2018年3月27日火曜日

領主権の無償廃止でも貴族は大地主として残る

領主権の無償廃止はロランの党派(のちのジロンド派)が推進したことを説明したが、そこに貴族が多数参加していたことも紹介した。当然、日本人のほとんどの人から、「自分が破滅する政策に、貴族がどうして参加するのか」という質問が出される。「無償廃止なら、明日からは無一文、無収入のはず」、「貧民への転落が待っている」、「命がけでこれに抵抗するはず」、にもかかわらず積極的賛成、これは何かである。
日本人は領主権といえば、幕藩体制の領主権を思い出す。それぞれの藩で領主権は藩主一人に集約されている。いわば領主権の共有、「社会主義的領地所有」である。この状態で領主権が無償で廃止されると、それにぶら下がっている集団は一気に貧民となる。そこでずいぶん思い切った政策をするものだと感心する。日本では有償廃止であったから、日本は妥協的、フランスは徹底的という図式が出来上がった。
しかし、そもそもの前提条件が違うので、フランスの領主権は個人所有であり、しかもその個人所有の領地の中に、領主権に服している土地と、服していない土地があり、領主権の無償廃止は前者についてのみ行われ、後者については関係がなかったのである。
これでもまだ何を言っているのかわからぬといわれるだろう。城、館の周りに大きな土地がある。貴族は馬に乗って門から走り出て、全力疾走する。そこはすべて自分の土地である。ド・ゴール元大統領は、一日中走り回っても自分の土地だといっていた。はるか彼方に集落があり、そこには耕地が広がっている。そこまでの土地が貴族の直領地で、これは個人の所有地であり、領主権に服すはずのものではない。だから、無償廃止の影響は受けない。
つまり、たとえて言えば、無一文にならず、「財産半減」になるのである。それでも良いと覚悟を決めた。なぜなら、外国軍が侵入してくる。すべてを失うかもしれない。命すら危ない。今、領民と対立している暇はない。これが決断であった。戦争が終わってみると、それでもまだ貴族が多額納税者に名を連ねるという状態であった。
ブロイ公爵の子孫は、代々村の村長で、20世紀に入ってもそれが変わらない。村一番大地主だからである。ある伯爵はブドウの栽培、ワイン醸造と家業とし、地下にトンネルを掘って貯蔵庫とし、その長さは東京横浜間に相当するとテレビ解説者が言っていた。大屋政子という日本の女性が、ある伯爵から土地を買い、そこでゴルフをしながら、遠くの海岸線まで自分の土地になったといっていた。これもテレビであるが、こういう直領地の実態は、シャーロック・ホームズ、ポワロ、アガサ・クリスティーなど多くの映画で、今の日本人なら見ているはずである。
だから今なら、これを素直り理解してもらえると思う。

2018年3月26日月曜日

領主権無償廃止はジロンド派の功績

前回領主権の無償廃止に至る過程を、立法議会の議事録に従って解説し、賛否はほぼ互角、若干フイヤン派の優勢、すなわち無償廃止論者の劣勢、であったところ、相手側が安心して退出した時、審議続行して可決してしまったことを説明しました。この出所は、小林良彰著『フランス革命史入門』、『フランス革命経済史研究』、『フランス革命の経済構造』です。
これが正しい史実であって、一年後の1793年の「封建貢租徴収の禁止令」は外国軍の占領地で、亡命貴族が帰国して、昔通りの貢租徴収をしたことについて、禁止を徹底したものであった。この時に、ジロンド派が領主権を守ろうとして奮闘したという記録はない。ジロンド派が守ろうとして失敗した政策は別にある。
くどいようだが、もう一度確認すると、領主権の無償廃止はジロンド派が推進したものであり、当時は彼らがジャコバンクラブの指導権を握っていて、「ロランの党派、ブリッソの党派」と呼ばれていた。ブリッソはパリ銀行業界の代弁者だと思われていたから、内務大臣ロラン、外務大臣ブリッソ、これに銀行家クラヴィエールの財務大臣を加えると、ジロンド派政権はブルジョージーのむき出しの権力と思われていた。このブルジョア政権が「領主権の無償廃止」を実現した。
このようにいうと、多くの社会科学の学者が、自分の足元が崩れていくことを感じるのだ。あるものは黙り込み、不機嫌になり、ヒステリックな反論をした。無視、絶縁、排除の試みもあった。世界的な誤解を正すのだから、、それくらいのリスクはある。
さてここにまだ続きがある。ジロンド派の政策に賛成の貴族もいたという事実である。しかも大貴族がである。トップはオルレアン公爵ルイ・フィリップ、この時期、「フィリップ・エガリテ」と呼ばれた。日本では「平等公」と翻訳されるが、「公」をつけないことになったので、エガリテすなわち平等という言葉にしたから、正確には「平等」と呼ぶべきである。国王に次ぐ大領主、王族の一人、財産は握りながら、、平等だといって革命に参加している。それ以下、コンドルセ侯爵、シルリー侯爵、その夫人ジャンリ女性伯爵(伯爵領を女性が相続していて、作家として有名)、その他多くの貴族が参加していた。
これを見ると、日本の明治維新で下級武士出身の官僚が政権を運営したから、保守的封建的だという理屈は崩れる。「フランスも負けず劣らず、保守的、封建的だぞ」、「それでも市民革命なのだ」といえばよい。
これで私が18歳の時、最初の授業で隣の座席から聞こえてきた声「それで日本社会の封建的性格ですが」という質問に対して、「それを言うなら、フランスも封建的ですよ」と言い返しておしまいになる。答えは単純なのだが、ここに行き着くまでに、十数年の研究が必要であった。
ジロンド派が領主権の無償廃止を実現した、これを基本理論として、近代市民革命の理論を再構築してもらいたい。そうすると、フランス革命の1789年ー1830年に対して、日本革命の1868年ー1871年が対応することを承認できるでしょう。

