2022年2月7日月曜日

20-フランス革命史入門 第四章の五 ジロンド派の追放

 五 ジロンド派の追放


ジロンド派最後の攻勢

これまでみてきたように、ヴァンデー暴動にたいする対応の仕方、最高価格制についての態度のちがい、国王の裁判をめぐる態度のちがい、デュムーリエ将軍についてのかかわりあいなど、ジロンド派が非常事態に対処することができなくて、モンタニヤールに押されていった事情はあきらかになった。しかし、やがてジロンド派が国民公会から追放される。これをきっかけにして、リヨン、マルセイユ、ボルドーといった重要都市がジロンド派の側に立って反乱を起こし、いわゆる連邦派の反乱、フェデラリストの反乱を起こした。

ここに至った事情は、これまで説明してきた事件では説明ができない。最高価格制についても、一応すんだことであり、国王の処刑もすんだことである。それに、これらの問題については、平原派議員の中にも賛否両論があり、それにもかかわらず平原派議員は追放されていない。だから、これらの問題は、ジロンド派追放の決定的な原因ではない。

ほとんどのフランス革命史では、ジロンド派とモンタニヤールの政治闘争を説明し、その延長として、六月二日の武装蜂起にいたり、ジロンド派が追放されると説明する。その政治的事件を説明しなければならない。まずロベスピエールとマラがジロンド派をデュムーリエ将軍の共犯者ときめつけ、とくにブリッソが告発されるべきであると主張した。

また、四月五日、総防衛委員会にかわって公安委員会が組織され、この公安委員会が、内閣(臨時行政会議)の行政を監視し、非常事態のばあいは内閣に命令する権限を与えられた。この公安委員会にたいして、ジロンド派が独裁と批判した。これにたいしてマラが、「自由の専制」の必要を根拠として反駁し、一種の革命的な独裁思想を表明した。

ジロンド派は、四月五日ジャコバンクラブが全国の支部にたいしてだした文章の中にマラの独裁思想があると指摘して、四月一三日、国民公会にマラを告発した。これは可決されて、彼は四月二四日、革命裁判所に引きだされた。しかし、マラの雄弁と、彼を支持するパリ市民の圧力のために無罪となった。マラを支持するパリの諸区が、今度はジロンド派にたいする報復を企てた。この闘争のいきつく結果、ジロンド派は、モンタニヤールの根拠地であるパリコミューンを解散させ、地方から軍隊を呼び集めて、ジロンド派の政権を回復しようとした。

こうした政治闘争の結果が、一二人委員会の設立とエベールの逮捕であった。一二人委員会はジロンド派議員で組織され、国民公会を転覆するための陰謀を調査する権限を与えられた。これが五月二〇日のことであった。一二人委員会は、五月二四日、まずエべールをその容疑者として逮捕した。エべールが『ペール・デュシエーヌ』の中で、ジロンド派が王党派やデュムーリエと共謀してモンタニヤール、ジャコバン派、パリコミューンを虐殺しようとしていると書きたてたことを根拠としたものであった。つづいて過激派のヴァルレが逮捕された。

翌日の二五日、パリコミューンの代表が国民公会で抗議の演説をおこなおうとしたとき、議長をしていたジロンド派のイスナールがこれに反対して、脅迫的な演説をした。パリが国民代表としての議員を守る義務があるのに、三月一〇日以来、たびたび反乱の企てがおこなわれ、国民公会の権威が低下しているといい、もしパリ市民の反乱が国民代表を傷つけるようなことがあれば、全フランスの人間がパリに対して復讐し、パリを絶滅するだろうという極端な表現であった。

「もしこの反乱が国民代表を傷つけるようなことになれば、私は全フランスの名において宣言する。パリは絶減されるであろう。全フランスがパリにたいして復讐し、やがてパリはセーヌ河のどのあたりにあったのかと人が探さなければならなくなるだろう」。

この演説は、あまりにも党派的憎しみを露骨にだしすぎたものであり、ジロンド派にたいする反感をあおりたてた。議会の外では、過激派クレール・ラコンブの率いる革命的共和主義婦人クラブが、エベール釈放を要求するデモをおこした。婦人達が熱狂して、サーベル、槍、包丁をもち、大群をなして行進した。彼女らはジロンド派のペチヨンをつかまえて、脅迫した。

つぎの五月二七日、ジャコバンクラブではロベスピエールが武装蜂起を呼びかけた。その圧力のもとに、国民公会は一二人委員会の廃止、エべール、ヴァルレなどの釈放を決定した。しかし、そのつぎの五月二八日には、ジロンド派が一二人委員会の復活を要求し、また可決された。


五月三一日、六月ニ日の武装蜂起

このように国民公会の決議は左右にゆれ動いていた。平原派議員の票が圧力によって変化した。国民公会での欠席者が多くなり、欠席者は議会の外で策謀をめぐらした。一二人委員会を任命するときは、投票者が三二五人しかいなかった。議員全体で約七〇〇人であるから、半数近くの者が欠席していたことになる。もちろん、すでに軍隊にたいする派遣委員の制度が成立し、六三名の議員が軍隊に派遣され、戦争から物資調達、軍隊の士気にいたるまでの全権力をもって、前線にちらばっていた。

しかし、これを差し引いても、なおかつ出席者は少ない。一二人委員会委員の最低得票者は、一〇四票であった。これでは、ジロンド派議員だけの投票としかいえない。五月二七日、一二人委員会を廃止した時の投票はもっと少なく、一〇〇人しか投票しなかった。これではモンタニヤールの議員だけという以外にない。平原派とジロンド派の議員は、投票に参加していないといえる。当時の議員は都合の悪いときに雲隠れをしていたことが想像できる。ちょうどこの日、革命的共和主義婦人クラブの大デモがおこなわれていたからでもあろう。

つぎの二八日、一二人委員会が再建されたときには、五一七票が投じられた。これでわかることは、平原派議員の多数も、過激派やエべール、さらにはパリコミューンの動きを押えようとする気持をもっていることである。ただ、ジロンド派とちがうところは、どの程度徹底的に闘うかをめぐってであった。ジロンド派がもっとも戦闘的であり、平原派は、情勢をみながら動いていたということができる。

いずれにしても、一二人委員会の再建は、国民公会の多数意見として可決された。約七〇〇人中五〇〇人以上は、反対派にとっては威圧的な意味をもつ。ここで、モンタニヤール、ジャコバンクラブ、パリコミューン、過激派の中に危機感が高まった。五月二九日、パリの諸区の代表が武装蜂起委員会を組織した。五月三一日、司教館を本拠にして、コルドリエクラブの創立者デュフルニを議長とする武装蜂起委員会が行動を開始した。

警鐘が鳴らされ、武装した市民が国民公会を包囲し、一二人委員会の解散、ジロンド派の追放、その他の社会政策を要求した。しかし、国民公会での議論が果しなくつづき、結局、一二人委員会の解散だけが決議された。この日の武装蜂起は中途半端なままで失敗した。この日の失敗について、武装蜂起を計画した者の間で責任のなすりあいがおこり、もっと断固とした行動をおこすべきだという反省がだされた。

六月一日、武装蜂起委員会は、ジロンド派の前大臣ロランとクラヴィエールの逮捕を命令した。ロランはいち早く逃げだしたが、逃亡先で自殺することになる。六月二日、武装蜂起委員会は、国民衛兵と、武装したパリ市民八万人を集め、アンリオーの指揮のもとに、再び国民公会の開かれているチュイルリー宮殿を包囲した。

このとき、すでにマルセイユ、リヨンでジロンド派の反乱がおこり、ジャコバン派が殺され、ブルターニュ、ノルマンディー地方で、地方当局が国民公会への服従を拒否し、ヴァンデーの反革命軍が県庁所在地を占領し、ナントに向ってすすんでいるという危機的な状態が報告された。公会議員も群集も殺気立ってきた。武装蜂起の側はジロンド派議員のうちもっとも戦闘的な二二人の逮捕を要求した。

議員としては、同じ仲間の議員の逮捕に賛成するわけにはいかなかった。自発的な辞職をすすめても、ジロンド派のランジュイネ、バルバルーは、議員としての地位を死守するとがんばった。平原派議員はパリコミューンのやり方を非難し、武装蜂起の指導者アンリオーを処罰するべきであるという発言をおこなった。この中には、バレールとかダントンのように、恐怖政治の推進者になった者もいる。武装蜂起の側に一貫して同情的であったのは、モンタニヤールの議員だけであった。

議員の多数は、なんとかして議員の逮捕だけはさけたいと思った。そこで、議長のエロー・ド・セシェルが先頭に立って列をなして行進し、群集を突破して退場しようとした。アンリオーは「砲手砲につけ」という命令を出して、議員を脅迫した。議員達は、群集の決意の固いことを思い知らされて議場にもどり、モンタニヤールのクートンの提案を受入れて、ジロンド派議員の逮捕を可決した。この日逮捕令の出されたジロンド派議員は二九名で、その中の有名な者は、バルバルー、ブリッソ、ビュゾ、ジャンソネ、ガデ、ランジュイネ、ラスルス、ルーヴェ、ペチヨン、ヴェルニヨーであった。ジロンド派議員の逮捕令はこれで終ったわけではなく、その後マラ

の暗殺の共犯のかどで捕えられた者もあり、各地のジロンド派反乱の共犯者として捕えられた者もある。また、一三人がジロンド派に同調して辞職した。一〇月三日、二一人のジロンド派議員が処刑された。七五人のジロンド派議員は、投獄されたままでテルミドール事件を迎え、そのあと釈放され、国民公会にもどることになる。


ジャコバン派の独裁は成立しなかった

ジロンド派が追放された事件をどのように解釈するかは、フランス革命の解釈で最大の問題になる。どのフランス革命史をみても、ジロンド派の敗北にいたる経過は、これまでに説明したような政治闘争の結果として説明する。そのあと、ジロンド派とともに、大ブルジョアジーが敗北したと書く。勝ったのは、モンタニヤールであると考える。モンタニヤールの背後にいる階級として、ある人は小ブルジョアといい、別な人はサンキュロットであるという。

この点のいい方については、人によって多少ニュアンスがちがうがいずれにしても、ジロンド派対モンタニヤールの図式で勝ち負けを定め、ジロンド派の側をブルジョアジーとすることには変りがない。だから、ジロンド派の敗北は、そのままブルジョアジーの敗北だといわれる。そのような文章の実例を示そう。

ソブールはつぎのようにいう。「こうして、公安政策を持っている唯一の党である山岳党を擁して、サンキュロットが政権についた。この意味で五月三一日の革命は、純粋に政治的なそれではなくて、古い第三身分の新しい部分が権力に到達したという特徴をもっ社会革命であった。ジロンド党を擁して、ひたすら自分に有利なように統治しようとした大ブルジョアジーが一時政治舞台から姿を消したのである」(『フランス革命』下巻、四九頁)。

ソブールの意見では、大ブルジョアジーが姿を消して、サンキュロットが政権についたということになる。

マチエも同じようなことをいう。「したがって六月二日は政治革命以上のものであった。サンキュロットがひっくりかえしたものは、ただに一党派だけではなく、ある点までは一つの社会階級であった。王位とともに倒れた少数の貴族のあとで、今度は大ブルジョワ階級が倒されたのである」(『フランス大革命』中巻、二九四頁)。

河野健二氏はつぎのようにいう。「危機にせまられて、ブルジョアジーの代表は陣地をあけわたして、小ブルジョアの代表たるモンターニュ派にゆずった」(『フランス革命小史』一四七頁)。

このような解釈が一般的であり、疑問をもたれることは少ない。しかし、この解釈には重大な見落しがある。それは平原派議員の存在である。ジロンド派が追放されたからといって、平原派が権力の座から追放されたわけではない。また、モンタニヤールが平原派を押しのけて権力を独占したわけでもない。

たとえば、もっとも重要な財政委員会は、平原派のカンボンの指導権のもとにあり、これは変ることがなかった。公安委員会には、平原派からバレールが入っており、その雄弁で大きな影響力をもっていた。ジロンド派が追放されても、モンタニヤールの独裁は成立せず、平原派とモンタニヤールの連合権力ができたのである。これが正しい解釈で、モンタニヤール独裁という言葉は、威勢のよい俗語としては意味をもつが、ものごとの本質を示すものではない。

ジャコバン独裁という言葉もそうである。ジャコバン派の独裁は、フランス革命のどの時点をとっても成立したことはなかった。ジャコバン派は院外団体であり、モンタニヤールに一定の影響をおよぼし、また協力してある程度の権力を行使しただけである。だから、ここでは、モンタニヤール独裁とかジャコバン派独裁という言葉は使わないことにしている。


平原派の力とブルジョアジー

さて、権力の半分を握っていた平原派とは何者であるかということになる。彼らは国民公会の多数を占めており、三月から六月にかけての三ヵ月は、彼らが権力の指導権を握っていた。ジロンド派が後退し、モンタニヤールはまだ浮び上ってこないからである。六月二日以後、モンタニヤールが権力の表面に登場し、一年のちにはまた沈んでしまう。その時に権力を安定させたのが、平原派である。そのことを思えば、平原派の力を無視することはできない。

彼らは、ジロンド派のような党派的憎しみには与しないが、さりとてパリコミューンの動きとか、これを指導し煽動するモンタニヤールの動きにも反対である。平原派は、ブルジョアジーの上層の特定の部分を代表する議員の集合体であった。そして、有力議員の中には大ブルジョア出身者もいた。また、大ブルジョアと結びついている政治家もいた。

財政委員会のカンボンは、南フランス、モンペリエの大商人である。同じく財政委員のジョアノは、ウエッセルラン王立マニュファクチュアの経営者である。また、財政委員として、デュムーリエ将軍と御用商人デスパニヤックとの不正取引をカンボンとともに告発して闘ったのは、平原派のドルニエであるが、彼も鉄鋼業者、大土地所有者である。大砲を国家に原価で提供し、「誠実の人」といわれた。しかし、莫大な財産の所有者であり、革命中に立派な城を買入れた。

ギュイトン・モルヴォーも平原派の実力者の一人である。初代の公安委員であり、ジロンド派追放後も約一ヵ月その地位にあった。一年後、モンタニヤールを追い落したあと、また公安委員になる。彼は法服貴族、領主、工場主であり、鉱山の開発もおこなっていた。ラヴォアジェとも組んで化学研究をおこない、発明の工業化もおこなう企業家であった。彼は、ジロンド派追放には抵抗したが、それでも公安委員会の議長を務めていた。同じ平原派のバレールと親しく、恐怖政治の時代も、パリの武器工場を経営して、軍事生産に協力した。

シエースは、副司教、フイヤン派であったが、国民公会では平原派にいて目だたない動きをした。恐怖政治のときには一言も発言しなかったが、のちになって、なぜ発言しなかったかと聞かれると、「生きるだけにとどめた」といった。この言葉は後世有名になった。

ただし、何もしなかったかというと、そうではなくて、彼が裏で陰謀をめぐらして、平原派の投票を左右していたことがいわれている。また、イギリスのスパイは、シエースが恐怖政治の公安委員会にたいしても影響力をもち、自分の方針を押しつけていると報告している。まさかと思うような話であるが、一年のちにロベスピエールが失脚する時、平原派議員の支持を取りつけようとして、必死になって演説したことがある。

平原派の支持を失ったとき、ロベスピエールの没落が決ったのである。ややもすると歴史家は、ロベスピエールを能動的に描き、平原派を受動的に描く。真相は意外に逆であったかもしれない。そのシエースは、銀行家ルクツー(国民議会の財政委員会議長)と親密であった。

立法委員会議長をしていたカンバセレスは、法服貴族の出身である。つねに穏健な動きをしているが、恐怖政治が終ってみると、大御用商人のウヴラールの顧問弁護士となっている。アンザン会社の大株主にもなり、豪奢な生活を送っていた。

ドルニエ、ジョアノ、ギュイトン・モルヴォー、シエース、カンバセレス、ともに大ブルジョアジーを代表するものであるが、ジロンド派と運命をともにせず、恐怖政治の時代にはそれぞれの分野で活躍し、その後はますます発展して、ブルジョアジーの上層の座を守っている。

シエースやカンバセレスは、総裁政治の時代でも支配者であり、ナポレオンのクーデターに積極的に参加して、ナポレオン権力の支柱にもなっている。こうした人的系譜が平原派の指導的人物であった。だから、ジロンド派追放がすなわち大ブルジョアの打倒には結びつかない。平原派系の大ブルジョアジーが残っているからである。

ジロンド派とともに敗北したのは、あくまで大ブルジョアの一部であった。


モンタニヤールはサンキュロットか

ジロンド派の追放が、サンキュロットの権力獲得だとマチエ、ソブールはいう。ただし、河野健二氏は慎重にブルジョアという。サンキュロットといえば職人、労働者、中農以外の農民を連想する。ジロンド派追放とともにサンキュロットの政権ができたのであれば現代流にいうならば、労働者、農民の政権ができたことになり、社会主義革命のひな型ができたことになる。

このような連想の仕方が、フランス革命史を専攻する者だけではなくて、日本史研究家の間にも盛んであった。

これを一つの理論的支柱として、フランス革命と日本の歴史との対比がおこなわれる。明治維新には、サンキュロット独裁のような現象が起きなかったから、不徹底であるといういい方が盛んである。

ここで問題にしなければならないのは、モンタニヤール独裁というべきものすら成立しなかったのだが、仮にモンタニヤール独裁が成立したとしても、それはサンキュロット独裁にはならなかったということである。あとで詳しく説明するところもあるが、結論を先にいうと、モンタニヤールの主流は、中流のブルジョアを代表してたとえば、恐怖政治のときの公安委員のジャンポン・サンタンドレは、毛織物工業を経営する一族からでていて、二人の召使をもっていた。上層ブルジョアのような巨大な富ではないが、やはりブルジョアジーに属する。

同じく公安委員として食料問題を担当したランデは、商人の子で弁護士である。公安委員会で、プリュールという名の委員が二人いた。コート・ドール出身とマルヌ出身であったが、前者は収税官の子であるから、やはり裕福なブルジョアであり官僚である。後者は高等法院弁護士であった。公安委員としてエベール派を保護したコロー・ベルボワは、金銀細工商人であった。このような階層出身のモンタニヤール議員の実例は、かなり列挙することができる。

とにかく、サンキュロットを代表するなどとは、とうてい言えないのである。小ブルジョアを代表するというのであれば、モンタニヤールのごく一部分がそれに相当する。ロベスピエール派がそれである。ロベスピエールが指物大工の親方デュプレーの家に下宿し、献身的な世話を受けていた。デュプレーも、親方として相当に豊かであった。職人とは食事をともにしない。その意味では、厳格な階級制度を堅持していた。当時の親方というものは、そうしたものであった。職人をサンキュロットというならば、親方はそれに入らない。

それではブルジョアジーの列に入るかといえば、これは自他ともに認めないだろう。だから、ブルジョアという以外にはない。こうした階層に加えて、芸術家、作家、その他自分の能力である程度裕福な生活をしている者が、ロベスピエール派の支持者になった。彼らも、革命中はサンキュロットと自称し、ジャコバンクラブに参加していた。ここが問題を複雑にするところである。

サンキュロットという言葉をどう解釈するかである。これを職人、労働者と解釈するか、それとも中小工業主や職人の親方、知識人がサンキュロットと自称したばあい、これも含めてサンキュロットと解釈するかどうか、前者に解釈するならば、サンキュロットはロベスピエール派すら動かせなかったことになる。後者に解釈するならば、ロベスピエール派は小ブルジョアの党派であったということになる。


ロベスピエールの独裁はなかった

つぎに、ロベスピエール派が小ブルジョアの党派で、ロベスピエールが公安委員会の中心であったから、恐怖政治は小ブルジョアの権力になったといえるだろうか。河野健二氏の『フランス革命小史』では、こういう表現になっている。ロベスピエールの独裁すなわちサンキュロットの独裁と書く本も多い。しかしそうではない。ロベスピエール派は、モンタニヤールの少数派にすぎなかった。一見はなばなしく歴史の表面におどりだしたように見えるが、重要な政策決定からはずれたところで動いていた。

公安委員会の命令を誰が多く作成したかについて調べてみると、ランデ、ブリュール(コート・ドール出身)、カルノー、バレールの順で、この四人が断然多い。上から順番に、食料問題、軍需工業、軍事、外交を担当している。公安委員会の命令はロベスピエールの署名を必要とせず、担当公安委員が署名し、二人が副署をすればよかった。そして、この四人は仲が良くて、お互いに副署をしあった。

ロベスピエール、サン・ジュスト、クートン三人のだした命令は少ない。しかも、一般警察局の関係である。

このようであったから、たとえロベスピエール派が小ブルジョアの代表であっても、小ブルジョアは脇役を果したにすぎない。これが恐怖政治の本質であった。

もう一度整理してみよう。ジロンド派が追放された以後でも、財政委員会はカンポン、ジョアノ、ドルニエといった中規模から上層のブルジョア出身者で固められている。いわば、大蔵省が公安委員会から独立しているのである。公安委員会は一〇〇万リーブルだけをまかされた。国家財政の規模からすれば、とるに足りない金額であった。財政を握らずして、権力を握ったとはいえないから、それだけでもモンタニャール独裁という言葉は適

当でない。

しかも財政委員会議長のカンポンはロベスビエールと徹底的に対立し、ロベスビエールが失脚する日の演説でも、カンポンの財政政策を激烈に批判している。批判するということは、実権がなかったのである。このいきさつからしても、平原派の力は根強く残っている。

つぎに、公安委員会は財政と正規の警察(保安委員会)を除いた権限について、全権力を握った。しかし、その中枢部は、平原派のバレール、モンタニヤール主流のカルノー、ランデ、二人のプリュール、これにジャンボン・サンタンドレ(海軍担当、派遣委員)と、もう一人エロー・ド・セシェルという浮動的な人物で握られていた。

エロー・ド・セシェルは名門貴族、パリ高等法院弁護士、王の弁護士、王妃の寵臣という、およそ恐怖政治にはふさわしくない名門出身であった。ダントン派、エベール派の両方にもつながりをもち、公安委員会では外交と派遣委員を担当した。

したがって、恐怖政治の公安委員会といえども、右は貴族から、真中の中流ブルジョアを含めて、その末端に小ブルジョア代表のロベスピエール派を加えていたのである。

もう一つ、正規の警察を指揮する保安委員会があった。これも公安委員会から独立していた。ここでは、モンタニヤール主流のアマールとヴァディエが実権を握り、ロベスピエール派のル・バが反主流となっていた。アマールは高等法院弁護士で、没落をはじめた商人の家系である。ヴァディエは収税人の出身である。ともにロベスピエール派と対立し、公安委員会の主流と手を組んで、のちにロベスピエール派を叩き落す側にまわる。

このようにみてくると、恐怖政治は、決してサンキュロットの権力でもなく、小ブルジョアの権力でもない。

そして、モンタニヤールの独裁でもなく、ジャコパン派の独裁でもない。むしろ、平原派系の上層ブルジョアジーと、モンタニヤールに雑居している中流ブルジョアジーから小ブルジョアにいたる、一種の連合戦線、同床異夢の状態であったということができる。


ジロンド派追放の原因

ジロンド派が、なぜ平原派から分れて追放されたかを考えなければならない。ジロンド派の没落を決めたものは、財政問題であった。すでに、アシニアの価値が下落し、物価騰貴が起こり、これが貧民の暴動を誘発している。これをカで弾圧すると、ヨーロッパ列強諸国との戦争を前にして、献身的な戦争に動員することができない。

物価上昇を止めるためにはアシニアの価値を維持し、増発されたアシニアを流通から引き上げなければならない。

この時期、財政当局の最大の関心事は、アシニアの価値を維持することであった。このための政策として、貴金属の売買禁止、アシニアの強制流通、アシニアと竸合する証券(手形、為替、株式会社の株)の取引禁止、それに累進強制公債がとりあげられた。金属貨幣と貴金属の売買禁止、アシニアの強制流通は、四月一一日、ジロンド派の抵抗を押切って可決された。金属貨幣が流通していると、誰もが金属貨幣で受取ろうとして、アシニアで受取ることを拒否する。そのため、アシニアの価値下落がひどくなるからである。貴金属の売買をした者は禁固六年、アシニアの受取りを拒否したばあいはそれと同額の罰金が課せられるようになった。

この提案は、カンボンから提出され、これにジロンド派が徹底的に反対した。ジロンド派の孤立は、ここにはっきりと認められる。とくにジロンド派の闘士バルバルーはしつこく反対を続けた。五月二〇日になっても、この法令に対して非難を加えている。

大詰めの事件は累進強制公債であった。これは財政上の大手術ともいえる、荒っぽい手段であり、非常手段の最大のものであった。年収に応じる累進税の形で、強制的に公債に応募させようというのであるが、公債といっても、公債の証書を発行しない。証書を発行すれば、それが流通して一種の紙幣の役割を果すから、紙幣の総額を削減するためには意味がない。そこで、政府の公債台帳に記録するだけにとどめたから、実質的には税金に似ていた。

これを当時革命税と呼んだ。この提案をしたカンポンにいわせると、富者の財産を尊重しながら、一時的に彼らから金を借り、彼らを革命に結びつけ、もし祖国が救われたときには、借りたものを返すという精神であった。

しかし、この時期、フランスが戦争に勝つかどうかわからない。利に聡い金持は、敗けたときのことを考えて、できるだけ財産を隠しもっておこうとする。それを累進税で取り上げようというのであるから、金持の抵抗は激しかった。

