2021年12月12日日曜日

06-フランス革命史入門 第二章の一 革命の原因―財政の破綻

第二章フランス革命の開始


一 革命の原因-財政の破綻


基本的原因は何か

フランス革命が、第一身分(僧侶)、第二身分(貴族)にたいする第三身分(平民)の闘いであるというようないい方も多いが、このような形で割り切れるものではない。僧侶の中には、高級僧侶から下級僧侶まであり、下級僧侶ははじめ平民の側に立ったからである。

第二身分の貴族にしても、宮廷貴族、地方貴族、法服貴族に加えて、ブルジョアから成り立った商業貴族があり、お互いに対立していた。宮廷貴族の中でも、権力の中枢にいるものとはずれたものとがあり、はずれたものは、自由主義貴族となって国王にさからってきた。

革命の直前には、地方貴族や法服貴族、それに自由主義貴族と商業貴族を加えたものが三部会の召集を要求して王権と対立した。そのために、この段階では貴族革命であったと主張されるほど、王権との対立抗争を演じた。

しかし、これは貴族革命ではなくて、王権をとりまいた宮廷貴族の本流にたいする、他の貴族の連合であり、貴族階級の内部抗争というべきものである。

第三身分もまた、複雑な内部対立を含んでいた。第三身分のトップにたつ上層ブルジョアジーでも、貴族の資格をもち領主となっている者と、貴族の資格をもたず、領地ももたず、ただ農村には保有地をもつだけといった者もある。そうすると、領主権の廃止とか、貴族の称号と特権の廃止をめぐって、ブルジョアジーの内部抗争がありうる。事実、これがのちのフィヤン派とジロンド派の対決点になる。

中・小ブルジョアジーと上層ブルジョアジーの間にもまた、さまざまな形での利害対立がある。そして、それらを含めたブルジョアジーと、そのもとで働いている労働者の間にもまた、賃金、労働条件をめぐる階級闘争がある。

手工業者とブルジョアジーの対立もあった。ブルジョアジーとくに大工業家が生産を増加させると、同業の手工業者が没落する。このような形の対立は、レヴィヨン事件となって、三部会召集の最中にひきおこされた。手工業の中でもまた、親方の組合と徒弟、職人の対立があり、ときに流血の闘争に発展している。

農村でも、領主にたいする土地保有者(所有者)の対立があるが、土地保有者の中にもまた、大、中、小の対立があり、大土地所有者のもとで働く貧農、農業労働者は、領主であろうと土地保有者であろうと、すべてを含めた大土地所有者の勢力との間に利害対立をもっていた。

このような複雑な対立がありながらも、その対立が、つねに無秩序に動きまわっていたわけではない。対立を内に秘めながらも、日常生活においては使う者と使われる者の協力関係、あるいは取引関係があり、社会的な慣習のうえにたって、さまざまな形での協調がすすめられていたのである。

そうした対立と協調のうずの中にあって、フランス革命という大事件が進行したのであるが、そうしたばあい当然一連の事件の原因は、副次的な原因と基本的な原因に分類されるべきであろう。さまざまな運動が起こったとしても、それがなければフランス革命は起こらなかったというべきものと、それがなくてもフランス革命は起こったというべきものに分類できるはずである。


宮廷貴族の財政的特権

フランス革命の根本的な原因は、国家財政の破綻であった。これがなければ、フランス革命は起こらなかったはずである。だから、フランス革命の展開と結果もまた、この問題を軸にして観察するべきである。三部会の召集を王に決意させたのも、財政の赤字であった。

一七八八年の八月、すでに「国庫は空になるだろう」といわれた。そのころネッケルが財務総監に就任したが、国庫には五〇万リーブルの資金しか残っていなかった。国王はこの財政窮迫の打開をネッケルに頼もうとしたのであるが、その交換条件として、ネッケルが三部会の召集を要求した。国王と宮廷貴族は、いやいやながら譲歩したのである。三部会の召集は財政危機のもたらしたものであるが、バスチーユ襲撃をひきおこしたのもまた財政問題であった。そこで、フランス革命の説明は、財政問題を軸にして展開しなければならない。

