2022年2月7日月曜日

19-フランス革命史入門 第四章の四 ヴァンデーの反乱

四 ヴァンデーの反乱


初期の反革命運動

ヴァンデーの暴動は、フランス革命にみられる反革命暴動の最大のものである。革命軍と反革命軍の残虐な殺し合いが続けられ、革命史の多くのエピソードを残した。もちろん、ヴァンデーだけが、このような暴動を経検したのではなく、それより北方のブルターニュやメーヌ、ノルマンディー、ツレーヌの各州にわたって同じような暴動が広がった。フクロウ党(シュアン)の反乱と呼ばれたときもある。反乱者が森に隠れて、フクロウの鳴き声で合図をして革命軍を迎え撃ち、ゲリラ攻撃にでたからこの名前がついた。

革命軍は「捕虜をとるな」という合言葉で攻撃した。女、子供、老人にいたるまで、反乱者の地域では虐殺の対象になった。そのあと焼きつくせという命令がでて、廃墟になった村が数多くあった。反乱者の側も、革命派を捕えると残虐な拷問にかけて殺した。女、子供がもっとも残酷な殺害に加わり、婦人が「殺せ殺せ」と叫んでまわった。国外戦よりは国内戦の方が、すなわち階級闘争の方が、より残酷な闘いになることを明示した事件である。

ただ、この反革命暴動が、農民の手によって引きおこされたというところに複雑な問題がある。本来農民は、フランス革命の側につくはずであった。そして、バスチーユから大恐怖にかけて、この地方の農民も反領主暴動に参加し、城を焼打した。第一段階では、この地方の農民もまた革命的であった。一七九三年三月一〇日、外国軍との戦闘のために三〇万人の徴兵令が布告され、これが実施される段階で、農民が大規模な反革命暴動に立ちあがった。農民の反乱であるから、地域ぐるみの闘争となり、小さな子供までが農民ゲリラの伝令役になる。そのような子供までも、革命軍は処刑してしまった。

その姿を表面的に見るならば、現代におこっている民族解放運動のゲリラ戦にそっくりである。ところが、それがイデオロギー的には王党派であり、反革命であるところが特色であった。

ヴァンデー県は、大西洋岸中部でナントとラロシェルの間にまたがる後進地帯であり、深い森にかこまれていた。それより北に、ブルターニュ州の半島があり、ここも後進地域であった。はじめこの地方の貴族達は、貴族を中心にした反革命運動を組織した。それに参加した貴族は、レザルディエール男爵、レスキュール侯爵であった。ブルターニュではルーリー侯爵の反革命運動があった。しかしいずれも事前に発覚し、孤立した事件にとどまっていた。

僧侶基本法が制定されたときに、この地方のほとんどの僧侶が宣誓を拒否した。僧侶の職を奪われると、彼ら忌避僧侶は、信仰心の厚い農民にたいして働きかけ、宗教的な反抗心をうえつけていった。反抗僧侶の比率はブルターニュが高くて、八一パーセントであり、暴動の中心ヴァンデーでは五五パーセントであった。そのため僧侶の煽動だけでも暴動の説明がつきにくい。あくまで、僧侶の煽動は二次的な要因であった。


なぜ農民が反革命に転じたか

なにが農民を反革命にかりたてたのかといえば、それは、革命が彼らに幻滅を与えたからである。このようにいっても、どのような農民かを問題にしなければならない。すべての農民が、革命により利益を得たとは限らない。農民にもいろいろな階層があったことは、すでにみたとおりである。もし、中農や富農の比率が高ければ、その農民は革命で利益を得たということができる。

しかし、土地のごく少ない農民、そして他人の土地を小作しなければ生きていけない農民(自小作農民)か、純然たる小作農の多いところでは、領主権の無償廃止がおこなわれたとしても、彼らにとってはなんら利益にもならない。利益は、小作農民を使う地主のものになるからである。

それだけではない。革命政府は、僧侶財産を国有化し、これを売却した。教会のもっている土地が国有化されたのちに、競売にかけられたのである。この競売に、あらゆる階層の者が応したが、これを遠くはなれた都市のブルジョアが買占めたばあいが問題になる。その村には、国有財産を手に入れた者が少なく、革命の恩恵にあずかったという実感がない。しかも、新しく地主になった者はよそ者である。

それだけでもおもしろくないのに、新しく地主になった商人や銀行家、工業家は、小作人にたいしてきびしかった。以前の所有者の僧侶は、なんといってもおおようであり、小作農の側からみても、だましやすかった。しかし、新しい主人は手ごわい相手であり、結局は小作料の増徴につながり、小作人にたいする搾取がきびしくなる。これでは、小作農が革命に幻滅する。昔の僧侶に支配されるほうが、まだよかったということになる。そのため貧農が反革命の側に立ったのである。