この雰囲気を反映して、ジロンド派が徹底的に抵抗した。マルセイユのブルジョアジーを背景にしていたバルバルーは、五月二〇日、故郷に手紙を書いた。この累進強制公債により、一〇万リーブルの年収をもっ貿易商人は、一〇万リーブル以上の租税または公債が課せられるだろうと書いた。年収以上の租税または強制公債が課せられるのであるから、これでは金持は怒る。彼らは、革命政府が自分達の財産をおびやかそうとしていると考えた。

もともと、バスチーユ占領も、王権から財産を守るためにおこなわれた。この点にジロンド派の反乱の基礎があった。

マルセイユの代表は五月二三日パリに集まり、ジロンド派に同情的な諸区を訪問して連携を固めた。五月二五日、彼らの指導者ランパルは国民公会で発言し、マルセイユ市が強制公債にたいして憤慨していると脅迫した。その夜、パリのジャコバン派がマルセイユ代表の逮捕と虐殺を狙っているというので、バルバルーとジロンド派議員はマルセイユ代表をかくまった。

こうして、強制公債をめぐる衝突が、パリ対マルセイユの形になって現われた。ジロンド派の追放、マルセイユ市の反乱はこれの延長である。

ジドンド派が、この問題と並行してエベールやパリコミューンを攻撃したのは、強制公債を有利に解決するためであった。

パリコミューンの武装を解除し、マルセイユをはじめ各地方の武装勢力をパリに引き入れて、ジャコバン派から過激派を含める勢力を弾圧しようとしたのである。一二人委員会の設立とか、エベールの逮捕という政治的事件は手段であって、本当の狙いは累進強制公債を阻止することにあった。

このために必死で闘い、ついに敗れたのである。


累進強制公債をめぐる国民公会の分裂

この公債は一〇億リーブルの強制公債ともいわれるが、平原派に支持されていたところに重要な意味があった。

提案者はカンボン、ラメルという、財政委員会に属した平原派議員であった。これにモンタニヤールのマラやダントン派のチュリオが賛成した。

国民公会で激論がたたかわされたが、反対したのがジロンド派であり、平原派はだいたいにおいて賛成にまわったから、ジロンド派が孤立した。ジロンド派追放の原因は、累進強制公債をめぐるものであった。

五月二〇日、国民公会は一〇億リーブルの強制公債を原則として承認し、その適用は各地方当局と派遣委員の裁量にまかせた。この徴収がはじまると、マルセイユ、リヨン、ボルドーその他でジロンド派(連邦派)の反乱が起こった。リヨンでは、すでにジャコバンクラブ系が市政を支配していたので、国民公会の派遣委員デュボワ・ド・クランセと協力して、革命税の徴収を厳格におこなった。

対象は問屋商人、大財産家、資本家といわれているが、三〇〇〇万リーブルになった。一人の貿易商人が六万リーブルを課せられた。市の吏員がサーベルとピストルをもち、租税を即時支払えと要求してまわった。租税を取られる側は憤既した。五月二九日、街頭で衝突がおこり、これが発展して内乱となり、ジロンド派系が支配してジャコパン派系を虐殺した。このような性質のジロンド派系の反乱が、とくに南部フランスに拡大した。国民公会におけるジロンド派の抵抗は、その運動と連帯するものであったから、追放されることになったのである。

それでは、平原派のブルジョアジーも革命税を取られたはずなのに、なぜ賛成にまわったのかという疑間が残る。これはブルジョアジーの中の性格のちがいによるものであった。たとえ革命税をおさめても、それ以上のものを手に入れる見込みがあれば、一時的に我慢することができる。この時期、外国との戦争で、国家の軍事注文は巨大になり、国家にたいして物資を納入することは莫大なもうけになった。その取引で成功して、一介の中小ブルジョアから二、三年のうちに巨大な新興成金になった者も多い。はじめから大財産をもっている者でも、革命税をおさめて愛国者の評判を確保しておき、その信用を背景にして、国家と有利な契約を結べば納めた以上のものを取りかえすことができる。こうした一群の資本家達が、平原派の背後にいたのである。

彼らは、一時的な犠牲を覚悟してもよいから、ともかく戦争に勝って欲しい。こうした気分を平原派が代表していた。だから、平原派には、どちらかといえば、軍事工業に関係のある工業家、軍需物資を扱う商人、軍隊の御用商人がついていた。議員のドルニエやギュイトン・モルヴォーのような存在は、一人の人間がそうした資本家でありかつ平原派議員であるという意味で、その立場を象徴している。

これに反して、ジロンド派の反乱に徹底的に参加したのは、この戦時経済に不向きな職種の大商人が中心であった。食料品、奢侈品を中心とした貿易商人や問屋商人である。彼らは国家との取引でもうけるすべがないまま、巨額の革命税だけを取立てられた。これでは、もはや革命に対する情熱を失なってしまう。外国軍と手を組んでも、あるいは貴族と手を組んでもよいから、自分の財産を略奪する者から身を守りたい。

こうして連邦派の反乱がおこり、この反乱にイギリス軍が援助するようになったのである。これを国民公会の側からみるならば、外国と結託した裏切り行為、反革命ということになり、ついにブルジョアジーが二つに分裂したのである。ブルジョアジーの分裂は、非常事態のときにはおこりうるものである。そのもっとも極端な実例を、フランス革命が提供していると思えばよい。

要約 第四章 ジロンド派の時代 五 ジロンド派の追放

この節の要点はただ一つ、ジロンド派追放の基本的原因である。昔からいろいろと言われてきた。19世紀では、文学的、ロマン主義的論調で、ジロンド派のために涙を流し、モンタニヤールのならず者という論調が盛んであった。20世紀にはいって、科学的に物事を見ようという気風が強くなり、基本は経済だという傾向が強まり、最高価格制などがとりあげられた。やがて、累進強制公債が話題になったが、まだほかの要素とかき混ぜられて、何が基本かわからない書き方が一般的であった。

私ははっきりと、「累進強制公債の徴収が基本だ」と書いている。もう一つ、この政策に対して、モンタニヤール(山岳派・通称ジャコバン派)だけが賛成したのではなく、平原派が賛成していたことを強調している。とくに、平原派議員のカンボンが、財政委員会議長として、強力にこの政策を推進したことを紹介している。ここのところが、他の著者たちとは違う。もう一つ、カンボンの周囲にいて活動した実業家議員を紹介し、こういう層が積極的であったという。だから、ジロンド派の追放が「大ブルジョアジーの敗北になったのではない」という。「ちゃんと政権の座にいるではないか」、これが他人とは違う意見です。


19-フランス革命史入門 第四章の四 ヴァンデーの反乱

四 ヴァンデーの反乱


初期の反革命運動

ヴァンデーの暴動は、フランス革命にみられる反革命暴動の最大のものである。革命軍と反革命軍の残虐な殺し合いが続けられ、革命史の多くのエピソードを残した。もちろん、ヴァンデーだけが、このような暴動を経検したのではなく、それより北方のブルターニュやメーヌ、ノルマンディー、ツレーヌの各州にわたって同じような暴動が広がった。フクロウ党(シュアン)の反乱と呼ばれたときもある。反乱者が森に隠れて、フクロウの鳴き声で合図をして革命軍を迎え撃ち、ゲリラ攻撃にでたからこの名前がついた。

革命軍は「捕虜をとるな」という合言葉で攻撃した。女、子供、老人にいたるまで、反乱者の地域では虐殺の対象になった。そのあと焼きつくせという命令がでて、廃墟になった村が数多くあった。反乱者の側も、革命派を捕えると残虐な拷問にかけて殺した。女、子供がもっとも残酷な殺害に加わり、婦人が「殺せ殺せ」と叫んでまわった。国外戦よりは国内戦の方が、すなわち階級闘争の方が、より残酷な闘いになることを明示した事件である。

ただ、この反革命暴動が、農民の手によって引きおこされたというところに複雑な問題がある。本来農民は、フランス革命の側につくはずであった。そして、バスチーユから大恐怖にかけて、この地方の農民も反領主暴動に参加し、城を焼打した。第一段階では、この地方の農民もまた革命的であった。一七九三年三月一〇日、外国軍との戦闘のために三〇万人の徴兵令が布告され、これが実施される段階で、農民が大規模な反革命暴動に立ちあがった。農民の反乱であるから、地域ぐるみの闘争となり、小さな子供までが農民ゲリラの伝令役になる。そのような子供までも、革命軍は処刑してしまった。

その姿を表面的に見るならば、現代におこっている民族解放運動のゲリラ戦にそっくりである。ところが、それがイデオロギー的には王党派であり、反革命であるところが特色であった。

ヴァンデー県は、大西洋岸中部でナントとラロシェルの間にまたがる後進地帯であり、深い森にかこまれていた。それより北に、ブルターニュ州の半島があり、ここも後進地域であった。はじめこの地方の貴族達は、貴族を中心にした反革命運動を組織した。それに参加した貴族は、レザルディエール男爵、レスキュール侯爵であった。ブルターニュではルーリー侯爵の反革命運動があった。しかしいずれも事前に発覚し、孤立した事件にとどまっていた。

僧侶基本法が制定されたときに、この地方のほとんどの僧侶が宣誓を拒否した。僧侶の職を奪われると、彼ら忌避僧侶は、信仰心の厚い農民にたいして働きかけ、宗教的な反抗心をうえつけていった。反抗僧侶の比率はブルターニュが高くて、八一パーセントであり、暴動の中心ヴァンデーでは五五パーセントであった。そのため僧侶の煽動だけでも暴動の説明がつきにくい。あくまで、僧侶の煽動は二次的な要因であった。


なぜ農民が反革命に転じたか

なにが農民を反革命にかりたてたのかといえば、それは、革命が彼らに幻滅を与えたからである。このようにいっても、どのような農民かを問題にしなければならない。すべての農民が、革命により利益を得たとは限らない。農民にもいろいろな階層があったことは、すでにみたとおりである。もし、中農や富農の比率が高ければ、その農民は革命で利益を得たということができる。

しかし、土地のごく少ない農民、そして他人の土地を小作しなければ生きていけない農民(自小作農民)か、純然たる小作農の多いところでは、領主権の無償廃止がおこなわれたとしても、彼らにとってはなんら利益にもならない。利益は、小作農民を使う地主のものになるからである。

それだけではない。革命政府は、僧侶財産を国有化し、これを売却した。教会のもっている土地が国有化されたのちに、競売にかけられたのである。この競売に、あらゆる階層の者が応したが、これを遠くはなれた都市のブルジョアが買占めたばあいが問題になる。その村には、国有財産を手に入れた者が少なく、革命の恩恵にあずかったという実感がない。しかも、新しく地主になった者はよそ者である。

それだけでもおもしろくないのに、新しく地主になった商人や銀行家、工業家は、小作人にたいしてきびしかった。以前の所有者の僧侶は、なんといってもおおようであり、小作農の側からみても、だましやすかった。しかし、新しい主人は手ごわい相手であり、結局は小作料の増徴につながり、小作人にたいする搾取がきびしくなる。これでは、小作農が革命に幻滅する。昔の僧侶に支配されるほうが、まだよかったということになる。そのため貧農が反革命の側に立ったのである。

ヴァンデーにおいても、その周辺のブルターニュやメーヌにおいても、王党派の強い村と共和主義者の強い村とがあった。王党派の強い村では、僧侶財産の比重が高く、しかも、これをよそ者が多く買占めた。これが大きな特徴になっている。僧侶の土地が少ないか、多い場合は土地の自作農あるいは小作農が買入れたところは、革命政権に忠実な村にとどまっている。

農民の大多数が幻滅を感じ、革命派がごく少数となっていた場合に、反革命の条件が生れた。そこへ物価騰貴がおこり、最後に強制徴兵令がきた。ついに農民の不満が爆発して、反革命暴動へと発展したのである。

密輸人、収税人の反革命運動

反革命暴動には、農民と並んでもう一つの階層が強力な役割をになって参加した。それは塩の密輸業者、塩税の収税人、密猟監視人の一団であった。旧体制のもとで塩税が徴収され、そのためにヴァンデーの海岸地帯や、内陸の州と州の境界線に税関が設けられていた。ここに収税人が多くつとめていたが、革命によって国内関税が廃止されたため、彼らは革命で失業者になった。そのため、彼らは反革命の側に立った。

収税人の目をのがれて、塩の密輸をおこなっていた密輸業者の一団がいた。彼らは、集団をなして、軍隊的な規律を保ち、間道を通り、塩を運んでいた。塩税が廃止されたために、彼らも密輸でもうけることができなくなった。彼らも反革命に転じた。

密輸業者と収税人は、旧体制のもとでは追いつ追われつする宿敵であったが、いまやこの二つが反革命で手を組んだ。この一団から出てきた有名な指導者は、密輸業者のコットロー兄第で、一人がジャン・シュアンのあだ名をもらった。密輸業者がもっとも獰猛な反革命者になった。

密猟監視人は、貴族の領地の森を監視し、密猟者を摘発する係である。彼らは森の地理にくわしく、役目柄勇敢であり、同時に領主にたいして忠実である。そのために、反革命運動の指導者に適していた。これで有名な者はストフレである。彼はドイツ人で、モレヴリエ伯爵の森の密猟監視人の監督官であった。革命とともに主人は亡命したが、彼は森の中に潜伏していた。農民が反乱をおこすとその指導者となり、強力な軍隊に仕立て上げ、有能な指揮官となった。

そのほか、都市の職人、労働者、小商人の中にも反革命運動に投じた者がかなりいた。その中では馬車屋のカトリノーが有名である。反革命軍が森の中のゲリラ戦を上手にすすめたのは、塩の密輸業者、密猟監視人の指導によるものであった。


王党派と革命軍の激戦

一七九三年三月一一日、ヴァンデー県の隣、ロワールアンフェリウール県のマシュクール市に農民が侵入し、県吏員を殺し国民衛兵を虐殺した。一三日には、シャレット騎士が八〇人の群集をひきつれて合流し、この指導権をにぎった。三月一二日には、サン・フロラン市で徴兵の方法を決めるための集会が開かれることになった。

その前夜、周辺の農村で鐘が鳴らされ、農民が集まり、朝になると二〇〇〇人の農民が侵入してきた。国民衛兵は二〇〇人しかいなかった。ここでいざこざがおこり、農民が市役所を占領し、ボンシャン侯爵に使いをだして、彼を反乱軍の首領にした。

チフォージュ市はヴァンデーとブルターニュ、アンジューの境界にある町だったが、周辺の農民が森に集まり、徴兵令をのがれるための相談をした。その数が八〇〇人となり、チフォージュ市を攻撃したが、国民衛兵は四〇人しかいなくて占領された。このほか、各地の小都市が反乱者によって占領された。

反乱者の数が増え、三月二二日、シャロンヌ市が五万人といわれる反革命軍に包囲された。この町には三五〇〇人の革命軍がいたが、結局降伏した。このときの反革命軍の指導者として、貴族のデルべ、ボンシャンと密猟監視人のストフレが登場した。海岸地帯のポルニック市は、シャレット騎士の反革命軍に占領され、放火された。

二週間で、反革命軍は、ヴァンデーを中心とした四つの県の約半分の面積を占領した。

四月に入ると、ラ・ロシュジャックラン侯爵の率いる反革命軍が革命軍を敗走させ、六月九日に、ソミュール市、六月一八日にはアンジエ市と、二つの重要都市が占領された。アンジエ市は、ヴァンデーからパリの方向にむかって進んだところにある大都市であり、ここの占領は国民公会に大きな衝撃を与えた。

しかし、反革命軍はパリへ向って進まず、西に転じて海港都市ナントの攻撃に移った。ナントと同じ海港都市のサーブル・ドロンヌ市は、反革命軍の攻撃に耐えた。六月二九日、ナント攻撃は失敗し、カトリノーは重傷を負った。それから一〇月までの間に、指導者のレスキュール、ボンシャン、デルべが負傷し、そのあとラ・ロシュジャックランが総指揮官となり、アンジエ市を攻撃し、さらに東に進んでル・マン市を占領した。

ここは、ヴァンデーとパリのちょうど中間にある重要都市である。革命軍の反撃がはじまり、一二月、激戦の結果、反革命軍が敗北して大規模な内戦は終った。これ以後は、ヴァンデーの小戦争と称するゲリラ戦が続けられた。しかし勇猛果敢をうたわれたラ・ロシュジャックランも殺され、デルべ、タルモン太公と有名な貴族指導者が殺された。一七九四年の一二月、国民公会が反革命者にたいする大赦令をだしたので、シャレット、ストフレが抵抗をやめてゲリラ戦が終結した。


ジロンド派の対策

ヴァンデー暴動をめぐる方針のちがいもまた、ジロンド派の勢力後退を招いた。ジロンド派は、鎮圧のための断固たる手段をとろうとはしなかった。

三月一九日、暴動の発生と拡大が報告されると、国民公会は、反乱に参加した者を死刑にするという決議をおこなった。しかし、ヴァンデー県代表が増援軍の派遣を要請したとき、ジロンド派の支配する総防衛委員会は熱意をみせなかった。

結局、行政官を派遣するとの決定をおこなったが、ヴァンデー県代表は、この措置が不十分であるといって、ジロンド派議員と激論をおこなった。ヴァンデー反革命軍と真剣に闘っている革命派は、ジロンド派に見切りをつけて、平原派あるいはモンタニャール支持へむきをかえた。

四月二七日、ダントンの提案で、増援軍をヴァンデーへ派遣することが決定された。ヴァンデー反革命軍との戦闘では、モンタニヤールも平原派もともに死にもの狂いで闘った。平原派の政治的態度があいまいであるからといって、反革命軍との戦闘もあいまいだというわけではなかった。

たとえば、サーブル・ドロンヌ市を守って反革命軍を敗走させたブラールは、パリ銀行家の息子で政治的には平原派といわれていたが、戦闘では勇敢であった。このことを、平原派のカンバセレスがはっきりと証言している。

「穏健派がジャコバン派よりも反乱者にたいしてやさしさを持っていたというわけではない」。

ここにジロンド派と平原派との相違をみることができる。ジロンド派は、ヴァンデー暴動にたいして断固たる態度をもたない。しかし、平原派は、ときにはモンタニヤール以上に断固たる措置を望んだのである。五月から六月にかけては、反革命軍がもっとも強大になり、このままふくれあがっていくと、大軍をなしてパリにむかってくるかもしれないという脅威を与えた。そのようなときに、平原派とモンタニヤールからみれば、ジロンド派の態度は敗北主義的とみられたのである。

ただし、反革命軍は急速にその弱点を暴露した。まず第一に、指導者がそれぞれバラバラで、独立性を保ち、一つのまとまった軍団にならなかったことである。つぎに、農民が郷里を離れて遠くへ行軍することを好まなかったことである。貴族の指揮官シャレット侯爵は、権力をにぎると、貴族社会のくせがでてきた。城で貴婦人に囲まれ、酒、ダンス、恋愛にふけった。このようなことが、反革命軍の弱体化をたらした。 

要約 第四章 ジロンド派の時代 四 ヴァンデーの反乱

王党派農民の反乱が、フランス中西部に拡大した。この事件からひきだされる要点の一つが、「農民運動は、王党派(フランス革命反対)の方向にも向くものだ」という点にある。この事件は、古くから一般論のように唱えられてきた「ブルジョア民主主義革命」という理論とは矛盾する。つまり「ブルジョアジーが農民と手を携えて、ブルジョア革命(市民革命)を推進する」という理論である。しかし、ヴァンデーの事件を見ると、農民反乱がフランス革命をつぶし、貴族政治の再現に貢献しようとした。こういうこともあるのだという要約になる。

なぜこうなったかという原因については、本文の中で詳しく書いている。ただ言えることは、様々な農民運動があるということだ。

 


18-フランス革命史入門 第四章の三 敗戦路ジロンド派の後退

三 敗戦とジロンド派の後退


デュムーリエ将軍の反逆

一七九三年三月は一つの転期であった。このときからフランスは敗戦に転じ、ヨーロッパの強国から侵略され、生死の境におかれた。死にものぐるいの闘いの中で、ジロンド派が没落し、恐怖政治が出現することになる。まず、三月一八日、ベルギーのネールウィンデンでデュムーリエ将軍の率いるフランス革命軍は、コーブルク公爵の率いるオーストリア軍に敗れた。

オーストリア、プロシア連合軍は、そのまま進んでデュムーリエ軍とキュスチーヌ軍を分断する形で、フランス国境をめがけて進んできた。三月から四月にかけて、フランス連合軍はベルギー全土から撤退した。ドイツ国境では、マインツの要塞を残して、キュスチーヌの率いる軍隊が撤退した。これから七月まで、プロシア軍によるマインツ攻撃が続けられ、激戦がくりかえされた。

デュムーリエは、敗戦を利用してクーデターの計画をたてた。それは、オーストリアの司令官コーブルク公爵と話をつけてベルギーの領土をオーストリアに渡し、オーストリアは彼を援助することを予定した。その機会に、軍隊を率いてパリに進撃し、国民公会を解散し、フランス王国を再建し、王妃マリー・アントワネットの救出をおこない、ジャコバン派を弾圧するというものであった。

デュムーリエの行為に疑いをいだいた国民公会の総防衛委員会は、デュムーリエの罷免、逮捕を三月二九日、決定した。その実行のために、陸軍大臣ブルノンブルと四人の派遣委員を送った。しかし、デュムーリエは彼らを逮捕し、オーストリア軍に引き渡した。デュムーリエは、そのまま軍隊をパリにめがけて進軍させようとしたが、まだ残っていた国民公会の派遣委員と、デュムーリエ指揮下の将校が国民公会の側につき、デュムーリエを襲撃した。こうして、デュムーリエ将軍は、自分の支持者にかこまれてオーストリア軍の側へ逃げこんだ。

このとき、オルレアン公爵の息子ルイ・フィリップ(のちの七月王政の王)がデュムーリエと行動をともにした。四月一日、パリではデュムーリエの裏切りの共謀者として、オルレアン公爵(フィリップ・エガリテ=平等と呼ばれていた)と公会議員シルリー侯爵が逮捕された。ダントンも、二度デュムーリエ軍に派遣された委員として、この反逆計画にかかわりあいがあった。そこで、彼も総防衛委員会と保安委員会に喚問された。

しかし、ダントンは、デュムーリエと内通したのはジロンド派であったと主張し、自分にたいする疑惑をジロンド派にすりかえた。ジロンド派も最後までデュムーリエを擁護していたために、ダントンの言葉が以外に強味をもった。モンタニヤールはジロンド派との闘争を続けていたので、八月一〇日の英雄ダントンを敵にまわすよりは、味方に引き入れる方を有利だと考えた。ダントンのもつ重味は決定的なものであった。そこでダントンへの疑惑はすておかれ、ダントンはモンタニヤールと歩調を合せて、ジロンド派を攻撃する側にまわった。


破綻するジロンド派の政策

ジロンド派は、しだいに権力の座から後退をはじめた。まだモンタニヤールの政権は成立していないが、ジロンド派の政策が破綻していくとともに指導権は平原派の手に移行しつつあった。一七九三年一月二二日、内務大臣ロランが辞職した。彼は、徹底した穀物商業自由の主唱者であり、あまりにも頑固すぎて、他のジロンド派大臣と対立したのである。大蔵大臣クラヴィエールが、ジロンド派系大商人のビデルマンと協力して、陸海軍のための食料調達を大規模におこなおうとした。これがロランの主張と合わないので、ロランは買付を縮小させようとして対立した。ジロンド派の中にもまた、穀物商業の自由の幅をめぐって意見の対立があった。

四月に入ると、陸軍大臣と海軍大臣がモンタニヤールのブーショットとダルバラードにかわった。四月五日、国防のために大幅な権限を持つ機関として、公安委員会がつくられた。ここにはジロンド派が選出されず、九人の委員のうち、カンボン、バレール、ギュイトン・モルヴォー、デルマ、ブレアール、トレラールは平原派で、ランデはジロンド派寄りからモンタニヤールに転じたもの、ダントン、ドラクロワは平原派からモンタニヤールに転じたものであった。

また、四月三〇日、ジロンド派の反対を押し切って、将軍にたいする告発が将校、兵士、義勇兵、軍隊に配属されている市民に開かれることを決定した。こうして、将軍達に頼りきっていたジロンド派の政策がくつがえされた。

軍隊の改革もジロンド派の反対を押し切っておこなわれた。それは、貴族軍人デュボワ・ド・クランセの主張するアマルガム法(混成法)であった。当時、正規の軍隊と義勇兵が別々に行動していた。正規軍は古い軍隊の秩序を保ち、義勇兵は、指揮官を選挙して民主的な軍隊となり、待遇もよかった。そのため、正規軍と義勇軍の間がうまくいかなかった。

アマルガム法とは、この両者を一つの軍団の中に同居させ、正規軍の中にも義勇軍の選挙制度をとり入れ、正規軍の士気を高めながら、義勇軍と正規軍の竸争をおこなわせるというものであった。これも、平原派の多数とモンタニヤールの力によって成立した。これは、当面する戦争には役立たなかったが、翌年には各軍団で実現された。この改革は軍隊の士気を高め、軍隊における将校と将軍の刷新を実現し、世界最強のフランス革命軍を作りだすことになる。


自由貿易主義の後退

一七九二年一月、内務大臣ロランの辞職のあと、ガラが就任した。彼はダントンの友人で、活動的な人物である。ジロンド派の同調者としてのちに逮捕されるが釈放された。テルミドール事件以後の公安委員となり、学者で教授、ナポレオン時代の元老院議員でもあった。平原派を象徴するような人物である。

