族を背景に持っているから、改革が派閥抗争になった。そのため根本的な改革にならないまま、革命に進んでいった。

05-フランス革命史入門 第一章の三 諸階級の複雑な対立

三 諸階級の複雑な利害対立


高級僧侶と下級僧侶

僧侶は約一二万人で、第一身分として表向きは貴族の上位に置かれていた。しかし、身分と階級はちがい、また生活水凖もちがっていた。第一身分だからといって、下級僧侶が高級貴族の上に立つものではなかった。僧侶が貴族の上位にあるといえる場合は、あくまで高級僧侶の場合だけであった。

高級僧侶には、枢機卿、大司教、司教、修道院長、女子修道院長、小修道院長があった。その下に、中級の僧侶として副司教、上級司祭、修道士、修道女があり、その下に司祭があった。下級僧侶としては、小寺院の司祭とその下の助任司祭があり、彼らの生活水準は貧民と同じ程度のものであった。そして、このような貧しい僧侶がピラミッド型に下にいくほど数が多かったのである。

貧しい者の実例としては、三人の修道女のいる修道院が、年収六〇〇リーブルにしかならない場合があげられる。そのために、満足なベッドや食事用の皿すらもないといわれているが、このような貧しい寺院も多かった。助任司祭の年収は三五〇リーブルであった。

ただし、司祭になると、その中でさまざまな開きがあって、年収二〇〇〇リーブルから三〇〇〇リーブルという例もかなり多い。それ以下年収五〇〇リーブルまで、さまざまな階層があり、一〇〇〇リーブルから二〇〇〇リーブルの間がもっとも数が多い。これをみると、中流の司祭は、かなり安定した生活をしていたようにみえる。

それにしても、高級僧侶のとる年収はけたちがいに大きなものであった。ストラスブールのロアン枢機卿の年収は一〇〇万リーブル、クリニーのベネディクト修道院長は一八〇万リーブルの年収をもっていて、最高級のものであった。大司教の年収をざっとみてみると、五〇万リーブルから五万リーブルの間に分布している。司教の年収は、九万リーブルとか一万リーブルとか、だいたい一万単位の年収である。各地の中小修道院も、その程度の規模である。高級僧侶の場合でも、大修道院長、枢機卿、大司教から、中・小修道院長、司教、副司教へとピラミッド型に分布していた。

高級僧侶の職は宮廷貴族の二、三男、娘、未亡人のために用意された官職であった。宮廷貴族の家に生まれても、長男に主な財産が相続されてしまうので、その他の者はなんらかの救済手段がないと転落してしまう。それを防ぐために、高級僧侶の官職が用意されていた。高級僧侶は、僧侶になっても戒律を守る必要がなかった。また、寺院にこもって修業する必要もなかった。

ヴェルサイユ宮殿にきたり、寺院とは別に宮殿を作って、そこで遊興ざんまいの生活を送ったり、寺院の中に異性を引きいれたりすることができた。女子修道院の場合でも、男性を招きいれることができた。

レミールモン女子修道院長にはクリスチーヌ公爵夫人がなり、そのつぎにコンデ太公の娘がなった。このような修道院では、修道女も貴族であり、平民出身の修道女は貴族修道女に仕えることになった。貴族修道女は、修道院の中でそれそれ邸宅や庭園をもち、そこに男性の友人を招いて食事をすることができた。

ナルボンヌ大司教ディヨンは、自分の任地に年間一五日しかやってこない。あとは別な地方の自分の領地に住んだり、ヴェルサイユ宮殿に出入りしたりしていた。それでいながら、この地方の州会の議長であった。彼は、南フランスに大司教としての領地をもちながら、北フランスには自分自身の大領地をもち、年間一五日だけ南フランスに来て、そこの州の最高権力を行使していたのである。

サンス大司教はブリエンヌ伯爵で、ブリエンヌに領地をもつ大領主であった。彼も、自分の領地をもちながら、高級僧侶としての領地をもっている。しかもヴェルサイユ宮殿で勢力をもち、フランス革命の直前(一七八八年)実質的な宰相の地位につき、財政改革、司法改革をすすめた。高級僧侶でありながら、自分の相続するべき領地ももっていたという、もっとも幸運で、もっとも豊かな高級僧侶の実例である。一時ツールーズ大司教でもあった。

タレイラン公爵といえば、フランス革命の初期に国民議会で活躍し、のちにナポレオンの外務大臣となり、王政が復活しても外務大臣となってウィーン会議で活躍し、フランスの分割を阻止したことで有名になった政治家である。彼はオータンの司教であった。彼の一族に最高級の僧侶がいる。彼の伯父タレイラン・ペリゴール公爵である。レムの大司教でありながら、王の御用司祭として、王の即位の儀式をおこなう最高級の僧侶であった。

伯父は四つの修道院、寺院をもち、ドイツにも城をもち、パリとヴェルサイユに邸宅をもち、レムで大領地をもっていた。レムの領地は、一つの市と七つの城を含む巨大なものであった。このような特権的地位をもっていたから、もっとも保守的な僧侶であり、国民議会では右派の指導者であり、すべての改革に正面から反対してドイツの城に亡命した。ところが、甥のタレイラン司教は改革派となり、僧侶財産の国有化を提案した。

プルツイユ男爵は、絶対王制がくずれさる直前の実質的な宰相(財政審議会議長)になった。無気力な者の多い宮廷貴族の中で、決断力に富み、精力的な活動を続けたので、宮廷貴族の救世主のように思われ、バスチーユ襲撃の直前に権力の座に押しあげられた。彼が宮廷で頭角をあらわしたのは、伯父のモントーバン司教のひきたてによるものであった。モントーバン司教は、修道院長も兼ねて、モントーバン市の領主権を王と共有するほどの地位にあった。この司教にひきたてられて、甥が駐オーストリア大使となり、王妃の取りまきになった。司教が甥を、当時としては最強の地位につけたのである。

僧侶が名実ともに第一身分であるといえるのは、高級僧侶についてのみいえることである。このばあいだけは、最高級の宮廷貴族と同格であるか、ときにそれを越えることがある。いずれにしても、高級僧侶もまた宮廷貴族の一族であったのだから、身分としては分れていても、階級としては同じものである。それだけに、高級僧侶から多くの宰相あるいは財政の指導者をだした。

古くはフランス絶対主義の創設者リシュリュー宰相があり、ルイ一四世の前半にはマザラン枢機卿が宰相となった。ルイ一五世の時代には、テレー修道院長が財政改革をおこなった。ルイ一六世の時代になると、ブリエンヌ大司教が登場してくる。

高級僧侶の巨大な収入は、領地収入と十分の一税によるものであった。領地は司教領とか修道院領として、僧職に附属したものである。領地所有の比重はかなり高く、アモン地区を集計したときでも、人口の一八パーセント、面積の一七パーセントとほぼ五分の一の領地になっている。これは、地方貴族の領地と同じ程度の比重を占めるものであるから、僧侶もまた立派な領主であるということができる。ただし、領主としての僧侶はあくまで高級僧侶だけであり、中・下級の僧侶は領地所有者ではなかった。中・下級僧侶はほとんど土地所有者にすぎなかった。領地と土地の相違については後で解説することになる。

つぎに十分の一税があった。これは収入の十分の一を教会、修道院に納めるという一種の租税であったが、これを修道院長や司教が付近の住民から徴収した。その場合、僧侶の領地の住民からだけではなく、その外の、世俗の貴族の領地に住む住民からも徴収した。高級僧侶は、こうして二重の収入を手にいれた。十分の一税による収入は、約半分が高級僧侶の手に入り、残りが高級僧侶の部下にわけあたえられた。この配分方法は、さまざまな段階に区切られていた。ただし、十分の一税を、領主としての貴族が手に入れる場合もあった。この場合「領地化された十分の一税」という。

僧侶の中にはさまざまな階層があって、世俗の世界と同じような対立がつづけられていた。下級僧侶は平民と同じ立場にあったため、下級僧侶の俸給の引上げを要求した。また、司教、大司教の俸給の引下げとか、高級僧侶への累進課税を提案した。こうした動きが、三部会と国民議会に反映されて、下級僧侶の中から多くの革命家が登場してくる。高級僧侶のほとんどは保守派に属し、積極的な反革命運動をおこした。ごく一部の高級僧侶だけが、自由主義貴族とともに改革派に属した。

ただし、僧侶は、いずれにしてもなんらかの特権をもっていたのである。革命が進んで、ついに僧侶の俸給を廃止したときに、彼らの生存はおびやかされ、社会的役割を失い、全体として反革命の側に立った。ごく少数の僧侶だけが、恐怖政治の時代にも革命の側に立って活躍した。中級僧侶のフーシェは山岳派のテロリストになり、反革命派を虐殺し「フーシェの大砲刑」で有名になった。総裁政府と統領政府の警察大臣になって、権力をふるった。

シエース副司教は平原派として恐怖政治のときは中立派であったが、総裁政府の総裁となった。

ジャック・ルーは司祭であったが、恐怖政治の頃は過激派の指導者となった。


都市のサンキュロット

フランス革命当時、全人口は約二三〇〇万人、パリの人口が約六〇万人でずばぬけて多く、あとはリヨン、マルセーユ、ナント、ボルドーと一〇万単位の都市があり、その下にル・アーブルとかレムといった一万単位の都市が続いた。都市といっても小さなものであり、まだ当時のフランスは農業国であった。

パリの人口約六〇万人のうち、貴族五〇〇〇人、僧侶一万人、プルジョア一〇万五〇〇〇人となり、この三つを合せた一二万人を差引くと、五〇万人弱がサンキュロットの階層を作っていた。

ただしサンキュロットの言葉はあいまいな内容を含んでいる。もともとキュロット(半ズボン)をはく者は貴族階級であり、それを持たないという意味でサンキュロットといわれたのであるから、貴族以外の者はサンキュロットであるともいえる。そうすると、ブルジョアジーに属する者もサンキュロットといえるので、事実、裕福な工場主がサンキュロットと自称して、革命運動に加わっていた例も多かった。しかし、革命がはげしくなるとともに、サンキュロットという意味は、直接労働をしている者のことをいいはじめたので、ブルジョアを除いた都市労働人口をいうようになった。これが、パリでは約五分の四になったと考えられる。

このうち、約三〇万人が職人と労働者であった。彼らは、社会の最下層部を構成していて、日給一リーブル前後で働いていた。パリには大工場が少なくて、中・小工場が多かったので、そこに働いていたのである。

労働者の上に、小企業主、手工業の親方がいた。これら親方の数も非常に多く、二、三人から四、五人の職人、労働者を雇って店を経営しているというのが標準的なものであった。大工の親方、石工の親方から、金銀細工、時計、宝石、帽子、靴下、手袋、陶磁器、印刷などの店主が多く、こうした小企業主がサン・タントワーヌ街、サン・ドニ街、サン・マルセル街に集まり、パリの下町を形成していた。

ただし、小工場主や商店主がすべて貧乏であったかどうかというと、これにもいろいろな差があった。親方の中で豊かな者は、ブルジョアジーの下に接続した。大工の親方で九万リーブルの年収、五万リーブルの年収という例もすくなくない。そこで、これら親方と職人、労働者との間にもまた対立があった。

とくに、当時の労働者は雇主から東縛され、職場を変えるときでも、旧雇主の解雇証明書をみせなければ新しい職場につくことができなかった。また、組合を作って賃上げを交渉することは禁止されていた。しかも、労働条件はきわめて悪く、平均一六時間労働で、製本屋や印刷屋の一四時間労働は特権と考えられていた。こうした労働者や職人の状態と、親方の年収を比較するならば、同じサンキュロットといっても、そこにまた使う者と使われる者、豊かな者と貧しい者とのちがいがあった。親方や商店主、小工場主の階層を小ブルジョアジーに分類するならば、本来のサンキュロットは、それ以下の直接労働人口ということができる。

ル・アーブルの人口一万四〇〇〇人のうち、貴族から小ブルジョアまでを差引いて、それ以下の者を都市貧民としてみるならば、七五〇〇人となる。そこで、都市人口の約半分が、直接労働する都市の職人と労働者であったと推定できる。この階層が、革命の騒乱の中で、群集の武力を担うことになった。

ただ、彼ら自身の独立した組織や指導方針がありえたかというと、一日一六時間働いている者が、そうしたことをするための時問を持ち、それに必要な知識を持つことは不可能である。そこで、彼らは外部から働きかけてくるなんらかの勢力の宣伝、煽動のままにゆれ動いた。恐怖政治の時代に、ロベスピエールを一貫して支持した階層はサンキュロットだといわれるが、労働者や職人よりはむしろ、小・ブルジョアの親方層であり、それだけにロベスピエール派は労働運動の抑圧に熱心であった。こうした事実も、サンキュロットという言葉の中に、親方層と職人、労働者という利害の対立する階層が含まれていることを示している。サンキュロットという言葉を不用意に使うと、誤解を招くので、本書では使わないことにした。

直接労働する者の中には、職人、工場労働者、日雇労働者があった。まだ大工場は少く、職人の割合が多かった。彼らは一リーブル前後の日給で働いていた。恵まれた者は二リーブル、条件の悪い者は一リーブル以下であった。これでどの程度のものが買えるかというと、一リーブルで上質の肉一ポンド(四五三グラム)を買うことができた。当時の貧民はパンだけを食べて、これを三ポンド(約一五〇〇グラム、約二斤)だけ食べるといわれている。もっと条件の悪い囚人については、一日一ポンド半のパンと、わずかの肉と野菜がそえられていた。

仮に囚人なみとみて、妻子合せて四人の生活を想像すると、一日六ポンドのパンが必要である。ところがフランス革命の年には、パンの値段が一ポンド三ルーから四スーにはねあがった。六ポンドのパンならば、一八スーから二四スーである。二〇スーが一リーブルであるから、囚人なみのパンを買うだけで日給を越えることになる。

これでは、大多数の職人や労働者が生きていけない。

彼らの生活は、死なないためのぎりぎりの水準であり、わずかの物価上昇でも、飢え死にの恐怖にさらされる。

バスチーユ襲撃からヴェルサイユ行進の時期にかけて、パンの値段がはねあがり、これを引き金にしてパリの下層民が騒乱に積極的に参加した。


土地所有と領地所有のちがい

フランス革命は農民革命であるとか、土地革命をともなったとかいわれている。そのばあい、農民とは具体的にどういうものをいうのか、あるいは、土地革命とはどのような変化をいうのか、これが大問題である。ほとんどの場合、実態をよく知らないままに、勝手にモデルを空想し、起りもしなかったことを起ったかのようにいっている。

また、土地と領地の関係もあいまいなままに書かれている。正確な形で書かれたものは、一つもないといってよい。たとえばソブールの『フランス革命』では、「僧族は王国の土地の約一〇パーセントを保有し」(上巻、六頁)となっている。そして、「土地所有に基礎をおくその経済的勢力は大きかった」と書いている。

わずか一〇パーセントの土地所有で、その経済的勢力が大きかったというのは奇妙なことである。これにくらべて、農民は土地の三〇~四〇パーセントをもっていたと書き、貴族と・フルジョアが、それぞれ二〇パーセントを持っていたと書いている(『同前』上巻、二四頁)。

このような紹介の仕方が、誤解の種をまくのである。ここでいう土地所有と、領地の所有とはまったく別のものである。貴族や高級僧侶が経済的に強力な基礎をもっていたのは、領地所有のうえに立っていたからである。領地のほとんどは、貴族と高級僧侶の所有するものであった。それだからこそ、貴族と高級僧侶が絶対主義の支配者であった。

領地をもっている農民などは一人もいない。平民で領地をもつ者は、せいぜいのところブルジョアの上層にかぎられている。領地所有がこのような状態であるのに、僧侶の土地一〇パーセントとか、農民の土地四〇パーセントとかいうのは、どういうことかと考えるべきである。そのために、図をみながら説明をしていこう。

