2021年12月12日日曜日

09-フランス革命史入門 第二章の四 国民議会の権力

 四 国民議会の権力


宮廷貴族の敗北と亡命

国王は譲歩することを決心した。軍隊の撒退を声明し、国民議会に出席して「朕は国民とともにある」といい、和解を宣言した。国王と国民議会、あるいは国王とパリ市民との関係だけについてみると、国王の譲歩でけりがついた事件であるかのようにみえる。しかし、国王をとりまいていた宮廷貴族の立場からみるならば、最強の者の敗北であり、権力者の敗退であった。

ブローイ元帥は、パリでの敗北を知ると、国王に「ヴェルサイユを離れて軍隊の中に入り、反撃の機会をうかがうべきである」と説いた。しかし、すでに軍隊とともに移動するだけの資金、食糧がなかった。そこで、国王は泣いて屈伏したのである。

それでも、国王の安全はまだ保障されていたが、軍事クーデター計画に指導的役割を果した宮廷貴族の運命はみじめなものであった。バスチーユ総督ローネイ侯爵、パリの総監(任命市長)フレッセルは首を切られた。群集はその首を槍につきさしてねり歩いた。ネッケル追放後の財務総監になったフーロン(ブローイ元帥の会計官)は街燈につるされた。その婿のベルチエ(王妃の財政総監、パリの財政総監)も捕えられた。群集は、義父フーロンの死顔にロづけさせ、縛り首にし、心臓をえぐり、二人の頭を槍でつきさして行進した。

パリでの市街戦を指揮した司令官ブザンヴァル男爵は、政権回復の陰謀をおこない、捕えられて処刑された。フランス衛兵連隊長デュシャトレ公爵は変装して逃げた。船の中で見破られ、水の中に投げこまれそうになったが、二、三人の乗客に助けられた。竜騎兵を突入させたランベスク太公は、石で打ち殺されそうになったが、すばやく逃げのびた。ブローイ元帥は、逃亡の途中ヴェルダンでつかまり、殺されそうになったが、まだ勢力を保っていた軍隊の圧力で釈放された。

ポリニャック公爵夫妻の首には懸賞金がかけられた。宮廷貴族の主だった者は、変装して村から村へと隠れ家をたどって逃げのびた。アルトワ伯爵、コンデ太公、コンチ太公、ポリニャック公爵夫妻をはじめとするもっとも有力な宮廷貴族の一団が逃亡した。本来、国王は彼らの代表者であった。いまや旧支配者は逃亡し、国王だけが、第三身分の捕虜同然の身の上として、フランスにとどまることになった。


法律革命論の誤り

バスチーユ襲撃に象徴される反乱と革命で勝利者になった者は誰かといえば、それはブルジョアジーであることに疑いはない。だが、これについて、もう少しはっきりさせておかなければならないことがある。ブルジョアジーの勝利を一般論としては認めるが、その根拠はかならずしも確かなものでないという場合が多いからである。

たとえばフランス革命の第一段階は法律家の革命であったという意見がある。なぜならば、第三身分議員の半数が法律家だからである。このような説明の仕方も多い。ソブールは「法律革命」という、いい方をしている(『フランス革命』上巻、八八頁)。

マチエは、フランス人民が主権者になったと書いたり、ブルジョワ階級の時代がきた(『フランス大革命』上巻、一〇四頁)といういい方をするだけで、あまりはっきりとした定義はしていない。また「貴族と対等になるために大革命をおこなった当のブルジョワさえも、長い間、いぜんとして貴族を自分らの指導者、首領として選んでいた」(上巻、一二一頁)といって、ラファイエット侯爵をひきあいにだしている。

法律家の革命をもっとはっきり強調しているのは、デュプーであり、これがフランスの歴史家の一般的な傾向を代表している。

「革命の原動要因となるのは、まず最初に短期の『法律家の革命』を遂行した自由職業人・知識人のブルジョワジー、ついでジロンド派と共同した大ブルジョワジー・中ブルジョワジー」(デュプー『フランス社会史』八七頁)。

これでは、後にでてくるジロンド派の方が、ブルジョアジーとしての規模が大きいような感じをうける。

河野健二氏も「『法律革命』ではなく『社会革命』が、ブルジョア的ではなく民衆的な改革がここにはじまる」(『フランス革命小史』岩波新書、一二〇頁)といういい方で、一七八九年を法律革命、一七九二年の八月十日を社会革命という。同じような発想である。