それにしても、ロランからガラへの変化は、ジロンド派の政策から平原派の政策への移行を示している。それは、自由貿易主義から保護貿易主義への漸次的移行であった。二月二日、ガラの提案により、内閣がイーデン条約の破棄を決定した。

イーデン条約とは、一七八六年イギリスとの間に結ばれた自由貿易主義的な通商条約であった。この通商条約の結果、イギリスの工業製品がフランスに流入し、フランスの比較的竸争力の弱い工業が打撃を受けていた。まだ大工業は少なく、中・小規模のマニファクチュアの多いフランスの産業が、工業先進国イギリスの圧力にさらされたのであった。そこで、そうした工業家から保護貿易を求める声があがっており、とくに三部会の請願書にも、また立法議会への請願にも、このことを要求したものが多かった。しかし、そのような保護貿易主義は押えられたままで過ぎていった。なぜなら、革命で指導権をにぎったフイヤン派のブルジョアジーは、重農主義に代表される自由主義経済を信奉しており、つぎのジロンド派も、その点においては徹底した自由貿易論者であったからだ。とくにロランがそうであった。これは、フイヤン派、ジロンド派ともに大商人、大銀行家の勢力を主な背景としていたからである。大銀行家は国際商業の決済、為替取引、国際的な投機により利益をあげている。大商人は仲介貿易によって巨大な利益をあげていた。

どこの国、いずれの時代でも、保護貿易か自由貿易かは、主としてブルジョアジーの内紛の問題である。だいたいにおいて、最先進国の工業資本は自由貿易主義であり、二流国の工業資本は、先進国と対抗するために保護貿易主義に走る。ところが、二流国の商業資本は自由貿易主義であり、商業資本と産業資本が自由貿易と保護貿易をめぐって争う。しかも、二流国であればあるほど、工業が発達していない。さしあたり、商業資本の政治力が強い。商業資本に工業資本が押えられて自由貿易を強制される。ある段階で、工業資本が内外の情勢を利用しながら、これを逆転する。そうしたことが、フランスにも起きたのである。

イーデン条約が破棄されたのは、イギリスにたいする宣戦布告の翌日であった。戦争ともなれば、自由主義的な貿易を破棄するための絶好の機会となる。しかもロランが去り、ジロンド派の勢力は後退しつつある。そうした情勢のうえにたって、フランス工業資本の要求が実現した。ただし、国民公会におけるジロンド派の抵抗はまだ強く、内閣に条約を破棄する権限があるかどうかという形でかなり議論が続いた。それにしても、イギリスと戦争状態に入ったのであるから、ジロンド派もイーデン条約を継続せよとは主張できず、結局内閣の方針通りになった。

その後、保護貿易を要求する声はますます強まり、三月一日、ブリュルテルの報告にもとづいて、フランスと交戦中の国々の間に締結された通商条約を破棄し、外国から輸入される工業生産物の品目をあげて、その輸入を禁示する法令を可決した。ただし、まだジロンド派の勢力が強かったので、フランス工業のために植民地原料を確保するという意味での航海条令は成立しなかった。

これはジロンド派の背後にいる貿易商人の利害に関するものであった。貿易商人は、フランスの植民地物産をフランス以外の国に輸送して利益をあげていた。また、フランス本国の原料を、他国へ輸出することで利益をあげた。貿易商人の力がくつがえされるのは、ジロンド派追放以後のことである。こうした政策のちがいは、ジロンド派と平原派のちがいを暗示する。のちにみるように、平原派には、ジロンド派より以上の工業的性格がみられるからだ。

食料危機と過激派の登場

ジロンド派の勢力は後退したが、まだ国民公会では、勢力を保っており、内閣には大蔵大臣クラヴィエール、外務大臣ルブランをもっていた。このジロンド派勢力を国民公会から追放し、恐怖政治を実現した原因は、深刻な食料危機、それにもとづく暴動、財政困難、敗戦とヴァンデーの暴動であった。

こうした内憂外患が、一七九三年春に一度におしよせた。国民公会議員の多数は、渾身の力をふりしぼってこの危機から脱出しなければならなかったが、それには、非常手段が必要であった。

まず敗戦に直面した国民公会の足もとをゆるがす事件が、パリに発生した。それは貧民の暴動であり、その背後に、それを煽動する過激派がいた。過激派は、「アンラージェ」(激昻した者)と呼ばれていた。

正確には激昻派というべきであるが、普通過激派と呼ばれている。

その人的系譜は、コルドリエクラブのメンバーもいるが、それからもはずれた一連の革命家が多く、国民公会に議席をもつほどの名士ではなかった。しかし、それだけに直接下層の人民と結びつき、彼らの本能的な要求を生の形で正当化して、運動をかきたてることができた。食料危機のため大衆が興奮すると、大衆運動の指導者としては一時的に重大な影響力を発揮した。その指導者の派閥はいくつかにわかれている。

ジャック・ルーは軍の将校の家に生れ、地位の高い司祭になっていたから、社会の中流よりは上の僧侶であった。フランス革命がはじまると、農民の反領主暴動を煽動し、革命派となり、僧侶基本法に宣誓をおこなって教会を与えられた。マラが国民議会から追求されたとき、自分の家にかくまったことがある。ところが、このころになると、マラ以上に過激な政策を主張しはじめ、労働者の多いグラヴィリエ区で影響力を広げた。

彼の支持者の中には靴屋、飲食店主、指物師、医者など、職人、労働者ではないがブルジョアでもないといった階層の者がいる。ジャック・ルーは、最高価格制と買占め、投機の取締りを宣伝し、これに反対した国民公会を、元老院の専制と非難した。彼の目からみれば、ジロンド派からモンタニヤールまで、すべてが貴族主義者だということになる。

ヴァルレは裕福な郵便局長の家に生れた。シャン・ド・マルス事件のときには、共和派の請願運動の先頭に立った。一七九二年一二月には、財産の不平等をなくし、買占め、独占、投機を禁止し、公共の利益を犠牲にしてふくれあがった個人財産の国有化を主張した。六月八日、「社会生活における人間の厳粛な権利の宣言」と題したパンフレットを書き、このような主張を展開した。彼はドロワ・ド・ロム区を指導し、最高価格制と買占めの取締りを国民公会に要求した。

二人の女性革命家が、過激派の指導者になった。美人女優として有名なクレール・ラコンブは、八月一〇日の武装蜂起で勇敢に闘い、英雄になった。もう一人の女性ポリーヌ・レオンは、チョコレート製造業者の娘として裕福であったが、革命に熱中し過激派のルクレールと結婚した。

クレール・ラコンブとポリーヌ・レオンは革命的な婦人を集めて「革命的共和主義婦人クラブ」を組織し、ラコンブが議長、レオンが副議長になった。一七九二年一〇月一〇日、この団体が設立されたが、翌年の一〇月三〇日に解散させられた。この団体は、インフレ対策としてアシニアを強制流通させること、食料品、石けん、ソーダ、ろうそくの公定価格を勝手に決めて、これを強制的に買い取るという運動をおこなった。これを当時「価格設定」と呼んだ。彼女らは、はじめマラの影響を強く受けていたが、しだいにジャック・ルーに結びついた。


過激派の煽動する食料暴動

ロランの提案で、一七九二年の末穀物商業の自由が実現した。これに加えて、アシニアの増発政策の効果があらわれて、貨幣価値が下落した。この二つが、一七九三年二月ごろに、物価騰貴を引き起こした。穀物商業の自由につづいて起こったものが、穀物の買占め、投機であった。それは、敗戦を見越して、食料の買占めに走った大商人、農村の大土地所有者や大フェルミエのせいでもあった。アシニアの価値の下落はひどく、約半分に下落した。アシニアではかられる物価が、約二倍に騰貴したと考えてよい。前にみたように、下層民は生きていくだけで精いっぱいの賃金しかもらっていないから、このような物価騰貴は、彼らの餓死を意味するものであった。そこに過激派の影響力が強まる理由があった。

一七九三年二月一二日、パリの四八区の代表と称する一人が国民公会の演壇にあらわれ、過激派の主張をとり入れた演説をおこなった。小麦の最高価格を定めて、全国一律に適用し、違反者にたいしては一〇年の禁固刑、再犯には死刑を適用せよという提案であった。この主張はジロンド派を批判の対象にしていたものであるが、国民公会では、モンタニヤールのマラまでが激しく反対した。このような提案は、穀物の流通を破壊して混乱をまきおこすというのである。この点では、ジロンド派からモンタニヤールまで意見が一致していたので、この演説者を保安委員会に尋問させることに決定した。

二月二二日、婦人の一団がジャコ・ハンクラ・フに現われて、買占めについて討論するように要求した。しかし、ジャコバンクラブを指導していたモンタニヤール議員、デュボワ・ド・クランセ、ロベスピエール(弟)、ビヨー・ヴァレンヌが彼女らの要求を批判し、会場が騒然となった。

二月二四日、洗濯女の代表が国民公会の演壇に立ち、石けんの値上りについて不平をのべた。洗濯女は、当時洗濯を請負い、セーヌ河の川辺で群をなして洗濯をしていた。一種の婦人労働者であり、今日のクリーニング屋の個人営業と思えばよいが、ことが起こると集団を組みやすい立場にあるので、フランス革命の騒乱事件に大きな役割を果した。その意味で、当時無視できない勢力であった。

「一四スーであった石けんが二二スーに値上りしている。議員諸君、諸君は暴君の首を法の力によって切り落した。われわれは、買占め人と投機業者を死刑にするよう要求する」。

この時期、三〇万人の徴兵令が問題になっていたが、彼女らは、最高価格が決定されないのであれば徴兵をやめよと主張した。この意見は、徴兵令にひきつづくヴァンデーの暴動と、のちに国民公会が採用せざるをえなくなった最高価格制の問題を暗示している。

最高価格を設定して貧民の生活を安定させなければ、徴兵令は成功しない。自分の生活が破減しつつあるのに、徴兵に応じる者はいない。無理に実施しようとすれば、政府にたいする反乱を招く。事実、ヴァンデーの暴動はそのようにしてはじまった。

しかし、まだ当時の国民公会議員は、どの派閥であろうとも最高価格の必要を認めていなかった。この日のジャコバンクラブ議長デュボワ・ド・クランセは、婦人達に反論した。

「食料品の値上りをまねく一つの手段は、買占めについてたえずわめきたて、商業を脅迫することである」。

婦人達の請願はしりぞけられた。翌日の二月二五日、パリに騒動がはじまった。まず婦人の一団が騒ぎ、ついで男性が参加し、食料品店をおそって砂糖、石けん、ろうそく、ソーダの値段を決めて分配した。石けんは、彼女らの主張どおり一二スーに定めて分配された。これに抵抗した食料品店は、略奪された。ジャック・ルーは、この行為が正当であるとあおり立てた。

国民公会では翌日この問題が討議された。財政委員会のカンボンは、穀物の最高価格を設定すると、国有財産になっている農地の買手がなくなり、財政困難を深刻にするという立場から反対した。ロベスピエールすらこの騒動を非難し、これはフランスを破減させようとする陰謀だといった。デュボワ・ド・クランセは、この運動を亡命貴族による反革命の試みだといった。その日騒動が再びはじまろうとしたのでパリに非常太鼓がなり、八万人の国民衛兵が動員された。ジロンド派系の将軍サンテールが、「武器をとれ、市民よ。財産と同胞を守れ」と呼びかけた。

こうして「武器をとれ、市民よ」の言葉は、バスチーユのときは王権と宮廷貴族にたいしてむけられたが、いまや下層民からの略奪に対抗するものになった。財産を持つブルジョアからみれば、どちらも自分を傷つける者であり、極左は極右に通じると思われた。この騷動で逮捕された者は、ほとんどが下層民であり、貴族も外国人もいなかった。だから、この運動は、やはり下層民の自然発生的な運動であり、反革命とか亡命貴族の煽動とかの意見は、うがちすぎた意見であった。


革命裁判所の設立

しかし、買占め人にたいする攻撃は続いた。二月四日、ママンが国民公会で演説し、ジロンド派が買占め人を保護しているといって非難した。

「財産家の貴族政治は、貴族階級の貴族政治の廃墟のうえに立ちあがろうとしている。一般的に大商人、金融業者は買占め人だ。権力をにぎった盗賊達といえども、もし国民公会のある派閥に支持されなければ、われわれを攻撃しようとはしないはずだ」。

ママンは兵士あがりの革命家で、ヴェルサイユ行進、九月二日の虐殺に大きな役割を果した人物であった。

同じころ、一人のジャコバンクラブ員がジロンド派を攻撃した。ジロンド派のブルジョア政治よりは、まだ旧体制の貴族政治の方がましであるといういい方で、当時の下層民の革命にたいする幻減を表現している。

「ブリッソの徒はなにをしようとしたか。彼らは金持、商人、大財産家の貴族政治をうちたてようとしたのである。これらの人間が人類のわざわいであり、自分のことしか考えす、利己主義と欲望のためにすべてを犠牲にするような人間であることに気づかせようとしなかった。もし私に選ぶことができるならば、旧体制の方を取りたい。貴族や僧侶は多少の人徳があったが、これらの人間はそれすらも持ちあわせていない」。

こうした批判攻撃の高まりに応じて、ジロンド派とモンタニヤールはしだいに意見の相違を深くしていった。

ジロンド派は商業の絶対的自由を堅持し、最高価格を要求する運動は、断固として弾圧せよという主張をくりかえした。モンタニヤールは、こうした運動には反対しながらも、非常事態であることを認め、部分的にでもその要求を受入れて、譲歩の政策をうちだそうとした。

まずマラが、極端な買占めをおこなった商人を裁く目的を含めて、革命裁判所を設立することを提案した。これをダントンがとり上げて、三月一〇日、国民公会に提案し、革命裁判所が設立された。マラとダントンの提案は、過激派の主張よりは穏健なものである。しかし過激派の運動は名もない民衆の運動であり、弾圧してしまえばそれまでであると思われている。

マラとダントンの提案は、たとえひかえめなものであったとしても、とにかく議員として発言され法律として成立し、効力を発するものである。全国の商人、とくに買占めをおこなっている者はこれに恐怖した。マラが悪魔のようにいわれはじめ、マラの政策を支持する者をマラチストと呼ぶようになり、ジャコバン派を意味するようになった。ジロンド派はマラを攻撃して過激派の一味とみなし、二月二六日の騒動の責任者として告発した。

しかし国民公会で多数を取ることはできなかった。


穀物最高価格制の決定

時がすすむにつれて、ますます危機が深刻になり、モンタニヤールはしだいに過激派の主張に近づいていった。

三月二六日、ヴァンデーの暴動を鎮圧するために派遣されたモンタニヤール議員ジャンボン・サンタンドレは、平原派議員の中心バレールにたいして、革命に貧民をひきつけるためには、貧民を生かさなければならず、革命への情熱を高めるためには、非常手段を取る以外にないと書いた。それは、穀物を公定価格で強制的に買上げ、公共の倉庫に貯蔵し、貧民の食料にあてるというものであり、ひと月前に過激派が主張したのと同じものであった。

四月に入ってデュムーリエ将軍の反逆があり、にわかに危機感が高まると、過激派のヴァレルが革命的中央委員会を組織して、パリコミューン検事ショーメットと協力し、最高価格制への運動をすすめた。

四月一八日、パリ周辺の市町村代表が集まり、危機をのりこえるためには最高価格制以外にはないと結論をだし、パリの県知事ルリエを代表者として、国民公会に最高価格制を提案させた。ジロンド派では、ビュゾ、ヴェルニョーが激しく反対した。モンタニヤールの側では、ロベスピエールが支持した。

四月二五日から五月四日まで激論がつづき、ジロンド派のバルバルーが強硬に反対した。しかし、平原派の多数が賛成にまわり、五月四日、穀物の最高価格制が決定された。ジロンド派は屈伏し、ビュゾは、やむを得ず非常手段として受入れると声明した。

ここまでの経過をみると、最高価格制の問題は、ジロンド派とモンタニヤールを区別する根本的な要素ではないことがわかる。最高価格制には両派ともに反対である。過激派だけが、それをはじめから主張していた。二月には、モンタニヤールはこれを正面から非難していた。モンタニヤールが賛成にまわったのは、そののち危機が深刻化して、これを採用しなければ、下層民が革命から離れるという認識をもったためである。それは、政治的配慮からくるものであった。

その段階では、ジロンド派は政治的配慮なしに、真向から反対していた。そして過激派の主張が、ついにパリ周辺の市町村代表を通じて県知事までを動かすにいたったとき、モンタニヤール議員も、平原派の多数も賛成にまわったのである。そのときにも、まだジロンド派は断固反対していた。国民公会の票決にやぶれると、これを非常手段として認めた。

結局、原則的には反対だが、非常手段としては認めるという点ではすべて一致している。原則から非常手段に移る時期の判断が、それぞれにおいてずれていただけである。この問題だけならば、ジロンド派の追放という事態はおきなかったはすである。ジロンド派追放以後に最高価格制が成立したと書く本もあるが、実はジロンド派追放以前に、すでに最高価格制が法律としては成立したのである。

 

要約  第四章 ジロンド派の時代 三 敗戦とジロンド派の後退

17933月、約半年間のジロンド派全盛期の後、ベルギーで大敗北しながら、イギリスとの戦争が始まった。これは、戦争を指導するものとしては、無茶苦茶なもので、あとで責任を追及されるのは当然のことになる。ただし、フランス革命史の中では、誰もそのことを追及しない。イギリスの参戦は、ツーロン、ブレストの二大軍港の占領、洋上での輸送船、商船の撃沈を招き、被害甚大なものがあった。この後者の効果を言う人は少ないが、これは食糧不足を招き、フランス革命に激烈な様相を作り出した。ジロンド派は、フランスの敵が増えるということは、自由の敵が増えるということだと、威勢のいいことを言っていたが、結局は我が身にも降りかかってきたというべきである。

デユムーリエ将軍の敗北、裏切りは、ジロンド派の没落に絡んで重大な事件ではあるが、今一つ理論的にすっきりと説明がつかない。貴族将軍、最初、勝ったので、絶大な名声を得た。それを背景に、大規模な腐敗、汚職事件を引き起こした。その関係者の名は本文に出てくる。その結果、軍隊の士気の低下、戦闘能力の急減を起こした。そこで負けた。そうすると、敵の将軍と話をつけて、パリを急襲し、国王夫妻を救出する計画を実行しようとした。失敗して逃亡した。大体こういう筋書きで理解すればよい。注目すべきは、この時逃亡した人物に、オルレアン公爵ルイ・フィリップがいることである。この人物は、後に7月革命で国王になった。つまり自由主義的大貴族、王族、革命軍の将軍の取り巻きになる。負けると、パリ襲撃、国王夫妻の救出に加担し、逃亡、約40年後に革命で国王になった。フランス革命にはこういう一面もある。

もう一つ重要な論点として最高価格制がある。多くのフランス革命史で、ジロンド派の追放を引き起こした原因が最高格制にあるとされてきた。しかしそうではないのだと私は言っている。はじめのころは、モンタニヤール議員でも、「それは過激だ」という意味で反対していた。今の日本人ならば、「まあ仕方がないか」くらいで賛成する。実際、ジロンド派議員も、最終的には賛成した。だからこの問題は、ジロンド派追放の原因にはならない。原因は別にある。

 

17-フランス革命史入門 第四章の二 国民公会の招集

二 国民公会の召集


国民公会の派閥

九月二〇日、ヴァルミーの会戦と同じ日に、パリでは国民公会が召集された。国民公会の議員は七〇〇名を越え、これがジロンド派とモンタニヤールと平原派の三大勢力にわかれた。ジロンド派は約一六五名の議員でまとまり、モンタニヤールは約一五〇名であった。中間の平原派が約四〇〇名であった。

ジロンド派とは、ジロンド県(県庁所在地はボルドー)から来た議員がはなばなしく活躍したので、その県の名前が派閥の名前になったものである。しかし、ジロンド派議員必ずしもジロンド県代表の意見どおりには動かなかった。せいぜいのところ、全国各地から集まる同じ傾向の議員の集合体であった。

モンタニヤールはモンターニュ派、山岳派とも呼ばれる。この一団の議員が、議場の高くなっている席に陣取ったから、その他の議員が彼らを見上げて、山にいるという意味であだ名をつけた。モンタニヤールとジャコバン派は混同される場合が多いので、正確にそのちがいを指摘しておかなければならない。

ジャコバンクラブは、これ以前から議会外の団体として続いており、はじめは、フイヤン派にもジロンド派にもこのクラブに参加するものがいた。国民公会が召集されたときでも、ジロンド派議員の多くがジャコバンクラブのメンバーであった。しかも一〇月一〇日までは、まだジロンド派議員がジャコパンクラブの指導権をにぎっており、ジャコバンクラブの議長はジロンド派議員のペチョンであった。その意味では、国民公会の召集から二〇日間は、ジャコバンクラブはジロンド派とモンタニヤールの両方を含むものであった。

一〇月一二日、ジロンド派指導者のブリッソがジャコバンクラブから除名された。これに続く内紛により、ジロンド派議員とその支持者がジャコバンクラブから脱退した。これ以後、ジャコバンクラブはモンタニヤールだけの支持団体となった。モンタニヤール議員は、積極的にジャコバンクラブでの討議に参加し、これを指導した。

ただし、あくまでジャコバンクラブは議会外の団体であるので、一般に使われる「ジャコバン派独裁」という言葉は、適当なものではない。ジャコパンクラブは権力機関ではなく、院外団体であるからだ。強いていうならば、モンタニヤール独裁というべきである。ただし、後にも説明するように、私はモンタニヤール独裁というものもなかったといいたい。

モンタニヤールとジャコバン派がまったく同一のものであるかというと、そうではない。有力なモンタニヤール議員の中に、ジャコパンクラブに加盟せず、その会議にも出席したことがない者がいる。それからみても、恐怖政治をジャコバン派独裁と呼ぶことは正しくない。

ジロンド派も小高い席に陣取り、その両派の間にはさまれた形で、中央の低い議席に、平原派議員が坐った。

ちょうど真中の平たい所という意味で、平原と名づけられた。また、沼地のように低い所という意味で、沼地派、沼沢派(マレ)ともいわれた。一人一人の議員が派閥を作らず、その時その時によってジロンド派やモンタニヤールに投票した。はっきりと自分の意見を発表する議員もいたが、保身の術を使い、重大なときに自分の意見を発表しない議員もいた。

その態度があいまいだというので、ジロンド派、モンタニヤール双方から批判されたときもあるが、数からいうと断然多いので、その票をどちらの側に獲得するかは、決定的な問題であった。「沼沢派の蛙」と馬鹿にしながら、その投票によって、まずジロンド派が孤立して没落した。平原派がモンタニヤールに投票している間は、恐怖政治が続いたが、やがてモンタニヤールは平原派と対立し、最終的にはモンタニャールが消滅して、平原派議員だけがのこった。

その後、彼らの手で恐怖政治が廃止されてしまう。その意味では、平原派こそが、フランス革命を一貫して生き続けたということができる。ほとんどのフランス革命史が、この平原派の役割を低めて、ジロンド派とジャコバン派で説明をしているが、これでは表面だけにとらわれて、内面を見ないことになる。本書では、平原派の役割を正当に評価しながら、これ以後の政争について解明していこうと思う。


ジロンド派指導者

ジロンド派は、ごく大ざっぱにいうと、大商人と銀行家の利益を代表した派閥であり、農村では大土地所有者の性格をもっていた。ただし、ジロンド派だけがこれら上層ブルジョアジーの利益代表者であったというわけではない。後でくわしく分析することになるが、平原派もまた、上層ブルジョアジーの一部分を代表する議員が多かった。

八月一〇日で打倒されたフイヤン派も、最上層のブルジョアを代表していた。フィヤン派とジロンド派のちがいは、領主的性格、特権的性格、寄生的性格のちがいであった。つまりは、ブルジョアジーの上層でありながら、貴族的性格の強かったものがフィヤン派であり、ジロンド派は、それの性格のうすい、ブルジョアジーそのものを代表していた。

ただし、のちに平原派とのちがいがでてくることを考え合せるならば、ジロンド派には、大商人、銀行家が多くても工業家が少なく、商業も消費物資に関連するものが目立っている。これが恐怖政治のときにどのような意味をもつかは、おいおいあきらかになるだろう。

ジロンド派の名がついたのは、ボルドー出身の議員がはなばなしく活躍したからである。ジャンソネ、ヴェルニヨー、ガデ、デュコ、ボワイエ・フォンフレード、グランジュヌーヴらであった。ボルドーの弁護士が多いが彼らを支え、また彼らと血縁関係で結ばれている者がボルドーの大商人、とくに貿易業者であった。

ボワイエ・フォンフレードは大船主でドミニカに農園をもち、同じく、ボルドーの大貿易商人ジュルニュの娘を母にもち、弟が織物の大工場主であった。デュコもボルドーの大商人で、ボワイエの義兄弟であった。ガデとグランジュヌーヴが弁護士で、ヴェルニヨーはボルドー高等法院議長の秘書、ジャンソネは医者の子で法律を勉強したが、革命まではまだこれといった職についていなかった。