2018年3月25日日曜日

領主権の無償廃止

領主権の無償廃止、こういえばフランス革命の1793年、いわゆるジャコバン派独裁、、恐怖政治、の時に宣言されたもので、領主権の有償廃止が1789年に行われたのに続き、「不徹底な部分的廃止」を改めて、完全な「無償での廃止」を実現したものとされている。これによって、農民が封建的束縛から完全に開放され、近代市民社会にふさわしい状態ができたと解釈する。
これを裏返すと、ジャコバン派独裁のようなものがない国は、不徹底な市民革命になるといえるので、特に日本人は、なんとなく引け目を感じてきたのである。
この学説、今でもネットの世界で、当然の真理のように書かれているが、実はこれが間違いである。領主権が無償で廃止された時期は、1793年ではなく、1792年であった。つまり一年早い。これは重大なことで、いわゆるジロンド派政権の時代であった。これを見ると仰天する人が多いだろう。
あるフランス革命の大家に対してこう主張し、論破したところ、不機嫌に黙り込んで、それ以後の付き合いがなくなった。これは信念の問題に直結するので、おいそれとは意見を変えられない。そのためうすうすこれに気が付いた人でも、あいまいなことを書いて、この問題でガチンコ勝負をすることを避けてきた。そうした人の中に、河野健仁、フランスのソブール、マテイエなどのフランス革命史家がいる。つまり、1792年のことを書きながら、理論的な結論の部分で1793年を書くのである。
実際に起こったことを整理しよう。1792年4月11日、封建委員会を代表して、ラツール・デユシャルテルが封建的権利の無償廃止を提案した。これに、内務大臣のロランが賛成した。フイヤン派のドウジーがロランを攻撃して、激論になった。これは重要なことで、この時は、一時的にジャコバンクラブ(この指導部はのちにジロンド派と呼ばれる)が行政権を握ったのであった。その内務大臣はロラン・ド・ラ・プラチエール、プラチエールに大領地を持つ貴族、法服貴族、インド会社の重役、すなわちブルジョア貴族の上層であった。ジロンド派の指導者として有名であるが、この時はまだジロンド派という言葉はなかったので、ロランの党派と呼ばれていた。
つまり、いわゆるジロンド派の指導者が「封建的権利の無償廃止」に賛成して、論争したのである。領地を持ちながらなぜか、こういう疑問が出ると思うが、外国軍が侵入してくるとき、この権利にしがみつくと、二正面作戦になり、すべてを失うとの判断が多くの貴族の心中に芽生えた。封建的権利を手放しても、城とその周辺の直領地が残る。すべてを失うのではなく、たとえて言えば約半分を失うだけだ。これが、ジロンド派に理解を示した貴族たちの判断であった。
しかしそれでもだめだ、権利はすべて死守するというのが、フイヤンクラブの信念であった。ここで両者が激突する。
6月15日フイヤン派系の内閣が成立した。事実上は復活である。しかし立法議会では、封建的権利の無償廃止、(領主権の無償廃止)が激論の場になった。この時、無償廃止を修正する提案が出され、273対227で可決された。これだ安心したフイヤンクラブ系の議員が一時的に退出した。その時ジャコバンクラブ系の議員が審議続行を言い出して、「封建的権利の無償廃止」が可決され、議会は閉会した。
平たく言えば、だまし討ちである。フイヤン派は起こった。これで武力衝突に至るのであり、1792年8月10日を迎える。つまり、「ジロンド派が封建的権利の無償廃止のために戦って、成果を収めたのである」。