全国の土地が大小さまざまの領地にわかれていて、その領地を領主がもっている。この領地内部の土地に二つの区別があって、直営地(直領地)と保有地にわかれる。直営地は多くの場合、領主の城や館をとりまく形で分布している。この直営地が、僧侶の土地とか貴族の土地とかよばれるものである。

そして、直営地以外の土地は、保有地として農民、その他の人間に貸し与えるという形をとっている。これを一般的に所有地とよび、農民の所有地が四〇パーセントというのはこれである。多くの本では、農民保有地という言葉も使うが、農民だけが保有しているのではなかった。商人、工業家、銀行家もまた土地を保有し、ときには僧侶、貴族までが他人の領地の一部を保有していた。これを農民保有地といって、農民だけにまとめてしまうこともまた誤解の種になる。保有というのは、その上に領主権があり、完全な意味での所有権ではなかったためである。

土地の保有者(所有者)は、領主から土地を貸し与えられているのであり、当然賃借料を払わなければならない。それが領主権収入とよばれるものであり、その中心は貢租である。また、土地を売買するときには領主の許


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可が必要とされ、許可料を不動産売買税として領主に支払わなければならなかった。その意味で、土地保有者は完全な意味での土地所有者ではなく、下級土地所有権だけをもっていたのであり、これに対して、領主は上級土地所有権をもっていた。

さきに、貴族や僧侶が他の領主の土地を保有するといった。これは奇妙な感じを与えるかもしれないから、もうすこし説明をしよう。

Aという貴族が、Bという貴族領主の領地にある土地(保有地)を手に入れたとする。そうすると、AはBに対して貢租や不動産売買税を支払う。BはAの領主である。そのかぎり、主従関係が成立するのであるが、お互いに貴族であるから、農民ほどの束縛はない。それにしても、形式的にはAがBの借地人であることはまちがいない。このような関係もまた、広く存在していたのである。

領主としての貴族がある反面、土地保有者だけの貴族もあり、領主としての貴族が、別な土地では保有者としての貴族になったこともありうる。フランス革命で封建貢租の廃止がでてくるが、保有者としての貴族にとっては、この政策はありがたかったのである。封建貢租の廃止は、かならずしも農民だけに有利であったというわけではない。

貴族の所有地が約二〇パーセントというときは、領主の直営地と貴族の保有地を合計したものを意味するから、その性格はかなり複雑なものになってくる。僧侶の土地も同じである。とくに下級僧侶は領地をもたず、どこかの領地の保有地をもっていた場合が多い。


地主、自作農、貧農

そのつぎに、ブルジョアの所有地があった。土地を保有するものかならずしも農民だけではなく、ブルジョアが相当量の土地を保有していた。これが約二〇パーセント前後の比重になった。のこりの半分弱が、農民の保有地であり、これを農民の所有地ともいうのである。

ところが、この農民の所有地は、大小さまざまに分布していた。というのは、農民とは貴族、僧侶、ブルジョア以外の農村在住者をいうのであるから、上は大地主から、下は日雇農にいたるまでのあらゆる階層にわかれてしたからである。

大農民(富農)の中には、たとえば四〇ヘクタールとか五〇ヘクタール、ときには一五〇ヘクタールの土地をもつ者がいた。当時、フランスの標準的な自作農、つまり自分の保有する土地でいちおうの生活が成りたつ規模の農民が五ヘクタールの所有者とされている。そうすると、大農民の中には、それの八倍とか三〇倍の規模の者がいることになる。このような大農民は、自分の土地を自分で耕すのではなくて、一部は直接耕作するかもしれないが、そのほかの土地は、日雇農民を使って経営したり、または小作農に賃貸して小作料をとったりしていた。ゆえに、これは農民地主であった。

こうした農民地主を筆頭として、ピラミッド型に、中農、貧農と下へいくほど数が多くなる。五ヘクタールから一〇ヘクタールの中農層が自作農であり、五ヘクタール以下の貧農は自分の土地だけでは生きていけない。彼らは他人の土地で働いて賃金をもらったり、あるいは小作契約で収入をあげた。

一ヘクタール未満の土地を所有する極貧農の数は非常に多く、所によると、農民の約半数がそのような階層であった。しかも、彼ら極貧農のもっている土地を合計しても、一〇パーセントから二〇パーセントの問にとどまる。彼らは、領主権の廃止で自分の土地を完全な所有地にすることはできたが、いずれにしても、その土地だけでは生活ができなかった。こうした農民の数が、最大多数を占めていたことを思えば、フランス革命で農民革命がおこなわれたと簡単にいいきることはできない。

領主権の廃止が保有地を完全な所有地に昇格させて農民革命の名にふさわしい結果を作りだしたのは、五ヘクタールから一〇ヘクタールの自作農についてのみあてはまる。しかし、この規模の農民の数も所有地面積も少ない。ところによって比率はちがうが、だいたい一〇パーセント以下の人数である。この土地だけに農民革命といえるものが実現したのである。農民革命の成果を誇張することは正しくないといえよう。


領主権廃止は農民革命にならない

身分としての農民に、地主(富農)から中農(自作農)、貧農(自小作)、極貧農(小自作、小作農、日雇農)の階層分化があった。貧しい農民は、大土地所有者の土地を小作したり、賃金をもらって働いたりしていた。賃金をもらって働くばあいは、その土地は地主の直接経営であった。小作のときは、定額小作と折半小作があり、前者をフェルマージュ、後者をメチャージュといった。折半小作農をメチエといい、地主と収護物を折半した。

定額小作農をフェルミエと呼んだ。ただし、このフェルミエという言葉は、いろいろな意味に使われている。小農民からはじまって、大農民のフェルミエもいる。大フェルミエは、領主の直営地を一括して定額で借入れ、これを貧農にまた貸して経営した。領主権の徴収を定額で請負う者もいた。こうしたフェルミエは、同時に村の大地主であることが多く、いわば大小作農であるから、フェルミエという言葉が村の金持を意味するようになった。同じ借地農ではあっても、貧農の借地農と大農民の借地農との二通りに分れた。小フェルミエは貧農であるが、大借地農は村の支配者であった。

さて、貧農は他人の土地を耕した。貧農に土地を耕させる者は大、小の地主である。その地主に、五つの区別があった。まず農民地主であり、これはたとえていえば幕末日本の地主(庄屋・豪農層)に相当する。

つぎに、ブルジョアが農村に土地をもって地主となっている。これをブルジョア的土地所有(市民的土地所有)ということができる。日本では、ブルジョア的土地所有が領地所有と混同される場合が多い。とくに大塚史学では積極的にこれを混同し、それで理論体系を構築している。しかし、ブルジョアの土地所有はまだ領主権の下にあり、領地についていえば、ブルジョアの持つ比重は少かった。両者を混同するべきではない。

第三に、領主ではない貴族の大土地所有者である。つまり保有地をもつ貴族である。第四に、領主ではない僧侶(教会、修道院)が保有地をもつときである。この四つの場合は、その地主の上に領主がいて、領主権を地主から取っている。地主といえども、まだ被支配者である。領主-地主-貧農の三重の関係が作られている。これを日本にたとえていえば、大名-庄屋-小作農の関係と似ている。

これとは別に、領主の直営地を貧農が耕すときがある。この場合は、領主が同時に地主である。その土地を貧農が直接耕すときもある。または大きく分割して大借地農が借りうけ、その大借地農が日雇農を雇って経営するか、あるいは貧農にまた貸する。いずれにしても、土地の所有権という意味では、領主だけに単純化されている。

領主と土地保有者の分化がない。このような領主には、貴族、僧侶が圧倒的に多く、平民(ブルジョア)比重は小さい。また、直営地が領地の中に占める比重はばらばらであって、領地のほとんどが直営地であるばあいもあり、直営地がほとんどない領地もあった。

領主権の廃止がおこなわれたときのことを考えてみると、第一から第四の場合については、地主(貴族、ブルジョア、富農)の保有地が完全な所有地に昇格する。そこで、これらの地主が利益をうける。そのかぎり、かれらもまた革命から恩恵を得ることになる。銀行家、大商人の党派であったジロンド派が、領主権の無償廃止を積極的に推進したのは、こういう背景があったからである。ただ、これを農民革命ということはできず、もしいうならば地主革命としかいえない。こういう性格があったことも、念頭におくべきである。

直営地についてみるならば、領主権の廃止は領主に打撃をあたえない。領主権を廃止しようがしまいが、直営地は彼の土地である。もし領地のすべてが直営地であるときには、所有地にはまったく変化がない。ただし、直営地のない領主は打撃をうける。

領主権の無償廃止によって傷つく度合は、領主によってまちまちである。そのちがいも、フランス革命にたいする対応の仕方の相違をもたらした。そのため、革命に最後まで協力する貴族も出てきたのである。恐怖政治のときの派遣委員バラ(子爵)とか、軍事委員デュボワ・ド・クランセなど、名門の貴族が革命家として活躍するのも、それなりの理由のあったことである。


王権と領主権の比重

国王は租税を徴収し、領主は領主権を徴収した。これを負担する側からみるならば、農民(富農から中・貧農)やブルジョア地主は領主に領主権を支払いながら、国王には租税を支払った。彼らは、二重どりをされていた。

中世のはじめ、全国土が領主の独立王国に分割されていたとき、王権は領地に入りこめず、領主権だけが農民の負担するものであった。絶対主義の確立と平行して、国王の租税徴収権が領地の中に侵入し、領主の取り分を横取りしたと考えてよい

国王の租税としては、人頭税(基本税としてのタイユ、付加税としての力ピタシオン)、二十分の一税が直接税として課税された。間接税としては、国内関税(取引税)、補助税(酒その他消費物資に課税された消費税)、塩税などがあった。また、労役の形で徴収される租税として、王の賦役、民警の義務、軍隊の宿営の義務があった。賦役は、公共事業関係に農民をかりだしたものである。民警の負担も重く、軍隊の宿営も、その地を軍隊が通過すると莫大な出費になった。

領主権は別名封建的権利と呼ばれるが、中心は貢租であった。つぎに不動産売買税があった。そのほか、領内の橋、河川を通過するときに通行税をとった。領内の市場には市場税がかけられ、水車やパン焼きかまどは領主が独占し、強制使用権と称して使用料を徴収した。領主の賦役もあったが、これは金納か物納にかわっていた。

狩猟権があり、領主は自由に領地で狩猟ができた。逆に、その他の者は、領地で狩猟をするとき許可料を払わなければならず、密猟者にたいしては罰則が定められていた。狩猟に参加した者が、農民の畑を荒すことはたびたびあった。狩猟のために放置されている野獣が人間をおそったり、畑を荒しても、領民が捕えることはできなかった。

河や沼で魚をとることも領主の権利であり、領民は許可を得てからでないと取れなかった。鳩小屋の権利もさかんに行使された。領主だけが鳩を飼うことができた。この鳩が農民の畑を荒しても、鳩を殺すことは許されず、違反者は体刑を含む刑罰に処せられた。最初にまいた種が、ほとんど鳩に食べられてしまうという訴えもだされているほどである。

共有地の三分の一を囲いこんで、領主が完全な私有地にする権利もあった。これをトリアージュと呼んだ。また領主特権放牧権が東部地方にあり、領主の家畜が独自に動きまわって農民に被害を与えた。

国王の租税と領主権のどちらが重かったかについては、はっきりした解答がだされない。地域によってもちがい、領主によってもちがうからである。いろいろと調べてみると、ある所では領主権が重く、他の所では、国王の租税が重い。高級貴族の領地では比較的領主権が重く、租税が軽い。それは、高級貴族が知事や総督との個人的な関係を利用して、租税の軽減をはかったからである。

そうしたカのない田舎貴族の領地には、王権が強く侵入したので、租税が重くなる傾向があった。ただし、これも画一的なものではない。

いずれにしても、当時の土地所有者(保有者)は領主権と王権の二重の支配をうけていた。これを二重というべきかどうかはむずかしい。なぜなら、王権を組織した者が大領主(宮廷貴族)であったからだ。王権もまた領主の集合体であるとするならば、二重の支配はつきつめたところ一つの支配ともいうことができる。

こうして絶対主義のフランスでは、領主としての貴族が王権を組織しながら、他方でそれぞれの領地の領主が領民を支配するという形をとっていた。階級としての領主が国家を支配するという意味で、絶対主義のフランスは封建制度の段階にあったといってよい。たとえ領地の中に王権が浸透し、領主権がいくぶん衰えたとしてもである。

たとえ領主権が相対的に衰えたとしても、王権を組織する者がまた領主としての宮廷貴族であったからだ。領主権の衰亡、死滅を強調する人もいる。そこからフランス絶対主義はもはや封建制度の段階ではないという人もいるが、これは正しくない。

たとえば農奴制(マンモルト)というのがあり、これがフランスのほとんどの地域で消えていながら、いくつかの地域、たとえばフランシュ・コンテ州で残っていた。農奴制がほとんど消滅していたから、つまりは領主権、封建制が消減したのであるという学者もいる。この農奴制とは、中世以来の死亡税または相続税に相当するものである。農奴身分の人間が死ぬと、その財産が領主によって没収される。相続人が相続したければ、しかるべき相続税を支払わなければならない。

この制度がほとんど消減したとはいえ、いくつのか州で残っていた。これをどう評価するかであるが、農奴身分から解放されても、その他の領主権には服さなければならない。つまり、農奴制の消滅が領主制の消滅につながるわけではないので、農奴制の消滅をもって封建制の消滅ということはできない。これは、あくまで封建制の中での一つの改革にすぎない。領主権は、いぜんとして大きな比重をもっていた。それは、農民をはじめ土地を保有する者にとってかなりの負担であった。

これを逆にいうと、領主権は領主にとって大きな財源として残っていたことになる。コンデ太公の年収のうち、約半分が領地からの収入であり、他の半分が国王からの収入、すなわち租税収入からわけ与えられたものである。

宮廷でもっとも優遇されている最高級の貴族ですら、収入の半分は領地から手に入れている。それ以下の者では、ますます領地からの収入の比重が高い。それからみるならば、領主権は死滅するどころか、いぜんとして大きな役割をもっていたということができる。

要約 第一章の三 高級僧侶と下級僧侶

市民革命の時に、あらゆる階層が複雑に動いたという意味では、フランス革命は、他国に比べて断然突出している。そこで、その複雑な利害対立をまとめておこうとしている。まず僧侶、これは現在教会聖職者という呼び名に代わっている。この方が妥当だと思われる。日本には神官もあるので。フランスではカトリック一色になっていて、その他はゼロとみなして論じるのが普通である。第一身分、聖職者の上層は、大領主、大貴族出身者である。その豪奢で優雅な生活が紹介されている。下級聖職者は平民出身で、高級聖職者に仕えるえる立場にあり、その関係は世俗と同じことであった。

都市住民

パリが例外的に大きく、60万人、他は大きくて10万人、貴族、聖職者、ブルジョアを除くと、パリでは50万人がサンキュロットを言われる、「働いている」階級であった。ただし、サンキュロットというのは、キュロットといわれる半ズボンをはかないという意味であるから、生活水準の区別とは一致しに時もあるという。

農村住民

すべての土地に領主がいる。領主の大部分は貴族、高級聖職者のものであった。領地は直領地(直営地)と保有地に分かれる。前者は城、館に続く広大な土地で、貴族が馬に乗って走り出ることができる。(この点は日本人には想像できない)。この向こうに、領民に貸し与えている土地がある。保有地であるが、普通は所有地といわれている。農民だけではなく、都市住民、ブルジョアも所有者になっていた。(この点は日本とは違う)。領主とは別な貴族が、土地を保有(所有)していた。農民にも、大、中、小の土地保有があり、大農民は実質地主であり、小農民は貧農であった。この階層区分は、フランス革命が終わっても変わらなかった。

