2022年2月7日月曜日

12-フランス革命史入門 第三章の二 国民議会の改革

二 国民議会の改革


財政改革

フランス革命は財政問題を導火線としてひき起こされた。そのため、権力をにぎった国民議会がまっ先に努力したのは、旧体制の財政的弊害を改めることであった。その点については、国民議会の大多数がまとまり、改革に反対するのはネッケル派から右のごく少数派であった。そのため、議会におけるはげしい政争をみることなしに、つぎつぎと実現された。

この改革の中に、フランス革命のもっとも基本的な成果が含まれているのであるが、不思議なことに、ほとんどのフランス革命史において、しかるべき扱いをうけていない。ひどいばあいは、このような改革にはいっさいふれないでおいて、領主権の廃止とか憲法についての議論とか、国民議会におけるラファイエット派とジャコパンクラブ系の政争から生まれた改革に移ってしまう。財政問題では、せいぜいのところ僧侶財産の国有化とアシニアの発行に言及するだけである。これでは、アンシャン・レジームの弊害が、国民議会によってどのようにあらためられたかという因果関係が、筋を通して説明されない。

財政改革の基本的なものは、宮廷貴族の特権を廃止して財政支出を削減し、国家財政に余裕をのこしながら、ブルジョアジーにたいする債務を忠実に守り、破産させないように配慮することであった。そのためにおこなわれた一連の改革がある。

赤帳簿が廃止され、過去の不正をあばくためにその資料が公開された。年金を公表し、高額年金に大削減を加えた。しかも、宮廷貴族の主流が亡命したために、彼らの年金を支払う必要がなくなり、ますます節約になった。革命以前、元帥、中将、少将の年金が総額九七七万リーブルになったが、これを六〇五万リーブル削減した。上層部にたいする打撃は大きかった。

下級将校の年金は総額六一六万リーブルであったが、九九万リーブルの削減にとどめた。兵士の年金は総額五〇〇万リーブルであったが据えおかれた。このような改革で、全体として年金支払は一一〇〇〇万リーブルの節約となった。上に薄く下に厚い財政改革であり、亡命貴族は自動的に支払を停止された。この改革が、のちに国民公会の財政改革でさらに極端となり、一七九三年六月、三〇〇〇リーブル以上の年金を一律に切りすててしまった。

高額の報酬をもらっていた元帥の数を削減し、その報酬を三万リーブルに引き下げた。その半面、兵士の給料を引き上げた。親王領が没収され、王領地の不正交換が破棄された。王領地の不正交換とは、ロアン・ゲムネ大公の救済策にみたように、国家収入を減少させながら特定の宮廷貴族を救うものであった。

王と国王一族の宮廷の費用は削減された。総督、王の代理官その他の無用官職は廃止された。これらの官職に巨額の報酬と役得がついていたことを思えば、宮廷貴族のうける打撃はきわめて大きかったことがわかる。逆にいえば、それだけ国家財政を豊かにするべきものであった。

八月四日の宣言と人権宣言の中に含まれる人間の平等についての規定が、宮廷貴族の財政的特権を破壊する側面でも意味をもった。文武の官職にすべての市民を登用するという規定は、宮廷貴族の独占物であった高級官職に、あらゆる階層の市民が就任できる可能性を開いた。この面でも、宮廷貴族の特権は打撃をうけた。

国民議会が、租税徴収権を宣言して国王と争った意味が、新しい租税政策に反映された。貴族の減免税特権は廃止された。もちろん、旧体制のもとでブルジョアの一部もまた減免税特権をもっていたが、これも廃止された。この面では、貴族的なブルジョアも損害をうけ、地方貴族も法服貴族も犠牲をこうむらなければならなかった。

新しく定められた租税の約二分の一が地租であり、約四分の一が動産税と家屋税であった。当然、貴族は多額納税者になり、上流の宮廷貴族はとくに巨額の租税をおさめなければならなくなった。しかも、徴税を実行する官吏を新しく任命し、旧体制の徴税官を罷免したから、もはや情実によって貴族が租税の減免をはかることはできなくなった。こうして、貴族全体がそれ相当の納税者にかわり、国家財政のかなりの部分を負担しなければならなくなった。

