2019年2月11日月曜日

初期明治政府の社会主義的部分

これを見てびっくり仰天する人が多いと思います。その説明を。
第一、幕末、武士階級が領地を所有していました。しかしその所有は集団所有でした。各藩の単位で、領主権は藩主に集中され、藩主から分け与えられる形式で、領主権収入の一部がそれぞれの武士に与えられました。このさらに先をたどると、戦国時代、大、中、小の領主が、それぞれ、領地をもっていました。この個人的領地所有を、藩単位の集団所有に転化したのが、「一国一城令」でした。昔の個人所有の領主たちは、藩のトップである大名に領地をさしだし(悪く言えば取り上げられ)、代わりに、大名の部下、家臣としての職務を務めるという形式で、昔の収入を保証された。
このやり方が、社会主義の統治形態なのです。一度所有権を集中し、恩寵という形で分け与える。そこで、多数いた領主が消滅し、一人の独裁者に代表され、あとは家来として、恩寵を与えられる。だから、「さむらい」という言葉が定着した。「さぶらう」、仕えるという意味です。
廃藩置県で、大名の領地を国家に集中した。討幕戦で手に入れた幕領と合わせ、全国の領主権を天皇に集中した。だからといって、天皇が自由にできるというものではない。その配分方法は官僚たちが決めた。もし、この官僚たちが、旧大名、旗本であったのなら、、「領地所有者の権力集中」だから、「絶対主義」の完成です。この時代でいうならば、ロシア、オーストリア帝国、これらが代表的なものでした。当時の国際情勢からするならば、このコースもあり得ないわけではなかった。
しかし、日本では、官僚たちが、領地所有からはみ出したもの、「取るに足らぬ存在」のものばかりであった。その最たるものは伊藤博文、「武士の下男」、脇差のみで、大刀を持てない。高杉晋作が椅子に座って写真を撮っても、そのそばで片膝ついてかしこまったいる。だからとても長州藩の代表者になることはできない。
こういう人物が、工部省を任されて、「官営模範工場」の建設を推進した。今世界遺産になって人気のある富岡製紙所もその一つ。新事業は、電信、鉄道、郵便、鉱山その他に広がった。旧領地収入の一部がそこにつぎ込まれた。つまりこれは、重要産業の国有化と同じこと、社会主義的工業化であった。
もしこの部分が収益を上げて、財政収入に貢献したならば、国営企業の経営幹部が発言力を持ち、政府を牛耳る。それが進めば、社会主義になる。現実は逆で、赤字続きで、財政の重荷になった。当時は金属貨幣の時代、国際的な決済では、紙幣の出る幕はなかった。つまり、明治14年の時点で、明治政府は行き詰ってしまった。
資本主義的か、社会主義的かを巡る変化の時は、政争を伴う。大隈重信追放、明治14年政変は、その一つでもあった。ただし、どちらかが社会主義的というのではない。どちらも、官営工業の払い下げやむなしと認めたが、「分け前を巡って」相手を攻撃したというものであった。その後、手打ちが行われたころに、三菱も相当なものを手に入れた。そして、財界支配は安定した。

2019年2月2日土曜日

大隈重信追放は、三菱商会の岩崎弥太郎締め出しを意味した。

明治14年政変、(1881年)、いわゆる薩長藩閥政府出現、こういう言葉遣いが定着しているので、明治維新をなにか古めかしいものと思わせる効果が、まかり通っている。こういうことが、誤解の種をまき散らす。例えば、この時の長州藩出身の代表的政治家は、陸軍(山形有朋)、内務(伊藤博文)、外務(井上薫)であった。
これ以後確かに、長州系はこの3人に代表されていく。しかし、山形は足軽出身、伊藤は仲間出身(農民身分、、はじめ、武士の仲間には加えてもらえなかった)、井上は正規の武士ではあったが、兄がいる。つまり家を継ぐ立場にはない。だから、武士団を代表する資格はもともとないのである。ということは、この3人、長州藩士を代表するものではなく、悪く言えば「はずれもの」であった。では何を代表して力があったのか、それは財界を代表したからであった。特に、三井組であり、その中の三井物産の益田孝であった。
薩摩出身の政治家も同じような立場であって、薩摩藩を代表するような立場にはなかった。この時期彼らは、五代友厚(新興企業家)、川崎正蔵(川崎造船)と結びすいていた。
これに対して、大隈重信(参議筆頭、大蔵卿)(今でいうならば、財務大臣で、、首相の扱い)は、三菱の岩崎弥太郎と密着していた。「隈印は三印なり」井上が言い残している。
この大隈と岩崎がなぜ政界、財界で孤立し、具合が悪くなったのか、それは三菱商会の海上輸送独占の弊害が出てきたからである。内容というと、料金体系とか、保険の加入とか、営業面での話題になる。これを言い出すと、経営史の内容になり、文章が膨大になるので、省略します。とにかく、三菱の横暴、これが他の実業家の活動の妨げになった。当時の記録では、それに対する批判、改革案、が多く出ている。
他方で、三菱、大隈の側からも、不満が出ていた。北海道開拓使払い下げ事件であった。国費をつぎ込んだ北海道の開拓の事業を、五代友厚中心の合同企業に払い下げようとするものであった。
こうして、財界の二大陣営が激突した。互いに相手を非難しあった末、一種のクーデターで、大隈重信を権力から追放した。これが、明治14年の政変であった。この時、明治天皇も反対であった。それを、井上薫大声を出して押し切った。「雷公」と言われた理由であった。
大隈追放の後、同じ佐賀藩出身の佐野常民が後を継いだ。一年後、薩摩出身の松方正義が財政改革の推進を期待されて、大蔵卿に就任した。彼は、それまで、北九州の旧日田天領の代官、知事に就任して、財政改革に成功し、その手腕を認められた。
松方が改革を始めると、大久保、大隈のインフレーション政策から、松方デフレといわれる物価下落、増税、国有財産の売却が進められた。反対運動も高まり、それが自由民権運動の激化につながったが、政府の側の支持は強かった。
この時期、政府を支持する財界人は、政府との合弁で、「共同運輸会社」を設立して、三菱との競争を始めた。三井、住友、五代、渋沢(第一銀行)、大倉、安田などであった。これは、海上輸送の分野での、生死をかけて死闘であった。その中で、岩崎弥太郎は死んだ。「日本男児」が言い残した言葉であったという。彼の死後、妥協が話し合われ、海上輸送は合併して「日本郵船」となった。財界の分裂、死闘はひとまず収束した。そのころ、自由民権運動も、穏健路線に転換していった。つまり、どこまで行っても、財界支配は揺るがなかったのである。