パリのブルジョアジーを代表する者は、ブリッソとクラヴィエールであった。それぞれ大臣になった。また、ジロンド派議員はパリで特定のグループを作っていた。大商人ビデルマンの邸宅にはクラヴィエール、ペチヨン、ブリッソが集まった。インド会社理事ドダン夫人の邸宅には、ヴェルニヨーとデュコが部屋を借り、ここにブリッソ、クラヴィエール、ジャンソネ、ガデ、コンドルセなどが集まり、議会での対策を打ち合せた。

内務大臣ロランの夫人のサロンには、ブリッソ、ビュゾ、バルバルー、ガデ、ジャンソネ、ルーヴェなどが集まった。

ロランはリヨンを足場にしていた。法服貴族の父と貴族の母をもち、領地をもっていたが、マニュファクチュア検査官になってリヨンの商工業者の気分を知り、革命派となった。パリの彫刻家の娘と結婚した。はるか年下の妻であったが、ロラン夫人は美貌と才能の持主で、この時代社交界の花形となり、ジロンド派指導者にたいして影響を与えた。

マルセイユ地方を根拠地にしたジロンド派議員は、バルバルー、ルべッキ、デュプラ、マンヴィエーユであった。バルバルーはマルセイユの貿易商人の子で、ルべッキと親友であった。ルべッキはマルセイユのリキュール製造人、貿易商人であった。デュプラはマルセイユの絹商人であり、マンヴィエーユはアヴィニヨンの絹商人であった。

ジロンド派には、二人の有名な貴族が参加していた。一人は思想家として有名なコンドルセであった。彼は侯爵といわれているが、古文書では騎士の家系であるともいわれている。正式の侯爵であるかどうかは、ややあいまいである。彼は、ヴォルテール学派の大学者として有名であった。国王の逃亡のときにすでに共和制を主張し、シャン・ド・マルス事件ではラファイエットと対立し、国民公会では書記の一人に選ばれた。このとき、「ヴォルテール学派の偉人」が国民代表に選ばれたという讃辞が送られている。

フランス革命の第一段階がモンテスキューの思想に一致し、ジロンド派の時代がヴォルテールに一致し、つぎの段階がルソーの思想に一致するといわれているが、そのヴォルテールを代表する学者政治家であった。ただし、本人はどの党派にも属さないといって、ある程度の独立性を保った。ジロンド派が追放されたのちも、平原派のシエースとともに『社会教育新聞』を発行したが、結局はジロンド派の一員として処刑されることになる。

もう一人の貴族はイザルン・ド・ヴァラデイ侯爵である。これは名門の貴族であったが、国民公会でジロンド派と行動を共にした。ジロンド派と対立していたにもかかわらず、ジロンド派とみなされて追求された貴族に、シルリー侯爵(別名ジャンリ伯)がいる。彼も名門貴族で、叔父はルイ一五世の外務大臣をしたビイジュー侯爵であった。しかし国民公会の議員となり、ジロンド派と混合していた。彼はオルレアン公爵やジロンド派系のデュムーリエとの関係が深く、デュムーリエの反逆に関連して告発されることになる。


パリコミューンの打圧

一七九二年の末までは、だいたいにおいて平原派議員がジロンド派の側に投票していた。そのため、ジロンド派は与党であり、モンタニヤールは野党となっていた。国民公会がそのような状態になったから、パリコミューンと国民公会との対立もジロンド派の側に有利な方向で解決された。危機のときには、首都の権力を動かすかのようにみえたパリコミューンは、不利な立場に追込まれた。

九月一八日、パリコミューン総会が監視委員会に逮捕者のリストの提出を命じ、議会だけが人民の代表であり、その他は友人、使用人にすぎないと宣言した。その延長として、パリの関門を開き、取引所の再開を認め、囚人の生命の安全を保証した。九月二二日、パリコミューン総会は監視委員会の罷免を決定した。

このとき、エベールがマラを非難し、マラと監視委員会のメンバーが勝手に警察権を行使していると批判した。マラもこの日、自分の新聞に「これから新しいコースをとる」と予告して転向をにおわせた。敗戦の危機が去り、国民公会が召集され、人心が落着くと、今度は行き過ぎが批判の的になった。

国民公会の最初のころは、パリコミューンにたいする批判が最大の議題になった。とくに、九月二日の虐殺のときに、パリコミューンがブリッソの家宅捜査をおこない、ロラン、ペチヨンなどジロンド派幹部を逮捕しようとしたことについて、激しい攻撃がおこなわれた。こうした圧力により、パリコミューンは一一月二五日、改選させられた。このとき、ジャコバンクラブは反対せず、コルドリエクラブだけが反対した。

ただし、常にジロンド派が勝ったというわけではない。九月二五日、ジロンド派が連邦案を提出した。ジロンド派指導者は、八月一〇日と九月二日で発揮されたパリ市民の力をおそれた。ジロンド派の何人かは、あたかも自分達がパリ市民の奴隷になっているかのような思いを表明した。そこで、パリの役割を低め、フランスを連邦制に改組することを狙ってこの案を作った。当然、マルセイユやボルドーの地位が高められることになる。

しかし強国に囲まれているフランスが、そのような制度を戦争の時期にとるならば、フランスの自滅を招くかもしれない。ジロンド派の連邦案は、自分達の利害と執着を優先してフランス共和国の安全を脅かすものになった。このとき、平原派議員はモンタニヤールと同調して反対し、ジロンド派は破れた。のちにジロンド派の反乱が連邦派(フェデラリスト)の反乱と呼ばれる理由である。

この事件をみると、ジロンド派が常に優勢であったというわけでもなく、平原派が常にジロンド派に同調していたわけでもないことがわかる。平原派はそれなりに独自の原則をもっており、パリコミューンの抑圧には賛成

だが、連邦制には反対であるという立場をはっきりと表明している。

平原派を単なる日和見主義者と考え、受動的な人間ばかりだと思うと、国民公会の本質を見誤まる。彼ら平原派議員は、まとまった党派を組まなかったために歴史の表面には登場しないが、一人の議員としてみるならば、

それなりの原則があり、ときには勇敢でもあった。必ずしも、強い方になびくというだけの存在ではなかった。


政治的安定

一七九二年九月二〇日から年末までは、戦争は外国でおこなわれていて危機感はなく、経済的混乱もなく、したがって政治的安定が再びおとずれた時期であった。誰も、このつぎに恐怖政治が来るなどとは想像することが

できない。このままの状態で、過ぎていくと思ったであろう。マラすらも穏健な路線に転向したのである。

ジロンド派政権は自信をもって統治したから、フイヤン派系のブルジョアや貴族が帰国するのをあえてとがめず、とくに、同じブルジョアジーの仲間として、彼らの経済活動については安全を保障した。そのため、八月一〇日以後亡命したり身を隠していたブルジョアや自由主義貴族が、一〇月以後あいついで帰国し、もとの状態にもどった。

たとえ政治的に敗れたとはいえ、フイヤン派系のブルジョアや貴族は依然として大財産家である。とくにブルジョアとは、日常の取引で利害関係の共通する部分がある。ジロンド派議員は、そうした部分と積極的に結びついた。彼らがインド会社理事ドダン夫人の邸宅に集まったこともそれを示す。インド会社の特権を打破することには熱心であったが、特権を打破してしまったあとは、やはり大会社としての力を利用しようとするのである。


財政問題

この時期、財政の実権は、クラヴィエールと国民公会財政委員会議長カンボンの手にあった。カンボンはモンペリエの大商人で、地方的ブルジョアを代表しているが、平原派議員であり、恐怖政治のときも一貫して財政委員会議長の職にあった。彼の動向が、平原派の動向の一つのモデルとなっている。

この時期、彼はジロンド派と同じ政策を主張していた。それは、赤字財政を埋めるためにアシニアの増発に頼ることである。一一月の財政収入は二八〇〇万リーブル、財政支出は一億三八〇〇万リーブルで、赤字は一億一〇〇〇万リーブルであろうと予測された。収入にくらべて巨額の赤字である。しかし、カンボンはアシニアの増発に頼り、財政収支の根本的解決案を採用しようとはしなかった。

せいぜいのところ、礼拝予算の廃止、すなわち僧侶にたいする俸給の支払停止を要求しただけである。しかしそれにたいしては、かえってモンタニヤールの側から反対がでた。一一月一四日、バジールが「人民はまだ宗教を愛している。この法令を許すと、狂信をよびおこし流血は計りしれない」といって反対した。また、モンタニヤールの議員は、財政収入を改善するために新税の設置とか、公債の発行などいくつかの案を提出したが、この段階では問題にされず、カンボンとジロンド派の政策がすすめられた。アシニアの増発は、やがてインフレを激化させ、つぎの社会問題の火種を作ることになる。

同じ財政問題でも、ジロンド派が、平原派、モンタニヤールを含めたグループと対立した事件もある。それはこの時点での英雄デュムーリエ将軍をめぐる不正取引であった。陸軍大臣パーシュが、テュムーリエ将軍と前任の陸軍大臣セルヴァンの不正取引を暴露した。

デュムーリエは一連の御用商人と軍需物資の調達契約を結ぶとき、普通の御用商人の二倍から三倍の価格で支払い、その返礼としてわいろを受けとっていた。その御用商人の中に、デスパニヤック、ファーブル・デグランチーヌがいた。デスパニヤックは貴族高級僧侶でありながら、カロンヌ財務総監の取りまきになって投機をおこない、巨大な利益をあげた。いわば、旧体制の貴族とブルジョアを抱き合せたような人物であるが、革命に参加し、ジャコバンクラブの書記になり、ダントン、カーミュ、デムーランなどの革命家と親交を結んだ。戦争がはじまると、軍隊の御用商人となり、八月一〇日以後ダントンの仲介で陸軍大臣セルヴァンに接近し、有利な契約を結んだ。

ファーブル・デグランチーヌは旅芸人、劇作家であったが、革命とともにコルドリエクラブの活動家となり、八月一〇日の武装蜂起に参加し、ダントンが大臣になるとその秘書になりながら、同時に、軍隊の御用商人をはじめた。革命を利用して一攫千金を夢みた人物の一人である。そのほか、数多くの不正取引があり、これが財政赤字の大きな原因になった。

一一月一日、カンボンが演説し、彼ら御用商人の略奪行為が、「アンシャン・レジームの時代よりもさらに悪い」と弾劾した。同じく平原派議員で財政委員のドルニエがデスパニヤックの取引を調査し、彼が他の御用商人の二倍から三倍の支払を受けていることを暴露した。ドルニエの報告を、カンボンとモンタニヤール議員のジャンボン・サンタンドレ(恐怖政治の公安委員)が支持した。こうして、デスパニヤックを中心とした不正取引の御用商人と軍隊の支払命令官が逮捕された。

ところがジロンド派は将軍達と対立することを好まなかった。デュムーリエ将軍が抗議のために辞職を申し出たところ、ジロンド派がデュムーリエの味方をした。これに、ダントンを中心としたのちのダントン派議員チュリオ、ドラクロワ、ルコワントルなどが賛成し、結局ジロンド派の線で妥協が成立し、ダントンがベルギーに派遣された。派遣されたダントンは、デュムーリエ将軍をなだめて現職に留まらせるだけであり、デスパニヤックの不正取引は破棄されすに放置された。

この事件は、ジロンド派と平原派の中のダントン派の連合が御用商人と結びつき、国民公会の反対派、すなわちカンボン、ドルニエ(平原派)、モンタニヤールの勢力を押えつけたものである。恐怖政治の段階でこれが逆転し、やっと不正な契約が破棄された。この不正取引は、つぎの敗戦の原因として重要である。なぜなら、御用

商人が契約通りの物資をおさめないので、軍隊の食料、衣服、軍需物資が劣悪になってきた。そこで、義勇兵は

嫌気がさして故郷に帰った。彼らは自由に帰国できたのである。こうしてフランス革命軍の戦力が低下した。


穀物商業の自由をめぐって

殻物商業の自由は、ジロンド派とくに内務大臣ロランの主張であった。八月一〇日から九月二〇日にかけて、プロシア軍を迎え撃つために、軍隊への食料供給をめぐって穀物商業の自由が間題になった。なにしろ非常事態のときであるから、食料確保のためには非常手段をとらなければならない。九月四日、そのために穀物の強制買上げと公定価格を認める命令がだされた。ただし、これにはロランの署名がなかった。

九月一六日、穀物の徴発を地方行政当局に認める法令がだされた。こうして、戦線に近いところで穀物の強制徴発が実施された。このとき、倉庫を検査されたり穀物を公定価格で徴発された被害者は、農村の富農(大土地所有農民)、大借地農(大フェルミエ)、商人地主など一口にいえば農村の大土地所有者であった。もちろん、大きな直領地をもつ貴族もそれに該当する。

彼らは穀物を隠したり、先を見越して買占めたりしてこれに対抗したので、食料事情はかえって悪くなった。徴発された穀物が正しく分配されるならば、それほど大きな間題は起きなかったはすである。しかし徴発した側にも不正をおこなうものがいて、横領したり横流しをする者がいて、徴発政策を混乱させた。そのため、穀物の消費者の側からの不満も高まった。

この事態をとりあげて、ロラン、ブリッソ、コンドルセなどが穀物商業の絶対的自由を宣言した。ところが、こうしたジロンド派の動きにたいして、買占めを防止し、公定価格、強制徴発を強化するべきであるという意見がパリコミューンの指導者からだされた。彼らは、八月一〇日から九月二日にかけての非常手段を強行した者である。ジロンド派の主張する方向は、買占めを許すことによって、ブルジョアジーや大土地所有者を太らせることになると考えたのである。一一月一六日、ショーメットはパリコミューン総会で発言した。

「土地所有、穀物と食料に関するすべての所有は、条件付の所有である。その本来の所有者は消費者である。これらのものは、全体として共和国に属する。所有者は保管者、交換者にすぎない。もし貪欲のために、彼が全体に属すべき自然よりの賜物を倉庫にねむらせるならば、これは犯罪である」。

一一月二九日、パリコミューン総会とパリの各区の合同会議は、生活必需品の公定価格を要求し、ブルジョアジーが、アンシャン・レジームの貴族階級にとってかわって、人民を餓死させようとしているといった。

「富める資本家の同盟が、土地と産業のすべての資源を独占しようとしている。・・・・・・新しい貴族階級は、旧貴族の残骸の上に成長し、金持達の悪運強い上昇が起こっている。商業会社、金融業者はチュイルリーの暴君と同盟し、飢えによって人民を殺し、専制政治を再建しようとしている。革命は成功した。もはや革命は必要でない。

議会は入市税を廃止し、住民は生活条件を改善できるはずであった。しかし、議会が商業の自由を布告したため、その恩恵はなくなった。公安の名においてわれわれは諸君に要求したい。当局が生活必需品の価格設定の権利を再設することを」。

これにたいしてロランは、穀物の強制徴発や買占め攻撃の運動が、大土地所有者や普通の農民をおびえさせて、穀物が市場に現われないようにしたのだと批判した。せっかく小麦をパリにむけて送ってきても、パリコミューンの主張する運動によって、小麦の到着が妨害されるといった。ロランの主張によれば、パリコミューンの運動が穀物の姿を消させ、かえって食料危機を招くというのである。この主張に、平原派議員の多数が賛成した。

その結果、一二月八日、国民公会がロランの意見を取入れた法令を可決した。九月一六日の法令、すなわち穀物徴発の許可を定めた法律が廃止された。国内における穀物商業の絶対的自由を確認し、穀物の流通を妨害したり、妨害を煽動したりした者は死刑にするというものであった。このとき、モンタニヤールの議員は積極的に反対しようとはしなかった。ただ、条件をつけて承認をした。

それは、国家が危機に瀕したとき、強制徴発、強制買上げもやむをえないという立場と、人民の生存権を守るためには、穀物商業の統制が必要であるというものであった。こうした意見をモンタニヤールの議員が唱えたが、それにしても、ロランの方針にたいして、全面的に反対だというものではなかった。

こうした微妙な相違が、翌年に入って、食料危機をめぐる態度の相違へと発展するが、さしあたって、この時期は、国民公会全体が商業の統制や徴発政策に反対であり、これを主張したのは、議会外の活動家の一団であった。この系譜は、のちの過激派へと発展する。穀物商業にたいする態度についてまとめると、つぎのようになる。

ジロンド派は絶対的自由を主張する。過激派は厳格な統制を要求する。モンタニヤールは自由を承認するが、非常事態のばあいは別だという留保条件をつける。平原派は、一七九二年の末にはジロンド派の側に立ち、翌年の五月にはモンタニヤールの側に立つ。そのモンタニヤールも、翌年の五月には、非常事態を認めて過激派の主張を採用した。こうして、一七九三年五月四日、国民公会はジロンド派の反対を押し切って、最高価格制を布告することになる。


戦争拡大論の定着

フランス側が優勢であった戦争は、一七九三年に入ると逆転した。逆転した理由はいろいろあるが、まず御用商人の悪徳行為のために、軍隊の食料事情、待遇が悪くなり、士気が低下し、義勇兵が減少したためである。

第二に、フランスの敵国が増えたためである。まっさきに敵国の側に立った強国は、イギリスであった。イギリスは、フランスに先がけてピューリタン革命と名誉革命をおこない、立憲君主制のもとで、ブルジョア支配の体制を維持していた。そのため、フランス革命を、はじめのうちは歓迎した。自国と同じ状態の国家がフランスにできることについて、好意的な目でみていたのである。そこまでは、絶対主義にたいするブルジョア国家同士の親近感が優先していた。

ところが戦勝に気をよくしたフランス革命政府は、しだいに征服政策、膨張政策をすすめ、これを一種の世界革命論的なイデオロギーで正当化した。その結果、一一月一九日、諸国民の解放戦争を支持するという声明をだし、一一月二七日にはサヴォワ領をフランスに合併した。

一一月一六日には、ベルギー領を流れるエスコー河の航行の自由を宣言し、フランスの艦隊を入れた。これは、長年守られていたオランダの中立にたいする脅威になった。オランダの利害は、そのままイギリスの利害であり、イギリスは、オランダをフランスが征服することにたいしては我慢がならなかった。こうして、フランスとイギリスの間は険悪になり、イギリス側からの経済制裁がおこなわれ、戦争へすすんだ。イギリスのピット首相は、フランスの側から宣戦を布告するよう仕むけた。

こうして、一七九三年二月一日、ブリッソの提案で、国民公会はイギリスとオランダにたいして宣戦を布告した。ただし、戦争問題に関しては、必ずしもジロンド派対モンタニヤールの図式ができたわけではない。はじめのころは、これほど目ざましい勝利が続くとは思っていなかったので、ジロンド派といえども占領地を維持し、ここに反封建の革命を起こさせながらフランスに合併する政策は、冒険のように思われた。

ジロンド派のラスルス、ルーヴェなどは、外交委員会で占領に反対した。しかし同じジロンド派のクラヴィエールは、積極的に領土を拡大することを主張した。当時平原派にいたダントンとドラクロワは、占領地から国王を追放し、自由を実現するという名目のもとに、積極的に革命を国外に拡大することを要求した。

同じく平原派にいたクローツは、一種の世界革命論的な理論から、ドイツにむかって進撃することを主張した。

クローツはドイツから亡命してきた銀行家であり、同じくドイツ系銀行家プロリやワルキエなどとともに、革命を自分の故郷にまで広めようとしたのである。そうすれば、彼らは勝利者として帰国できる。クローツもダントンも、しだいにモンタニャールに接近し、ジロンド派から離れていく。

モンタニヤールでもジャコバンクラブでも、戦争の問題は分裂していた。ジャコバンクラブでは、ロベスピエールが戦争の継続に反対し、軍事作戦をあるところで止め、外国の反革命勢力との闘争にまきこまれないよう主張した。貴族出身のデュボワ・ド・クランセは、積極的な征服論を展開して対立した。戦争が調子よく進むとモンタニヤールの中でも、戦争反対論を強調する根拠が見失われた。

ジロンド派の征服反対論者も、反対論を展開する機会を失った。国民公会からだされたのが、ヨーロッパ諸国民の自由のための闘争を軍事的に支持するという声明であり、事実上の解放戦争の宣言であった。この提案をおこなったのは、ラ・ルヴリエール・レポーである。戦局が苦しいときは慎重論がそれぞれの派閥の中にあったが、戦局が有利に進みはじめると、戦争拡大論が人心を捕えた。ジロンド派の反対論者もモンタニヤールの反対論者も押し切られ、時の流れに流されたというべきであろう。

ルイ一六世の処刑のためスペイン王国との関係が緊張した。一七九三年三月七日、国民公会で平原派のバレールが、「フランスにたいしてもう一つ敵国ができることは、自由の勝利がもう一つ増えることにすぎない」と演説し、熱狂のうちに、スペインにたいする宣戦布告を可決させた。ブルボン王家の支配するナポリ王国が、フランス共和国の大使を拒否したところ、国民公会はフランス艦隊を派遣して屈伏させた。このようにして、自信をもったフランス共和国は、ヨーロッパの強国を軒並み敵にまわし、第一次対仏同盟をつくらせたのである。


国王の裁判をめぐって

この間に、ルイ一六世の裁判が国民公会で進行した。これは重大な問題であったので、長い討議と一人一人の議員の指名点呼による票決をおこなった。最終的に三八七対三三四の少差でルイ一六世の無条件死刑が決定された。王の無罪を主張する者はいなかったが、王の命を助けようとする者は、死刑に条件をつけたり、禁固刑を主張したり、国民公会の決議ではなく人民の投票にゆだねるべきであるという意見をもって、処刑の引きのばしをはかった。

この問題で公会議員の性格がある程度あきらかになる。のちに議員の伝記ができたときは必ず処刑派か人民投票派かが書かれることになる。国王の処刑については、モンタニヤールが積極的に主張し、ジロンド派の多数が反対し、平原派の議員は二つに割れた。ただしジロンド派の中にも死刑を主張した者がいる。イスナール、バルバルー、ジャンソネなどである。そのため、国王裁判についての態度は、ジロンド派とモンタニヤールを分ける指標にはならない。

ルイ一六世は、一七九三年一月二一日、ギロチンにかけられた。ルイ一六世が有罪とされるにいたったもっとも大きな根拠は、チュイルリー宮殿の秘密の押入から発見された書類である。ここに、作戦計画をオーストリア側に内通していた証拠書類がみつかったのである。

この秘密の押入は、国王出入りの錠前屋ガマンに作らせた。そのあと、国王夫妻がタ食をごちそうした。ガマンは家に帰って、猛烈な下痢をしたという。彼はこれを毒殺の計画であると考え、そのまま姿を消していた。王権が転覆されてから、復讐のために、この秘密の押入のありかを国民公会に通報したのであった。 

要約 第四章 ジロンド派の時代 二 国民公会の招集

この節の最も重要な要点は、国民公会の派閥を正確に把握することである。いわゆるジロンド派、これに対立するモンタニヤール(山岳派、モンターニュ派、通称ジャコバン派)に加えて、中間派(中央派、平原派、沼沢派)があること、概算、中央派が400名、左右がそれぞれ約150名と整理する。(ジロンド派が多少多い)。歴史の新興の具合をまとめると、まずジロンド派が追放され、20-30名が死刑になった。一年後に10人のロベスピエール派が死んだ。そのあと、ジロンド派の生きのこり約7080名が復帰して、モンタニヤールを消滅させた。ただしモンタニヤールの十数名は転向して、政権にとどまった。このような形で、フランス革命は進行した。だから、中央派の400名は、いかなる時でも、万年与党であった。これを主張することが、私以前の歴史家と違うところです。

通説では、ジロンド派がブルジョアジーの党派と言われるが、そうではなくて、平原派も同じだという。業種別、その他の事情で、支持する党派が違ってくる。従来のフランス革命史では、ジロンド派だけを取り上げて、ブルジョアジーの党派だとした。ここに間違いがあった。もちろん、ジロンド派という呼び名も間違いだということ、これは私が繰り替えぢ書いているが、今はこう書くしかないので、私も書いています。

1792920日から年末までは、つかの間の安定があり、過激な人も穏健派に転向した。こういう時期もあったと、公平に見ようという努力をしている。

戦争問題についても、私独自の見解があります。フランス革命の致命的欠点は、イギリスとの戦争へと拡大したことにある。拡大しないために、オランダに脅威を与えないこと、これを守るべきであった。そうすれば、フランス革命の成果を維持できたはずだというのが私の見解です。


16-フランス革命史入門 第四章の一 ジロンド派の時代

第四章 ジロンド派の時代


一 敗戦から勝利へ


ジロンド派による改革

八月一〇日の武装蜂起が勝利した結果、ジロンド派権力が復活した。内務大臣ロラン、大蔵大臣クラヴィエール外務大臣ルブラン、法務大臣ダントン、陸軍大臣セルヴァン、海軍大臣モンジュ(数学者)の顔ぶれであった。このうちジロンド派の性格の強い者はロラン、クラヴィエール、ルブランである。ダントンは、のちに山岳派へ移行するから、ジロンド派とつねに行動を共にする人物ではなかった。モンジュは有名な学者であり、独立した行動をとる人物であった。このため、新内閣はジロンド派一色にぬりつぶされていたというわけではないが、ジロンド派の指導権のもとにあった。

すでに王権が停止されているから、新内閣を国王が任命するわけにはいかなかった。三権分立の原則が重視されていたので、新内閣の閣僚は議会外から選ばれた。しかし、閣僚の承認は、国王にかわって議会がおこなうことになった。このため、行政権は立法機関に服するような形になり、この傾向がしだいに強められて、恐怖政治の頃の公安委員会、保安委員会の権力へと発展する。

