2022年2月7日月曜日

13-フランス革命史入門 第三章の三 国王の逃亡とシャン・ド・マルス事件

 三 国王の逃亡とシャン・ド・マルス事件


国王の逃亡計画

一七九〇年一〇月、ネッケル派の大臣が辞職に追い込まれたころから、国王の逃亡計画がひそかに進行した。

亡命貴族や高級僧侶がひそかに国王と連絡をとり、王権の回復のための行動を模索しはじめた。一七九一年二月、懐剣騎士団が国王を宮殿から奪回する計画をたてたが、失敗した。六月には、ヴァンデー県でレザルディエール男爵の反革命暴動がひきおこされた。

一七九一年四月一三日、ローマ法王が僧侶基本法を公式的に非難すると、基本法に宣誓した僧侶も撤回するようになり、非宣誓僧(忌避僧または反抗僧)の数が多くなった。そうすると、非宣誓僧にたいする示威行動や圧迫がはげしくなり、非宣誓僧と宣誓僧(立憲僧)の間に、信者の争奪戦がおこなわれた。このような中で、僧侶の多数が反革命へと移行した。

これらの情勢の上に立って、国王はパリにとどまって国民議会と妥協していくことの無意味さを認めた。そのとき、革命家として有名になり、しかも左派の指導者としてみられていたミラボーが、転向して王の逃亡計画を進めた。国王がメッツその他の安全な場所に移り、将軍に守られて国民議会の解散令をだし、全司令官に秩序を維持する命令をだし、全貴族に王を守れと呼びかける。ミラボーは、パリに残って国民議会の動きを監視するというものであった。

この計画を進めているうちにミラボーはとくに王妃にたいする評価を高めた。「君は王妃を知るまい。あふれるばかりの能力をもった勇気ある男性ともいうべき人だ」。これ以後、ミラボーは転居して、かってないほどの豪奢な生活をしはじめた。その費用は、王弟プロヴァンス伯爵からもだされ、国王からもだされた。また、ダランべール太公も王妃に心服していたので、この計画の仲介役をつとめた。しかし、四月二日、ミラボーは放蕩生活がたたって急死した。

彼が死んだとき、まだ彼の反革命的陰謀は公表されず、わずかにエべールがミラボーを非難していた程度であった。そのため、ミラボーは、すぐれた革命家としての評価を維持していた。彼のために盛大な葬儀がおこなわれ、革命の象徴として、パンテオンに祭られた。のちになって、彼の陰謀が暴露された。

ミラボーのあと、国王の脱出計画はフェルゼン伯爵によって進められた。彼は、フランス国王に任えるスウェーデン連隊の連隊長であり、王妃の恋人でもあった。脱出した国王一家を国境でブイエ侯爵(メッツ軍団司令官、ラファイエット派)が迎えて、国境の外に送りだす手はずがととのえられた。

一七九一年六月二〇日、国王一家は予定通りチュイルリー宮殿を脱出し、馬車で国境をめざして逃走した。しかし、国境近くのヴァレンヌで、町の郵便局長ドルエに見やぶられた。ドルエの通報により、たちまち国王の馬車は群集にかこまれた。ブイエ侯はこの報道を聞くと、ドイツ人連隊や貴族将校を集めて奪回にむかったが、群集に恐れをなして退却し、そのままドイツへ亡命してしまった。国王一家は、国民議会から派遣された委員によってパリに連れもどされた。これがヴァレンヌ逃亡事件である。


国王廃位の要求

ヴァレンヌ事件は、国民議会における対抗関係に新しい要素をつけ加えた。まず、もっとも右翼的、保守的な貴族議員や忌避僧侶が、あいついで亡命した。軍隊の貴族将校からも、大量の亡命者をだした。国内に残っている高級僧侶や高級貴族のうちで、王党派とみられた者は、監視されたり監禁されたりした。

他方で、最左翼のコルドリエクラブは、ロべールの指導のもとで、王政を廃止して共和国を宣一言するための請願書を作成した。国民議会では、最左派のペチヨン、ヴァディエ、ロベスピエールが国王の裁判を主張した。ペチヨンはのちのジロンド派の指導者、ヴァディエは恐怖政治の保安委員、ロベスピエールが公安委員であったことを思えば、この時点での国王の廃位については、後年のジロンド派とモンタニヤールが、共同の歩調をとっていたことをうかがわせる。

ただし、当時のジャコバンクラブは、コルドリエクラブとはちがって、ルイ一六世の退位と、オルレアン公の摂政政治を要求する請願書を作った。これは、ブリッソとダントンの主張をもとにしたものである。もともと、ブリッソは、オルレアン公と革命前から深いつながりがあり、オルレアン公の政権を実現させようと努力していた。彼は、ルイ一六世個人を廃止したとしても、王政そのものを廃止するつもりはなかった。