貴族に負担を転嫁することによって、財政資金に余裕ができた。その部分をブルジョアジーに対する救済政策、さらには育成政策に注ぎこむことができた。国民議会は、国庫にたいする債権をもっている者を保護し、国債の元本と利子を保証すると宣言し、これを実行した。このことによって、ブルジョアジーを破産させる旧体制の財政政策は終りをつげた。

ケース・デスコントから半強制的に借款をつづけるという財政政策も終りをつげ、過去の借款にたいしてはアシニアで償還し、債務不履行にならないように配慮した。このために、信用の動揺は静まり、ブルジョアジーからは破産者をださずにすんだ。商工業、金融業は安定して、繁栄の局面に入ることができた。国民議会は工業にたいする奨励金を増加し、工場建設のために国有地を交付してブルジョアジーの発展を財政面から積極的に援助した。このような政策は、バスチーユ占領の結果ブルジョアジーの議会が権力をにぎったため、当然実現されるべきものであった。これが、王権との激突の結果である。ところが、これらの政策が意外に評価されていない。これではフランス革命の本質が分らない。本質的な変化とは、宮廷貴族の権力が破壊され、上層ブルジョアジーの権力が確立し、前者の財政的特権が奪われ、その犠牲のうえに、後者に有利な財政政策が確立したことである。

もちろん、僧侶財産の国有化とアシニアの発行もまた、高級僧侶に打撃を与えた。高級僧侶は宮廷貴族であったから、この面でも、宮廷貴族の財政的特権に打撃を与えたと評価するべきである。


封建権利の部分的廃止

八月四日の宣言で約東された封建権利の廃止については、国民議会の封建委員会に委託された。この委員会には貴族議員が多く、書記として、実務上の仕事をしたメルラン・ド・ドゥエは封建法学者であった。このため封建委員会は領主権を温存しようとする立場に立っていた。

そこで封建的権利を二つにわけ、土地に付属している領主権つまり貢租と不動産売買税、土地に関するマンモルト(死亡税)は地代の一種とみなし、存続させることにした。貢租の徴収権は財産の一種と考えられていた。もしこの負担からまぬがれたいと思えば、土地の所有者(厳密には保有者)は、領主にたいして二〇年分から二五年分の価格に相当する資金で買い戻さなければならないと規定した。こうして、封建的権利の有償廃止が、一七九〇年三月一五日の法令として成立した。

このような形での領主権廃止は、領主権に服している土地所有者にとって、全面的に喜ぶべきことにはならなかった。領主は、改革を見越して領主権の増徴につとめた。このため、所によっては土地所有者の負担が大きくなり、領主権収入が増加したところもあった。買戻しの可能性が法律として成立しても、買戻しのできるものは、かなり豊かな土地所有者でなければ不可能であり、一般の農民には考えられるものではなかった。そこで、この法令にたいして多くの批判がだされた。

「諸君は封建制を絶滅するものと信じた。しかし、買戻しに関する諸君の法律はその反対のことをした」。

「この一七九〇年のいまわしい法令は、貢税を負担している土地所有者の破減である。この法令が生んだ訴訟はかぞえきれない」。

こうして、ひとたび静まっていた反領主的暴動が各地で活発になりはじめた。多くの本ではこの暴動の参加者が農民であったと書かれているが、貧農や中農ばかりと解釈しては誤解になる。領主権に服している者は、貴族、ブルジョア、富農からはじまって中農・貧農にいたる、さまざまな階層のものであったから、領主権を攻撃するという点では、これら幅広い所有者の階層が一致するはずであった。

ただし、大農民の中で、貢租の徴収を請負っている者(大フェルミエ)は領主の側に立つはずである。そうした動きをよく示しているのは、一七九〇年一二月に発生したグルドン郡の暴動であった。この暴動は地方貴族に指揮されていた。農民は、領主のみならず、貢租の徴収を請負っていた大農民にも攻撃をかけた。