2018年3月23日金曜日

小林良彰(歴史学者東大卒)のフランス革命論 これが市民革命であるための理由は何か

フランス革命が市民革命であるための理由は何か。これを改めて問い直すとします。当然の答えが出るようで、意外にズバリといえないのです。世界中で盛んに主張されたことは、1793年、ジャコバン派独裁、領主権の無償廃止、農民の開放、民主主義の実現などです。この理論は右派、左派関係なく、またマルクス、エンゲルス、レーニンに至る社会科学でもそうであった。私はこれが間違っているという。
フランスの革命記念日は7月14日であり、これは1789年のことであった。7月14日を盛大に祝っておいて、基本的な成果は4年後のものであるというのは、自己矛盾も甚だしい。
7月14日の結果出てきたものは、国民議会、(のちに憲法制定議会になる)、の勝利、立法議会の選出、三権分立であるが、こうした制度上の変革が基本ではない。この時期、フイヤンクラブが支配し、ジャコバンクラブが野党の立場にあったことである。フイヤンクラブは、自由主義的大領主と最上層のブルジョアジーの党派であった。対するジャコバンクラブは、大領主の影響が少ないブルジョアジーの党派であった。そして、政争の中で、ジャコバンクラブの勢力が中間派の支持を得て、権力をとったこともある。
したがって、フランス革命は、7月14日に起こり、大領主の権力集中(ヴェルサイユに集まる)を撃破して、自由主義的大領主と上層ブルジョアジーの同盟に権力を移したことであったというべきである。
この同盟の中でどちらが指導権を維持し続けるか、見た目には貴族のように見えるが、実質はブルジョアジーの側にある。1792年3月10日フイヤン派の内閣が辞職し、ジャコバンクラブに連動する内閣が成立した。その時、閣僚名簿は国王の承認以前に議会に通知された。つまり国王の行政権すら独立していないので、「国王に行政権がある」という規定が有名無実になっている。この内閣の財務大臣クラヴィエールは銀行家であったが、フイヤン、ジャコバン両派に参加し、やがてフイヤン派を見捨てるのである。
このような進行を見ると、フランス革命はブルジョアジーの勝利を実現したものだと言い切ることができる。これが正確な答えになる。ただしブルジョアジーは表面に出ることをためらう傾向がある。また、革命の初期であればあるほど、何らかの同盟者と提携する。悪く言えば、使い捨てにする。その使い捨てにされた人たちが、ラファイエットであり、ロベスピエールであり、日本では西郷隆盛であった。ワシントンは逆に崇め奉られた。いずれにしても、一時的同盟者は、完全な仲間になるか、それとも使いすてかの運命をたどり、社会が安定した時、ブルジョアジーの勝利が実現される。これが市民各目の結果である。

2018年3月21日水曜日

小林良彰(歴史学者東大卒のフランス革命論)立法議会で市民革命は完成した

オーストリア、プロイセンによる干渉戦争がはじまり、勝てば鷹揚に構えられるが、意外に連戦連敗、パリが占領される心配がでてきた。パリは破壊されるという。これで住民は上下に関係なく恐怖にさらされた。
軍隊に頼ることができるかというと、まだ旧体制の組織のままで、多少の改革は進められたが、将軍、将校は大貴族出身、下級貴族は下士官という体制に大きな変化はなかった。憲法では、人材の登用は平等の条件にすると決めている。しかしまだすべてにいきわたっているわけではない。
特に上層部が問題になる。上層部の大貴族、大領主は、自分の親族から亡命貴族を出している。夫婦で別れた場合、親子で別れた場合もある。亡命貴族は、オーストリア・プロイセン軍とともに行動し、戦争で勝った場合、そこに自分の領地があれば、支配者として帰ってきて、昔通りの権利を行使した。
こういう複雑な関係は、今まで例を見ないものであり、フランス軍が死にもの狂いで戦うという状況を作り出すことはなかった。そのうえ、王妃マリー・アントアネットが作戦計画をオーストリア皇帝に知らせていたこともあり、フランス軍は敗北を重ねた。
パリが危機に陥った段階で、立法議会における激烈な内紛が始まった。与党としてのフイヤンクラブと野党としてのジャコバンクラブの対立であった。両者が中央の無党派層の票を取り込んでの政争になった。
亡命貴族財産の没収、領主権の無償廃止が基本であった。当然、フイヤン派は反対、ジャコバン派系は賛成であった。
この政争が、1792年8月10日の「チュイルリー宮殿の衝撃事件」で決着し、フイヤン派の敗北、国王の投獄、立法議会の解散、国民公会の招集、普通選挙の実施、共和国の宣言、など劇的な変化をもたらした。当然、領主権の無償廃止が実現した。
この事実が重大な意味を、歴史解釈の上で持っている。つまり、まず立法議会の段階で市民革命が実現していた。それは領主権を残したままの市民革命であった。外国からの干渉戦争に勝つため、領主権の廃止が実行された。
つまりは、市民革命は領主権廃止を伴わないということである。これが日本史解釈の上で特に重要になってくる。この点はさらに詳しく説明しなければならない。

2018年3月19日月曜日

小林良彰(歴史学者東大卒のフランス革命論) 干渉戦争が激烈な変化を起こした

1791年11月、立法議会が始まってすぐに、ジャコバンクラブで,レデレー(法服貴族、伯爵、高等法院判事)が、商業の繁栄、工業の全盛期を迎えたと発言した。これは重要なことで、市民革命によって、商工業が発展すること、その指導者は貴族的ブルジョアだということである。こういう穏やかなものを、激烈なものに変えた原因は外国の干渉戦争であった。
この年の8月25日ピルニッツ宣言が出された。二大強国、オーストリア帝国とプロイセン(プロシア)王国の皇帝と国王が、会見して、フランス国王ルイ16世の正当な権利を回復するために武力を行使するという意味であった。
バスチーユ占領以後、その時までフランス国王を取り巻いていた大貴族、ブロイ公爵、ポリニヤック公爵夫妻、コンデ大公などがあいつで亡命した。その多くが、オーストリアに迎え入れられた。国家は違っても、大貴族同士は古くからの付き合いがある。そのうえ、ヴェルサイユに留学してフランス語を学んだ時、貴族同士で世話になっている。
ここが当時のフランス王国の持つ特殊性であった。これは、フランス、オーストリア、プロイセン以外の国にとっては理解できないものである。わが日本では、日本から亡命して、温かく迎え入れられる場所が期待できるかどうかである。まして、武力でその地位を回復し於てやるよといってくれるものがいるかどうかである。ありえない。だから、心から同感できるものはない。
しかし、本気でフランス国王の権利を回復するという国家が出てきた。フランスに軍隊を侵入させるという。これに輪をかけて、二人の王弟が、「もし国王ルイ16世に危害を加えたら、パリを破壊する」との声明を出した。国王の弟のことで、プロヴァンス伯爵とアルトワ伯爵の名があり、ともに大領主であった。
これは余計な声明であり、戦争に関心のないパリ市民も危機感を持つものにしてしまった。「私は違います」といっても、家を壊される。
プロイセン軍の総司令官ブラウンシュヴァイク公爵は、「百年後、パリがセーヌ川の東にあったのか、西にあったのか、分からなくしてしまう」との声明を出した。これは当時有名になった言葉で、徹底的破壊を意味していた。こうなると、選挙権のない受動市民も、「自分には関係なし」とは言っておれない。ここで、この戦争が、国民的な総力戦になってきた。フランス革命が激烈になる出発点であった。