こうして、コルドリエクラブとジャコバンクラブの間にも方針の統一がなく、お互いに非難の応酬をしている状態であった。ただ、ルイ一六世の退陣をもとめる運動はさかんになった。


フイヤンクラブの結成

こうしたルイ一六世廃位の運動に対抗して、国民議会の貴族政治家は、ほぼ一致して国王を守ろうとした。それまで、貴族革命家は、ラファイエット派かラメット派のどちらかに属していた。しかし、ラメット派はジャコバンクラブからはなれつつあった。ラメット派がジャコバンクラブから離れていく傾向をみせたのは、植民地問題でつきあげられた頃からであった。

人権宣言を植民地の有色人種にまで拡大するかどうかが、ジャコバンクラブの論争点になっていた。一七九〇年二月二六日、ジャコバンクラブの会議で、ナントの船主を代表してモスヌロンが、植民地の一切の改革にたいして反対した。黒人貿易を存続させること、有色人種にも混血人にも参政権を与えないことを要求しながら、インド会社の廃止を要求している。これが当時のラメット派の立場であった。

インド会社を攻撃することにおいては進歩派であり、植民地の改革に反対する点では保守派である。このようなナントの貿易商人と植民地大地主のラメットが金融的に結びついた。それだけにラメットが貿易商人の政治的な代弁者になったのである。一七九一年五月、国民議会は混血人に参政権を与えたが、九月にそれを取り消した。これはラメット派の反撃によるものであった。そこで、ジャコバンクラブにおいては、ラメット派は白人植民者の代弁者として批判され、孤立していった。

そこへ国王の逃亡事件が起こり、ジャコバンクラブの多数がルイ一六世の廃止を決議した。ラメット派は、もはやジャコバンクラブに残留する意味を失った。こうして、七月一六日、ラメット派はジャコバンクラブから分離して、ラファイエット派と合同してフイヤンクラブを結成した。フイヤンクラブの議員が国民議会の多数派となり、ジャコバンクラブにとどまった議員は、ペチヨン、ロベスピエールほか数人になった。


シャン・ド・マルスの虐殺

ルイ一六世の退陣を求める運動にたいして、ラファイエット派とラメット派は、共同で王位を守ろうとした。パリ市長バイイは、ルイ一六世が誘拐されたのであって、自分の意志で逃亡したのではなかったという解釈を広めた。ラメット派のバルナーヴはヴァレンヌに派遣された委員であったが、国王一家を捕えにいきながら、帰り道にはすでに王妃の相談相手になった。バルナーヴと王妃の恋物語が、革命史のエピソードになるくらいの転向であった。

バルナーヴはグルノーブルのブルジョアの家に生まれ、母は貴族であった。弁護士となり、モンテスキューの三権分立思想をかかげて革命運動に入り、ムーニエとむすんで、ドーフィネ州の革命運動(屋根瓦の日)を指導した。ムーニエが保守化したのちも、彼はラメット兄弟、デュポールとむすんで民主主義者の偶像になっていた。しかしヴァレンヌ事件で、国王と王妃の側に立った。

彼と王妃との間に交わされた手紙は、ルネ・ペリソンという貴族、連隊長が仲介した。ペリソンはバルナーヴと同郷の知り合いであり、ペリソンの妻が王妃の女官で王妃の部屋に寝ていたために、彼は自由に宮殿に出入りできた。その立場を利用して、王妃とバルナーヴの手紙を持ち運んでいた。

こうした事情のため、国王を守る運動の先頭にバルナーヴが立った。彼は七月一五日の投票の時に演説した。

「われわれは革命を終えようか。それとも始めようか。……これがもう一歩自由の線にふみこめば、王制の破壊となるだろう。もう一歩平等の線にふみこめば、財産の破壊になるだろう」。

議会の多数は賛成して、ルイ一六世の王位は守られた。しかし、ジャコバンクラブでの批判ははげしかった。ラメット派はもはやジャコバンクラブにとどまることはできず、分離してラファイエット派と合同した。これが、翌七月一六日にフイヤン修道院で結成されたフイヤンクラブであった。フイヤンクラブが議会の多数派となった。

七月一七日、コルドリエクラブを支持するパリ市民の一団がシャン・ド・マルス広場で共和制の請願をめざして集会を開いた。議会はこの集会に解散命令をだし、国民衛兵を派遣した。国民衛兵の発砲によって、数百名の死傷者をだしたのちに、共和派にたいする弾圧がすすめられた。

コルドリエクラブは一時閉鎖され、指導者が逮捕された。共和制の請願を起草したロべール(『パリの革命』の編集者)、『人民の友』を出版していたマラ、『ペール・デュシエーヌ』を出版していたエべールも追求をうけた。新聞の発行は不可能になり、それぞれの革命家は潜伏した。

