2018年12月14日金曜日

西郷隆盛対大隈重信で説明すると、明治維新がよくわかる、小林良彰の歴史観

西南戦争になると、テレビでも歴史書でも、大久保利通対西郷隆盛の対決で歴史が語られる。西郷隆盛の背後には、不平士族の一団が控えている。これは誰にでもわかる。大久保の背後は、これは誰も言わない。大久保、岩倉、三条、天皇については言う。しかしこれでは、圧倒的な兵力をどうやって動かしたのかが説明できない。
大久保は西郷の死の直後暗殺される。西郷の死で、不平士族の運動は消滅した。ならば、大久保の死で、大久保の路線も消滅したのか。そうではなく、伊藤博文が後任になって、何事もなく政府は続いた。つまり、政府の側は、大久保がいてもいなくても大して変わることはないのだ。変化があったとすれば、内務卿、内務省の重みが、少し下がり、その分大隈重信の発言力が強まったということだろう。
これからの4年間は、大隈の時代といってもよい。つまり大久保がいなくなると、大隈が引き継ぐ。この二人の背後に何があるのかということ、ここに疑問を持たなければならないだろうが、その疑問を持つ人が、日本にはいない。私は60年前にその疑問を持った。持ちさえすればすぐにわかる。財界、実業家集団、日本ブルジョアジーである。
大隈重信の略歴をまとめる。佐賀藩士、伝統的学問に疑問を持ち、さらに蘭学よりも西学、つまりオランダ語ではなく英語による西洋文明の導入の重要性を唱えた。当時としては、先見性の極みといってよい。このせいで、学校からは退学になった。討幕論を唱えたが、佐賀藩の大勢は動かない。藩主はぐずぐずしていて、じれったいといっている。
一人で京都にやってきたが、新政府では参与、外国事務局判事、外国官副知事、になり、事実上の外務大臣としての仕事にあった。つまり、この時点では、この上に、上級公家、改革派大名が、名誉職として、上役にいたからである。実務としては、イギリス公使パークスと交渉にあたり、相手側に好印象を持たれた。
明治2年、1869年、会計官副知事、この時、由利公正(会計官)の辞任があり、7月、大蔵大夫、民部大夫となる。上には大蔵卿の松平慶永がいた。しかし、名君といわれても、個人になるとただの人といわれたように、能力がないから、大隈が事実上の財務大臣であった。この時、政府の金を持って、大村益次郎とともに、彰義隊討伐を行った。
彰義隊については、西郷隆盛は融和的、消極的であった。大村の戦略、大隈の財政資金、佐賀藩の持つアームストロング砲、この三つの威力で、短期決戦になった。西郷隆盛の威力は落ち、大隈重信の威力は上がった。
西郷は引退し、大隈は財政の最高権力者になった。ここまでは、公式的な歴史、これから先が本質論です。大隈は住友、鴻池という大商人から、軍資金を預かって、新政府に入ってきた。東京遷都になると、三井組の江戸における大番頭三野村利左エ門と親しくなり、「みのり、みのり」と大事にしたという。三野村は事実上の江戸における三井の代表者、幕末勘定奉行小栗上野の介に深く取り入っていた人物である。三野村も、大隈邸に上がり込んで、留守中でも、取り巻きの機嫌を取っていた。
やがて、大隈の下に井上薫という長州藩士が付いた。この人物、幕末にロンドン留学を果たした。三井と井上は急に接近して、西郷隆盛が井上に「三井の番頭さん」と声をかけたほどであった。大隈は、三大商人のうち、島田組と親密になり、「島田は大隈さんの何だったから」と、いのうえにいわせるようになった。
やがて、廃藩置県が起きる。この時、旧上級公家、旧大名を最高権力から外した。次第に、伝統的権威をはぎ取っていったわけだ。そうすると、当然、大隈重信が大蔵卿になるものと思われた。ところが、その地位に、大久保利通が付いた。これは西郷隆盛の意向であった。「この度は、俗吏もぬれねずみのごとく相成り」と西郷が手紙に書いている。
つまり、西郷の理想論、理想国家からすれば、大隈のやり方を抑える必要があるというのである。
しかし、その直後、「何分、十分な選択あいいかず、残念至極」と書いた。これは、大隈を参議にという声を無視できず、認めたということである。こうして、最高権力者4人が、参議になった。西郷、大久保、板垣、大隈であった。
征韓派の下野で、板垣、西郷が去る。大隈は大蔵卿となり、事実上の財務大臣になる。そのころ、島田組の破産事件がおこる。しかし大隈は困らない。急速に成長してきた三菱商会の岩崎弥太郎と手を結び、「隈印は三印なり」と井上が書いたように、公然の秘密になった。
このように実業家集団の上を私歩いた、大隈重信、井上薫は「フラグ」といった。風のまにまに動くから。西郷隆盛は「俗吏」と呼んだ。大隈は「板垣と西郷は、戦争の話ばかりして、実務は任せるといって、印鑑を預けた」といっている。これでは、最終的に実業家集団が勝つだろう。こうして大久保亡き後、大隈が最高権力者になるが、この政権に武士的要素はなくなっている。つまりは、ブルジョアジーに純化されたといってよい。

2018年12月12日水曜日

西郷隆盛ではなく三井組が明治維新の勝者になった。小林良彰の歴史観

明治維新の激動の中で、最終的に勝ったものを一つ挙げよといわれると、三井組ということになる。前回に紹介したような、団琢磨の役割から納得できると思う。
西郷隆盛は、薩摩何氏の集団を率い、薩長同盟を代表して長州藩士、奇兵隊の集団を味方につけて、幕府軍を撃破した。しかし軍資金が足らない。これを藩の財政資金から賄うことができれば、薩摩、長州両藩で、旧幕領を戦利品として、分捕ることができる。そうすれば、薩、長両藩の指導者が大領主になる。これなら、封建権力の再編成になる。しかし、軍資金が足らなかったので、これをまずは、三井組にお願いした。
最初、西郷隆盛は、小松帯刀ともに三井の主人三井八郎右衛門を訪ね、そこで合議に達したらしい。証明するものはないが、その姿は執事の記録にあった。二人が「平伏するような態度であった」と書かれているという。戦争がはじまると、薩摩の指導者が、三井組の「穴倉に金を受け取りに行ったもんじゃ」といったことが書き残されている。
彼は大山巌、のちの陸軍大将、元帥、各大臣を歴任、この時代では、西郷隆盛に「弥助」と呼ばれて可愛がられた。会津攻撃の指揮官にもなった。
三井組の金力と、薩摩の武力で討幕が実現した。その後どちらが勝つかということになる。実はこれに似たことが、すでに260年前に起きている。豊臣秀吉が天下を取った。秀吉の武力と、千利休に代表される商人層の資金力の合同で天下統一を実現した。これは誰でも知っている。その後、利休の切腹で、商人層の力は抑え込まれる。徳川家康が天下を取った。茶屋四郎次郎、後藤徳乗などの商人層が家康を資金面で支えた。茶屋は家康の寝所に出入り自由であった。しかし、幕府権力が安定すると、商人層は江戸城から締め出される。こういうことは、フランス絶対主義が確立するときにも起きている。
したがって、中央権力から商人層が締め出されると、絶対主義への逆戻りとなり、その逆だと市民革命になる。明治政府では、士族を擁護するものたちが排除され、千利休の生まれ変わりとして、三井組が政府の後ろ盾になった。
東京遷都の後、しばらくは大隈重信が三井組代弁者のようになった。明治4年、廃藩置県のころになると、財政官僚井上薫(長州出身)が三井の「番頭さん」と呼ばれるようになった。井上は伊藤博文とともに、幕末にロンドン留学を経験している。近代的経営を助言した。三井組では、率先して、学力のある少年を採用し、のちには大卒、洋行帰りを採用した。すべて、時代の先取りであった。
井上は下野すると、三井組の中に会社を作り、これが三井物産に発展した。社長には元幕臣の益田孝になり大発展と遂げた。三井組変じて三井合名として、ホールでイング・カンパニーになると理事長になった。益田が引き立てた団琢磨が後を継いだ。三井の主人は経営に口を出さない。益田,団で日本最大の財閥を統制した。「財閥権勢に奢れども」といわれた。
テレビでは、西郷対大久保の対決のように言うけれども、大久保の後ろ盾が実業家集団で、その最大のものが三井組であるから、この対決は西郷対三井組だというのが正しい。だから大久保が暗殺されても、政府は微動だにもしないのである。つまり実業家集団が権力を安定させたのである。
こういう単純なことはわかるはずだ。私は数十年前から書いている。しかし、いつまでたっても、日本では、西郷対大久保の対立で歴史を説明する人ばかり、聞く人々もそればかり、疑問すら感じない。何とかならないかといいた。