ヴァンデーにおいても、その周辺のブルターニュやメーヌにおいても、王党派の強い村と共和主義者の強い村とがあった。王党派の強い村では、僧侶財産の比重が高く、しかも、これをよそ者が多く買占めた。これが大きな特徴になっている。僧侶の土地が少ないか、多い場合は土地の自作農あるいは小作農が買入れたところは、革命政権に忠実な村にとどまっている。

農民の大多数が幻滅を感じ、革命派がごく少数となっていた場合に、反革命の条件が生れた。そこへ物価騰貴がおこり、最後に強制徴兵令がきた。ついに農民の不満が爆発して、反革命暴動へと発展したのである。

密輸人、収税人の反革命運動

反革命暴動には、農民と並んでもう一つの階層が強力な役割をになって参加した。それは塩の密輸業者、塩税の収税人、密猟監視人の一団であった。旧体制のもとで塩税が徴収され、そのためにヴァンデーの海岸地帯や、内陸の州と州の境界線に税関が設けられていた。ここに収税人が多くつとめていたが、革命によって国内関税が廃止されたため、彼らは革命で失業者になった。そのため、彼らは反革命の側に立った。

収税人の目をのがれて、塩の密輸をおこなっていた密輸業者の一団がいた。彼らは、集団をなして、軍隊的な規律を保ち、間道を通り、塩を運んでいた。塩税が廃止されたために、彼らも密輸でもうけることができなくなった。彼らも反革命に転じた。

密輸業者と収税人は、旧体制のもとでは追いつ追われつする宿敵であったが、いまやこの二つが反革命で手を組んだ。この一団から出てきた有名な指導者は、密輸業者のコットロー兄第で、一人がジャン・シュアンのあだ名をもらった。密輸業者がもっとも獰猛な反革命者になった。

密猟監視人は、貴族の領地の森を監視し、密猟者を摘発する係である。彼らは森の地理にくわしく、役目柄勇敢であり、同時に領主にたいして忠実である。そのために、反革命運動の指導者に適していた。これで有名な者はストフレである。彼はドイツ人で、モレヴリエ伯爵の森の密猟監視人の監督官であった。革命とともに主人は亡命したが、彼は森の中に潜伏していた。農民が反乱をおこすとその指導者となり、強力な軍隊に仕立て上げ、有能な指揮官となった。

そのほか、都市の職人、労働者、小商人の中にも反革命運動に投じた者がかなりいた。その中では馬車屋のカトリノーが有名である。反革命軍が森の中のゲリラ戦を上手にすすめたのは、塩の密輸業者、密猟監視人の指導によるものであった。


王党派と革命軍の激戦

一七九三年三月一一日、ヴァンデー県の隣、ロワールアンフェリウール県のマシュクール市に農民が侵入し、県吏員を殺し国民衛兵を虐殺した。一三日には、シャレット騎士が八〇人の群集をひきつれて合流し、この指導権をにぎった。三月一二日には、サン・フロラン市で徴兵の方法を決めるための集会が開かれることになった。

その前夜、周辺の農村で鐘が鳴らされ、農民が集まり、朝になると二〇〇〇人の農民が侵入してきた。国民衛兵は二〇〇人しかいなかった。ここでいざこざがおこり、農民が市役所を占領し、ボンシャン侯爵に使いをだして、彼を反乱軍の首領にした。

チフォージュ市はヴァンデーとブルターニュ、アンジューの境界にある町だったが、周辺の農民が森に集まり、徴兵令をのがれるための相談をした。その数が八〇〇人となり、チフォージュ市を攻撃したが、国民衛兵は四〇人しかいなくて占領された。このほか、各地の小都市が反乱者によって占領された。

反乱者の数が増え、三月二二日、シャロンヌ市が五万人といわれる反革命軍に包囲された。この町には三五〇〇人の革命軍がいたが、結局降伏した。このときの反革命軍の指導者として、貴族のデルべ、ボンシャンと密猟監視人のストフレが登場した。海岸地帯のポルニック市は、シャレット騎士の反革命軍に占領され、放火された。

二週間で、反革命軍は、ヴァンデーを中心とした四つの県の約半分の面積を占領した。

四月に入ると、ラ・ロシュジャックラン侯爵の率いる反革命軍が革命軍を敗走させ、六月九日に、ソミュール市、六月一八日にはアンジエ市と、二つの重要都市が占領された。アンジエ市は、ヴァンデーからパリの方向にむかって進んだところにある大都市であり、ここの占領は国民公会に大きな衝撃を与えた。