他方でマチエのように、人民といったり、ブルジョアジーといったり、貴族を指導者にしたというと、この時点のブルジョアジーが、なにかたいした勢力をもたなかったかのように受けとられてしまう。どのフランス革命史でもこうした傾向が強い。

一方で自由主義貴族、他方でジロンド派とともに後からくる大ブルジョアジーの間にはさまれて、バスチーユ襲撃直後のブルジョアジーは、なにか規模の小さい、比較的力の弱いブルジョアジーであるかのように扱われている。

しかし、これは、この時点での指導的ブルジョアについて、十分な研究がなされていないからである。個々の実例をもっとよく調べるならば別な結論がでてくる。この時点で権力をにぎったブルジョアは、ブルジョアのうちで最上層の者であり、経済活動では最強の力をもつ者であった。また、それだけに、貴族の資格をもつ者も多く、領地をもつ者も多かった。つまりは、貴族的なブルジョアジーであった。


上層ブルジョアジーの勝利

権力に返り咲いたネッケル自身が最大級の銀行家であり、自分の娘をスタール男爵と結婚させ、貴族社会に入りこんでいた。

宮廷銀行家のラボルドは、食料品商業をおこない、商船隊をもつ貿易商人でもあり、同時に領地と城をもち、植民地の農園をもち、貴族になって侯爵の称号をもち、娘をノアイユ伯爵と結婚させていた。彼もこの時点での革命派であり、五万リーブルの愛国献金をおこなった。この献金は、宮廷側の反革命罪を調査するためにあてられ、ランベスク太公、ブザンヴァル男爵の罪状があきらかにされた。また、バスチーユ占領のときに起こった財務総監フーロンの虐殺も、ラボルドがけしかけたものであったといわれている。

ドレッセール一族は銀行、絹織物商業、貿易業を手広く経営し、ケース・デスコントや火災保険会社の理事をだしていた。この一族は、積極的に使用人、下僕を巻きこみ、武装して市街戦に参加し、負傷者をだした。バスチーユの襲撃のときは、自分の邸宅を弾丸製造工場にして、そのあとでも一大隊の食料を供給するための資金を提供した。


ボスカリは銀行家でもあり、貿易商人でもあり、帽子製造工場を経営する工業家でもあった。火災保険会社の理事、ケース・デスコントの理事長にもなった。バスチーユ襲撃の前夜、政府に貸付けたケース・デスコントの資金を返済してもらうように、ヴェルサイユに行って交渉した。しかしこの交渉は成功しなかった。その直後パリで市街戦がはじまり、ボスカリ一族は武装して戦闘に参加した。

パリのヴィヴィエンヌ通りはインド会社の建物があり、株式取引所が開かれていた。その近くに銀行家、徴税請負人、株式仲介人が集まっていて、ここが上層ブルジョアジーの中心街となっていた。この町はフランス衛兵連隊の一部をあらかじめ買収した。

七月一三日から一四日にかけて、銀行家ルクツーも兵舎をおとずれ、防衛に十分なだけのフランス衛兵をつれてきた。

このように、兵士の反乱は、自然発生的に起きたのではなかった。むしろ、士気が乱れていた所に乗じて、上層のブルジョアが積極的に働きかけ、買収し、ブルジョアジーの側の軍隊に仕立てあげたのである。


財政政策の逆転

それだけに、勝利したパリでは、このような上層ブルジョアが政治、軍事の指導権をにぎったのは当然である。

国民衛兵(国民軍)が組織されてパリの治安にあたったが、ここに加盟できるのは、自分で武装をととのえることのできる者だけであり、第一次選挙人以上と決められていたから、財産をもたない職人や労働者は除外された。

それは、小ブルジョア以上の者で組織される軍隊になった。その司令官に自由主義貴族ラファイエット侯爵を据えた。表面をみると、まだ貴族的色彩がのこっているようにみえる。しかし、実際の軍務は、ラファイエット一人だけですすめることはできない。彼の下の副官がそれぞれの分野を担当した。その副官の中に、多くの大銀行家が名をつらねていた。その意味で、国民衛兵も上層ブルジョアの支配下にあったのである。