2018年3月14日水曜日

小林良彰(歴史学者東大卒のフランス革命論)立法議会で市民革命は完結する 

立法議会は約1年後に、国民公会にとってかわられる。そのため、歴史の中では影が薄い。これも、市民革命として国際比較するときの誤解の種を残している。フランス革命といえば国民公会、国民公会といえば普通選挙制、徹底した民主主義、ジロンド派対ジャコバン派の対立、領主権の無償廃止、土地革命、こういうものがなければ市民革命ではありえないと思われてきた。「フランス共和国は唯一にして不可分」、これも教科書に載っている。
まずこうした誤解を解くことから始めよう。「フランス王国は唯一にして不可分」、これが立法議会を定めた憲法に書かれている。近代的統一国家を宣言したのは、国民議会、憲法制定議会であった。これを国民公会の業績にしてしまうだけで、市民革命の国際比較が狂ってしまう。
なぜこれが問題かというと、日本人にはわからないことだが、フランス王国が絶対主義の段階にあったころ、周辺地域の有力大領主がヴェルサイユに来て、臣下の礼をとるだけで、その国はフランス王国と認められていた。例えばルクセンブルグ大公、モナコ大公、などなど、今は独立国でフランスではない。つまりフランス革命までは、フランス王国は「唯一」でもなければ、「不可分」でもなかった。「今後は、離れることがまかりならん」といっているのである。これを見ると、絶対主義必ずしも絶対的ではなく、市民社会のほうがより中央集権的であることがわかる。形式は民主主義、実質は官僚統制による中央集権、これが近代フランスの本質で、フランスに住むと肌身で感じる。
普通選挙制がなければ、市民革命ではないという固定観念がある。これも間違いで、立法議会の選挙では、約半分の住民が、選挙権を持っていなかった。制限選挙制である。一定以上の収入がなければならない。能動市民、受動市民の区別があり、工房の主人は前者、そこで働く職人は後者となる。能動市民のみが市民革命の市民であった。
このように理解すれば、日本の明治憲法もこの程度のものであり、立法議会と同じ水準であるから、フランス革命後の政権と同じといえばよい。それをそう言わないのは、立法議会に対する過小評価から来るのである。
立法議会は、その他多くの改革を伴った。近代社会に必要な制度を作った。度量衡の統一の努力、郡県制、地方自治体の制限選挙制など、多くの改革で近代国家としての体制を作り上げた。
ただし、もう一つの問題は抱えている。領主権収入である。中心は貢租、年貢、封建地代であった。これは財産権を解釈された。自由、平等、財産の時代、財産権は貴重であり、神聖なものとされた。そこでもし、フランス革命がこのまま収まるのであれば、以後のフランス社会は、イギリス型の資本主義になったであろうと想像される。イギリスは今なおこれだからである。こういうと、「その通り」という人と、仰天する人に分かれるだろうが、実際はこうなのである。これでも市民革命たりうるのであり、そこのところを正確に押さえておきたいのである。

小林良彰(歴史学者東大卒のフランス革命論) フイヤン派対ジャコバン派の立法議会

1791年9月30日憲法制定議会(国民議会)は解散し、立法議会が10月1日に召集された。当時は政党政治ではないから、派閥の勢力関係ははっきりしない。概算、フイヤン派が267、左派(ジャコバン派)が136とフイヤン派が、多数のように見えるが、中央に無党派層が345存在した。ほとんど初対面、一人一党主義であるから、この票を獲得しなければ、投票で多数をとれない。
後世の歴史家はこの点を軽視してきた。そのうち、その存在すら忘れ、次の世代は、無いものとして説明した。だから説明が不自然になる。
はじめのうちは、フイヤンクラブの議員が華々しく活躍して、無党派層の票を獲得した。野党のジャコバンクラブの議員は、現在「ジャコバン派」の名で想像される人たちとは違う。この点も世界的に誤解されている。では何か。ズバリ言うと、ジロンド派の議員であった。つまり、この時点では、ジロンド派がジャコバン派の多数派であった。そして、ジロンド派がブルジョアジーの代表であることは世界的に認知されており、そこに間違いがあるわけではない。後世ジャコバン派といわれる人は、カルノー、ランデ、クートンなどごく少数であった。
だから立法議会での対立の構図は、自由主義的大貴族と前期的特権商人の同盟に対して、本来の実業家としてのブルジョアジーが対立しているものになった。

