2017年11月27日月曜日

中間層の革命理論・ロベスピエールと西郷隆盛の共通点

あらゆる社会的激動期に、中間層は独自の理論的指導者を立てて行動する。フランス革命ではロベスピェール、これはすでに説明した。では日本では、となると、それが西郷隆盛であるというのが、これから証明しようとすることである。「相手は市民、こちらは武士ではないか」とまず反論が来るであろう。しかし、それは違う。ロベスピエール、サンジュスト、クートン、これが3人のロベスピエール派の公安委員であるが、サンジュストは貴族、本人もまたマクシミリアン・ド・ロベスピエールと、貴族風に自称していた。つまり、フランス革命もまたなかなか貴族的なので、そこのところを日本人が誤解しているのである。
西郷隆盛は武士とは言うが、下級武士で、殿様のお庭番というかたちで近づいたのが始まりであった。したがって、家も小さい、収入も低い、現代の表現ならば中間層になる。それを横に広げると、中小商人、親方層、文化人などと同じ水準になる。
この中間層は、上層階級に対する批判を持っている。贅沢のし過ぎ、腐敗、悪徳を正したいと思ってている。それが一般論で、出てくる指導者、大衆を動かす理念はその時と条件によって千差万別となる。
まず、旧支配者の権力を撃破する。代わって権力を動かすことになった大商人、銀行家、その他の大ブルジョアジーの姿を見て、これにも憤慨し、「こんなはずではなかったのに」と悩むのである。
言い残したことも、よく似ている。「共和国は滅び、盗賊が勝った」とロベスピエールはいったが、西郷隆盛は「悪く申せば泥棒なり」と新政府の官僚を批判した。「これでは戦死者に対して申し訳がない」とも言った。討幕戦のことを言っている。「脱出す、人間虎豹の群れ」とも書いた。利権に群がる新政府の人間関係を表したものである。自分だけは清廉潔白でありたいという思いがある。ロベスピエールは「アンコリュプチブル」、腐敗しない人のあだ名をもらっていた。そういうところが両者似ている。目指すところは、上層階級の暴利を制限して、下層の水準を引き上げ、豊かな中間層の社会を作ろうとしたものであった。

2017年11月20日月曜日

昔からの間違い・ジャコバン派独裁の理論

フランス革命のいわゆる「ジャコバン派独裁」の理論は多くの誤解の積み重ねのうえに成り立ったものである。ジャコバン派はなくて、ジャコバンクラブがあっただけのこと、ジロンド派が追放されると、ジャコバン派独裁が成立したのではなくて、平原派と山岳派の連立政権ができたので、厳密にいえば、ジロンド派政権の時代も、ジロンド派と平原派の連立政権であった。
山岳派は,はじめ全体としてジャコバンクラブに支持されていたが、ジャコバンクラブでは粛清投票というものが進められ、腐敗、汚職が疑われたものが相次いで除名された。中には、釈明にやってきて、「ギロチンへ」という叫び声に包まれて退場した議員もいた。こうして、ジャコバンクラブそのものも、一年間で変質した。中小ブルジョアジーの集団から、小ブルジョアジーの集団への変化を起こし、その指導者に、「腐敗しない人」のあだ名を持つロベスピエールを押し出したのであった。この段階になって、ジャコバンクラブは山岳派主流に敵対する勢力になった。そうすると、ロベスピエールが公安委員会に来なくなった時には、ジャコバンクラブは野党のような状態になっている。主張している政策はヴァントウーズ法であるが、それは事実上阻止されている。つまり土地革命につながるものは妨害されている。そしてこのままで敗北した。だから、ロベスピエールが「共和国は滅び、盗賊が勝った」と言い残したのである。
このように整理すると、「ジャコバン派独裁が土地革命を行った」とする古くからの理論は間違いになる。この理論は世界中の学者、学生の頭を縛り、その延長として各国の学者が自分の国にこうしたものがあるのかないのかを検証するための努力をしてきた。日本では「土地制度史学会」という一大学会が隆盛を極めたが、これも背景にはそれがある。私も、大学に入るなり、先輩から「日本資本主義社会の機構」平野義太郎著を与えられ、これが聖書のようなものだといわれた。そこにはこの理論が書いてあった。私がフランス革命を研究するに至った原点である。研究した結果、それは無いということになるのだが、そうすると、フランス革命と明治維新の同一性が浮かんだ来るので、この研究は無駄ではなかったと思っている。