また七月一四日以後、国家財政の実権は王権の手をはなれて、国民議会にうつり、実際には、国民議会の財政委員会が運営することになった。そして、財政委員会をうごかした者もまた、上層ブルジョアの一団であった。

当時の見聞録にも、ブルジョアジーの指導権をはっきりと指摘したものがある。

「資本家達は、彼らの金庫が心配のあまりし闘いにふみきった」。

「ネッケルの罷免は破産の合図だった」。

「国庫はブルジョアジーの手に確保され、誰もこれをとりあげることができない。ケース・デスコントは同じく彼らの保護のもとにあり、支払はいつものとおりおこなわれている」(七月一六日)。

ネッケルが復職すると、さしあたりの財政資金として三〇〇〇万リーブルの借款を国民議会に要請した。

「これは財政委員会にまわされ、明日報告されることになる。借款は通過するだろう。必要はさしせまっている。パリはわきたっている。投機業者、資本家は議会のために大いにつくしたから、彼らのためには、なんらかのことをしてやらなければならなくなっている」。

こうして借款が通過し、国家財政の危機が回避された。ブルジョアジーの新政府であり、契約を破棄するおそれはないから、円滑に成立したのであった。ブルジョアジーは、新政府を自分のものとみなしたのである。

すでにネッケルが罷免された直後、宮廷側の財政政策にたいして、国民議会は先手をうち、それに歯止めをかけるような声明をだした。

「公債はフランスの名誉と忠誠にかけて保護され、国民は必ず利子を支払い、『破産』という不名誉な言葉はつかわず、どのような権力といえども、デノミナシォンの形で公的信用を破る権利がない」。

必ず利子を支払うということは、歴代の王国政府がやってきたように、国家の破産を口実にして利子を切下げることをしないという意味である。また、デノミネーションは、今日のデノミという意味ではなくて、公債価値の切下げという意味であり、これも今日の社会ではありえない。それは資本主義の社会だからありえないのであり、それ以前の絶対主義の社会では、ありえたわけである。まだブルジョアジーが権力をにぎっていなかったからである。そうした意味で、これらの宣言に、ブルジョアジーが権力と財政政策の実権をにぎったことの本質があざやかに示されている。

ゆえに、この時点で権力をにぎったブルジョアジーとは、最上層のブルジョアジーであり、とくに公債の買入れとか、政府への物資納入とかの形で、政府にたいして巨額の金を貸付けていた上層ブルジョアジーの一団であったということができる。法律家とか知識人とかいう、財産規模の小さい、あいまいなものではなかった。


自由主貴族の協力

最上層のブルジョアジーが権力をにぎったとはいっても、まだ彼らの社会的な権威は、全国的に認められるほどのものではなかった。絶対主義のもとでは、古い家系の貴族だけが、社会的に価値のある者だった。まだ、貴族社会そのものだったからである。

銀行家ネッケルが自分の娘をスタール男爵と結婚させたとき、「なに者でもない男が、なに者かになろうとすれば娘が必要である」といわれた。どんなに巨富を積んでも、貴族でなければとるに足りない者であった。

そこで、多くの上層ブルジョアは金のカで貴族の称号を買い、領地を買い、城を買った。それでもやはり、成り上り者としかみられていなかった。彼らが全国民に新しい主権者であると宣言してみても、伝統的権威がないから、威信を確立することはできない。

そこに自由主義的な宮廷貴族の役割があった。宮廷貴族の野党的立場の人間、権力争いで破れたために進歩主義者にかわった人間、より以上の財産を求めて銀行家や大商人の娘と結婚した宮廷貴族が、そのようなグループを作っていた。

彼らの社会的な存在は、ちょうど権力に到達した最上層のブルジョアと似たものであった。そこで両者の協力体制、同盟が成立し、新政権の表面に名門の自由主義貴族が立った。ネッケルの復職とともに、ネッケル派の大臣が返り咲いた。これらは、サン・プリースト伯爵のような宮廷貴族と、ボルドー大司教、ヴィエンヌ大司教のような自由主義高級僧侶であった。ラファイエット侯爵は国民衛兵司令官になった。最初の財政委員会の代表者にはエギョン公爵がなった。

