2021年12月12日日曜日

08-フランス革命史入門 第二章の三 バスチーユ占領

三 バスチーユ占領


国民議会の宣言

一七八九年五月五日、三部会がヴェルサイユに召集された。三部会のうち、第一身分(僧侶)の議員は約三〇〇人で、このうち二〇〇人ぐらいが司祭(中・下級僧侶)であった。第二身分(貴族)の議員二七〇名のうち、地方貴族の数が多く、これに宮廷貴族、法服貴族が加わった。第三身分に同情的な自由主義貴族の数は少なく、九〇名くらいであった。それにしても、その革新性の度合はさまざまであった。第三身分の議員数は六〇〇であり、この中の約半数が法律家であった。また、ブルジョアジーの階層に属する者が多かった。そして、当時の法律家のほとんどは、なんらかの形でブルジョアジーと深い利害関係をもっていた。

すでに三部会が開会される以前から、第三身分代表者はさまざまな形で差別待遇をうけていた。僧侶や貴族の代表者は、国王に一人一人挨拶をすることができたが、第三身分の議員は、ひとまとめにして国王にお目通りをさせられた。三部会の会場に入るときも、僧侶と貴族は正式の戸口から入場させられたが、第三身分の代表者は、小さな裏門から入場させられた。

肝心の開会式では、国王が三部会を独立した権力機関としては扱わず、国王の命令のもとに、財政赤字解消の方法に努力するべきものという立場から説教しただけであった。人数別の採決か身分別の採決かについても、口をつぐんだままであった。財務総監ネッケルの演説でも、財政の状態についての数字上の説明が長々とつづき、根本的な改革案についてはふれるところがなかった。

ネッケルは財政状態の深刻さをわざとかくして、ある程度の改革でなんとかなりうるものという調子で演説をした。しかし、実際は深刻な赤字であり、ヴェルサイユに到着した三部会の議員にたいしても、一人八〇〇リーブルの俸給の支払ができず、四カ月間、俸給支払は停止されたままですぎていくことになる。

こうした状態に、第三身分代表者はいらだちを感じ、それそれのグループを作って対応策を協議しはじめた。さしあたりの大問題は、人数別採決か身分別採決かであった。身分別採決をするのであれば、第三身分代表者数を倍化したことには意味がなかった。あくまで人数別採決にもちこむことが必要であったが、第一身分と第二身分の議員は、それぞれ別の部屋で資格審査をおこなっていた。第三身分の代表者は、人数別採決の突破口として、資格審査を全員で、すなわち身分別ではない方法でおこなわせようとして、第一身分、第二身分に働きかけた。

この問題をめぐって、かれこれ一カ月の時間が過ぎていった。

第三身分の議員は、しだいに国王と貴族、僧侶の保守派にたいする反撥心をつよめた。その結果、六月一七日ミラボー伯爵とシエース副司教の提案により、自分自身の名称を「国民議会」とよぶことに決定した。そのうえで、国民議会の権限についていくつかの決議をおこなった。国王と国民議会の間にはいかなる拒否権もないこと、国民議会を否定する行政権力はありえないこと、国民議会の承認しない租税徴収は不法であり、いかなる新税も、国民議会の承認なしには不法であると宣言した。ただし、現在の租税については、不法ではあるが、国民議会が解散されるまでは一時的に合法性を与えると決議して、現状を一時的に承認した。こうした租税徴収についての宣言は、どのフランス革命史にも書いてあることで、常識的なものになっている。

だが、もう一つの宣言は、どの革命史にも紹介されていない。しかし、フランス革命の本質を知るためには、より以上に重要なものである。それは、国債の安全を宣言したものであり、ブルジョアジーの破産を救うべき性質のものであった。

「国民議会は、王と協力し、王国の再生の原則を定め、公債の点検と長期公債への借り換えに従事し、これ以後、国家の債権者に名誉を与え、フランス国民の信義にかけて彼らを保護することを宣言する」。

租税徴収権が財政収入をめぐる基本的課題であるとするならば、公債や国庫への債権の問題は、財政支出をめぐる基本的な問題点であった。絶対主義時代の王権は、破産に直面すると公債を切りすて、国庫への債権者をふみにじることによって、危機を切りぬけてきた。それに歯止めをかけたのであるから、財政政策の逆転をねらったものであり、王権にとっては致命的なものであった。


国民議会解散の計画

こうした第三身分議員の動きについて、僧侶部会が影響をうけた。多くの司祭と少数の司教が、第三身分への合流にかたむいた。貴族部会の大多数は、第三身分の行動に反対であった。六月一九日、貴族部会はクロワ公爵の提案により、第三身分議員の決議にたいする非難を可決し、これを国王に提出した。

