2018年3月25日日曜日

領主権の無償廃止

領主権の無償廃止、こういえばフランス革命の1793年、いわゆるジャコバン派独裁、、恐怖政治、の時に宣言されたもので、領主権の有償廃止が1789年に行われたのに続き、「不徹底な部分的廃止」を改めて、完全な「無償での廃止」を実現したものとされている。これによって、農民が封建的束縛から完全に開放され、近代市民社会にふさわしい状態ができたと解釈する。
これを裏返すと、ジャコバン派独裁のようなものがない国は、不徹底な市民革命になるといえるので、特に日本人は、なんとなく引け目を感じてきたのである。
この学説、今でもネットの世界で、当然の真理のように書かれているが、実はこれが間違いである。領主権が無償で廃止された時期は、1793年ではなく、1792年であった。つまり一年早い。これは重大なことで、いわゆるジロンド派政権の時代であった。これを見ると仰天する人が多いだろう。
あるフランス革命の大家に対してこう主張し、論破したところ、不機嫌に黙り込んで、それ以後の付き合いがなくなった。これは信念の問題に直結するので、おいそれとは意見を変えられない。そのためうすうすこれに気が付いた人でも、あいまいなことを書いて、この問題でガチンコ勝負をすることを避けてきた。そうした人の中に、河野健仁、フランスのソブール、マテイエなどのフランス革命史家がいる。つまり、1792年のことを書きながら、理論的な結論の部分で1793年を書くのである。
実際に起こったことを整理しよう。1792年4月11日、封建委員会を代表して、ラツール・デユシャルテルが封建的権利の無償廃止を提案した。これに、内務大臣のロランが賛成した。フイヤン派のドウジーがロランを攻撃して、激論になった。これは重要なことで、この時は、一時的にジャコバンクラブ(この指導部はのちにジロンド派と呼ばれる)が行政権を握ったのであった。その内務大臣はロラン・ド・ラ・プラチエール、プラチエールに大領地を持つ貴族、法服貴族、インド会社の重役、すなわちブルジョア貴族の上層であった。ジロンド派の指導者として有名であるが、この時はまだジロンド派という言葉はなかったので、ロランの党派と呼ばれていた。
つまり、いわゆるジロンド派の指導者が「封建的権利の無償廃止」に賛成して、論争したのである。領地を持ちながらなぜか、こういう疑問が出ると思うが、外国軍が侵入してくるとき、この権利にしがみつくと、二正面作戦になり、すべてを失うとの判断が多くの貴族の心中に芽生えた。封建的権利を手放しても、城とその周辺の直領地が残る。すべてを失うのではなく、たとえて言えば約半分を失うだけだ。これが、ジロンド派に理解を示した貴族たちの判断であった。
しかしそれでもだめだ、権利はすべて死守するというのが、フイヤンクラブの信念であった。ここで両者が激突する。
6月15日フイヤン派系の内閣が成立した。事実上は復活である。しかし立法議会では、封建的権利の無償廃止、(領主権の無償廃止)が激論の場になった。この時、無償廃止を修正する提案が出され、273対227で可決された。これだ安心したフイヤンクラブ系の議員が一時的に退出した。その時ジャコバンクラブ系の議員が審議続行を言い出して、「封建的権利の無償廃止」が可決され、議会は閉会した。
平たく言えば、だまし討ちである。フイヤン派は起こった。これで武力衝突に至るのであり、1792年8月10日を迎える。つまり、「ジロンド派が封建的権利の無償廃止のために戦って、成果を収めたのである」。

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