2021年12月12日日曜日

07-フランス革命史入門 第二章の二 三部会招集をめぐる紛争

二 三部会召集をめぐる紛争


ブリエンヌの弾圧政策と抵抗運動

一七八七年四月、財政はブリエンヌ伯爵にまかされた。彼はツールーズ大司教であった。高級僧侶で名門の宮廷貴族が、財政運営の正面にたったのであるが、財務総監としてではなく財政審議会議長として、財務総監に命令する立場にたった。財務総監には、はじめヴィユドゥイユ伯爵を据え、のちにランべールに代えた。

ブリエンヌは実質的な首相に近い権力をにぎり、財政状態の改善をめざして必死の努力をした。まず、終身年金の新設による借款をおこない、つづいて土地税のかわりに印紙税を提案した。印紙税こそは、貴族よりブルジョアジーにたいして負担が重く、アメリカ独立革命のロ火を切らせた悪税である。それをあえて提案せざるをえなかったほど、身動きのつかない財政状態に追い込まれていた。

印紙税にたいしては、高等法院の勢力が反対運動の先頭に立った。パリ高等法院はこの命令の登録を拒否した。ブリエンヌは、国庫破産に直面して四億二〇〇〇万リーブルの公債増発を発表した。このとき、オルレアン公爵がこの公債は不法であると抗議し、国王に対立した。一七八七年一一月二〇日のことであった。翌日、オルレアン公爵はパリから追放された。高等法院は、国王の措置にたいして抗議行動を起こした。

こうして、オルレアン公爵に代表される自由主義貴族と、高等法院の勢力が同盟して王権に対決してきたので、王権の側は、高等法院を抑圧することにきめた。この計画は、ブリエンヌと法務大臣ラモワニヨンによって立案された。高等法院を追放し、そのかわりに全権裁判所を新設して、これを宮廷貴族の中から任命された司法官によって組織した。こうして、長い伝統のあった法服貴族から司法権がとりあげられ、宮廷貴族の手におさめられた。

しかし、この措置は全国的な動揺をひきおこした。さしあたり、反対運動の先頭に立ったのは貴族であったが、しだいにブルジアジーを巻きこみ、さらに下層の人民を騒乱状態の中にひきいれていった。

ラファイエット侯爵はアメリカ独立戦争に参加し、陸軍少将で、自由主義貴族の代表者であった。彼はオーヴェルニュとブルターニュに領地をもち、それぞれの地域で影響力をもっていた。彼の指導のもとで、オーヴェルニュの地方議会がブリエンヌの政策に抗議声明をだした。ブルターニュでは、地方貴族と高等法院が同盟して貴族の集会を開き、一二名の代表をヴェルサイユへ送り、国王に抗議させようとした。しかし国王は、一七八八年七月一五日、これらの代表をバスチーユ要塞監獄に投獄した。

この事件でラファイエットは軍籍をうばわれた。ラファイエットに同調した数名の宮廷貴族が国王から恩寵を与えられる権利をうばわれた。六月には、べアルンの貴族が、追放されていた高等法院の判事を実力で救出した。

同じ六月に、ドーフィネの中心都市グルノーブルで、「屋根瓦の日」といわれた騒乱事件がおきた。グルノーブル高等法院が追放されようとしたとき、市民が国王の軍隊にたいして屋根瓦をなげつけて撃退し、高等法院を守った事件である。このとき、高等法院の判事達は、市民の運動をきらって国王の命令にしたがおうとしたが、市民の運動にひきとめられるような形になってしまった。



三部会召集の圧力

そのあと、七月二一日有名な「ヴィジル決議」がおこなわれた。「屋根瓦の日」に指導的役割を演じたムーニエとバルナーヴが、大工業家クロード・ペリエのもつヴィジル城に非合法の州三部会を召集した。将来召集されるべき三部会では第三身分代表者の数を二倍にし、身分別投票をなくして人数別投票とすること、そのような三部会が召集されるまでは納税を拒否するというものであった。このとき、五〇人の僧侶、一五六人の貴族、二七六人の第三身分代表者が集まり、議長には名門貴族を据えたが、書記にムーニエがなった。