陸軍大臣は、とくに長い間貴族によって引きつがれていた。軍事は、ブルジョアジーの苦手とする分野だからである。はじめはサン・プリースト伯爵で、一七九一年の末から一七九二年の三月まではナルボンヌ伯爵、その年の五月まではグラーヴ侯爵と、自由主義貴族が軍隊の実権をにぎっていた。ジロンド派の将軍で一時陸軍大臣を兼任したデュームリエも名門貴族である。

平民出身の将軍が大量に出てきた恐怖政治の時代でも、デュボワ・ド・クランセとかバラ伯爵のような名門貴族が、地方軍司令官や軍事委員になって国防のために活躍した。ブルジョア革命とはいっても、ブルジョアジーだけに純化されたわけではなく、ブルジョアジーの側に立って活躍する貴族の多くが目立つのである。


大恐怖とバスチーユの相違

七月一四日から八月四日にかけて、フランスの農村各地において大恐怖とよばれる農民の暴動が発生し、全土が一時無政府状態にあるかのような混乱におちこんだ。この運動は、必ずしもバスチーユ襲撃の運動と連帯するものではなく、ときにはそれに逆行し、ときには一致し、ときにはまったく無関係に、自律的にひきおこされた。革命とは、相対立する二つの陣営に諸階級が整理され、その後に決戦をおこなうという性質のものではない。むしろ、経済困難と人心不安の中で、あらゆる階層が入り乱れて闘い、旧秩序がバラバラになって崩壊したときに、つぎの社会を担う階級が、権力を組織して、新体制を作りあげていくのである。そうしたことが、この短い時期におこなわれた。

大恐怖は、さまざまな動機で発生した。もともと、七月一四日以前から、各地で農民の反乱が起こり、領主の城が焼打ちされていた。バスチーユ占領の噂が広まるとともに、農民の運動が爆発的に広まった。通信の発達していない当時であるから、いろいろな噂やデマが流され、それに応じて農民が動きだした。

イギリス軍が上陸して、すべてを焼きはらっているという情報をもとに、農民が武装して騒乱を起こしたこともある。盜賊が農村を略奪しているとふれまわった者がいて、これをきっかけに、農民が武装して領主の城におしいり、盗賊をさがすというロ実で、城の財産を略奪し、封建権利証書を焼いたところもある。

フランシュ・コンテ、ドーフィネ、ブルゴーニュ、アルザス、ノルマンディー、リムーザンの各州で、一五〇以上の城が炎上した。多くの寺院も焼かれた。貴族や僧侶が、恐怖につつまれて逃げまわった。ブルゴーニュでは、村の弁護士が盗賊の首領となり、王の命令と称して、「三カ月間すべての城、地代帳、寺院、風見をもつ邸宅をもやす許可を与える」とふれまわった。

こうした暴動について、国民議会の側は国王と王党派の煽動のせいだといった。しかし、貴族の側は、国民議会の指導者が全国民を武装させるために、盗賊がうろついているという情報を流して農民を煽動したのであるといった。この暴動を発案したのが、ミラボー伯爵であるという説も残されている。国民議会の議員チボドーは、「市民を武装させようとしたミラボーの天才に賛辞が集まった。パリから発せられた通知は全国に広がり、盗賊のくることを告げた」といった。

いくつかの都市でも、同じような暴動が起こった。フランス第二の都市リヨンでは、飢えた貧民が暴動を起こし、関門と徴税局事務所を襲撃しただけではなく、ブルジョアジーが三身分合同のために建てた門柱をくつがえした。この暴動は、ブルジョアジーにも敵対するものになった。ポワシーでは、買占めの容疑をうけた一人のブルジョアが群集におそわれ、国民議会の代表によって救出された。パリでも、サンジェルマンの入市関税事務所が破られ、徴税官が買占めの容疑者としておそわれた。

このように、大恐怖の動きは、都市でも農村でも国民議会の動きとは独立して、ときにはそれと対立して進行している。都市の暴動の多くは、国民議会に集まるブルジョアジーにたいしてもむけられた貧民の暴動であり、すでに反ブルジョア的な傾向を示している。

農村で城を襲撃し封建権利書をもやした暴動は、国王側の貴族に対してのみならず、国民議会側の貴族、ブルジョアに対しても攻撃のほこ先をむけた。宮廷貴族も地方貴族も法服貴族も領主であったが、自由主義貴族もまた領主であり、最上層のブルジョアたちもまた多く領主であったからだ。