2018年12月6日木曜日

西郷隆盛以後士魂商才も変質する

士魂商才はずっと続くように思われるが、重要なところで、変質していくのである。五代友厚は大資産家だと思われたのに、死後整理してみると、私財をほとんど残さなかった。つまり事業は、私財を蓄えるのではなく、国家、社会の発展のために行うものという気概があった。
この気質が西郷隆盛の気質に一致していた。「子孫のために、美田を買わず」、「命もいらぬ、名もいらぬ。金もいらぬものは始末に困る者なり」、この困る者でなければ、天下の大事は成し遂げられないといっている。
彼と協力した山岡鉄舟は、「子爵」という爵位を与えるという政府申し出に、「食うてねて、働きもせぬご褒美に、またも華族(蚊族)となりて、血を吸う」との返事をして断った。爵位にはお金が付くからである。つまり金儲けを避ける気質があった。しかし、幕臣の木村という人物が、パン屋をはじめて成功すると、木村屋を言う屋号を書いてやり、明治天皇に献上して、ほめてもらい、「キムラヤのアンパン」を広めてやった。一種の士魂商才であろう。
勝海舟になると、子爵を与えるといわれると、「今までは、人並の身と思いしが、五尺にたらぬ、子爵(四尺)なりとは」と、抗議の歌を詠んだ。五尺は当時の平均身長、「俺の功績をなめるな」という思いであった。そこで、一つ上の伯爵になった。当然、「名誉も金も」上がる。ここで、西郷隆盛とは食い違ってくる。しかし、だれも「勝海舟に士魂がないとは言わないだろう」。士魂の内容が変わっていく。資本主義が安定するから、「金も名誉もある方がよい」という風潮になる。したがって、士魂を持ちながら、財閥の中枢にいることになる。これが団琢磨の姿であった。
団琢磨を襲撃した人物は「財閥権勢に奢れども、国を憂うる力なし」という昭和維新運動の歌に沿って、「財閥の最大のものは三井であり、三井の中心が団男爵であったから」撃ったと供述した。
このように士魂も変質するようだ。

2018年12月5日水曜日

明治、大正、昭和と続く士魂商才

明治維新前後の士魂商才について書きましたが、この流れは昭和の半ばまで続きます。誰もが知っていいるようで、意外に知らないのです。
例えば、平民宰相原敬が、家老の家柄で、上級武士の家系であることを知っていますか。平民どころか殿様に準ずる生まれでしょう。なぜ平民と称されたか、それは「爵位」と辞退したからです。この人がなぜ商才で取り上げられるか、それは「当主古河潤吉が病弱なので、経営を私が見た」と書いているからです。古河とは、だれでも知っている、古河
財閥のこと、足尾銅山、富士電機で知られています。
ついでながら、富士電機、これはドイツのジーメンス(シーメンス)と資本提携をして、その技術を導入したもの、長い間、筆頭株主でもあったが、このジーメンスも、ドイツの貴族ヴェルナーフォン・ジーメンスが設立したもの、つまり、日独両国の士魂商才が手を結んだといえる。富士通はこの子会社としてできたもの。
同じく、銅を基本にした財閥に、住友がある。二代目の理事、伊庭貞剛が代官の家系出身である。つまり、中、下級武士というところ、そのうえに立つ住友家の主人の人脈に上級公家西園寺公望がいる。住友家と縁組した。西園寺500石といわれたから、実質上級武士の地位にある。しかも天皇家と姻戚関係にある。首相を二度務め、昭和初期の激動期には、次期首相を天皇に助言する役割を担っていた。
陸奥宗光であるが、元の名を伊達小次郎という。紀州藩の上級武士の家に生まれ、、京都では三井の隠密になった。つまり、忍術の心得もあった。勝海舟の作った海軍操練所に入った。長崎で海援隊に入り、「武士を捨てても食っていけるのは俺と彼だけ」坂本龍馬に言わせたから、商才は見抜かれていたのだろう。しかし士魂も強かった。海援隊の船が沈没した事件で、紀州藩の重臣を襲撃した。「すごいいやつ」と皆におそれられた。西郷隆盛に同感し、西南戦争に呼応して挙兵しようとして、逮捕投獄された。その後、伊藤博文の尽力で出獄、古川市兵衛の足尾銅山経営に協力、自分の次男潤吉を養子に出した。古川市兵衛は早く死ぬから、彼が、その事業の代表者になった。その時、原敬を見込んで、経営者として引き入れた。外務大臣になるが、「カミソリ大臣」といわれ、実力は抜群であった。
三井財閥でも、益田孝が三井物産の経営で成功し、三井財閥の指導者になった。彼は幕臣、幕府消滅により失業、通訳をしていたが、井上薫と協力して、商事会社を三井の中に設立した。井上が大蔵大輔(今の財務次官)に戻ると、経営を一手に引き受けた。山形有朋、伊藤博文と、北海道で馬に乗って、疾走した。「なかなかうまい」とほめると、「これでも幕府の騎兵の頭でしたから」といったらしい、
三井物産が三池炭鉱を買収した時、鉱山技師の団琢磨を引き立てた。団も中級武士の出身、はじめ藩主に随行して欧米視察、途中でアメリカに留まり学問を収め帰国したというから、封建主義から出発して、個人主義になったような人物である。
昭和初期、三井合名理事長、日本経済連盟、工業倶楽部、を設立して、指導者になった。衆議院で労働組合法案が成立した時、貴族院でこれを握りつぶすことに指導権を発揮した。
暗殺の脅威が迫っていた。危ないから、裏門を使ってくれという頼みに対した、「自分は何も悪いことはしていないから、必要がない」といって正門から出入りした。すれ違いざま、一発の銃弾を撃ち込まれた。「うむ、やったな」といって倒れたという。これも士魂といえるだろうか。

2018年11月30日金曜日

明治維新に貢献した士魂商才

征韓派の下野から西南戦争に至る政争で、基本的な対立は士族対大久保で説明されてきた。これが一般的な教科書。しかしこれでは事の本質がわからない。大久保の背後に、経済界があったと、私は補完した。これで筋書きがすっきりしたはずである。
ここで気になるのは、完全に割り切ることのできない、接点というものがある、これをどう見るかである。
その接点に、「士魂商才」を代表する一団がいた。そして、西郷隆盛は、この「士魂商才」と純粋武士の中間、接点に位置していた。だから、彼の晩年の行動が揺れ動くのであった。
純粋武士は、「士族の商法」に代表される。「士魂」が強すぎて、ビジネスでは失敗する。「金勘定は苦手」、「素町人ども」というような言葉を使う。これはフランスでも同じ。「ブルジョア」というのは、「卑しい」という意味であった。「あなたのネクタイはブルジョアだ」といわれたら、「下品」だといわれたことになる。日本よりも厳しくて、読み書きは「ブルジョア」のすること、貴族は署名だけすればよいと思われていた。
しかしそれでも、剣を持つ階級から、、ビジネスの社会に移ろうとするものが現れた。次男、三何以下に多い。当然のことで、家と土地財産を継げないのなら、何かで収入の道を考えなければならない。
長男でも、最下層の武士、貴族では。何か良いことがあればそちらに移ろうとする。そこに士魂商才が出てくる。思えば、江戸時代の三井の祖先がそうであった。坂本龍馬もその方向に進みながら、暗殺された。
この士魂商才に、武士的商人が協力する。「侠商」と呼ばれた。薩摩の浜崎太平治(海上王と呼ばれた)、長州下関の白石正一郎(廻船問屋)、博多の石蔵屋卯兵、長崎の大浦のお慶、岡田平蔵(井上薫が、それはえらい、あれほどえらいやつはいないといった)、などなど。
新政府の時代になると、五代友厚(才助)、藤田伝三郎(藤田組)、渋沢栄一(銀行業)、益田孝(三井物産)など、武士的ビジネスマンが急成長する。三菱の岩崎弥太郎はその最大のものであるが、武士というにはその出だしがみじめすぎるので、言いにくいところがある。
岩崎は大久保に全面協力した。五代は鉱山王といわれるほどの巨大な資本を動かしていた。その反面、板垣退助など、士族の指導者と大久保利通の仲を取り持とうとして、妥協に動いた。五代が薩摩の武士であったから、西郷隆盛にも影響を与えた。
こういうことが、士族の一斉蜂起を防ぎ、政府軍が各個撃破することに成功したという条件を作った。つまり結果的には、大久保を助けてやったことになる。日本資本主義の確立に貢献したことにもなる。
本人は、このあと数年で死ぬことになるが、死後の財産は意外に少なくて、子孫が財閥として残ることはなかった。巨大な資本はすべて次の事業につぎ込む。それが、我が国の発展に必要だと思っていた。まさに士魂商才の典型であった。

