2022年2月7日月曜日

18-フランス革命史入門 第四章の三 敗戦路ジロンド派の後退

三 敗戦とジロンド派の後退


デュムーリエ将軍の反逆

一七九三年三月は一つの転期であった。このときからフランスは敗戦に転じ、ヨーロッパの強国から侵略され、生死の境におかれた。死にものぐるいの闘いの中で、ジロンド派が没落し、恐怖政治が出現することになる。まず、三月一八日、ベルギーのネールウィンデンでデュムーリエ将軍の率いるフランス革命軍は、コーブルク公爵の率いるオーストリア軍に敗れた。

オーストリア、プロシア連合軍は、そのまま進んでデュムーリエ軍とキュスチーヌ軍を分断する形で、フランス国境をめがけて進んできた。三月から四月にかけて、フランス連合軍はベルギー全土から撤退した。ドイツ国境では、マインツの要塞を残して、キュスチーヌの率いる軍隊が撤退した。これから七月まで、プロシア軍によるマインツ攻撃が続けられ、激戦がくりかえされた。

デュムーリエは、敗戦を利用してクーデターの計画をたてた。それは、オーストリアの司令官コーブルク公爵と話をつけてベルギーの領土をオーストリアに渡し、オーストリアは彼を援助することを予定した。その機会に、軍隊を率いてパリに進撃し、国民公会を解散し、フランス王国を再建し、王妃マリー・アントワネットの救出をおこない、ジャコバン派を弾圧するというものであった。

デュムーリエの行為に疑いをいだいた国民公会の総防衛委員会は、デュムーリエの罷免、逮捕を三月二九日、決定した。その実行のために、陸軍大臣ブルノンブルと四人の派遣委員を送った。しかし、デュムーリエは彼らを逮捕し、オーストリア軍に引き渡した。デュムーリエは、そのまま軍隊をパリにめがけて進軍させようとしたが、まだ残っていた国民公会の派遣委員と、デュムーリエ指揮下の将校が国民公会の側につき、デュムーリエを襲撃した。こうして、デュムーリエ将軍は、自分の支持者にかこまれてオーストリア軍の側へ逃げこんだ。

このとき、オルレアン公爵の息子ルイ・フィリップ(のちの七月王政の王)がデュムーリエと行動をともにした。四月一日、パリではデュムーリエの裏切りの共謀者として、オルレアン公爵(フィリップ・エガリテ=平等と呼ばれていた)と公会議員シルリー侯爵が逮捕された。ダントンも、二度デュムーリエ軍に派遣された委員として、この反逆計画にかかわりあいがあった。そこで、彼も総防衛委員会と保安委員会に喚問された。

しかし、ダントンは、デュムーリエと内通したのはジロンド派であったと主張し、自分にたいする疑惑をジロンド派にすりかえた。ジロンド派も最後までデュムーリエを擁護していたために、ダントンの言葉が以外に強味をもった。モンタニヤールはジロンド派との闘争を続けていたので、八月一〇日の英雄ダントンを敵にまわすよりは、味方に引き入れる方を有利だと考えた。ダントンのもつ重味は決定的なものであった。そこでダントンへの疑惑はすておかれ、ダントンはモンタニヤールと歩調を合せて、ジロンド派を攻撃する側にまわった。


破綻するジロンド派の政策

ジロンド派は、しだいに権力の座から後退をはじめた。まだモンタニヤールの政権は成立していないが、ジロンド派の政策が破綻していくとともに指導権は平原派の手に移行しつつあった。一七九三年一月二二日、内務大臣ロランが辞職した。彼は、徹底した穀物商業自由の主唱者であり、あまりにも頑固すぎて、他のジロンド派大臣と対立したのである。大蔵大臣クラヴィエールが、ジロンド派系大商人のビデルマンと協力して、陸海軍のための食料調達を大規模におこなおうとした。これがロランの主張と合わないので、ロランは買付を縮小させようとして対立した。ジロンド派の中にもまた、穀物商業の自由の幅をめぐって意見の対立があった。

四月に入ると、陸軍大臣と海軍大臣がモンタニヤールのブーショットとダルバラードにかわった。四月五日、国防のために大幅な権限を持つ機関として、公安委員会がつくられた。ここにはジロンド派が選出されず、九人の委員のうち、カンボン、バレール、ギュイトン・モルヴォー、デルマ、ブレアール、トレラールは平原派で、ランデはジロンド派寄りからモンタニヤールに転じたもの、ダントン、ドラクロワは平原派からモンタニヤールに転じたものであった。