このような反領主的暴動を、当時の国民議会の多数派は鎮圧しようとした。国民議会の多数派は、自山主義的な貴族(領主)と最上層のブルジョア(領地を所有する)の手にあったため、領主権にたいする攻撃を財産にたいする攻撃とみなしたからである。

そこで、一七九〇年八月三日、神聖な所有権を侵すための暴動にたいして厳罰を下すという法令を決定した。フランス革命のスローガンが「自由、平等、友愛」であると思われているが、これはのちのことであって、革命の初期は「自由、平等、財産」であった。財産の権利が王権から侵害されそうになったので、バスチーユ襲撃を起こしてこれを守ったという意味である。ただ、その財産権には貢租の徴収権、すなわち領主権も含まれていたのである。

こうして、フランス革命の第一段階では封建貢租が消減しなかった。封建的権利のうち、人身に附属する領主権とみなされたものは無償で廃止された。領主裁判権、市場税、通行税、強制使用権、賦役、マンモルト(死亡税)、狩猟権、鳩小屋権などである。また、領主が共有地の三分の一を取りこむ権利(トリアージュ)が廃止され、これを一七六〇年にまでさかのぼらせた。領主特権放牧権も禁止された。このような改革は、やはり領主にたいするかなりの打撃であった。逆にみると、農民その他の土地所有者にとっては、かなり有利なものとなった。

ただし、これを単に領主対農民だけの関係で評価するべきではない。通行税や市場税が廃止されたことは、商品流通を担う商人にとっては非常に有利なことであった。この意味では、ブルジョアジーにたいする領主の収奪が消滅したということができる。領主権の廃止は、農民だけではなくて、ブルジョアジーにたいする恩恵にもなったのである。

十分の一税は廃止されたが、それに相当する額は土地の所有者が受け取るものとされた。中農ならば間題はないが、大農民または商人地主のもとで小作人が働いていたばあい、廃止された十分の一税は、彼ら大土地所有者の収入を増加するものとなり、小作人の収入を増やすものにはならなかった。そうしたところに貧農の幻滅が発生し、これがつぎの問題に発展することを記憶にとめておかなければならない。


郡県制と地方自治法

一七八九年一二月二二日、地方自治についての法律が決定され、これにもとづいて翌年一月地方自治体の選挙がおこなわれた。全国はほぼ同じ面積の八三県に分割された。県の下に郡がおかれた。それ以前は大小まちまちの州に分割されていて、州と州の間に税関がもうけられ、間接税の制度もまちまちであった。これが、近代的な意味での郡県繝に統一されたのである。

新しくできた地方自治体の議会と行政官は、選挙で選ばれることになった。県知事以下の行政官と三六人の県議員は、選挙人の総会によって選ばれることになった。選挙人は三〇スー以上の税金をおさめる者であり、被選挙人は、五リーブル以上の税金をおさめるものと決められた。議員は無報酬であった。

こうした条件のもとでは、議員も行政官も裕福な者によって構成されることになる。市町村についても同じような規定がもうけられた。また選挙のための集会は地域別でおこない、職業別でおこなってはならないと規定された。これは、伝統的な勢力をもっていた同業組合(ギルド)の政治的影響力を押えようとしたものである。こうした法律にもとづいて、翌年(一七九〇年)の一月に、地方自治体の選挙がおこなわれた。その結果、各地に、ブルジョアジーと自由主義的貴族の支配する議会と行政組織が成立した。

また、旧体制のもとでは、度量衡の制度が地方によってちがっていた。これを統一するために、一七九〇年五月一〇日国民議会の中に度量衡委員会が設立された。ここで、科学者であり徴税請負人であったラヴォアジエが指導力を発揮した。彼らの仕事はCGS系単位の制定となって完成された。センチメートル、グラム、秒、の単位であるが、これが一七九三年八月公布された。ここで度量衡の統一が実現した。