2018年11月23日金曜日

討幕直後、新政府を支えた実業家の集団は激変を経験した。

土地支配の上に立った政府を倒した後、実業家の集団が新政府を支える。これはフランス革命でも明治維新でも同じことであった。これが歴史の中に潜む唯一の自然科学的法則であって、この法則に照らして、市民革命の年代を設定すると、次のようになる
フランス革命  1789年から1830年
日本革命    1868年から1871年(明治維新と呼ばれている)
私が証明したいことを一言で云えとなると、このように要約できる。
だから、革命以後の支配者は、実業家の集団になる。
しかし戦争、内乱の中で生き抜くことは難しい。もちろん、「資産を維持したままで」という条件が付く。人間だけが生き抜いても、資産を失えば、実業家としての実体がない。土地支配者の歴史を見るとき、戦争、動乱がない限り、人物や家系の変化が少ない。しかし実業家の集団を見ると、経営の失敗、破産ということがいつ起こるかわからない。たとえ、権力をとっても起こりうる。この点、土地支配の場合には起こりにくい。だから、前時代の支配者の説明はしやすい。それ以後の説明はしにくい。だからわからなくなる。
こういう一般論、これを念頭において、明治初期の実業家集団の激変、これを要約してみよう。
明治元年新政府を支持した実業家集団は、関西財界であった。その実態は、大商人、金融業者(両替商)であった。最大の存在は、天王寺屋五兵衛、平野屋五兵衛(天五、平五などと呼ばれた)、鴻池も別格扱いされるほど居であった。
明治二年、東京遷都以後、関西財界は置き去りにされた。そこで、衰退するものが多く出てきた。もちろん、政府とともに東京に出てきたものは別であった。三都の大商人、(三井組、小野組、島田組)これらは、出るも出ないも、もともと江戸にも拠点を持っていた。住友も同じであった。また横浜財界が急成長して、政府を支えた。特に、伊藤博文と、田中平八、高島嘉右衛門の結びつきは有名であった。
この半面、大坂商人の中には、破産して消滅したものが多かった。特に、廃藩置県の影響を受けて、大名相手の商業、金融に携わっていたものが、衰退した。
明治7年、大久保政権は、「小野組破産事件」を引き起こした。これだけでも膨大な説明を必要とするが、簡単に要約すると、それまで政府を支え、政府と一体になっていた大商人のうち、近代化に遅れた二つの大商人、これに預けていた政府資金を引き揚げたものであった。つまり、縁を切ったのである。小野組は破産し、島田組は新橋に小さな企業として残った。三井組は近代化に成功して、大発展していく。
破産した大商人の穴を埋めるように、新興の企業家が発展していった。
三菱の岩崎弥太郎、銀行家安田善次郎、銀行家(第一銀行)渋沢栄一、造船業の川崎正蔵、鉱山業の五代友厚、武器商人の大倉喜八郎、生糸取引の田中平八などを頂点として、全国で新興企業家が成長していった。
これに合わせて、政府は支持基盤をこちらに移していく。とはいっても、全面的に移すのではなく、旧来の大商人の生き残りとの合同である。この点についての学者の議論は、「右か左か」どちらか出ないと気がすまぬという人がほんどで、大塚史学と呼ばれたグループの人たちは、「特権商人」の名で、三井、住友の名を挙げ、新興商人の役割を無視してきた。そこを批判すると、「新興企業家ばかりだというのか」という形で反論してくる。こうして「連続か断絶か」という形で議論を進めるものだから、そのたたき合いばかりになって、冷静な判断ができない状態であった、
私の言うのは「特権的商人の一部連続、断絶したものの隙間を新興企業家が埋めていく」というものであった。この目で見ていくと、フランス革命でもそのようなことがあった。ボスカリという大商人がいた。バスちーい占領の時、従業員、地域住民を武装させて戦った。名声は高くなったが、革命後、買い占めで評判を落とした。やがて破産した。同じようなことは、日本の小野組でも起きる。由利公正に協力して、新政府を支えた。しかし、佐賀の乱のとき、「小野組襲撃事件」が起きる。政府の側に立って、あくどい儲けをしたことへの批判であった。その後破産する。
こういうことを踏まえて、「市民革命で実業家の集団が権力を握るが、その集団内部では浮沈がありうる」というのが私の意見である。

2018年11月20日火曜日

明治初期の政争で、大久保利通の支持者に経済界があった。

大河ドラマ見ていても、西郷隆盛の側には武士団の強力な支持がみられるが、大久保利通の側には何も見られない。彼一人で奮闘しているような印象を与えられる。それでいながら、大久保の方針が最終的に実現する。
大久保は岩倉具視と組んでいる。しかし岩倉個人に力があるわけではない。公家社会の中でも序列は低い。征韓論の対立を見ていても、大久保と岩倉だけが反対で、あとは賛成論者、西郷その人でも、生ぬるいといわれている。
それでいながら、なぜなら内治優先論が通り、征韓派が下野することになったのか。理由は簡単なので、「経済界の支持」があったからである。フランス語でいう「オム・ダフェール」、(実業家)が支持したのである。「江戸」に詰めていた大名は去り、旗本は静岡に追放された。残る有力者は、ビジネスの成功者しかいない。この大群が大久保を支持したのである。
それでは、代表的な人物の名前をいえとなるだろう。最大の名前は、「岩崎弥太郎」である。これなら、だれもが聞いたことがある。「あれは参議か、三菱の岩崎か」、すでにこういう言葉も残っている。
立派な馬車で疾走したからである。三菱商会の岩崎弥太郎、すでに政府高官の支持者になるほど成長していた。幕末、彼は最下級、極貧の武士、鳥かごを背負って売り歩く、武士兼行商人、テレビドラマで、これが放映された時、それを演じる俳優が「さもありなん」と思われるほど、真に迫った演技をしたので、三菱の社員たちが嫌な思いをした。
長崎に出て、土佐商会の会計を任された。上役に上級武士の後藤象二郎がいる。土佐藩から脱藩した坂本龍馬が海援隊を組織して、貿易業を始めている。これとも手を組むようになる。坂本が暗殺され、討幕の混乱が続いた時、海援隊の資金が岩崎に入ったとのうわさが広まったが、真偽不明。
廃藩置県で、土佐藩の資産を借財とともに譲り受け、借金を返して、莫大な資産を形成した。三菱商会を作り、近代的な海運業に進出した。海で成功したから、あだ名は「海坊主」。
大久保利通が内務卿になり、産業と治安を一手に握るようになると、三菱の大躍進が始まる。政府が輸入した艦船、これ相次いで三菱に安く払い下げられる。その見返りに、相次ぐ戦争で、軍事輸送に全面協力する。西南戦争でも、この軍事輸送の効果で、政府軍が勝ったともいえる。
つまり、大久保の背後に、新興企業家の岩崎弥太郎がいた。彼一人ではない。五代友厚(五代才助)、渋沢栄一(第一国立銀行)、益田孝(三井物産)などなど、説明しているときりがないほど、こういう実業の大群、これが物言わぬ支持者であった。
つまり、明治政府は財界、実業家の政権であったが、初期は大商人、数年でそこ新興企業家が割り込んできたのであった。
こういうと、昔は、「それはしょせん政商ではないか」、「フランスはそんなことはない」という反論にだあった。これに「はいそうです」というと、日本のほうが遅れているかのように思われる。
これがフランスの事を知らないもののいうことで、「ウヴラールのことを知っているか」と反論すればよいのである。わずか数年で大企業家になり、最大の武器商人、「正確にいうと、、軍需調達の商人に金融をする企業家」に成長し、総裁バラス、(バラスの王)といわれた、この最高権力者に結びついた。
大久保がバラスと似ているが、岩崎がウヴラールと似ている。こういう意味でも、フランス革命と明治維新が似ている。