また、四月三〇日、ジロンド派の反対を押し切って、将軍にたいする告発が将校、兵士、義勇兵、軍隊に配属されている市民に開かれることを決定した。こうして、将軍達に頼りきっていたジロンド派の政策がくつがえされた。

軍隊の改革もジロンド派の反対を押し切っておこなわれた。それは、貴族軍人デュボワ・ド・クランセの主張するアマルガム法(混成法)であった。当時、正規の軍隊と義勇兵が別々に行動していた。正規軍は古い軍隊の秩序を保ち、義勇兵は、指揮官を選挙して民主的な軍隊となり、待遇もよかった。そのため、正規軍と義勇軍の間がうまくいかなかった。

アマルガム法とは、この両者を一つの軍団の中に同居させ、正規軍の中にも義勇軍の選挙制度をとり入れ、正規軍の士気を高めながら、義勇軍と正規軍の竸争をおこなわせるというものであった。これも、平原派の多数とモンタニヤールの力によって成立した。これは、当面する戦争には役立たなかったが、翌年には各軍団で実現された。この改革は軍隊の士気を高め、軍隊における将校と将軍の刷新を実現し、世界最強のフランス革命軍を作りだすことになる。


自由貿易主義の後退

一七九二年一月、内務大臣ロランの辞職のあと、ガラが就任した。彼はダントンの友人で、活動的な人物である。ジロンド派の同調者としてのちに逮捕されるが釈放された。テルミドール事件以後の公安委員となり、学者で教授、ナポレオン時代の元老院議員でもあった。平原派を象徴するような人物である。

それにしても、ロランからガラへの変化は、ジロンド派の政策から平原派の政策への移行を示している。それは、自由貿易主義から保護貿易主義への漸次的移行であった。二月二日、ガラの提案により、内閣がイーデン条約の破棄を決定した。

イーデン条約とは、一七八六年イギリスとの間に結ばれた自由貿易主義的な通商条約であった。この通商条約の結果、イギリスの工業製品がフランスに流入し、フランスの比較的竸争力の弱い工業が打撃を受けていた。まだ大工業は少なく、中・小規模のマニファクチュアの多いフランスの産業が、工業先進国イギリスの圧力にさらされたのであった。そこで、そうした工業家から保護貿易を求める声があがっており、とくに三部会の請願書にも、また立法議会への請願にも、このことを要求したものが多かった。しかし、そのような保護貿易主義は押えられたままで過ぎていった。なぜなら、革命で指導権をにぎったフイヤン派のブルジョアジーは、重農主義に代表される自由主義経済を信奉しており、つぎのジロンド派も、その点においては徹底した自由貿易論者であったからだ。とくにロランがそうであった。これは、フイヤン派、ジロンド派ともに大商人、大銀行家の勢力を主な背景としていたからである。大銀行家は国際商業の決済、為替取引、国際的な投機により利益をあげている。大商人は仲介貿易によって巨大な利益をあげていた。

どこの国、いずれの時代でも、保護貿易か自由貿易かは、主としてブルジョアジーの内紛の問題である。だいたいにおいて、最先進国の工業資本は自由貿易主義であり、二流国の工業資本は、先進国と対抗するために保護貿易主義に走る。ところが、二流国の商業資本は自由貿易主義であり、商業資本と産業資本が自由貿易と保護貿易をめぐって争う。しかも、二流国であればあるほど、工業が発達していない。さしあたり、商業資本の政治力が強い。商業資本に工業資本が押えられて自由貿易を強制される。ある段階で、工業資本が内外の情勢を利用しながら、これを逆転する。そうしたことが、フランスにも起きたのである。

イーデン条約が破棄されたのは、イギリスにたいする宣戦布告の翌日であった。戦争ともなれば、自由主義的な貿易を破棄するための絶好の機会となる。しかもロランが去り、ジロンド派の勢力は後退しつつある。そうした情勢のうえにたって、フランス工業資本の要求が実現した。ただし、国民公会におけるジロンド派の抵抗はまだ強く、内閣に条約を破棄する権限があるかどうかという形でかなり議論が続いた。それにしても、イギリスと戦争状態に入ったのであるから、ジロンド派もイーデン条約を継続せよとは主張できず、結局内閣の方針通りになった。

