2022年2月7日月曜日

15-フランス革命史入門 第三章の五 敗戦と八月一〇日の武装蜂起

五 敗戦と八月一〇日の武装蜂起


ジロンド派内閣の政策

一七九二年三月一〇日、フイヤン派の内閣は崩壊し、そのあとジロンド派の内閣が成立した。もちろん、ジロンド派という名前は、この時点の呼び名ではなく、もっと後につけられたものである。当時彼らはジャコバンクラブの指導的メンバーであり、ブリッソを中心にしていたから、ブリッソ派と呼ばれていた。新閣僚の名前は、国王から任命されるよりも数時間早く議会に通告された。もはや国王の権力はほとんど失われていた。

大蔵大臣クラヴィエール、内務大臣ロラン、法務大臣デュラントン(ボルドー高等法院検事長)、陸軍大臣グラーヴ、海軍大臣ラコスト、外務大臣デュムーリエであった。

ジロンド派内閣が成立すると、いままでつづけられてきたフイヤン派対ジロンド派の政争が、ジロンド派の有利な方向に解決された。植民地問題については、三月二四日、ジロンド派の主張する解決案が、フイヤン派とくにラメット派の抵抗を押し切って可決された。植民地反乱を鎮圧するが、混血人の政治的平等を認め、商人が植民地地主(貴族)の財産を債権のかわりに差押えることができると規定されていた。これは植民地における貴族政治の敗北であり、ラメット派の敗北であった。

亡命貴族についての対策も懸案になっていた。フイヤン派には自由主義的貴族が多かったために、亡命貴族にたいしては、同じ貴族仲間という意味があって、厳格な処置を好まなかった。ジロンド派を含めたジャコバン系は、亡命貴族にたいするきびしい制裁を要求していた。

一七九一年一二月一三日、議会は亡命貴族について、「すくなくとも六ヵ月の間、フランス王国に居住していたという証拠をあげないかぎり、国家からの年金、国債の支払を受けとることができない」と決めた。このことによって、亡命貴族は、かつてもっていた国家からの支払を受ける権利を打ち切られた。

しかし、まだ亡命貴族はフランス国内に領主権、土地所有権をもっていた。とくに亡命貴族が名門の宮廷貴族であり、第一級の領主であったために、亡命貴族の領主権が大問題になった。亡命貴族は、自分に忠実な徴税請負人や管理人を使って領主権を徴収させ、これを正貨にかえて、外国に送金させ、その金で豊かな生活をつづけながら、反革命的陰謀をめぐらしていた。亡命貴族の領地に住む住民にしてみると、国家の敵とみなされた人物が、自分達から貢租を取りあげているのである。この矛盾にたいする怒りが表面化した。

一七九二年の春、各地に反領主暴動が起きた。領主の城が焼打され、略奪された。この暴動には、農民だけではなく商人や職人、さらには地主の若者までが参加した。地主といえども、身分は平民であり、領主権に服していた。このことはすでに説明したとおりである。こうした動きに対応して、ラマルク(侯爵、大領主、将軍、ジャコバン派系の政治家)は亡命貴族財産の差押えを提案した。ラマルクも大貴族であったが、暴動で貴族の財産が破壊される前に、一定の政治的処置で貴族財産を保全しようとしたのである。ラマルクの提案は、フイヤン派の反対に出合った。フイヤン派のスディエは、これにかわる案として、亡命貴族財産の収入にたいして三重の課税をおこなうことを提案した。

この争いもフイヤン派の敗北に終り、三月三〇日、ヴェルニヨー(ジロンド派)の提案で、亡命貴族財産を差押え、これを国民にたいする賠償にもちいることが決定された。


領主権の無償廃止について

この時期、領主権の無償廃止が政争の焦点に浮びあがってきた。ちょうど亡命貴族財産の差押えが審議されている最中の二月二九日、クートンが王党派の基礎を破壊するために、不動産売買税の無償廃止を提案した。ジロ

ンド派内閣が成立したのちの四月一一日、封建委員会を代表して、ラツール・デュシャルテルが、買戻しを義務づけられた各種封建権利の無償廃止を提案した。これに内務大臣ロランが賛成した。フイヤン派のドゥージーがロランを攻撃して、議会は激論の場になった。

この問題は、フランス革命の理論的解釈にとってきわめて重要である。領主権の無償廃止をジロンド派も含めたジャコバン派系議員が主張し、これにたいして、フイヤン派が必死で抵抗している。そして、ジロンド派内閣

