2022年2月7日月曜日

14-フランス革命史入門 第三章の四 立法議会の初期

 四 立法議会の初期


フイヤン派対左派

一七九一年九月三〇日国民議会は解散し、新憲法のもとで選ばれた立法議会が、一〇月一日に召集された。国民議会の議員は立法議会の議員になることができないという規定が設けられたので、議員はすべて入れかわった。

しかし、議会の党派はかわらなかった。

権力の指導権をにぎるフイヤン派は二六四名、野党的な左派が一三六名、無所属の中央派が三四五名いた。こうした色分けは、現代の政党政治の常識では想像することができない。議会政治がはじまったばかりであり、クラブも設立されたばかりである。お互いの気心もなかなかわからず、誰が何を考えているか、正確な情報をつかむこともむずかしい。

そうした中にあって、さしあたりフイヤン派と左派だけがまとまりをみせていたのであり、無所属の中央派は、一人一人がその時と情勢に応じて自分の判断で一票を投じた。

しかも、その数がたんぜん多い。そこで、フイヤン派が与党になっていたとはいえ、常に絶対多数をとってい

たわけではなかった。中央の多数派が左派に投票すれば、フイヤン派は敗れる。そうした不安定な条件の上に立つ与党にすぎなかった。これが、つぎの政争で立法議会の決議が目まぐるしく変化した原因である。

フイヤン派はラメット派とラファイエット派にわかれ、ラメット兄弟のテオドール・ラメットに率いられた。

大臣もラメット派から多く任命された。ラファイエット派は名門貴族の一部に指導されていたが、フイヤンクラブの中では、ラメット派にくらべて勢力が後退した。

左派の議員の多くはジャコバンクラブ系であり、この時点のジャコパンクラブは、後年のジロンド派と本来のジャコパン派の両方が一緒になっていた。さしあたり、ジャコバンクラブでの指導権は、ブリッソ、コンドルセ(侯爵)に率いられた派閥、後年のジロンド派系が指導的な立場にあった。本来のジャコパン派、すなわちのちのモンタニヤールになる者は、ランデ、カルノー、クートンなど少数の左派系議員であった。

コルドリエクラブからも、三人の議員が選出され、コルドリエ三人組を作り、極左派を構成していた。メルラン・ド・チオンヴィル、シャボ、バジールであり、恐怖政治の中で重要な役割を演じることになるが、当時はほとんど影響力がなかった。

ジャコバンクラブが野党であるとはいえ、場合によってはフィヤンクラブが敗れるばあいもあった。バイイの後任として、市長選挙が一一月一六日おこなわれた。このときラファイエットがフイヤンクラブから出馬し、ジャコパンクラブからペチヨンが打ってでた。その結果、ペチヨンが圧倒的多数で当選した。パリ市長は、ジャコバンクラブ(後年のジロンド系)ににぎられたのである。


全般的繁栄と政治的安定

この時期は、多少の政争があったとしても、ともかくフイヤン派の指導権のもとで、政治的安定が実現していた。たとえ、ジャコパン系がパリ市長選挙のように優勢を示したとしても、その争いは議会主義の枠内での闘争にとどまり、乱状態をまねくようなことにはならなかった。

シャン・ド・マルスの事件も反撃をまねくことがなく、共和派は、支持者を失って孤立するだけであった。農村住民が領主権に反対して暴動を起こした場合でも、簡単に鎮圧された。全般的にみると、政治情勢はフィヤン派の路線のもとで安定し、このまま、フランス革命の成果が固定化されるのではないかと思われた。

このような政治的安定は、経済的安定と繁栄に裏づけられたものであった。フランス革命といえば流血、混乱、破壊を連想させるのであるが、それは、これ以後にはじまる戦争と、極端な内乱が植えつけたイメージである。

さしあたり一七九一年までをみるならば、重大な騒乱事件は、バスチーユ占領とヴェルサイユ行進、シャン・ド・マルスの事件だけであった。この三つの事件では、目立った破壊がひきおこされておらず、死傷者の数も、せいぜい数百人どまりである。革命はおこなわれたが、破壊はなかったといってもさしつかえがない。

その革命の成果として、宮廷貴族の権力が取りあげられ、彼らの財政的特権が打ち切られた。財政政策は、商工業とブルジョアジーを保護するものになった。国家財政の絶望的な赤字は、高級僧侶の財産没収、売却とアシニアの発行によって救われた。