第一身分と第ニ身分の廃止

一七九〇年六月、貴族の称号を使うことが禁止された。以後すべての人が「市民」(シトワイヤン)と呼ばれることになった。それ以前、身分の高い貴族は猊下(モンセニュール)と呼ばれ、普通の貴族はムッシュと呼ばれていた。貴婦人はマダムをつけて呼ばれていた。こうした区別がなくなって、すべてがシトワイヤン(男)、シトワイヤンヌ(女)で呼ばれることになった。ただし、この改革は定着しなかった。革命後、また貴族の称号が

復活した。「市民」の呼び名は姿を消した。かわって、ムッシュ、マダムが普通の人にたいしても使われるようになった。平たく言えば、貴族を市民に引き下げるかわりに、市民を貴族に昇格させる形で平等化へ近づいたのである。

同年九月七日、高等法院が廃止された。これによって、司法機関が貴族の支配するものではなくなった。裁判官に平民が登用される道が開かれた。地方自治法によって、総督、王の代理官のような宮廷貴族の独占していた官職が廃止された。こうして、宮廷貴族から法服貴族にいたるまで、貴族のにぎっていた官職が廃止され、ここに身分、家柄を問わず人材が登用される道を開いた。

また、同年二月二八日、貴族が軍隊の将校の地位を独占することを廃止した。これ以後は、貴族であろうと平民であろうと無関係に、功績によって昇進できることになった。ただし、さしあたりはまだ貴族の将校が優勢であった。平民の中から将校や将軍がでてくるのは、本格的な戦争がはじまり、戦争の中で能力と軍功を示す機会が与えられるようになってからである。

一七九〇年七月一二日、僧侶基本法が可決された。革命前、司教は国王とローマ法皇が任命し、司教が司祭を任命していた。今後は、司教と司祭は選挙によって選ばれることになった。選挙となると、司教の地位を宮廷貴族が独占するわけにはいかなくなる。そのうえ、司教の数を引き下げた。

また、その俸給をはるかに引き下げて、一万二〇〇〇リーブルから一万五〇〇〇リーブルの間と定めた。司祭の俸給は七〇〇リーブルから一二〇〇リーブルに増加させ、助任司祭の俸給は三五〇リーブルから七〇〇リーブルに増加させた。高級僧侶の数を削減し、その俸給を引き下げ、下級僧侶の俸給を増加させたのがこの法律の特徴であった。

僧侶基本法にたいしては、国民議会に議席をもっていた高級僧侶のほとんどが反対し、ローマ法王の決定をまたなければこの法律に賛成できないといった。国民議会がカトリックを国教とする案を否決したこととあいまって、高級僧侶は一気に反革命的な気分を高めた。

各地で僧侶の反革命的運動がひきおこされた。一七九〇年の春ごろから、南フランスの僧侶や修道僧が住民を煽動した。八月に入るとカトリック教徒の反乱が起こった。翌年の二月には、ラバスチード修道院長が反乱を起こした。これが西部につたわり、ヴァンデー地方で僧侶の指導する反乱へと拡大した。


ラメット派の台頭

一七九〇年九月四日、ネッケルが辞職したあとネッケル派の大臣にたいする非難が集中し、一〇月二〇日ネッケル派の大臣が辞職に追い込まれた。かわって、ラファイエット派からデュポール・デュテルツル(法務大臣)、デュッルバイユ(陸軍大臣)、ベルトラン・ド・モルヴィル(海軍大臣)が入閣し、ラメット派からドレッサール(内務大臣)が入閣した。これによって、行政権はネッケル派から、ラファイエット派とラメット派の連合の手に移り、ラファイエット派が指導権をにぎることになった。

これと並行して議会ではラメット派の勢力が強くなり、一〇月二五日にはラメット派のパルナーヴが国民議会議長になった。ラメット、パルナーヴ、デュポールの三人をまとめて三頭派と呼ぶほど有力な勢力になった。ジャコバンクラブはこの三頭派に指導され、彼らを支持していた。

これから翌年の一七九一年六月までの約八カ月は、ラファイエット派とラメット派の激突がつづき、これは角度をかえるならば、一七八九年協会とジャコバンクラブとの闘いになった。その闘争の中で、ラメット派が、ラファイエット派の抵抗をしりぞけて改革を進めていった。