その後、保護貿易を要求する声はますます強まり、三月一日、ブリュルテルの報告にもとづいて、フランスと交戦中の国々の間に締結された通商条約を破棄し、外国から輸入される工業生産物の品目をあげて、その輸入を禁示する法令を可決した。ただし、まだジロンド派の勢力が強かったので、フランス工業のために植民地原料を確保するという意味での航海条令は成立しなかった。

これはジロンド派の背後にいる貿易商人の利害に関するものであった。貿易商人は、フランスの植民地物産をフランス以外の国に輸送して利益をあげていた。また、フランス本国の原料を、他国へ輸出することで利益をあげた。貿易商人の力がくつがえされるのは、ジロンド派追放以後のことである。こうした政策のちがいは、ジロンド派と平原派のちがいを暗示する。のちにみるように、平原派には、ジロンド派より以上の工業的性格がみられるからだ。

食料危機と過激派の登場

ジロンド派の勢力は後退したが、まだ国民公会では、勢力を保っており、内閣には大蔵大臣クラヴィエール、外務大臣ルブランをもっていた。このジロンド派勢力を国民公会から追放し、恐怖政治を実現した原因は、深刻な食料危機、それにもとづく暴動、財政困難、敗戦とヴァンデーの暴動であった。

こうした内憂外患が、一七九三年春に一度におしよせた。国民公会議員の多数は、渾身の力をふりしぼってこの危機から脱出しなければならなかったが、それには、非常手段が必要であった。

まず敗戦に直面した国民公会の足もとをゆるがす事件が、パリに発生した。それは貧民の暴動であり、その背後に、それを煽動する過激派がいた。過激派は、「アンラージェ」(激昻した者)と呼ばれていた。

正確には激昻派というべきであるが、普通過激派と呼ばれている。

その人的系譜は、コルドリエクラブのメンバーもいるが、それからもはずれた一連の革命家が多く、国民公会に議席をもつほどの名士ではなかった。しかし、それだけに直接下層の人民と結びつき、彼らの本能的な要求を生の形で正当化して、運動をかきたてることができた。食料危機のため大衆が興奮すると、大衆運動の指導者としては一時的に重大な影響力を発揮した。その指導者の派閥はいくつかにわかれている。

ジャック・ルーは軍の将校の家に生れ、地位の高い司祭になっていたから、社会の中流よりは上の僧侶であった。フランス革命がはじまると、農民の反領主暴動を煽動し、革命派となり、僧侶基本法に宣誓をおこなって教会を与えられた。マラが国民議会から追求されたとき、自分の家にかくまったことがある。ところが、このころになると、マラ以上に過激な政策を主張しはじめ、労働者の多いグラヴィリエ区で影響力を広げた。

彼の支持者の中には靴屋、飲食店主、指物師、医者など、職人、労働者ではないがブルジョアでもないといった階層の者がいる。ジャック・ルーは、最高価格制と買占め、投機の取締りを宣伝し、これに反対した国民公会を、元老院の専制と非難した。彼の目からみれば、ジロンド派からモンタニヤールまで、すべてが貴族主義者だということになる。

ヴァルレは裕福な郵便局長の家に生れた。シャン・ド・マルス事件のときには、共和派の請願運動の先頭に立った。一七九二年一二月には、財産の不平等をなくし、買占め、独占、投機を禁止し、公共の利益を犠牲にしてふくれあがった個人財産の国有化を主張した。六月八日、「社会生活における人間の厳粛な権利の宣言」と題したパンフレットを書き、このような主張を展開した。彼はドロワ・ド・ロム区を指導し、最高価格制と買占めの取締りを国民公会に要求した。

二人の女性革命家が、過激派の指導者になった。美人女優として有名なクレール・ラコンブは、八月一〇日の武装蜂起で勇敢に闘い、英雄になった。もう一人の女性ポリーヌ・レオンは、チョコレート製造業者の娘として裕福であったが、革命に熱中し過激派のルクレールと結婚した。