領主権の部分的廃止で、通行税とか市場税とかいった商品流通にたいする制限が撤廃された。狩猟権、鳩小屋権の廃止もまた、農業生産の向上に役立った。こうした改革によって、さしあたり経済は繁栄の局面を迎えた。このことをもう一度確認しておかなければならない。

革命といえば破壊だけを連想するべきではない。革命にともなう改革が、旧制度の弊害を除去したために、経済状態の好転をもたらしたのである。また、そうしたものであるから、市民が武器をとって、命がけで反乱を起こしたのである。もし外国との戦争がなければ、フランスは繁栄の局面をたどっていたであろうと想像することができる。

一七九一年一一月のジャコバンクラブの会議で、レデレーは、商業の非常な繁栄と工業の全盛期を迎えたことを指摘した。こうした事態を高く評価した人物が、どのような立場にあり、フランス革命を通じ、どのような線にとどまっているかを知るのも重要なことである。

レデレーはメッツ高等法院判事で、伯爵として貴族であるが、国民議会議員となり、ジャコバンクラブに属し、一七九一年の末にパリ県検事総長の地位をダントンと争って手に入れた。その一年後に起こるチュイルリー宮殿の襲撃では、国王を保護する立場に立ち、国王を議会に迎え入れることに尽力した。国民公会では平原派議員として国王の裁判に反対したが、粛清されずに生き残った。ナポレオンのもとでは、元老院議員、ジョセフ・ポナパルト王の大蔵大臣となり、王政の復活で失脚するが、七月革命で、ルイ・フィリップ王のもとで貴族院議員になった。

このような人的系譜が、一七九一年の政治経済的指導者の性格を象徴している。それが、ナポレオン権力そして七月王政へとつながっていく。

当時、輸出も増加し、商品が多くなり、かえって通貨の欠乏が感じられ、リヨンではアシニアを補充するための信用紙幣を発行するようになった。こういう状態であるから、当然物価は下落した。革命直前と一七九一年の物価をくらべてみると、パンの値段は約四三パーセントの下落になった。肉の値段は四一パーセントから三〇パーセントの間に下落した。このため、下層階級の生活は安定し、それが騒乱状態を遠ざける効果をもった。

すでに一七九一年の春には、アシニアの価値は下落をはじめた。紙幣の価値が下落すれば、物価は上るはずである。しかし、六月までは、まだ五〇リーブル以下のアシニアは発行されていなかった。この年の五月に、少額のアシニアを一億リーブル製造する法令が作られたが、実際に流通して、これが効果を示しはじめたのは、かなり遅れてからであった。さしあたり、一七九一年の前半までは、労働者や職人の日給は、アシニアではなくて正貨(金属貨幣)で支払われていた。つまり、小銭は正貨で流通し、紙幣としてのアシニアは高額紙幣として、中流以上の市民の間に流通していたのである。

正貨の価値は下落せず、かえって物価が下ったのであるから、下層民の生活は革命前よりは安定した。これでは、たとえ国王が逃亡し、共和派がそれに乗じて革命運動を進めようとしても、大多数の下層民はその運動にのってこない。そこに共和派の孤立があった。

そうした社会的安定をみて、フイヤン派の権力も余裕を示すことができた。憲法の成立を祝って大赦令がだされ、共和派も釈放されたが、貴族の反革命派もまた釈放された。こうした政治、経済的な安定の時期があったということは、ほとんどのフランス革命史で正確にえがかれていない。

どれを読んでも、物価は常に値上りして、下層民の生活は常に苦しく、食糧危機は連続して起こり、それがつぎの騒動へ発展するという形で革命史が描かれている。これは、つぎに起こるべき事件をすでに知っているから、それの説明として、万年危機論的な解釈をするためである。実際はそういうものではなくて、わずかな時期ではあっても、安定の時期を迎えたのである。そして、当時そこに住む人間の意識からするならば、このままの状態が永遠に続くのではないかと思ったはずである。誰も、そのつぎにくる騒乱状態などは想像できないはずである。