極端な財政赤字がなぜできたかといえば、二つの大きな原因が問題になる。まず財政支出の側では、宮廷貴族への出費がある。すでに、宮廷貴族が、どのような形で国王から巨額の資金を引きだしてきたかをみてきた。こうした宮廷貴族の特権は、国王個人の力をもってしても止めることはできなかった。

極端にいえば、宮廷貴族の国庫略奪である。そのことをルイ一五世が明快に指摘した。

「朕の宮殿での盗みは莫大なものだ。しかしそれを止めるわけにはいかない。多くの高官が盗みに没頭し、すべてを使いはたしている。朕の大臣のすべてがそれを正そうとつとめた。しかし、実施の段階でしりごみをして、計画を放棄した」。

国王が、臣下の宮廷貴族を泥棒呼ばわりしているのである。そこに、財政支出における赤字の原因があった。

これを打ち切ればよいのであるが、打ち切ろうとすると宮廷貴族の反撃にであう。宮廷貴族は権力の中枢をにぎっているのである。国王といえども、これを切りすてるわけにはいかなかった。


貴族の減免税特権

財政収入の側についていえば、貴族の減免税特権が赤字の原因になった。この減免税特権は、さらに二つにわかれる。合法的な減免税と、法律を越えた減免税である。法律による減免税としては、たとえば直接税のタイユ(人頭税)が、貴族は四台のすきで耕せる耕地について免除されていた。

間接税のうち、たとえば酒を中むにしたエード(補助税)は貴族と僧侶が免除されていた。塩税も貴族と高級僧侶が免除されていた。そこで、密造者や密輸人が女子修道院を根拠地にして活躍した。ここには官吏がふみこめないからである。

このような減免税とは別に、脱税も多かった。火事がおこったとか、娘が結婚したとかいって、免税の申請を国王や総督にだして認めてもらう。二十分の一税の台帳に、土地、財産収入を少なく申告して負担をへらす。

この操作は、貴族が総督や知事との個人的なつながりを利用してできた。直接税としてのカピタシオンをぜんぜん払わない宮廷貴族もいた。権力の座にいたから、こうしたことができたのである。

当時の批判として、「もし貴族と僧侶が平民と同じ割合で支払うならば、王の収入は莫大なものになるだろう」という指摘があった。これが、ものごとの本質を正確についている。貴族が、支払うべき租税を支払わず、そのうえ、宮廷貴族が国庫から資金を略奪する。この二つによって、財政の破綻がひきおこされた。合理的に考えるならば、財政の建て直しのためには、貴族の減免税特権を廃止して、宮廷貴族にたいする支出を打ち切ればよいのである。このことを、多くの改革者や請願者が主張していた。

しかし、権力をにぎっているのは貴族、とくに宮廷貴族である。自分の損になるような改革はするはずがない。

宮廷貴族が財政赤字でゆきづまると、別な解決策で切りぬけようとした。それは貴族の特権をそのままにしておいて、ブルジョアジー以下の第三身分にたいする増税をおこなうか、それともなにかの方法で金を吸いあげることであった。増税としては、臨時租税として徴収されたカピタシオンや二十分の一税があった。パリ入市関税の厳格な徴収は、問接税の増徴になった。検査税をきびしくして、工業家や手工業者にたいする増税をはかった。

それにしても、まだ当時、租税を治める者の数はかぎられていて、労働者、日雇農、職人、徒弟などは税金を納めなかったから、増税にも限度があった。そこで、もう一つの方法に頼ったのであるが、これがフランス革命の直接的な引き金となった。


貴族によるブルジョアジーの収奪

それは、俗な言葉でいえば、借金ふみたおし政策である。イギリス革命や日本の幕末のころをみると、同じような意味の政策では、商人に御用金を命じて金をとりあげるという方法がおこなわれた。フランス革命のころは、もう少し信用機構が発達していたので、より複雑な形式をとった。