2018年3月12日月曜日

小林良彰(歴史学者東大卒のフランス革命論 初期はフイヤン派の支配

国民議会は憲法制定議会と改称し、憲法を制定し、自ら解散した。新議会は一院制の立法議会とし、旧議員は立候補しないことにした。行政権は国王にあると定めた。三権分立の原則を実行したことになる。
それより以前、院外団体としては、ラファイエット派が与党の立場にたち、大臣の多数派を占めた。しかし、すぐに反対派の活動により、政争が始まった。ジャコバン派の反対である。ジャコバン修道院を会場にしたので、この名がついたが、別に過激なものではなかった。入会金12リーブル、ラファイエット派より一桁少ないが、それでもこの入会金を出せるのは中間層以上になる。
ジャコバンクラブのトップはオルレアン公爵ルイ・フィリップ(この時点では息子のほうであったから、シャルトル公爵と呼ばれ、のちに1830年7月の革命でフランス国王になった人物)、その下に、ミラボー伯爵、ラメット伯爵兄弟、コンドルセ侯爵などの自由主義的大貴族がいる。
これだけならばラファイエット派と同じであるが、その他の会員の性格に違いがあって、それを一口で言うと、「ブルジョアジーの性格」であった。つまり、市場で利益を上げる、これが本来のブルジョアジーであるが、もう一つは、国家権力に取り入って儲けるという方向がある。革命前までの国家権力は大土地支配者の支配であったから、このブルジョアジーは、前期的、寄生的、特権的、などと呼ばれた。特にフランスでは、彼らが大領地を手に入れ、本当の貴族のように暮らしていた。この、「貴族的ブルジョアジーではないよ」というブルジョアたち、これが多数を占めるようになった。
ただし、商人、銀行家本人が議員として出てくることは少ない。大多数は、弁護士であった。この集団の中で、特にボルドー出身の政治家たちが華々しく活動したので、その県の名前をとって、ジロンド派(ジロンダン)という言葉が定着した。ボルドーの大商人を代表する弁護士たちであった。
パリ出身では、クラヴィエールという銀行家がのちに財務大臣になる。
これらの勢力に押されて、初期はラメット派がラファイエット派に対立した。対立の要点は、旧支配者に対する温情的な対策はやめろというものであった。具体的に書くと読者が退屈してしまうであろうと思うから、これは結論だけにしておく。
1791年6月、国王一家の逃亡事件があった。失敗して連れ戻されたが、この事件で、ジャコバンクラブは国王ルイ16世の退位、オルレアン公爵の摂政を要求した。ラメット派の貴族たちはジャコバンクラブを離れ、ラファイエット派に合流した。こうして、7月、新しいクラブとして、フイヤンクラブが成立した。自由主義貴族の指導権は強いものになった。
ここにもうひっつのクラブがあった。コルドリヱ・クラブという。入会金数千円程度、極貧でなければ誰でも入れる。ただし、指導者は中間層の教養ある人物であった。ロベール、マラ、エベールなどであり、ロベールが王制廃止、共和制樹立の請願を発表した。
フイヤンクラブが結成された翌日、1791年7月17日、バスチーユ占領の約二年後、シャン・ド・マルス広場でコルドリヱ・クラブの主催する集会が開かれた。そこへ国民衛兵が来て、発砲した。数百名の死傷者という。その後、共和主義者に対する追及が激しくなり、ジャコバンクラブにも捜査の手が伸びて、ダントンはオルレアン公爵の摂政を言っただけであるが逃亡せざるをえなくなった。
これでしばらくはフイヤンクラブの支配が安定し、これは自由主義的大貴族の指導権が確立したことを意味する。これに協力するものは、いわゆる「前期的商業資本」に分類される最上層のブルジョアジーであった。
シャン・ド・マルスの虐殺といわれるが、これはそれ以前の小競り合いとは違って、本格的な殺人であったからで、目的が国王を守ろうというものであったところに、フランス革命の保守的な性格がみられる。フイヤン派は国王が誘拐されたと主張して、国王一家を守った。