さしあたり、フイヤン派が打倒された直後であったから、フウヤン派との争点になっていた問題は解決された。クラヴィエールの主張していた一万リーブル以上の国庫債権の切捨てが実行された。これによって、財政状態がある程度改善された。領主権については、無償廃止が正式に布告された(八月二五日)。八月二六日トリアージュ(共有地の三分の一を領主が囲い込む権利)によって没収された共有地を、無償で取り返すことができる法令が成立した。この二つの法令で、階級としての領主は完全に消滅した。

領主権が完全に消減させられた理由はいくつかある。まず、亡命貴族が大領主であったため、彼らの足もとをとり払う必要があった。しかし、もしこれだけのことであれば、イギリス革命のときのように、領地そのものの没収売却という手段がありうるはずである。そうした事態を作らずに、領主権の廃止にすすませた理由は、他にもある。

一七九二年に反領主暴動が全国各地に発生し、ここに農民からブルジョアや貴族までが参加していた。そのため、領主権に固執しているならば、彼らを敵にまわすことになり、外国との必死の戦争をひかえて、外と内との両方から攻撃を受けることになる。それでは、領主達が革命政権を守ってくれるかといえば、亡命貴族も領主であったから、フランスに残っている領主が、亡命貴族と必死に闘うことはありえない。そうであるとするならば、領主権を無償で廃止して、反領主暴動に参加している群集のエネルギーをひきつけ、彼らを味方につけなければならない。

もう一つ、僧侶財産を国有化し、これを売却して財政赤字を建てなおそうとした。しかし、中・下級僧侶のもっていた土地は領地ではなくて、領主権に服している土地である。これを売ろうとしても、そのうえに誰か領主がいて、領主権を徴収している。こうした場合、この土地はなかなか売れない。そこで、一律に領主権を廃止するならば、この問題がすっきりする。この観点から、領主権の無償廃止に賛成した者もいた。

領主権廃止が実現されると、各地の反領主的暴動が急速に影をひそめた。それだけ、国民のエネルギーを外敵にむけるための条件が作られた。

国有財産(僧侶の土地)を売りやすくするため、八月一四日、これを細分して競売に付する法令が決定された。九月二日、すでに接収されていた亡命貴族財産を僧侶財産と同じく売却することに決めた。亡命貴族財産とは、その領地についていた直営地と、域、館ならびにそれに付属する物であった。これ以後、僧侶財産のことを第一次起源の国有財産と呼び、亡命貴族財産のことを第二次起源の国有財産と呼ぶようになった。

国民議会は僧侶財産を国有化したが、まだそれを徹底していたわけではなく、慈善事業をしていた宗教団体、あるいはいくつかの特殊な修道団体の財産には手をふれていなかった。八月一八日、取り残されていた宗教団体もすべて廃止され、財産は国有化され、宗教団体の公教育は禁示された。こうして、僧侶と領主にたいして徹底した政策が打ちだされた。


立法議会と内閣の弱体化

八月一〇日から九月二〇日、すなわちヴァルミーの会戦と国民公会召集の日までの四〇日の間は、フランスとくにパリの権力は、一種の二重権力の状態にあった。議会と内閣の力が弱体化し、パリコミューンの力がこれを補ったからである。時と場合によって、そのうちのどちらかが指導権を握り、相手の側はこれをくつがえそうと努めた。そのような内部抗争を含みながら、戦争がつづけられた。しかも、外敵は国境を越え、パリの占領を目ざして前進し、正規の軍隊は崩壊寸前で闘わずして退却した。内憂外患のうずまく時期であった。

八月一〇日の武装蜂起は、フイヤン派を打倒したことになるが、同時に、武装蜂起を押え、一種の平和革命で権力の復活を計ろうと試みたジロンド派の動きにも逆らい、これを圧倒したという意味があった。

ただし、それではジロンド派をフイヤン派とともに追放するかといえば、これは不可能であった。なるほど、パリにおける現時点での武力では武装蜂起の群集が強い。しかし、全国の政治動向は別である。ジロンド派の大臣や議員は全国的に知られており、それぞれの地方で強力な支持者をもっている。

これにくらべて、今武装蜂起を起こした者は、パリの無名の人物である。そこで、武装蜂起の側は、その後の政治的収拾をジロンド派の政治家に頼らなければならない。そこで、圧力をかけつつ利用するという立場に引き下らざるをえなかった。

ただし、パリの中においては、必要に応じて、自分達の好むままのことができた。これを大臣や議会が止めることはできなかった。しかも、パリの群集はチュイルリー宮殿をめぐる激戦のあとで気が立っており、敵国軍の接近で、絶望的な危機感から半狂乱になっている。これを言論で統制することは不可能であった。

立法議会の権威は失墜していた。立法議会はラファイエットの行動を許すと決議して、パリの武装蜂起を招いた。王権を守ろうとしながら、武装蜂起の群衆に囲まれて王権を停止した。そのうえで国民公会の召集を決議させられたのであるから、信用されていない。これを自他ともに認めている。残る役割といえば、国民公会が召集されるまで権力を維持していくことにすぎなかった。

議会に承認された新内閣も、国民公会の選挙の結果次第で、どうなるかわからない。そのため、一種の管理内閣、あるいは実務内閣程度に思われていた。そのような意味で、議会も内閣も、以前にくらべて信用と権力を低めた。そのすきをぬって登場してきたのが、武装蜂起の群集を背景としたパリコミューンであった。


パリコミューンの登場

パリコミューン前身はパリ選挙人会議である。この時までフイヤン派系で固められていたが、八月一〇日の武装蜂起のときに、パリのそれぞれの区の代表と自称するものが議事堂に侵入し、前議員を追放して「革命的コミューン」「蜂起コミューン」と称し、武装蜂起ののちにパリ市を治める権力機関になった。パリ市長にはジロンド派のペチヨンがいたので彼をコミューンの議長にし、検事にマニュエル、副検事にダントンを置いた。ペチヨンは蜂起を押えようとしたので、コミューンの議員は信用しなくなり、彼を無視して独自の権力をふるおうとしはじめた。

パリコミューンの指導者の浮沈、交代ははげしかったが、その人的系譜は、のちの山岳派(モンタニヤール)からエベール派、過激派を含むものであった。ただし、モンタニヤールの政治家が一致してコミューンを支持したかといえば、そうではなく、時と場合によって、賛成したり反対したり、慎重論をだしたりした。当時は、厳密な意味での政党が結成されていなかったので、個人によって動きがちがってきたのである。

その点については、ジロンド派の側でも同じであった。ジロンド派は武装蜂起に反対したといわれる。しかし全員が反対ではなく、むしろ勇敢に武装蜂起を指導した者もいた。その代表的人物はバルバルーであった。彼は、マルセイユ連盟兵を率いて積極的にチュイルリー宮殿の襲撃を指導した。それでいながら、マルセイユのブルジョアジーを代表して、ジロンド派の闘士になった。

議会とパリコミューンの対立が激しくなり、議会がパリコミューンの解散令を可決し、これをコミューンの側が拒否して険悪な情勢になったこともある。しかし、外敵の侵入が、両者の決定的対立を、一時的に緩和した。

国境の町ロンウィが陥落し、プロシア軍は二週間以内にパリに入るだろうという噂が流れた。プロシア軍がパリに入れば、パリの徹底的破壊と市民の虐殺が起こる。これは、すでにプロシア軍総司令官の宣言によっても予想できたことである。ここで、パリ市民の動揺が激しくなり、それを代表してパリコミューンの活動が活発になった。ジロンド派の中には、戦局を絶望的とみて、パリを撤退し中南部フランスに共和国を作り、プロシア軍と交渉をするという弱気の意見を主張する者がでてきた。

ロラン、クラヴィエール、セルヴァンがその意見をだした。しかし、同じジロンド派でも、ペチヨン、ヴェルニヨーが反対し、ジロンド派ではないが、ジロンド派に大きな影響力をもっていたコンドルセも反対した。法務大臣ダントンはとくに激しく反対し、立法議会における有名な演説をおこなって、敵国軍との戦闘に必要な政策を打ちだし、実行に移させた。その結果、一連の非常手段がとられた。

義勇兵の募集、戦略物資の調達、反革命容疑者の捜査と逮捕、前線への派遣委員の任命などである。八月三〇日、反革命容疑者の家宅捜査と逮捕がはじまった。こうして、約三〇〇〇人の容疑者が投獄された。

九月二日、パリと国境の間にある要塞ヴェルダンが包囲された。ここが落ちればパリまではなんの障害もなく前進できる。プロシア軍の占領した地域では、人馬の死体があふれて、川や井戸に投げこまれた。亡命貴族と忌避僧侶がプロシア軍について帰国し、革命派を処刑すると公言し、革命政府の命令を燃やした。貴族は領主権の回復を宣言した。プロシア軍の占領はすなわち絶対主義の再建であり、革命派の処刑であった。

パリには異常な空気がみなぎった。パリコミューンの命令でパリの門は封鎖され、警鐘が鳴らされた。軍隊の編成がおこなわれ、軍需物資の徴発がおこなわれた。立法議会は、チュリオの提案を受けいれて、パリコミューンの解散命令を取り消した。ダントンは議会の演壇で、「敵に勝つために必要なものは、一にも勇気、二にも勇気、三にも勇気だ。それでフランスは救われよう」との後世に残る演説をおこなった。


九月二日の虐殺

こうして、ダントンは革命の英雄になった。ただし、ダントンは国民の士気をかきたてるために大きな役割を果したとはいえ、その運動を完全に統制することはできなかった。

内閣と議会の統制を破っておこなわれた最大の事件は、九月二日の虐殺である。この日、パリコミューン監視委員会にマラが入った。彼は、義勇兵が前線に出撃する前に、逮捕されている反革命容疑者を処刑するべきであるという意見を展開していた。もし、前線で義勇兵が苦戦をしているときに、背後で反革命の暴動が起こされたならば、残された妻子が悲惨な目に合うという意味からであった。そのうえ、正式の裁判権を行使するために設置された特別裁判所は仕事が遅く、何人かの容疑者を釈放しつつあった。

こうした傾向に、義勇兵と監視委員会は不信をもっていた。しかも義勇兵もパリ市民も、生死の境にあって異常な心理状態になっている。ついに、監視委員会に煽動された義勇兵とパリ市民は、直接牢獄に押しかけ、即席裁判で反革命容疑者を殺害してまわった。これを九月二日の虐殺という。

殺害された者は千数百人で、僧侶(忌避僧侶)と貴族の反革命容疑者が中心であった。しかし異常な心理状態のもとでおこなわれた即席裁判であったから、囚人の見わけが十分につけられず、普通の犯罪人や女性、子供にいたるまでが殺害の対象になった。

殺害の仕方も、銃殺からはじまり、銃剣でつきさしたり僧侶を撲殺するといったやり方で、文字通りの虐殺をともなった。もっとも有名なエピソードは、ランバル公爵夫人のばあいであった。彼女は、一度亡命していながら帰国した所を捕えられ、投獄されていた。彼女が王妃付女官長であったために、反革命容疑者として即席裁判に引きだされた。彼女が反革命のために何もしていないという根拠から、助命の声があがったが、処刑を主張する者は槍をもって飛びだした。彼女は多くの槍でつきさされて死んだ。その後首を切り、胸をえぐり、衣服をはぎ、首を槍の先につけて胴体を引きずり、国王夫妻の閉じこめられているタンブル監獄まで行進した。到着すると、ランバル公爵夫人の首を王妃の部屋に投げこんだ。こうした異常なやり方で虐殺が続いた。

後世の歴史家の多くが、ランバル公爵夫人は反革命に参加していないという。彼女が、ただ王妃に寵愛されていたというだけでこのようなむごたらしい目にあったと解釈する。彼女が革命の受難者であったかのように描く本もある。それでは、まったくなんの原因もないのに虐殺されたのかというと、必ずしもそうとはいえない。

彼女は王妃付女官長として莫大な収入を手に入れた。そのような立場から、改革派の財務総監チュルゴー、ネッケルの罷免に影響力を与えたことを考えあわせるならば、彼女の存在もまた、財政赤字の一大原因となっている。それだけでも、フランス革命の原因を作ったといえる。王妃が「赤字夫人」として非難されたが、ランバル公爵夫人とポリニャック公爵夫人は、赤字夫人のナンバー2である。その意味で、やはり因果関係はととのっている。


虐殺の責任者

このような虐殺をおこなわせたのはパリコミューン監視委員会のメンバーであり、政治的には、コルドリエクラブの指導者であった。その中で有名な者は、マラ、タリヤン、マイヤール、セルジャン、パニである。これらの人物は当時無名の人間であった。

マラとタリヤンは、のちに名を残すことになる。タリヤンはその後国民公会議員となり、山岳派に属し、ボルドーへの派遣委員となり、テロリストの名を残した。しかし銀行家の娘テレザ・カバリュスと結婚して転向し、ロベスピエールを倒してジャコバンクラブを弾圧する側にまわった。

ところで、普通の歴史では、これらの人物が虐殺の指導者であったと書かれているが、そのもうひとつの裏をさぐると、彼らを背後から指導した一人の人物が浮びあがる。それは、スイス人銀行家のパーシュであった。彼が虐殺の指導者にたいして出資し、この運動をおこなわせたというのである。なんらの財産をもたないこれらの活動家が、このころから、ぜいたくで放蕩な生活をはじめた。それを支払ったのがパーシュであった。九月二日の虐殺のように、名もない群集の動きのように見える事件でも、その背後に、ある種のブルジョアがいるということは、どこまでいってもブルジョア的な限界を越えることができないことを意味するものであろう。

パリにおける虐殺は、たちまち地方にも波及した。パリコミューンも、反革命容疑者にたいする処刑をすすめるアピールをだした。各地で貴族や僧侶が処刑された。法務大臣ダントンは、こうした動きを放任しながら、反革命容疑者にたいする報復を抽象的な形で激励するような言動をした。その立場は非常に複雑であった。その他のジロンド派の大臣も、あえて虐殺を止めようとはしなかった。

心の内では、こうした無秩序な動きに反対であっても、それを表だって口にすることは危険であった。そうでなくても、パリコミューン監視委員会はブリッソの家宅捜査をおこない、内務大臣ロランをはじめジロンド派幹部の逮捕をおこなおうとした。政権の座にある者がパリコミューンによって逮捕されようとした。それほど、当時のパリでは権力が分裂していた。ただし、これはダントンの調停で取り消しになった。


ヴァルミーの会戦

九月二日の虐殺で銃後の安全を計ることができたので、義勇兵は前線にむかって出発した。この義勇兵は、マルセイユ、ブルターニュその他フランス各地から集まって来た者であり、連盟兵と呼ばれた。彼らは、自分の費用で武装するか、それとも誰かの出資によって武装しなければならなかった。国家から武器が支給されるわけではなかった。義勇兵に参加できた者はブルジョアの子弟である。貧しい階層の者が出陣するばあいは、商人、工業家、その他の財産家が彼のために献金した。後者は、ブルジョアの傭兵となる。義勇兵の性格を一口でいうと、ブルジョアジーの軍隊、あるいはブルジョアジーの傭兵ということができる。とくに、マルセイユ連盟兵は裕福な家庭の子弟であった。

義勇兵の出撃と並行して、軍需物資、食料の強制徴発がおこなわれた。立法議会から前線に派遣委員が送られ、彼らが戦時にふさわしい非常手段をとった。たとえば、コンデ太公のシャンチイイの領地から、二二頭の馬、多数の馬具、テント用の布を徴発したと報告されている、クルセルという貴族の城を捜査して、二〇ばかりの小銃と馬、馬具を徴発したという報告もなされている。このような形で、義勇兵の装備が強化された。

義勇兵とプロシア軍は、九月二〇日ヴァルミーの丘で出合った。ヴァルミーは、国境からパリにむかって三分の一ぐらいの距離をすすんだところにあった。それまで。プシア軍は、ロンウィ、ヴェルダンと二つの重要な都市を、たいした抵抗もなしに占領してきた。そこで、フランスの征服は簡単に実現できるという安心感をもちはじめた。

とくにヴァルミーの丘で対面したフランス軍は正規の軍隊ではなく、雑然とした義勇兵である。当時、軍隊は貴族のもとに整然と組織されなければ、ものの役に立たないと思われていた。これが貴族社会の常識であった。

今目の前に現われた平民中心の軍隊などは、ちょっとした攻撃によって、たちまちつきくずすことができると。プロシア側は考えた。

プロシア軍がフランス軍の前に展開し、ゆっくりとした歩調で前進した。砲撃戦がはじまった。プロシア軍は、この圧力だけで、フランス義勇兵が算を乱して敗走すると簡単に考えた。少なくとも、フランスの正規軍はそのような調子で敗走してきた。

しかし、義勇兵は、すでに八月一〇日の市街戦を経験し、九月二日の虐殺で覚悟をかためていた。その士気は高く、革命のために命がけで闘うつもりでいた。司令官ケレルマンが帽子を剣の先につけて高くあげ、「国民万歳」と叫んだ。この叫び声がいっせいにくりかえされ、フランス義勇兵の覚悟のほどを示した。

それをみると、プロシア軍総司令官ブラウンシュヴァイヒ公爵は突撃命令をだすことができなかった。彼は、いままでのフランス軍とはちがう相手を見たのである。それは信念で武装された軍隊であり、これをつきくずすためには、血みどろの闘いが必要であることを予感した。結局この日は砲撃戦だけで終り、わずかの死傷者を双方にだしただけで、プロシア軍は後退した。

戦争としては大会戦ではなく、フランス革命軍がプロシア軍を撃破したというものでもなかった。純軍事的にいえば、これはまだ戦勝とはいえない。ただ、プロシア軍の無人の野をいくような前進をくいとめただけである。

それにしても、プロシア軍に従軍していたゲーテは、「この日この場所から、世界史の新しい時代がはじまる」と書いた。ゲーテは革命派ではなかったが、王政と貴族支配一色のヨーロッパの中に、これに対抗できるブルジョアの軍隊の出現を見たのである。


相次ぐ戦勝

プロシア軍はまだ傷ついていなかったので、この地点に止まり、征服地を押えるつもりで駐屯した。しかし。プロシア軍は雨にうたれて、赤痢の伝染に苦しんだ。しかも輸送部隊が農民のゲリラに襲撃された。ブラウンシュヴァイヒは、この地に駐屯することが危険であるとプロシア王に報告し、撤退をすすめた。プロシアの高級貴族の中にも、オーストリアとの同盟に反対し、フランス革命軍との戦争を無益なものと考え、むしろ北方問題が重要であると主張する者がいた。

こうした条件が重なって、プロシア軍は後退をはじめた。フランス軍の司令官ケレルマン、デュムーリエは、プロシア軍との交渉を続けながら、退却していくプロシア軍の後をゆっくりと追って進んだ。そのため、重大な戦闘なしに、プロシア軍を国境から追い出すことになった。

本格的な戦争がおこなわれたのは、その後のことであった。九月二五日、キュスチーヌ将軍は、義勇兵を中心としたフランス革命軍を率いてドイツのライン宮廷伯領に侵入し、その首都シュパイエル市を占領した。ライン宮廷伯の子がドゥー・ポン伯爵といわれ、ヴェルサイユ宮殿でフランスの宮廷貴族になっていた。この地域はドィツの領土ではあるが、フランスともかかわりあいの深い所であった。

一〇月五日、キュスチーヌは前進してウオルムスを占領し、一〇月一九日、北上してマインツを攻撃した。マインツは、内部の反乱によって闘わずして降伏した。二日後の二一日、東進してフランクフルトを占領した。こうして、まだ国境近くにプロシア軍がいてゆっくりと後退しているときに、キュスチーヌの率いるフランス軍がドイツ領深く侵入して、重要都市を破竹の勢いで占領したのである。

北フランスでは、オーストリア軍が国境に近い都市リル市を包囲し砲撃を続けていたが、デュムーリエ将軍の率いるフランス革命軍が反撃に転じ、一〇月の末にはベルギー領に侵入した。一一月六日、国境のジェマップ村でオーストリア軍とフランス革命軍の激戦がおこなわれた。この戦闘でオーストリア軍は大打撃を受け、退却した。

ヴァルミーの戦勝は、大戦闘をともなわず、象徴的なものにすぎなかったが、ジェマップの闘いは、フランス革命軍の戦闘力を示した本格的な戦争であった。この闘いののちに、オーストリア軍はベルギー全土から撤退した。ベルギーはフランス革命軍の占領下に入った。

南部では、モンテスキュー将軍の率いる義勇兵が、九月二二日、グルノーブルからサヴォア公国領に侵入し、モンメリアン要塞を占領した。

地中海沿岸ではアンセルム司令官が義勇兵とマルセイユの国民衛兵を率いて国境を越え、サルジニア王国に侵入し、九月二九日ニース市を占領した。 

要約 第四章 ジロンド派の時代 一 敗戦から勝利へ

1792810日の武装蜂起で、「大ブルジョアが勝った」という評価は、ほとんどの歴史家が言うことだが、私は違う。ジロンド派内閣ができると、財務大臣クラヴィエールは、「一万リーブル以上の国庫債権を切り捨てた」。(概算百億円以上の国家に対する貸付金は、その額までの返済とする)。これで、財政赤字が縮小した。国家は楽になったが、最上層のブルジョアたちは犠牲を強いられた。だから、大ブルジョアがすべて勝ったというのではなくて、最大級のブルジョアたちは犠牲を強いられたのである。このグループを「特権的商業資本とか、前期的商業資本」と呼んでいた時代がある。大塚史学と言われる学派であるが、彼らは、この階層がフランス革命で打倒されつくしてしまったと書いた。それに近い現象がここにあるのだが、注意してほしいのは、「上限切り捨て」であり没収ではないことだ。なお、次の恐怖政治の時にも、処刑、財産没収というのがある。しかし、その一年のちに遺族への財産返還という政策があって、家計も事業も断絶していないのである。従来の歴史家は、犠牲を強いられたら、断絶、消滅だと思って、「打倒されてしまった」と書いた。そうではなくて、一時的に譲歩を迫られただけのことであった。もう一つ、ソブールは、「大ブルジョア階級が倒された」と書いているが、これも極論である。「倒された」という意味の中に、「上限切り捨て」の効果を過大評価している。「上限切り捨て」になったから、倒されたと思っている。そうではなくて、経営の中での「損失切り捨て」はよくあること、それと倒れるというのは別問題である。

ジロンド派政権の下で、領主権は完全に消滅した。このことをはっきりと言い切ったのは私が初めてである。それ以前の歴史家は、多数派が、一年のちだと書いてきた。少数の歴史家が、この時期だと書いた。マチエ、ソブール、日本では河野健二氏であった。しかし、おずおずと、あいまいに書いている。(何しろ、世界的な常識に立ち向かうのであるから、蛮勇を必要とする)

相次ぐ戦勝の原因について、加筆、訂正する必要がある。それは義勇兵の役割の過大評価につながるものである。この点は、すべての歴史家と、文豪ゲーテの言葉に頼りすぎたと思う。つまり、戦勝の原因を義勇兵の役割だけにしてしまったことである。確かに義勇兵の役割は大きかった。しかしもう一つの勝因を書かなければ、片手落ちだろう。それは作戦計画の漏洩問題である。これが続いていたら、義勇兵でも勝ち目があったかどうか。思いがけないところに敵がいた。これではパニックに陥る。その原因が何か、これがわからないから、特にパリ市民が恐怖に陥ったのである。「裏切りがある」ことだけはわかっていて、コルドリエクラブでは騒ぎになった。疑心暗鬼になって、92日の虐殺につながった。しかし見当違いであった。真相は、国王夫妻の裏切りであった。これは後でわかり、裁判に発展した。そこは誰も書くのだが、実際にそれが効果を発揮した時は、810日以前のことであった。国王夫妻の投獄でそれは止まった。だから、敗戦の原因を言うときには、作戦計画が相手に知られていたこと、これを書かなければならない。「手の内を知られていたら、いかなる戦いにも勝てない」。勝負の鉄則でしょう。これをこの節に書き忘れている。ここに追加しておきます。

 


15-フランス革命史入門 第三章の五 敗戦と八月一〇日の武装蜂起

五 敗戦と八月一〇日の武装蜂起


ジロンド派内閣の政策

一七九二年三月一〇日、フイヤン派の内閣は崩壊し、そのあとジロンド派の内閣が成立した。もちろん、ジロンド派という名前は、この時点の呼び名ではなく、もっと後につけられたものである。当時彼らはジャコバンクラブの指導的メンバーであり、ブリッソを中心にしていたから、ブリッソ派と呼ばれていた。新閣僚の名前は、国王から任命されるよりも数時間早く議会に通告された。もはや国王の権力はほとんど失われていた。

大蔵大臣クラヴィエール、内務大臣ロラン、法務大臣デュラントン(ボルドー高等法院検事長)、陸軍大臣グラーヴ、海軍大臣ラコスト、外務大臣デュムーリエであった。

ジロンド派内閣が成立すると、いままでつづけられてきたフイヤン派対ジロンド派の政争が、ジロンド派の有利な方向に解決された。植民地問題については、三月二四日、ジロンド派の主張する解決案が、フイヤン派とくにラメット派の抵抗を押し切って可決された。植民地反乱を鎮圧するが、混血人の政治的平等を認め、商人が植民地地主(貴族)の財産を債権のかわりに差押えることができると規定されていた。これは植民地における貴族政治の敗北であり、ラメット派の敗北であった。

亡命貴族についての対策も懸案になっていた。フイヤン派には自由主義的貴族が多かったために、亡命貴族にたいしては、同じ貴族仲間という意味があって、厳格な処置を好まなかった。ジロンド派を含めたジャコバン系は、亡命貴族にたいするきびしい制裁を要求していた。