ここで、ムーニエが革命家としてはなばなしく登場してきた。彼は、グルノーブルの裕福な毛織物商人の子で貴族の資格をもち、判事の職を買いこんだ法服貴族の一人である。彼の盟友バルナーヴは、同じく検事の子で、弁護士をしていたから、ともに法服貴族の階層に属していた。

全国的な反対運動のために、増税は成功せず、公債を自由な形式で募集しても、もはやこれを買いいれてくれる者がいなくなった。一七八八年八月のはじめ、「国庫は空になるだろう」という報告をブリエンヌはうけた。

窮地に立って、病院を建てるための寄付金とか雹害被害者にたいする救済基金までも使いこんだ。こうなるともはや財政のルールを無視したことになる。それでも足りずに、ついに国庫支払の停止をしなければならない日が迫ってきた。

ここにきて、ブリエンヌは八月一六日、国庫支払についての新しい命令をだした。現金支払は一部分だけとして、その他を国庫証券でおこなうというのである。このような時期に受け取る国庫証券は、たちまち下落してしまう。この証券を受け取った銀行家や商人が、それぞれ商品を買い入れようとするとき、だれもその証券を受け取ってくれない。つまりは、銀行家や商人の破産がひきおこされることに通じる。

この命令は、ブルジョアジーの中に恐慌状態をひきおこした。二日後にブリエンヌはケース・デスコント紙紙幣の強制流通を命令した。

パリでは、ケース・デスコントの紙幣をもつ者が現金とのひきかえを要求して殺到し、取付けさわぎをひきおこした。こうして、パリは騒乱状態になった。しかも、国庫には五〇万リーブルの資金しか残らず、政府は破産の危機に直面した。こうした責任をとらされて、ブリエンヌが辞任させられた。

国王と宮廷が当てにするべき者としては、ネッケルしかいなかった。国王も王妃も個人的にはネッケルを嫌っていたが、国家破産の脅威をつきつけられると、彼を呼びもどす以外にはなかった。ネッケルの立場は強くなった。彼は財務総監就任の条件として、高等法院の追放を解除し、三部会を召集することをもちだした。国王は屈伏して、翌年の五月一日に三部会を召集すると約束した。

ネッケルが財務総監に就任したとき、その歓迎はかつてなかったほどであった。パリは街灯を照らしてネッケルを歓迎し、国債の価格は三〇パーセント上昇した。ケース・デススコントの株価も、三五五〇リーブルから四三〇〇リーブルに上昇し、事業が活気をとりもどした。財政赤字については、ネッケルの個人的な信用を利用してケース・デスコントから資金を借り入れ、当面の破産を回避した。こうして、世人の関心の的は、三部会の選挙へと移った。


貴族革命論の誤り

ここまでの運動を貴族革命と定義する学説が盛んである。これは、ルフェーブルが強調したものであるが、日本の学者が積極的にとり入れ、最近かなり通説の段階にまで広がってきた。三部会の召集を王に認めさせるところまで運動を進めたのが、法服貴族、地方貴族、自由主義貴族であり、つまりは、貴族が国王に反抗して三部会の召集をかちとったのであるから、これは貴族の反抗であり、貴族革命であったというのである。

しかし、この考え方は完全な誤りである。なぜなら、国王の側にもまた貴族がいて、しかもそれが貴族の主流であったからだ。ブリエンヌ伯爵(大司教)が政治的代表者であったが、その裏に一流の貴族達がひかえていた。彼らは、三部会の召集にすら反対であった。ラファイエットが名士会で三部会の召集を要求したとき、完全に孤立した発言にとどまり、議長のブルボン公爵から「なんと貴下は三部会の召集を要求するのか」といわれた。宮廷貴族の本流の中では、三部会の召集を口にすることすら、危険きわまりない思想だと思われたのである。