2018年3月9日金曜日

小林良彰(歴史学者東大卒)のフランス革命論 初期政権は上流階級

バスチーユ占領の一年後、ネッケルとネッケル派大臣の辞職があって初めて、革命勢力が政権を握ることになった。これはいったい何者か。庶民の味方か。そうではない。
派閥でいえばラファイエット派、正式の名称は、「1789年協会」が政権を動かす集団であったが、入会金100リーブル、これは現在の100万円に相当するが、当時の貧富の差を考慮すると、はるかにおおきな価値をもっている。当然、普通の人間では入れない。
まず自由主義的大貴族が参加した。ラファイエット侯爵、ラ・ロシュフーコー・リヤンクール公爵、ミラボー伯爵、コンドルセ侯爵など、高級聖職者ではタレイラン司教、シエース副司教(この二人、のちにナポレオンの外務大臣、第3統領になる)などである。
もう一つの集団は、ブルジョアジーの最上層、大商人、銀行家、徴税請負人(国王に税金分を収め、あとから徴収する権利を行使する高利貸的金融業者)であった。サンレオン、ぺルゴ、ドレッセール、ボスカリ、ラヴォアジエ、ルクツー、ジョージ、コッタンなど。ルクツー、ボスカリ、ドレッセールはパリの反乱を組織したパリのブルジョアであった。ラヴォアジエは徴税請負人、科学者、メートル法などの制定に貢献した。
また大貴族とブルジョアと学者の抱き合わせのような人物もいる。天文学者バイイ、弁護士ツール、経済学者デュポン・ド・ヌムール(アメリカの財閥デュポンの祖先)など。
法服貴族のレデレ伯爵、ダンドレ伯爵など、法律家兼大貴族というものもいる。
こういう勢力がフランス革命第一期に権力を握った。自由主義的大貴族と最上層のブルジョアの同盟であった。
こういう局面は、日本で見ることができない。日本では、「バカ殿さま」、「高貴のお方はうかつにて」、「名君といわれた人は、普通の人だった」という言葉がある。島津斉彬だけが違うかもしれない。フランスでは、なかなかの人物が輩出している。自由主義貴族の多くは、アメリカ独立戦争に参加して、戦ってきている。歴戦の勇士だ。こういうものを日本の大名に見ることはできない。であるがゆえに、新時代には登場しない。
こう見てくると、どこに庶民が出てくるのか。あるのは、上層部の変革に過ぎなかった。それでも革命であった。自由主義貴族は、ヴェルサイユで冷遇され、少数野党のようになっていた。法服貴族は、ヴェルサイユ城に入れない。ブルジョアは金があっても権力に到達することはできない。もちろんヴェルサイユ城には入れない。それが、政権を組織する団体を作ることになった。すなわち革命である。これがフランス革命の基本的結果である。これを明治維新に適用すればよいのである。

小林良彰(歴史学者東大卒のフランス革命論 1年後に市民革命の政権ができる

1789年7月14日は間違いなくフランス革命の記念日である。これに間違いがあるわけではない。間違い、思い違いは、そこですぐに民衆の要素を持つ政権ができたであろうと期待し、誤解し、それを固定観念に仕立て上げ、後世に伝えた歴史家の理論の中に含まれていた。これは間違いであり、民衆の部分はまだない。これをはっきりと表現したのは、私が初めてである。
まず、最初の1年間、王権の側の大臣と国民議会の改革派との間の、ぐずぐずしたせめぎあいが続けられていた。ここに、民衆の影はどこにもない。食糧難の騒乱が起きても、今度は国民衛兵が抑えて回った。
1年後のネッケル派大臣の辞職によって、初めてフランス革命を目指す行政権が成立した。これで、行政、立法の権力が革命勢力のものとなる。司法はまだ独立していない。旧体制の高等法院判事、検事、弁護士は、官職売買の制度によって国王から任命されたものであり、上層部は貴族であった。これはいよいよ解体されることになり、補償付きで罷免されることになった。
貴族議員の亡命が続き、国民議会は第三身分代表が多数派になった。こうして、革命後1年でフランス革命と呼べる体制になったのである。
こうして、フランス革命の革命政権が安定するが、これはいったい何者であるか、それについての正しい認識が、大多数の歴史家の頭の中にないのである。何か、民衆的なものではないかと思い込んでいる。そうではない。そこを今から説明しよう。

2018年3月7日水曜日

小林良彰(歴史学者東大卒のフランス革命論 初期一年は極めて穏健

フランス革命は徹底的、急進的、過激の印象を持たれているが、実際に時期を追って調べてみると、他の国の革命よりも進行が遅いように思われる。バスチーユ占領の効果といえば、内閣の水準を1789年7月11日に戻しただけであって、その中心は財務総監ネッケルの復職にあった。他の大臣もこれと連動した。つまり、旧体制、アンシャンレジームの行政権はそのまま居座っているのである。これが約1年間続いた。これを他国と比較するとどうか。イギリス革命では、国王と側近が西北に退去したので、行政権が二つに分かれた。アメリカ独立では、イギリス国王のものはない。日本では、幕府の官僚は江戸に、新政府の官僚は京都に、それぞれまじりあうことはない。
フランスでは昔の儘を残しながら、立法権としての国民議会で改革が議論されている状態が続いた。その国民議会でも、出発点では第三身分代表は約半数、亡命者が出たので多数派になっただけのこと、まだ抵抗する力も強かった。人権宣言、封建的特権の廃止など、威勢の良いものを発布した割には、財政改革では停滞したままであった。
約一年後までに、国民議会多数派の発言力が強まり、ネッケルが辞職し、ネッケル派の大臣が辞任した。代わって、ルクツー・ド・・カントルーの指導権が発揮され、旧体制の役職収入は廃止され、国王が独断で貴族に資金を与える権利も廃止された。教会財産の国有化、それを担保とする新紙幣(アシニア)の発行、こうした財政再建政策、が実行されたが、これが権力と財政の中心問題であった。これで名実ともにフランス革命が定まったのである。
ついでながら、このルクツーという人物、兵営に出かけて軍隊を寝返らせた人物であり、ナポレオンのクーデターと立案した人物、財務大臣を頼まれると、辞退して、ゴーダンを推薦して実現した。革命前から、貿易商人、船主、銀行家、領主、法服貴族であった。アメリカニューオーリンズに向かうとの貿易船を持っていた。
ブルジョア的貴族の代表的な人物、フランス革命の1年目に、こういう社会的存在が権力に到達したといってよい。