この闘争を横目にみながら、国王は、パリに残って事態を改善しようという努力をすてた。ネッケル派の大臣にかこまれている間は、まだ我慢ができた。なぜなら、多少気にいらないとはいっても、ネッケル派はともかく宮廷貴族であり、革命前にも大臣をだしていた。改革派ではあっても、ともかく国王の側近であることにはまちがいがなかった。ネッケル派がしりぞけられてしまうと、もはや国王は信頼できる大臣をもつことができない。そこで、この時から国王の逃亡計画が練られることになる。この計画が、一七九一年六月二〇日に実行されたヴァレンヌ逃亡事件である。

ラファイエット派とラメット派の闘争はつきつめていえばブルジョアジーの内部抗争であった。権力は、もはや宮廷貴族の手からはすべりおち、階級としてのブルジョアジーの手ににぎられていた。ただし、そうはいっても、ブルジョアジーに純化されたという意味ではない。

まだ当時のブルジョアジーが社会的権威をもっていなかったので、どうしても、全国に名を知られた名門貴族の権威にたより、彼らの協力を求めなければならなかった。そのために、一方の勢力は、ラファイエットを中心とする自由主義貴族と提携し、その指導に服したが、それに対立するジャコパンクラブ系のブルジョアジーもまた、同じく名門貴族のラメットを指導者に仰がなければならなかった。そこで指導者個人だけをみるならば、ともに自由主義的な官僚貴族であり、アメリカ独立戦争に参加した名声をもつという点では、かわるところがなかった。これだけをみるならば、両派の相違がどこにあるかわからなくなる。そこで、それを額面通り受けとって、両派の間に基本的な相違がないと書く歴史家が多い。


ラファイエット派とラメット派の相違

ソブールの『フランス革命』では、両者の相違についてほとんどなにもふれていない。

一七九〇年一〇月二〇日以後の改革が、ラファイエット派によっておこなわれたのか、あるいはそれに逆らってラメット派がおこなったのかという問題が無視されている。ただ、経済改革はそれだけでまとめられており、政治的変動は別に並列してまとめられている。政治と経済が分離されているために、両派の相違がわからなくなっている。

マチエの『フランス大革命』では、はっきりと、両者の間に基本的なちがいがなく、個人的な争いがあっただけだといっている。

「すくなくとも最初のうちは、ジャコパン派と八九年協会の間には、基本的な理論上の相違はなくて、むしろ個人間の争いがあった。要するに、八九年協会とジャコバン派の間には、権力の有無という壁があったにすぎない。八九年協会は内閣の閣僚であり、ジャコパン派はこれになろうと望む人々である」(上巻、一六四-五頁)。

そのあとで、マラがラメット派を信用しないと書いたことを引用する。マラからみれば、両派ともにブルジョアジーの党派であるから、その点にちがいがないのは当然である。彼がより下の階層を足場にしていたからである。しかし、だからといって、両派の間に基本的なちがいがなかったというわけにはいかない。

ラファイエット派に集まるブルジョアジーは最上層のブルジョアジーであり、寄生的、特権的、封建的性格を強く身につけたブルジョアジーであった。商人、金融業者、大工業家でありながら領地をもち、貴族の称号をもつようなブルジョアがいた。このような例は、すでに紹介してある。

アルザスの鉄鋼業者ディートリックとか、ロレーヌの鉄鋼業者ヴァンデルなどがその例である。また、インド会社やケース・デスコントのような特権会社の大株主、理事になった銀行家、商人もそうである。

彼らは、旧体制のもとでも、国王から特権を与えられていた。財政上の問題で王権と衝突したため、革命をおこなったのであるが、さりとて、旧体制のもとでにぎっていた特権そのものは手ばなそうとはしない。こうした最上層のブルジョアの実例としては、ボスカリのような人物をあげることができる。旧体制の徴税機構に寄生して収入をあげていたものもいる。徴税請負人はそのもっともはっきりとした実例であり、ラヴォアジエはその代表的な人物である。彼らもまたやはりブルジョアジーの一員ではあったが、同時に、徴税権を濫用することによって、他のブルジョアを傷つけていた。