しかし、反革命軍はパリへ向って進まず、西に転じて海港都市ナントの攻撃に移った。ナントと同じ海港都市のサーブル・ドロンヌ市は、反革命軍の攻撃に耐えた。六月二九日、ナント攻撃は失敗し、カトリノーは重傷を負った。それから一〇月までの間に、指導者のレスキュール、ボンシャン、デルべが負傷し、そのあとラ・ロシュジャックランが総指揮官となり、アンジエ市を攻撃し、さらに東に進んでル・マン市を占領した。

ここは、ヴァンデーとパリのちょうど中間にある重要都市である。革命軍の反撃がはじまり、一二月、激戦の結果、反革命軍が敗北して大規模な内戦は終った。これ以後は、ヴァンデーの小戦争と称するゲリラ戦が続けられた。しかし勇猛果敢をうたわれたラ・ロシュジャックランも殺され、デルべ、タルモン太公と有名な貴族指導者が殺された。一七九四年の一二月、国民公会が反革命者にたいする大赦令をだしたので、シャレット、ストフレが抵抗をやめてゲリラ戦が終結した。


ジロンド派の対策

ヴァンデー暴動をめぐる方針のちがいもまた、ジロンド派の勢力後退を招いた。ジロンド派は、鎮圧のための断固たる手段をとろうとはしなかった。

三月一九日、暴動の発生と拡大が報告されると、国民公会は、反乱に参加した者を死刑にするという決議をおこなった。しかし、ヴァンデー県代表が増援軍の派遣を要請したとき、ジロンド派の支配する総防衛委員会は熱意をみせなかった。

結局、行政官を派遣するとの決定をおこなったが、ヴァンデー県代表は、この措置が不十分であるといって、ジロンド派議員と激論をおこなった。ヴァンデー反革命軍と真剣に闘っている革命派は、ジロンド派に見切りをつけて、平原派あるいはモンタニャール支持へむきをかえた。

四月二七日、ダントンの提案で、増援軍をヴァンデーへ派遣することが決定された。ヴァンデー反革命軍との戦闘では、モンタニヤールも平原派もともに死にもの狂いで闘った。平原派の政治的態度があいまいであるからといって、反革命軍との戦闘もあいまいだというわけではなかった。

たとえば、サーブル・ドロンヌ市を守って反革命軍を敗走させたブラールは、パリ銀行家の息子で政治的には平原派といわれていたが、戦闘では勇敢であった。このことを、平原派のカンバセレスがはっきりと証言している。

「穏健派がジャコバン派よりも反乱者にたいしてやさしさを持っていたというわけではない」。

ここにジロンド派と平原派との相違をみることができる。ジロンド派は、ヴァンデー暴動にたいして断固たる態度をもたない。しかし、平原派は、ときにはモンタニヤール以上に断固たる措置を望んだのである。五月から六月にかけては、反革命軍がもっとも強大になり、このままふくれあがっていくと、大軍をなしてパリにむかってくるかもしれないという脅威を与えた。そのようなときに、平原派とモンタニヤールからみれば、ジロンド派の態度は敗北主義的とみられたのである。

ただし、反革命軍は急速にその弱点を暴露した。まず第一に、指導者がそれぞれバラバラで、独立性を保ち、一つのまとまった軍団にならなかったことである。つぎに、農民が郷里を離れて遠くへ行軍することを好まなかったことである。貴族の指揮官シャレット侯爵は、権力をにぎると、貴族社会のくせがでてきた。城で貴婦人に囲まれ、酒、ダンス、恋愛にふけった。このようなことが、反革命軍の弱体化をたらした。 

要約 第四章 ジロンド派の時代 四 ヴァンデーの反乱

王党派農民の反乱が、フランス中西部に拡大した。この事件からひきだされる要点の一つが、「農民運動は、王党派(フランス革命反対)の方向にも向くものだ」という点にある。この事件は、古くから一般論のように唱えられてきた「ブルジョア民主主義革命」という理論とは矛盾する。つまり「ブルジョアジーが農民と手を携えて、ブルジョア革命(市民革命)を推進する」という理論である。しかし、ヴァンデーの事件を見ると、農民反乱がフランス革命をつぶし、貴族政治の再現に貢献しようとした。こういうこともあるのだという要約になる。

なぜこうなったかという原因については、本文の中で詳しく書いている。ただ言えることは、様々な農民運動があるということだ。

 


0 件のコメント:

コメントを投稿