貴族全体が三部会の召集を要求したのではなく、貴族の中のある分派がそれを要求し、他の分派は反対していたのである。しかし、全国的な騒乱状態と、国庫が空になるほどの財政危機をつきつけられたときに、反対派が国王とともに譲歩せざるをえなくなったというのが真相である。これを貴族革命というと、貴族全員が国王に反抗したかのように受けとられて、はなはだしい誤解をまねく。そうではなく、最強の貴族集団にたいして、野党的な貴族が反抗し、それにブルジョアジー以下の抵抗運動が合流したものと解釈するのが正当である。

そして野党的な貴族とは、宮廷内で冷遇されている自由主義貴族、宮廷にすら入れない法服貴族、これに地方貴族が加わったものであり、それぞれの思わくをもって反抗したのである。自由主義貴族は、反抗運動にのって宮廷での指導権をにぎりたかった。法服貴族は、司法権の拡大強化をのそんでいた。地方貴族は、古い分権的封建制の復活をのそみ自分達の境遇の改善を夢みていた。このようなさまざまな目標をもった貴族達が、宮廷貴族の本流に対決して、さしあたり、三部会召集の要求と、ブリエンヌの政策にたいする反対で足並をそろえただけであった。これは貴族革命というべきものではなく、貴族内部の分派抗争に、ブルジョアジー以下の反抗運動が絡みあってきたものというべきである。


三部会選挙をめぐる騒乱状態

三部会の召集が決定されたあと、その形式についての争いがはじまった。一七八八年七月二五日、パリ高等法院は、三部会が一六一四年の形式で召集され、組織されるべきであると声明した。これは僧侶、貴族、第三身分それぞれ同数の議員で三部会を構成し、採決を身分別でおこなうことを意味した。これでは、第三身分が少数派になってしまうかもしれない。

高等法院があえてこの方針を打ちだしたのは、彼ら自身もまた貴族であり、第三身分とは一線を画したかったからである。高等法院としては、第三身分を支配しながら、宮廷貴族の権力を削減して、自分達の手で新しい貴族支配の国を作ろうというもくろみがあった。これに気がついた第三身分は、高等法院を裏切者と考え、攻撃をはじめた。

「公衆の討論は様相をかえた。王、専制政治、憲法に関するものは副次的問題となり、第三身分と他の二つの身分との闘いが主なものになった」

とマレ・デュパンが書いた。各地ではげしい論争がおこなわれ、自由主義貴族とくにラファイエット侯爵、ノアイユ子爵、カステラーヌ公爵、タレイラン司教などが、第三身分の代表数倍加を承認するように高等法院に働きかけた。

高等法院の中にも譲歩を主張する者が多くなり、とくにデブレメニルとデュポールがその先頭に立って動いた。その動きにおされて、高等法院の保守派も譲歩することに決意して、一二月五日第三身分代表者数の倍加を認める声明をだした。これで高等法院と第三身分の決裂は回避された。

「高等法院は国民となった。すべての人々はデブレメニル氏によって提案されたこのすばらしい命令に賛成している」。

一二月一二日、名士会が召集されてこの問題を討議した。多数は第三身分代表者数倍加にたいして反対を唱えた。とくに王弟アルトワ伯、コンデ太公、コンチ太公、ブルボン大司教、アンギアン公(コンデ太公の孫)の五人は、宮廷貴族のトップを代表して反対を声明した。

一二月二七日の閣議では、はげしい討論がおこなわれた。ネッケルは第三身分代表者数の倍加を主張し、これにネッケル派の大臣が賛成した。国王と王妃も、反対をひかえて承認せざるをえなくなった。この結果、一七八九年一月二四日、三部会の召集と選挙の規則が公布された。