領主権廃止は農民革命にならない

以上のような状態であるから、フランス革命で領主権の無償廃止が行われたとしても、それは農民革命、土地革命と呼ばれるほどの変化を起こしたものではないという。

2021年12月4日土曜日

04-フランス革命史入門 第一章の二 ブルジョアジーと商工業

 二 ブルジョアジーと商工業


商業貴族

商業貴族と呼ばれた貴族の一団があった。ただし商業だけではなくて、工業を経営して成功し、貴族に列せられた者もあるから、商業貴族というよりはブルジョア貴族と呼ぶ方がよいように思われる。ただ、この言葉がフランスにはないから、ブルジョア貴族のことを商業貴族の言葉でまとめることになる。

この貴族は本来の貴族ではなく、貴族になってもあまり大きな特権は与えられなかった。せいぜいのところ、減免税の特権であった。それでも、商人や工業家にとっては、貴族の資格を手にいれることは社会的な名誉であったから、このために熱心に運動したのである。王権の側は、これにたいしていろいろな政策をとった。もともと貴族は働くことを禁止されているのであるから、商人に貴族の称号を与えること自体が不自然であった。しかし、これを極端に実施すると、貴族になった商人が商業をやめてしまう。

そこで、商工業を振興するというたてまえから、商工業者に貴族の資格を与え、営業を続けることを認めたのである。ところが、大臣がかわり政策がかわると、一度与えた貴族の資格を取上げるという「貴族の資格喪失」の命令がだされ、そのあと、またこれを復活するといった矛盾した政策をくりかえした。このようなわけで、商業貴族の貴族としての身分は不安定であり、また、商業貴族は本来の貴族とみなされず、「貴族に列せられた者」という名でよばれ、貴族社会では成り上り者とみなされていた。ただ、たとえ成り上り者であっても、商工業で蓄えた富があったので、貧乏な地方貴族よりは、はるかに経済力をもっていた。このような商業貴族の多くは、それぞれの都市の高級官吏になっていた。その意味では行政権にも喰い込んだのであるが、あくまで地方行政のわく内に限られていた。

ルーアンの貿易商人ルクツー家は貴族に列せられた商業貴族であるが、フランス革命のときにはルクツー・ド・カントルーは国民議会財政委員会議長となり、政治的にも重要な役割を果し、その後ナポレオンのクーデターにも重要な役割を果した。

ボルドーの大船主ジュルニュも貴族に列せられ領地をもっていた。同じくボルドーの貿易商人セージも貴族に列せられ領主であった。ともにジロンド派の支持者であり、ジロンド派の反乱を指導してギロチンにかけられた。

このような商業貴族が、フランスの大都市に多数いたのである。リヨンの商業貴族の一覧表をみても、五五人の商業貴族をかぞえることができる。

このような商業貴族は、貴族の資格をもちながら商工業者であり、同時に領地を買い入れて領主となった。貴族、商工業者の性格を一身に兼ねそなえていたのである。

ただ、もし事業に失敗した場合は、貴族といっても、特別に王から救済してもらう権利はもたなかった。失敗すればそのまま没落したのである。こうした没落の例も多かったので、商業貴族の別名に「産業の騎士」という言葉がよく使われた。これは「いかさま師」の代名詞であった。それだけに、商業貴族はさらに地盤を固めるべく宮廷貴族と縁組をしようと努力したが、このような実例は数少ないものであった。


総徴税請負人

フランス王国では、間接税の徴収を一群の徴税請負人にまかせていた。その数は四〇名から六〇名になり、彼らが組合を作って、六年契約で政府と徴税についての契約を結んだ。毎年九〇〇〇万リーブルの資本金を集め、これを政府におさめる。そうすると、間接税の徴収権を与えられた。

その間接税は、塩税、関税、重要都市の入市関税、たばこ、飲料へ課せられる税金などからなっていた。総徴税局は、数千人の職員を使って間接税を徴収したが、その徴収の仕方がきわめてきびしかったので、小市民から大商人にいたるまでの恨みをかっていた。租税の滞納者は簡単に逮捕された。脱税のための密売については、嫌疑がかけられるだけで有罪とされ、無罪が証明されなければ釈放されなかった。このため、多くの商工業者やその妻子がきびしい刑罰をうけ、背中をムチで打たれるぐらいのことはめずらしくなかった。

そのため、総徴税請負人はブルジョアジーに属するとはいっても、ブルジョアジーから憎まれていた。彼らは、封建制度への寄生的性格のもっとも強いものであった。この中で有名な人物は、化学者としても有名なラヴォアジエである。

彼は、総徴税請負人としての利益が、年問四万から五万リーブルになったと記録している。ラヴォアジエは、燃焼の酸化説を主張し、定量分析の方法を確立し、フランス革命政府に協力してCGS系単位を作ることに貢献した。いわば、近代化学の祖である。王立火薬製作所を組織して、火薬の品質向上をはかるとともに、火薬の売上で収入をあげたほどの企業的才能の持主であった。

また領地を買入れ、農業改良のための研究に一四万リーブルを投じた。このように、社会の進歩をめざす代表的な人物であったが、同時に彼は冷酷な総徴税請負人であった。彼の仕事でもっとも有名なものは、パリを城壁で囲んだことである。パリ市への密輸がはげしく、商品の五分の一が密輸商人によって運ばれているというので、財務総監カロンヌに進言して、三〇〇〇万リーブルを使ってパリの城壁を作らせた。こうして密輸商人をしめだしたのであるが、そのことによってパリ市内の商品価格はあがり、パリの市民や密輸商人の反感をかった。このような恨みが原因になって、ラヴォアジエをはじめ二八人の徴税請負人は、恐怖政治の時代ギロチンにかけられたのである。

ジョルジュ・サンドの祖母の夫デュパン・ド・フランキュイユも総徴税請負人であり、六〇万リーブルの公債と大邸宅をもち、工場建設も試みた。


総徴税請負人は、ほんらいはブルジョアジーに属するものであり、工業、商業の経営や技術的な進歩には大きな役割を果した者が多かった。しかし、同時に、王権の手先として商業そのものを抑圧する立場にもあった。そこで、商人が総徴税請負人を敵とみなすことになった。ナントの第三身分の声明はつぎのようにのべている。

「総徴税請負人は、いたるところで不正をおこない、暴君になっている。彼らはつねに法を濫用している。商業が、自分の永遠の敵、これらの吸血鬼どもをふみつぶすときがきた」。


銀行家

銀行家の有力な者はパリに集中していた。革命の一三年前、六六人の銀行家の名前が年鑑にのっていた。銀行家の中には、生粋のフランス人もいるが、外国人も多い。スイス、ドイツ、スペイン、オランダ、イギリスと、ヨーロッパのあらゆる国々からパリにきて、銀行を設立した者の名前がみえる。

その中で、とくにフランス革命にかかわりの深かった銀行家の名前をあげてみよう。スイスのプロテスタントの銀行家として有名な者に、ネッケルがいる。彼は、はじめテリュッソン銀行の行員として入ったが、経営の才能を買われて銀行をまかされた。その後穀物の投機を利用して最大級の銀行家にのしあがった。やがて宮廷の銀行家を通じて、国庫に貸付けるほどの勢力をもち、娘を宮廷貴族のスタール男爵と結婚させて、貴族社会の仲間入りをした。そのとき、「何者でもない人間が何者かになるには、娘が必要だ」といわれた。

彼のまわりに自由主義貴族が集まり、ネッケル夫人のサロンは、改革派宮廷貴族のたまり場になった。財務総監になって財政改革をおこない、保守派の反感をかって罷免されると、それをきっかけにフランス革命がおこり、革命直後、最初の財政を担当することになった。いわば、フランス革命勃発の核心をなす人物である。

ラボルドは宮廷銀行家で、貴族、領主であり、娘を名門の宮廷貴族ノアイユ伯爵家と縁組させた。銀行業のかたわら、食糧品、植民地物産の商業を経営し、商船隊をもっていた。彼もバスチーユ襲撃のときに国民議会を財政的に支援した。ノアイユ子爵は、国民議会で封建権利廃止の宣言を提案して有名になった。

ペルゴは、スイスからきて銀行家パンショーの支配人になった。パンショーはスイス人銀行家としてネッケルの競争相手であったが、隠退してペルゴに事業をゆずった。彼は、イギリスとの為替取引を事業の中心にしていた。多数の銀行家が恐怖政治のころ迫害されたが、ペルゴはつねにその当時の革命政権とむすびついた。

まずラファイエットの副官となり、恐怖政治のころは、公安委員会とむすびついて食糧の調達に活躍して、「公安委員会の銀行家」とよばれた。恐怖政治ののちも政治家とむすびつき、ペルゴの娘は、マルモン元帥と結婚をした。その後、ナポレオンのクーデターに出資して、ナポレオン政権をささえた。ペルゴが引退すると、協力者のラフィットが銀行をひきついだ。ラフィットは、一八三〇年の七月革命で首相になった。彼ら二人は、もっとも政治的な銀行家であり、しかも、フランス革命を通じて、万年与党として生きのびた銀行家であった。

ルクツー家はパリとルーアンにまたがる銀行家、商人、工業家であった。その主人ルクツー・ド・カントルーは、ルーアン高等法院貴族でもあった。彼は国民議会の財政委員会議長として、革命政権の財政の実権をにぎった。ペルゴと同じく、ナポレオンのクーデターを支援して、ナポレオン体制の支柱となり、ナポレオンがフランス銀行を創設したときには、初代理事長になった。

クラヴィエールは、スイスの織物商人の子であった。パリに来てパンンョーのもとで銀行業を学び、銀行家になった。彼はミラボー伯爵の支持者になり、ミラボーの金融問題に関する文章はクラヴィエールが書いた。ミラボーの死後、ブリッソを中心とするジロンド派の中心人物となり、ジロンド派内閣の大蔵大臣になった。そのため恐怖政治で処刑された。

プロリはベルギーの銀行家で貴族(伯爵)であったが、フランスではパリに銀行を作り、ナントとマルセイユで外国貿易の大会社を設立した。とくに、東方貿易に活躍し、東方貿易の独占権をもっているインド会社とはりあって、サルジニア王の旗をかかげてインド会社の貿易独占権の網の目をのがれ、大きな利益をあげた。また、公債や株の投機で成功して、一〇〇万リーブル以上の証券をもっていたといわれている。これだけの財産からみると、宮廷貴族に匹敵するほどのものであった。

しかし、彼の革命中の動きはきわめて複雑で、表裏に富んだものであった。彼は、いろいろな種類の革命家と深い交遊関係をもっていた。そのときの情勢によっては、とらえがたい活動をおこなった。とくに目立っているのは、ジロンド派に反対してジャコバン派系の政治家と結びついたことである。

その中には、ダントンの腹心力ーミュ・デムーラン、公安委員になったエロー・ド・セシエル、バレール、ジャンボン・サンタンドレ、デルボワがいる。それでいながら、過激派の一人エベールとはとくに仲が良く、ついにエベール派の武装蜂起計画の黒幕の一人として逮捕され、処刑された。工べールは、パリのもっとも貧しい階層に支持者をもち、公安委員会のやり方も手ぬるいと批判した極左派であるが、その極左派の裏に、このような大銀行家がいたことは注目すべきことである。

過激派とむすんだ銀行家は、ブロリ一人ではなかった。パリの銀行家パーシュは、プロリと共同で貿易会社を作っていたが、彼は恐怖政治のときのパリ市長となり、公安委員会に恐怖政治を推進するよう圧力をかけた人物であった。パリの民衆に人気があり、「パパ・パーシュ」といわれていたが、エベールが処刑されたのちに、市長を解任された。

オランダ人のコックも、パリで銀行家になっていたが、やはりエベール派に加わって処刑された。

スペインの銀行家カバリュスも、パリで銀行家になった。革命中に、ジャコバンクラブに加盟した。恐布政治の政治家タリアンと彼の娘テレザ・カバリュスが結婚した。タリアンは恐怖政治をおこないながら、この結婚の前後に転向し、ロベスピエールを倒す側にまわった。その直後、一時は強大な権力をにぎって、ジャコバン派系の革命家を迫害した。そのタリアンを、テレザ・カバリュスが動かしていたというので、彼女は「テルミドールの聖母」といわれた。その裏には、父の銀行家カバリュスがいた。カバリュスは恐怖政治に加わりながら、ある時点でこれをひきもどし、革命後の権力の側についていた。その意味で、注目すべき人物である。

ドレッセールはスイスの財産家であったが、フランスで事業をはじめ、リヨンの銀行家、絹織物商人、貿易商人になり、パリに銀行の支店を移して、工業への融資をおこなった。王立火災保険会社の株主、理事にもなり、ケース・デスコントの理事にもなった。パスチーユ襲撃のときには、もっとも熱心に活躍したブルジョアであった。使用人、下僕まで武装して反乱に参加し、ドレッセールの邸宅は弾丸製造工場になった。しかし、革命の進行とともに、この一家は三人三様の生き方をした。

当主のエチエンヌはジロンド派と交わり、恐怖政治のときは監禁された。ただし、スイス政府の救援活動のために、やがて釈放され、財産も傷つけられることはなかった。

長男のジャックは王党派に参加し、亡命してニューヨークで死んだ。次男のバンジャマンは革命軍に参加し、歩兵大隊の指揮官となって活躍した。親子三人が、王党、ジロンド、ジャコバンの三つの系統にわかれて動いたのである。革命後、父は隠退し、次男に事業をまかせたが、ナポレオンのクーデターの出資者になった。次男のバンジャマンは、革命前はイギリスに行ってジェームズ・ワットと交友を結び、革命後は工場を建設し、海上保険会社を設立し、七月革命でルイ・フィリップ王政を支えた。彼の弟フランソワがそのあとをうけつぎ、パリ商業会議所会頭になった。こうして、ドレッセール家は、フランス最大級のブルジョアに上昇した。

オタンゲルはルクツーのもとで銀行業を学び、友人の資本を合せて銀行を設立した。彼は革命ではあまりめだった動きをしなかったが、恐怖政治の時はアメリカへ行った。ここでタレイランと知り合った。のちのナポレオンの外務大臣である。オタンゲルとタレイランは一緒に帰国して、オタンゲル銀行を再建した。この銀行は発展してオート・バンク(高級銀行)となった。後に、いくつかのオート・バンクが合同し、現在はパリ合同銀行として大きな役割を果している。


商人

商人の数は、大商人から小商人まで含めると数えきれない。また、国王政府から正式の認可をうけ、間接税をおさめ、一定の地域の商業独占を認められている特権商人もあれば、法律をくぐって取引をするヤミ商人もあった。当時の間接税が不合理であるだけに、ヤミ商人の数も多く、また彼らにつきまとう罪悪感もなかった。いろいろな種類の商人が、ビラミッド型に存在していたのである。

また、銀行家の中にも、ラボルド、プロリ、ドレッセールのように、商業を兼営し、銀行家が商人であるという例も多かった。

パリで最大級の商人といわれていたのは、ビデルマンであった。スイスからきて大規模な商事会社を組織した。パリ、ボルドーを中心に、ヨーロッパ各国からインドにまで支店を置いた。この会社は、数人のスイス人と共同で組織されたものである。ビデルマンは、一〇万リーブルから二〇万リーブルの利益を得ていた。

彼はジロンド派系の政治家と親交を結び、恐怖政治のときに一時逮捕されたり、財産を封印されたりした。その反面、公安委員会から植民地物産とくに硝石の輸入を依頼され、その仕事を果した。公安委員会に迫害されながら協力しているという状態であった。彼の会社の設立に参加した者の中で、ダヴィリエは銀行家、大商人、紡績工業家であった。フランス革命をくぐりぬけると、ナポレオン権力を支え、のちにフランス銀行総裁となり、オート・バンクの仲間に入った。

パリ以外にもボルドー、マルセイユ、リヨン、ナントなどの大都市に、豊かな商人は多かった。ただし、大都市とはいっても日本の規模とはちがう。リヨンとボルドーが約一〇万人、ナントは八万人である。

ボルドーのもっとも代表的なブルジョアの名前は、八四人になる。とくにボルドーには、貿易商人、仲買人など商業ブルジョアジーに属するものが多かった。この中の一〇人は貴族の資格をもっていた。ボルドー商人の多くはジロンド派系の支持者となった。ジロンド派という名称は、ボルドーのあった県がジロンド県とよばれ、ジロンド県出身の政治家が、国民議会でいわゆるジロンド派の中心になったからである。それほど、ボルドー商人のジロンド派で果した役割は大きかった。