が成立しているとはいえ、まだ議会では領主権の無償廃止が採決されていない。あとにみるように、これが両派の武力対決の基本的な原囚になった。その結果、八月一〇日の事件でフイヤン派が敗北した。それとともに、領主権の無償廃止がたしかなものになった。

領主権は別名封建権利と呼ばれていて、八月四日の宣言と一七九〇年三月の法令によって、部分的に無償廃止が実現した。貢租と不動産売買税は有償廃止とされた。その残った有償廃止の部分を、一七九二年八月一〇日の

政変で無償廃止にした。これによって、フランスからは領主権が完全に消減した。

ところが、この間題については、日本においてもヨーロッパにおいてもきわめて根強い奇妙な誤解が長くつづいた。それは、領主権の無償廃止が、一七九三年のジロンド派追放の時点でおこなわれたという解釈である。そ

こで、恐怖政治の基本的な内容の中に、封建貢租の無償廃止または領主権の無償廃止をとりあげることが一般的におこなわれてきた。この実例はあまりにも多すぎるので、いちいち引用しているひまがないほどである。

たとえば、ソブールも『フランス革命』(下巻、五一頁)でそのように書き、本田喜代治氏の『フランス革命史』(一二三頁)でもそうなっている。ただ、マチエの『フランス大革命』(上巻、二六〇頁)では、一七九二年の八月一〇日で農民の解放が実現したといい、この時点での領主権の廃止を評価している。

いずれにしても、ほとんどのフランス革命史からはじまり、世界史の概説書、経済史の理論書にいたるまで、恐怖政治による封建権利の無償廃止という図式をうちだしている。これに反して、ジロンド派権力が封建権利の

無償廃止に積極的であったことを主張しているのは、河野健二氏の『フランス革命小史』である(一二一頁)。

ここでは、八月一〇日の革命を封建制の完全な一掃であるといってこれを社会革命と評価し、第二次革命と呼んでいる。これにくらべると、バスチーユ以来の革命は法律革命であるとされ、封建制の廃止という意味では、八月一〇日の方が高く評価されている。河野氏は、領主権の廃止を封建制の廃止と考えているから、とくに八月一〇日を高く評価することになる。

しかし、八月一〇日の事件がなかったとしても、すでにバスチーユ以来、フランスの国家権力は最上層のブルジョアジーの手ににぎられているのであり、その意味では、封建制度は終っていたといえる。領主権を廃止しな

ければ近代国家とはいえないというならば、イギリス革命以後のイギリスは、領主権を廃止していないのであるから、いつまでたっても近代国家とはいえない。領主権の廃止と封建制度の廃止または封建社会の打倒は、別問題である。

いずれにしても、フランス革命は、第一段階で領主権の部分的廃止を実現しながら、それなりにブルジョアジーの権力を安定させたのであり、第二段階の八月一〇日の事件で、領主権の無償廃止を実現した。これは、ジロンド派内閣が基本的に達成したのであって、恐怖政治が独自の仕事としておこなったわけではない。この点は、フランスのみならず、日本その他各国の歴史の理論的解釈にたいして大きな影響を与えるので、改めてここに確認しておきたい。


ジロンド派内閣の失脚

フイヤン派を相手にした未解決の政争をかかえながら、成立したばかりのジロンド派内閣は、オーストリアとの戦争に議会を引きずっていった。反対したのは、ラメット派と、のちのジャコバン派系に相当する少数であり、議会では約一〇票にとどまった。こうした議会の楽観的な雰囲気のもとで、オーストリア、プロシアにたいする宣戦が布告された。

しかし、ひとたび戦争をはじめてみると、すべてが予想通りにいかなかった。軍隊の数だけからいえば、国境に展開したフランス軍が一〇万人であるのにたいして、オーストリア軍は約四万人であり、プロシア軍はまだ戦線に到着していなかった。しかし、フランス軍はすでに内部的な崩壊をはじめていた。そのため、攻撃命令がでてフランス軍が前進するやいなや、逆にたちまち混乱を起こして、四月の末には敗走をはじめた。敵国軍は、あまり大きな困難なしに、フランスに侵入することができた。

敗北の理由はいくつかあった。まず、軍隊では依然として将校は貴族であり、革命前からの階級制度が維持されていた。いわば、軍隊における革命はおこなわれていなかった。貴族将校や貴族の将軍は、革命政府とくにジ