「彼らは、彼らの宣言を法律にかえる権利があると信じた。彼らは、自分の宣言を印刷し発送した。租税を破壊し租税を再設した。彼らは疑いもなく、王と三つの身分の権力を自分に与えることができると信じた。われわれは、抗議を国王陛下のもとに提出する」。

この決議にたいしては、少数の自由主義貴族クレルモン・トネール侯爵、モンテスキュー侯爵、ラ・ロシュフーコー・リャンクール公爵、エギョン公爵、ラメット伯爵などが反対しただけであった。

僧侶部会は、第三身分への合流を主張する者と、僧侶部会が独自の権限をもつと主張する者の二つにわかれて、激論をつづけた。合同を主張する者は、多くの下級僧侶と少数の自由主義的な高級僧侶であった。その指導者には、ボルドー大司教シャンピオン・ド・シセ、ヴィエンヌ大司教ルフラン・ド・ポンピニャン、シャルトル司教デュヴェルサックであった。

僧侶部会の独自性を主張したのは、高級僧侶の保守派であり、その指導者はパリ大司教ジュイニェ、ラ・ロシュフーコー枢機卿、モーリー枢機卿であった。激論の結果、一四九票対一三五票の少差で合同派が勝った。

敗北した高級僧侶は、事態の重要さを国王に報告して、なんらかの対策をすすめた。翌日の六月二〇日、国王の命令によって、国民議会の会議場が兵士によって閉鎖された。式部長官ブレゼ侯爵が国民議会の集会を禁止し、国王があらためて三部会を召集するという命令を伝えた。しかし、国民議会の議長バイイはこの命令に抗議して、隣接する球技場(テニスコートとよばれているが、現在のようなラケットをもつテニスとはちがう)になだれこみ、ここで国王の命令に反して国民議会の決議を採択した。

「国民議会は王国の憲法を設定し、公共の秩序を再建し、王国の真の原則を維持するために召集されたのであるから、なにびともその決議を妨害することはできない。議員が集まる所であれば、それがどこであろうとも、国民議会を構成することになる。すべての国民議会のメンバーは、憲法が制定され、それが堅固な土台の上に確立されるまでは決して解散しないことを誓う」。

これが、のちに「テニスコートの誓い」と呼ばれた。

六月二三日、三部会が王の命令によって集められることになっていた。この頃になると、すでに四〇〇〇人の軍隊が出撃の用意をととのえていた。これに対抗して、国民議会を応援するべき群集がパリやヴェルサイユから集まり、武力衝突の近いことを示すような雰囲気になった。群集が集まると、軍隊がこれを散らしてまわった。

そのような状態の中で、まず僧侶、貴族の議員が会議場にひきいれられたが、第三身分の議員は、雨の中に立たされたままであった。ついに、第三身分を代表して、ミラボー伯爵が式部頭に「国民を王のもとにみちびけ」とどなりつけ、入場させた。その会議に、国王が高級貴族、近衛兵に囲まれて入場し、国王の方針を演説した。

国王の承認しない議案はいっさい無効であると宣言し、身分別にわかれて決議をおこなうことを命令し、貴族の政治的特権と減免税特権は尊重し維持する決意をあらためて強調した。封建的特権は、財産として尊重することも宣言した。財政面では、新税は三部会の承認なしには実施しないが、借款は一億リーブルにかぎって、国民的危機のときにはおこなうことができると宣言した。

これでは、国民議会との全面的対決であった。国王が退出すると、貴族の大多数と高級僧侶の多数、それに何人かの司祭が退出した。第三身分の議員はぼうぜんとしていたが、そこへ式部長官ブレゼ侯爵が入ってきて、解散の命令を伝えた。ミラボー伯爵が第三身分を代表して、「銃剣の力によらなければ、われわれをここから動かすことはできない」と大声でやりかえした。議員は叫び声をあげてこれに賛成した。ブレゼ侯爵がこの状態を国王に報告すると、近衛兵三中隊を率いて国民議会に進撃し、必要とあれば切りすてよという命令がだされた。この軍隊を迎えたとき自由主義貴族の一団が剣を手にして立ちはだかり、「第三身分代表を救い、彼らとともに死のう」と呼びかけた。その決意のまえに式部長官は動揺し、襲撃をあきらめて軍隊をひきあげた。