2018年11月18日日曜日

明治2年西郷隆盛、由利公正の引退で重大変化が。ことの本質は何か。

出来たばかりの明治新政府、早くも、第1回の粛清を始めた。どの新政権でもこのようなことが起きる。しかしこの事件、市民革命の本質に深くかかわるものであった。重大な問題であったが、表向きは穏やかな変化のように処理された。
つまり、本人が自発的に引退したかのように、世間に示したのである。だから今,
私が説明しようとしても、なかなか難しい。由利公正から始めよう。彼のもとの名は三岡八郎という。越前藩士、藩の財政改革に貢献したが、薩摩、長州に同情的な意見を持っていたので、投獄されていた。坂本龍馬が新政府の構想を立案した時、財政、経済を知るものがいないので、これが新政府の弱点だといい、三岡を推薦した。当時彼の持論が「三岡経済学」といわれ、大いに期待された。
彼は新政府の会計官になり、太政官札を発行して、新政府の必要経費を賄った。そこまではよかったのだが、その紙幣には実物の裏付けがない。価値が下がり、その取引を拒否するものが出て、信用が失墜した。そこで、これの強制流通を目指すか、時価流通を認めるかの議論が行われ、由利、西郷は強制流通、大隈重信らは時価流通を主張した。
大隈重信の主張が通り、由利は辞職した。前後して、西郷隆盛も薩摩に帰った。さて、これで京都の新政府はどうなったかである。ズバリ定義すると、商人の政府になってしまったのである。武士的要素は消えた。武士階級の集団的要求は、中央政府に反映されることがない。
確かに、新政府の官僚は武士出身であった。しかしもう武士には足場がない。そういう人たちが残った。特に長州出身者がそうであった。桂(木戸)、山県、伊藤ともに、まともな武士ではない。大隈は佐賀藩士の代表ではない。大村益次郎に至っては、武士の資格すらない。武士に支持基盤がないとすれば、どこに支持基盤を持つか、それは商人層以外にはない。
だからそれぞれ気の合った商人と結びついていく。ただしこの関係、必ずしも固定的ではない。東京遷都があったからである。大隈重信は、はじめ、住友、鴻池と密接であったが、東京に移ると、三井の大番頭三野村利左エ門と結びつき「みのり、みのり」といって、ひいきにしたという。みのりも、常に大隈邸に入り込み、大隈が留守中であっても上がり込み、大隈の取り巻きを相手にして、「あみだくじ」を引かせ、ご褒美を出していたという。
やがて、長州藩出身の井上薫が三井の顧問のような役割を果たした。西郷隆盛が井上に「三井の番頭さん」と呼びかけたほどであった。そのころ、大隈は島田組(三井と並ぶ三都の大商人)と結び、井上が「島田は大隈さんの、ナニだったから」といった。こうした状況について、西郷隆盛は、月給だけではできないような贅沢をしていると批判している。つまり商人層と結びついて、腐敗、汚職をしているというのである。
こうして、明治元年の新政府は、薩摩、長州、土佐、などの下級武士と商人層の同盟の上に成り立ったが、明治二年の新政府は商人層の政府に純化された。
同じようなことはフランス革命でも起きている。バスチーユ占領からほぼ一年間は、まだ財務総監ネッケルの指導権のもとにあった。ネッケルは前時代の財務総監でもあった。だから、改革は進むようです済まない。貴族支配の性格が抵抗しつつ残っていた。ネッケルが辞職してスイスの帰り、これ以後本来のブルジョアジーの政策が始まった。
そういう意味でも似たところがある。

2018年11月14日水曜日

東京遷都は財政革命であり、住宅革命であった。

明治の新政府が成立したころ、財政収入の基本、年貢米の徴収は過ぎ去っていた。つまり旧幕府がとってしまっていた。今更よこせといっても何もない。朝廷の収入を当てにしても、3万石程度、物の数ではない。太政官札を発行して、支払いに充てたが、信用の裏付けがないから下落してしまった。
いつまでも関西財界の献金に頼ることはできない。明治元年の年貢米徴収は、新政府が滞りなく実行しなければならない。それが成功して初めて、「幕府財政をとる」ことになる。その基本はどこにあるか。これは誰が見ても明らかで、関東平野にあるわけだ。とすれば江戸に行かなければならない。
こうして、幕府財政をとる、西郷隆盛の強力に主張した「辞官、納地」の後半が完成することになる。こうして、政治、軍事の革命の後、財政の革命が一年後に実現した。
フランス革命では、バスチーユ占領でパリの独立は果たしたが、全国からの租税収入をパリに集めることはできなかった。まだその権限はヴェルサイユにあった。実は、これに似たような事件が、約100年前に起きていた。フロンドの乱と呼ばれ、国王は地方に亡命し、パリは独立した都市であった。しかし、最終的に、パリが国王軍に占領されてしまい、フランス絶対主義の完成となった。そういうことがまた起きないとも限らない。
ヴェルサイユ行進が国王をパリに連行して、パリを租税徴収の中心にしたのであった。
住宅革命というのは、大名屋敷、旗本屋敷のことであった。諸国大名は江戸に来なくなった。旗本八万騎(実際は3万程度)は静岡藩に移転させられたから、これらが空き家になった。さながら、ゴーストタウンと化した。
他方、京都では、昔ながらの住宅がある。新政府の官僚は、住宅難に困る。これでは、新政府の元気が出ない。東京遷都ともに、新政府の官僚たちは、大名屋敷、旗本屋敷に住んで、一気に上流社会の実感に浸ることができた。そこに、旧幕府の旗本の妻女が、女中、お手伝いさん、掃除婦、「飯モリオンナ」として仕えることになった。その変化を、西郷隆盛は批判して、新政府官僚たちが「大名屋敷に居住し」、多数の人を使い、ぜいたくをして、これは月給だけではできないことだと批判した。このあたりが、住宅の革命を証明するものであると同時に、西郷隆盛が、自分の作り出した社会を批判する原因にもなった。
フランスはどうかといえば,ヴェルサイユをそのまま捨ててしまっただけのことであった。後はパリで自分勝手にやってくれということであった。一例を挙げると、ロベスピエールは、指物大工の親方ヂュプレーの家で間借をしていた。今でいえば、ニトリや、大塚家具の社長宅で下宿をしたというようなものであった。

2018年11月13日火曜日

西郷隆盛は女権の廃止に熱心であった。

これは意外なことで、だれも書かないことである。しかし、西郷隆盛の文書の中に残っている。三百年続いた女権を廃止しした。これは愉快なこと、というのである。
改めて、江戸時代に女権がどこにあったかを振り返ろう。
一つは、江戸城の大奥である。美女3000人などといわれる。旗本の娘が多いが、こればかりは美醜に関する問題であるから、完全に家柄に連動するものではない。どこかに素晴らしい娘がいると聞くと、それを養女にして、上級旗本が大奥に送り込む。これが上様のご寵愛を受ける、お世継ぎを生むとなると、一大権勢をふるうことができる。こうして、土地支配者の上層が、女性を使って、支配権を行使するのである。
江戸時代の話はこればかりになるが、もう一つ、京都では、御所の中で、同じことが行われていた。これは当然のことで、平安朝の時代からそうであった。天皇の周りを女官が囲んでいた。これが天皇個人の意見におおきな影響を与えていたという。
廃藩置県の時に、この女権を廃止した。愉快だといっている。これ以後天皇のそばに男の侍従を置いた。有名な人物は、山岡鉄舟である。もと幕府の旗本、剣の達人、江戸開城の使者になった人物。天皇が座敷で相撲を取る趣味があり、それをやめるように進言したところ、天皇が山岡の首筋をつかんだ。とたんに、山岡が投げとばしたという。そのうえでさらにいさめたという。
こういうところにも、西郷隆盛の目指す改革があった。

討幕戦力が古代的権威を頼りにした結果は。上級公家との暗闘。

討幕戦で勝つことは、薩摩、長州の戦力で実現可能であった。戦争のさなか、朝廷では、多くの公家衆が、「幕府と薩長の私戦」であると騒いでいた。つまり、朝廷は関係ないというのである。もし、幕府が勝てばどうなるか。これは歴上の多くの事件で想像できる。だから、距離を置いてみていたのである。
朝廷の主流は討幕派ではなかった。それでも、勝ってしまえば勝者の側に立ち、そのうえに立って、指導権を発揮しようとする。もっとも重要なことは、天皇を独り占めして、新官僚を遠ざけ、その間に立って利益をせしめようとする。都合の良いことに、千数百年の伝統があり、それを主張すればよい。その最たるものは、天皇個人と面談させないというものである。簾の奥に隔離し、上級公家が取次役を独占する。昔から言う「君側の奸」になるのである。
この体制がしばらく続いた。上級公家はそれを死守しようとし、新官僚たちはそれをはぎ取ろうとする。しかし、一気にはぎ取ることはできない。全国に命令を出すとき、その命令が、西郷、桂、板垣の名で出されると、だれもが「どこの馬の骨か」とあざ笑うだろう。当時はそんなもの。だから、桂、板垣は、元の名を捨ててまで、改名した。
だから妥協しながらやっていく。ならば、三井、住友、鴻池の名を出してはどうか。これまた、最悪の結果になる。士農工商の意識が強い時代である。商人は最下位であるから、その命令には従わない、分をわきまえて、おとなしく儲けておればよということになる。
新政府官僚たちは、古いしきたりに妥協しながら、天皇個人だけを自分たちのトップに担ぎ上げようと画策した。
東京遷都が、その第一歩であった。面倒な公家集団を京都に置き去りにする。わずかな公家たちだけをつれて出る。これで、朝廷が約十万石の領主、中規模の大名という性格をはぎ取り、新政府官僚が囲い組むことになった。残された公家たちは、各藩の武士階級と同じ扱いになった。