ロンド派にたいし嫌悪を感じ、ジロンド派内閣の命令のもとに戦争をする気がなかった。将校や将軍の多くが積極的に裏切り行為をおこない、ある者は辞職し、ある者は熱意のない、お義理の指揮をおこなった。

将校や将軍がこういう状態であったから、下士官、兵士も奮戦する気はさらさらなく、いつも指揮を疑いの目でみているから、ちょっとした行き違いでたちまち動揺し、退却、混乱した。こうした状態であるから、攻撃は

不可能であるという意見が指揮官の中からだされた。また、貴族で組織された近衛兵などは敗戦を喜んでいた。彼らにとってみれば、敗戦が絶対主義を再建し、宮廷貴族の特権を回復してくれるからである。

そのうえ、国王と王妃が敗戦を望み、フランスの作戦計画は、国王から王妃を通じてオーストリア皇帝に内通されていた。そのため、フランス軍は意表をつかれ、ますます混乱した。また、国庫が破産に瀕しつつあり、軍事費が思うように支出されなかった。

こうした中で、お互いに敗戦の責任のなすりあいがなされた。将軍と将校は、敗戦の責任が兵士の訓練不足と臆病のせいだといった。これに反対して、ロベスピエールは、敗戦の責任が将軍達にあり、彼らは昔の特権に未練をもっているから信用できないといった。また、貴族の将軍達を罷免して、愛国者に交代させなければならないと主張した。

ロベス。ピエールの主張したことは、後になって革命戦争の中でしだいに実現されていく。貴族で固められた将校と将軍の地位が、すべての身分の出身者に開かれ、下士官、兵士といえども軍功を立てて愛国者であることを示しさえすれば、どのような高い地位にでも昇っていけるようになった。その中から、ナポレオン・ボナパルトとか、ネイ、ミュラーなどといった名将軍が出現した。そうなると兵士の士気も高まり、将校に優秀な者をそろ

えることになるから、この軍隊は強力な軍隊に再生する。軍隊における革命、人材登用の制度が、のちにおこなわれるのである。そうしてはじめて、フランス革命はすべての分野に徹底したといえる。

ただ、戦争を開始した時点においては、まだ軍隊における革命は実現しておらず、それだけに、内部崩壊寸前になっていた。そのような軍隊であるから、いかに数が多くても敗北するのは当然であった。そのうえ、外国人部隊、外国人傭兵隊を、旧体制のまま引き継いで使っていたことも、裏切り行為を大きくした。サックス連隊(ザクセン)やドイツ人連隊は、それぞれ、ドイツに領地をもつ高級貴族によって統制されており、革命フランスには敵意をもっていた。そこで、前線に出動させられると、そのままドイツ側に寝返ってしまった。こうした事態により、戦争に勝つためには、新しい、愛国心をもつフランス人による軍隊を組織しなければならないことが痛感された。

五月二九日、もっとも貴族的な近衛軍団を解散した。これにかわってパリを守備するために、連盟軍二万人をパリ郊外に駐屯させる法令を、六月八日に可決した。また、僧侶の反革命的運動が影響力を増大しつつあったので、五月二七日、忌避僧侶についての法令を可決し、市民に告発を受けた忌避僧侶の追放、または流刑を定めた。

国家財政については、以前からクラヴィエールの主張していた方針が実行された。つまり、一万リーブル以上の国庫債権の償還を停止した。このことによって、フイヤン派ブルジョアジーのうち、旧体制に高額の債権をもちながら、まだ、補償を受けていない者は打撃を受けた。ジロンド派系のブルジョアジーは、こうした寄生的性格の強いブルジョアジーの一派を切り捨てていった。


フイヤン派政権の復活

外では敗戦がつづき、内では政争が大詰めにきた。ジロンド派内閣が可決させた法令に、国王は拒否権を発動した。拒否することをすすめたのは、フイヤン派を代表するデュポールであった。国民衛兵もまた、連盟軍の駐屯に反対していた。そこで、国王は、それらの力を頼みとして拒否権を発動するとともに、ジロンド派の大臣ロラン、クラヴィエール、セルヴァン(陸軍大臣)を六月一三日に罷免した。二日のちの六月一五日、デュムーリエも辞職に追いこまれた。こうして、ジロンド派内閣は崩壊したが、これは、国王の全力をあげた反撃の結果であった。こうして、新内閣はフイヤン派の独占するものになった。

かわってフイヤン派内閣が成立した。大蔵大臣ボーリュー、内務大臣テリエ・ド・モンシェル、法務大臣デュラントン、外務大臣シャンボナ、陸軍大臣ラジャール、海軍大臣ラコストであった。