ブルジョアジーの内部で、絶対主義時代の遺物をまとい、これを利用しながら、他のブルジョアを支配していこうとする者と、そうした遺物をはねのけて、より自由な資本主義的社会秩序を実現しようとするブルジョアの間に闘争がおきるのは当然であった。ブルジョアジーの性格のちがい、これがラファイエット派とラメット派の相違になった。

そして、名門貴族のラメットが、より急進的なブルジョアジーの代弁者になったのは、彼が植民地ドミニカ(首府はサン・ドマング=サン・ドミンゴ)の大地主であったからである。植民地大地主と貿易商人の間には、融資関係を通じて密接なつながりがあり、「フランス植民者の交通協会」が植民地貿易の圧力団体としてつくられていた。そこで、ラメットが、これら貿易商人の代表としてかつがれた。


総徴税請負人の敗北

ラメット派とラファイエット派の闘争の焦点は、国内関税の撤廃、徴税請負制度の廃止、特権制度の廃止であった。

入市関税や販売の独占権についてはすでにバスチーユ襲撃と大恐怖のころから攻撃が行なわれており、各地でこれをめぐる騒乱がおきた。マルセイユでは、肉の販売権を独占している大商人ルビュフェル(徴税局長)にたいする襲撃事件がおこった。そのとき、暴動の責任者として、貿易商人の一団が投獄された。ルベキ、グラネなどであった。彼らに支持されていたミラボーは、国民議会で奮闘して、一七八九年一一月から一二月にかけて、彼らを救出した。翌年の市議会選挙で、彼らが当選した。この場合の闘いは、ブルジョアジーとブルジョアジーの内部闘争である。

同じようなことが、パリでもリヨンでもおきた。リヨンではたびたび群集のカで関門が実力突破され、その混乱に乗じて、商人が無税の商品を運びこんだ。しかし、国民衛兵のカで、この動きを弾圧して、一七九〇年七月リヨンの入市関税が再び確立された。これに対して、職人達が反乱をおこしたが弾圧された。このとき、のちにジロンド派の指導者になったロラン(マニュファクチュア検査官)は、入市関税反対の運動を指導した。

一般的にいって、入市関税反対運動を進めたグループは、のちのジロンド派系の指導者になっている。ジロンド派を支持する者は、やはり商工業者、金融業者として、大ブルジョアジーに属するものであった。それにしても、寄生性、特権性がより薄かったために、この時点では民衆の側に立ち、入市関税を攻撃したのである。

こうした運動の波におされて、国民議会は、一七九一年二月一九日、入市関税撤廃の決議をおこなった。

「五月一日を期して、市、村、町に入ってくる商品にたいしてなされる課税をやめる」。

この法令については、右派のモーリ枢機卿、貴族議員のカザレスなどが、あらゆる方法で議事を妨害した。これにたいして、議長のルシャプリエやルぺルチエ・ド・サンファルジョー(パリ高等法院議長)が積極的に賛成し、成立させた。このとき、エべールの新聞『ペール・デュシエーヌ』(デュシエーヌじいさんの意味)は、当時の気分を、卑俗な表現でつぎのように書いている。

「ぶどう酒、肉その他すべての食料品の入市関税が廃止され、やっと、貧しい人民の犠牲の上に富をたくわえていた総徴税請負人が打倒された。彼らの傲慢の時代はすぎた」。

こうした改革は、単に議会内での闘争だけによって実現したのではなく、議会外の運動の圧力によって実現された。すでに二月一五日、パリ市の関門が密輸人の暴力によって押しやぶられ、興奮した群集のために、徴税局吏員と守衛は手をだすことができなかった。二月一八日、すなわち入市関税撤廃の法令が議会で討議されている日、工場労働者の集まってつくった密輸人の団体によりパリの関門が重大な脅威をうけたという。そのため、すべての関門を効果的に警備せよと、パリ市長バイイが国民衛兵参謀長グヴィヨンに指示したほどであった。