議員となってパリにきたボルドー商人の中には、デュコ、ボワイエ・フォンフレード、ガデがあげられる。そして、これら議員を支持し、ジロンド派が没落すると、ジロンド派の反乱を積極的にすすめた者の中に、セージとかジュルニュがいた。二人とも貿易商人でありながら貴族であり、領地をもっていた。反乱が失敗すると、処刑された。

ただし、処刑されたからといって、家系が断絶したわけではなく、ジュルニュの二人の弟はあとをついで、一人は銀行家となり、一人は貿易商人になった。

カンボンはモンペリエ市の織物商人であり、三八万リーブルの財産をもっていた。その長男は、国民公会の財政委員会議長となり、名実ともに恐怖政治の財政指導者となった。三人の兄弟は、それぞれ綿紡績、染色業、ハンカチの商業と工業を経営していた。カンボンは国民公会の平原派(中立派)であったが、山岳派、ジャコバン派にも商人は多い。デフューはふどう酒商人でジャコバンクラブの通信委員会議長となり、ペレーラはボルドーの富裕な宝石商人でジャコバンクラブの常連であり、二人ともエベールの支持者であった。公安委員のコロー・デルボアは金銀細工商人であった。

商人の中にも、ジロンド派系からジャコバン派系までの分裂があったのである。


工業家

工業も、大工業から小工業まで広く分布していた。大工業は都市に多かったが、小工業は都市に集中するとともに、農村にも広く散在していた。小工業では二、三人の労働者を使用し、主人もともに働くようなものが無数にあったが、これでも工場主とよばれていた。本質はまだ家内工業の水準であり、これに簡単な機械がおかれていたという程度のものである。

しかし、中規模の工場から大規模の工場になると、様子はちがっていた。当時はまだマニュファクチュアの時代で、大工業といえども、人間のカで動かす機械が多かった。そのため、従業員の数は多いが、それほど生産性は高くなかった。リヨンの絹織物には「大工業」とよばれる工場が多く、五万八〇〇〇人を使用し、九三〇〇の機械を動かしていた。人口の約半分が絹織物工業に使われていたことになる。

パリは人口約五〇万人であったが、大工場はあまりなかった。レヴィヨンの経営する壁紙工場が、三〇〇人の労働者を使っていたが、これは当時の代表的な工場であった。この工場主は、フランス革命直前にレヴィヨン事件をおこした。

フランスは、イギリスからの最短距離にあり、しかも、経済の発達ではイギリスに次ぐ国であった。イギリスでは、一八七〇年代にすでにワットの蒸気機関が発明され、工場にとりいれられて産業革命がはじまっていた。フランスがその影響をうけないといえば、おかしなことになる。ここで、フランスの産業革命の開始期が問題になる。常識的には、フランスの産業革命は一八三〇年からはじまったといわれている。しかし、蒸気機関が工業に導入された時期を問題にするならば、イギリスの翌年からはじまるのである。その後、フランス革命までに、かなりのイギリス式工場、つまりは機械制大工場が作られたのである。フランスの工業家が、積極的にイギリスの発明、発見をとりいれたのはむしろ当然といわなければならない。

パリの工業家ペリエは、ワットの蒸気機関の技術を発明の翌年にとりいれて、フランス革命までに、約四〇の蒸気機関を製作し、販売した。この工場は、シャイヨー地区にあったからシャイヨー工場とよばれた。その意味では、産業革命の先端をきったといえよう。

最大級の大工業の多くは、王立マニュファクチュアであり、一部特権マニュファクチュアがあった。普通、国立、王立、特権の三つのマニュファクチュアをすべて含めて特権マニュファクチュアとよんでいる。王立マニュファクチュアは、王が株主の一人として参加し、資本の一部を出資し、製造から販売にいたるまでのさまざまな特権や便宜を与える。特権マニュファクチュアの場合は、ただ民間人が設立した企業を認可し、一定の地域における営業の独占権を与えたり、原料輸入に減免税の特権を与えたりしたものである。ただ、どちらも、あくまで

民間の企業者の責任が重く、王立というから、王が全面的に保護するといったものではなかった。革命が近づくにつれて、国家財政が急迫したため、資金面での援助は期待できなくなった。

クルゾーは、海軍用の大砲を製造する王立マニュファクチュアであった。しかし、四〇〇〇株のうち王は三三三株と一割弱の株をもつだけであり、大半の株は、銀行家、大商人、大工業家の手ににぎられていた。

そのほか、アンドレ大砲製造所、リュエル兵器工場(大砲)、サン・テチェンヌ王立マニュファクチュア(小銃)、パリのサン・ゴバン王立マニュファクチュア(ガラス)など、多くの重工業、軽工業があった。従業員も八〇〇人、六〇〇人、二〇〇人というような規模であり、蒸気機関を導入しているところもあった。

また、二〇〇人の労働者を使い、アークライトの水力紡績機を導入したルーアンの王立紡績マニュファクチュアとか、一五〇人を使うイギリス式工場の特権マニュファクチュアがパリ郊外にあった。

オーベルカンプがヴェルサイユ郊外に作った捺染の王立マニュファクチュアは、イギリスと張り合うことができるほどのものであり、新式の機械と蒸気機関を導入した。

ウェッセルランの王立捺染マニュファクチュアも、当時の大工業で、ビデルマングループが経営した。このエ場の経営者ジョアノは、国民公会議員となり、財政委員会に入った。恐布政治のときは、カンボンの下で実務を担当していたが、のちにカンボンが追放されると、彼が財政の実権をにぎり、恐怖政治の財政政策を廃止してしまった。革命を通じて生きのこりながら、財政の中枢からはなれなかったブルジョアの代表とみなすことができる。

フランス革命を通じて、財政の実権はネッケル、ルクツー(国民議会)、クラヴィエール(ジロンド派)、カンボン(恐怖政冶)、ジョアノ(テルミドール以後)と、つねになんらかの形でブルジョアジーの代表者に動かされていたことは、注目すべきことである。

アンザン会社は、北フランスで名門貴族数名によって組織されたものである。その中には、クロワ公爵(王宮の狩猟長官)やセルネイ侯爵(陸軍中将、知事)がいた。この会社は、フランスの約四分の一の石炭を採掘した大特権鉱山であった。革命前に四〇〇〇人の労働者、一二の蒸気機関を使用していた。

ヴァンデルは東部フランスの大鉄鋼業者であった。また領主であり、貴族でもあった。すでにコークスを使う製鉄をはじめていた。またクルゾーの大株主で、経営の指導権をにぎっていた。恐怖政治で当主は亡命したが、遣族が財産を守り、ヴァンデル家は現代までフランスの鉄鋼王としてつづいてきた。

ディートリックはアルザスの鉄鋼業者で、領主、貴族であった。彼ははじめ革命を支持し、ラファイエット派となった。彼のサロンで「ラ・マルセイエーズ」の作者が作曲をしたといわれる。恐怖政治のときには、反革命とされて財産を接収され、処刑されたが、革命後彼の遺族が工場を再建した。

こうした大工業家からはじまり、中小工場主まで、末広がりに存在した。末端は家内工業であり、これは民衆の列に入る。政治家を出したのは、せいぜい中くらいの工場主の階層までであった。たとえば、公安委員ジャンボン・サンタンドレは毛織物圧搾工場主の子であり、公会議員のグラネは富裕な樽工場主、デュ・ブシュは富裕な製紙工場主であった。


株式会社

この時代、多くの株式会社が作られ、その株が株式取引所で売買されていた。

ケース・デスコント(割引銀行)は、銀行の銀行として一種の中央銀行の役割を果していた。もちろん、現在の中央銀行とはちがう。まず国立銀行ではなく、あくまで銀行家が株と引きかえに出資して、それによって集まった基金が準備金となり、それに見合う紙幣が発行されたのである。その意味では、まだ民間の株式銀行・発券銀行にすぎなかった。

国王政府は、この権利を承認するのとひきかえに、資本金一五〇〇万リーブルの三分の二を国庫に徴収した。銀行家達は、特権を与えられる代償として、巨額の出資金を国家に貸付させられたのである。この事実は、特権的な銀行家といえども、貴族の組織する政府に支配されていたことを示すものであった。

理事はすべてパリの大銀行家であり、ネッケルは政府の側からケース・デスコントを保護した。フランス革命のときの理事長はボスカリであった。彼はパリの大商人、銀行家であるが、同時に帽子製造工場を経営する工業家でもあった。銀行家、商人、工業家の三つの性格を兼ねた上層ブルジョアである。また、徴税請負人のラヴォアジェも理事に入っている。

インド会社は、ずっと古くコルベールの時代に設立され、イギリス東インド会社に対抗して東方貿易をおこなう特権を与えられた。ただこの会社は、フランス絶対主義を露骨に反映した会社であった。というのは、大株主に国王をはじめ王族、宮廷貴族、法服貴族が名をつらね、それに商人、銀行家が加わったのである。

そこで、インド会社の株主総会では、王をかこんで貴族が指導権をにぎり、商人は発言の自由がなかった。商人は出資を強制されるだけであり、経営方針についてとやかくいうことはできなかった。つまりは絶対主義の会社というべきである。それでも、東方貿易でかなり繁栄したので、インド会社株は投機の対象になっていた。

そのほか、王立生命保険会社が銀行家クラヴィエールを中心に組織された。工業家のペリエは、自分の作った蒸気機関を使って、セーヌ河の水をくみあげ、パリ水道会社を組織した。このために火災の対策ができると、王立火災保険会社を組織した。

このようなブルジョアジーの活動の中でも、派閥闘争はさかんであり、とくに生命保険会社のクラヴィエール、ドレッセールのグループは、火災保険会社のペリエのグループと対立した。そうした中で、政府に会社設立を承認させるため、財界と政府のパイプ役をつとめる者が出てきた。

有名な者は、バッツ男爵と銀行家ブノワであった。このコンビは、インド会社株を買いこんだり、生命保険会社に投資をしたりして、巨大な資金をうごかした。バッツ男爵は宮廷貴族であり、投機業者であったが、フランス革命では王党派の闘士となった。ルイ一六世から五一万リーブルの大金を受取って反革命運動をすすめ、その後国王の救出作戦、王妃の救出作戦を進めて、間一髪で失敗した。また、その後の王党派の反乱にも重要な役割を演じた。


ブルジョアジーは被支配者であった

バッツ男爵のような場合は、宮廷貴族とブルジョアが一人の人間にまとめられているから、支配者か被支配者かわからなくなるが、このような少数の実例をのぞくと、ブルジョアジーはやはり被支配者であったということができる。

たしかに、上層ブルジョアジーに属する者には、個人財産では貴族に匹敵するほどのものがあらわれた。しかし、それだけでは権力の座につくことができない。また、権力をにぎっている宮廷貴族を意のままにうごかすことはできなかった。それどころではなく、いろいろな方法で宮廷貴族に利益の一部を吸い上げられていた。

たとえば、もっとも特権的だといわれていた徴税請負人についても、政府と徴税請負人の間接税徴収の契約をめぐって、そのことがいえる。徴税請負人は、直接政府と契約することができない。徴税請負人を代表して、一人の貴族が政府と契約する。すべては、その貴族の名においておこなわれるが、その報酬として、その貴族が年金を受取る。つまり、徴税組合に貴族が寄生しているのである。

インド会社の場合は、会社は特権会社であっても、その中での発言権は商人やブルジョアにはなく、国王を頂点とする貴族の経営方針にしたがわなければならなかった。これは、プルジョアジーの会社ということすらできない。

ケース・デスコントは、ブルジョアジーの中央銀行ということができるが、せっかく出資した資本金を、国王政府が財政赤字を理由に強制的に借入れた。そこで準備金は減少した。しかも政府財政は赤字を増加させる一方であったから、ケース・デスコントの信用が落ち、紙幣の流通が困難になった。これも、フランス革命をひきおこした理由である。ケース・デスコントは、国王政府の喰いものにされていたということになる。

特権的商人、特権会社と「特権」の名がついても、まだ支配者の地位に上昇したわけではなかった。彼らが支配者の地位に上昇したのは、フランス革命によってであった。このことをはっきりさせておかなければならない。なぜなら、特権商人層が革命前、すでに支配者になっていたと主張する学説が日本で根強いからである。こうした学説は、とくに大塚史学と呼ばれる学派から強力に主張されている。

「すでに『初期財閥』型構成を示す政商的特権商人層が、王制当局と密接に絡み合いつつ、絶対王制の階級的支柱として最高の支配的地位を確立し」(中木康夫『フランス絶対王制の構造』三三三頁)。

これならば、特権商人はすでに革命前に支配者であったことになる。この解釈の違いは、フランス革命の解釈から、日本の歴史への適用に至るまで、基本的な喰いちがいに発展する。

要約 ブルジョアジーと商工業

ブルジョアジーは被支配者であった、。

ブルジョアジーとかブルジョアという言葉から受ける印象は、今の日本人と当時のフランス人の受ける印象が全然違う。「彼の趣味はブルジョアだ」というと、「下品、ろくでもないい、趣味が悪い」という風に聞こえた。では良いのはどうかというと、「ノーブル」つまり貴族的でなければならない。どんなに金を持っていても、貴族でなければ、「何者でもない」といわれた。何物でもないものが何ものかになるためには、娘が必要だ」、ネッケルという最大の銀行家が娘をスエーデンの貴族スタール男爵と結婚させたとき、こういわれた。第三身分は何者でまなかったが、これから何者かになると、シエイース(シェイエース、シーズなど呼び方がある)という副司教が「第三身分とは何か」で書いた。つまり、フランス革命前では、金はあっても、権威も、権力もなかったということである。これをしっかりと頭に叩き込んでから、フランス革命と学ばねばならぬ。

ブルジョアジーがすでに権力に到達していたかのようにいう歴史観があった。

倒錯の歴史観はだめですよ。

今から約100年前のころであり、それが今でも時々ネツト似出てくる。この学説の最強の人は、ルフェーブルといった。多くの人がこの人の学説を引用した。この人の学説の要点は、フランス革命の前に、すでにこの階層が権力に到達していたというものである。それに対する反発を貴族がし始めて、まずは貴族革命というのがあり、それから革命が展開されたという。この貴族革命説という言葉も、今なおネットの中に出てくる。これは倒錯の歴史観である。

私が具体的な商工業者の姿を紹介しているのは、第三身分の中の成功者にはなったが、まだ権力には到達していない者の姿を描いたものだと理解してほしい。つまり、ブルジョアジーは「まだまだ」であった。これが納得できれば、具体的な事実は軽く読み飛ばしてもらえばよい。

2021年12月3日金曜日

03-フランス革命史入門 第一章の一 支配階級としての貴族

第一章フランスの絶対主義


一 支配階級としての貴族


絶対主羲君主の役割

フランス革命は、旧体制(アンシャン・レジーム)を倒して近代社会への道を切りひらいた一大転換期である。倒されたアンシャン・レジームは絶対主義と呼ばれていた。この言葉は、中世の封建制度にくらべると、国王の権力が強まり、国王の権威が絶対的な水準にまで高まったことを意味していた。国王の絶対的権威は、王権神授説によって理論化され「朕は国家なり」の言葉がなによりもよくその本質を示していた。

フランス絶対主義はルイ一三世の時代リシュリュー宰相(枢機卿、公爵)によって確立された。そのあと、ルイ一四世、一五世と続き、ルイ一六世の時代にフランス革命に出合い、ここで絶対主義は崩壊した。フランス絶対主義の王権は、どの程度に国王個人の権力を意味していたかを考えてみる必要がある。

ややもすると絶対主義という言葉のもつひびきにとらわれすぎて、絶対主義といえば、国王個人の命令が絶対的に守られたというぐらいに理解されている。しかし、実は、皮肉なことに絶対主義の国王個人、必ずしも絶対的な権力をもっていたわけではなかった。