一七九一年一二月一三日、議会は亡命貴族について、「すくなくとも六ヵ月の間、フランス王国に居住していたという証拠をあげないかぎり、国家からの年金、国債の支払を受けとることができない」と決めた。このことによって、亡命貴族は、かつてもっていた国家からの支払を受ける権利を打ち切られた。

しかし、まだ亡命貴族はフランス国内に領主権、土地所有権をもっていた。とくに亡命貴族が名門の宮廷貴族であり、第一級の領主であったために、亡命貴族の領主権が大問題になった。亡命貴族は、自分に忠実な徴税請負人や管理人を使って領主権を徴収させ、これを正貨にかえて、外国に送金させ、その金で豊かな生活をつづけながら、反革命的陰謀をめぐらしていた。亡命貴族の領地に住む住民にしてみると、国家の敵とみなされた人物が、自分達から貢租を取りあげているのである。この矛盾にたいする怒りが表面化した。

一七九二年の春、各地に反領主暴動が起きた。領主の城が焼打され、略奪された。この暴動には、農民だけではなく商人や職人、さらには地主の若者までが参加した。地主といえども、身分は平民であり、領主権に服していた。このことはすでに説明したとおりである。こうした動きに対応して、ラマルク(侯爵、大領主、将軍、ジャコバン派系の政治家)は亡命貴族財産の差押えを提案した。ラマルクも大貴族であったが、暴動で貴族の財産が破壊される前に、一定の政治的処置で貴族財産を保全しようとしたのである。ラマルクの提案は、フイヤン派の反対に出合った。フイヤン派のスディエは、これにかわる案として、亡命貴族財産の収入にたいして三重の課税をおこなうことを提案した。

この争いもフイヤン派の敗北に終り、三月三〇日、ヴェルニヨー(ジロンド派)の提案で、亡命貴族財産を差押え、これを国民にたいする賠償にもちいることが決定された。


領主権の無償廃止について

この時期、領主権の無償廃止が政争の焦点に浮びあがってきた。ちょうど亡命貴族財産の差押えが審議されている最中の二月二九日、クートンが王党派の基礎を破壊するために、不動産売買税の無償廃止を提案した。ジロ

ンド派内閣が成立したのちの四月一一日、封建委員会を代表して、ラツール・デュシャルテルが、買戻しを義務づけられた各種封建権利の無償廃止を提案した。これに内務大臣ロランが賛成した。フイヤン派のドゥージーがロランを攻撃して、議会は激論の場になった。

この問題は、フランス革命の理論的解釈にとってきわめて重要である。領主権の無償廃止をジロンド派も含めたジャコバン派系議員が主張し、これにたいして、フイヤン派が必死で抵抗している。そして、ジロンド派内閣

が成立しているとはいえ、まだ議会では領主権の無償廃止が採決されていない。あとにみるように、これが両派の武力対決の基本的な原囚になった。その結果、八月一〇日の事件でフイヤン派が敗北した。それとともに、領主権の無償廃止がたしかなものになった。

領主権は別名封建権利と呼ばれていて、八月四日の宣言と一七九〇年三月の法令によって、部分的に無償廃止が実現した。貢租と不動産売買税は有償廃止とされた。その残った有償廃止の部分を、一七九二年八月一〇日の

政変で無償廃止にした。これによって、フランスからは領主権が完全に消減した。

ところが、この間題については、日本においてもヨーロッパにおいてもきわめて根強い奇妙な誤解が長くつづいた。それは、領主権の無償廃止が、一七九三年のジロンド派追放の時点でおこなわれたという解釈である。そ

こで、恐怖政治の基本的な内容の中に、封建貢租の無償廃止または領主権の無償廃止をとりあげることが一般的におこなわれてきた。この実例はあまりにも多すぎるので、いちいち引用しているひまがないほどである。

たとえば、ソブールも『フランス革命』(下巻、五一頁)でそのように書き、本田喜代治氏の『フランス革命史』(一二三頁)でもそうなっている。ただ、マチエの『フランス大革命』(上巻、二六〇頁)では、一七九二年の八月一〇日で農民の解放が実現したといい、この時点での領主権の廃止を評価している。

いずれにしても、ほとんどのフランス革命史からはじまり、世界史の概説書、経済史の理論書にいたるまで、恐怖政治による封建権利の無償廃止という図式をうちだしている。これに反して、ジロンド派権力が封建権利の

無償廃止に積極的であったことを主張しているのは、河野健二氏の『フランス革命小史』である(一二一頁)。

ここでは、八月一〇日の革命を封建制の完全な一掃であるといってこれを社会革命と評価し、第二次革命と呼んでいる。これにくらべると、バスチーユ以来の革命は法律革命であるとされ、封建制の廃止という意味では、八月一〇日の方が高く評価されている。河野氏は、領主権の廃止を封建制の廃止と考えているから、とくに八月一〇日を高く評価することになる。

しかし、八月一〇日の事件がなかったとしても、すでにバスチーユ以来、フランスの国家権力は最上層のブルジョアジーの手ににぎられているのであり、その意味では、封建制度は終っていたといえる。領主権を廃止しな

ければ近代国家とはいえないというならば、イギリス革命以後のイギリスは、領主権を廃止していないのであるから、いつまでたっても近代国家とはいえない。領主権の廃止と封建制度の廃止または封建社会の打倒は、別問題である。

いずれにしても、フランス革命は、第一段階で領主権の部分的廃止を実現しながら、それなりにブルジョアジーの権力を安定させたのであり、第二段階の八月一〇日の事件で、領主権の無償廃止を実現した。これは、ジロンド派内閣が基本的に達成したのであって、恐怖政治が独自の仕事としておこなったわけではない。この点は、フランスのみならず、日本その他各国の歴史の理論的解釈にたいして大きな影響を与えるので、改めてここに確認しておきたい。


ジロンド派内閣の失脚

フイヤン派を相手にした未解決の政争をかかえながら、成立したばかりのジロンド派内閣は、オーストリアとの戦争に議会を引きずっていった。反対したのは、ラメット派と、のちのジャコバン派系に相当する少数であり、議会では約一〇票にとどまった。こうした議会の楽観的な雰囲気のもとで、オーストリア、プロシアにたいする宣戦が布告された。

しかし、ひとたび戦争をはじめてみると、すべてが予想通りにいかなかった。軍隊の数だけからいえば、国境に展開したフランス軍が一〇万人であるのにたいして、オーストリア軍は約四万人であり、プロシア軍はまだ戦線に到着していなかった。しかし、フランス軍はすでに内部的な崩壊をはじめていた。そのため、攻撃命令がでてフランス軍が前進するやいなや、逆にたちまち混乱を起こして、四月の末には敗走をはじめた。敵国軍は、あまり大きな困難なしに、フランスに侵入することができた。

敗北の理由はいくつかあった。まず、軍隊では依然として将校は貴族であり、革命前からの階級制度が維持されていた。いわば、軍隊における革命はおこなわれていなかった。貴族将校や貴族の将軍は、革命政府とくにジ

ロンド派にたいし嫌悪を感じ、ジロンド派内閣の命令のもとに戦争をする気がなかった。将校や将軍の多くが積極的に裏切り行為をおこない、ある者は辞職し、ある者は熱意のない、お義理の指揮をおこなった。

将校や将軍がこういう状態であったから、下士官、兵士も奮戦する気はさらさらなく、いつも指揮を疑いの目でみているから、ちょっとした行き違いでたちまち動揺し、退却、混乱した。こうした状態であるから、攻撃は

不可能であるという意見が指揮官の中からだされた。また、貴族で組織された近衛兵などは敗戦を喜んでいた。彼らにとってみれば、敗戦が絶対主義を再建し、宮廷貴族の特権を回復してくれるからである。

そのうえ、国王と王妃が敗戦を望み、フランスの作戦計画は、国王から王妃を通じてオーストリア皇帝に内通されていた。そのため、フランス軍は意表をつかれ、ますます混乱した。また、国庫が破産に瀕しつつあり、軍事費が思うように支出されなかった。

こうした中で、お互いに敗戦の責任のなすりあいがなされた。将軍と将校は、敗戦の責任が兵士の訓練不足と臆病のせいだといった。これに反対して、ロベスピエールは、敗戦の責任が将軍達にあり、彼らは昔の特権に未練をもっているから信用できないといった。また、貴族の将軍達を罷免して、愛国者に交代させなければならないと主張した。

ロベス。ピエールの主張したことは、後になって革命戦争の中でしだいに実現されていく。貴族で固められた将校と将軍の地位が、すべての身分の出身者に開かれ、下士官、兵士といえども軍功を立てて愛国者であることを示しさえすれば、どのような高い地位にでも昇っていけるようになった。その中から、ナポレオン・ボナパルトとか、ネイ、ミュラーなどといった名将軍が出現した。そうなると兵士の士気も高まり、将校に優秀な者をそろ

えることになるから、この軍隊は強力な軍隊に再生する。軍隊における革命、人材登用の制度が、のちにおこなわれるのである。そうしてはじめて、フランス革命はすべての分野に徹底したといえる。

ただ、戦争を開始した時点においては、まだ軍隊における革命は実現しておらず、それだけに、内部崩壊寸前になっていた。そのような軍隊であるから、いかに数が多くても敗北するのは当然であった。そのうえ、外国人部隊、外国人傭兵隊を、旧体制のまま引き継いで使っていたことも、裏切り行為を大きくした。サックス連隊(ザクセン)やドイツ人連隊は、それぞれ、ドイツに領地をもつ高級貴族によって統制されており、革命フランスには敵意をもっていた。そこで、前線に出動させられると、そのままドイツ側に寝返ってしまった。こうした事態により、戦争に勝つためには、新しい、愛国心をもつフランス人による軍隊を組織しなければならないことが痛感された。

五月二九日、もっとも貴族的な近衛軍団を解散した。これにかわってパリを守備するために、連盟軍二万人をパリ郊外に駐屯させる法令を、六月八日に可決した。また、僧侶の反革命的運動が影響力を増大しつつあったので、五月二七日、忌避僧侶についての法令を可決し、市民に告発を受けた忌避僧侶の追放、または流刑を定めた。

国家財政については、以前からクラヴィエールの主張していた方針が実行された。つまり、一万リーブル以上の国庫債権の償還を停止した。このことによって、フイヤン派ブルジョアジーのうち、旧体制に高額の債権をもちながら、まだ、補償を受けていない者は打撃を受けた。ジロンド派系のブルジョアジーは、こうした寄生的性格の強いブルジョアジーの一派を切り捨てていった。


フイヤン派政権の復活

外では敗戦がつづき、内では政争が大詰めにきた。ジロンド派内閣が可決させた法令に、国王は拒否権を発動した。拒否することをすすめたのは、フイヤン派を代表するデュポールであった。国民衛兵もまた、連盟軍の駐屯に反対していた。そこで、国王は、それらの力を頼みとして拒否権を発動するとともに、ジロンド派の大臣ロラン、クラヴィエール、セルヴァン(陸軍大臣)を六月一三日に罷免した。二日のちの六月一五日、デュムーリエも辞職に追いこまれた。こうして、ジロンド派内閣は崩壊したが、これは、国王の全力をあげた反撃の結果であった。こうして、新内閣はフイヤン派の独占するものになった。

かわってフイヤン派内閣が成立した。大蔵大臣ボーリュー、内務大臣テリエ・ド・モンシェル、法務大臣デュラントン、外務大臣シャンボナ、陸軍大臣ラジャール、海軍大臣ラコストであった。


封建貢租の無償廃止

行政権はフイヤン派ににぎられたが、その同じ時期に、議会ではジロンド派以下の左派が、領主権の無償廃止をひっさげて攻勢に転じた。六月一四日のことである。両派は、かわるがわる立って、封建的権利が所有権であるかないかと激論をつづけた。フイヤン派からの最後の修正案が、デュラモールによってだされた。

「すくなくとも四〇年間騒乱がなかったという条件により、領主は本源的証書を補うことができる」。

これが認められるならば、領主権は有効であり、正当な権利と認められることになる。この修正案を審議するかどうかの決議が、二七三対二二七で可決された。この数をみるならば、まだフイヤン派が議会で優勢であったことがわかる。これで安心した右派の議員の多くが退場した。そのとき、左派が修正案の審議続行を要求し、右派は閉会を叫んだ。その喧騒の中で、審議が続行され、修正案は否決された。その結果、ドラクロワのだした封建的権利の無償廃止の提案が可決され、議会は閉会した。フイヤン派は、油断をつかれて、議会闘争で敗北したのである。領主権の無償廃止は、革命派であろうと反革命派であろうと、領主にとっては重大な問題である。ここで、フイヤン派は、一転して反革命的クーデターの方向へむかった。


フイヤン派のクーデター計画

ラメット派のデュポールは、議会の解散と国王の独裁権を主張した。ラファイエットは前線から手紙を送り、ジロンド派の前閣僚やジャコパンクラブを非難した。ラファイエットは、軍を率いてパリへ進撃し、フイヤン派の独裁政権を作る計画を立てていたので、敵国軍との戦闘には積極性をみせなかった。フイヤン派の内閣がオーストリアに休戦を提案するという噂が流れた。

六月二〇日、ジロンド派系のサンテール(ビール醸造業者、ジャコバンクラブの活動家)の率いる下町の住民が、議会と宮殿に押しかけ、ジロンド派内閣の罷免、国王の拒否権発動、軍隊の怠慢さに抗議した。しかし、なんらの成果をみることなく、このデモは退いた。この事件は、逆にフイヤンクラブの攻勢を有利にした。このデモの責任を追求されて、ジロンド派系のペチヨン(パリ市長)、マニュエル(パコミューン検事長)はパリ県会によって罷免された。多くの県会もこの事件を非難した。

ラファイエットは、命令なしに軍隊を離れて議会に現われ、ジャコバンクラブの解散とデモの責任者の処罰を要求した。これが六月二八日のことである。これにたいして、ジロンド派のガデは反撃に転じ、ラファイエットが任務を離れてパリに来たこと、軍隊を活動させずに置いたことを取りあげて、ラファイエットの非難決議案を提出した。これは三三九対二三四の差で否決された。この時点の立法議会では、やはりまだフイヤン派に同調する者が多かったのである。

前線の司令官は、ラファイエットと同じく、国内の動きに注意を奪われ、敵国軍との戦闘に嫌気がさして、軍隊を後退させた。そのためにプロシア、オーストリア軍は苦もなく前進した。七月六日、プロシア軍が国境に接

近していることを、ルイ一六世が議会に報告した。ここで、フランス国内の危機感がにわかに高まった。

この危機に直面すると、国内に動揺が広がり、立法議会も左右に動揺した。フイヤン派は、戦勝よりもむしろ左派との闘争に熱中したが、無所属中央派の議員は、かならずしもそうではなかった。たとえジャコバンクラブ

に同調しないとしても、とにかく革命フランスを敵国軍から守るという点では、はっきりとした意志をもっている者が多かった。そのために、議会の決議が右に左にゆれていく。

七月一〇日、フイヤン派の大臣は辞職に追いこまれた。七月一一日、議会は「祖国は危機にあり」という宣言を発表した。

七月一三日、議会はパリ市長ペチヨンの復職を命令し、義勇兵の召集を王の承認なしに全国に呼びかけた。正規の軍隊が戦闘で役に立たないので、革命フランスを防衛する意気にもえた義勇兵を、全国から集めようという

のである。国王はこれを拒否していたが、すでに議会は、国王の拒否権をのりこえて、議会の決定が国王の拒否権をこえるという事態を作りだした。義勇兵は、国王の抵抗にもかかわらず、それ以前からパリにむけて行軍を開始していた。


武装蜂起の推進者

これから八月一〇日までは、複雑な動きが進行する。七月二五日、。プロシア、オーストリア連合軍司令官ブラウンシュヴァイヒ公爵の宣言がだされた。これは、もしフランス国王に危害が加えられるならばパリを完全に破壊し、パリ市民の処刑をおこなうという脅迫的なものであった。これが八月一日パリに伝わると、パリ市民の間に恐怖と憤激をまきおこした。そのころ、七月二五日から三〇日にかけて、ブルターニュ、マルセイユの義勇兵がパリに到着した。彼らは連盟兵と呼ばれた。この兵力は、なにはともあれ、敵国の侵入からフランスを守るという信念で固められていた。とくにマルセイユ連盟兵は、のちにフランス国歌になった「ラ・マルセイエーズ」を高唱しながら行軍してきて、意気は盛んであった。

それにしても、このときはまだ敵国軍を撃退することに注意がむけられており、王権の転覆、立法議会の解散については、左派の中でも意見がまとまっていなかった。のちにジロンド派の指導者になるブリッソ、ヴェルニヨー、ペチヨン、ガデ、ジャンソネなどは、フイヤン派大臣の辞職のあとをうけて、自分達がもう一度政権に返り咲こうとして、国王と交渉をはじめた。まだまだ国王の権威は強いものと思われたのである。

ジロンド派は、王権の停止を要求する共和派にたいして、正面から非難をなげつけた。しかし、ジロンド派のやり方では間題の解決にならないと主張する一群の活動家が、頭角をあらわしてきた。ロベスピエールは、ジャコバンクラブ員や連盟兵にたいして演説をおこない、王権の停止、立法議会の解散、普通選挙による国民公会の召集を説いた。立法議会のコルドリエクラブ三人組、メルラン・ド・チオンヴィル、シャボ、バジールもパリ市民を武装蜂起にむけて動かした。

こうして、左派の側にも、武装蜂起をすすめようとする勢力と、これを押えようとするジロンド派の暗闘がつづけられた。この分裂に国王とフイヤン派はくさびを打ちこもうとした。王室費から大金がバラまかれて、主だった活動家の買収がおこなわれた。雄弁で人心を奮い立たせ、後になって八月一〇日の男といわれたダントンは、一方で武装蜂起を煽動しながら、他方で一五万リーブルを受けとって、国王一家の安全を約東した。このことは当時知られていなかったが、のちになって明らかになった。

マルセイユ連盟軍を率いるパルバルーにも一〇〇万リーブルを申込もうとする試みがあったが、買収不可能とみてやめた。アメリカ大使モリスも、この買収事件にからんでいた。バルバルーはのちにジロンド派の闘士になるが、同じくジロンド派の政治家といっても、この時点で武装蜂起に反対する者と、これを積極的にすすめる者

とに分裂していた。

そのようなちがいは、当時のブルジョアジーの動揺を表現していた。パリのブルジョアジーの住む町ポスト区は、最後まで立憲王政を主張していたが、八月一〇日の直前になると、意見をかえて王権の停止の側に立った。

こうした転向には、パリを破壊するというブラウンシュヴァイヒ公爵の宣言や、敵国軍の接近、フランス軍の敗走、それに加えて国王が防衛に熱意をみせないことが作用した。このように、非常に流動的な状態のままで、八月一〇日の日を迎えた。


チュイルリー宮殿の襲撃

八月八日、立法議会で懸案になっていたラファイエットの懲罰動議が、ラファイエットの行動を許すという形で決着がつけられた。武装蜂起を計画していたパリの諸区は、王権の停止を議会に請願して、その期限を八月九日と定めていたが、立法議会のラファイエットにたいする態度をみて、もはや議会主義の枠内ではどうにもならないことを悟った。八月九日の夜パリに警鐘が鳴り、パリの下町サン・タントワーヌ街、サン・マルセル街の住民と、マルセイユ連盟兵が武装してチュイルリー宮殿を包囲した。

チュイルリー宮殿は表むきスイス人連隊で守られていたが、この決戦の段階にくると、宮廷貴族から地方貴族にいたる多くの貴族軍人が合流し、スイス人連隊の制服を着て戦闘の準備をしていた。この段階に入ると、宮廷貴族の特権に批判的であるが故に革命に中立的な立場をとっていた地方貴族が、断固として国王を守る側に立った。それは、領主権の無償廃止がすすめられたためである。

このときに国王のまわりには、主義主張を越え、宮廷貴族から地方貴族にいたるちがいを越えて、貴族階級の中の行動的な人物が、王制を守る決意をもってチュイルリー宮殿に集合した。前近衛兵も加わった。高級貴族の一人、スイス人連隊長マイヤルド侯爵(陸宮中将)は、国王の護衛に奮闘し、息子と五人のスイス人将校とともに虐殺された。国民衛兵司令官をしたことのあるノアイユ公爵(陸軍少将)も亡命先から帰国して、国王を護衛し、議会に送りとどけ、そののち逃亡に成功した。

このような状態であるから、八月一〇日は貴族階級の命運をかけた死闘であった。それ以前には、このような血みどろの闘いはなかった。バスチーユ占領とそれにともなう市街戦でも、このような死闘はくりひろげられていない。それだけに、もし武装蜂起をした側が敗北をした場合は、チュイルリーに集まる貴族の軍団によるクーデター、すなわち立法議会の包囲、左派系議員の追放、粛清がおこなわれるはずであった。そうした運命を心配しながら、立法議会の議員は、この戦闘のなりゆきをみつめていたのである。そのため、ジロンド派のペチョンは、国王にたいして、武装蜂起の群衆を非難し、「力には力で押しかえす」と国王の側に味方するような発言をした。敗北したときの保身の術を考えたのである。

八月一〇日午前八時、武装蜂起の集団が勢揃いして、マルセイユ連盟兵を先頭に、そのあとにコルドリエクラブ員がつづき、門をあけろと要求した。スイス人連隊は門をあけ、帽子を高くあげ、開き窓から「国民万歳!」と叫んだ。友好の印に薬包を投げた。これで、敵側に攻撃の意志がないと判断した群衆は、安心して庭を進んだ。そこでいっせいに砲火が開かれた。二つの大砲から散弾があびせられ、宮殿のすべてに硝煙がたちこめた。これで約四〇〇人が倒された。

武装蜂起の群衆は、これに押されて一度後退し、態勢を立てなおした。このとき、近衛騎兵隊が蜂起軍に寝返り、後続の群集が武器をもって集まり、国民衛兵が味方について宮殿に再度突入した。あらゆる場所で必死の激戦になり、抵抗ははげしかった。武装蜂起の側は貴族軍人を虐殺しながら宮殿を占領していった。庭や建物一面バラバラにちぎれた手足が散乱した。戦闘が国王側に不利になると、ルイ一六世は立法議会に避難してきた。

「朕はここに大きな罪悪を回避するためにきた。諸君の中ほど安全な場所はないと考える」。

議長のヴェルニヨーは、

「陛下、議会はなんらの危険も考えません。これ以上のことが起きるとき、必要とあらば、自分の持場で死ぬことを知っています」

と調子のいい答えをした。

チュイルリー宮殿での戦闘が終り、武装蜂起の群集が議会を囲んだ。王権の停止と、普通選挙による国民公会の召集が要求された。立法議会はその圧力に屈した。議長ヴェルニヨーが国民公会の召集、王権の停止、国王を議会の保護のもとにおくことを提案し、可決された。この議論が進行しているとき、ルイ一六世は、議会でいつものように飲んだり食べたりしていたという。

八月一〇日で敗北した者は、フイヤン派系のブルジョアジーと自由主義的貴族であった。これに一群の地方貴族が合流して敗北した。彼らの残党は、それぞれの地方で反革命的暴動をくわだてた。ラファイエットとラメットは、前線の軍隊を率いてパリに向おうとしたが、支持者が思うように集まらなくて危険を感じ、ベルギーへ逃亡した。

ヴァンデー県の地方貴族シャレットは、チュイルリー宮殿の防衛に活躍したあと逃亡して故郷に帰り、半年のちには、ヴァンデーの反革命暴動の指導者になった。同じくヴァンデー県に領地をもっ宮廷貴族ラロシュジャッ

クランは、革命前陸軍少将、王の代理官であった。その息子がチュイルリー宮殿の防衛に参加し、ヴァンデーの暴動を指揮して、伝説的な勇名を残した。

フイヤン派系ブルジョアジーの代表的人物として、アルザスのディートリックをあげることができる。彼は鉄鋼王といわれた大鉄鋼業者で、金融業者出身である。伯爵として領主、貴族でもあった。ブルジョア領主、ブルジョア貴族の最上層にいる者であった。彼はラファイエット派の革命家となり、革命後はストラスブール市長になった。ラ・マルセイエーズは、彼のサロンで、将校ルージェ・ド・リールが作ったものであった。八月一〇日直前までは彼も革命家であったが、八月一〇日の直後、アルザスでフイヤン派系の反乱を起こさせようと努力して失敗し、亡命した。恐怖政治のころに捕えられて処刑される。


八月一〇日の結果

八月一〇日の事件で敗北したのは、フイヤン派である。これは誰にでもわかることであるが、そのフイヤン派とともに敗北したのがどのような社会勢力であるかということについては、各人各様の説があり、一定していない。実際には、フイヤン派を支持し、フイヤン派の立場でのフランス革命をすすめてきた勢力とは、ブルジョアジーの中の最上層の部分であった。彼らは、旧体制にたいする寄生性が強く、特権的な立場にあり、また領主としての側面を兼ねていた。

これに自由主義的貴族の同盟が成立した。自由主義的貴族は貴族、領主でありながら、さまざまなつながりで最上層のブルジョアジーと結ばれていた。それにしても、バスチーユ以来八月一〇日までは、基本的に最上層のブルジョアジーの権力のもとにあった。これが、フイヤン派の没落とともに権力の座から落ちたのである。