王権による譲歩と弾圧政策

この日、国王の周辺は混乱して、強硬派と柔軟派の議論がつづけられた。その中で、ネッケルの罷免が主張されたという噂がながれた。国民議会の会場の周囲を群集がとりかこんでいたが、議員が解散すると、群集が宮殿にむかって殺到した。彼らは「ネッケル!」と叫びながら乱入した。フランス衛兵(パリ、ヴェルサイユの守備隊)は発砲命令をうけたが、服従しなかった。こうした動揺を鎮めるために、ネッケルが宮殿に呼びだされて、「辞職しない」と言明した。群集は彼を歓迎し、邸宅まで連れて帰った。

ネッケル罷免を主張したとみられたパリ大司教は、襲撃されて寺院に避難した。何人かの貴族議員が襲われた。ヴェルサイユは無政府状態に入りかかった。パリでも、大群集がパレ・ロワイヤル(オルレアン公の宮殿)に集まり、街頭でも集会が開かれて、「われわれの議員が危険に瀕している」と叫ばれていた。

六月二四日、王の命令に反して、一五〇人の司祭と五人の司教が第三身分に合流した。これに反対したパリ大司教は、群集に襲われ、家まで追いかけられて石を投げられた。パリ大司教が国民議会に参加すると約束して、やっと群集をなだめることができる状態であった。群集を鎮圧するべき軍隊があてにならないので、六月二六日、宮廷の対策会議がすすめられ、一時的に譲歩しながら時間をかせいで、全国から軍隊を呼びあつめる計画がたてられた。そこで、翌日の二七日、国王はいままでの態度をかえて、貴族と僧侶の部会にたいして第三身分へ合流することを命令した。

このような一時的な譲歩にたいしてすら、貴族部会でははげしい反対があった。多くの議員が、このような王の命令に服従する必要がなく、国王よりはむしろ王制を選ぶのが義務であるといった。ここに、貴族と国王の関係の本質が表現されている。国王はあくまでも貴族階級の第一人者であるべきで、それをはなれた国王を貴族階級は認めることができない。それにしても当時は情勢が不利であった。そこで、貴族部会は、一応王の命令に服従すると答えざるをえなかった。

こうして時間をかせぎながら、軍隊の集結がおこなわれた。宮殿のまわりに大規模な軍隊と武器を集め、警戒体制をとった。当時の記録では、パリが三万人の軍隊に包囲されていると書かれてあった。バスチーユ要塞監獄の総督ローネイ侯爵は城壁に大砲を据えつけ、兵員を増強して、周囲のサン・タントワーヌ街をおびやかした。

ランベスク太公の指揮するドイツ人連隊と騎兵連隊が、モンマルトル高地に出動した。ここに、パリにむけての砲台を作るという噂が流れた。

こうした軍事クーデターのための準備と平行して、一連の強硬政策が秘密のうちに準備され、それが噂となって流れた。御前会議で、三部会の解散、議員を自宅へ強制送還すること、財務総監ネッケルの罷免、一〇億リーブルの強制借款、ロレーヌをオーストリアに六〇〇万リーブルで売却することなどの政策がきめられたといわれた。これはほぼたしかなことであった。

強制借款はブルジョアジーを破産させる政策であり、三部会の解散は国民議会の権力を否定して、国王と貴族の絶対主義的権力を再確認する政策である。ネッケル罷免も、ブルジョアジーを保護しようとする政策をやめさ

せるためである。こうした噂がパリに流れると、パリではますます反抗的な気運がたかまった。


宮廷貴族の軍事クーデーター

国王が頼みとする軍隊に動揺が広がり、これにパリ市民が積極的に働きかけた。すでに、軍隊にたいする給料支払が遅れていた。近衛兵すらが不満を口にし、フランス衛兵の兵士は、将校の命令に従おうとしなくなった。

兵士と下士官がパレ・ロワイヤルに行進して、群集と挨拶をかわし、第三身分万歳と唱えて帰るようになった。

軍隊の中に王権に抵抗するための秘密クラブがつくられ、これが発覚して関係者が逮捕された。そうすると、六月三〇日、パレ・ロワイヤルにいた二〇〇人あまりのブルジョア達が救出を叫んで行進した。たちまち群衆は

四〇〇〇人にふくれあがり、その先頭に、何人かの労働者が鉄棒をもってたった。牢獄に到着して門をこわし、逮捕されていた者を釈放した。急を聞いてかけつけた竜騎兵と軽騎兵それぞれ一中隊が、はじめは剣を抜いていたが、群集と対峙すると剣をおさめ、脱帽して挨拶をかわし、ぶどう酒で乾杯して、国民万歳と唱えた。この事件で、国王もフランス衛兵連隊長デュシャトレ公爵も、群集の力におされて処罰を撒回せざるをえなかった。