インフレ、買占め、暴動

一七九一年の後半に入ると、そろそろ物価問題が取りあげられた。それを見越して、いちはやく宣伝、煽動をはじめたのがエべールであった。彼の『ペール・デュシエーヌ』では、八月一八日、つぎのように書かれているが、この文章は、当時の社会的特徴を鋭くとらえている。

「大いなる怒り……すべてのパリの公債所有者、商人、工場主が正貨を買占め、貴族、僧侶の絶対主義を再建しようとしている。彼らは貴族階級の爪の中で、われわれに陰謀をくわだてていることがわかった。すべての商人、すべての小売商人--食料品商、酒屋、ぶどう酒製造人、一口にいえばわれわれから盗み、われわれを毒殺しようとするやつら--彼らが正貨の欠乏を利用して富んでいるのをみた。われわれのすべての銀貨を買占め、これを亡命貴族に売却し、輸送しているのをみた。彼らはまた、すべての小銭をなくなるようにしてしまった。

それでいま、紙幣しかみることができない。いまや、彼らが人民から盗んだものを、はきださせる必要がある」。

エべールは、貴族、僧侶の絶対主義にかわって、ブルジョアジーの絶対主義が生れ、その新しい支配者が下層階級を犠牲にして富みつつあることを見ぬいた。しかも、アシニアの下落を見越して正貨(金属貨幣)を買占め、そのことによって、物価騰貴の原因を作りつつあることを予告している。事実、こうした傾向が、やがて来るインフレの引き金になった。

現実の物価騰貴は、一七九二年一月にはじまった。このときは、,パンの値段はまだ下落したままであったが、特定の商品、とくに砂糖の価格が暴騰し、それにつれて木綿、羊毛の価格が上昇した。当時労働者は、朝食を牛乳と砂糖入りのコーヒーでとっていたので、労働者の不満が高まった。木綿、羊毛の価格上昇については、工業家の不満が高まり、彼らは原料の輸出を禁止するように議会に請願した。この工業家の要求は押えられたままであったが、恐怖政治のとき、航海条令となって実現されることになる。

砂糖の価格の騰貴は、植民地ドミニ力の反乱によるものと説明されたが、ジャコバン派のブリッソはその説明を否定して、両者は無関係であるといった。それではなぜ砂糖の価格が騰貴したかといえば、これは買占めによるものであった。国民議会がアシニアを発行して革命前からの債務にたいして補償をおこなった。つぎに、旧体制のさまざまな官職、すなわち、法服貴族からはじまり手工業の親方職にいたるまでの、官職売買の制度にもとづくものについて、廃止する代りに補償金としてアシ=アが支払われた。

もっとも多くのアシニアを手に入れた者は、最上層のブルジョアであった。自由主義貴族の政治家も多くのアシニアを手に入れた。彼らは、手に入れたアシニアを、なんらかの物に変えようとした。竸売にだされた教会、修道院の土地、建物を買込み、寺院を倉庫にかえた。商品に投資して、買占めた商品をここにたくわえた。さらに、あまったアシニアを、正貨すなわち貴金属貨幣と交換し、財産の保全を計った。このような投機と買占めが盛んになり、その結果として、特定商品の急騰が起こったのである。これをおこなったのは、革命を指導した最上層のブルジョアや自由主義的貴族であった。

その象徴が、大商人ボスカリであった。彼は銀行家、食料品商人、株式仲介人、工場主を兼ね、ケース・デスコント理事長をしていた。パスチーユ占領のときには積極的に参加し、パリコミューンの食料委員となり、フイヤンクラブに加入し、ジャコバンクラブにも参加していた。立法議会の議員となり、公債委員会、商業委員会、財政委員会で活躍した。

このボスカリが、砂糖の買占め人として非難され、群集に襲撃された。もちろん、彼の家だけではなくて、買占め人とみられた商人の何人かが、破壊や放火の対象になった。これが一七九二年一月二〇日のことであった。

軍隊が出動してこれを鎮圧したが、この事件が立法議会での闘争を激化させる引き金になった。

ボスカリは、議会に手紙を送って群集の行為を非難し、秩序の回復を要求した。しかし逆に、買占め、投機を非難する反撃もおこなわれた。ジャコバンクラブでは、ボスカリ一族は、ダントンの友人で商人のルクレール・サントーバンから買占め人として告発された。この騒ぎの中でボスカリの経営が破綻し、六月には破産の申し立てをおこない、議員を辞任せざるをえなくなった。