クレール・ラコンブとポリーヌ・レオンは革命的な婦人を集めて「革命的共和主義婦人クラブ」を組織し、ラコンブが議長、レオンが副議長になった。一七九二年一〇月一〇日、この団体が設立されたが、翌年の一〇月三〇日に解散させられた。この団体は、インフレ対策としてアシニアを強制流通させること、食料品、石けん、ソーダ、ろうそくの公定価格を勝手に決めて、これを強制的に買い取るという運動をおこなった。これを当時「価格設定」と呼んだ。彼女らは、はじめマラの影響を強く受けていたが、しだいにジャック・ルーに結びついた。


過激派の煽動する食料暴動

ロランの提案で、一七九二年の末穀物商業の自由が実現した。これに加えて、アシニアの増発政策の効果があらわれて、貨幣価値が下落した。この二つが、一七九三年二月ごろに、物価騰貴を引き起こした。穀物商業の自由につづいて起こったものが、穀物の買占め、投機であった。それは、敗戦を見越して、食料の買占めに走った大商人、農村の大土地所有者や大フェルミエのせいでもあった。アシニアの価値の下落はひどく、約半分に下落した。アシニアではかられる物価が、約二倍に騰貴したと考えてよい。前にみたように、下層民は生きていくだけで精いっぱいの賃金しかもらっていないから、このような物価騰貴は、彼らの餓死を意味するものであった。そこに過激派の影響力が強まる理由があった。

一七九三年二月一二日、パリの四八区の代表と称する一人が国民公会の演壇にあらわれ、過激派の主張をとり入れた演説をおこなった。小麦の最高価格を定めて、全国一律に適用し、違反者にたいしては一〇年の禁固刑、再犯には死刑を適用せよという提案であった。この主張はジロンド派を批判の対象にしていたものであるが、国民公会では、モンタニヤールのマラまでが激しく反対した。このような提案は、穀物の流通を破壊して混乱をまきおこすというのである。この点では、ジロンド派からモンタニヤールまで意見が一致していたので、この演説者を保安委員会に尋問させることに決定した。

二月二二日、婦人の一団がジャコ・ハンクラ・フに現われて、買占めについて討論するように要求した。しかし、ジャコバンクラブを指導していたモンタニヤール議員、デュボワ・ド・クランセ、ロベスピエール(弟)、ビヨー・ヴァレンヌが彼女らの要求を批判し、会場が騒然となった。

二月二四日、洗濯女の代表が国民公会の演壇に立ち、石けんの値上りについて不平をのべた。洗濯女は、当時洗濯を請負い、セーヌ河の川辺で群をなして洗濯をしていた。一種の婦人労働者であり、今日のクリーニング屋の個人営業と思えばよいが、ことが起こると集団を組みやすい立場にあるので、フランス革命の騒乱事件に大きな役割を果した。その意味で、当時無視できない勢力であった。

「一四スーであった石けんが二二スーに値上りしている。議員諸君、諸君は暴君の首を法の力によって切り落した。われわれは、買占め人と投機業者を死刑にするよう要求する」。

この時期、三〇万人の徴兵令が問題になっていたが、彼女らは、最高価格が決定されないのであれば徴兵をやめよと主張した。この意見は、徴兵令にひきつづくヴァンデーの暴動と、のちに国民公会が採用せざるをえなくなった最高価格制の問題を暗示している。

最高価格を設定して貧民の生活を安定させなければ、徴兵令は成功しない。自分の生活が破減しつつあるのに、徴兵に応じる者はいない。無理に実施しようとすれば、政府にたいする反乱を招く。事実、ヴァンデーの暴動はそのようにしてはじまった。

しかし、まだ当時の国民公会議員は、どの派閥であろうとも最高価格の必要を認めていなかった。この日のジャコバンクラブ議長デュボワ・ド・クランセは、婦人達に反論した。

「食料品の値上りをまねく一つの手段は、買占めについてたえずわめきたて、商業を脅迫することである」。

婦人達の請願はしりぞけられた。翌日の二月二五日、パリに騒動がはじまった。まず婦人の一団が騒ぎ、ついで男性が参加し、食料品店をおそって砂糖、石けん、ろうそく、ソーダの値段を決めて分配した。石けんは、彼女らの主張どおり一二スーに定めて分配された。これに抵抗した食料品店は、略奪された。ジャック・ルーは、この行為が正当であるとあおり立てた。