小林良彰(歴史学者東大卒)のフランス革命論 初期の改革は保守的

フランス革命といえばきわめて徹底的、急進的、民主主義的と思われている。これが世界中の常識であるが、この常識が間違いのもとだといいたい。初期のフランス革命は、妥協的、保守的な性格を維持している。それが約3年間続く。それでも革命は革命、市民革命に分類される。7月14日(1789年)は革命記念日である。
もともと、バスチーユ占領に至る騒乱は、財務総監ネッケルの追放に反対した大衆運動から始まった。革命が成功すると、ネッケルが復職した。彼は7月11日までその職にあった。つまり旧体制の財政担当者だあった。それが、わずかの期間追放されて、革命のおかげで戻ってきた。なんだかおかしいと思わないか。
国民衛兵兵司令官ラファイエット侯爵は、16歳でヴェルサイユ城にデビューし、その時、王妃マリーアントアネットがダンスを踊ってやろうといった。旧体制の、名門中の名門ではないか。
「民衆が蜂起し」と教科書では書かれているが、出てきた結果はこうなるので、この結果の部分を重大に考えなければならない。それは微温的な変化、大貴族の頂点に立っていた超保守的な部分を権力から退けて、強引な政策はとらせないようにした、これが結果であった。
したがって、「それならどうする」を巡って、革命派の中で議論が始まった。詳しい内容は私の本の中で紹介しているが、結果だけを言うと、ネッケルの提案は否定された。彼は大貴族の既得権益を残そうとした。これに反対する側からは、大貴族の役職手当は廃止し、教会財産を国有化し、これを担保とする新紙幣を発行して、財政赤字を解消するという案が提出された。これを提案した人が、タレイラン司教であった。これは仰天するような話であったが、実行された。新紙幣を手にしたものは、教会の土地、建物を買い取ることができる。こうして、教会、修道院が商人の手にわたり、ワインの貯蔵庫に変わったのである。こうして財政赤字は解消された。このタレイラン司教の父親は、タレイラン・ペリゴール大司教、公爵、国王の戴冠式で王冠をかぶせる役目を持ってた。夫婦で亡命したが、母親が「どうして、あの悪魔を生むことができたのか」と嘆いた。親子の断絶であり、革命であるが、このタレイラン司教は次男、足を故障して、馬に乗れない。貴族としてはそれだけで負い目がある。のちにナポレオンの下で外務大臣になり、その後も外務大臣になってウイーン会議で活躍した。
タレイラン司教の提案を基に、、国民議会財政委員会を代表して、ルクツー・ド・カントルーが全般的な財政改革案を提出して、可決された。この人物、ただものではない。

2018年3月3日土曜日

小林良彰(歴史学者東大卒)の西郷隆盛論 江戸開城はフランス革命よりも急進的 続

フランス革命の封建的特権の廃止については、世界中でこの言葉に騙されるというか、酔わされる傾向がある。もし日本ならば、この言葉で、武士階級、つまり大名から足軽に至るまで、一気に没落させられると想像する。思い切った近代化だと称賛する。それに比べて我が国はなどというのが昔からのやり方である。
しかし実態は違う。国民議会による封建的特権の廃止とは、領地の中で、領主が領民に貸している部分(これを保有地という)について、特権を廃止するが、人心にまつわるものは無料で、土地にまつわるものは買い取ることができるとしたものである。
これは日本人にはわかりにくい。説明する側が分からせることに無力感を感じるものである。まず無料で廃止されたものといえば、領主裁判権、領地内での狩猟権、鳩小屋の権利、通行税、水車小屋、パン焼きかまど、圧搾機(ブドウの)など、共同体的権利の使用権、このようなものを無料で廃止するというものであった。
これはそれなりに近代国家に近づくものであったが、土地にまつわるものは、買い取ることができるというのは、買い取らなければ今まで通りといっているのである。封建地代、地租、貢租などと翻訳されるが、収入の10分の1程度を領主におさめる。これが無条件廃止ではなくて、20-25年分の一括払いで、廃止しようというのである。これでは大多数の農民は払えない。一種のごまかしではあるが、これで一時的に騒ぎは収まった。この程度の改革で現在まで来ている近代国家がある。それはイギリスであるが、これを認識する人が日本には少ない。
もう一つ、城や館の周りに広大な土地がある。そこで馬を乗り回す。貴族はここで武術、馬術の鍛錬をする。森林もついていて、狩猟もする。これは領主の個人財産であって、廃止の対象にならない。日本人は、こういうものも廃止されるだろうと思っている。
こう見てくると、封建的特権の廃止は、勇ましく聞こえるけれども、大したことはしていないのである。土地所有関係については、何一つ変化がないといってよい。
これとは対照的に、日本では、江戸開城はフランス革命よりも劇的、急進的、徹底的な改革が行われたのであって、無血開城と自賛されるが、本来なら死にもの狂いの流血になるべきものであった。江戸城の周囲に、旗本、御家人の住宅がある。大名屋敷もある。旗本、御家人は静岡へどうぞというわけだ。大名は郷里に帰れとなる。上級旗本は関東平野に領地を持ち、立派な屋敷を持っていた。それも全部捨てて静岡にという。旗本八万騎といわれる。実態は約3万程度、これが静岡藩に押し込められた。中でどうなったかは誰も関心を持たない。彰義隊戦争で傷ついたものは極貧の中で死に、5000石取りの旗本が車引きに張り、旗本の妻が女中になり娘が芸者になったなど、哀れな状態になった。なぜ反抗しなかったのか、それは鳥羽、伏見の戦いで負けたからである。つまり大戦争で負けたからこうなったのである。
フランス革命では、当初小競り合いで決着がついたというべきであり、だから寛大でもあった。やがて、大戦争が起きてひどいことになる。
もう一つ、日仏両国の置かれた条件の相違がある。フランスは大国であり、外国からの脅威はなかった。日本は開国したばかりの小国が、西洋列強の侵略にさらされていた。軍艦、大砲、小銃、近代的軍隊、鉄道、産業革命など、急ごしらえで追いつかなければならない。そこに、巨大な資金をつぎ込む必要がある。フランス革命では、財政赤字を解消することだけが、新政府の課題になった。日本では、それだけではだめなので、新政府の手段がより厳しいものになった。
もう一つの問題がある。騎兵軍団の必要である。日本の国土では、これが必要なしと思われる。歩兵、砲兵は、武士階級の軍団よりも、徴兵による兵士がいて、そのうえの指揮官が武士的素養、貴族的素養を持つものになっていることがのぞましい。だから少数の旧武士だけが必要で、あとは解体した方が、となる。この道を新政府がとった。

