2022年2月7日月曜日

11-フランス革命史入門 第三章の一 革命の諸党派

第三章 フイヤン派の権力


一 革命の諸党派


僧侶財産の国有化とアシニアの発行

ネッケルは、ラファイエットと妥協してパリに入り、しばらくは財政を動かしていた。しかし、彼は銀行家であっても、宮廷生活に深入りしすぎていた。そのため、国民議会のだしてくる財政改革案についていけなくなり、抵抗するばかりになった。財政危機がますます深刻化したので、ケース・デスコントを国立銀行に改組して、その紙幣を国家の保障つきで増発する案を考えた。しかし、この紙幣はすぐに下落することが見通されていた。

これにたいして、タレイランが一〇月一〇日、僧侶財産の国有化を主張した。これが一二月二日、可決された。そのあと、一二月一七日、国民議会の財政委員を代表して、銀行家ルクツーが報告し、ネッケルの提案をしりぞけ、国有化された僧侶財産を担保として紙幣を発行することを決定させた。この紙幣をアシニアと呼んだ。

ただし、アシニアを紙幣というべきかどうかについては疑問の余地がある。不動産の実物価値に裏付けられているうえ、はじめに発行されたのは、五分の利子つき証券だったからである。しかし、フランス革命の全体的な

観察からすると、紙幣としての役割を果すことになったといえよう。

この政策は政治的な革命が財政的な革命となり、とくに財産上の革命へとすすんだメルクマールであった。僧侶財産の国有化とはいっても、切りすてられるのは高級僧侶の収入であり、下級僧侶にたいしては、それに見合

う俸給を国家が支給することになったので、さしあたり経済的な打撃にはならなかった。高級僧侶は、大規模な寺院、大規模な領地を取りあげられるのであるから、ほとんどが反対し、この政策のあとで反革命運動に転じた。ごくわずかな高級僧侶、タレイラン司教とかシエース副司教だけが賛成にまわった。

アシニアを受け取った者は、これで僧侶財産を買い入れることができた。この紙幣は土地、建物という不動産の価値で裏付けられているので、信用が高まり、紙幣としては効力を発揮した。国家がケース・デスコントから借り入れを重ねていた一億七〇〇〇万リーブルは、このアシニアによって返済された。


ネッケルの敗北と亡命の第三波

アシニアの発行は、ネッケルの財政政策の第一の敗北であったが、つづいて第二、第三の敗北が起った。ネッケルは、はじめ四分の一愛国税を提案して、収入の四分の一を租税として徴収し、これで財政困難をたてなおそうとした。自分も一〇万リーブルを率先して提供し、人気をとろうとした。しかし、この政策は反対が強く、立ち消えになった。

財政危機を立て直すためには、思いきった改革が必要であった。しかし、ネッケルは積極的に改革を行おうとはしなかった。宮廷貴族の高額の年金を削減すること、国王の秘密支出のもとになっていた赤帳簿を廃止することが議会から要求された。実際、これを行わなければ、財政支出は節約できず、国王の財政的な権力はのこり、宮廷貴族はいつまでも財政的特権を享受するから、なんのために革命を行ったのかわからない。

しかし、ネッケルは赤帳簿の公開に反対した。また、宮廷貴族の年金は財産であるから、尊重しなければならないという立場に立って、これを切り下げようとはしなかった。今や、ネッケルは宮廷貴族と国王の財政的権利を守ろうとする側にまわったのであり、国民議会の多数派からみれば、ネッケルが保守派の牙城にみえてきた。

ミラボーは、ネッケルについて「一人の大臣の財政的独裁」と批難した。ネッケルは、宮廷に深入りした銀行家として、はじめは宮廷の弊害をあらためようとする改革派として出発しながら、革命が進行するとともに、宮廷の特権を維持しようとする保守派にまわったのである。ついにネッケルの没落するときがきた。

一七九〇年三月六日、ネッケルは国民議会財政委員会に「前使い金」を要求したが拒否された。四月に入ると、赤帳簿を国民議会の年金委員会に手わたさざるをえなくなった。宮廷貴族の高額の年金も、ネッケルの反対を押し切って削減された。もはやネッケルの時代は終った。