共和派だけではなく、ジャコバンクラブを足場にオルレアン公の摂政を主張していたダントンも危うくなった。彼はイギリスへ亡命した。この事件が「シャン・ド・マルスの虐殺」といわれるようになった。フイヤン派の権力が、軍事力と警察力を背景として安定した。パリ市長バイイは翌日議会で演説した。

「犯罪がなされ、法の正義は試練をうけた。公共の秩序は破壊され、陰謀の連合が作られた。われわれは報復のため法を公布した。煽動者は力をたのみ、官吏と国民衛兵に発砲したが、犯罪にたいする懲罰は、犯罪者の頭上におちかかるだろう」

国民議会議長シャルル・ド・ラメットはバイイを祝福し、国民衛兵を讃美した。

バルナーヴは七月二一日、王妃に手紙を書いた。

「王制を安定させたのち、秩序、平静、法への尊厳を確保する必要があります。革命は終らせなければならない。これが一貫した目標であり、その時期がきました。無秩序は抑圧され、政府はその全活動力をとりもどし、法はきびしく施行されるでしょう」。


憲法の制定

シャン・ド・マルス以後、しばらくはフイヤン派の指導権が安定した。フイヤン派には、自由主義的貴族(領主)とブルジョアジーの最上層が結集していた。そのため、彼らの有利な政策が実施された。農業問題では、領主権の維持と確保を目的として、八月二七日、貢租の増加が決定され、九月二八日、農業法が可決された。ここでは、領主権を土地所有権と呼び、これを神聖なものと規定した。

九月三日、憲法が成立した。もともと、国民議会の主な任務は憲法の制定であるとされていた。「憲法が制定されるまでは、国民議会は解散されない」ことが、「テニスコートの誓い」の趣旨であった。そのため、国民議会は別名、憲法制定議会(制憲議会)といわれた。この憲法が新しい国家の体制を規定した。新しい国家の体制は立憲君主制であり、行政権は国王に属し、立法権は議会に属するが、国王に拒否権を認めた。議会は一院制国会で、議員の選挙権も被選挙権も、ともに一定の租税をおさめる者に限定して与えられることになった。

当時は職人、労働者、日雇人、失業者、貧農は租税をおさめていなかったので、租税をおさめる者というだけで選挙権はかなり制限された。選挙権をもつ者を「能動市民」と呼び、もたない者を「受動市民」と呼んだ。これで、政権に参加できる者は、すくなくとも手工業の親方や小商店主、あるいは中農以上の者に限定された。能動市民は三日分の労賃以上に相当する租税を支払う者であり、約四〇〇万人と計算された。これにくらべて選挙

権のない受動市民は約三〇〇万人であった。

全国は、四三の県に分割され、県の下に郡と小郡が置かれた。「フランス王国は唯一にして不可分」と宣言された。旧体制のもとでは、外国人領主の領地や外国扱いされていた地方があり、かならずしもフランス王国の領土として認められていないものがあった。そのような習慣を廃止して、フランスを完全な統一国家にすることを宣言したのである。

国家統一の度合をくらべるならば、絶対主義の時代よりはむしろ、民主主義的フランスの方が、かえって強くなったというべきである。中央集権は、絶対主義よりはむしろ、市民社会になる方が強められるということを示すものである。日本の学者の中には、絶対主義といえば、極端な中央集権であるかのように思っている人が多い。しかし、革命フランスが、絶対主義フランスよりも中央集権を強化したことを考えるべきである。

こうして、憲法の制定とともに、フランス革命の第一段階が終った。権力は、自由主義的貴族と最上層のブルジョアジーの手ににぎられ、これがシャン・ド・マルス事件によって安定した。財政の実権も彼らににぎられ、高級僧侶の財産(土地と建物)は、競売を通じて、権力の座にいる者の手にその最大部分が移りつつあった。そのうえで、旧体制の時代に生きつづけてきた封建的分裂の名残りが一掃され、近代的統一国家が形成された。


新制度にたいする左右からの非難

こうした方向にたいして、二つの側面から批判がおこなわれた。一つは左翼の側からである。左翼といっても、下層民からはじまって、ブルジョアジーに属するものが含まれている。党派でいうならば、のちのジロンド派から山岳派(モンタニヤール)、ジャコバン派系を含み、さらにはコルドリエクラブ系までを含む。

ジロンド派の指導者になったロラン夫人は、シャン・ド・マルス事件を「虐殺」と呼んで非難した。のちにジロンド派を追求する立役者になったマラは、この当時、絶望的な気持になっていた。九月二一日に書いた文章は、それをあらわしている。