三部会の選挙戦は、各地での騒乱をともないながらすすめられた。その騒乱の内容には、さまざまなものがあった。ブルターニュでは貴族が第三身分の勢力と衝突し、武装して議事堂にたてこもったことがあった。多くの州で、僧侶貴族と高等法院が同盟して、第三身分と紛争を起こした。ブザンソン市では、高等法院が群集から略奪された。しかも、その地の軍隊は、自由主義貴族の指揮下にあったので鎮圧に出動しなかった。

農村では、領主にたいする反乱が拡大していった。一七八八年一〇月、ブルターニュ州知事ベルトラン・ド・モルヴィルが、

「民衆の反乱は王権にたいしてではなく、貴族や土地所有者にたいしてむけられた」

と報告している。農村では、領主の封建的特権にたいする反乱とか、大土地所有者にたいする貧農の反抗とかいった農村独自の問題点をめぐって、騒動が拡大しつつあった。これは、第一身分第二身分対第三身分の争いとか、王権=宮廷貴族にたいする他の勢力の対立といった図式とは別に、ある程度、農村における独自の階級対立が尖鋭化したものであった。


レヴィヨン事件

パリでは、レヴィヨン事件とよばれる暴動が発生した。一七八九年四月二七日、三部会の選挙戦の最中に、第三身分の議員候補者レヴィヨンの家を群集が襲撃し、これに軍隊が発砲した事件であった。

レヴィヨンは壁紙製造の工場主で、三〇〇人の労働者を使い、当時としては大工業家であった。彼が、労働者の賃金引上要求にたいして、「労働者は黒パンとソラマメを食っておればよい。麦などは食うものではない。日雇、職工は一五スーあれば立派にくらせる」といったので、労働者が反乱を起こしたといわれている。

そうすると、この事件は、工場主対労働者の階級闘争であったかのように思われる。建物を占拠した群集にたいして、ブザンヴァル男爵の率いるパリ守備隊が発砲し、五〇〇人の死傷者をだし、軍隊の側も九二人の死傷者をだした。騒動に参加した群集は、一時数千名に達したといわれるから、当時の大事件であった。

ところが、この事件の評価は、歴史家によってまちまちである。ソブールの『フランス革命』では、この事件はとりあつかわれていない。マチエの『フランス大革命』では、この事件を、ブルジョアジーと貴族を含む有産階級にたいする労働者の対立として、現代的な意味での階級闘争のように紹介している。

しかし、事件の背景はもっと複雑であった。レヴィヨンの工場を襲撃した者が、そこで働く労働者であったとう証拠はほとんどなく、よそから来た労働者、職人、その他下層階級の者であった。それから見ると、新式の大工場と没落しつつある手工業者の対立が、爆発したものと解釈できる。レヴィヨンの新式工場が設立されるときでも、壁紙製造の同業組合が、同業組合の特権にたいする侵害であると抗議した事件があり、その延長として、新式工場にたいする手工業者の反感が底流にあった。

それに加えて、誰かが金をばらまいて群集を煽動したともいわれている。騒動に参加した者の多くが、一二リーブルをもっていて、死にぎわに、「神様、たったあの情けない一二リーブルのためにこんな目にあわされるとは」といった男もいた。

それでは、金を与えて煽動した者は誰であるかというと、さまざまな解釈がのこされている。オルレアン公が煽動したという説と、ロワという僧侶がレヴィヨンと訴訟関係にあって、恨みをはらすために金を群集に与えたという説がある。もう一つは、宮廷の側がこの運動を助長したという解釈がのこされていて、これが意外に納得できるものである。

はじめ群集がレヴィヨンの家を包囲したとき、軍隊はすぐには出動せず、騒動が拡大してからやっと行動を開始した。レヴィョンは第三身分の代表者として、第三身分代表者数の倍加のために積極的に発言した。その意味では、彼は王権に対立する革命家の一人として登場しつつあった。事実、フランス革命がはじまると、彼は愛国者としての待遇をうけ、一七九〇年には工場を再建して、革命政府に紙幣のための紙を供給している。