国民議会の側に立つ自由主義貴族や商業貴族の側からみるならば、七月一四日で王権に反抗し、やっと権力をにぎったと思った瞬間、足もとの農民から反乱を起こされ、自分の城が襲撃されたのである。それだけに、大恐怖は国民議会の権力を強めるものではなかった。

ただ、国王側の宮廷貴族の足もとまでゆるがし、宮廷貴族がパリ市民にたいする軍事的反撃を農村で準備するための機会を失わせた限り、フランス革命にとって有利な条件を作ったことは認められるであろう。


封建権利廃止の宣言の意味

大恐怖は、国民議会の中ではげしい討議の対象になった。強硬派は、農民の反乱を武力で鎮圧せよと主張した。七月二〇日、ラリー・トランダル伯爵は、ブルジョア民兵を地方に作り、これで騒動を鎮圧せよと提案した。こうした意見は、デュポン・ド・ヌムール、ムーニエなど国民議会の右派が主張した。

彼らも、王権にたいする限りは革命派であったが、領地をもつブルジョアまたは自由主義的な領主の立場を露骨に代表して、封建権利の全面的維持に固執したのであった。ムーニエは「屋根瓦の日」いらいのはなばなしい革命家ではあったが、自由主義的大領主テッセ伯夫人、エナン公夫人のサロンの弁士となり、彼らの気分を強く主張したのである。

しかし、国民議会の多数は、大恐怖に対して正面からたちむかうことは不利であると悟った。彼らは、まだヴェルサイユに駐屯する国王の軍隊の脅威をうけている。この軍隊は撤退しただけで、解体はされておらず、いつでも反撃できる体制にある。もし国民議会が農民の鎮圧にまわり、農民の反感を買ったときに、国王軍から反撃されれば、農村における支持者を失って敗北するかもしれない。

ただし、それでは全面的に封建権利を廃止するのかといえば、自由主義的領主やブルジョア領主は、改革によって一挙に領主としての収入を失ってしまう。そこで、妥協案がまとめられ、農民に期待をもたせるような形で、封建権利廃止の宣言がおこなわれた。

封建権利を二つに分けて、人身にまつわるものと土地にまつわるものに区別し、前者を無償で廃止するが、後者は有償で廃止するというものである。こうした提案が、八月四日、ノアイユ子爵によって出され、これに自由主義貴族の多くが賛成して可決された。

無条件で廃止されるものは十分の一税、領主裁判権、マンモルト(死亡税または農奴制)、狩猟権、鳩小屋の権利などであった。

有償で廃止されるものは、封建貢租と不動産売買税である。これらは有償で買戻すことができると定められた。したがって、完全に買戻されるまでは、その徴収が厳格に実施されると規定されていた。

こうして、領主権は単純な地代に転換された。さしあたり、当時の農民の多くは、有償廃止の意味をあまりよく理解できず、ともかく廃止されたということを早合点して、貢租も無条件で廃止されたかのように誤解した。そのような誤解が広まっても、国民議会の議員もあえて訂正しようとせず、ただ廃止という点に力点をおいて、お祭りさわぎをした。こうして、八月四日の宣言をきっかけに、農民の暴動はしずまり、農村に平静さがとりもどされた。

八月四日の宣言で廃止されたものについては、たとえていうならば領主権の半分が廃止されたものと考えてよい。後の半分がまだ維持されていて、これの廃止をめぐって、つぎの内乱(一七九二年八月一〇日の蜂起)がひきおこされることこなる。

大恐怖と封建権利廃止の宣言の扱い方について、ほとんどのフランス革命史が誤解をまねくような形で書いている。七月一四日のバスチーユ占領を描くと、そのすぐあとに大恐怖を紹介し、それから八月四日の宣言を紹介して、ここでフランス革命の第一段階を終りとする。ソブールの『フランス革命』も、マチエの『フランス大革命』もそのようになっている。

そうすると、バスチーユ占領の運動の結果が八月四日の宣言であるかのように受けとられる。これが固定化すると、まるでバスチーユ占領の運動の目的が封建権利廃止の宣言であるかのように思いこまれていく。これが一つの常識になってしまって、多くの学者が、ブルジョア革命の基本的課題は領主権の廃止であると定義するような風潮を作りだした。バスチーユ襲撃ー大恐怖ー八月四日の宣言を結びつけるからである。ほとんどのフランス革命史が、このような理論的見解を基本にしているが、とくに河野健二氏の『フランス革命小史』では、この見解で筋をとおすための努力がなされている。