時がたつにつれて、ますます軍隊の士気が乱れ、兵士、下士官がパレ・ロワイヤルに出入りすることが多くなった。もし、軍事クーデターの計画を先にひきのばすと、パリ市民がすべての軍隊を脱走させるだろうという心配がおこり、宮廷の側は早急な決断を迫られた。

七月一一日、国王と宮廷貴族は思いきった勝負にでた。ネッケルとネッケル派の大臣モンモラン伯爵、ラ・リュゼルヌ伯爵、サン・プリースト伯爵、ピュイセギュール伯爵を罷免した。ネッケルにたいしては、ひそかに国

外に退去せよという命令がだされ、彼はそれに従った。

かわって、宮廷貴族の強硬派が大臣をかためた。財政審議会議長にブルツイユ男爵、財務総監にフーロンが就任した。ブルツイユ男爵は名門の宮廷貴族で、マリー・アントワネットの寵臣であり、抜群の行動力をもってい

て、宮廷貴族の頼みの綱と考えられていた。

軍事クーデターのための軍事指導者として、ブローイ(ブログリオ)公爵(元帥)が総司令官兼陸軍大臣となった。彼も軍事的才能を高く評価されていた人物であり、ヴェルサイユ宮殿を野営地にかえて、戦場にのそんでいるように命令を下してまわった。パリに駐屯する軍隊の司令官にはブザンヴァル男爵を任命した。彼は、レヴィヨン事件を弾圧した軍人であった。ブローイ元帥はブザンヴァルに対して、パリで暴動が起こったときの戦略について指示を与えた。

「下層民がケース・デスコントと国庫のまわりに集まるようなことがあれば、全兵力をあげてこれを守るように」。

貴下がパリで最初の運動をみるやいなや、スイス兵団を国庫と株式取引所に進撃させてこれを守れ。全般的騒乱が起こると、パリの全部を守ることは不可能であるから、株式取引所、国庫、バスチーユ、廃兵院を守るにとどめること」。

この命令は、軍人らしい簡にして要を得た指令である。ブローイ元帥が、すでにパリ市民との純軍事的衝突を想定し、それに勝ちぬきながら、国家財政の実権だけをまず確保しようとした姿勢がうかがわれる。

こうした戦略をみると、フランス革命史でよくいわれるように、ルイ一六世は無能であったとか、宮廷貴族は皆女性的でなすすべを知らなかったというような描き方は、正確でないことがわかる。宮廷の側にも、行動力が

あり、軍事的才能を十分に発揮できる人物はいたのである。


革命の成功

国民議会は軍隊の撤退を国王に要求した。パリの選挙人代表がヴェルサイユにきて、ネッケルの罷免に抗議した。しかし、国王はそれを拒否して、「もしパリになんらかの騒乱があれば、それはお前達の責任だ」と答えた。パリでは、国王の命令として外出禁止、集会の禁止が布告された。

パレ・ロワイヤルでは、王の布告を無視して大群集が集まっていた。七月一二日、軍隊が出撃をはじめた。パレ・ロイヤルでは、カーミュ・デムーランが「武器をとれ、市民よ」の言葉に象徴される有名な演説をおこない、軍事的抵抗以外に救われる道がないことを煽動した。

この群集が、ネッケルとオルレアン公爵の胸像をかついで五、六千人となり、街頭にでて竜騎兵と衝突した。胸像はこわされ、小銃が発射され、石が投げられて双方に死傷者がでた。パリの関門ではドイツ人連隊が発砲し

て、一人が死に、多くが負傷した。

司令官ブザンヴァル男爵はパリに散らばっていた軍隊をルイ一五世広場に集結した。群集はチュイルリー宮殿に集まったが、これをめがけて竜騎兵で突入するようブザンヴァル司令官はランベスク太公(ドイツ人連隊長)に命令した。竜騎兵の突撃にたいして、群集はバリケードを築き、石やビンを投げて抵抗した。ランベスク太公もサーベルで群集の一人を傷つけたが、抵抗がはげしくて竜騎兵は後退をした。

パリ市民の恐怖感が高まり、警鐘が鳴らされ、武器商店が略奪され、「武器をとれ」の叫び声がパリをかけぬけた。フランス衛兵の兵士が群集の側に加担して、ドイツ人連隊を襲撃し撃退した。こうした混乱の中で、治安を維持する必要があり、パリ選挙人会議は常設委員会をつくり、新しいパリの権力機構を組織しはじめた。

七月一三日の夜警鐘が鳴らされ、国民議会の多数が逮捕されかかっているとか、パリ選挙人の多数も逮捕されるだろうという噂が流れた。国王の側は、国民議会の指導者を絞首刑にすることも考えていた。軍隊の離反をくいとめるために、ヴェルサイユでは貴族、貴婦人が兵士の中に入り、金とぶどう酒を配って歩いた。