2018年11月12日月曜日

明治政府最初の一年間は関西財界に支持されていた、小林良彰の歴史観

討幕戦力は挙げて江戸を目指した。京都に残ったのは留守政府扱い、前線に金を送ることだけが期待された。そこで、後世の歴史家は、この段階の新政府の性格について、多くの注意を払うことがない。これがまた歴史解釈の誤解につながるものになる。
戦争が終わると、武士たちは故郷に凱旋した。こういえば聞こえはよいが、「勝った、勝った」の喜びはよいとして、その後は何も良いことはないのである。勝利の果実は、京都に残った新政府官僚の手の中に入った。一般的傾向を言うと、故郷に帰ってもあまりよいことがない人たちが、中央に残った。特に長州藩が際立っている。身分が低く、故郷では上級武士に這いつくばらなければならない人、伊藤博文、山形有朋などで、桂小五郎(木戸孝允)でもまともな武士とはみなされていなかった。とても彼らが長州藩を代表する立場にあるとはみなされていない。
また、長男は故郷に帰りやすく、次男以下は中央にとどまりやすい。もともと、次男以下は、「厄介」といわれて、輝く場所がなかった。よそに言って成功すると、「厄介払い」と思われた。そのため、中央に残って成功すれば、「故郷に錦を飾って帰る」といわれ、そうでなければ、「二度とこの家の敷居をまたぐな」といわれて出されたものであった。この例で成功したものは、西郷従道、大山巌である。
さて、それにしても、この外れ物のような武士たちが作った新政府、だれに支持されて強力な力を持ったのか、「武士階級の支持ではない」。ズバリ、「関西財界」に支持されていたのである。京都、大阪、これが中心、ここの商人層は幕府権力に占領の形で支配されていた。京都所司代、大坂城代、各種奉行、これらが、譜代大名、旗本の役職になっていた。これが鳥羽伏見の戦いで吹き飛んだ。西日本の天領でも同じ。その瞬間に、地元の商人層の支配下に入った。
特に京都、大阪には巨大な商人がいた。「三都の大商人」といわれた三井、小野、島田、江戸と別子銅山に拠点を持つ住友、最大級の両替商といわれた天王寺屋五平衛、平野屋五平衛、彼らはこぞって新政府を支持した。
その協力関係の中で、個人的な結びつきも強くなった。薩摩藩士たちと三井、会計官由利公正と小野組、大隈重信(副会計官)と島田組、住友と土佐藩士(川田小一郎その他)たち、などなど多くの実例を挙げることができる。
だから、これが新政府の基礎になり、フランス革命初期のパリ市と同じ状態になったのである。

2018年11月4日日曜日

東京遷都がフランス革命のヴェルサイユ行進にそうとうする。

鳥羽伏見の戦いに勝つと、新政府は京都に設立された。しかし、まだ全国を支配したのではない。大ばっぱにいえば西日本、ここの天領と京都府だけ、幕府(徳川本家)の根拠地は関東平野であり、ここでは全く変化が起きていない。つまり革命の火ぶたは切ったが、完成はされていない。
いつ反撃されるかはわからないという恐怖はある。こういう場合、負けると、大量虐殺が待っている。勝った側もそれを知っているから、すぐに死に物狂いで東に向かった。京都の留守政府の最大の任務は、前線に軍資金を送り届けることであった。幸い、自発的献金に困ることはなかった。特に大阪商人は、幕府軍人から、「金は金なり、天下のおしかり(押し借り)なり」と称して、金を巻き上げられ、証文だけを残された直後のことで、幕府に対して恨み骨髄、新政府の太政官札での返却に感謝していたから、全面的な支持者になっていた。
フランス革命では、パリという最大都市が大貴族ラファイエット侯爵を国民衛兵司令官としてトップに押し上げ、その副官として大商人、銀行家が市政を支配した。ただし全国支配というわけではない。全国に対する命令は、国王の名の下に行われる。その国王は今まで通り、ヴェルサイユで大貴族の保守派に囲まれている。国民議会(三部会からの衣替え)もヴェルサイユにとどまり、そこで改革令を決議し、国王に回し、国王はいやいやながら署名した。これが改革令として全国に出された。しかし、大貴族の中には反撃の試みがあった。精鋭部隊として知られるフランドル連隊、これを呼び寄せ、残っている軍隊と共に反撃しようとした。つまりパリの再占領である。日本の「幕府軍の再編成、関ヶ原、大坂の陣の再現」に相当する。
フランスでは、ヴェルサイユ行進があり、国王一家が大貴族から切り離され、捕虜同然の状態でパリに連れてこられた。これ以後、国民議会の改革令は、自動的に国王の命令として、全国に通用することになる。
日本では、江戸城の開城、将軍の引退で、関東平野にまで新政府の命令が普及されるようになる。しかし彰義隊が寛永寺に立てこもったので、外国は、政府が二つできたと見た。これを応援すれば日本に干渉戦争を起こすことができる。こういう意見もあり得た。そこで素早く鎮圧しなければならない。
その時、西郷隆盛はなぜか動きが遅くなった。理由はさておき、大村益次郎と大隈重信、この二人が、指導権を握って、一日で討伐した。西郷隆盛は官職を辞して、頭をそり、「入道先生」などと呼ばれる状態で、北越戦争に同行する。敗北した庄内藩に対して、寛大な処分をを下した。官位がなくても、影響力はあった。庄内藩氏は恩義を感じ、のちに「南洲翁遺訓集」を残すことになる。
会津戦争が終わり、ほぼ全土が新政府のものになったところで、「新政府の財政的基礎はどこにあるか」が突き付けられた問題になる。しかしこれは西郷隆盛とは関係のないことになる。

2018年11月2日金曜日

鳥羽伏見の戦いが、バスチーユ占領に相当する

世界史的にみると、鳥羽伏見の戦いが、、フランス革命のバスチーユ占領に相当する。その根拠とは、土地所有の上に立つ権力を、実業の上に立つ権力に置き換えたからである。前者は貴族、日本の武士、外国では「サムライ」で通用するが、これは誤訳である。サムライは下っ端であり、そのうえに立つ大名こそが重要だからである。
後者について、フランス語では、「オム・ダフェール」、定冠詞をつけて、「ロム・ダフェール」という。実業の人という意味。英語でいえば、「ビジネス・パーソン」、「ビジネスマン」である。商業、金融業、貿易、運輸、工業、、、に携わる人たちのこと。時代とともにその形態が変わるが、百数十年前なら、大商人、大金融業者が主流であった。
それぞれの根拠地は、フランスのヴェルサイユとパリ、前者が貴族(土地)、後者がブルジョアジー(実業)の根拠地、日本では、江戸(土地)と京都、大阪(実業)の根拠地になる。日本の場合、もう少し複雑で、京都は三井の本店があり、かつ朝廷があったが、これは西洋社会のローマ法王領に似ている。宗教的権威を持つからである。
バスチーユ占領は純粋の防衛戦であったが、鳥羽伏見の戦いは、幕府側の主力軍の壊滅という性格を持っていた。パリが抑圧から解放されたという意味で、パリ祭があるが、日本にはない。フランスでは新時代の頂点に、前時代の国王を持ってこようとしたが、日本では、約千年前の伝統に戻るという形をとった。
パリではブルジョアジーが支配した。ただし、形式的には、ラファイエット侯爵を頂点に担ぎ上げた。日本では、天皇、皇族、上級公家、岩倉具視(下級公家)、諸大名、など雑多な集団を並べて、実権はその下、下級武士出身の指導者と大商人の同盟が握ることになった。
下級武士の軍団は、すぐに江戸に向けて出発する。つまり、新政府から遠く離れたところにいることになり、新政府に影響を与えることができない。残された新政府とは何か。これが問題。ズバリ答えを言えば、当時の「オム・ダフェール」である。
三井がその代表格である。西郷隆盛が、討幕戦の資金源に結びつけた。大山巌など薩摩藩士が、金を受け取りに行った。三岡八郎(由利公正)が会計官になり、小野組の小野善助に協力を求め、出資させた。大Ⅼ隈重信は、鴻池、住友から出資金を出させて、政府に入り、会計官の『副』の地位に就いた。彰義隊討伐の軍資金を持ってきた。
こうして、新政府の官僚と大商人の融合が始まった。この勢力に対抗する集団はどこにもない。だから明治政府は「オム・ダフェール」支配といえる。本質論で議論すると、フランス革命と明治維新は同じとなる。