たとえば、ルイ一三世をたててフランスの絶対主義を確立したリシュリュー宰相は、ほとんどの政務を国王にかわっておこなっていたのであり、ルイ一三世は、リシュリューに権力の行使をまかせきりにしていたのである。つぎのルイ一四世の前半期は、国王が幼少であったために、マザラン宰相(枢機卿、公爵)が実質的に政権をうごかしていた。ルイ一四世の後半期には親政の時代となり、国王個人の指導権が発揮されるが、前半期には、国王個人に指導権がなかった。ルイ一五世の時代には摂政の時代と呼ばれる時期があり、ここでは、国王にかわってオルレアン公フィリップが摂政として権力を行使した。

このようにみると、いついかなるときにおいても、国王その人が、常に絶対的権力を行使したわけではなかったといえる。国王が権力を行使できない場合も多く、その場合には、リシュリュー公爵とかマザラン公爵、オルレアン公爵といった人物が、国王の名において、実質的な権力をふるったのである。そこで、絶対主義といっても、必ずしも国王個人の絶対ではなくして、じつは、国王をたてて絶対的な権力を行使したある一群の人々の絶対主義、あるいは彼らの中央集権的政治と考えるべきである。

このような考え方を明確にしておくと、フランス革命の責任をルイ一六世個人の無能のせいにしたり、王妃マリー・アントワネットの浪費、軽薄さのせいにして説明をすますことができなくなる。たしかに、ルイ一六世は無能で、無気力な肥大漢であり、政治に関心がうすく、狩猟と錠前いじりが趣味であった。マリー・アントワネットとの間にも正常な夫婦関係がつづいていたのかどうかすら、疑われていた。それだけに、王妃の浮気と浪費も極端となり、これが国王の権威を落し、財政赤字を増加させた原因になった。しかし、こうした個人的な要素が決定的なものであったわけではない。かりに、国王と王妃が賢明な人物であったとしても、革命は始まったはずである。君主の個人的資質に関係なく、革命へと進めていく原因があったのである。以後の説明はそうした立場からなされている。


権力を組織した宮廷貴族(大領主)

国王は最大の領主であり、全国の領地の約五分の一を持っていた。つまり、五分の一の領地が王領地であった。これは国王が最大の領主であったということであるが、決して全国の領地を独占していたわけではなかった。この事情が意外に日本では誤解されていて、絶対主義の時代といえば、国王が、全国を領地として所有していたかのように受けとっている人も多い。

とくに日本史研究家が、フランス絶対主義のもとで、国王が「唯一最高の領主」であったというように理解し、この公式を天皇制に適用して、天皇制は絶対主義であるという主張の根拠にしてきた。

実際は国王があくまで領主の一人であり、最大の領主であったということにとどまる。つぎに確認しなければならないことは、リシュリュー、マザランといった実質的な権力者が、いずれも大領主であったということである。リシュリューはボルドー近くの大領地をもつ領主であり、マザランはアルザスの大領主であった。オルレアン公爵はフランスの各地に大領地をもち、それを合わせると、国王につぐ大領地の所有者になっていた。

これらの実例に象徴されるように、王権を動かしていた者は、このような大領主の一団であった。このような大領主の一団を、当時宮廷貴族と呼んでいた。その数は約四〇〇〇家であり、ヴェルサイユに邸宅をもち、ヴェルサイユ宮殿に出入して、国王を取りまいていた。

宮廷貴族になるためには、少くとも一四〇〇年代にまでさかのぼって、貴族の家系であることが証明されなければならなかった。宮廷貴族にも上から下まであり、下の者は、国王付きの小姓、近衛兵、近衛軽騎兵などの職が与えられた。上の者は、さまざまな高級官職を確保していた。この高級官職には、大きくわけて二つの性格をもつものがあった。

まず第一は、正規の国家権力を動かすものであり、これは現代の権力機構にかなり似ていた。まず王のまわりにいる大臣である。つぎに軍の高級将校、将軍、元帥の地位である。ただし、当時の軍の将官の地位は、現代にくらべてはるかに高い地位にあった。地方政治については総督、王の代理官(奉行)、州の司令官、州の知事というような多くの役職があった。

この中で、租税徴収のような実務は、知事がおこなうことになっていた。州の総督は、はじめの頃は実務的な地位であったが、しだいに実務からはなれ、かなり名誉職のような状態にかわっていった。王の代理官もそうである。州の司令官は、現代流にいうと地方駐屯軍の司令官であるが、現代にくらべて、はるかに強い権力をもっていた。

これらの官職をみるときに、現代とくらべて、単純な対比をすることはできない。当時は、現代ほど行政機構が整理されていたわけではない。むしろ雑然としていた。

そのうえ今ほど中央集権が進められていたわけではなかった。絶対主義という言葉からは、たいへんな中央集権が成立していたかのように受けとられるのであるが、それは、封建的な分裂状態から見れば、絶対的なほどに中央集権が進んだのであって、現代の中央集権からみるならば、まだまだ、はるかに地方分権の要素が強かったのである。そのため、地方権力としての総督、王の代理官、地方軍司令官、知事の権限が強かったのである。その地方権力を中央に結びつける方法として、総督が同時に大臣となり、元帥となるというような形で、一人の宮廷貴族が、地方権力と中央権力の両方を握る場合が多かった。たとえば、宮廷貴族の筆頭コンデ太公は、ブルゴーニュ州総督でもあり、陸軍大臣にもなった。エギョン公は、ブルターニュ州の司令官と、王の代理官を兼任しながら、外務大臣にもなった。


宮廷貴族と高級官職

総督と知事の、どちらが実権をにぎっていたかという議論がなされるときもある。総督には名門の宮廷貴族がなり、知事には地方のブルジョア出身の貴族、つまりは成り上った貴族がなったので、このどちらが強かったかということが、宮廷貴族とブルジョア出身の貴族との勢力関係を評価するうえで重要になってくる。

総督と知事、これを比較するならば、総督の権力が強かった。総督に贈り物をして、租税の減免を認めてもらうことができた。租税徴収の実務は知事がおこなうわけであるが、その知事に対して、上から命令できたのである。知事が、総督や軍司令官になった宮廷貴族のために働いているといわれたところもあった。

また、知事になるためには、有力宮廷貴族に保護され推せんされなければならなかった。そこで、宮廷貴族自身は実務を担当しなかったとしても、知事は、総督や軍司令官になった宮廷貴族の顔色をうかがいながら仕事をしなければならなかったのである。

宮廷貴族の上層は、高級官職に、家柄のカで若い頃から任命された。たとえば、一一歳とか、一二歳の宮廷貴族が、総督に任命されることはめずらしくなかった。こうしたことは、現代では考えられないことである。当時が、家柄と門閥の時代であったことを示すものである。この意味をよく理解しておかなければ、フランス革命の意義を正確に認識できない。


国家財政の実権

宮廷貴族の地位は家柄で決まる。ほとんどの場合、長子相続制であるから、長男に生れた者だけがこの特権をひきつぐことになる。そこで、宮廷貴族必ずしも能力のある者とは限らなかった。むしろ、無能な者が多かったというべきであろう。もちろん、無能といい、有能といっても、その社会、階級によって評価がちがう。当時の宮廷貴族に要求される能力は、宮廷の作法、剣の操法、宮廷ダンスの技術、貴婦人の扱い方などであり、これを基礎にして、宮廷での地位を高めることが評価の基準となった。学問とか、経済運営の能力は次元の低いものとみられていた。

宮廷貴族の大多数は、大蔵大臣の仕事にむかない者が多く、そのため、この地位に宮廷貴族以外の者が就任して腕をふるった場合が多かった。表面的に大蔵大臣の顔ぶれをみても、宮廷貴族一色でぬりつぶされているわけではない。しかし、そのような顔ぶれを根拠にして、宮廷貴族は権力から排除されていたというのもまた正しくない。それぞれの有力宮廷貴族が、能力のある者を引き立ててパトロンになり、大蔵大臣に送りこんでやり、そのかわり自分の要望通りの政治をおこなわせたのである。有名な財務総監(大蔵大臣)とパトロンの宮廷貴族の実例をあげてみよう。

カロンヌ(財務総監)はポリニャック公爵夫人とリュイヌ公爵に引き立てられていた。ポリニャック公爵夫人は王妃マリーアントワネットのお気に入りで、皇太子の養育係であった。

ネッケル(財務総監)のパトロンは、カストリ侯爵(元帥・海軍大臣を兼任)とブロ夫人であった。そしてブロ夫人は、オルレアン公爵の息子シャルトル公爵の夫人につかえていた女官であった。その意味で、ネッケルはオルレアン公爵につながりをもっていたということができる。

財政はとくに専門的な知識を必要とする分野であるから、あまり勉強をしない宮廷貴族にはもっともむかない職務である。それでいながら、もっとも重要なポストであるから、ここにはとくに、宮廷貴族以外の実務家が就任したが、その実務家をそれぞれの宮廷貴族が送りこんできたのである。

同じようにして、財務総監フルーリ(一七八一年から八三年)は、ブリオンヌ伯爵夫人に引き立てられていた。彼女はランベスク太公の夫人であった。

旧体制最後の財務総監でバスチーユ襲撃のとき虐殺されたフーロンは、スービス公爵に保護されていた。


高級官職の収入

宮廷貴族は高級官職を独占していた。何のためにと問われるならば、権力のために権力をにぎったというのは正しくなく、収入のために権力をにぎったと答えるべきであろう。得にもならないのに、権力の座にすわって心をわずらわすものはいない。

ところで、当時の官職収入は、現代社会とはけた違いに大きかった。コンデ太公は、ブルゴーニュ州総督の官職のために、年間二万六〇〇〇リーブルの俸給を手に入れていた。そのうえ、総督職につく臨時的収入が一一万六〇〇〇リーブルになった。もう一つ、総督は、ブルゴーニュ州の王室狩猟区を自由にする権利があり、これを経営して三七万リーブルを手に入れた。

正規の俸給よりも臨時収入、今日でいう役得、受託収賄、職権濫用の類からあがる収入のほうが多かったのも、当時の特色である。これを汚職として追及する制度は、まだなかった。そでの下、役得は当然の権利とされていて、この点では日本の江戸時代と同じであった。

さて、コンデ太公の総督職は合計五一万二〇〇〇リーブルの年収になった。これが、いったいどれくらいの価値をもつのか考えてみたい。当時、標準的な職人、労働者の日給が一リーブルを前後していた。そうすると、年間三六〇リーブル弱となる。そこで、現在の日本の平均的労働者の収入を三六〇万円と一応仮定すると一リーブル一万円となる。時代も、お国柄も、物価体系もちがうのであるから、正確な比較はできない。しかし、何らかの目安をつけるとすれば、このように換算のしやすい単位にそろえるほかはない。

そうすると、コンデ太公の総督職の収入は、五一億円を越えるものになる。ここに、高級官職を独占する意味があった。以後、一万リーブルの年収といえば、一億円を頭に置いてもらうと理解されやすい。

モンバレー太公は大臣としての俸給を四万四〇〇〇リーブル受取り、そのうえ大臣としての年金二万リーブルをもらっていた。

大臣に就任するときには就任費を受取る権利があり、これがまちまちであった。ルイ一五世の時代、モーブー宰相は六万リーブルをとり、ルイ一六世の海軍大臣サン・ジェルマン伯爵は三四万四〇〇〇リーブルをとった。

軍の高級将校の収入も高い。ブチイエ侯爵は三一歳で連隊長になったが、その俸給は四万リーブルであった。

ビロン公爵は元帥となり、パリ周辺の軍隊を統括していた。彼は軍隊の中に大邸宅をつくり、高級将校を集めて大宴会を開いていたが、毎月二万リーブルの収入と臨時手当四万リーブルを手に入れていた。

こうして、高級官職の収入は、数億円から数十億円に相当するものになった。ところが、一人の宮廷貴族が一つの高級官職だけに甘んじていたとは限らないのである。むしろ、二つ、三つと兼任するのが常識であった。一人の宮廷貴族が総督となり、かつ軍の将官となり、王の代理官となり、同時に大臣となるといった調子である。

たとえばブローイ公爵(ブログリオ公)は元帥、メッツ軍団の司令官、メッツ、ヴェルダン、ツールの総督を兼ね、旧体制最後の陸軍大臣になって、パリ周辺に軍隊を集結し、市民の軍事的弾圧を計画した。当時のタカ派軍人が、二重、三重の特権的官職に囲まれた宮廷貴族であったことが理解できるだろう。


国家財政に占める官職収入の比重

ここで、当時の国家財政と官職収入との関係をふり返っておきたい。フランス革命の八年前、時の財政報告書をネッケルが公表した。それによると財政収入二億六四一五万リーブル、財政支出二億五三九五万リーブルとなっている。一リーブル一万円で換算すると、現在日本の国家予算より一けた小さい。これは、経済の規模、官僚機構の規模がまったく違っていたことを反映している。また、地方で領主の徴収する封建権利収入(領主権収入)が根強く残っていた。これが一種の地方財政のような形で続いていた。そこに王権が侵入して、中央政府の徴税権を強化していったのである。それだけに、まだ中央政府の財政が全面的な勝利を占めるほどにはいたらなかったのであり、そこにも、絶対主義必ずしも絶対的なものではなかったことを反映する事情があった。

ただ、このような国家財政の規模から見るならば、高級官職の俸給や臨時手当の比重は、ますます重大なものになってくる。コンデ太公の総督職収入の五一万リーブルは、フランス王国の財政支出の五百分の一となる。

一人の高級貴族の一つの官職収入がこれである。一人が二つ、三つを兼任し、そうした高級貴族が数十人いて、それから以下、ピラミッド型に四〇〇〇家の宮廷貴族が大小の官職収入を手に入れていたのである。国家財政の大半は、彼らのふところに入ったとみてさしつかえない。


宮廷の官職

当時の官職収入の中には、現在の社会では理解しがたい性格のものがあった。それは国王一族の宮廷の官職にともなう収入であった。王の宮廷とは、たとえていえば宮内省、宮内庁のようなものであるが、そのもつ比重は断然ちがっていた。なによりもまず、宮廷の費用が全国家予算の約一三パーセントを占めていたという事実である。ということは、国家予算の一三パーセントが、国王一族の個人的な支出のために使われていたのであった。

今、王個人に代表されるような言い方をしたが、厳密にいうと個人のものではない。王だけではなくて、王妃、王の妹(エリザベート夫人)、王の叔母、王の娘(内親王)、王の二人の弟。プロヴァンス伯とアルトワ伯、ならびにそれぞれの夫人についても、それぞれの宮廷が作られていたのである。

これの原語を直訳するならば、「王の家」と呼ぶべきである。しかし、それでは印象がうすいので、宮殿、あるいは邸宅と呼ぶべきかもしれない。いろいろ呼び方はあるだろうが、この宮廷の費用は、王とか王弟の個人的支出という名目ではあるが、実質的には、宮廷貴族を養うためのものになっていた。

たとえば、宮廷貴族がヴェルサイユ宮殿で王を囲んで宴会を開き、食事をする。この費用は王家(王の宮廷)の支出でまかなわれる。これを運営するのが大膳職であり、大膳職長官からはじまって、三〇〇以上の官職があり、給仕が約一〇〇人いて、年間の支出は約二〇〇万リーブルになった。王家の食費だけで、国家予算の約百分の一になるのであるが、これを平たくいえば、宮廷貴族が、国王に宴会費をたかっているといえよう。

それを証明するのは、たとえばルイ一六世の酒の費用である。ルイ一六世自身は酒をほとんど飲まなかったが、のだが、一七八五年には、六五六七リーブルの予算であった。それが、一七八九年、つまり大革命の年には、六万〇八九九リーブルとなり、四年間で十倍にはねあがった。国王をだしにして、宮廷貴族が酒を飲んだためである。また、これを管理する官職をもっていたヴォドルイユ侯爵が手数料を取っていたために、「王の飲み代」がはねあがったのである。