七月一四日、ふたたび軍隊が出動しはじめると、パリ市民の側も恐怖につつまれ、群集がフランス衛兵とともに廃兵院におしかけ、約三万の小銃を奪って分配し、バスチーユ要塞監獄にむかった。ここで一〇〇人近くの死者をだしたが、占領に成功した。

バスチーユは、かつて政治犯の収容所であり、この中に王権に抵抗した政治犯がとじこめられているとみられたが、占領してみると、普通の犯罪人ばかりであった。その意味では、バスチーユ襲撃は見当ちがいであったともいわれる。しかし、それとは別な意味があった。城壁から大砲をのぞかせて周囲の町をおびやかしていたこと、内部に武器弾薬を貯えていたことは、それなりの軍事的目標になって当然のことであった。

バスチーユ占領は、国王の軍隊とパリ市民の軍事力の優劣を示す象徴的な事件であった。国王の軍隊がパリ全体で敗北しただけではなく、フランスの地方都市でも国王の軍隊が敗北した。多くの地方で軍隊に反乱が起こり、国王の側はこれ以上軍事的行動を続けることができなくなった。バスチーユは、そうした情勢の象徴であった。

国民議会議長ラ・ロシュフーコー・リャンクール公爵がパリの情勢を報告し、バスチーユの陥落を告げたとき、国王は「一揆だろう」といった。それにたいして、公爵は「いえ陛下、革命でございます」といったという。これは、ものごとの本質を端的に表現している言葉である。

要約 第二章の三 民衆がバスチーユ要塞監獄を襲撃し、占領したというのは間違い

どの本でも、教科書でもこう書いているが、間違いです。なぜなら、こう書くと、パリでの動きと、ヴェルサイユで行われていた国民議会(三部会の第三身分=平民代表)と王権の対立抗争の歴史が連動しません。財政問題を軸にして、三部会が招集されたのだから、それの結果としてバスチーユ占領がないとおかしい。ところが、いきなり民衆がという説明では、話に首尾一貫性がない。(一貫性を感じない人が多いのかな。私は少年時代から、なんだかおかしいと感じていました)。

まず三部会で様々な小競り合いがあった

貴族、聖職者は正門から、第三身分は裏門からという差別待遇から始まる。財政赤字はたいしたものではないといいながら、議員への給料が支払われない。こういうことは知らなかったでしょう。集まったところで、「討論する必要はない。こちらのいうことを承認するだけでよい」などといわれる。採決方法は「身分別」だといわれる。これで第三身分代表は激怒した。こういういきさつを書いている。

テニスコートの誓いへの道

テニスコートの誓い、これはどこにでも乗っている。しかし、この「財政赤字」に直結する内容は紹介されない。憲法制定などの法律的、政治的内容を知らされる。それだけでは不十分だということで、ここでは財政面のことが書かれている。まず自分らを国民代表の国民議会だと自称し、租税徴収の権限を持っているとした。これをいうことは、貴族に対する減税、免税の特権を廃止するという意味であった。もう一つ、国家に対して貸し付けたお金は保護されると宣言したことである。これが非常に重要なことで、国王を取り巻く大貴族たちは、国家の破産を宣言して、「破産したから返さなくてもよい」という政策を実施するつもりでいた。これをされると、商人、銀行家は破産する。その手前の政策として、利子支払い停止というのもある。現代社会でも、いくつかの国家がしてきた。これらをされると、破産者が続出する。この政策を阻止すると宣言した。これが、パリの実業家たち切実な願いであた。

7月11日の政変

こうした国民議会の動きを、機先を制して抑え込もうとした計画が、7月11日の政変であった。断固たる行動をとるという保守派で固めた政府を作り、妥協的な財務総監ネツケルヲ罷免し、国外追放にした。これで情勢が激変した。新政府は大貴族(大領主)の超保守派、しようとすることは分かっている。パリの財界指導部は経済活動を停止して、抵抗運動に向かった。それが具体的に書かれている。民衆を掻き立てただけではなくて、自分たちも武装し、パリ駐屯軍(フランス衛兵)に出向いて、お金を出すから、味方に付いてくれと頼んだ。その結果、ヴェルサイユから進軍してきた国王の軍隊と衝突し、戦闘の結果勝つことができた。だからバスチーユ占領は国民議会と連動している。目的は、財政赤字の責任を、どちらに押し付けるかの戦いであり、そのためには権力を取るしかなかった。だから民衆が主体ではなくて、財界が主体であった。こういうことをはっきり書いている。

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