2018年10月22日月曜日

西郷隆盛と坂本龍馬・大村益次郎の決定的相違点は何か。

西郷隆盛が坂本龍馬・大村益次郎と全く違う考え方を持っている「あるテーマ」がそんざいする。それがやがて、西郷隆盛の辞任につながるものになるのであるが、ずばりこれだといえる人がいるだろうか。
それは「親兵」の創設についてである。幕府を倒した後で、すぐに天皇直属の軍隊を作る。その必要を予想していたかどうかである。しかし天皇直属といえば、公家集団がいるではないか。その上級は、京都御所の周辺に屋敷を構えていた。下級のものは、京都の小さな家、または地方の屋敷にいた。いずれも刀を持っている。この点を人々は誤解している。お公家さんは戦闘集団ではないだろう、こういう先入観である。今でいう「文官」だろうと思っている。しかし、腕っぷしはいまひとつであったかもしれぬが、刀を持つ権利があれば、それなりの能力が磨かれ、中には剣の名手も出てきた。
これが天皇直属の武装集団であった。その経済的基礎は、山城の国、現在の京都府、約10万石、の土地支配であった。つまり、調停、天皇もまた、大名、反首都と同じく封建支配者の一員であった。
討幕の後に作る親兵は、天皇直属ではあるが、この公家集団とは別のものであった。全国から若者を集め、近代的兵器で武装させ、天皇の命令の下、どこへでも行く。今までの公家集団ではできないことだ。しかしこの新式軍隊、だれが指揮するのか。ナポレオン皇帝ならば、ナポレオンが命令するだろう。しかし天皇がというわけにはいかない。それは誰もが分かったいる。ではだれか。作ったものだろう。坂本龍馬が作るとすれば、彼だろう。しかし暗殺された。次は大村益次郎であった。
長州藩の人とは言うが、正式の藩士ではない。医者の家系、村田蔵六という。医学のかたわら西洋の武器、戦術を本の知識で知った。それを応用して、到着したばかりの新式武器を使う長州藩の戦闘集団を率い、この戦略、戦術を成功させた。第二次長州征伐の、日本海側の戦闘であるが、連戦、連勝、幕府側の大軍を撃破した。
その功績を買われて、彰義隊討伐の総司令官となり、一日の戦闘で全滅させた。この時、西郷隆盛は、薩摩藩の軍団を率いるだけの立場で、いわば大隊長のようなもの、天皇の名で全体を動かした人は大村益次郎であった。その大村が「今の兵は一大隊に二大隊の監視をつけなければ何をしでかすかわからない」といった。つまり、各藩からの藩士たちを指揮しながら、この集団は「危険」だと思っている。将来消滅させるべきものを思っている。
その腹の底は、早く「直属の軍隊を別に作り」今の各藩の藩士たちの集団は消滅させるべきだというものであった。これが本心であったが、口に出すのは時期が早すぎた。攘夷派の志士に狙われ、襲撃され、傷が悪化して死んだ。
この二人の共通点といえば、正式の武士集団に足場がないことである。悪く言えば、「成り上がりもの」扱いで、家柄を基準にすると、まともな武士ではないという扱いになる。それだけに、武士集団から離れることが簡単にできたのである。天皇直属といえば、自分がトップに立つことができる。
二人が死んだ後、山形有朋がこの仕事を引き受けた。彼も足軽出身で、武士階級の最下層
であり、命令される側で、命令することはない。しかし、奇兵隊の指揮官になった。奇兵隊が、正規の長州藩士扱いではなかったから、その指揮官にはなれた。しかし、討幕が終わって長州に帰ると、また足軽に戻る。其れよりは新政府に残り新式軍隊の組織にかかわった方がよい。
同じことは、薩摩の側でも起こった。西郷隆盛の弟、西郷従道は山県の協力者になった。大山巌もそうであった。西郷隆盛の親戚の次男であった。つまり、次男が新政府の側につきやすい。長男は薩摩藩に残りやすい。これは当然で、次男は、ほとんど独立した権限を持っていなかったのである。「厄介」といわれて、兄の従者のようなものであった。だから武士集団を捨てて、新政府の側に立った。
こうした、兄と弟は分裂し、西南戦争で戦うことになる。長州では、正規の武士が山形有朋に深い恨みと軽蔑を示していた。
さて、この新政府は誰のための軍隊であったのか。それは新政府を支持して、指導権を握ったビジネスパーソンの集団であった。土地の上に立る集団は、武士階級であった。これを打倒した後には、商業、金融業、工業の上に立つものが指導権を握る。
はじめは、三井、島田、小野など三都の大商人、鴻池、住友などの金融業者、鉱山業者、などが指導権を握り、すぐに新興の企業家、岩崎(三菱)、安田、川崎、五代、などの勢力が加わる。
新時代の官僚、軍人はこれと結びついたのであった。思えば、坂本龍馬の生きざまはこの流れではなかったのか、物語でいえば、シンドバッド船長兼軍司令官ではないか。こういうところに、フランス革命との同一性を見ることができる。

2018年9月20日木曜日

坂本竜馬は明治維新の商人的性格の第一号

明治維新で勝ったのは商人階級で、負けたのは武士階級であった。同じくフランス革命で勝ったのはブルジョアジーで、負けたのは貴族階級であった。前者はビジネス、後者は土地の上に立っている。だから市民革命になる。時期でいうと、1830年がフランス革命の、1871年が日本のそれに当たる。
さて、そうはいっても、ビジネスの側の人間は、控えめな形で、旧支配者の衣もかぶっているから、はっきりと指摘しない限り分かりにくいのである。こういうことは約50年前から私が書き残してきたことである。しかし、人々は、明治維新となると薩摩、長州の武士出身者ばかりに目が行って、それが勝ったものであるから、つまりは、武士が武士にかったものだと思い込んでいる。
これが間違いなのだといても、「それなら、商人が関与したという現象を示してくれ」といわれると、「例えば」というところで躓く。誰もいないといおうわけだ。これで困ることになる。
「坂本竜馬がいるではないか」。これが私の答えになる。「彼も武士ではないか」という反論が来る。これに対する反論をしなければならない。彼は土佐藩の下級武士である。これは間違いがない。しかし、彼の家系は、才谷屋という商人であった。ガから、彼は一時、「才谷梅太郎」という別名を使っていた。土佐藩に献金をして、その功績で、「苗字、帯刀」を許される。こういう商人上がりの武士は、全国的にかなりいて、下級武士の扱いであるが、商人としての資産があるので、生活はよい方であった。坂本龍馬はその家の次男であった。これでは、武士階級の中の地位という意味では、あるのかないのかわからない。つまり、本物の武士というのは、家禄が生活の中心でなければならない。その家禄は、藩主を代表者とする、領地の集団所有にあやかる権利であった。坂本龍馬はその資格を持っていない。
そのうえ脱藩した。悪くすると、投獄、切腹になる。取柄としては、勝海舟に入門して、軍艦の操縦術を会得したことであった。西郷隆盛に保護され、長崎に住んで、海援隊を組織した。これが何かというと、商社のはしりであった。諸藩からの脱藩の士を集め、蒸気船を動かし、利益も追及するという規約を作った。つまりは、元武士を集めて、商売の組織を作ったのである。
つまり坂本竜馬は商社の社長であった。最大の商売が、武器弾薬の輸入であり、売り込み先が長州藩であった。その後、土佐藩にも売り込んだ。土佐藩兵は板垣退助に率いられて、四国を平定し、京都から甲府に進んで新選組と対戦し、これを撃破して、新宿に達した。ここまで成功した基本は、坂本龍馬の調達した新式銃の威力であった。これがなくて、旧来の武器では、途中で敗北し、消滅していただろう。そういう意味では、海援隊という商社社長の坂本龍馬の役割は、決定的なものであった。もちろんその前の第二次長州征伐に際しての、新式銃の威力にも貢献した。これなしには長州が勝つことは難しかった。
だから、西郷隆盛、桂小五郎、の間に、策士坂本龍馬がいるのだ。新興商人、武士的商人が新政府樹立に決定的役割を演じた。
彼一人に目を奪われてはいけない。彼を資金的に支えた商人がいる。長崎の密貿易女商人「大浦のお慶」,「小曽根英四郎」などの名が残っている。研究されることがないが、重要人物である。また、またのちの陸奥宗光が協力した。もと紀州藩士、三井の隠密(忍者の姿で写真を撮ったものが残っている)、のちの外務大臣、であるが、こういうところにも、大商人三井とのかかわりあいがある。
フランス革命でも、ルクツーという貴族的商人、銀行家、財政委員会議長、カジミール・ド・ペリエという貴族、産業資本家、銀行家、首相兼内務大臣のような人物が出てくる。つまり両者が似ているのだ。