封建貢租の無償廃止

行政権はフイヤン派ににぎられたが、その同じ時期に、議会ではジロンド派以下の左派が、領主権の無償廃止をひっさげて攻勢に転じた。六月一四日のことである。両派は、かわるがわる立って、封建的権利が所有権であるかないかと激論をつづけた。フイヤン派からの最後の修正案が、デュラモールによってだされた。

「すくなくとも四〇年間騒乱がなかったという条件により、領主は本源的証書を補うことができる」。

これが認められるならば、領主権は有効であり、正当な権利と認められることになる。この修正案を審議するかどうかの決議が、二七三対二二七で可決された。この数をみるならば、まだフイヤン派が議会で優勢であったことがわかる。これで安心した右派の議員の多くが退場した。そのとき、左派が修正案の審議続行を要求し、右派は閉会を叫んだ。その喧騒の中で、審議が続行され、修正案は否決された。その結果、ドラクロワのだした封建的権利の無償廃止の提案が可決され、議会は閉会した。フイヤン派は、油断をつかれて、議会闘争で敗北したのである。領主権の無償廃止は、革命派であろうと反革命派であろうと、領主にとっては重大な問題である。ここで、フイヤン派は、一転して反革命的クーデターの方向へむかった。


フイヤン派のクーデター計画

ラメット派のデュポールは、議会の解散と国王の独裁権を主張した。ラファイエットは前線から手紙を送り、ジロンド派の前閣僚やジャコパンクラブを非難した。ラファイエットは、軍を率いてパリへ進撃し、フイヤン派の独裁政権を作る計画を立てていたので、敵国軍との戦闘には積極性をみせなかった。フイヤン派の内閣がオーストリアに休戦を提案するという噂が流れた。

六月二〇日、ジロンド派系のサンテール(ビール醸造業者、ジャコバンクラブの活動家)の率いる下町の住民が、議会と宮殿に押しかけ、ジロンド派内閣の罷免、国王の拒否権発動、軍隊の怠慢さに抗議した。しかし、なんらの成果をみることなく、このデモは退いた。この事件は、逆にフイヤンクラブの攻勢を有利にした。このデモの責任を追求されて、ジロンド派系のペチヨン(パリ市長)、マニュエル(パコミューン検事長)はパリ県会によって罷免された。多くの県会もこの事件を非難した。

ラファイエットは、命令なしに軍隊を離れて議会に現われ、ジャコバンクラブの解散とデモの責任者の処罰を要求した。これが六月二八日のことである。これにたいして、ジロンド派のガデは反撃に転じ、ラファイエットが任務を離れてパリに来たこと、軍隊を活動させずに置いたことを取りあげて、ラファイエットの非難決議案を提出した。これは三三九対二三四の差で否決された。この時点の立法議会では、やはりまだフイヤン派に同調する者が多かったのである。

前線の司令官は、ラファイエットと同じく、国内の動きに注意を奪われ、敵国軍との戦闘に嫌気がさして、軍隊を後退させた。そのためにプロシア、オーストリア軍は苦もなく前進した。七月六日、プロシア軍が国境に接

近していることを、ルイ一六世が議会に報告した。ここで、フランス国内の危機感がにわかに高まった。

この危機に直面すると、国内に動揺が広がり、立法議会も左右に動揺した。フイヤン派は、戦勝よりもむしろ左派との闘争に熱中したが、無所属中央派の議員は、かならずしもそうではなかった。たとえジャコバンクラブ

に同調しないとしても、とにかく革命フランスを敵国軍から守るという点では、はっきりとした意志をもっている者が多かった。そのために、議会の決議が右に左にゆれていく。

七月一〇日、フイヤン派の大臣は辞職に追いこまれた。七月一一日、議会は「祖国は危機にあり」という宣言を発表した。

七月一三日、議会はパリ市長ペチヨンの復職を命令し、義勇兵の召集を王の承認なしに全国に呼びかけた。正規の軍隊が戦闘で役に立たないので、革命フランスを防衛する意気にもえた義勇兵を、全国から集めようという

のである。国王はこれを拒否していたが、すでに議会は、国王の拒否権をのりこえて、議会の決定が国王の拒否権をこえるという事態を作りだした。義勇兵は、国王の抵抗にもかかわらず、それ以前からパリにむけて行軍を開始していた。