ただし、政党の没落と、それを支持する階級の没落とは別問題である。政党が没落しても、それを支持した階級がただちに没落するというものではない。その階級の利己的な要求が政治に反映されず、ある程度の犠牲を強いられるというだけである。たとえば、ジロンド派内閣が成立すると、債務償還の上限を切り捨てた。旧体制に寄生していたブルジョアのうちの何人かは打撃をうけた。しかしその程度の意味での儀牲であり、彼が銀行家として経営に成功しておれば、没落するほどのことはない。また、それ以前に大部分の債務の償還を受けていた者は、損失がわずかでくいとめられる。党派の没落は、フイヤン派系ブルジョアジーの没落につながらないのである。

同じく、領主権の無償廃止によって、貴族がいっせいに没落したわけではなかった。たしかに、領主権の維持をめざして、自由主義的貴族も地方貴族も奮闘し、それがチュイルリー宮殿の必死の防衛に反映された。しかし領主権が無償で廃止されたとしても、社会階級としての貴族は消滅しない。領主としての階級は消減した。しかし、領地の中には直領地があり、これはやはり貴族の所有地として残った。そして、領地の大部分が直領地であるという貴族もいた。この場合は、領主権の無償廃止は痛手にならない。この面でも、改革の効果はまったくバラバラであった。

領主権に服している土地を持つ貴族もいた。この貴族はかえって喜ぶであろう。困った貴族とは、領地をもつが、その中にほとんど直領地がなかったという領主である。貴族の中にも、領主権の廃止をめぐっていろいろな立場があった。チュイルリー宮殿で死んだ貴族は貴族全体の数からすればほんのわずかであり、大多数の貴族は、おとなしく自分の城に住んでいた。もし彼に直領地があれば、彼は依然として農村の大土地所有者である。ただ、領主権の廃止の部分だけに損失を受けた。このことは、自由主義的貴族についても地方貴族についてもあてはまる。


混乱した理論的解釈の実例

ところが、党派の没落と階級の没落を同じように扱いながら、フイヤン派のブルジョアジーを単に上層ブルジョアジーとか大ブルジョアと呼ぶ解釈がかなり一般的である。このような解釈をすると、つぎのジロンド派政権の支持者が大ブルジョアジーだといわれるから、一度没落した大ブルジョアジーが、ジロンド派の支柱として生きかえり、ジロンド派追放とともに消えさるという奇妙な矛盾が起こる。

そうした矛盾にすら気がつかないで、フランス革命史を書いている人が多い。

ソブールの『フランス革命』では、八月一〇日についてつぎのように書いている。

「自由主義的貴族および上層ブルジョアジーが没落したのである。宮廷と密通し、蜂起を制止しようと努めたジロンド党についていえば、この党派は自分のものならぬ勝利の結果、大きくはならなかった。これに反して、受動的市民、手工業者や商店主は、ロベスピエールと山岳党員達に導かれ、かがやかしく政治の舞台に登場した」(上巻、一八八頁)。

この文章では、八月一〇日で、すでに上層ブルジョアジーが没落をしたと思わせる。ところが、一年後のジロンド派の没落については、ジロンド派の背後に大ブルジョアジーがいたという書き方をしている。

「ジロンド党を擁して、ひたすら自分に有利なように統治しようとした大ブルジョアジーが、一時政治舞台から姿を消したのである」(下巻、四九頁)。

こうなってくると、八月一〇日に没落した上層ブルジョアジーが、つぎのジロンド派政権のときに、大ブルジショアジーと名前を変えて政権の座にいたことになる。これでは、上層ブルジョアジーと大ブルジョアジーのちがいはなにかという質問がつきつけられるだろう。

同じような書き方がマチェの『フランス大革命』にある。

「しかし、八月一〇日の砲声のもとに、王国とともに粉砕されたのは、ひとりフイヤン派(いいかえれば大ブルジョア階級と自由主義貴族)ばかりではなかった。臨終の宮廷となれあい、蜂起を妨げるのに必死になっていたジロンド派もまた、自分の仕事ではない、押しつけられた勝利によって力を弱められてしまった」(上巻、三〇三頁)。

こうして、大ブルジョア階級の粉砕をいう。ところが、その一年のちのジロンド派の追放について、大ブルジョワ階級が倒されたとまたいっている。

「したがって、六月二日は政治革命以上のものであった。サンキュロットがひっくりかえしたものは、ただに一党派だけでなく、ある点までは一つの社会階級であった。王位とともに倒れた少数の貴族のあとで、今度は大ブルジョワ階級が倒されたのである」(中巻、二九四頁)。

ここでも、一度粉砕されたはずの大ブルジョア階級がまた、ジロンド派の背後にいてジロンド派とともに倒されることになっている。そして、あとの方の文章では、八月一〇日に倒れたのは少数の貴族だけだといういい方をしている。そうすると、八月一〇日で貴族が倒され、ジロンド派追放で大ブルジョアが倒されたという理論的な結論になる。それならば、バスチーユはなんであったかということになろう。著者自身の頭が整理されていないことを表現するものである。

また、いったいジロンド派は八月一〇日の時点で大ブルジョアジーを倒す側にまわったのか、大ブルジョアジーの代表者になるために奮闘したのかという疑問もでてくるであろう。大ブルジョア階級は、フイヤン派と結んでジロンド派に敗れたはずであるのに、それが今度は、ジロンド派の背後にまわっているという、いかにも器用な転身のように解釈できる。このような解釈は、意外に一般的であるが、事実を正確に解釈できていない。

ジロンド派もまた、はじめから上層ブルジョアジーの党派であった。クラヴィエールがその代表的なものである。そして、フイヤン派の側にもまた、上層ブルジョアジーがいた。ディートリックとかボスカリのような者である。フイヤン派対ジロンド派の闘争は、それなりに、上層ブルジョアジーの中での闘争であった。両者を分けたものは、寄生的性格がどの程度であったか、特権をどの程度もっていたか、領主的性格があったかなかったかであった。

そのために、フイヤン派を倒したあと、ジロンド派政権が成立しても、別なグループの大ブルジョアジーが、権力の背後に立ったのである。このように解釈すれば、八月一〇日からジロンド派の没落にいたる過程が、首尾一貫して説明できる。

要約 第三章 フイヤン派の権力 五 敗戦と八月十日の武装蜂起

ここにきて戦争問題が重要になってくる。ただしどの派が賛成、どの派が反対という構図にはならない。どちらの側にも賛否両論があった。その中で、ジロンド派には積極的な人が多かった。もちろん、オーストリア、プロイセンの大軍が迫ってくるのであるから、反対と言っても意味がない。ただ、入ってくるのを迎え撃つのか、積極的に打って出るのかの違いがあるだけである。1792310日ジロンド派内閣が成立した。これが画期的な出来事であった。国王の任命よりも先に、閣僚を決めて、議会に通知した。国王個人の行政権を、宙に浮かせたことになる。しかも、新大臣のうち財務大臣(大蔵大臣)にはクラヴィエールを登用した。

スイス人銀行家、それまでの内閣が、旧制度の官職廃止に対して、手厚く補償をすることに反対してきた人物である。つまり「特権商人グループ」を優遇することはやめろという意見を持っている。これが財務の担当になった。当然旧体制の官職保持者にとっては不利になる。それに代わって、自助努力で成長してきたブルジョアたちに機会が回ってくる。亡命貴族に対する対策も、厳しくなってきた。

ついに「領主権の無償廃止」が提案された。ここのところを全力で注視して読んでほしい。この節では、ほかのことは忘れても、これだけは覚えておいてほしい。領主権の無償廃止は、ジロンド派の功績であること、これに尽きる。(ただしこの時期にはジロンド派という名称はないが)。しかもこの歴史学上の最重課題が、「だまし討ち」のような形で実現したということ、こういう実情をはっきりと指摘するのは、世界中でも私だけである。この後武力対決になって、王権の転覆になる。 

14-フランス革命史入門 第三章の四 立法議会の初期

 四 立法議会の初期


フイヤン派対左派

一七九一年九月三〇日国民議会は解散し、新憲法のもとで選ばれた立法議会が、一〇月一日に召集された。国民議会の議員は立法議会の議員になることができないという規定が設けられたので、議員はすべて入れかわった。

しかし、議会の党派はかわらなかった。

権力の指導権をにぎるフイヤン派は二六四名、野党的な左派が一三六名、無所属の中央派が三四五名いた。こうした色分けは、現代の政党政治の常識では想像することができない。議会政治がはじまったばかりであり、クラブも設立されたばかりである。お互いの気心もなかなかわからず、誰が何を考えているか、正確な情報をつかむこともむずかしい。

そうした中にあって、さしあたりフイヤン派と左派だけがまとまりをみせていたのであり、無所属の中央派は、一人一人がその時と情勢に応じて自分の判断で一票を投じた。

しかも、その数がたんぜん多い。そこで、フイヤン派が与党になっていたとはいえ、常に絶対多数をとってい

たわけではなかった。中央の多数派が左派に投票すれば、フイヤン派は敗れる。そうした不安定な条件の上に立つ与党にすぎなかった。これが、つぎの政争で立法議会の決議が目まぐるしく変化した原因である。

フイヤン派はラメット派とラファイエット派にわかれ、ラメット兄弟のテオドール・ラメットに率いられた。

大臣もラメット派から多く任命された。ラファイエット派は名門貴族の一部に指導されていたが、フイヤンクラブの中では、ラメット派にくらべて勢力が後退した。

左派の議員の多くはジャコバンクラブ系であり、この時点のジャコパンクラブは、後年のジロンド派と本来のジャコパン派の両方が一緒になっていた。さしあたり、ジャコバンクラブでの指導権は、ブリッソ、コンドルセ(侯爵)に率いられた派閥、後年のジロンド派系が指導的な立場にあった。本来のジャコパン派、すなわちのちのモンタニヤールになる者は、ランデ、カルノー、クートンなど少数の左派系議員であった。

コルドリエクラブからも、三人の議員が選出され、コルドリエ三人組を作り、極左派を構成していた。メルラン・ド・チオンヴィル、シャボ、バジールであり、恐怖政治の中で重要な役割を演じることになるが、当時はほとんど影響力がなかった。

ジャコバンクラブが野党であるとはいえ、場合によってはフィヤンクラブが敗れるばあいもあった。バイイの後任として、市長選挙が一一月一六日おこなわれた。このときラファイエットがフイヤンクラブから出馬し、ジャコパンクラブからペチヨンが打ってでた。その結果、ペチヨンが圧倒的多数で当選した。パリ市長は、ジャコバンクラブ(後年のジロンド系)ににぎられたのである。


全般的繁栄と政治的安定

この時期は、多少の政争があったとしても、ともかくフイヤン派の指導権のもとで、政治的安定が実現していた。たとえ、ジャコパン系がパリ市長選挙のように優勢を示したとしても、その争いは議会主義の枠内での闘争にとどまり、乱状態をまねくようなことにはならなかった。

シャン・ド・マルスの事件も反撃をまねくことがなく、共和派は、支持者を失って孤立するだけであった。農村住民が領主権に反対して暴動を起こした場合でも、簡単に鎮圧された。全般的にみると、政治情勢はフィヤン派の路線のもとで安定し、このまま、フランス革命の成果が固定化されるのではないかと思われた。

このような政治的安定は、経済的安定と繁栄に裏づけられたものであった。フランス革命といえば流血、混乱、破壊を連想させるのであるが、それは、これ以後にはじまる戦争と、極端な内乱が植えつけたイメージである。

さしあたり一七九一年までをみるならば、重大な騒乱事件は、バスチーユ占領とヴェルサイユ行進、シャン・ド・マルスの事件だけであった。この三つの事件では、目立った破壊がひきおこされておらず、死傷者の数も、せいぜい数百人どまりである。革命はおこなわれたが、破壊はなかったといってもさしつかえがない。

その革命の成果として、宮廷貴族の権力が取りあげられ、彼らの財政的特権が打ち切られた。財政政策は、商工業とブルジョアジーを保護するものになった。国家財政の絶望的な赤字は、高級僧侶の財産没収、売却とアシニアの発行によって救われた。

領主権の部分的廃止で、通行税とか市場税とかいった商品流通にたいする制限が撤廃された。狩猟権、鳩小屋権の廃止もまた、農業生産の向上に役立った。こうした改革によって、さしあたり経済は繁栄の局面を迎えた。このことをもう一度確認しておかなければならない。

革命といえば破壊だけを連想するべきではない。革命にともなう改革が、旧制度の弊害を除去したために、経済状態の好転をもたらしたのである。また、そうしたものであるから、市民が武器をとって、命がけで反乱を起こしたのである。もし外国との戦争がなければ、フランスは繁栄の局面をたどっていたであろうと想像することができる。

一七九一年一一月のジャコバンクラブの会議で、レデレーは、商業の非常な繁栄と工業の全盛期を迎えたことを指摘した。こうした事態を高く評価した人物が、どのような立場にあり、フランス革命を通じ、どのような線にとどまっているかを知るのも重要なことである。

レデレーはメッツ高等法院判事で、伯爵として貴族であるが、国民議会議員となり、ジャコバンクラブに属し、一七九一年の末にパリ県検事総長の地位をダントンと争って手に入れた。その一年後に起こるチュイルリー宮殿の襲撃では、国王を保護する立場に立ち、国王を議会に迎え入れることに尽力した。国民公会では平原派議員として国王の裁判に反対したが、粛清されずに生き残った。ナポレオンのもとでは、元老院議員、ジョセフ・ポナパルト王の大蔵大臣となり、王政の復活で失脚するが、七月革命で、ルイ・フィリップ王のもとで貴族院議員になった。

このような人的系譜が、一七九一年の政治経済的指導者の性格を象徴している。それが、ナポレオン権力そして七月王政へとつながっていく。

当時、輸出も増加し、商品が多くなり、かえって通貨の欠乏が感じられ、リヨンではアシニアを補充するための信用紙幣を発行するようになった。こういう状態であるから、当然物価は下落した。革命直前と一七九一年の物価をくらべてみると、パンの値段は約四三パーセントの下落になった。肉の値段は四一パーセントから三〇パーセントの間に下落した。このため、下層階級の生活は安定し、それが騒乱状態を遠ざける効果をもった。

すでに一七九一年の春には、アシニアの価値は下落をはじめた。紙幣の価値が下落すれば、物価は上るはずである。しかし、六月までは、まだ五〇リーブル以下のアシニアは発行されていなかった。この年の五月に、少額のアシニアを一億リーブル製造する法令が作られたが、実際に流通して、これが効果を示しはじめたのは、かなり遅れてからであった。さしあたり、一七九一年の前半までは、労働者や職人の日給は、アシニアではなくて正貨(金属貨幣)で支払われていた。つまり、小銭は正貨で流通し、紙幣としてのアシニアは高額紙幣として、中流以上の市民の間に流通していたのである。

正貨の価値は下落せず、かえって物価が下ったのであるから、下層民の生活は革命前よりは安定した。これでは、たとえ国王が逃亡し、共和派がそれに乗じて革命運動を進めようとしても、大多数の下層民はその運動にのってこない。そこに共和派の孤立があった。

そうした社会的安定をみて、フイヤン派の権力も余裕を示すことができた。憲法の成立を祝って大赦令がだされ、共和派も釈放されたが、貴族の反革命派もまた釈放された。こうした政治、経済的な安定の時期があったということは、ほとんどのフランス革命史で正確にえがかれていない。

どれを読んでも、物価は常に値上りして、下層民の生活は常に苦しく、食糧危機は連続して起こり、それがつぎの騒動へ発展するという形で革命史が描かれている。これは、つぎに起こるべき事件をすでに知っているから、それの説明として、万年危機論的な解釈をするためである。実際はそういうものではなくて、わずかな時期ではあっても、安定の時期を迎えたのである。そして、当時そこに住む人間の意識からするならば、このままの状態が永遠に続くのではないかと思ったはずである。誰も、そのつぎにくる騒乱状態などは想像できないはずである。


インフレ、買占め、暴動

一七九一年の後半に入ると、そろそろ物価問題が取りあげられた。それを見越して、いちはやく宣伝、煽動をはじめたのがエべールであった。彼の『ペール・デュシエーヌ』では、八月一八日、つぎのように書かれているが、この文章は、当時の社会的特徴を鋭くとらえている。

「大いなる怒り……すべてのパリの公債所有者、商人、工場主が正貨を買占め、貴族、僧侶の絶対主義を再建しようとしている。彼らは貴族階級の爪の中で、われわれに陰謀をくわだてていることがわかった。すべての商人、すべての小売商人--食料品商、酒屋、ぶどう酒製造人、一口にいえばわれわれから盗み、われわれを毒殺しようとするやつら--彼らが正貨の欠乏を利用して富んでいるのをみた。われわれのすべての銀貨を買占め、これを亡命貴族に売却し、輸送しているのをみた。彼らはまた、すべての小銭をなくなるようにしてしまった。

それでいま、紙幣しかみることができない。いまや、彼らが人民から盗んだものを、はきださせる必要がある」。

エべールは、貴族、僧侶の絶対主義にかわって、ブルジョアジーの絶対主義が生れ、その新しい支配者が下層階級を犠牲にして富みつつあることを見ぬいた。しかも、アシニアの下落を見越して正貨(金属貨幣)を買占め、そのことによって、物価騰貴の原因を作りつつあることを予告している。事実、こうした傾向が、やがて来るインフレの引き金になった。

現実の物価騰貴は、一七九二年一月にはじまった。このときは、,パンの値段はまだ下落したままであったが、特定の商品、とくに砂糖の価格が暴騰し、それにつれて木綿、羊毛の価格が上昇した。当時労働者は、朝食を牛乳と砂糖入りのコーヒーでとっていたので、労働者の不満が高まった。木綿、羊毛の価格上昇については、工業家の不満が高まり、彼らは原料の輸出を禁止するように議会に請願した。この工業家の要求は押えられたままであったが、恐怖政治のとき、航海条令となって実現されることになる。

砂糖の価格の騰貴は、植民地ドミニ力の反乱によるものと説明されたが、ジャコバン派のブリッソはその説明を否定して、両者は無関係であるといった。それではなぜ砂糖の価格が騰貴したかといえば、これは買占めによるものであった。国民議会がアシニアを発行して革命前からの債務にたいして補償をおこなった。つぎに、旧体制のさまざまな官職、すなわち、法服貴族からはじまり手工業の親方職にいたるまでの、官職売買の制度にもとづくものについて、廃止する代りに補償金としてアシ=アが支払われた。

もっとも多くのアシニアを手に入れた者は、最上層のブルジョアであった。自由主義貴族の政治家も多くのアシニアを手に入れた。彼らは、手に入れたアシニアを、なんらかの物に変えようとした。竸売にだされた教会、修道院の土地、建物を買込み、寺院を倉庫にかえた。商品に投資して、買占めた商品をここにたくわえた。さらに、あまったアシニアを、正貨すなわち貴金属貨幣と交換し、財産の保全を計った。このような投機と買占めが盛んになり、その結果として、特定商品の急騰が起こったのである。これをおこなったのは、革命を指導した最上層のブルジョアや自由主義的貴族であった。

その象徴が、大商人ボスカリであった。彼は銀行家、食料品商人、株式仲介人、工場主を兼ね、ケース・デスコント理事長をしていた。パスチーユ占領のときには積極的に参加し、パリコミューンの食料委員となり、フイヤンクラブに加入し、ジャコバンクラブにも参加していた。立法議会の議員となり、公債委員会、商業委員会、財政委員会で活躍した。

このボスカリが、砂糖の買占め人として非難され、群集に襲撃された。もちろん、彼の家だけではなくて、買占め人とみられた商人の何人かが、破壊や放火の対象になった。これが一七九二年一月二〇日のことであった。

軍隊が出動してこれを鎮圧したが、この事件が立法議会での闘争を激化させる引き金になった。

ボスカリは、議会に手紙を送って群集の行為を非難し、秩序の回復を要求した。しかし逆に、買占め、投機を非難する反撃もおこなわれた。ジャコバンクラブでは、ボスカリ一族は、ダントンの友人で商人のルクレール・サントーバンから買占め人として告発された。この騒ぎの中でボスカリの経営が破綻し、六月には破産の申し立てをおこない、議員を辞任せざるをえなくなった。

ただし、この問題がフイヤン派対ジャコバン派の全面的対立になったかどうかといえば、必ずしもそうでない。ジャコバンクラブの中にいた、のちのジロンド派系にも大商人が多く、彼らから選出された当時のパリ市長ペチヨン自身も買占めの告発を受けた。

同じくジロンド派系の議員で、ボルドーの大商人デュコは、商業の統制が港湾都市を破減させるといって、買占め反対運動に反撃した。そのため、買占めにたいする非難や商業にたいする統制の声はあがっても、議会はなんらの手段もとらなかった。


インフレ対策

アシニアの価値は下落をはじめ、一七九一年の終りに、正貨にくらべて二割下落した。こうした事態をどのように考えるかについて、フイヤン派とジャコバン派の間に論議が展開された。これは、国家財政全般をめぐる論争点にもなった。

国家財政の制度が国民議会によって改革され、宮廷貴族にたいする巨額の支出は打ち切られ、赤字の基本的原因は除かれた。本来ならば、これで黒字になるはずであったが、一七九一年の一〇月三一日現在で、九億リーブルの累積赤字になるという報告がなされた。一七九一年度の支出は七億四五〇〇万リーブル、収入は五億八三〇〇万リーブルとなり、赤字は一億六二〇〇万リーブルとなった。

このように赤字が増加していったのは租税の徴収がすすまなかったためである。新しい租税の基本としての地租の徴収が、土地所有者の抵抗によって進まず、この年の地租(不動産税)を完納したのは、ただ一つの県だけであった。

こうして生じた赤字を補充するためにも、アシニアの増発という手段が使われた。アシニアは、旧体のもとでの債務の補償や廃止された官職の補償にも使われながら、赤字の補充にも使われた。一七九一年一二月一七日、議会はアシニアの発行額を一六億リーブルに増加させた。

このとき、一群の議員が、アシニアの増発はその下落をもたらし、物価の騰貴をひきおこすといって増発に反対した。

クラヴィエールは一一月一五日、議会で演説し、アシニアの信用を維持するためには、債務の償還を厳正にしなければならないと演説した。この意味は、旧体制のもとから引きつがれてきた国家に対する債権と称するものの中に、かなり疑わしいものや不正なものがあり、この清算をめぐって多くの不正行為がおこなわれているので、もっと厳重な検査をして、国家の負債額を縮小せよというのである。そうすれば、アシニアの増発がさけられ、信用が取りもどされる。たしかにこれは合理的な提案であった。

しかし、当時の多数派であったフイヤン派には、旧体制に寄生していた特権的なブルジョアが多かった。徴税請負人、特権商人、国債の大所有者、官職の所有者であった。彼らは、自分達の特権や官職の廃止にともなって、有利な補償額を手に入れようとして、それそれが国家と掛け合っていたのである。清算局長デュフレーヌ・サンレオンもまた、そのような立場の最上層の銀行家であった。そこで、この時期には、債務の清算を厳格にせよという意見は、野党的な意見にとどまったのである。

ただ、野党的な意見を主張したクラヴィエールもまた銀行家であったことは、注目すべきことである。彼はジュネーヴから来た銀行家であり、ミラボー、ブリッソと親交を結び、王立生命保険会社の理事になるほどの大銀行家であった。しかも、一年のちにはジロンド派内閣の大蔵大臣になった。そのような立場であるから、彼の親友ブリッソもまた、クラヴィエールの提案を支持して奮闘した。この日議長をしていたヴェルニヨーも、のちのジロンド派系であるから、この提案に賛成した。

財政委員の一人力ンポンも、クラヴィエールの提案を歓迎した。カンポンは、南仏モンペリエの大商人、工場主であり、恐怖政治の時期の財政委員会議長になり、実質的には大蔵大臣の役割を担った。その意味では、フイヤン派に対して、のちのジロンド派から恐怖政治の推進者にいたる勢力までが、まとまって野党の立場に立ち、債務の清算を規制しようとしたのである。

しかし、立法議会の多数は、大反対を唱えてこの提案を否決した。カンポンは、償還のための支払を、アシニアが国庫に還流してくるのにしたがって順番におこなうべきだと主張したが、これも拒否され、一二月九日、「請求権のある国庫債務の償還は中止するべきではない」という法令が、熱狂のうちに可決された。

この事件は、ブルジョアジーの中での性格の相違が、アシニアの信用をめぐって対立にまで進ませた事件であった。フイヤン派のブルジョアジーは、旧体制にたいする寄生性が強い者であり、そのため、債務の補償をすすめるためにはアシニアの下落も辞さないというグループであった。クラヴィエール、カンポンに代表される勢力もまた、銀行家、商人、工業家であったが、彼らは寄生性がよりうすかったのである。しかし、さしあたりまだフイヤン派系のブルジョアジーが優勢であった。


左派の攻勢

亡命貴族にたいする対策も争われた。ジャコバン系は、王弟と王族財産の没収を要求し、一一月九日に可決させた。一一月八日、亡命貴族の財産没収と死刑の適用を含む法律が、フイヤン派の抵抗をおしきって可決された。