2018年8月15日水曜日

その時桂小五郎はどこにいたか、禁門の変以後

2018年8月12日、NHKの大河ドラマで、西郷隆盛が桂小五郎と出会い、幕府を倒さなければならないという意見を口にするという場面がありました。ドラマだから、どう書こうが問題はないのですが、この時、桂小五郎がどこにいたのかは、ほとんどの人が知りません。だから一言。
逃げの小五郎、遅れの小五郎、池田屋の変で有力な尊王攘夷の志士たちが新選組に切られた時、彼は遅れてやってきて、難を逃れました。禁門の変の時は、長州軍の中にいて、京都突入に反対しました。久坂玄瑞も反対、突入は時期尚早、こういう意見でしたが、「医者、坊主に戦争のことがわかるか」と反論され、押し切られました。これで長州軍は突入しました。
久坂は医者、桂は坊主ということです。つまり桂は、正規の武士ではなく、養子なので、血筋DNAでは武士とはみなされなかったのです。こういう人は意外に多いのです。坂本龍馬、勝海舟、藤田東湖などもそうです。もちろん、戦国大名の多くはそうですから、あまりめくじらを立てる必要はありません。しかし、当時の同僚からはそうみられている、それが重要で、人一倍努力する、そのことで、文武両道の達人になりました。新選組の局長近藤勇ですら恐れを感じたといいます。
しかし禁門の変では戦った記録はない。姿が消えるのです。敗残兵は長州に帰ります。桂はどこへ行ったか分からない。こういう状態が続きます。何処にいたか。まず、但馬の国、兵庫県養父郡養父町養父市場、ここの浄土宗のお寺にかくまわれます。ここが天領なので、徳川家の宗派のお寺になります。これから2,3分の距離に、郡代官所がありました。随分危ない話ですが、当時牛市場があり、街道筋の旅人が出入りしていたので、木は森の中に隠せという理屈でしょう。この郡代官所の隣が、私の祖父の家でした。小さいときから、この話はよく聞かされました。
やがて、危なくなります。姿を消します。今度は、但馬の国出石町の商人、金物屋にかくまわれます。ここでしばらく潜伏しておるうちに、第一時長州征伐は終わり、長州藩の内戦、高杉晋作の側の勝利となり、武備恭順の段階に入ります。ところが肝心の高杉晋作は、下関開国論を口にして、攘夷派の怒りを買い、逃げ出します。こうなると、長州をまとめるものがいない。困り切って、桂はどこにいるか、こういうことで探し当てられて、連れ戻されます。それ以後、長州藩の中心で人をまとめ、西郷と協力して同盟を結びます。
ところで、この出石ですが、ここの藩主が仙谷家で、私の祖母の祖母が仙谷騒動時代のお姫様であったと、言い伝えられ、肖像画の中に私とよく似たひとがいると私の母が言っていました。多少の縁がありそうです。
それはともかく、桂が純粋の武士ではない、これが武士と商人の同盟による明治維新の実現の中で、彼の動向を決めた要因になったのでしょう。この点は今後詳しく書きます。

2018年8月6日月曜日

西郷隆盛はなぜ禁門の変で長州軍を撃退したか

歴史家がわからずに書いている代表的な問題であります。来島又兵衛率いる長州軍が、御所を守る会津藩兵を撃破して、御所になだれ込もうとした時、西郷隆盛率いる薩摩藩兵が発砲して、来島は戦死、長州軍は敗北します。なぜ西郷隆盛は発砲命令を出したか。これが誰にもわかっていない。ことしのNHK連続テレビを見てもあいまいで、本心がわからない。実は、本人は「きんけつしゅご」、つまり御所を守るためだと書き残している。「それは本当」と探りを入れると、「実はそうでもない」という答えが返ってくるはず。
では本心は。長州軍の主流派は、尊王攘夷派であった。天皇を囲んで、政権を握ると、その命令の下、攘夷戦を行うという使命感を持っていた。大体の構想としては、西日本を天皇の直轄地として、東日本は幕府に任せるというものであった。西日本には幕府の領地は少ないから、幕府の死活問題にはならない。薩摩にとっても、この問題で、賛成、反対はない。
では、発砲せざるを得ない対立点は何か。それは「攘夷」の問題であった。すでに薩摩は、この二年前に、イギリス軍と戦争をして、講和条約を結び、貿易を始めていた。このことを長州藩士は知っていた。そこで、薩摩の商船が関門海峡を通過しようとした時、砲撃を加えて、炎上させた。「関はよいしょこしょの、前田の海よ、うまくやけます、さつまいも」。
この点について、西郷隆盛は「暴人」と書いている。これが中央で権力を握ったら、全国的にこれをやりだす。薩摩のみならず、外国の船に向かって攻撃を加えることになる。つまり攘夷戦になる。これはまずいでしょう。というので、発砲を命じた。しかし、薩摩藩兵の中にも、まだ攘夷派はいる。だからはっきりと本心を言うわけにはいかない。ゆえにあいまいなのです。
次に長州征伐となり、講和を結んで帰京するころに、長州では、高杉晋作の挙兵で開国容認の政権ができた。そうすると、両藩が対立する条件が消えていく。それに加えて、商人層の警戒感が薄れる。両藩の同盟と、それに対する大商人の資金協力という構図が出来上がり、討幕の見通しが立つことになる。こうした事件の渦中にいる西郷隆盛は、いちいち本心を言うわけにはいかないのです。そこのところを勝海舟は「落としどころをよく知っている」と評価するのです。

2018年7月9日月曜日

フランス革命の全期間、ブルジョアジーの支配が続いた

こうして、ジロンド派が追放されても、ブルジョアジーの実質支配が揺るがない。押しのけられたのは、資本主義の中の、強欲資本主義、けち資本主義部分だけといってよい、それも、抵抗さえしなければ、そのままで、累進税を払えばよかったのである。ブルジョアジーの主流派は平原派の背後で、安定した支配力を行使した。それが個人的には、バレールの行動に代表されている。
これだけのことを証明するために、長々と論証を続けたが、いったい何のためにしているのか、目標を見失ったのではないかと思うので、一度本題に戻します。目標は明治維新です。つまり、我が国の革命です。これが我が国の市民革命だということを証明すること、そこに目標があったはずです。
1789年から1830年これがフランス革命です。日本の未市民革命は、1868年から、1871年までです。これが承認されたら、目的は達成されたことになります。
フランス革命ではオーストリアを中心とする大国の干渉があって、一度1815年にブルボン王朝の復帰、王政の復活があり、貴族政治が復活しました。それを象徴するものが、1830年の7月革命寸前の首相ポリニヤック大公です。フランス革命の引き金になったといわれ、「赤字夫人」といわれたポリニヤック公爵夫人の息子です。つまり、息子は親を超えて、大公になつていたのです。もし、7月革命がなかったとすれば、フランスは絶対主義、旧体制への逆戻りになっていました。したがって、フランス革命が市民革命として完結する期間は長いのです。
わが国には、打倒された幕府の権力を助けてやろうという外国の勢力はなかった。(全くないわけではなかったのですが)。そこで短いのです。
このようにいって終わりならば、話は早いのですが、「フランス革命には、ジャコバン派独裁という、反ブルジョア的な勢力が支配した時期があり、これがよその国とは違う」というような理論が盛んであったために、わが国にはそれがないからダメ、というような理論になりました。そこで私が、長々とそれに反論をしてきたのです。