すでに証券がかなり流通していて、財政赤字になると、さしあたり国債その他の証券を発行して資金を集めることができた。また終身年金の制度があり、その契約金をおさめさせることによって、一時的に国家に巨額の資金を集めることができた。また、王の名前で富くじを発行して、臨時収入とした。さしあたり、このような方法は誰の利益を傷つけるわけでもないから、円滑におこなわれ、赤字の解消に役立つ。

しかし、それだけに、やがては償還しなければならない国債の元本や、利子支払、年金支払のための基金が、財政支出の中の重要項目となってきて、これが大きな負担になる。そのときこの部分を切りすてるのである。この部分は、いわば過去につみかさねられた、ブルジョアジーにたいする債務である。ブルジョアジーは、大口の国債保有者、年金契約の保有者である。彼らは、国家が契約の条件を忠実に守ると信じて、出資したのである。

ところが、財政赤字に直面すると、王権はこれを切りすてようとした。そのときには、国家の破産を宣言するから、これを破産政策と呼んだ。ブルジョアジーから見ると、どのような政府が、あるいはどのような大臣が破産政策をとるかは、過去の実績からよくわかっていた。彼らは、自分の貸付けた金の運命については、もっとも敏感であるのに、たびたびその債権の価値を引き下げられたことがあった。

ルイ一四世の死後、三億三〇〇〇万リーブル以上の赤字が残った。この赤字が財政審議会で処理されたが、そのときの議長はノアイユ公爵であった。このときの政策は、ブルジョアジーにとってきわめてきびしいものであった。政府の発行した証券を検査し、そのうちの約半分を無効と決めて、総額五億九〇〇〇万リーブルから二億七〇〇〇万リーブルに引き下げた。つぎに国債の利子を引き下げた。こうしたことは、今目の社会では考えられないことである。

つぎに、上層の金融業者の財産がどのようにしてできたかを調査するための臨時法廷を作った。国庫との不正取引を調べるというのであるが、取調べが厳重なために、多くの者が自殺をした。このように、ルイ一五世の初期に、ブルジョアジーの財産を傷つけ、彼らを自殺に追い込むほどのきびしい政策がすすめられた。

ルイ一五世の末期には、財務総監にテレー僧院長が就任して、同じような赤字解消政策をおこなった。国庫証券の支払停止を命令し、年金を総額三〇〇万リーブル切り下げ、国庫にたいする貸付金の利子を強制的に引き下げた。これで、多くの商人、金融業者が破産し、自殺者をだした。啓蒙思想家ヴォルテールも大財産家であったが、この政策で二〇万リーブルの損害をこうむった。彼の僧侶にたいする批判ははげしいが、その批判の根源は、まったく思想的なものというよりはむしろ、こうした金銭的な被害によるところが大きいはずである。

他方で、宮廷貴族の年金は切り下げなかったから、テレーの政策は宮廷貴族の利益を守りながら、ブルジョアジーに犠牲を転化するものであった。またテレーは増税を考えたので、パリ高等法院が反対した。そうすると、高等法院を更迭して、パリの・フルジョアにたいする二十分の一税を増徴し、一四〇万リーブルに引き上げた。総徴税請負人に契約金の増加を要求して国庫収入を増やした。これで徴税請負人の利益は削減されることになった。

こうした意味では、宮廷貴族と徴税請負人の間にも、深刻な亀裂が入ることになる。インド会社の配当を制限して、その差額を国庫におさめ、この資金で皇太子(のちのルイ一六世)とマリー・アントワネットの結婚式の費用をひねりだした。こうみてくると、テレー僧院長の財政政策は、国王と宮廷貴族を守りながら、ブルジョアジーとの契約を破棄して、その財産を大きく傷つけたことになる。


チュルゴーの財政改革

ルイ一五世が死に、ルイ一六世が即位すると、テレー僧院長が財務総監を辞任した。これにかわって、新しく改革派の財務総監として登場したのが、重農主義者として有名なチュルゴーであった。そのあと、財政の担当者はクリュニー、ネッケル、フルーリ、ドルメッソン、カロンヌ、ブリエンヌと続き、ついに抜きさしならない段階にきて三部会の召集が叫ばれるようになった。