一七九〇年九月四日、彼は国民議会に辞職を伝える手紙を書いた。彼の手紙が読み上げられても、国民議会ではなんらの動揺も起こらず、議長は冷淡につぎの議事に移った。ネッケルはフランスを去ってスイスに帰ったが、一時捕えられて侮辱された。このようにネッケルは、銀行家として成功し、貴族社会の成上り者となり、自由主義貴族の社交界の花形となり、フランス革命第一段階の救世主として仰がれたが、結局はそのフランス革命で失敗した。ただし、スイスにおいては依然として大銀行家であり、豪荘な邸宅に多くの召使にかこまれて住んでいた。

このあと、国家の財政の実権は国民議会財政委員会の手に移行した。それを代表する者がルクツー・ド・カントルーであった。彼も銀行家、法服貴族、工業家、大商人の要素を兼ねていたが、ネッケルのように宮廷に深入りしていたわけではなかった。ネッケルのように、銀行家でありながら宮廷貴族とまじりあっていた者が、ブルジョアジーの頂点からまっ先に脱落していったのである。

また、宮廷貴族の穏健な改革派がネッケルとともに脱落した。ネッケル派の宮廷貴族ショワズール公爵、モルトマール・ド・ロシュシャール公爵などが亡命をはじめた。またネッケル派の大臣シャンピオン・ド・シセ(法務大臣)、ラ・リュゼルヌ(海軍大臣)、ラッール・デュパン(陸軍大臣)、サン・プリースト(内務大臣)は、すべて高級僧侶か宮廷貴族でありながらネッケル派として政権を担当していたが、辞職に追い込まれた。

新しく選出されてきたパリの区の代表者が、ネッケル派の大臣の罷免を要求した。このときにダントンが運動の先頭に立ち、名前を知られるようになった。一〇月二〇日、国民議会はこの要求を少数の差で否決したが、票の差が少いために、ネッケル派の大臣は自ら辞任したのである。

このことによって、ネッケル派は完全に権力の座からすべりおちた。この事件が、パスチーユ襲撃以来まだ行政権の中にのこっていた宮廷貴族の要素を消滅させた。宮廷貴族の勢力は、バスチーユ襲撃でその中心部を破壊され、ヴェルサイユ行進でさらに削減されたが、ネッケル派の辞職によって、最後に残った柔軟派までが追いおとされた。


王党派的反対派

ヴェルサイユ行進ののちに、革命運動を指導、組織するべきいくつかの党派が形成された。革命の前にあらかじめ一つの党派が形成され、それが革命を指導したのではない。財政的危機からくる自然発生的な運動の中で、それぞれの階級の人物が動き、その雑然とした情勢の中から、しだいにいくつかの党派へのまとまりがつくられていった。

もちろん、現代の政党政治のような整然たるものではなく、どの党派にも加盟せず、そのときそのときで投票していた議員も多い。また、一人の人物が、二つの党派に同時に加盟しているばあいも多かった。たとえば、ブリッソは、一七八九年協会とジャコバンクラブの両方に加入していたが、ラファイエットもミラボーも同じことをしていた。そのため、党派とはいってもまだ形成されたばかりのもので、政党政治の党派とはかなりちがっていた。

国民議会は三部会の議員によって構成されたものであり、かなりの亡命者をだしたとはいえ、まだ貴族や僧侶の議員ものこっていた。こうした勢力によって、革命の進行に抵抗しようとする右派が作られた。

クレルモン・トネール伯爵、モンテスキュー司教、ヴィリュウ伯爵、地方貴族のカザレスなどが中心になり、一七九〇年一一月「立憲王制友のクラブ」を作った。

彼らよりもさらに保守的な政治家としては、モーリ枢機卿に代表される保守派があった。ただし、いずれにしても、国民議会において彼らはもはや与党ではなくて、右翼的な反対派の立場に転落し孤立していた。


一七八九年協会またはラファイエット派

国民議会の指導権をにぎった党派は、ラファイエット派と呼ばれた議員の一団であり、「一七八九年協会」にまとまったものである。このクラブは、一七九〇年五月に設立され、入会金は一〇〇リーブルであった。これでは、かなり高い収入がなければ入会できないから、ここには革命勢力の中の最上層部に属する者が参加した。

もっとも目立つものは、自由主義貴族と最上層のブルジョアであり、ブルジョアのばあい、多くは貴族・領主を兼ねていたり、国債の大所有者であったりしたものである。その意味では、自由主義的領主と貴族的ブルジョアの同盟ということができる。貴族の代表的人物としてはラファイエット侯爵、コンドルセ侯爵、ミラボー伯爵、ラ・ロシュフーコー・リャンクール公爵、キュスチーヌ伯爵、カステラーヌ伯爵などの自由主義的宮廷貴族が目立っていた。高級僧侶の中ではタレイラン司教、シエース副司教が目立っていた。