武装蜂起の推進者

これから八月一〇日までは、複雑な動きが進行する。七月二五日、。プロシア、オーストリア連合軍司令官ブラウンシュヴァイヒ公爵の宣言がだされた。これは、もしフランス国王に危害が加えられるならばパリを完全に破壊し、パリ市民の処刑をおこなうという脅迫的なものであった。これが八月一日パリに伝わると、パリ市民の間に恐怖と憤激をまきおこした。そのころ、七月二五日から三〇日にかけて、ブルターニュ、マルセイユの義勇兵がパリに到着した。彼らは連盟兵と呼ばれた。この兵力は、なにはともあれ、敵国の侵入からフランスを守るという信念で固められていた。とくにマルセイユ連盟兵は、のちにフランス国歌になった「ラ・マルセイエーズ」を高唱しながら行軍してきて、意気は盛んであった。

それにしても、このときはまだ敵国軍を撃退することに注意がむけられており、王権の転覆、立法議会の解散については、左派の中でも意見がまとまっていなかった。のちにジロンド派の指導者になるブリッソ、ヴェルニヨー、ペチヨン、ガデ、ジャンソネなどは、フイヤン派大臣の辞職のあとをうけて、自分達がもう一度政権に返り咲こうとして、国王と交渉をはじめた。まだまだ国王の権威は強いものと思われたのである。

ジロンド派は、王権の停止を要求する共和派にたいして、正面から非難をなげつけた。しかし、ジロンド派のやり方では間題の解決にならないと主張する一群の活動家が、頭角をあらわしてきた。ロベスピエールは、ジャコバンクラブ員や連盟兵にたいして演説をおこない、王権の停止、立法議会の解散、普通選挙による国民公会の召集を説いた。立法議会のコルドリエクラブ三人組、メルラン・ド・チオンヴィル、シャボ、バジールもパリ市民を武装蜂起にむけて動かした。

こうして、左派の側にも、武装蜂起をすすめようとする勢力と、これを押えようとするジロンド派の暗闘がつづけられた。この分裂に国王とフイヤン派はくさびを打ちこもうとした。王室費から大金がバラまかれて、主だった活動家の買収がおこなわれた。雄弁で人心を奮い立たせ、後になって八月一〇日の男といわれたダントンは、一方で武装蜂起を煽動しながら、他方で一五万リーブルを受けとって、国王一家の安全を約東した。このことは当時知られていなかったが、のちになって明らかになった。

マルセイユ連盟軍を率いるパルバルーにも一〇〇万リーブルを申込もうとする試みがあったが、買収不可能とみてやめた。アメリカ大使モリスも、この買収事件にからんでいた。バルバルーはのちにジロンド派の闘士になるが、同じくジロンド派の政治家といっても、この時点で武装蜂起に反対する者と、これを積極的にすすめる者

とに分裂していた。

そのようなちがいは、当時のブルジョアジーの動揺を表現していた。パリのブルジョアジーの住む町ポスト区は、最後まで立憲王政を主張していたが、八月一〇日の直前になると、意見をかえて王権の停止の側に立った。

こうした転向には、パリを破壊するというブラウンシュヴァイヒ公爵の宣言や、敵国軍の接近、フランス軍の敗走、それに加えて国王が防衛に熱意をみせないことが作用した。このように、非常に流動的な状態のままで、八月一〇日の日を迎えた。


チュイルリー宮殿の襲撃

八月八日、立法議会で懸案になっていたラファイエットの懲罰動議が、ラファイエットの行動を許すという形で決着がつけられた。武装蜂起を計画していたパリの諸区は、王権の停止を議会に請願して、その期限を八月九日と定めていたが、立法議会のラファイエットにたいする態度をみて、もはや議会主義の枠内ではどうにもならないことを悟った。八月九日の夜パリに警鐘が鳴り、パリの下町サン・タントワーヌ街、サン・マルセル街の住民と、マルセイユ連盟兵が武装してチュイルリー宮殿を包囲した。

チュイルリー宮殿は表むきスイス人連隊で守られていたが、この決戦の段階にくると、宮廷貴族から地方貴族にいたる多くの貴族軍人が合流し、スイス人連隊の制服を着て戦闘の準備をしていた。この段階に入ると、宮廷貴族の特権に批判的であるが故に革命に中立的な立場をとっていた地方貴族が、断固として国王を守る側に立った。それは、領主権の無償廃止がすすめられたためである。