彼は、フランス革命の側に立ったブルジョアジーの一人であった。王権の側からみれば、レヴィヨンこそが危険人物であった。彼を背後から攻撃した貧民の運動を一時的に大目にみて、国王に敵対すれば、貧民の暴動から守ってくれる者がいないことを思い知らせようとした策略とみることができる。

しかし、暴動が拡大して、貴族とブルジョアジーを含めた全有産階級にたいする運動に転化しはじめるやいなや、これを鎮圧することを決意したと解釈するのが適当であろう。その意味で、レヴィヨン事件をフランス革命の前史として扱うことはできない。むしろ、その後にくる恐怖政治の時代の、貧民の暴動の前史として理解することができる。

要約 第二章 二 三部会招集を巡る紛争・ブリエンヌの弾圧政策と抵抗運動

この部分を普通の概説書でいうと、「財政破綻になり、三部会招集が要求され、次に第三身分の人数倍加が要求され、その方針のもとに選挙が行われて、1789年5月5日ヴェルサイユに三部会が招集された」という文章に要約される。。しかし、実際にはそう簡単にいくものではなかったことが紹介されている。まず、三部会絶対反対という集団があった。大貴族、(大領主)の主流派、コンデ大公家以下多数がこれで、、ラファイエット侯爵など少数の反主流派が商人、銀行家の味方をして、「正義の味方」として、時の権力者にはむかったのだ。その具体的実例を紹介している。

ブリエンヌの財政政策

少し詳しいフランス革命史なら、この名が登場する。だから、さらに詳しい要点を紹介した。彼は伯爵、大領主、大貴族、大司教、つまり、第一身分でもあり第二身分でもあった。財務総監として名が出てくるが、実際には財政審議会議長、財務総監を指揮監督できる。実質首相であった。彼の出してくる手段は、商人、銀行家に負担をかぶせて、困難を切りぬけるというものであった。だから、ことごとく反対に出会う。反対派はラファイエットのような正義派の貴族、野党的な法服貴族、地方貴族などであった。その具体的な状態が紹介されている。

屋根瓦の日、ヴィジル決議

フランス革命史に残る二つの事件が紹介されている。三部会招集、第三身分人数倍加、これが全国に先駆けて、華々しく打ち上げられた。今ではフランス革命の先駆けとして、高く評価されている事件であった。

クロード・ペリエの名を記憶しておいてほしい

この点を強調するのは、数ある歴史家の中で私だけです。グルノーブル(ドーフィネ州)の商人上がりの城主(ヴィジル城)、領主、一代限りの貴族、当時のこの行動は、危険極まりない反体制的行動であった。悪くすると、バスチーユ行き、拷問、処刑が待っている。.そのうえ、大勢の貴族、財界人を自分の城に招いて、大宴会をする。莫大な支出になる。こういうかけを、彼は生涯に一回だけした。あとは実業に専念し、。貿易から、工業へ進出し、銀行業を起こし、息子はカジミール・ド・ペリエという、貴族銀行家になった。だが、1830年の七月革命で、二代目首相兼内務大臣になり、閣議の議長を自分が勤めた。つまり、40年のちに、クロード・ペリエの息子がフランスの最高権力者になった。ここに革命の実態があると私は言う。

貴族革命説の誤り

いわゆる貴族革命説は誤りだという。確かに王権に反抗した貴族はいる。しかしそれは主流派ではない。理由は様々ではあるが、反体制的な気分を持った貴族が、庶民(大商人といえども、貴族から見ると庶民になる)の味方になってやろうと思った、その時の行動が、歴史では大きく取り上げられる。主流派の貴族については語られなくなる。こうして、倒錯の歴史観が出来上がる。この流れの中で、「貴族革命説」なども出てくる。それは間違いだといっている。


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