同じように、エリザベート夫人の食事に約四〇万リーブル、内親王達の食事に約一〇〇万リーブルを必要とした。そして、それぞれの宮廷の宴会に、パン係とか肉切係とか酌とり係とかの係がもうけられた。実際に働くのは小姓であるが、その上にそれぞれの長官がいて、長官には高級の宮廷貴族がなっていた。食事を扱う大膳職とは別に、王のまわりを取りまいている小姓、家庭教師、衛兵がいて、それを統制するものとして侍従長がいた。侍従長はブイヨン公爵、主席侍従官は四人いて、その一人にリシュリュー公爵がいた。

王や国王一族の財産を管理する役目に納戸職があり、その長官はラ・ロシュフーコー・リャンクール公爵であった。そのもとに鷹狩隊長とか、猟犬隊長とか、厩舎を管理する主馬頭とか、狩猟を運営する狩猟長とか、儀式を運営する式部長官があった。

主馬頭にはランベスク太公、狩猟長にはバンチェーヴル公爵と、それぞれ最高の宮廷貴族がなっていた。宮廷を護衛する近衛兵の隊長にはビロン公爵、スービス公爵、エギヨン公爵などの宮廷貴族が任命されていた。

こうした宮廷貴族の頂点に、王家(王の宮廷)の長官(フランスの大長官)の職があり、宮廷の官職の任免権をもっていた。この官職は、コンデ太公の世襲であった。宮廷の高級官職はほとんど世襲であり、中・下級の官職だけに異動があった。


無用官職に高い俸給と副収入

これらの官職の必要性を現代の財政的な見地からいうならば、まったくの無用官職であった。小姓は、家柄の低い宮廷貴族とか高級貴族の年少の子弟がなった。その役割としては王の髪をとく係とか、マントを持つ係、ステッキを持つ係、犬を監督する係、ネクタイを結ぶ係、便器を運ぶ係、風呂場でふく係など、やたらといろいろな係を作ってそれに俸給を与えていたのである。

こうした官職を、一つでも多く、少しでも有利なものを取ることが宮廷における貴族の生存競争であった。そこで、ある貴族は、自分の息子を宮廷に送りだすときに「常に王の目につく場所に立ち、職が空いたときすかさず願いでること」という教訓を与えたといわれている。

官職を手に入れると、俸給以外に副収入の道があった。宮廷で葬式がおこなわれると、王や王妃、その他王弟、内親王に仕えている小姓や女官は、王家の費用で新しい喪服を買い与えられる。その後、その服を転売して金にかえた。

王の部屋に仕える小姓の官職だけに、八万リーブルが必要であった。小姓になると、身のまわりのもの一切が王家の費用から支出された。そして、王の第一小姓になったコワニー公爵は四万リーブルの俸給をもらった。王妃の女官は一万二〇〇〇リーブルの俸給を受けた。

そのうえ、王妃の部屋やそれに附属する部屋のろうそくを毎日集めて売りはらい、その売上代金を自分のものにした。ろうそくがともされない日は、毎日八〇リーブルを補償金(ろうそくの権利)としてもらい、これが一人あたり五万リーブルの収入になった。このように、正規の俸給も大きいけれども、これに附属した権利からあがる収入が莫大なものになった。しかも、その権利とは、近代の合理的な社会からみると、想像できないほどおかしなものであった。

王が狩猟にでかけたとする。ルイ一六世は狩猟好きで、一日の狩猟で四〇〇頭から五〇〇頭の動物をとった。この狩猟に小姓がお供をする。獲物はお供をした者に分配される。残ったものは第一小姓が取った。そのため、獲物の分け前が莫大なものになった。しかも、この動物は、国費でヴェルサイユの森に放し飼いにされていたものである。

王が狩猟をおこなうと、シャンパーニュ産ぶどう酒一二ビンが分配された。ルイ一六世は錠前いじりと狩猟が好きであったとよくいわれるが、その狩猟好きも、一人ででかけていって何匹かの獲物をとってきたと考えるならば、当時の実態からはずれるわけである。王が狩猟をするということは、王を取りまいている貴族達が獲物の分け前にあずかり、その機会に酒をもらい、宴会にあやかるということであった。こうした費用も、王家の費用として支出された。


年金制度と赤帳簿の濫用

国家予算の約十分の一を占める年金支払が、二八〇〇万リープルとなっている。この年金は、退職した兵士や将校にも支払われるが、同時に、大臣や元帥をつとめた宮廷貴族にたいしても支払われている。しかも、その額に大きな開きがあった。

たとえば、コンデ太公の年金は一五万リーブルであった。ところが、近衛騎兵を四八歳までっとめて退役した一人の下級貴族は、四八〇リーブルの年金をもらっている。このように、年金は上から下までに支払われたが、やはり、宮廷貴族がその大部分を手に入れていた。

つぎに、正規の国家財政の中に含まれない形で、宮廷貴族に対する恩恵が与えられていた。フランス革命のときに、もっとも有名になった二人の貴婦人がいる。ポリニャック公爵夫人とランバル公爵夫人である。ポリニャック公爵夫人は、皇太子の養育係という官職をもち、王妃マリー・アントワネットの寵臣であった。そこで、ポリニャック公爵夫人の願い事は、王妃を通じてかなえられた。

もともとポリニャック家は伯爵の家柄であったが、公爵に昇格させてもらうときに、公爵にふさわしい領地を手に入れなければならなかった。そこで王妃が、一二〇万から一四〇万リーブルと評価される領地を買い与えてやり、これでポリニャック家は公爵家となった。一人の女性のために、一二〇万リーブル以上の国家資金が支出されたのである。この資金は、正規の国家予算の中からでたのではなくて、王が個人的に使用できる別会計の中からだされた。

この別会計は「赤帳簿」と呼ばれていて、秘密のものであった。その正確な内容はほとんど知らされていないけれども、のちに国民議会が赤帳簿を分析した結果、大革命から一五年さかのぼった期間に、二億二七九八万リーブルの支出があったと推定された。その中には、王弟への支出とか恩賜金とか年金とか、王や王妃の個人的支出という項目があり、巨額の支出になっていた。

ランバル公爵夫人は王妃付き女官長であった。そこで、彼女の父カリニャン太公は、王から三万リーブルの年金と歩兵一個連隊を与えられた。これが大臣にも相談なしにおこなわれたのであるから、王妃の寵臣になることは、大臣の上をいくことになる。

ポリニャック公爵夫人は、娘の持参金に八〇万リーブルを王からもらい、借金をしたからといってその支払に四〇万リーブルをもらった。この二人の貴婦人はもっとも目立った実例であるが、このようなことは、当時の宮廷では、ごくあたりまえのことであった。

宮廷貴族は、夫人を使って、大臣、王妃、国王のところにいろいろな理由をつけて金を取りにいかせた。また、貴婦人はそのための才能をそなえていた。こうして、宮廷貴族の一人クロワ公爵の表現によると、「誰もが、ひときれのものを奪おうとして争った」といわれている。いわば、宮廷貴族による国庫略奪であった。


財政危機にたいする宮廷貴族の責任

フランス革命は財政赤字、国庫の破綻を引金にして引きおこされた。その国庫の赤字を作りだしたものは何かというと、それが、このような宮廷貴族の国庫略奪であった。国家財政を健全財政にもどそうとするならば、このような宮廷貴族への巨額の支出を打切ればよいのである。このような性格の支出を打切っても、経済的発達を妨げることにはならない。そして、たしかにフランス革命以後、その支出は打切られた。それ以後現代社会にいたるまで、このような不合理な支出を見ることはない。

ところが、このような不合理な支出が、当時の社会では当然であるとされており、宮廷貴族にとっては、これが正当な権利だと思われていたのである。そして、その権利を守るための手段として、彼らが行政、軍事を含めた国家権力の上層部分を残らず押えていたのである。革命なしには、これらの特権を奪うことはできない。ここに、フランス革命の基本的な意味があったのである。

革命なしに、改革でこのような無駄な出費を節約しようとしても、結局は失敗に終る。いかに無駄なものといっても、出費を節約することは、その係、官職をにぎっている宮廷貴族の誰かの収入をけずることになる。フランス革命の直前、節約政策の一つとして、主馬寮を統合した。そのため、コワニー公爵が権利を失った。彼は、王と王妃を前にして激烈な抗議を申し入れた。王妃は、取りまきのブザンヴァル男爵に、コワニー公爵の態度が悪かったと苦情をいった。しかし、ブザンヴァル男爵の答えは、コワニー公爵に同情的であった。

「たしかに彼は礼儀に欠けていました。しかし、前日にもっていたものを明日持てないということは恐しいことです。こんなことはトルコにしかありません。」

このように、宮廷貴族の目からみると、たとえ節約政策であろうと、その権利を取上げることは悪政に見えるのである。彼らは、権利を守ることを正義と心得ていた。こうなると、たとえ王や王妃が無用な支出を削ろうとしても、自分を取りまく宮廷貴族の総反撃を買って失敗してしまう。その場合、宮廷貴族の集団的な利益が問題になるのであり、国王の意志とか、少数の改革派の意志は問題にならないのである。


宮廷貴族が破産したという誤解

このように、宮廷貴族は当時の最強の集団であり、支配階級の頂点にいるものであり、政治的にも、経済的にも、軍事的にも、もっとも強い立場にあったのである。これが、フランス革命で、はじめて敗者の立場に立った。敗者の歴史はもっとも研究されない分野である。この一般的な傾向から、フランス革命の歴史においても、宮廷貴族の実態がしだいに誤った方向で描かれるようになった。

宮廷貴族はフランス革命の時点で敗北したのであるが、敗北したものは昔から弱かったと思わせるような錯覚が定着して、敗北する前から、宮廷貴族はすでに弱くなっていたというような描き方が普及しはじめた。これは、後世の意識でこの時代を割り切ろうとするものであるが、それでは正しい理解にならない。たとえばソブールは、宮廷貴族の特権についてのべた後、つぎのように書いている。

「このようであったからといって、上流貴族が破産していなかったわけではない。その収入は、格式を維持するのに精一杯だった。……金持ちの平民のあととり娘との結婚も、難局を切り抜けるにはたりないで、上流貴族は借金をし、破産した。事実社交生活は一部の上流貴族を、啓蒙思想の味方である金融貴族に近づけた」(ソブール『フランス革命』小場瀬卓三他訳、岩波書店、昭和二八年、上巻、一一頁)。

このようにして、宮廷貴族が経済的に苦しくなり、平民の金持すなわちブルジョアジーから金を借りたり、縁組による経済援助をうけて、やがては自由主義的貴族へ移行していったかのように書いている。このような書き方に、すでに二つの問題点がある。

まず、上流貴族が破産したという表現である。なんの説明もなしに破産といわれると、現代社会の破産を思いだす。破産したならば、その貴族は没落したのであろうと思う。このように受け取るならば、当時宮廷貴族の中で破産が流行していたから、宮廷貴族の多くが没落し、弱者になったと思うのは当然である。

ところが、当時の貴族社会での破産は、現代の破産とはまったくちがった内容をもっていた。たとえば、ロアン・ゲムネ太公の破産の例が示すようなものである。ポリニャック公爵夫人の前に皇太子の養育係をしていたゲムネ太公夫人の夫、ロアン・ゲムネ太公が破産した。その額は三〇〇〇万リーブルに達した。しかし、ロアン・ゲムネ太公は没落したわけではなかった。国王の命令で債権の取りたては禁止された。国王は、この家系が国家にとって重要であるからという名目で、救済するためのいくつかの命令をだした。

国王は、五〇〇万リーブル以下の価値しかない領地を一二五〇万リーブルで買い取ってやった。結局は、七〇〇万リーブルをえて領地を不正交換してやったことになる。そのような政策の結果、国家の資金は減るが、その犠牲の上でロアン・ゲムネ太公は救われることになる。これに似たさまざまな政策のおかげで、宮廷貴族は破産をしておきながら、その後始末を国王にかぶせた。この時代には、破産の権利があった。破産とは、国家の資金を前もって使う権利にほかならなかった。そうした意味で、宮廷貴族の世界においては、破産のもつ内容がちがっていたのである。

借金をしたり破産したりしたから、平民の金持と縁組せざるをえなかったというのは、現代社会の官僚とブルジョアの結合の実例を、そのまま、この時代にあてはめようとしたものである。それは、一種の空想のようなものである。大多数の宮廷貴族は、家柄を大切にしていた。宮廷貴族同士の間でしか、しかも、それそれの家柄につりあった結婚しかしなかった。もし平民の娘と結婚すると、宮廷で異端者としての扱いをうけた。そのうえ、これが当時の実情であった。

王が借金の救済をしてくれるのであるから、なにも平民の娘と結婚する必要がない。

平民の娘と結婚をした実例もある程度は見られる。しかし、全体の中ではほんのわずかであった。そのことをソブールも知っている。そのため、「一部の上流貴族を」という形で、一部とことわっている。これはその通りである。しかし、それならば、その前の文章が問題になる。まるで、この傾向が上流貴族の大勢を占めていたかのような書き方になっている。そして、破産を現代のような意味で書いているから、なにか当時の宮廷貴族がすでに没落に向っていたかのような印象を与えるのである。これが誤解のもとになる。同じようなことは、ルフェーブルも書いている。「革命前夜のゲムネ家のように、破産におちいった貴族もいる」(『一七八九年ーフランス革命序論』高橋幸八郎他訳、岩波書店、一一頁)と。これだけを書きっぱなしにしているから、読者は現代社会の破産と思いちがいをすることになる。

当時は、なによりも家柄の時代であり、夫婦とも家柄が良くなければ、宮廷内でしかるべき地位が取れなかった。家柄が良ければ破産からも救われる。そのため、貴族と貴婦人は、家柄にしたがって愛情のない結婚をした。それでも、家柄を維持するために離婚はしなかった。そこから生れるお互いの不満は、宮殿の中における自由恋愛で解消した。恋愛ならば大目に見られたのであり、王妃マリー・アントワネットですらも愛人をもっことができた。スウェーデンの貴族で美男子のフェルゼン伯爵が有名であった。その他王妃に首かざりを贈って思いをとげたとか、とげなかったとかいうロアン太公(枢機卿)の名もでてくる。

まして、一般の貴族や貴婦人は、お互に愛しあったり別れたり、ふったりふられたりしていた。そして、宮殿で出会う男女のうちで、「もっとも無関心な者は夫婦である」といわれたぐらいであった。これが当時の実情であった。銀行家や大商人の娘と結婚することは、身分ちがいの結婚であり、宮廷貴族の中では慣習に反したことであった。


宮廷貴族は大領主

宮廷貴族がどのような足場をもっていたかということについても、大きな誤解がある。ソブールは、貴族の所有地が全国の約五分の一であったと書いている(『フランス革命』上巻、二四頁)。マチエの『フランス大革命』でも、注釈に、貴族が全国の土地の五分の一を「領有」していたと書かれている(上巻、二三頁)。

ここで問題なのは、ソブールでは所有地となっており、マチエの翻訳者の注では「領有」となっていることである。「領有」とは領地所有のことと解釈できる。そうすると、全国の五分の一の領地を持っていたとも理解されるわけである。

「領地」といい「所有地」といい、この二つはまったく別なものである。そのことは追ってくわしく解説をするわけであるが、この五分の一というのが、へんな誤解のもとになる。貴族社会全体で五分の一とすれば、宮廷貴族の持分はもっと少なくなり、半分とみても十分の一になってしまう。なにしろ宮廷貴族は四〇〇〇家であるのに、貴族の総数は一四万人であるからだ。

この程度の土地しか握っていない者が、どうしてあのような強大な権力をにぎっていたのかという疑問がでてくるはずである。土地はもはやいうに足りないものであるから、宮廷での官職収入が主なものになる。そうすると、仮に土地所有をゼロとみなすならば、彼らはヴェルサイユに集まっている、寄生的な官僚の集団と考えられる。それでは、現代社会の官僚とかわるところはなくなる。そこで、日本の歴史家の多くが、ヴェルサイユに集まっていた宮廷貴族は土地を失っていたとか、土地から引きはなされていたというように解釈するのである。