このときに国王のまわりには、主義主張を越え、宮廷貴族から地方貴族にいたるちがいを越えて、貴族階級の中の行動的な人物が、王制を守る決意をもってチュイルリー宮殿に集合した。前近衛兵も加わった。高級貴族の一人、スイス人連隊長マイヤルド侯爵(陸宮中将)は、国王の護衛に奮闘し、息子と五人のスイス人将校とともに虐殺された。国民衛兵司令官をしたことのあるノアイユ公爵(陸軍少将)も亡命先から帰国して、国王を護衛し、議会に送りとどけ、そののち逃亡に成功した。

このような状態であるから、八月一〇日は貴族階級の命運をかけた死闘であった。それ以前には、このような血みどろの闘いはなかった。バスチーユ占領とそれにともなう市街戦でも、このような死闘はくりひろげられていない。それだけに、もし武装蜂起をした側が敗北をした場合は、チュイルリーに集まる貴族の軍団によるクーデター、すなわち立法議会の包囲、左派系議員の追放、粛清がおこなわれるはずであった。そうした運命を心配しながら、立法議会の議員は、この戦闘のなりゆきをみつめていたのである。そのため、ジロンド派のペチョンは、国王にたいして、武装蜂起の群衆を非難し、「力には力で押しかえす」と国王の側に味方するような発言をした。敗北したときの保身の術を考えたのである。

八月一〇日午前八時、武装蜂起の集団が勢揃いして、マルセイユ連盟兵を先頭に、そのあとにコルドリエクラブ員がつづき、門をあけろと要求した。スイス人連隊は門をあけ、帽子を高くあげ、開き窓から「国民万歳!」と叫んだ。友好の印に薬包を投げた。これで、敵側に攻撃の意志がないと判断した群衆は、安心して庭を進んだ。そこでいっせいに砲火が開かれた。二つの大砲から散弾があびせられ、宮殿のすべてに硝煙がたちこめた。これで約四〇〇人が倒された。

武装蜂起の群衆は、これに押されて一度後退し、態勢を立てなおした。このとき、近衛騎兵隊が蜂起軍に寝返り、後続の群集が武器をもって集まり、国民衛兵が味方について宮殿に再度突入した。あらゆる場所で必死の激戦になり、抵抗ははげしかった。武装蜂起の側は貴族軍人を虐殺しながら宮殿を占領していった。庭や建物一面バラバラにちぎれた手足が散乱した。戦闘が国王側に不利になると、ルイ一六世は立法議会に避難してきた。

「朕はここに大きな罪悪を回避するためにきた。諸君の中ほど安全な場所はないと考える」。

議長のヴェルニヨーは、

「陛下、議会はなんらの危険も考えません。これ以上のことが起きるとき、必要とあらば、自分の持場で死ぬことを知っています」

と調子のいい答えをした。

チュイルリー宮殿での戦闘が終り、武装蜂起の群集が議会を囲んだ。王権の停止と、普通選挙による国民公会の召集が要求された。立法議会はその圧力に屈した。議長ヴェルニヨーが国民公会の召集、王権の停止、国王を議会の保護のもとにおくことを提案し、可決された。この議論が進行しているとき、ルイ一六世は、議会でいつものように飲んだり食べたりしていたという。

八月一〇日で敗北した者は、フイヤン派系のブルジョアジーと自由主義的貴族であった。これに一群の地方貴族が合流して敗北した。彼らの残党は、それぞれの地方で反革命的暴動をくわだてた。ラファイエットとラメットは、前線の軍隊を率いてパリに向おうとしたが、支持者が思うように集まらなくて危険を感じ、ベルギーへ逃亡した。

ヴァンデー県の地方貴族シャレットは、チュイルリー宮殿の防衛に活躍したあと逃亡して故郷に帰り、半年のちには、ヴァンデーの反革命暴動の指導者になった。同じくヴァンデー県に領地をもっ宮廷貴族ラロシュジャッ

クランは、革命前陸軍少将、王の代理官であった。その息子がチュイルリー宮殿の防衛に参加し、ヴァンデーの暴動を指揮して、伝説的な勇名を残した。

フイヤン派系ブルジョアジーの代表的人物として、アルザスのディートリックをあげることができる。彼は鉄鋼王といわれた大鉄鋼業者で、金融業者出身である。伯爵として領主、貴族でもあった。ブルジョア領主、ブルジョア貴族の最上層にいる者であった。彼はラファイエット派の革命家となり、革命後はストラスブール市長になった。ラ・マルセイエーズは、彼のサロンで、将校ルージェ・ド・リールが作ったものであった。八月一〇日直前までは彼も革命家であったが、八月一〇日の直後、アルザスでフイヤン派系の反乱を起こさせようと努力して失敗し、亡命した。恐怖政治のころに捕えられて処刑される。


