2018年3月1日木曜日

小林良彰(歴史学者東大卒)の西郷隆盛論 初期の変化は基本的変革のみ

一般的に、市民革命の変革は、出だしがごく目立たない、基本的な変革にとどまる。権力と財政の問題だからである。もっと絞り込むと、財政の問題であるが、財政政策を自由に進めるには、権力をとらなければならないので、この二つになるのである。それにしても、これだけの内容ならば、平和革命というのもありうる。
平和革命のモデルは、イギリスの名誉革命、日本の廃藩置県である。戦争と平和の中間もありうる。クー・デターのようなものである。日本の廃藩置県をクーデターだという歴史家もいる。イギリスの名誉革命の時でも、国王は軍隊に対して、議会めがけて進軍せよとの命令は出した。しかし、軍隊がためらった。そこで国王が逃げ出した。これで平和革命になった。これをあえて言うのは、2017年に起きたサウジアラビアの事件、これがおそらく世界の最後の市民革命になるであろうという予測を踏まえているからである。
それはさておき、日本の場合、大政奉還だけでは革命にならなかった。だから幕府側も応じたといえる。辞官、納地を薩摩が要求し、これに幕府側が憤激して戦争が始まった。もし幕府がこれも受け入れたならば戦争はなかった。平和革命である。
その場合どうなっただろうか。幕府の領地約700万石、これが新政府の手に入る。旗本、御家人の家禄もそのまま、徳川本家は約70万石の個人資産を残される。では新政府の実収入はどれだけ増えるのか。大奥廃止、江戸城の官職収入廃止、つまり、譜代大名と旗本の、男女にわたる官職収入が、新政府の側にわたり、これが新政府の官職手当と新規事業につぎ込まれる。当時、西洋列強の脅威にさらされて、国防費は重要な課題であった。
これくらいが予想される変化であった。
フランス革命も似たようなもので、当初は、ヴェルサイユ城の官職収入の削減、廃止、新規増税は回避、商人に対する借金踏み倒し政策はとらない、これくらいが革命の側の目標であった。国民議会が、商人を破産させるような政策はとらないと宣言している。
そこでもし、この程度の方針に対して、逆らうことなく、貴族たちが郷里に帰ったならば、、後年に起きた激烈な騒乱は起き中たはずである。それが起きたのは、旧支配者の側からする抵抗が大きくなり、それを外国が援助したからであった。それに伴って、様々な改革が持ちだされるので、市民革命の改革、結果というものが誤解されるようになったのである。

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