2017年11月13日月曜日

テルミドール以後の政変

ロベスピエール派の消滅は、わずか十人ほどの議員の消滅に過ぎなかった・五百数十人の議員はそのままであった。そこを見ると、大した変化があったわけではないと思われる。しかし議会の外では、激変が起こっていた。ジャコバンクラブの活動家、指導者に対する大弾圧がパリのみならず全国規模で続いた。大量処刑も行われた。ナポレオンも投獄された。入れ替わりに、獄中にいたものが大量に釈放された。
しかしまだ政策は何一つ変わっていない。ヴァントウーズ法の実行を阻止しただけであった。公安委員、保安委員の構成もそのままである。山岳派百数十名の存在も変化はない。ロベスピエール派に代表された小ブルジョアジー・プチブルジョアジーの政治的代表者が粛清されただけであった。だから、最高価格制、累進強制公債のような非常手段は維持されたままであった。
こう思われたのは一瞬で、今までとなしくしていた平原派が動き出した。これに腐敗議員テロリストと呼ばれた新興成金の議員が山岳派から転向して、平原派についた。彼らは極めて戦闘的に振舞った。山岳派について、まだ赤いトサカが残っているいるという。ロベスピールの共犯者とも言った。外国軍はすべて撃退し、ヴァンデー反乱を鎮圧し、軍隊が相次いでパリに帰ってきた。もはやパリの治安をジャコバンクラブに頼る必要はなくなった。公安委員会、保安委員会の改選で山岳派が落選した。財政委員会議長カンボンは平原派であったが、山岳派寄りだとみなされて、何度か命を狙われた。
危機を感じた山岳派は二度にわたる大衆運動を掻き立てて対抗したが、敗北し、議会から姿を消した。それでも約500人の議員が残った。平原派とジロンド派の連立政権、これがフランス革命の落ち着いたところで、それは大ブルジョアジーの政権であった。ここのところを、このようにはっきりと書く人はいない。私が最初だと思ってもらいたい。ここがあいまいだから、市民革命の理論がゆがんでしまい、ひいては明治維新の解釈も歪んでしまう。この最も複雑な変化の時期について、私は心血を注いで研究を続けた。その学術書が、小林良彰著『フランス革命経済史研究』、『フランス革命の経済構造』であった。

2017年11月1日水曜日

テルミドールの反革命

テルミドールとは熱の月といい、7月の熱いころのことである。ヴァントウーズ法は風の月で、三月から七月の四か月で劇的に変化が起こった。その真ん中あたりで、ロベスピエールは公安委員会を欠席した。欠席中でも、同じ程度の処刑者の数があったと、のちに国民公会でも報告があったから、彼が欠席しても恐怖政治は進められていたことが分かる。
七月、久しぶりにロベスピエールは国民公会に登壇して大演説を行った。この直前、山岳派は反対するだろうが、平原派の議員は聞いてくれるだろうといった。これが致命的な誤解であった。
まず、山岳派の中の腐敗議員、カンボンの財政政策などを非難し、ヴァントウーズ法に抵抗している議員公務員を批判した。この演説がすぐに否決されたのではない。大喝采の中で承認された。ところが、次の日、登壇しようとすると、妨害された。カンボンが「名誉を傷つけられる前に、私も発言する」言い出した。それから議長席を巡って大混乱が起きた。短刀を持ってきた議員もいた。腐敗議員たちが死に物狂いになった。そのなかでロベスピエール逮捕の決議案が上程され、可決された。平原派はロベスピエールの味方ではなかった。十名の同志だけが逮捕された。これをジャコバンクラブの支配するパリ・コミユーン(市の議会)が武装勢力を率いて救出に来て、市の議事堂に立てこもった。そこを大群衆が包囲して守った。国民公会の側も武力を集めた。カンボンは富裕層の住宅街から、青年を集めて武装させた。両者にらみ合いをしていた時、バラ(バラス)が武装勢力を率いて急襲を加え、ロベスピエール派を全滅させた。バラは平原派のもと派遣委員、マルセイユ・ツーロンでナポレオンを引き立てた人物、当時はイギリス軍を撃退した功労者と思われていた。中級の貴族(子爵)、巨大な財産を手に入れた腐敗議員でもあった。平原派が勝ったことの象徴でもある。さらにフランス革命はどこまでいっても貴族の影がついて回るという意味もある。

恐怖政治の第3期 ロベスピエールの政策

ダントン派、エベール派を排除したころが、ロベスピエールの人気絶頂期であった。この時に、彼の政策として、ヴァントウーズ法という法案が提出され、国民公会で可決された。「反革命容疑者の財産を没収して、貧しい愛国者に無償で分け与える」というものであった。もしこれが実行されれば、土地革命らしいものが、不完全ながら実現したといってもよい。不完全というのは、大財産をもっていても、政治的に中立で、おとなしくしていたならばそのままというのであるから、社会改革としては不完全である。
この法案が出ると、下層階級の中で期待が高まった。これが、エベール派の支持者を減少させ、武装蜂起を失敗に終わらせた。だから国民公会の多数が賛成した。次は実行の段階に入った。この文章の前半と後半を実行する組織を作って活動してもらう必要がある。前半としては、一般警察局という組織を作り、公安委員会所属とした。実際にはロベスピエール派の3人が指揮した。後半の実行は愛国者のリストを作成する人民委員会の選定となり、公安委員会の有志が担当した。
しかしである。人民委員会の仕事は遅々として進まなかった。一般警察局のほうは、保安委員会との縄張りを巡って暗闘が生じた。時に逮捕と釈放が逆になったといわれている。一般警察局は特に公務員の汚職、職権乱用、蓄財、残虐行為に厳しく、議員といえども容赦しないという方針で臨んだ。ここで恐怖を感じたのが、派遣委員として職権乱用を繰り返した者たちであった。バラ,タリアン、フーシエなどであった。彼らは巨大な財産を作って帰ってきた。これをロベスピエールは許そうとしなかった。彼らはダントンの二の舞になると恐怖を感じた。
この恐怖感がロベスピエールの恐怖政治というイメージを作り出した。しかし肝心のロベスピールの側は次第に無力感に襲われ始め、公安委員会を欠席するようになった。ジャコバンクラブで、自分は公安委員会で無力になったといった。後になって、反対派の公安委員たちが、この仕事を引き延ばしたのだと自慢した。