入市関税廃止の直前、四月二九日には、関門に車の大群がつめかけた。そのため、期限の五月一日には全般的な騷動がおこり、統制が不可能になるかもしれないと参謀総長が報告しているほどの情勢であった。このような騒乱状態が、議会の決議に影響をおよぼしたのである。

総徴税請負人にたいする攻撃がますます高まった。一七九一年二月一二日、タバコの耕作と販売に関する総徴税請負人の検査が廃止された。このときも、モーリ枢機卿を中心とする右派の反対派が強く、三七二対三六二の少差で可決された。エべールの新聞『ペール・ディシエーヌ』は、つぎのように当時の気分を表現している。

「なんと、モーリ僧正はまた反対した。彼は、われわれを困窮の中におこうとしているのだ。畜生め。しかし、いまやわれわれは、自分の小さな庭や畑でタバコの菜園を作ることができる……タバコは安くなり、自分のそばに良質のぶどう酒びんをおいて、よい機嫌で愛国のシャンソンを歌うことができる」。

この法令の討議の中で、ミラボーの転向がはっきりしてきた。この時点まで、ミラボーはジャコバンクラブの側に立ち、議会ではラメット派に協力的であったが、この法令の討議については、右派と手をむすんで反対した。そのことについて、エべールの『ペール・デュシエーヌ』はつぎのように書いている。

「前伯爵ミラボーにたいする大いなる怒り:……この野郎、お前はどうしてタバコの栽培と商業の自由について反対したのだ。この日から、お前はモーリ僧正の友になった。そのうえ、議会が終ってから、お前は彼らの一味とタ食を共にしたというではないか」。

こうして、ミラボーは左派から保守派に転向した。しかし、だからといって、ミラボーを支持していた銀行家、商工業者が転向したというのではない。革命前からミラボーと結びついていた銀行家クラヴィエールは、議会で、タバコの自由耕作と商業の自由について演説し、旧来の検査と統制は所有権と社会契約に反すると主張した。

この問題をめぐる闘争でも、左派の側にも、一流のブルジョアの姿をみることができる。そして、ミラボーのような貴族は、一時的に彼らと手を組んでも、立場がちがうので、ある段階で離れやすいという傾向もみることができる。こうした闘争のいきつくところ、三月二〇日総徴税局が廃止された。絶対主義のもとで大いに権力をふるい、ブルジョアジーの中から出ながら、ブルジョアジーの多数に憎まれていた総徴税請負人の勢力は打破された。


商工業の自由をめぐる闘争

東方貿易を独占していたインド会社の特権廃止が、四月にとりあげられた。議会におけるはげしい討議の結果、インド会社の貿易独占権は四月三日廃止された。この時の気分を、ナントの貿易商人モスヌロンはつぎのように書いている。

「勝利、勝利!ケープタウン以東のインド商業は、すべての商人にとって自由になった。国民議会は、昨夜七時間の討論ののちに決議した。はげしい討論と、決議の延期をめぐる指名点呼により、三八五対二七五で延期が否決された」。

このようにして、特権的なブルジョアジーの勢力が、普通のブルジョアジーの勢力によって撃破され、商工業はいっそう自由になった。ジャコバンクラブに代表される商工業者や銀行家は、この時点では、自由主義を旗印にかかげて、自分よりも上の特権的ブルジョアジーの抵抗を打破した。

それと並行して、自分達より下の、職人層の同業組合の特権を自由主義の原則に反するものとして攻撃した。その結果、二月から三月にかけて、同業組合が禁止され、労働の自由が確認され、職業上の特権が廃止された。

四月一日、営業の自由がうちだされ、職業の選択は自由になった。これにともない、一定の営業免許税を支払えばよいことになった。

こうした改革にもとづいて、ギルドの親方職も廃止され、中世以来長く続いた徒弟制度は終りをつげた。同業組合はすでに時代遅れとみなされていたから、これを廃止するとき強力な反対はすくなかった。