たとえば、フランスの宮廷貴族が土地を失っていたと解釈し、これを日本にあてはめて、天皇制のもとで、旧大名が土地をはなれて華族になり東京に集まっていた状態と同じもののように対比している学説もある。このような学説も、天皇制が絶対主義であるというための根拠になっている。

これが重大な誤解である。宮廷貴族は大領主であって、圧倒的な比重の領地を持っていたのである。五分の一というようなものではなかった。当時のフランスには、「領主なき土地はなし」という言葉があった。全国の土地どこをとっても、何らかの領主がいるというのである。例外的に領主のいない自由地があったが、これはあくまでわずかなものであった。そこでこれは一応無視してかかるとして、その領地のうち、だれがどれぐらいの割合をもっていたかということについては、正確な数字をだした人もなく、だすことも不可能な状態である。王領地が約五分の一であるということはかなりたしかなようである。その他の領地については、全国的な統計をとることすら不可能である。それにしても、なんらかの目やすをつけたいものである。

私が「アモン地区」の資料を手がかりにこの比重を調べてみたところ、王領地が八・七パーセントの面積を持ち、高級貴族が三二・三パーセントを持ち、僧侶が一七・七パーセントを持ち、地方の小領主が一九・五パーセントの領地を持っていた。高級貴族と小貴族の領地を合計すると、五〇パーセントを越える。これにくらべて、平民の領地はわずかに六・八パーセントとなる。その他は、共同で領有する村であり、分析不可能である。

「ナンシー地区」を調べたときには、平民の支配する領地は一パーセント弱であり、取るに足りない。あとは国王と貴族、高級僧侶の所有する領地であった。そして貴族は、宮廷貴族と地方貴族と法服貴族にわかれた。高級僧侶もまた宮廷貴族から出ていたのであるが、それを除外しても、貴族の領地が五分の一というのは、あまりにも過小評価したものである。

しかも、宮廷貴族はフランスの各地に領地をもっていた。その領地も大小さまざまであった。地方の小貴族の多くは、一つの村だけを領地として持つものが多く、ときには一つの村の何分の一かを領地としてもっていた。しかし、王領地や宮廷貴族の領地は、二つ三つあるいはそれ以上の数の村を合せて含んでいる場合が多かった。また、離れたところに数個の村を領地として含むという形で、飛地支配の形をとっていた。

しかも、それが全国に散在するのであるから、これを正確な統計数字にだすことは不可能である。ただいえることは、宮廷貴族は大領主であり、領地の圧倒的な部分を支配していたということである。


フランス絶対主義は大領主の権力集中

これを個人の領地所有の側からながめてみよう。たとえば、ランベスク太公は、大領地をルーアンとヴァンデーに持っていたが、ルーアンの領地は一一〇万リーブルの価値があった。ポリニャック公爵に買い与えられた領地が一二〇万リーブル以上の価値になったことは、前にみた通りである。ランバル公爵夫人の父パンチェーヴル公爵がオルレアン地方に持っていた領地は、三万リーブルの収入があった。

コンデ家はコンデ太公、ブルボン・コンデ公爵、アンギャン公爵と親子三代の領地をまとめていたが、北フランス一帯に一三の大領地を持っていた。それぞれの大領地が多くの村、森林を含み、そこに居城があった。それらは、あたかも独立王国のような感じを与えていたのである。そして、領地からあがる収入が九〇万リーブル弱であった。これはコンデ家の全収入の五割強を占めていた。残りの五割弱が、官職収入であった。

この例でもわかるように、宮廷貴族は、領地を失った状態で宮廷に寄生したのではなかった。領地を持ちながら、同時に宮廷で権勢をふるったのであり、たとえ宮廷の特権を全部失ったとしても、依然として大領主であり、その収入は巨大なものであった。こういう状態がピラミッド型に広がり、宮廷貴族四〇〇〇家を作っていると思えばよいのである。そこでいえることは、宮廷貴族の支配とは、大領主の集団が、領地を足場にしながら国家の権力を組織していたということである。

領主が権力を組織していたということは、絶対主義のフランスが、まだ中世の段階にあったこと、すなわち、封建制度の段階にあったことを意味する。つまり、領主階級の権力集中であった。これをフランス革命の前提としてあきらかにしておかなければ、フランス革命の本質が理解できない。


外国人領主の独立的存在

絶対主義とはいっても、フランス王国の中で、王権の力が入りこめない領地もあった。目本では、絶対という言葉にまどわされて、王権が国のすみずみまでも支配したと解釈している人が多い。しかし、事実は違っていた。

たとえばブイヨン公爵の持つブイヨン公爵領は、外国の扱いをうけていた。フランス王国の法令は、この領地には適用されなかった。それでいながら、ブイヨン公は宮廷貴族としてヴェルサイユ宮殿に仕え、侍従長をしていた。同時に、自分の領地では守備隊をもち、親衛隊を組織し、総督という名目で一国一城の主になっていた。この領地が完全にフランスのものになるのは、革命後のことであった。

そのほか、多くの領地で、領主が国王の権限を行使していた。また、ローマ教皇領のコムタ・ヴェネサンも外国の扱いであり、そこにアヴィニョンがあった。

外国の領主が、同時にフランスの領主であるという場合も多かった。たとえば、サルム太公は神聖ローマ帝国の貴族であり、同時にスペイン王国の貴族であった。それでいながらフランスに来て、フランス国王に仕えた。

彼の領地はフランスに数カ所あり、ドイツのウェストファリア(ヴェストファーレン)にも城と領地をもっていた。フランス国王は、このサルム太公に年金の元本として四〇万リーブルを与えている。

エグモント伯爵はスペインと神聖ローマ帝国の貴族であり、ナポリ王国にも領地をもっていたが、フランスにも多くの大領地をもち、年金を受ける権利をもっていた。

ドイツのライン伯爵の息子がドゥー・ポン伯爵としてフランスに領地をもち、ここでの全権力を行使していた。

ドイツのザクセン公爵(サクソニア)は、フランスではサックス太公と呼ばれていた。ルイ一六世の母方の叔父であり、元帥としてサックス騎兵連隊をもっていた。彼もフランスに数カ所の大領地をもっていた。

これらの外国人領主の持っていた領地は、なかば外国扱いであり、国王が主権を認めるとか譲渡するという形式で、実質的な独立を保っていた。これらの土地は、フランス革命によってはじめて完全に統合されたのである。その意味では、絶対主義の時代よりも、フランス革命後の方が、かえってより中央集権的であった。絶対主義の時代は、まだ分権的要素を残していた。それが絶対とよばれる理由は、それ以前の封建制度がもっと分権的であったのに、かなりの程度にまで中央集権にもっていくことができたためであった。あくまで、比較の問題であることを知らねばならない。

フランス国家が「唯一にして不可分」という宣一言が革命政権によって出された。これを裏返すと、革命以前は、フランスには国家が唯一つではなく、複数あったということであり、また、いつでも切り離せるような、不安定な状態にあったということでもある。


地方貴族の貧富の差

宮廷貴族四〇〇〇家をのぞくと、貴族総数約一四万人の大多数が地方貴族であった。これを原語からでは、田舎貴族と訳すことができるが、多少響きがわるいので、ここでは地方貴族とよんでおこう。このほかに、法服貴族とブルジョア貴族があるが、これはあとでのべる。本来の貴族は古い家柄の貴族であり、剣を持つことを許されるので帯剣貴族ともよばれた。

彼らは自分の家系を示す紋章をつけ、程度の差はあっても、減免税特権をもち、軍隊では士官、将校になることができた。軍隊の将校になるためには、少なくとも四代続いた貴族の家柄でなければならないと定められてあった。そうした意味では、貴族は全体としてやはり特権階級であった。

ただ、地方貴族は宮廷に出入りできず、国王にお目どおりすることが許されない。そこで、官職収入ではこれという特権にあずかることができなかったのであり、そこに、宮廷貴族にたいする反感をもつ理由があった。

地方貴族は貧乏であったという紹介の仕方が、よくおこなわれている。ソブールはつぎのように書いている。

「貴族は一八世紀末には没落の極にあった。彼らは日一日と貧しくなっていった。宮廷貴族はヴェルサイユで零落し、地方貴族は自分の領地でほそぼそと暮していた」(『フランス革命』上巻、一三頁)。

マチエはつぎのように書いている。

「若干の州では、非常に多くの本当の貴族的平民(田舎貴族)が現れた。彼らは自分のささやかな館で陰気な顔をして坐食し」(『フランス大革命』上巻、二一頁)。

このように書くと、地方貴族がすべて貧乏であったかのように受けとられてしまう。しかし、実際はそうでは

なかった。地方貴族にも、上層から下層まであり、その姿はピラミッド型になっていた。上層はかなりの大領主で、ときには伯爵とか子爵とかの爵位をもち、地方都市や地方の町に邸宅をかまえ、そこと自分の領地の間を行ったり来たりしている者がいた。これは、いわば地方都市貴族であり、地方の小宮廷貴族であった。

ヴェルサイユ宮殿の小粒なものが重要都市の近くにあり、そこに地方都市貴族が集まっていたそして、そのような地方都市における国王に相当する者は、それぞれの地方の総督、軍司令官になった宮廷貴族であった。たとえば、リシュリュー公爵はボルドーの総督として、ここに宮廷の小規模なものを開き、宴会を続けた。そういう時には、地方都市貴族が彼を囲むのであった。

地方都市貴族の下に、田舎町に住む貴族があり、その下に、農村の館しか財産のない小領主、小貴族が多数いた。上層の都市貴族になれば、数カ所の村を領地としてもつ者があり、下にさがると、一つの村を一人がもつ者があり、その下になると、一つの村を何人かの共有の形でもつ小領主がいた。士官学校に入ってきた貧乏貴族の実例の中には、年収六〇リーブルとか、九〇リーブルとかいう貴族がみられる。これならば、労働者の年収よりも低い。しかし、働くと貴族の資格を失うので、貴族の誇りにかけて貧困に甘んじていたのである。

このような貧困貴族は、とくに地方小貴族の二、三男に多かった。長子相続制のため、三分の二の財産を長男がとり、残りが分割された。ときには長男が全財産を相続して、二、三男には住居とわずかな年金を与えるということもおこなわれた。そうした二、三男の、さらに二、三男ともなれば、これは救いがないわけである。こうして、貧乏貴族の大群が農村にうずもれていた。しかし、これだけをみて、地方貴族がすべて貧困であったかのように思うのはまちがいである。


家柄万能の時代

軍隊でも、その中での昇進が家柄と領地に比例していた。ほんらい軍隊は、もっとも実力万能の場所であるべきはずである。そうでなければ、その国の軍隊は弱くなり、国防力が低下する。弱い者や作戦の下手な者、戦争の経験の無い者を司令官や将校にするならば、その軍隊はまずもって戦争に負ける。まともな軍隊ならば、軍事的な才能が昇進の基準になるはずである。

ところが、フランス絶対主義の軍隊では、実力よりは家柄が重きをなしたのである。地方の貧乏貴族の子弟でも、士官学校に入ることはできた。四代続いた貴族であることが証明されればよいからである。しかし、その後軍隊に配属されたときに、下士官か下級将校となり、それ以後どんなに戦争で軍功をたてたとしても、それにふさわしい待遇は与えられなかった。

ナポレオン・ボナパルトはコルシカの貧乏な地方貴族の息子であった。士官学校では数学と弾道学の天才といわれ、抜群の才能をもっていたが、家柄が低いために下士官に配属され、昇進ののぞみがなかった。そこに、彼が革命の勃発とともに革命の側に立った理由がある。

ナポレオンの下で元帥になったマルモン将軍も、もとは平貴族(爵位のない小貴族)であった。彼の父は、軍功を立ててなんとか歩兵連隊長にまでは昇進したが、それ以上の待遇が得られなかったので、不満をもって自分の領地に隠退した。フランス革命が、その息子を元帥にまで昇進させる機会を与えたのであった。

こうした意味で、地方の小貴族の中には、宮廷貴族の支配にたいする反発がうずまいており、革命の接近とともに、その反感が革命的な気分にまで高まっていく理由があった。地方貴族の昇進を妨げているのは、宮廷貴族の特権的な地位であった。家柄の高い宮廷貴族の子供は、一一歳で銃士となり、一五、六歳ですでに連隊長とか少尉ぐらいになった。

たとえばブローイ公爵(ブログリオ公爵とも呼ばれる)は、神聖ローマ帝国の太公を兼ねていたが、宮廷貴族の中では軍歴と軍事的才能で有名な人物であった。フランス革命の直前に、パリの周辺に軍隊を集めて、革命派を弾圧しようとした将軍である。彼は、一六歳で皇太子騎兵中隊長と歩兵連隊長になった。二五歳で地方軍団の参謀長となり、二七歳で陸軍少将、二八歳で歩兵総監、三〇歳で陸軍中将、四一歳で元帥になった。

ブイエ侯爵はのちにルイ一六世の亡命計画の首謀者の一人となり、反革命のコンデ軍に参加した宮廷貴族であり、ラファイエット侯爵の従兄であった。彼は一一歳で銃士となり、一六歳で竜騎兵中隊長、二二歳で騎兵連隊長、三八歳で陸軍少将、四三歳で陸軍中将になった。

このように、最上層の宮廷貴族は子供のころからすでに将校になったのである。そうした将校の下に、下士官から叩きあげてきた中年の部下が仕えたのである。下級貴族の一つの例としてポヌヴァンという領主の実例をみてみると、彼は一八歳で陸軍中尉になったのはよかったが、二二歳で中隊長になり、四六歳になっても中隊長でとまり、このときの俸給が一〇〇〇リーブルであった。ラクシという領主は、一八歳で近衛騎兵となり、四八歳まで勤務して、退役のとき四八〇リーブルの年金をもらったにすぎない。

こうした年期を積んだ軍人の上に、連隊長として一五歳の子供が来た。これでは、部下はやる気を失なう。そのうえ、高級貴族出身の将校は、ほとんど名前だけの将校で軍務にたずさわらなかった。二五万人の軍隊に三万五〇〇〇人の将校がいたが、実際の軍務は、九五〇〇人程度の将校がはたしていた。宮廷貴族出身の将校の多くは、軍隊をはなれて宮殿にいたのである。

しかも七年戦争の時に、フランス軍が出陣すると、将校は愛人を連れてきた。そのための馬車や婦人のための香水、パラソル、絹織物、奢侈品を積んだ荷車が、軍隊と一緒になって進んだ。将校は女に夢中になって、軍隊をかえりみない。司令官は「食費」という名目の手当を受けて、ここに高級貴族の将校を招待した。二〇〇人分の食事を用意した場合もあり、将校達はここで食事をとっていた。ヴェルサイユ宮殿の生活が、そのまま軍隊の中にも移植されていたのである。

これでは、地方貴族出身の下級将校以下、下士官、兵士にいたるまでの不満をかきたてる。下級将校も兵士もやる気をなくし、高級将校は遊びに夢中で、戦争のことはしらない。これでは戦争に負ける。七年戦争でフランススが敗北を重ねた理由であった。

地方貴族は、貴族としての特権にしがみついてはいたが、同時に宮廷貴族にたいするねたみ、反感を強烈にもっていて、それが改革思想、革命思想へ発展する場合もあったのである。フランス革命の決定的瞬間に、ブローイ元師が軍事力でパリを制圧しようとしたとき、軍隊に動揺がおこり、強行すれば軍隊の反乱をまねくかもしれないという状態になり、ついに全面的な進撃を中止した。そして、軍の動揺の中心は、これら地方貴族出身の下級将校に潜在していた不満であった。彼らの多くが、兵士を激励して群集と交歓させ、率先して軍隊の反乱をすすめた。このような傾向から、地方貴族出身の革命家が多数登場してくる。ナポレオンやマルモン元帥はその代表とみてよい。