これらの財務総監のうち、チュルゴーとネッケルが有名であり、概説書にも取りあげられるほどである。そこで、人々はチュルゴーとネッケルが当時の実力者であるかのように思い、彼らの政策が、あたかもルイ一六世の政策であるかのように思うばあいが多いが、これは誤解である。むしろ、後世にほとんど知られていない財務総監クリュニー、フルーリ、ドルメッソンが当時の宮廷貴族の本流を代表した保守派であり、実力派であった。

ややもすると、歴史の中に改革派が大きく取りあげられ、保守派が切りすてられる。これが歴史の誤解をはなはだしくする。個人の才能からいえば、改革派の方がゆたかであり、研究に価する。しかし、だからといって、彼らが当時の社会で実力をもっていたとはいえない。むしろ多くの場合、改革派は当時孤立していて、後世で有名になることが多い。ところが、後世で有名になると、人々は、その人物が後世で評価されているほどの名声を、当時の社会でももっていたものと思いこんでしまう。いかに改革派が当時の社会で孤立し、苦しい立場に立っていたかという理解が忘れられてしまう。こうした側面に気をつけて、フランス革命の前史を見なければならない。

チュルゴーは古くからの貴族で、パリ高等法院検事総長代理、リモージュの知事であったが、名門の宮廷貴族ではなく、宮廷では本流を代表するものではなかった。むしろ、テレー僧院長の極端な抑圧政策にたいする反対運動に押しあげられて登場してきた、野党的な財務総監であった。それだけに、彼の就任は重農主義者や自由主義貴族から歓迎された。モンテスキュー侯爵、コンドルセ侯爵、ヴォルテール、デュポン・ド・ヌムールなどであった。

チュルゴーは、テレーの政策を逆転させた。彼は、宮廷貴族の脱税を摘発して納税を要求した。その反面、テレーが無効にした国庫にたいする債権をもとに戻して、支払を再開した。債権者はブルジョアジーであったから、この政策は、ブルジョアジーを優遇して宮廷貴族を傷つけるものであった。チュルゴーは、ルイ一六世にたいして、宮廷貴族の特権を削減することを宣言した。

「陛下の宮廷人へばらまく金がどこからきているのか、考えていただきたい。恩賜金、年金、金銭的特権がもっとも危険で濫用されている。租税にたいする役得が、必ずしも徴税に必要ではないのに、この役得が貴族の腐敗をもたらしている。私は宮廷の大部分から、恩賜金をもらうすべての者から嫌われ、恐れられるだろう。」

こうした方向は、宮廷貴族の本流と真向から対立するものであった。それにしても、彼はある程度の改革に成功した。王領地での賦役を廃止し、穀物商業の自由を打ちだした。小年金所有者には支払いながら、大年金所有者(宮廷貴族が多い)にたいして支払を延期した。ギルド(同業組合の制度)を廃止し、商工業の自由、営業の自由を実現した。一般的に、経済的自由主義がチュルゴーの原則であった。

次にアメリカ独立戦争への参加の中止、僧侶の免税特権の廃止、僧侶財産の売却を考えた。ここにきて、高級僧侶の反感が決定的なものになった。また、宮廷貴族実力者がチュルゴー罷免に動いた。とくに、二人の有力な貴婦人が王妃が王妃マリー・アントワネットを動かして、チュルゴー追い出しを策謀した。それはランバル公爵夫人(王妃付き女官長)、ポリニャック公爵夫人(皇太子養育係)である。これに王弟アルトワ伯が加わった。

チュルゴーの失脚した直接のきっかけは、穀物商業の自由化政策であった。自由化がはじまると買占めがおこなわれ、食糧品の値段が騰貴して、貧民がパン屋を襲撃するといった食糧暴動が起こった。これに軍隊が出動して、「小麦粉戦争」といわれるさわぎになった。このときチュルゴーは、自由化政策の原則をつらぬけず、穀物を強制的な価格で買い入れて別の州にまわした。経済理論における自由主義が、必ずしも現実には貫徹できなかったということの実例である。