八月一〇日の結果

八月一〇日の事件で敗北したのは、フイヤン派である。これは誰にでもわかることであるが、そのフイヤン派とともに敗北したのがどのような社会勢力であるかということについては、各人各様の説があり、一定していない。実際には、フイヤン派を支持し、フイヤン派の立場でのフランス革命をすすめてきた勢力とは、ブルジョアジーの中の最上層の部分であった。彼らは、旧体制にたいする寄生性が強く、特権的な立場にあり、また領主としての側面を兼ねていた。

これに自由主義的貴族の同盟が成立した。自由主義的貴族は貴族、領主でありながら、さまざまなつながりで最上層のブルジョアジーと結ばれていた。それにしても、バスチーユ以来八月一〇日までは、基本的に最上層のブルジョアジーの権力のもとにあった。これが、フイヤン派の没落とともに権力の座から落ちたのである。

ただし、政党の没落と、それを支持する階級の没落とは別問題である。政党が没落しても、それを支持した階級がただちに没落するというものではない。その階級の利己的な要求が政治に反映されず、ある程度の犠牲を強いられるというだけである。たとえば、ジロンド派内閣が成立すると、債務償還の上限を切り捨てた。旧体制に寄生していたブルジョアのうちの何人かは打撃をうけた。しかしその程度の意味での儀牲であり、彼が銀行家として経営に成功しておれば、没落するほどのことはない。また、それ以前に大部分の債務の償還を受けていた者は、損失がわずかでくいとめられる。党派の没落は、フイヤン派系ブルジョアジーの没落につながらないのである。

同じく、領主権の無償廃止によって、貴族がいっせいに没落したわけではなかった。たしかに、領主権の維持をめざして、自由主義的貴族も地方貴族も奮闘し、それがチュイルリー宮殿の必死の防衛に反映された。しかし領主権が無償で廃止されたとしても、社会階級としての貴族は消滅しない。領主としての階級は消減した。しかし、領地の中には直領地があり、これはやはり貴族の所有地として残った。そして、領地の大部分が直領地であるという貴族もいた。この場合は、領主権の無償廃止は痛手にならない。この面でも、改革の効果はまったくバラバラであった。

領主権に服している土地を持つ貴族もいた。この貴族はかえって喜ぶであろう。困った貴族とは、領地をもつが、その中にほとんど直領地がなかったという領主である。貴族の中にも、領主権の廃止をめぐっていろいろな立場があった。チュイルリー宮殿で死んだ貴族は貴族全体の数からすればほんのわずかであり、大多数の貴族は、おとなしく自分の城に住んでいた。もし彼に直領地があれば、彼は依然として農村の大土地所有者である。ただ、領主権の廃止の部分だけに損失を受けた。このことは、自由主義的貴族についても地方貴族についてもあてはまる。


混乱した理論的解釈の実例

ところが、党派の没落と階級の没落を同じように扱いながら、フイヤン派のブルジョアジーを単に上層ブルジョアジーとか大ブルジョアと呼ぶ解釈がかなり一般的である。このような解釈をすると、つぎのジロンド派政権の支持者が大ブルジョアジーだといわれるから、一度没落した大ブルジョアジーが、ジロンド派の支柱として生きかえり、ジロンド派追放とともに消えさるという奇妙な矛盾が起こる。

そうした矛盾にすら気がつかないで、フランス革命史を書いている人が多い。

ソブールの『フランス革命』では、八月一〇日についてつぎのように書いている。

「自由主義的貴族および上層ブルジョアジーが没落したのである。宮廷と密通し、蜂起を制止しようと努めたジロンド党についていえば、この党派は自分のものならぬ勝利の結果、大きくはならなかった。これに反して、受動的市民、手工業者や商店主は、ロベスピエールと山岳党員達に導かれ、かがやかしく政治の舞台に登場した」(上巻、一八八頁)。

この文章では、八月一〇日で、すでに上層ブルジョアジーが没落をしたと思わせる。ところが、一年後のジロンド派の没落については、ジロンド派の背後に大ブルジョアジーがいたという書き方をしている。

「ジロンド党を擁して、ひたすら自分に有利なように統治しようとした大ブルジョアジーが、一時政治舞台から姿を消したのである」(下巻、四九頁)。

こうなってくると、八月一〇日に没落した上層ブルジョアジーが、つぎのジロンド派政権のときに、大ブルジショアジーと名前を変えて政権の座にいたことになる。これでは、上層ブルジョアジーと大ブルジョアジーのちがいはなにかという質問がつきつけられるだろう。