ただし、この問題がフイヤン派対ジャコバン派の全面的対立になったかどうかといえば、必ずしもそうでない。ジャコバンクラブの中にいた、のちのジロンド派系にも大商人が多く、彼らから選出された当時のパリ市長ペチヨン自身も買占めの告発を受けた。

同じくジロンド派系の議員で、ボルドーの大商人デュコは、商業の統制が港湾都市を破減させるといって、買占め反対運動に反撃した。そのため、買占めにたいする非難や商業にたいする統制の声はあがっても、議会はなんらの手段もとらなかった。


インフレ対策

アシニアの価値は下落をはじめ、一七九一年の終りに、正貨にくらべて二割下落した。こうした事態をどのように考えるかについて、フイヤン派とジャコバン派の間に論議が展開された。これは、国家財政全般をめぐる論争点にもなった。

国家財政の制度が国民議会によって改革され、宮廷貴族にたいする巨額の支出は打ち切られ、赤字の基本的原因は除かれた。本来ならば、これで黒字になるはずであったが、一七九一年の一〇月三一日現在で、九億リーブルの累積赤字になるという報告がなされた。一七九一年度の支出は七億四五〇〇万リーブル、収入は五億八三〇〇万リーブルとなり、赤字は一億六二〇〇万リーブルとなった。

このように赤字が増加していったのは租税の徴収がすすまなかったためである。新しい租税の基本としての地租の徴収が、土地所有者の抵抗によって進まず、この年の地租(不動産税)を完納したのは、ただ一つの県だけであった。

こうして生じた赤字を補充するためにも、アシニアの増発という手段が使われた。アシニアは、旧体のもとでの債務の補償や廃止された官職の補償にも使われながら、赤字の補充にも使われた。一七九一年一二月一七日、議会はアシニアの発行額を一六億リーブルに増加させた。

このとき、一群の議員が、アシニアの増発はその下落をもたらし、物価の騰貴をひきおこすといって増発に反対した。

クラヴィエールは一一月一五日、議会で演説し、アシニアの信用を維持するためには、債務の償還を厳正にしなければならないと演説した。この意味は、旧体制のもとから引きつがれてきた国家に対する債権と称するものの中に、かなり疑わしいものや不正なものがあり、この清算をめぐって多くの不正行為がおこなわれているので、もっと厳重な検査をして、国家の負債額を縮小せよというのである。そうすれば、アシニアの増発がさけられ、信用が取りもどされる。たしかにこれは合理的な提案であった。

しかし、当時の多数派であったフイヤン派には、旧体制に寄生していた特権的なブルジョアが多かった。徴税請負人、特権商人、国債の大所有者、官職の所有者であった。彼らは、自分達の特権や官職の廃止にともなって、有利な補償額を手に入れようとして、それそれが国家と掛け合っていたのである。清算局長デュフレーヌ・サンレオンもまた、そのような立場の最上層の銀行家であった。そこで、この時期には、債務の清算を厳格にせよという意見は、野党的な意見にとどまったのである。

ただ、野党的な意見を主張したクラヴィエールもまた銀行家であったことは、注目すべきことである。彼はジュネーヴから来た銀行家であり、ミラボー、ブリッソと親交を結び、王立生命保険会社の理事になるほどの大銀行家であった。しかも、一年のちにはジロンド派内閣の大蔵大臣になった。そのような立場であるから、彼の親友ブリッソもまた、クラヴィエールの提案を支持して奮闘した。この日議長をしていたヴェルニヨーも、のちのジロンド派系であるから、この提案に賛成した。

財政委員の一人力ンポンも、クラヴィエールの提案を歓迎した。カンポンは、南仏モンペリエの大商人、工場主であり、恐怖政治の時期の財政委員会議長になり、実質的には大蔵大臣の役割を担った。その意味では、フイヤン派に対して、のちのジロンド派から恐怖政治の推進者にいたる勢力までが、まとまって野党の立場に立ち、債務の清算を規制しようとしたのである。

しかし、立法議会の多数は、大反対を唱えてこの提案を否決した。カンポンは、償還のための支払を、アシニアが国庫に還流してくるのにしたがって順番におこなうべきだと主張したが、これも拒否され、一二月九日、「請求権のある国庫債務の償還は中止するべきではない」という法令が、熱狂のうちに可決された。