チュルゴーは、この暴動の責任をとらされて辞任した。ところが、この暴動に参加したものの中に、アルトワ伯の下僕がいて、これが赦免されている。この暴動が、アルトワ伯を中心とした宮廷貴族のけしかけたものだということは、当時公然の秘密になっていた。チュルゴーは宮廷貴族の特権に挑戦したために、改革半ばにして追い出されたのである。


ネッケルの財政改革

チュルゴーが辞任したあと、一七七六年の五月から一〇月にかけて、クリュニーが財務総監になった。彼は、歴史的には無名の人物であるが、宮廷貴族の本流を代表していて、チュルゴーの改革を廃止した。当然、財政危機が深刻になったが、王の富くじを実施して、そこからの資金で一時的に財政危機を回避した。

彼が死ぬと、つぎに財政をまかされたのは、ジュネーヴから来た銀行家ネッケルであった。

ただし、彼は新教徒でもあり、名門貴族ではなかったので、財務総監になることはできなかった。財務総監にはダブロー・デ・レオーを据え、その下の「国庫の総監」の資格で、実質的に財政をうごかした。この地位は徴妙なものであり、財政を動かすとはいっても、国王を囲む閣議には参加できなかったために、権力をふるうにも限度があった。

ネッケルは銀行家であり、チュルゴーと同じくブルジョアジーの側に立つ改革派であった。しかし、重農主義者ではなかったために、穀物商業の自由については熱意をみせず、むしろ穀物商業の規制の方向にすすんだ。王領地におけるマンモルト(農奴制=死亡税)を廃止した。宮廷貴族の官職約四〇〇を廃止して、財政支出を押えた。

ただし、彼の行動はかなり政治的であった。ある貴族の官職を廃止しながら、他の貴族の官職を保存するというやり方で、貴族の反対運動を分断することによって、反対運動を押えた。

つぎに、ネッケルは「会計報告書」と称する国家予算の現状報告書を発表し、財政がほぼ収支均衡していることを宣伝し、国庫にたいする信用を高めておきながら、公債を増発し、終身年金契約を増加させて、財政収入の増加を計った。のちになって、ネッケルが赤字を過小評価したという批難があびせられて、赤字論争が起こることになる。しかし、さしあたりこの時期には貴族やブルジョアジーが「会計報告書」を信用し、とくにブルジョアジーは安心して国債の購入、終身年金契約の増額に応じた。国王も、そうした形でネッケルが財政収入を実現してくれたかぎり、救いの神としてネッケルを支持した。

それにしても、官職をうばわれた宮廷貴族の反感は高まった。やがて、海軍大臣サルチーヌが莫大な公金を浪費していたことがわかった。ネッケルは、これを取りあげて罷免に追い込み、ネッケル派のカストリ侯爵を後任にすえた。この事件が、宮廷における反ネッケル運動を爆発させた。ネッケルは、それをのりきるために閣議に入ることを要求したが、国王はこれを拒否した。王妃もネッケル罷免のために策謀した。そうした環境のもとで、彼はついに辞任せざるをえなくなった。


カロンヌの反動的財政政策

そのあと、一七八一年五月フルーリが財務総監になった。フルーリは、宮廷貴族の本流を代表していて、ブリオンヌ伯爵夫人に推薦された。ブリオンヌ伯爵夫人は、ランベスク太公(ロレーヌ公爵)の妻でもあり、この夫婦は宮廷貴族の右派を代表した人物であった。そこでネッケルの改革が逆転されて、増税と借入金が増加しただけであった。

一七八三年、同じく宮廷貴族の本流を代表してドルメッソンが財務総監になった。彼も似たような政策を続け、赤字を増加させた。赤字に困ると、ケース・デスコントの資金を強制的に国庫に借り入れた。この事件でケース・デスコントの信用が落ち、ケース・デスコント紙幣をもっている者が、正貨への交換を要求して取付けさわぎをおこした。このような政策は、信用機構とブルジョアジーの経済活動を麻痺させるものであった。