しかし、これは誤解もはなはだしいものである。バスチーユ襲撃は、八月四日の宣言に直接結びつかない。もっとくわしくいうならば、七月一四日の運動は、領主権(封建権利)廃止の宣言には直接結びつかないのである。大恐怖は、勝利したブルジョアジーにもむけられたので、八月四日の宣言は、勝利したブルジョアジーが足場をかためるために、やむをえない譲歩の手段として打ちだしたものであり、彼らがそれを目ざして奪闘したものではなかった。最上層のブルジョアジーがもとめて奪闘したものといえば、国家財政の実権であった。このことをもう一度確認しておく必要がある。

ただ、八月四日の宣言には、そのほかに租税の平等とか文武の官職にすべての市民を登用するとか、金銭的特権を廃止するとかいう項目がある。これは、貴族の減免税特権の廃止、また貴族が官職を独占していたことへの否定が含まれていて、バスチーユ襲撃の目標と一致している。

また、官職売買の廃止は高等法院、法服貴族の廃止につながるものであり、パリ、リヨン、ボルドーの都市の特権廃止は、ブルジョアジーの中での不平等の解消を目ざすものであった。これらは最上層のブルジョアジーにとっての目標ではなく、むしろ維持したいものもあっただろうが、ひとたび動きだした革命の潮流に逆らえずに譲歩の手段として放棄したものと考えるべきである。

要約 第二章ー四 国民議会の権力

バスチーユ占領が報告されると、国王は敗北を悟った。軍隊を撤退させ、和解の声明を出した。これで騒ぎが治まったかのように見える。そこで、多くの歴史家は政治革命であるとか、法律革命、自由平等の思想の勝利などと、経済、財政から離れた結論を唱える。しかし、これでは首尾一貫性がない。財政問題で騒ぎが起きたのだから、財政問題でけりをつけなければおかしい。理科出身の「理屈っぽさ」かもしれないが、理論が首尾一貫していないと気が済まない。それが、この時点の解釈に出てくる。国民議会が権力を取ってどうしたのか。

商人、銀行家の復讐

商人、銀行家は決死の覚悟で立ち上がった。彼らの本性に反してである。彼らは本来慎重、臆病、控えめをよしとしている。「資本は臆病である」ともいわれる。「金持ち喧嘩せず」ともいわれる。ところがその本性に反した人がいた。ラボルドという宮廷銀行家の名が出てくる。ネッケルの後任の財務総監フーロンの虐殺をけしかけた。(わかりやすく説明すると、ラボルドは国家に大金を貸しつけていた。フーロンは、これを踏み倒す政策を実行しようとした)。だから復讐のため虐殺させた。(金をばらまいて、殺させたということが当時分かっていた)。

亡命貴族の大量発生

これが一例で、ラボルドが献金して、調査が始まり、フーロンの側の人物の名が明らかにされた。その人たちの首に懸賞金がかけられた。捕まれば首を持っていかれる。これで、パニックになり、大勢の人たちが逃げ出した。その逃げた人たちが、今まで権力の最高、最強の地位についていたものであった。(大貴族、大領主)。例えば、ポリニヤック公爵夫妻。

だれが勝って、だれが負けたか

この文脈で行くと、勝った側はラボルド、商人銀行家、金を貸して、その権利を確保した。負けた側は支配者でありながら金を借りて、それを踏み倒そうとした側ということになる。国王個人の立場はあいまいとなる。

財政政策の逆転

国民議会は「破産という言葉は使わない」と宣言した。「利子を必ず支払う」とも言った。「公的信用を破らない」とも言った。これで、国家に金を貸し付けていたブルジョアジーの権利は守られた。だからフランス革命の初期のスローガンは「自由、平等、財産」であった。これを差し置いて、法律革命だとか、政治革命というのは、本質を見ない言葉に過ぎない。

自由主義貴族の協力

ブルジョアジーが勝ったとは言うものの、それが前面に出るというものではないよと書いている。本来ブルジョアジーは前面に出ないものである。なぜなら、実業に忙しいから。また資本は臆病であるから。勇敢なものは、貴族、戦士になってくれ。これが本音です。そこでどういう貴族と協力していくのかが紹介されている。


0 件のコメント:

コメントを投稿