この事件は、ブルジョアジーの中での性格の相違が、アシニアの信用をめぐって対立にまで進ませた事件であった。フイヤン派のブルジョアジーは、旧体制にたいする寄生性が強い者であり、そのため、債務の補償をすすめるためにはアシニアの下落も辞さないというグループであった。クラヴィエール、カンポンに代表される勢力もまた、銀行家、商人、工業家であったが、彼らは寄生性がよりうすかったのである。しかし、さしあたりまだフイヤン派系のブルジョアジーが優勢であった。


左派の攻勢

亡命貴族にたいする対策も争われた。ジャコバン系は、王弟と王族財産の没収を要求し、一一月九日に可決させた。一一月八日、亡命貴族の財産没収と死刑の適用を含む法律が、フイヤン派の抵抗をおしきって可決された。

 この処置は、ピルニッツ宣言にたいする報復であった。王弟と亡命貴族はドイツに集まり、オーストリア皇帝とプロシヤ王に働きかけた。そのため両国は、フランス革命政府に対する干渉戦の準備をすすめていた。その予告として、一七九一年八月二五日に出されたのが、ピルニッツ(南ドイツ)におけるオーストリア皇帝とプロシヤ王の共同宣言であった。ここでは、フランス国王の権利を回復するために、両国が武力を行使する決意であることがのべられていた。二人の王弟は、この宣言を利用しながら、もし革命フランスがルイ一六世に危害を加えたばあいには、オーストリア、プロシヤの軍隊がパリを破壊するであろうという脅迫的な声明をおこなった。立法議会は、こうした王弟と亡命貴族の行動を、フランスにたいする敵対行為とみなしたのである。

しかし、ルイ一六世は、法務大臣デュポール・デュツルトルを通じて、王弟についての法令は承認するが、亡命貴族についての法令は承認しないと通告した。

僧侶基本法にたいする宣誓を拒否したいわゆる忌避僧侶の問題も争われた。イスナールが、忌避僧侶の国外追放と、外国への革命の拡大を要求するはげしい提案をおこなった。しかし、これには左派だけが賛成して、議会の同調は得られなかった。イスナールも、のちのジロンド派の指導者になる。つぎに、フランソワ・ド・ヌーシャトーが、忌避僧侶にたいする俸給を停止し、彼らを監視することを提案し、可決された。これにたいしては、フイヤン派が国王に請願書をだして、この法律を拒否することをすすめ、拒否権を発動させた。これが一二月八日のことである。これにたいして、国王の拒否権を攻撃する動きも高まり、カーミュ・デムーランは、パリの諸区の署名を集め、国王攻撃の運動を起こした。

植民地問題でも複雑な対立が起こった。ドミニカにおいて、有色人種と混血人が合流して反乱を起こした。これが一〇月二七日に議会で報告された。植民地大地主のラメットに代表されるラメット派は、軍隊の派遣と反乱の鎮圧を要求した。コルドリ派を代表して、メルラン・ド・チオンヴィルは人権宣言と奴隷制の存続は矛盾すると主張した。

しかし、ジロンド派はこの問題で複雑な態度をとった。パリ出身のブリッソやクラヴィエールは、植民地にたいする人権宣言の適用を自由に主張できた。しかし、ポルドー、ナント、ラロシェルの商人は、植民地貿易に深いかかわりをもっていたため、議会にたいして軍隊の派遣を熱心に主張した。しかも、彼らは黒人貿易の存続も主張していた。

これら大商人に支持されて議会に進出したジロンド派の議員、たとえばヴェルニヨー、ガデ、ジャンソネなどは、フイヤン派と対立して民主主義的政治家の評判を高めていただけに、大西洋沿岸都市の商人の圧力には、困惑を感じた。結局、彼らは軍隊の派遣に同意したが、混血人に選挙権を与えて有色人種から切りはなし、しかも、商人が、債務者たる土地所有貴族の財産を差し押えることができるという改革案を提案して、フイヤン派に対立した。


戦争問題とラメット派の後退

戦争の問題については、フイヤン派にもジャコバン派にもそれそれ分裂があり、必ずしもフイヤン派対ジャコバン派の図式にはなっていなかった。もっとも好戦的な党派は、ジャコバン派の中の将来のジロンド派議員であり、彼らは、一種の世界革命論的な主張を唱えていた。