ただ、奇妙なことに、左派の革命家マラ、すなわちのちに恐怖政治の推進者になる一人が、新聞『人民の友』の中で、同業組合廃止に反対し、厳格な徒弟制度の必要を主張した。マラは、恐怖政治の時代にはもっとも急進的な革命家になったが、同業組合の問題については、むしろ経済の進歩に逆行する中世的な思考をもっていたのである。


反領主暴動と労働運動の抑圧

ラファイエット派とラメット派の対立もさることながら、国民議会の方針に逆らう動きにたいして議員の多くが協力して、これを抑圧するための法令を打ち出した。この面では協力が対立に優先したのである。それは、農業問題と労働者、職人の問題をめぐってであった。

封建権利の部分的廃止は、農民やその他の土地所有者に深刻な不満をのこした。貢租と不動産売買税(臨時的権利)の無条件廃止を要求して、農村の暴動がはげしくなった。そうすると、国民議会は八月に、騒乱にたいして厳罰を課するとの法令を決議した。

六月一五日には、再び封建委員会のメルラン・ド・ドゥエの報告にもとづいて、「所有権に対して、それにふさわしい尊敬を払うべきである」と、領主権の神聖を宣言し、これにたいする反乱にたいしては、強い態度でのぞむことを再確認した。こうして、農業間題では、領主権の死守が国民議会の多数意見として確認された。

六月一四日、ルシャプリエ法が公布された。これは、経済的自由主義の名のもとに、職人組合や労働組合の結成、争議行為の禁止を徹底させるとともに、同業組合の再建も禁止するという性質のものであった。当時、約八万人と推定されるパリの労働者、職人の組合が結成されつつあった。六月に入ると、蹄鉄工が賃上を要求し、労働時間の短縮を要求してきた。日給三〇スーを四〇スーに引上げ、一三時間労働を一二時間労働に短縮せよというのである。これに脅威を感じた親方層が議会に請願したために、この法律ができた。

ルシャプリエ法によると、職人、労働者、日雇人の集会や組合の結成は、「労働の自由な契約を妨害する行為」とみなされ、経済的自由主義の原則から禁止された。違反者や煽動者には厳罰が与えられることになり、市町村当局は、このような組合や集団の請願に応じてはならないと、強い態度を示した。

このルシャプリエ法は、フランス革命がいかに激化しても、撤廃されることはなかった。もっとも急進的なロベスピエール派といえども、労働者や職人の運動にたいしては、この法律と同じ態度をとりつづけた。その意味では、恐怖政治の最中においても、労働者や職人が国の主人公になることはなかったのである。

同じような性格の事件と結末が、軍隊の中に起きた。一七九〇年八月三一日のナンシー事件であった。ここの軍隊の中に反抗的な気分が広がり、兵士が将校にたいして連隊の会計報告を要求し、不正を摘発した。将校はまだ名門貴族でかためていたために、これは、軍隊における反貴族の暴動になった。八人の兵士が、議会に請願書をもってきた。

しかし、ラファイエットと陸軍大臣ラツール・デュパンは鎮圧法を可決させ、ラファイエットの従兄・ブイエ侯に軍隊を率いてナンシーに進撃させた。ブイエ侯は、「この時期をとらえて軍と公共の秩序について、圧倒的模範を示さなければならない」といい、兵士の指導者一三八人を処刑した。こうして、軍隊の中において、依然として貴族支配の体制が維持されたのである。 

要約 第二章 フイヤン派の権力 二 国民議会の改革

はじめに財政改革が取り上げられているが、このような形で、財政改革を深く掘り下げているフランス革命史は他にはない。一般的には、急に、理念的なもの、思想、政治に話題が行ってしまう。だから、少し我慢をして、財政問題を紹介している文章について、理解をしようという気になってほしい。一言でいえば、国家財政の支出部門では、ヴェルサイユに集まる貴族に対して莫大な資金が支出されていたこと、革命の結果これが削減されたこと、この変化が納得されればよいのである。貴族は依然として多額納税者ではあったが、革命以前は、多収入の少額納税者であった、このことをしっかりと記憶にとどめてほしい。現代社会に慣れている頭では、多収入の人が少額納税者であることは、「ありえない」ものと思い込んでいるからだ。


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