 この処置は、ピルニッツ宣言にたいする報復であった。王弟と亡命貴族はドイツに集まり、オーストリア皇帝とプロシヤ王に働きかけた。そのため両国は、フランス革命政府に対する干渉戦の準備をすすめていた。その予告として、一七九一年八月二五日に出されたのが、ピルニッツ(南ドイツ)におけるオーストリア皇帝とプロシヤ王の共同宣言であった。ここでは、フランス国王の権利を回復するために、両国が武力を行使する決意であることがのべられていた。二人の王弟は、この宣言を利用しながら、もし革命フランスがルイ一六世に危害を加えたばあいには、オーストリア、プロシヤの軍隊がパリを破壊するであろうという脅迫的な声明をおこなった。立法議会は、こうした王弟と亡命貴族の行動を、フランスにたいする敵対行為とみなしたのである。

しかし、ルイ一六世は、法務大臣デュポール・デュツルトルを通じて、王弟についての法令は承認するが、亡命貴族についての法令は承認しないと通告した。

僧侶基本法にたいする宣誓を拒否したいわゆる忌避僧侶の問題も争われた。イスナールが、忌避僧侶の国外追放と、外国への革命の拡大を要求するはげしい提案をおこなった。しかし、これには左派だけが賛成して、議会の同調は得られなかった。イスナールも、のちのジロンド派の指導者になる。つぎに、フランソワ・ド・ヌーシャトーが、忌避僧侶にたいする俸給を停止し、彼らを監視することを提案し、可決された。これにたいしては、フイヤン派が国王に請願書をだして、この法律を拒否することをすすめ、拒否権を発動させた。これが一二月八日のことである。これにたいして、国王の拒否権を攻撃する動きも高まり、カーミュ・デムーランは、パリの諸区の署名を集め、国王攻撃の運動を起こした。

植民地問題でも複雑な対立が起こった。ドミニカにおいて、有色人種と混血人が合流して反乱を起こした。これが一〇月二七日に議会で報告された。植民地大地主のラメットに代表されるラメット派は、軍隊の派遣と反乱の鎮圧を要求した。コルドリ派を代表して、メルラン・ド・チオンヴィルは人権宣言と奴隷制の存続は矛盾すると主張した。

しかし、ジロンド派はこの問題で複雑な態度をとった。パリ出身のブリッソやクラヴィエールは、植民地にたいする人権宣言の適用を自由に主張できた。しかし、ポルドー、ナント、ラロシェルの商人は、植民地貿易に深いかかわりをもっていたため、議会にたいして軍隊の派遣を熱心に主張した。しかも、彼らは黒人貿易の存続も主張していた。

これら大商人に支持されて議会に進出したジロンド派の議員、たとえばヴェルニヨー、ガデ、ジャンソネなどは、フイヤン派と対立して民主主義的政治家の評判を高めていただけに、大西洋沿岸都市の商人の圧力には、困惑を感じた。結局、彼らは軍隊の派遣に同意したが、混血人に選挙権を与えて有色人種から切りはなし、しかも、商人が、債務者たる土地所有貴族の財産を差し押えることができるという改革案を提案して、フイヤン派に対立した。


戦争問題とラメット派の後退

戦争の問題については、フイヤン派にもジャコバン派にもそれそれ分裂があり、必ずしもフイヤン派対ジャコバン派の図式にはなっていなかった。もっとも好戦的な党派は、ジャコバン派の中の将来のジロンド派議員であり、彼らは、一種の世界革命論的な主張を唱えていた。

ドイツ諸侯とオーストリア皇帝、プロシア王がフランスの亡命貴族を援助していた。また、フランスからドイツへ亡命した高級貴族の多くは、ドイツにも領主と血縁関係があった。ドイツの諸侯が、フランスの宮廷における官職をもっていた場合もある。そうした意味で、革命フランスにたいする反対運動が、ドイツを根拠地として根強くつづけられた。ジロンド派は、この反革命の策源地を叩けといった。そのうえ、外国にアシニアを拡大することによってアシニアの下落をくいとめることできると主張した。

しかし、同じくジャコバンクラブに参加していた者でも、のちのモンタニヤール(山岳派)系の活動家の何人かは、戦争に反対した。議会の外では、ロベスピエール、マラが、闘争するべき敵は国内にいるという理由で戦争に反対したが、当時は彼らはきわめて少数派であった。

フイヤン派の中では、ラファイエット派が戦争賛成論に進んでいった。ラファイエット派がその方向に進んだのは、買占め反対の暴動や批判が高まっていくので、この危機を対外問題にそらした方が有利であると判断したためである。

ただし、フイヤン派の中のラメット派は戦争に反対を唱えた。ラメット派は、戦争を起こすことが植民地貿易に打撃を与えるので、植民地貴族の利害から反対したのである。しかし、ジロンド派の開戦論が立法議会の多数を制していくのにつれて、ラメット派の勢力は後退した。

一七九一年一二月九日、陸軍大臣デュポルタイユにかわってナルボンヌが就任した。ナルボンヌは伯爵、フイヤン派の将軍、スタール夫人(ネッケルの娘)の愛人であったが、好戦的性格をもち、スタール夫人のサロンでコンドルセ、ブリッソ、イスナールなどジロンド派の指導者と交際した。バルナーヴはナルボンヌを監視する必要があると王妃に書き、戦争反対論を強力に唱えて奮闘したが、孤立して九二年一月パリを去った。

外国の側からも戦争へ突き進むような宣言がだされた。一七九一年一二月三日、オーストリア皇帝(神聖ローマ皇帝)はフランスにたいして、「一七八九年八月の時期以後になされた改革のすべてを停止し、関係者から取り上げられたすべての収入を元に戻すこと」を要求した。

ルイ一六世と王妃も、この頃になると戦争を望むようになった。戦争によって、フランス革命政府が敗北する以外に、自分達には救いがないと思いはじめたのである。

戦争問題をめぐる最後の闘争は、陸軍大臣ナルボンヌとラメット派の外務大臣ドレッサールの間でおこなわれた。ドレッサールは、オーストリア皇帝と通信して戦争を回避しようとつとめていた。閣議での対立の結果、まずナルボンヌが罷免された。しかし、すぐにジロンド派の反撃がおこなわれて、ドレッサールが辞職に追い込まれた。

 

要約 第三章 フイヤン派の権力、四 立法議会の初期

立法議会の党派について、他のフランス革命史にはない説明が行われているので、そこを注視してください。フイヤン派の人数、左派の人数を書き、中央派の人数を書いた。最初からこのように正確に書くフランス革命史は、他には存在しない。だからフランス革命の事件が誤解されて世に残る。これが私の一貫した主張である。私は、中央派を重視する。その数は、フイヤン派と左派をまとめても、ほぼ同数になる。つまり多いのだ。だから、フイヤン派が多数派だからといって、数の力で押し切ることができない。では中央派の出方を探って、とはいっても、一人一党主義、是々非々主義、勇者もいるが、臆病者もいるというわけで、計り知れない。これで決議が左右に揺れることになる。

この効果が、世界史的に最大の問題とされること、すなわち「封建的権利の無償廃止」を可決するときに発生した。そういうことを、次の節を見る時に思い返してほしい。それにしても、この時期、経済は繁栄をはじめ、政情も安定してきた。こういう時期もあったことは念頭においてほしい。フランス革命といえば、騒乱、騒動ばかりだという印象があるからです。その幸せな時期があって、そろそろ風雲急を告げる段階に入る。下からは物価問題、上からは亡命貴族とオーストリア皇帝の威嚇、この二つでフランスは地獄に落とされた。このような流れで、次の節に入るとよい。


13-フランス革命史入門 第三章の三 国王の逃亡とシャン・ド・マルス事件

 三 国王の逃亡とシャン・ド・マルス事件


国王の逃亡計画

一七九〇年一〇月、ネッケル派の大臣が辞職に追い込まれたころから、国王の逃亡計画がひそかに進行した。

亡命貴族や高級僧侶がひそかに国王と連絡をとり、王権の回復のための行動を模索しはじめた。一七九一年二月、懐剣騎士団が国王を宮殿から奪回する計画をたてたが、失敗した。六月には、ヴァンデー県でレザルディエール男爵の反革命暴動がひきおこされた。

一七九一年四月一三日、ローマ法王が僧侶基本法を公式的に非難すると、基本法に宣誓した僧侶も撤回するようになり、非宣誓僧(忌避僧または反抗僧)の数が多くなった。そうすると、非宣誓僧にたいする示威行動や圧迫がはげしくなり、非宣誓僧と宣誓僧(立憲僧)の間に、信者の争奪戦がおこなわれた。このような中で、僧侶の多数が反革命へと移行した。

これらの情勢の上に立って、国王はパリにとどまって国民議会と妥協していくことの無意味さを認めた。そのとき、革命家として有名になり、しかも左派の指導者としてみられていたミラボーが、転向して王の逃亡計画を進めた。国王がメッツその他の安全な場所に移り、将軍に守られて国民議会の解散令をだし、全司令官に秩序を維持する命令をだし、全貴族に王を守れと呼びかける。ミラボーは、パリに残って国民議会の動きを監視するというものであった。

この計画を進めているうちにミラボーはとくに王妃にたいする評価を高めた。「君は王妃を知るまい。あふれるばかりの能力をもった勇気ある男性ともいうべき人だ」。これ以後、ミラボーは転居して、かってないほどの豪奢な生活をしはじめた。その費用は、王弟プロヴァンス伯爵からもだされ、国王からもだされた。また、ダランべール太公も王妃に心服していたので、この計画の仲介役をつとめた。しかし、四月二日、ミラボーは放蕩生活がたたって急死した。

彼が死んだとき、まだ彼の反革命的陰謀は公表されず、わずかにエべールがミラボーを非難していた程度であった。そのため、ミラボーは、すぐれた革命家としての評価を維持していた。彼のために盛大な葬儀がおこなわれ、革命の象徴として、パンテオンに祭られた。のちになって、彼の陰謀が暴露された。

ミラボーのあと、国王の脱出計画はフェルゼン伯爵によって進められた。彼は、フランス国王に任えるスウェーデン連隊の連隊長であり、王妃の恋人でもあった。脱出した国王一家を国境でブイエ侯爵(メッツ軍団司令官、ラファイエット派)が迎えて、国境の外に送りだす手はずがととのえられた。

一七九一年六月二〇日、国王一家は予定通りチュイルリー宮殿を脱出し、馬車で国境をめざして逃走した。しかし、国境近くのヴァレンヌで、町の郵便局長ドルエに見やぶられた。ドルエの通報により、たちまち国王の馬車は群集にかこまれた。ブイエ侯はこの報道を聞くと、ドイツ人連隊や貴族将校を集めて奪回にむかったが、群集に恐れをなして退却し、そのままドイツへ亡命してしまった。国王一家は、国民議会から派遣された委員によってパリに連れもどされた。これがヴァレンヌ逃亡事件である。


国王廃位の要求

ヴァレンヌ事件は、国民議会における対抗関係に新しい要素をつけ加えた。まず、もっとも右翼的、保守的な貴族議員や忌避僧侶が、あいついで亡命した。軍隊の貴族将校からも、大量の亡命者をだした。国内に残っている高級僧侶や高級貴族のうちで、王党派とみられた者は、監視されたり監禁されたりした。

他方で、最左翼のコルドリエクラブは、ロべールの指導のもとで、王政を廃止して共和国を宣一言するための請願書を作成した。国民議会では、最左派のペチヨン、ヴァディエ、ロベスピエールが国王の裁判を主張した。ペチヨンはのちのジロンド派の指導者、ヴァディエは恐怖政治の保安委員、ロベスピエールが公安委員であったことを思えば、この時点での国王の廃位については、後年のジロンド派とモンタニヤールが、共同の歩調をとっていたことをうかがわせる。

ただし、当時のジャコバンクラブは、コルドリエクラブとはちがって、ルイ一六世の退位と、オルレアン公の摂政政治を要求する請願書を作った。これは、ブリッソとダントンの主張をもとにしたものである。もともと、ブリッソは、オルレアン公と革命前から深いつながりがあり、オルレアン公の政権を実現させようと努力していた。彼は、ルイ一六世個人を廃止したとしても、王政そのものを廃止するつもりはなかった。

こうして、コルドリエクラブとジャコバンクラブの間にも方針の統一がなく、お互いに非難の応酬をしている状態であった。ただ、ルイ一六世の退陣をもとめる運動はさかんになった。


フイヤンクラブの結成

こうしたルイ一六世廃位の運動に対抗して、国民議会の貴族政治家は、ほぼ一致して国王を守ろうとした。それまで、貴族革命家は、ラファイエット派かラメット派のどちらかに属していた。しかし、ラメット派はジャコバンクラブからはなれつつあった。ラメット派がジャコバンクラブから離れていく傾向をみせたのは、植民地問題でつきあげられた頃からであった。

人権宣言を植民地の有色人種にまで拡大するかどうかが、ジャコバンクラブの論争点になっていた。一七九〇年二月二六日、ジャコバンクラブの会議で、ナントの船主を代表してモスヌロンが、植民地の一切の改革にたいして反対した。黒人貿易を存続させること、有色人種にも混血人にも参政権を与えないことを要求しながら、インド会社の廃止を要求している。これが当時のラメット派の立場であった。

インド会社を攻撃することにおいては進歩派であり、植民地の改革に反対する点では保守派である。このようなナントの貿易商人と植民地大地主のラメットが金融的に結びついた。それだけにラメットが貿易商人の政治的な代弁者になったのである。一七九一年五月、国民議会は混血人に参政権を与えたが、九月にそれを取り消した。これはラメット派の反撃によるものであった。そこで、ジャコバンクラブにおいては、ラメット派は白人植民者の代弁者として批判され、孤立していった。

そこへ国王の逃亡事件が起こり、ジャコバンクラブの多数がルイ一六世の廃止を決議した。ラメット派は、もはやジャコバンクラブに残留する意味を失った。こうして、七月一六日、ラメット派はジャコバンクラブから分離して、ラファイエット派と合同してフイヤンクラブを結成した。フイヤンクラブの議員が国民議会の多数派となり、ジャコバンクラブにとどまった議員は、ペチヨン、ロベスピエールほか数人になった。


シャン・ド・マルスの虐殺

ルイ一六世の退陣を求める運動にたいして、ラファイエット派とラメット派は、共同で王位を守ろうとした。パリ市長バイイは、ルイ一六世が誘拐されたのであって、自分の意志で逃亡したのではなかったという解釈を広めた。ラメット派のバルナーヴはヴァレンヌに派遣された委員であったが、国王一家を捕えにいきながら、帰り道にはすでに王妃の相談相手になった。バルナーヴと王妃の恋物語が、革命史のエピソードになるくらいの転向であった。

バルナーヴはグルノーブルのブルジョアの家に生まれ、母は貴族であった。弁護士となり、モンテスキューの三権分立思想をかかげて革命運動に入り、ムーニエとむすんで、ドーフィネ州の革命運動(屋根瓦の日)を指導した。ムーニエが保守化したのちも、彼はラメット兄弟、デュポールとむすんで民主主義者の偶像になっていた。しかしヴァレンヌ事件で、国王と王妃の側に立った。

彼と王妃との間に交わされた手紙は、ルネ・ペリソンという貴族、連隊長が仲介した。ペリソンはバルナーヴと同郷の知り合いであり、ペリソンの妻が王妃の女官で王妃の部屋に寝ていたために、彼は自由に宮殿に出入りできた。その立場を利用して、王妃とバルナーヴの手紙を持ち運んでいた。

こうした事情のため、国王を守る運動の先頭にバルナーヴが立った。彼は七月一五日の投票の時に演説した。

「われわれは革命を終えようか。それとも始めようか。……これがもう一歩自由の線にふみこめば、王制の破壊となるだろう。もう一歩平等の線にふみこめば、財産の破壊になるだろう」。

議会の多数は賛成して、ルイ一六世の王位は守られた。しかし、ジャコバンクラブでの批判ははげしかった。ラメット派はもはやジャコバンクラブにとどまることはできず、分離してラファイエット派と合同した。これが、翌七月一六日にフイヤン修道院で結成されたフイヤンクラブであった。フイヤンクラブが議会の多数派となった。

七月一七日、コルドリエクラブを支持するパリ市民の一団がシャン・ド・マルス広場で共和制の請願をめざして集会を開いた。議会はこの集会に解散命令をだし、国民衛兵を派遣した。国民衛兵の発砲によって、数百名の死傷者をだしたのちに、共和派にたいする弾圧がすすめられた。

コルドリエクラブは一時閉鎖され、指導者が逮捕された。共和制の請願を起草したロべール(『パリの革命』の編集者)、『人民の友』を出版していたマラ、『ペール・デュシエーヌ』を出版していたエべールも追求をうけた。新聞の発行は不可能になり、それぞれの革命家は潜伏した。

共和派だけではなく、ジャコバンクラブを足場にオルレアン公の摂政を主張していたダントンも危うくなった。彼はイギリスへ亡命した。この事件が「シャン・ド・マルスの虐殺」といわれるようになった。フイヤン派の権力が、軍事力と警察力を背景として安定した。パリ市長バイイは翌日議会で演説した。

「犯罪がなされ、法の正義は試練をうけた。公共の秩序は破壊され、陰謀の連合が作られた。われわれは報復のため法を公布した。煽動者は力をたのみ、官吏と国民衛兵に発砲したが、犯罪にたいする懲罰は、犯罪者の頭上におちかかるだろう」

国民議会議長シャルル・ド・ラメットはバイイを祝福し、国民衛兵を讃美した。

バルナーヴは七月二一日、王妃に手紙を書いた。

「王制を安定させたのち、秩序、平静、法への尊厳を確保する必要があります。革命は終らせなければならない。これが一貫した目標であり、その時期がきました。無秩序は抑圧され、政府はその全活動力をとりもどし、法はきびしく施行されるでしょう」。


憲法の制定

シャン・ド・マルス以後、しばらくはフイヤン派の指導権が安定した。フイヤン派には、自由主義的貴族(領主)とブルジョアジーの最上層が結集していた。そのため、彼らの有利な政策が実施された。農業問題では、領主権の維持と確保を目的として、八月二七日、貢租の増加が決定され、九月二八日、農業法が可決された。ここでは、領主権を土地所有権と呼び、これを神聖なものと規定した。

九月三日、憲法が成立した。もともと、国民議会の主な任務は憲法の制定であるとされていた。「憲法が制定されるまでは、国民議会は解散されない」ことが、「テニスコートの誓い」の趣旨であった。そのため、国民議会は別名、憲法制定議会(制憲議会)といわれた。この憲法が新しい国家の体制を規定した。新しい国家の体制は立憲君主制であり、行政権は国王に属し、立法権は議会に属するが、国王に拒否権を認めた。議会は一院制国会で、議員の選挙権も被選挙権も、ともに一定の租税をおさめる者に限定して与えられることになった。

当時は職人、労働者、日雇人、失業者、貧農は租税をおさめていなかったので、租税をおさめる者というだけで選挙権はかなり制限された。選挙権をもつ者を「能動市民」と呼び、もたない者を「受動市民」と呼んだ。これで、政権に参加できる者は、すくなくとも手工業の親方や小商店主、あるいは中農以上の者に限定された。能動市民は三日分の労賃以上に相当する租税を支払う者であり、約四〇〇万人と計算された。これにくらべて選挙

権のない受動市民は約三〇〇万人であった。

全国は、四三の県に分割され、県の下に郡と小郡が置かれた。「フランス王国は唯一にして不可分」と宣言された。旧体制のもとでは、外国人領主の領地や外国扱いされていた地方があり、かならずしもフランス王国の領土として認められていないものがあった。そのような習慣を廃止して、フランスを完全な統一国家にすることを宣言したのである。

国家統一の度合をくらべるならば、絶対主義の時代よりはむしろ、民主主義的フランスの方が、かえって強くなったというべきである。中央集権は、絶対主義よりはむしろ、市民社会になる方が強められるということを示すものである。日本の学者の中には、絶対主義といえば、極端な中央集権であるかのように思っている人が多い。しかし、革命フランスが、絶対主義フランスよりも中央集権を強化したことを考えるべきである。

こうして、憲法の制定とともに、フランス革命の第一段階が終った。権力は、自由主義的貴族と最上層のブルジョアジーの手ににぎられ、これがシャン・ド・マルス事件によって安定した。財政の実権も彼らににぎられ、高級僧侶の財産(土地と建物)は、競売を通じて、権力の座にいる者の手にその最大部分が移りつつあった。そのうえで、旧体制の時代に生きつづけてきた封建的分裂の名残りが一掃され、近代的統一国家が形成された。


新制度にたいする左右からの非難

こうした方向にたいして、二つの側面から批判がおこなわれた。一つは左翼の側からである。左翼といっても、下層民からはじまって、ブルジョアジーに属するものが含まれている。党派でいうならば、のちのジロンド派から山岳派(モンタニヤール)、ジャコバン派系を含み、さらにはコルドリエクラブ系までを含む。

ジロンド派の指導者になったロラン夫人は、シャン・ド・マルス事件を「虐殺」と呼んで非難した。のちにジロンド派を追求する立役者になったマラは、この当時、絶望的な気持になっていた。九月二一日に書いた文章は、それをあらわしている。

「バスチーユを破壊した者は、少数の貧困な人々である。彼らを動かしてみるならば、あの最初の日と同じような状態を示すだろう。当時、彼らの行動は自由であった。しかしいまは彼らはつながれている。……いまでは、バスチーユ占領以前に、いっそう自由から遠ざかっている」。

マラの目からみれば、フイヤン派支配のもとの人民は、旧体制のもとの人民よりも、もっと抑圧されているということになる。

右翼の側にも不満が高まった。国王が九月一三日憲法を承認すると、亡命貴族は国王と王妃にたいして激怒した。

とくに、王妃にたいして怒りが集中した。亡命貴族はルイ一六世を国王とみなさないような発言をおこなった。これにたいして、国王と王妃は、亡命貴族やこれと組んでいる王弟を、事情を知らない者として非難した。

こうして、亡命貴族と国王夫妻の間に亀裂がはいったが、これを権力の座にいるフィヤン派は喜んでいた。

バルナーヴは王妃にたいして書いた。「貴族階級は現在、王と王妃から憤満やるかたなく遠ざかっていくようにみえます。それはよいことです。なぜなら、それが人民を王と王妃の側にひきもどす要因になるからです」。

バルナーヴは国王夫妻を宮廷貴族の王からフイヤン派の王に転向させようとしていたのである。これを心配そうに外国でながめていたのが、フェルゼン伯爵であった。彼は九月二五日、日記に書いた。

「王妃はバルナーヴにひきまわされて、王族に対立している。すべてがわるくいっている」。

一〇月三日、王妃にたいして書いた。

「あなたの心を過激派(バルナーヴ)に与えないで下さい。彼らは、あなたにとって最悪のことをする卑劣漢です」。

これにたいして、王妃の返事が一〇月一九日に出された。

「安心しなさい。わたしは過激派のなすがままにはまかせません。このようにみえるのは、またわたしが彼らのうちの何人かと関係をもっているのは、わたしに役立てるためです。彼らはわたしをたいへん恐れているので、わたしを従わせることはできません」。

一一月七日の手紙には、「安心しなさい。わたしは決して過激派の思い通りには動きません。より大きな悪を防ぐため、彼らを利用するだけです」。

このやりとりをみるならば、王妃は事態を冷静に判断して、とりあえずフイヤン派と協力するふりをしながら、もう一度旧体制にひきもどす機会をねらっていることがわかる。

フェルゼン伯爵は、一七九二年二月一四日パリに潜入して、ひそかに国王と会見したが、そのとき王と王妃はつぎのようにいったという。

「いまのフランスには二つの党派しかない。立憲派か共和派か。そこで共和派と立憲派が結ばないように、立憲派と国王が協力するふりをしなければならない」。

こうした事態を自分の目でたしかめてきたフェルゼン伯爵は、当時のフランスの実質的支配者が誰であるかを書き残している。

「バルナーヴ、デュポール、アレクサンドル・ラメットの諸氏はもはや議員ではないが、立憲派をひきいており、王との仲介者になっている」。

要約 第三章の三 国王の逃亡とシャン・ド・マルスの虐殺

国王一家の逃亡計画と失敗は、政治的には大きな事件として取りあるかわれてきたが、体制の変化としてはほとんど見るべきものはない。国王夫妻は、改革を進める国民議会に対して見切りをつけた。その時、ミラボー伯爵(革命運動の指導者)が買収によって国王の側に寝返った。国王はその程度の資金は自由に使うとこができた。(行政権は国王の手の中にある)。しかし、彼ミラボーは急死した。国王の逃亡計画は失敗した。しかし、だからと言って国王の地位は揺るがなかった。これで揺らいだかのように書く歴史家も多いが、そうではなく、かえって国王を守ろうとする勢力が強化された。それがフイヤン派になる。ラファイエット派とラメット派の合併によるフイヤン派の結成である。フイヤン派が立憲王制を堅持した。国王はこれと協力しなければならない。(国王夫妻としては心ならずもではあるが、今は贅沢を言えない)。

この状態で、憲法が制定され、国民議会は解散し、新議会としての立法議会が招集されることになった。しかし、この議会は厳しい制限選挙制に基づくもので、約半数の国民には選挙権がない。この点を念頭に置いておくべきである。「自由平等」とは言うが、この時のフランスはまだそうではない。共和制を唱えたコルドリエクラブは弾圧され、オルレアン公爵の摂政を唱えたジャコバンクラブのダントンはイギリスに逃げた。シャン・ド・マルスの虐殺があった。貧民からすると恐怖政治のようなもので、その時支配者になっていた者は、ラファイエット侯爵、ラメット伯爵に代表される自由主義的大貴族とラボルド(宮廷銀行家)、ラヴォアジエ(徴税請負人、科学者)に代表される最上層のブルジョアジーであった。