国民公会では翌日この問題が討議された。財政委員会のカンボンは、穀物の最高価格を設定すると、国有財産になっている農地の買手がなくなり、財政困難を深刻にするという立場から反対した。ロベスピエールすらこの騒動を非難し、これはフランスを破減させようとする陰謀だといった。デュボワ・ド・クランセは、この運動を亡命貴族による反革命の試みだといった。その日騒動が再びはじまろうとしたのでパリに非常太鼓がなり、八万人の国民衛兵が動員された。ジロンド派系の将軍サンテールが、「武器をとれ、市民よ。財産と同胞を守れ」と呼びかけた。

こうして「武器をとれ、市民よ」の言葉は、バスチーユのときは王権と宮廷貴族にたいしてむけられたが、いまや下層民からの略奪に対抗するものになった。財産を持つブルジョアからみれば、どちらも自分を傷つける者であり、極左は極右に通じると思われた。この騷動で逮捕された者は、ほとんどが下層民であり、貴族も外国人もいなかった。だから、この運動は、やはり下層民の自然発生的な運動であり、反革命とか亡命貴族の煽動とかの意見は、うがちすぎた意見であった。


革命裁判所の設立

しかし、買占め人にたいする攻撃は続いた。二月四日、ママンが国民公会で演説し、ジロンド派が買占め人を保護しているといって非難した。

「財産家の貴族政治は、貴族階級の貴族政治の廃墟のうえに立ちあがろうとしている。一般的に大商人、金融業者は買占め人だ。権力をにぎった盗賊達といえども、もし国民公会のある派閥に支持されなければ、われわれを攻撃しようとはしないはずだ」。

ママンは兵士あがりの革命家で、ヴェルサイユ行進、九月二日の虐殺に大きな役割を果した人物であった。

同じころ、一人のジャコバンクラブ員がジロンド派を攻撃した。ジロンド派のブルジョア政治よりは、まだ旧体制の貴族政治の方がましであるといういい方で、当時の下層民の革命にたいする幻減を表現している。

「ブリッソの徒はなにをしようとしたか。彼らは金持、商人、大財産家の貴族政治をうちたてようとしたのである。これらの人間が人類のわざわいであり、自分のことしか考えす、利己主義と欲望のためにすべてを犠牲にするような人間であることに気づかせようとしなかった。もし私に選ぶことができるならば、旧体制の方を取りたい。貴族や僧侶は多少の人徳があったが、これらの人間はそれすらも持ちあわせていない」。

こうした批判攻撃の高まりに応じて、ジロンド派とモンタニヤールはしだいに意見の相違を深くしていった。

ジロンド派は商業の絶対的自由を堅持し、最高価格を要求する運動は、断固として弾圧せよという主張をくりかえした。モンタニヤールは、こうした運動には反対しながらも、非常事態であることを認め、部分的にでもその要求を受入れて、譲歩の政策をうちだそうとした。

まずマラが、極端な買占めをおこなった商人を裁く目的を含めて、革命裁判所を設立することを提案した。これをダントンがとり上げて、三月一〇日、国民公会に提案し、革命裁判所が設立された。マラとダントンの提案は、過激派の主張よりは穏健なものである。しかし過激派の運動は名もない民衆の運動であり、弾圧してしまえばそれまでであると思われている。

マラとダントンの提案は、たとえひかえめなものであったとしても、とにかく議員として発言され法律として成立し、効力を発するものである。全国の商人、とくに買占めをおこなっている者はこれに恐怖した。マラが悪魔のようにいわれはじめ、マラの政策を支持する者をマラチストと呼ぶようになり、ジャコバン派を意味するようになった。ジロンド派はマラを攻撃して過激派の一味とみなし、二月二六日の騒動の責任者として告発した。

しかし国民公会で多数を取ることはできなかった。


穀物最高価格制の決定

時がすすむにつれて、ますます危機が深刻になり、モンタニヤールはしだいに過激派の主張に近づいていった。

三月二六日、ヴァンデーの暴動を鎮圧するために派遣されたモンタニヤール議員ジャンボン・サンタンドレは、平原派議員の中心バレールにたいして、革命に貧民をひきつけるためには、貧民を生かさなければならず、革命への情熱を高めるためには、非常手段を取る以外にないと書いた。それは、穀物を公定価格で強制的に買上げ、公共の倉庫に貯蔵し、貧民の食料にあてるというものであり、ひと月前に過激派が主張したのと同じものであった。