同じような書き方がマチェの『フランス大革命』にある。

「しかし、八月一〇日の砲声のもとに、王国とともに粉砕されたのは、ひとりフイヤン派(いいかえれば大ブルジョア階級と自由主義貴族)ばかりではなかった。臨終の宮廷となれあい、蜂起を妨げるのに必死になっていたジロンド派もまた、自分の仕事ではない、押しつけられた勝利によって力を弱められてしまった」(上巻、三〇三頁)。

こうして、大ブルジョア階級の粉砕をいう。ところが、その一年のちのジロンド派の追放について、大ブルジョワ階級が倒されたとまたいっている。

「したがって、六月二日は政治革命以上のものであった。サンキュロットがひっくりかえしたものは、ただに一党派だけでなく、ある点までは一つの社会階級であった。王位とともに倒れた少数の貴族のあとで、今度は大ブルジョワ階級が倒されたのである」(中巻、二九四頁)。

ここでも、一度粉砕されたはずの大ブルジョア階級がまた、ジロンド派の背後にいてジロンド派とともに倒されることになっている。そして、あとの方の文章では、八月一〇日に倒れたのは少数の貴族だけだといういい方をしている。そうすると、八月一〇日で貴族が倒され、ジロンド派追放で大ブルジョアが倒されたという理論的な結論になる。それならば、バスチーユはなんであったかということになろう。著者自身の頭が整理されていないことを表現するものである。

また、いったいジロンド派は八月一〇日の時点で大ブルジョアジーを倒す側にまわったのか、大ブルジョアジーの代表者になるために奮闘したのかという疑問もでてくるであろう。大ブルジョア階級は、フイヤン派と結んでジロンド派に敗れたはずであるのに、それが今度は、ジロンド派の背後にまわっているという、いかにも器用な転身のように解釈できる。このような解釈は、意外に一般的であるが、事実を正確に解釈できていない。

ジロンド派もまた、はじめから上層ブルジョアジーの党派であった。クラヴィエールがその代表的なものである。そして、フイヤン派の側にもまた、上層ブルジョアジーがいた。ディートリックとかボスカリのような者である。フイヤン派対ジロンド派の闘争は、それなりに、上層ブルジョアジーの中での闘争であった。両者を分けたものは、寄生的性格がどの程度であったか、特権をどの程度もっていたか、領主的性格があったかなかったかであった。

そのために、フイヤン派を倒したあと、ジロンド派政権が成立しても、別なグループの大ブルジョアジーが、権力の背後に立ったのである。このように解釈すれば、八月一〇日からジロンド派の没落にいたる過程が、首尾一貫して説明できる。

要約 第三章 フイヤン派の権力 五 敗戦と八月十日の武装蜂起

ここにきて戦争問題が重要になってくる。ただしどの派が賛成、どの派が反対という構図にはならない。どちらの側にも賛否両論があった。その中で、ジロンド派には積極的な人が多かった。もちろん、オーストリア、プロイセンの大軍が迫ってくるのであるから、反対と言っても意味がない。ただ、入ってくるのを迎え撃つのか、積極的に打って出るのかの違いがあるだけである。1792310日ジロンド派内閣が成立した。これが画期的な出来事であった。国王の任命よりも先に、閣僚を決めて、議会に通知した。国王個人の行政権を、宙に浮かせたことになる。しかも、新大臣のうち財務大臣(大蔵大臣)にはクラヴィエールを登用した。

スイス人銀行家、それまでの内閣が、旧制度の官職廃止に対して、手厚く補償をすることに反対してきた人物である。つまり「特権商人グループ」を優遇することはやめろという意見を持っている。これが財務の担当になった。当然旧体制の官職保持者にとっては不利になる。それに代わって、自助努力で成長してきたブルジョアたちに機会が回ってくる。亡命貴族に対する対策も、厳しくなってきた。

ついに「領主権の無償廃止」が提案された。ここのところを全力で注視して読んでほしい。この節では、ほかのことは忘れても、これだけは覚えておいてほしい。領主権の無償廃止は、ジロンド派の功績であること、これに尽きる。(ただしこの時期にはジロンド派という名称はないが)。しかもこの歴史学上の最重課題が、「だまし討ち」のような形で実現したということ、こういう実情をはっきりと指摘するのは、世界中でも私だけである。この後武力対決になって、王権の転覆になる。 

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