一七八五年カロンヌが財務総監になった。彼も、アルトワ伯爵ポリニャック公爵、ヴォドルイユ伯爵など有力宮廷貴族に支持されて登場してきた。彼は、宮廷貴族にたいして惜しげもなく国家資金をばらまき、赤字をますます増加させた。その反面、公債の増発、借款の増加、貨幣の改鋳によって収入の増加を計ったが、国債や借款の増加が利子負担を増加させ、将来の赤字増加の原因を作った。

パリを城壁で囲んで、入市関税を増徴した。株式市場を操作して、投機によって利益をひきだした。ケース・デスコントからの七〇〇〇万リーブルの強制借款をおこない、信用を動揺させた。このため、ケース・デスコントの理事をしていた大銀行家二人が破産したほどであり、その連鎖反応をうけて、火災保険会社もパリ水道会社も、クルゾーも経営困難におちいった。

一七八六年、カロンヌは財政改革案を発表した。このとき、財政収入は約四億七四〇〇万リーブル、財政支出は約五億七五〇〇万リーブルで、これに臨時支出一二〇〇万リーブルを加え、赤字は約一億一二〇〇万リーブルになるといわれた。こうした破滅的な赤字を解消する手段として、臨時土地税を提案し、これを承認させるために名士会を召集した。

名士会は、宮廷貴族、高級僧侶、上級の法服貴族、その他知事、州議会の議員、都市の吏員などから選ばれた、一四四名の代表者からなっていた。これが七つの部会にわかれて、それぞれの議長に二人の王弟、オルレアン公爵、コンデ太公、ブルボン公爵、コンチ太公、パンチェーヴル公爵が任命された。こうした顔ぶれからみるならば、名士会は、王権に忠実な決議をするものとみられていた。

しかし、すでに膨大な赤字のために、人心が動揺していた。そのうえ、ネッケル派の名士も多かった。一七八七年二月、カロンヌが赤字の説明をするときに、ネッケルの時代から赤字が多く、ネッケルの会計報告が嘘であったと報告したために、ますます論争が大きくなった。

ネッケル派の貴族や僧侶が臨時土地税に反対し、支出の削減、租税の軽減を主張して抵抗した。そのため、臨時土地税は決議されなかった。そのうえ赤字論争が一般に知られて、国家への信用が失われたため、いまにも騷動が起こりそうな情勢になった。それに加えて、カロンヌのスキャンダルが摘発され、財務総監の辞職に追い込まれた。

要約 第二章 フランス革命の開始 一 革命の原因ー財政破綻

フランス革命の原因が財政破綻だということは、全ての教科書に書いてあるので、これを疑う人はいない。問題はその中身になる。なぜ破綻したか。どうすれば改善できるか。これを正確に理解しようといいう。もう一つ、第一身分、第二身分に対する第三身分の戦いだとも思われているが、それぞれの身分の中でも、貧富の差があり、単純に、第三身分が勝ったというものではないことも指摘している。

宮廷貴族の財政特権

これが最大の原因だという。つまりヴェルサイユ城に集まる3000人ー4O00人の大領主、これが権力を組織しているから、財政特権を持っている。財政支出の面では、できるだけ多くのお金を、国庫から自分が引き出せるかという競争があった。国王個人が、「私のものを盗んでいる」といったが、国王の権力で止めることはできなかった。財政収入の面では、貴族が減税、免税の特権を持っていた。大貴族ほど、その特権が大きい。「少なく収めて、大きく引き出す」であった。

貴族によるブルジョアジーの収奪

権力を握っていた大領主たちは、財政運営の面で、ブルジョアジーを収奪した。様々な方法を紹介しているが、ルイ15世末期、テレー僧院長が財務総監になり、ひどいことを行った。多くの商人、銀行家が破産し、自殺者を出した。パリのブルジョアに対する増税を行った。ヴォルテールという啓蒙思想家も、20万リーブルを失ったという。

チュルゴー、ネッケル、カロンヌの財政改革

歴代有名な財務総監の改革を紹介する。それぞれ、パトロンになる大貴族を背景に持っているから、改革が派閥抗争になった。そのため根本的な改革にならないまま、革命に進んでいった。

0 件のコメント:

コメントを投稿