「バスチーユを破壊した者は、少数の貧困な人々である。彼らを動かしてみるならば、あの最初の日と同じような状態を示すだろう。当時、彼らの行動は自由であった。しかしいまは彼らはつながれている。……いまでは、バスチーユ占領以前に、いっそう自由から遠ざかっている」。

マラの目からみれば、フイヤン派支配のもとの人民は、旧体制のもとの人民よりも、もっと抑圧されているということになる。

右翼の側にも不満が高まった。国王が九月一三日憲法を承認すると、亡命貴族は国王と王妃にたいして激怒した。

とくに、王妃にたいして怒りが集中した。亡命貴族はルイ一六世を国王とみなさないような発言をおこなった。これにたいして、国王と王妃は、亡命貴族やこれと組んでいる王弟を、事情を知らない者として非難した。

こうして、亡命貴族と国王夫妻の間に亀裂がはいったが、これを権力の座にいるフィヤン派は喜んでいた。

バルナーヴは王妃にたいして書いた。「貴族階級は現在、王と王妃から憤満やるかたなく遠ざかっていくようにみえます。それはよいことです。なぜなら、それが人民を王と王妃の側にひきもどす要因になるからです」。

バルナーヴは国王夫妻を宮廷貴族の王からフイヤン派の王に転向させようとしていたのである。これを心配そうに外国でながめていたのが、フェルゼン伯爵であった。彼は九月二五日、日記に書いた。

「王妃はバルナーヴにひきまわされて、王族に対立している。すべてがわるくいっている」。

一〇月三日、王妃にたいして書いた。

「あなたの心を過激派(バルナーヴ)に与えないで下さい。彼らは、あなたにとって最悪のことをする卑劣漢です」。

これにたいして、王妃の返事が一〇月一九日に出された。

「安心しなさい。わたしは過激派のなすがままにはまかせません。このようにみえるのは、またわたしが彼らのうちの何人かと関係をもっているのは、わたしに役立てるためです。彼らはわたしをたいへん恐れているので、わたしを従わせることはできません」。

一一月七日の手紙には、「安心しなさい。わたしは決して過激派の思い通りには動きません。より大きな悪を防ぐため、彼らを利用するだけです」。

このやりとりをみるならば、王妃は事態を冷静に判断して、とりあえずフイヤン派と協力するふりをしながら、もう一度旧体制にひきもどす機会をねらっていることがわかる。

フェルゼン伯爵は、一七九二年二月一四日パリに潜入して、ひそかに国王と会見したが、そのとき王と王妃はつぎのようにいったという。

「いまのフランスには二つの党派しかない。立憲派か共和派か。そこで共和派と立憲派が結ばないように、立憲派と国王が協力するふりをしなければならない」。

こうした事態を自分の目でたしかめてきたフェルゼン伯爵は、当時のフランスの実質的支配者が誰であるかを書き残している。

「バルナーヴ、デュポール、アレクサンドル・ラメットの諸氏はもはや議員ではないが、立憲派をひきいており、王との仲介者になっている」。

要約 第三章の三 国王の逃亡とシャン・ド・マルスの虐殺

国王一家の逃亡計画と失敗は、政治的には大きな事件として取りあるかわれてきたが、体制の変化としてはほとんど見るべきものはない。国王夫妻は、改革を進める国民議会に対して見切りをつけた。その時、ミラボー伯爵(革命運動の指導者)が買収によって国王の側に寝返った。国王はその程度の資金は自由に使うとこができた。(行政権は国王の手の中にある)。しかし、彼ミラボーは急死した。国王の逃亡計画は失敗した。しかし、だからと言って国王の地位は揺るがなかった。これで揺らいだかのように書く歴史家も多いが、そうではなく、かえって国王を守ろうとする勢力が強化された。それがフイヤン派になる。ラファイエット派とラメット派の合併によるフイヤン派の結成である。フイヤン派が立憲王制を堅持した。国王はこれと協力しなければならない。(国王夫妻としては心ならずもではあるが、今は贅沢を言えない)。

この状態で、憲法が制定され、国民議会は解散し、新議会としての立法議会が招集されることになった。しかし、この議会は厳しい制限選挙制に基づくもので、約半数の国民には選挙権がない。この点を念頭に置いておくべきである。「自由平等」とは言うが、この時のフランスはまだそうではない。共和制を唱えたコルドリエクラブは弾圧され、オルレアン公爵の摂政を唱えたジャコバンクラブのダントンはイギリスに逃げた。シャン・ド・マルスの虐殺があった。貧民からすると恐怖政治のようなもので、その時支配者になっていた者は、ラファイエット侯爵、ラメット伯爵に代表される自由主義的大貴族とラボルド(宮廷銀行家)、ラヴォアジエ(徴税請負人、科学者)に代表される最上層のブルジョアジーであった。


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