法服貴族では、レデレ伯爵(メッツ高等法院判事)、ダンドレ伯爵(エクス高等法院判事)などが目立っている。

最上層のブルジョアには、ラヴォアジエ、ボスカリ、クラヴィエール、ユべール、モヌロン、ビデルマン、ドレッセール、デュフレーヌ・サンレオンなど多くの大ブルジョアの姿がみられる。デュフレーヌ・サンレオンは国民議会清算委員会事務局長になり、ラヴォアジエは国民議会から度量衡制度の改革をまかされて、CGS系単位を確立した。ペルゴ、ジョージ、コッタンのような銀行家は、ラファイエットの副官となって、軍事、行政の指導権をにぎった。

法律家、知識人も多いが、彼らは他の党派にもちらばっている。第一段階の革命を「法律家の革命」というほど法律家の姿は目立っているが、法律家という区別はあくまで職業上の区別であって、これをあいまいに使うことはよくない。その法律家が、どのようなグループの代弁者になっていたかが重要である。

一七八九年協会に参加した知識人の代表的な者は、天文学者バイイである。彼は革命後初代のパリ市長となり、「テニスコートの誓い」の指導者としても有名になった。彼自身は平民であるが、父親の代から王の芸術コレクションを管理する官職をもち、このために一六〇〇リーブルの年金を受ける権利をもっていた。また、王弟プロヴァンス伯爵(後のルイ一八世)の書記にもなっていたため、宮廷貴族の保守派とも交友関係があった。その意味では、知識人の中でもっとも上層に属するものであった。

弁護士ツールも一七八九年協会に加入した。彼はノルンディーに土地と邸宅をもち、これを賃貸して収入をあげる反面、商業に投資して利子収入を受け取り、領主裁判権の訴訟や僧侶の権利をめぐる裁判で、領主や僧侶の側を弁護して謝礼をもらっていた。それでいながら、革命になると、領主裁判権の廃止を主張する文章を書いている。弁護士の中では保守派であるが、同時に革命の側にも立てる人物であった。

重農主義者デュポン・ド・ヌムールは経済学者、文筆家として有名であったが、同時に領主であった。ラヴォアジエは徴税請負人、領主、工場経営者、科学者、農業研究家であった。

このように、一七八九年協会に集まる者は、革命に参加した者の中では最も上層の者であり、保守的な層を代表していた。彼らはネッケルを追い落してしまうと、革命をそのあたりで止めようとする気持をもちはじめた。


ジャコバンクラブ

ジャコバンクラブはさらに早く国民議会の左派系の議員によって設立された。パリのジャコバン修道院を会場にしたから、このように呼ばれた。ジャコバンクラブは、のちにいわゆるジャコバン派独裁の推進団体になるから、はじめから過激で下層階級の集まりであるかのように思われている。しかし、成立したときは、一七八九年協会よりは下であるが、当時としては、中流から上流の者でなければ参加できないほどの雰囲気をもっていた。

会費は年間二四リーブル、入会費は一二リーブルであるから、職人や労働者ではとても参加できない。せいぜいのところ、職人の親方層までが加盟できるくらいである。下はこのような階層から、社会の上層にいたるまでの加盟者がいた。

その筆頭にはシャルトル公爵がいた。彼はオルレアン公爵の子で、のちのルイ・フィリップ王(七月王政の国王)である。国王に匹敵する財産家といわれたオルレアン公爵の子が、ジャコバンクラブに参加しているのも奇妙な話であるが、この家系は、一貫して、革命運動を軸にして王位をねらうという政策を追求していた。

そのほか、貴族議員もかなり参加していてミラボー伯爵、ラメット伯爵兄弟(テオドール、アレクサンドルとシャルル)、デュボワ・ド・クランセなどがその代表的なものであった。このうち、デュボワ・ド・クランセは恐怖政冶の時代にも軍事委員として活躍した。ミラボーは早く死に、ラメット兄弟はのちにジャコパン派を脱退してラファイエット派と合流し、フィヤンクラブを結成するようになる。

貴族でない議員では、法律家が多かった。バルナーヴ(弁護士)、デュポール(高等法院判事)、プリュール(マルヌ県出身の弁護士)、ルシャプリエ(弁護士)、ビュゾ(弁護士)、ペチヨン(弁護士)、ロベスピエール(弁護士)などが主だったメンバーである。