法服貴族の権限

宮廷貴族は行政と軍事の権力をにぎっていたが、司法権は別な勢力に明け渡していた。その司法権を手に入れた者が、法服貴族と呼ばれるものであった。法服貴族の中心は各地の高等法院(パルルマン)であり、パリ高等法院がもっとも強力であった。高等法院を英語流によむと議会という意味になるが、けっして近代の議会のような立法権をもっていたわけではない。

法律に相当するものは王の勅令としてだされ、これをパリ高等法院が登録することによって効力が発生した。

これをめぐって、どちらが強かったかということが問題になるのであるが、やはり国王の命令がほとんどの場合は絶対的であり、ときどき高等法院が抵抗運動を起こして、王の命令を拒否したり修正することに成功しただけである。「朕は国家なり」の解釈は、高等法院と国王のいざこざが起きたときに、国王の側からうちだされた原則であった。国王の意志は、高等法院の判断を超越したものだという意味である。そうした事情からみても、立法権はやはり国王に属していた。国王に属することは、本質的に宮廷貴族に属していたというべきである。そこで、法服貴族のもっていた権力は司法権のみであった。

ここのところも、かなりあいまいな紹介の仕方がなされている。ソブールは、法服貴族が「王制が行政上・司法上の機構を発展させて以来形成されたものである」と書いている(『フランス革命』上巻、一二頁)。マチエも「行政上、司法上の官職を独占する司法官貴族とか、官僚貴族ができあがった」(『フランス革命』上巻、二七頁)と書いている。

しかしこれは誤解である。行政上の権力は、これまでみてきたように宮廷貴族によってにぎられていた。一部を明け渡したとしても、それは副次的なものだけである。あくまで、法服貴族の権力は司法権だけに限定されていた。しかも、この官職は、官職売買の制度(ヴェナリテ)によって買取らなければならないものであった。この本質をいうならば、王権が司法権だけを明け渡して、金をもっているものに売りつけ、買取代金を国王が手に入れたということである。

買取代金はどれくらいであったかといえば、たとえば、高等法院議長の職が一一万リーブル、検事次長の職が四万リーブルという数字が残っている。『法の精神』を書いて有名になったモンテスキューはボルドー高等法院議長であったが、彼がこの職を売ったとき一三万リーブルになり、判事の職が四万リーブルになった。

こうして、金をだして官職を買わなければならないのであるから、司法官になるためには、それ相当の資金を作らなければならなかった。そこで、彼らのほとんどはブルジョアジーの上層から来た。司法官の職を買い入れると同時に領地を買い入れ、続いて貴族の資格を買った。何人かのものは、爵位すら手に入れた。公爵というのはいないけれども侯爵、伯爵は各地の高等法院議長の中に何人かみられる。

これら法服貴族は、絶対主義の成立と並行して古くから形成され、それからさらに代をかさねると、成上り者の印象がうすくなり、れっきとした貴族の一群を構成するようになった。彼らの中には大領主も何人かいる。とくに、ボルドー高等法院判事の中には裕福な領主がいて、良質のぶどう畑をその中にもっていた。モンテスキューも豊かなぶどう畑をもち、ぶどう酒をたくさん作っていた。

「私は宮廷流の方法で財産を作りたいとは思わない。私の土地を利用することによって、神の手から直接いただくことによって財産を作りたい」といった。この言葉の中に、法服貴族の立場がよく示されている。

彼は宮廷貴族の特権を暗に批判し、憎みながらも、それにあずかれないことにあきらめを感じていたのである。

そこで財産形成の基本はぶどう畑の経営であった。これをみると、法服貴族は、宮廷貴族にくらべると特権階級ではなかった。宮廷貴族は、領地の経営と官職収入の両方で財産を作ったからである。その意味で、法服貴族は、支配者の中の野党的存在であったというべきである。


法服貴族の野党的発言


とはいっても、まったく官職収入がなかったわけではない。それぞれの司法官の職に報酬がついた。ただその報酬は宮廷貴族の官職にくらべると一桁少なく、たとえばツールーズ高等法院の第一議長の報酬が二万リーブル、一五人の議長の報酬が六〇〇〇リーブル、判事の報酬が三〇〇〇リーブルから二〇〇〇リーブル、検事総長で六〇〇〇リーブルとなっている。その他の高等法院でもだいたい似たようなものになっている。

これに加えて、司法官は訴訟当事者から賄賂(エピース)を取っていた。これが当然の義務として当事者に課せられたのであるが、その金を集めて分配した。その他さまざまな金銭的特権を受けている。たとえば、朝食を公費でとることができるとか、塩税を免除されたので、税金のかからない塩を大量に買いこんで転売してもうけたとか、公費で宴会を開く事ができるとかいったものである。これらが補助収入になった。ただ、それにしても、宮廷貴族には及びもつかなかったことを認めておく必要がある。

法服貴族が野党的な立場であり、宮廷貴族ほどの特権にあずかれなかったために、彼らはときどき王権に対する反対運動をおこした。モンテスキューの『法の精神』は、そのような立場から書かれたものである。彼は三権分立の思想を説いた。これは、法服貴族の裁判権が、王権から完全に独立するべきであると主張したのである。この主張は、「朕は国家なり」の解釈と衝突する。

三権分立ならば、高等法院の判決は無条件で有効である。しかし「朕は国家なり」の思想では、高等法院の判決もまた王の判断によって無効にされてしまう。事実、そのような争いが起きたのである。そして、高等法院の抵抗がはげしくなると、たびたび王権によって解散させられた。そうした事情をふまえて『法の精神』が出版されたのであるから、宮廷貴族からみると、この書物は「危険思想」となる。大法官は『法の精神』の発売禁止を命令し、宗教会議は反宗教的書物と宣言した。高等法院の立場を正面から主張することが、反体制の思想になった。それであるから、モンテスキューの思想は、フランス革命の第一段階における思想としてもてはやされたのであった。

法服貴族という言葉からは、司法官はすべて貴族であったかのような印象をうける。しかし、それは必ずしも正確なものではなかった。平民の司法官もかなりの数になった。その比率は地方によってちがっていた。ブルターニュでは平民出身者の司法官は少なく、アルザスでは多かった。

また、司法官の領地の比重もまちまちであったが、それほど大きな比重になったわけではなく、私が調べたアモン地区では三パーセント強であり、けっして大きいとはいえるものではない。どこからみても法服貴族は貴族の主流ではなく、反主流というべき立場であった。それだけに、王と宮廷貴族のやり方にたいして、かなり、的を射た批判をおこなった。たとえば、グルノーブル高等法院が、フランス革命の前年に声明した抗議文の中に、つぎのような文章がある。

「王国の富は、ごく少数の人々の手の中に集中されている。弊害を正すためには、支出を削減する以外にない。恩賜金、年金の削減、最近激増した不正交換の破棄、すべての官庁に入りこんだ浪費の追及が必要である」。

ここで、主張されていることは、宮廷貴族の特権を廃止せよというものである。不正交換とは、たとえば、ロアン・ゲムネ太公の破産を救うための領地の買上げなどを指している。

ディジョン高等法院が一七六九年に国王へさしだした意見書の中には、つぎのような言葉がある。

「おそかれ早かれ人民は、国庫の断片が不当な恩賜金、一人の人間にたいしてくりかえし与えられる年金、国王から与えられる恩賜金、無用官職、俸給として濫費されていたことを知るだろう」。

これらの抗議はフランス革命の本質をズバリついたものである。そのかぎり、高等法院は革命派の側に立った。


自由主義貴族の立場

フランス革命の初期に、国民議会の側についてはなばなしく活躍した一群の貴族がいる。これを自由主義貴族と呼んでいる。彼らの多くは、地方貴族でもなく、法服貴族でもない。宮廷貴族の一派である。オルレアン公爵、ラファイエット侯爵、ラ・ロシュフーコー・リャンクール公爵、ミラボー伯爵、ラメット伯爵兄弟(テオドール、アレクサンドルとシャルルの三兄弟)、コンドルセ侯爵などが有名である。

彼らの役割は、宮廷の中の反体制派という意味で、地方貴族や法服貴族と違った重みをもっていた。地方貴族や法服貴族はヴェルサイユ宮殿に出入りすることができず、国王に対面することができなかった。それだけに、当時としては無名の人間であり、社会的影響力も小さかった。

しかし、自由主義的宮廷貴族は、なんらかのはずみに権力をにぎるかもしれないという立場であり、いわば与党の中の野党であったから、革命の初期における役割は大きかった。ラファイエット侯爵はバスチーユ襲撃の直後、国民衛兵司令官となり、ラ・ロシュフーコー・リャンクール公爵は国民議会議長になった。ミラボー伯やラメット兄弟は、国民議会でより左翼的な勢力の指導者になった。オルレアン公のもっていたパレ・ロワイヤル宮殿が、パリの革命的な群集にたいして解放されていて、ここからパリの反乱をめざして群集が出撃していった。

このようなわけであるから、自由主義貴族は、支配者としての宮廷貴族の中にいながら、内部から支配体制を切りくずして、フランス革命のロ火を切ったということができる。革命がより急進化するとともに、彼らもくつがえされた。しかし、そうした先の運命を知ることなしに、さしあたり絶対主義内部におけるもっとも強力な改革派として活躍したのである。

なんのためにそのようなことをしたのかといえば、それは宮廷内部における権力争奪戦で敗者になったからである。特権階級の中で日陰の存在になると、進歩的な言動を弄するようになる。これはいつの時代にもみられることである。そのじつ権力の座につくとたちまち保守化する。保守派の代表であった王妃マリー・アントワネットですらも、若い頃は、この自由主義貴族の仲問に加わっていた。そのころは、まだ皇太子妃として日の当らない場所にいたからである。

オルレアン公爵家も、先代は摂政として政権の中心にいた。これを「摂政の時代」と呼んでいるが、失脚していらい、オルレアン家は宮廷では冷遇され、これという役職を与えられなかった。そこで、彼が自由主義に理解を示すようになったのである。自由主義に理解を示して王座を狙う、これがオルレアン家の伝統的政策となった。彼はジャコバンクラブに参加し、フィリップ・エガリテ(平等公)と呼ばれたが、恐怖政治で処刑された。

しかし、息子のルイ・フィリップの時代に、七月革命で王座を手に入れた。

ラ・ロシュフーコー・リャンクール公は王家の納戸職長官であり、数箇所の大領地をもつ最高の宮廷貴族であった。それでも自由主義に味方した。彼の場合は、経済的にも自由主義者としての性格が濃厚であった。たとえば、リャンクールの領地にイギリス式大農経営を採用し、自分の城に紡績工場を作った。彼は当時の新思想をもつ大貴族であった。軍隊における地位は、陸軍中将と家柄にくらべればそれほど高くなかった。

だいたいにおいて、自由主義貴族の場合は官職収入の比重が少なく、自分の領地からの収入の比重が多かった。

そこに、彼らが自由主義思想に共鳴するか、あるいは理解を示した原因があった。彼らが宮廷貴族として官職収入を手に入れていたとしても、それ以上の竸争者があらわれた場合、たとえばポリニャック公爵のような極端な者がでてくると、「王と王妃のやり方はいきすぎではないか」という形の批判がでてくる。これが、自由主義思想へ押しやっていく動機である。

自由主義貴族の紹介の仕方も、あまり正確におこなわれていない。彼らを宮廷貴族の反主流派という形で描くべぎであるが、なにか、彼らが宮廷貴族の代表的な潮流を作っていたかのように書く本が多い。ソブールもマチ工も、そのような描き方をしている。正確には、自由主義貴族は、宮廷での竸争におくれをとり、うま味のある官職収入をめぐる競争に敗れ、その結果宮廷貴族の中の反体制派になったと解釈しておかなければならない。ところが、マチエはつぎのように書いている。

「妙なことだが、一切のことを王に頼っている彼ら宮廷貴族は、王に服従するどころではなかった」

「彼らは自分の希望にあてはめて、新思想に共鳴していた」。

その後で、ラファイエットをはじめとする自由主義貴族の実例をだしている。そして、彼らという意味には、「優秀で野心のある者」といういい方をしている(『フランス大革命』上巻、二六頁)。そうすると、宮廷貴族の優秀で野心のある者が自由主義貴族になったと受けとられる。たしかに、優秀で野心のある者が改革派になりやすい。しかし、それだけでは決まらない。もし彼らが、コンデ太公やポリニャック公爵のような特権を手に入れたならば、改革派にはならなかっただろう。ここが重要なところである。

またマチエが宮廷貴族は一切のことを王に頼っていると書いているが、これが誤解のもとになる。宮廷貴族は一切のことを王に頼っているわけではなかった。自分の領地からあがる収入もまた大きい。コンデ太公でも約五分五分であったことは前にみたとおりである。

まして、反主流派の自由主義貴族では、官職収入の比重が下る。オルレアン公の場合は、領地からあがる収入の方がだんぜん大きい。そして、彼の領地からの収入が、王領地からの収入よりも多いとかげ口をたたかれるほどであった。ラファイエットも軍司令官ではあったが、ブルターニュに大領地をもっていた。けっして一切のことを王に頼っていたわけではなかった。こうしたところに、自由主義貴族にたいする誤解がある。王にたよるところの大きかった宮廷貴族は王権に忠実であり、王にたよるところの少なかった宮廷貴族が、王に服従せず、自由主義派になったのである。

要約 1

フランス革命検索第一位

2021年3月11日、ネット記事で「フランス革命」を検索したところ、私の学説がトップに上がっていました。ただし、私の名が挙がっているのではなく、あくまで内容のみであり、その内容は、私の著書『フランス革命史入門』からの引用でした。引用しながら、執筆者の意見も添えてあり、言外に「検索エンジンがこれだというから、これ一人の意見に沿って書いています」というような言葉が添えてありました。こういう出だしは、他の人について見たこともありません。「多分不承不承なのだろうか」。内心、同情しながら、苦笑しました。こういう状況は、将来どうなるのでしょうか。私もやみくもに進むしかありません。執筆者が要約してくれている。それは有り難いが、おんぶにだっこというわけにはいかないだろう。私も応分に働かなければ。こういう心境で、各章各節ごとに要約を書いてみます。もしこの文章に疑問があれば、私の著書を読んでもらうしかありません。AIはまだ私の本を読んでいない。

なお、もう一つの問題点、検索ロボット、(AI)は、私の著書を読んでいないでしょう。読んだのは、私がブログに上げた文章のみでしょう。グーグルブログ、ワードプレスなどに上げました。AIがいかに頭が良くても、図書館の本は読めない。だからAI判定は、ブログの文章に基づくもので、本に基づくものではないでしょう。そういう意味では、今日から、AIと私の本が直接結びつくことになります。
第一章 フランスの絶対主義 一 支配階級としての貴族 
国王の絶対主義ではあるが、国王個人に絶対的権力があるのではなく、宰相に権力があったという。この点が他の歴史家と違うところであり、国王個人がどういう人物であっても、フランス革命は始まったはずだという。(個人の独裁を信じない)。
個人の独裁はない
権力を組織していたのは、大領主の集団で、国王はその最大のもだという。日本で、唯一最高の領主という言い方がはやったが、最高ではあるが、唯一ではないという。ここが日本の学者たちと違う意見を持っているところである。それから、事実を挙げて論証をする。この論証の部分は、もし最初からなっとくしていただいた場合、退屈ならば読み飛ばしていたたいて結構です。
大領主の集団がヴェルサイユに集まり、権力を組織している。権力には財政の実権が伴う。国家財政のお金は彼らに流れる。どれだけ甘い汁を吸っていたかが書いてある。
大領主の独裁なのだ
実例で証明しているが、理屈を納得してもらえるならば、事実は読み飛ばしてもらって差し支えない。結論を言えば、フランス絶対主義は、大領主の権力集だということだ。これが重要で、日本では「絶対主義均衡論」といわれる学説が、百年以上前から流行していて、これは「絶対的真理」だといわれてきた。私がこの本で、「均衡ではなく、大領主の独裁」だと書いた。反感のみで、信じるものは少ない。だから事実をたくさん集めた。もし均衡論が消滅してしまえば、事実もわずかでよくなる。そういう時代が近づいているようにも思える。