四月に入ってデュムーリエ将軍の反逆があり、にわかに危機感が高まると、過激派のヴァレルが革命的中央委員会を組織して、パリコミューン検事ショーメットと協力し、最高価格制への運動をすすめた。

四月一八日、パリ周辺の市町村代表が集まり、危機をのりこえるためには最高価格制以外にはないと結論をだし、パリの県知事ルリエを代表者として、国民公会に最高価格制を提案させた。ジロンド派では、ビュゾ、ヴェルニョーが激しく反対した。モンタニヤールの側では、ロベスピエールが支持した。

四月二五日から五月四日まで激論がつづき、ジロンド派のバルバルーが強硬に反対した。しかし、平原派の多数が賛成にまわり、五月四日、穀物の最高価格制が決定された。ジロンド派は屈伏し、ビュゾは、やむを得ず非常手段として受入れると声明した。

ここまでの経過をみると、最高価格制の問題は、ジロンド派とモンタニヤールを区別する根本的な要素ではないことがわかる。最高価格制には両派ともに反対である。過激派だけが、それをはじめから主張していた。二月には、モンタニヤールはこれを正面から非難していた。モンタニヤールが賛成にまわったのは、そののち危機が深刻化して、これを採用しなければ、下層民が革命から離れるという認識をもったためである。それは、政治的配慮からくるものであった。

その段階では、ジロンド派は政治的配慮なしに、真向から反対していた。そして過激派の主張が、ついにパリ周辺の市町村代表を通じて県知事までを動かすにいたったとき、モンタニヤール議員も、平原派の多数も賛成にまわったのである。そのときにも、まだジロンド派は断固反対していた。国民公会の票決にやぶれると、これを非常手段として認めた。

結局、原則的には反対だが、非常手段としては認めるという点ではすべて一致している。原則から非常手段に移る時期の判断が、それぞれにおいてずれていただけである。この問題だけならば、ジロンド派の追放という事態はおきなかったはすである。ジロンド派追放以後に最高価格制が成立したと書く本もあるが、実はジロンド派追放以前に、すでに最高価格制が法律としては成立したのである。

 

要約  第四章 ジロンド派の時代 三 敗戦とジロンド派の後退

17933月、約半年間のジロンド派全盛期の後、ベルギーで大敗北しながら、イギリスとの戦争が始まった。これは、戦争を指導するものとしては、無茶苦茶なもので、あとで責任を追及されるのは当然のことになる。ただし、フランス革命史の中では、誰もそのことを追及しない。イギリスの参戦は、ツーロン、ブレストの二大軍港の占領、洋上での輸送船、商船の撃沈を招き、被害甚大なものがあった。この後者の効果を言う人は少ないが、これは食糧不足を招き、フランス革命に激烈な様相を作り出した。ジロンド派は、フランスの敵が増えるということは、自由の敵が増えるということだと、威勢のいいことを言っていたが、結局は我が身にも降りかかってきたというべきである。

デユムーリエ将軍の敗北、裏切りは、ジロンド派の没落に絡んで重大な事件ではあるが、今一つ理論的にすっきりと説明がつかない。貴族将軍、最初、勝ったので、絶大な名声を得た。それを背景に、大規模な腐敗、汚職事件を引き起こした。その関係者の名は本文に出てくる。その結果、軍隊の士気の低下、戦闘能力の急減を起こした。そこで負けた。そうすると、敵の将軍と話をつけて、パリを急襲し、国王夫妻を救出する計画を実行しようとした。失敗して逃亡した。大体こういう筋書きで理解すればよい。注目すべきは、この時逃亡した人物に、オルレアン公爵ルイ・フィリップがいることである。この人物は、後に7月革命で国王になった。つまり自由主義的大貴族、王族、革命軍の将軍の取り巻きになる。負けると、パリ襲撃、国王夫妻の救出に加担し、逃亡、約40年後に革命で国王になった。フランス革命にはこういう一面もある。

もう一つ重要な論点として最高価格制がある。多くのフランス革命史で、ジロンド派の追放を引き起こした原因が最高格制にあるとされてきた。しかしそうではないのだと私は言っている。はじめのころは、モンタニヤール議員でも、「それは過激だ」という意味で反対していた。今の日本人ならば、「まあ仕方がないか」くらいで賛成する。実際、ジロンド派議員も、最終的には賛成した。だからこの問題は、ジロンド派追放の原因にはならない。原因は別にある。

 

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