ドイツ諸侯とオーストリア皇帝、プロシア王がフランスの亡命貴族を援助していた。また、フランスからドイツへ亡命した高級貴族の多くは、ドイツにも領主と血縁関係があった。ドイツの諸侯が、フランスの宮廷における官職をもっていた場合もある。そうした意味で、革命フランスにたいする反対運動が、ドイツを根拠地として根強くつづけられた。ジロンド派は、この反革命の策源地を叩けといった。そのうえ、外国にアシニアを拡大することによってアシニアの下落をくいとめることできると主張した。

しかし、同じくジャコバンクラブに参加していた者でも、のちのモンタニヤール(山岳派)系の活動家の何人かは、戦争に反対した。議会の外では、ロベスピエール、マラが、闘争するべき敵は国内にいるという理由で戦争に反対したが、当時は彼らはきわめて少数派であった。

フイヤン派の中では、ラファイエット派が戦争賛成論に進んでいった。ラファイエット派がその方向に進んだのは、買占め反対の暴動や批判が高まっていくので、この危機を対外問題にそらした方が有利であると判断したためである。

ただし、フイヤン派の中のラメット派は戦争に反対を唱えた。ラメット派は、戦争を起こすことが植民地貿易に打撃を与えるので、植民地貴族の利害から反対したのである。しかし、ジロンド派の開戦論が立法議会の多数を制していくのにつれて、ラメット派の勢力は後退した。

一七九一年一二月九日、陸軍大臣デュポルタイユにかわってナルボンヌが就任した。ナルボンヌは伯爵、フイヤン派の将軍、スタール夫人(ネッケルの娘)の愛人であったが、好戦的性格をもち、スタール夫人のサロンでコンドルセ、ブリッソ、イスナールなどジロンド派の指導者と交際した。バルナーヴはナルボンヌを監視する必要があると王妃に書き、戦争反対論を強力に唱えて奮闘したが、孤立して九二年一月パリを去った。

外国の側からも戦争へ突き進むような宣言がだされた。一七九一年一二月三日、オーストリア皇帝(神聖ローマ皇帝)はフランスにたいして、「一七八九年八月の時期以後になされた改革のすべてを停止し、関係者から取り上げられたすべての収入を元に戻すこと」を要求した。

ルイ一六世と王妃も、この頃になると戦争を望むようになった。戦争によって、フランス革命政府が敗北する以外に、自分達には救いがないと思いはじめたのである。

戦争問題をめぐる最後の闘争は、陸軍大臣ナルボンヌとラメット派の外務大臣ドレッサールの間でおこなわれた。ドレッサールは、オーストリア皇帝と通信して戦争を回避しようとつとめていた。閣議での対立の結果、まずナルボンヌが罷免された。しかし、すぐにジロンド派の反撃がおこなわれて、ドレッサールが辞職に追い込まれた。

 

要約 第三章 フイヤン派の権力、四 立法議会の初期

立法議会の党派について、他のフランス革命史にはない説明が行われているので、そこを注視してください。フイヤン派の人数、左派の人数を書き、中央派の人数を書いた。最初からこのように正確に書くフランス革命史は、他には存在しない。だからフランス革命の事件が誤解されて世に残る。これが私の一貫した主張である。私は、中央派を重視する。その数は、フイヤン派と左派をまとめても、ほぼ同数になる。つまり多いのだ。だから、フイヤン派が多数派だからといって、数の力で押し切ることができない。では中央派の出方を探って、とはいっても、一人一党主義、是々非々主義、勇者もいるが、臆病者もいるというわけで、計り知れない。これで決議が左右に揺れることになる。

この効果が、世界史的に最大の問題とされること、すなわち「封建的権利の無償廃止」を可決するときに発生した。そういうことを、次の節を見る時に思い返してほしい。それにしても、この時期、経済は繁栄をはじめ、政情も安定してきた。こういう時期もあったことは念頭においてほしい。フランス革命といえば、騒乱、騒動ばかりだという印象があるからです。その幸せな時期があって、そろそろ風雲急を告げる段階に入る。下からは物価問題、上からは亡命貴族とオーストリア皇帝の威嚇、この二つでフランスは地獄に落とされた。このような流れで、次の節に入るとよい。


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