ビュゾ、ペチヨンはのちにジロンド派となり、ルシャプリエ、パルナーヴ、デュポールはフィヤン派に参加し、フリュールとロベスピエールは恐怖政治の公安委員となった。このように、当時のジャコバンクラブは、この三つの党派に分裂していく要素を含んでいた。

ジャコバンクラブには、議員とならんで街頭の活動家も加入していた。その中でブリッソ、ダントン、カーミュ・デムーランが頭角をあらわしてきた。ブリッソは銀行家クラヴィエールとむすびついていた活動家で、のちにジロンド派の指導者になる。ダントンは弁護士であるが、その雄弁によって、のちにジャコバンクラブの指導者になった。カーミュ・デムーランは弁護士を一時していたが、「武器をとれ、市民よ」の演説で、パスチーユ襲撃いらい街頭の活動家になった。ジャコバンクラブではダントンと結びつき、のちにダントン派として処刑される。


コルドリエクラブ

一七八九年協会やジャコバンクラブは主として議員の集まりであり、そこでの討論は、法律の作成、議会での投票、政策の決定が討論の中心になっていた。直接権力をうごかす立場にあるクラブであった。

もう一つ、これとはちがって、権力の行使には参加できないが、大衆を組織してその意見を政府と議会に押しつけることを目的としたクラブが結成された。「コルドリエクラブ」がそれである。この起源は、はっきりとしたことはわからないが、一七九〇年四月には存在していた。パリのコルドリエ修道院を本拠として、「人間の権利のクラブ」という名をもち、会費は一月二スーときわめて安かった。

「世論の法廷に、権力の濫用と人権の侵害を告発すること」を目的にしていた。会費が安いので、小商人から手工業の親方、職人、労働者などの貧困な市民までが参加した。それだけに、時として急進的な行動を起こすこともあり、ジャコバンクラブよりも左派と思われていた。

このクラブの指導者の中に、恐怖政治の推進者の姿がかなりみられる。ダントンとカーミュ・デムーランは、コルドリエクラブとジャコパンクラブの両方に加入していた。

マラは、王弟アルトワ伯付の医者であったが、自然科学から文学、社会問題にいたる著述をおこない、バスチーユ襲撃ののち、新聞『人民の友』を発行した。革命政権の指導者とくにネッケルやパリ市長バイイを反革命的であると批判して、たびたび追及をうけた。のちにジロンド派追放、恐怖政治の実現に大きな影響力をおよぼすことになる。

そのほか、モモロ(印刷業者、コルドリエ新聞の編集者)、エベール、ショーメット(靴屋の息子)、ジャック・ルー(司祭)など、のちの過激派の指導者になる人物もまじっている。

ただし、コルドリエクラブが左翼的であるといっても、このクラブが純粋に小市民から労働者にいたる中・下層階級に純化されていたのではない。むしろ、この時期実際の指導権をにぎっていたのは、裕福なブルジョアであった。たとえば、リヨンの貿易商人フェリエールはジャコパンクラブとコルドリエクラブの両方に加入して、ショーメットを援助していた。また、それ以外にも貿易商人の名前がかなりみられる。商工業にたずさわっていない者でも、文筆家、芸術家、印刷業者、法律家など、社会の中流よりは上位に属する者が、このクラブの指導者であった。コルドリエクラブでさえも、ブルジョア的な枠をでることはなかったのである。

要約 第三章 フイヤン派の権力 一 革命の諸党派

国民議会では、まずネッケルの党派が敗北した。バスチーユの時は、ネッケルを守れという暗黙の理解があった。しかし、権力の座に復帰させてみると、今度はアシニアの発行とか、聖職者財産の国有化に対しては反対する勢力の指導者になった。大貴族(大領主)の高額年金の実態を公開せよという要求には抵抗した。これでは旧体制の守護者になってしまう。179094日ネッケルは辞職し、スイスに帰った。

そのあと、残った保守派は立憲王制友のクラブを作った。ラファイエットを中心に1789年協会が作られ、通称ラファイエット派と呼ばれた。これが革命初期の支配者であった。その背景は、自由主義的大貴族と最上層のブルジョアであった。それより急進的な団体としてジャコバンクラブが作られた。ここでは上に自由主義的大貴族がいて、下には中産階級の上くらいの参加者がいた。より急進的な団体として、会費の安いコルドリエクラブができた。貧困層でも参加できた。ただし、その指導者はかなり裕福な者たちであった。

 

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