2018年3月2日金曜日

小林良彰(歴史学者東大卒)の西郷隆盛論 江戸開城はフランス革命よりも急進的改革になった

日本での常識は、フランス革命は徹底的、日本のものは妥協的というものである。日本だけではなくて、世界的にも通用している。これが思い違いだというのである。
フランス革命で、バスチーユ占領があり、ヴェルサイユ行進があり、国王一家と国民議会はパリに移転した。ヴェルサイユは捨てられ、パリの郊外になった。権力は交代した。しかし何が変わったのか。人権宣言、封建的特権(領主権)の廃止、これくらいが教科書には載っている。しかし、自由、平等、友愛というスローガンは後に出てきたもので、この時は「自由、平等、財産」であった。つまり、この時点での財産権の変化はない、むしろ、個人財産は死守するという決意がみなぎっている。したがって、だれの財産も傷つけられなかった。
この意味を考えてほしい。もとはといえば、大商人、銀行家の財産を国王が取り上げることを許さないという決意を示したものであるが、同時に、大領主の財産権も没収はされないといっているのだ。ブルジョアジーもまた古くから領地を買い取り、領主になっていたから、この方針でよかったのである。
だからフランス革命の初期、社会構成は何も変わっていない。ただに突、封建的特権の廃止という言葉が勇ましく聞こえる。しかしこれに騙されてはいけない。これは国民議会が喜び勇んで出した法令ではない。全国で、領民(農民といわれるが、それ以外にも土地持ちの都市市民がいた)の反乱がおこり、領主の城が襲撃された。これを大恐怖という。パリの反乱とは別物で、自律的に起きた。幕末のええじゃないか騒動、百姓一揆、砲兵隊の反乱などに似ている。「鎮圧のために軍隊を」という声はあったが、どちらの側も出動できない。

2018年3月1日木曜日

小林良彰(歴史学者東大卒)の西郷隆盛論 初期の変化は基本的変革のみ

一般的に、市民革命の変革は、出だしがごく目立たない、基本的な変革にとどまる。権力と財政の問題だからである。もっと絞り込むと、財政の問題であるが、財政政策を自由に進めるには、権力をとらなければならないので、この二つになるのである。それにしても、これだけの内容ならば、平和革命というのもありうる。
平和革命のモデルは、イギリスの名誉革命、日本の廃藩置県である。戦争と平和の中間もありうる。クー・デターのようなものである。日本の廃藩置県をクーデターだという歴史家もいる。イギリスの名誉革命の時でも、国王は軍隊に対して、議会めがけて進軍せよとの命令は出した。しかし、軍隊がためらった。そこで国王が逃げ出した。これで平和革命になった。これをあえて言うのは、2017年に起きたサウジアラビアの事件、これがおそらく世界の最後の市民革命になるであろうという予測を踏まえているからである。
それはさておき、日本の場合、大政奉還だけでは革命にならなかった。だから幕府側も応じたといえる。辞官、納地を薩摩が要求し、これに幕府側が憤激して戦争が始まった。もし幕府がこれも受け入れたならば戦争はなかった。平和革命である。
その場合どうなっただろうか。幕府の領地約700万石、これが新政府の手に入る。旗本、御家人の家禄もそのまま、徳川本家は約70万石の個人資産を残される。では新政府の実収入はどれだけ増えるのか。大奥廃止、江戸城の官職収入廃止、つまり、譜代大名と旗本の、男女にわたる官職収入が、新政府の側にわたり、これが新政府の官職手当と新規事業につぎ込まれる。当時、西洋列強の脅威にさらされて、国防費は重要な課題であった。
これくらいが予想される変化であった。
フランス革命も似たようなもので、当初は、ヴェルサイユ城の官職収入の削減、廃止、新規増税は回避、商人に対する借金踏み倒し政策はとらない、これくらいが革命の側の目標であった。国民議会が、商人を破産させるような政策はとらないと宣言している。
そこでもし、この程度の方針に対して、逆らうことなく、貴族たちが郷里に帰ったならば、、後年に起きた激烈な騒乱は起き中たはずである。それが起きたのは、旧支配者の側からする抵抗が大きくなり、それを外国が援助したからであった。それに伴って、様々な改革が持ちだされるので、市民革命の改革、結果というものが誤解されるようになったのである。