2018年6月16日土曜日

いわゆるジロンド派追放から約2か月間、恐怖政治は無い

改選された公安委員会は、「政策を失った委員間」とか、「睡眠薬強盗委員会」とかのあだ名でからかわれていた。マラーとヴァディエがつけたもので、ともにモンタニヤールの議員であった。つまりは、まだモンタニヤールの議員は、野党的な目で公安委員会を批判していたのである。「しっかりやれ」、「何もしていないではないか」という意味である。実際、社会政策としては追加したものはない。
ジロンド派に対する追及すらない。事実、しぶしぶ除名に賛成させられたから当然のことになる。それでもしたことは一つある。累進強制公債の実施であった。これを出先の機関に任せる。つまり派遣委員と地方公共団体にである。ここでは、必要に応じて、金持ちから税金を借りるという名目で取り立てた。拒否したものだけが処罰されたが、「命ばかりは」と差し出したものについては、命まではとろうとはしない。金持ちにとっても、戦争に負けて、亡命貴族が返ってくることを思えば、安い費用とも思える。
こうした状況の中で、マラーの暗殺と敗戦の脅威が事態を変えた。7月13日、つまり新公安委員会ができた3日後のことであった。これを厳密に評価すると、恐怖政治を「マラー、ダントン、ロベスピエール」のしたことと定義した、昔からの理論が、実はでたらめであることがわかるだろう。マラーはその前に死んでいる。しかも、この時、穀物の最高価格制、強制徴発の要求に反対して、過激派指導者と対立していた。過激派指導者ジャック・ルーは脅迫的な言葉を残して去った。その直後のことであるから、はじめは過激派の復讐だと思われた。その意味では「マラーが穏健派」と仰天するような解釈も成り立つ。
暗殺者は、シャルロット・ド・コルデーという貴族の女性であり、ジロンド派につながりがあるといわれたが、私は怪しいと思っている。(これは私見であります)。
いずれにしても、議員に対して、暗殺の脅威が高まっていることは確かになった。パリの治安を維持しなければならない。しかし、軍隊は大戦争の為に出払っている。警察力だけでは人手が足りない。ここでジャコバンクラブの組織力が期待されるようになった。ここで最大の影響力を持つ人物、それがロベスピエールであり、彼に「入ってくれ」という誘いがかかった。彼は「自分の気質に反して」といいながら引き受けた。役割は、「ジャコバンクラブを公安委員会支持に結びつけること」であった。これで議員の安全は確保されたが、のちにもろ刃の剣になる。
戦争では、ベルギー方面のオ-ストリア軍が最大の脅威であった。今一つ戦果が上がらない。公安委員のバレールが、ラザール・カルノーに公安委員会入りを勧めた。軍事の全権を任せるという。カルノーはプリユール・ド・ラ・コート・ドールを推薦して断った。そうするとバレールは「そうか、それなら二人とも」といって、これを国民公会に推薦し、議論もなしに可決した。これを見ると、人事の実験は平原派のバレールにあったことがわかる。カルノーは軍事の天才ぶりを発揮し、「勝利の組織者」と呼ばれ、子孫から大統領を出す家系になった。
こうゆうわけで、ジロンド派ついい方が、即、恐怖政治になるということはないのである。

2018年5月28日月曜日

いわゆるジロンド派議員が追放されても、ジャコバン派独裁は成立しない

ジロンド派の追放がジャコバン派の独裁を実現し、恐怖政治、テルール(フランス語)、(英語でテロ)を実行することになる。これが約150年続いたフランス革命史の定説であった。最後に出てきた、最も科学的歴史観だと、自他ともに称する人たちの意見を紹介しておこう。
アルベール・ソブール(パリ大学ソルボンヌの教授)は言う。「こうして山岳等を擁して、、サンキュロットが権力についた。ジロンド党を擁して、ひたすら自分に有利なように統治しようとした大ブルジョアジーが一時政治舞台から姿を消したのである」
アルベール・マチエは言う。「サンキュロットがひっくり返したものは、ただに一党派だけではなく、ある点までは一つの社会階級であった。大ブルジョア階級が倒されたのである」。
河野健二教授は言う。「ブルジョアジーの代表は陣地を明け渡して、小ブルジョアの代表たるモンターニュ派に譲った」。
私が彼らを批判して出てきて、十数年後、ソブール教授と河野教授に出会ったことがある。ソブール教授とは夕食をともにしながらの雑談になった。しかし、「あなたの意見は間違っているよ」という言葉はなかった。個人的には非常に好意的であったという印象を持っている。
しかしながら、学問の分野では厳しいことを言わねばならない。つまり、これらの意見は、文学的なフランス革命史であり、科学的には「ナンセンス」の一言に尽きる。追放したのは150人程度、まだ400人が残っているではないか。400をゼロとみなした歴史観が、上記3人の意見に集約されている。
もちろん、150年間これでやってきたのであるから、上記3人を個人的に批判するつもりはないが、とにかくこの理論は間違いであり、ジロンド派追放は、大ブルジョアジーの一部を敵に回して、排除したということである。大ブルジョアジーの残りの部分は平原派の背後でやっていくのであり、時には本人そのものが大ブルジョアジーの一員であった。
この段階では、まだ公安委員会も平原派中心で固められていた。だから、いきなりモンタニタールが権力を握ったことにはならない。
7月10日、公安委員会の改選があった。つまり約1か月のちの事であり、この時、平原派とモンタニヤールの議員が約半々になった。とはいえ、ダントンが落選した。これは重要なことであった。また、ロベール・ランデが食糧問題担当の公安委員になるが、彼をモンタニヤールに分類した勘定の仕方で「約半々」というのであるが、正確には、彼はジロンド派支持者であって、この時期になって、モンタニヤール支持者になったという、いわくつきの人物であった。
また平原派からここに入ってきたエロー・ド・セシェルは名門貴族、外国人銀行家とも親しく、デスパニャック(貴族、聖職者、武器商人)から金を借り、亡命貴族の伯爵の妻、を愛人にしていた。これを見て、「なんだこれは」と思うのが普通だろう。これがサンキュロットの代表者かね、というのが出てこないとおかしい。
サンキュロットとは、上流階級のはく半ズボン(キュロット)が「無い」という意味であり、つまりは働いている人たちを指す言葉であった。
サンキュロットが権力についたというのに、そこに働かない貴族、それもブルジョアジーとも関係の深い、伯爵夫人を愛人にしている貴族を迎え入れている。「これは何だ」というべきだろう。
もう一人、モンタニヤールからサン・ジュストという貴族が入ってきた。「恐怖政治の大天使」などともいわれる。恐怖政治を語るときの重要人物であるが、彼も貴族であって、サンキュロットではないことに注目するべきであろう。ぎゃくの見方をすれば、貴族だから、平民の犯罪者に対して、厳しい断罪を下すことについて、ためらいがないともいえる。日本でも、武士には切り捨て御免という習慣があった。だから明治維新直後では、武士出身の官僚は、平民に対して威張っていたのである。サン・ジュストの立場はこのようなものと思えばよい。
いずれにしても、ジロンド派追放によって、サンキュロットの政権ができたなどとは、ナンセンス極まりない理論であった。

いわゆるジロンド派議員が追放されても、ジャコバン派独裁は成立しない

ジロンド派の追放がジャコバン派の独裁を実現し、恐怖政治、テルール(フランス語)、(英語でテロ)を実行することになる。これが約150年続いたフランス革命史の定説であった。最後に出てきた、最も科学的歴史観だと、自他ともに称する人たちの意見を紹介しておこう。
アルベール・ソブール(パリ大学ソルボンヌの教授)は言う。「こうして山岳等を擁して、、サンキュロットが権力についた。ジロンド党を擁して、ひたすら自分に有利なように統治しようとした大ブルジョアジーが一時政治舞台から姿を消したのである」
アルベール・マチエは言う。「サンキュロットがひっくり返したものは、ただに一党派だけではなく、ある点までは一つの社会階級であった。大ブルジョア階級が倒されたのである」。
河野健二教授は言う。「ブルジョアジーの代表は陣地を明け渡して、小ブルジョアの代表たるモンターニュ派に譲った」。
私が彼らを批判して出てきて、十数年後、ソブール教授と河野教授に出会ったことがある。ソブール教授とは夕食をともにしながらの雑談になった。しかし、「あなたの意見は間違っているよ」という言葉はなかった。個人的には非常に好意的であったという印象を持っている。
しかしながら、学問の分野では厳しいことを言わねばならない。つまり、これらの意見は、文学的なフランス革命史であり、科学的には「ナンセンス」の一言に尽きる。追放したのは150人程度、まだ400人が残っているではないか。400をゼロとみなした歴史観が、上記3人の意見に集約されている。
もちろん、150年間これでやってきたのであるから、上記3人を個人的に批判するつもりはないが、とにかくこの理論は間違いであり、ジロンド派追放は、大ブルジョアジーの一部を敵に回して、排除したということである。大ブルジョアジーの残りの部分は平原派の背後でやっていくのであり、時には本人そのものが大ブルジョアジーの一員であった。
この段階では、まだ公安委員会も平原派中心で固められていた。だから、いきなりモンタニタールが権力を握ったことにはならない。
7月10日、公安委員会の改選があった。つまり約1か月のちの事であり、この時、平原派とモンタニヤールの議員が約半々になった。とはいえ、ダントンが落選した。これは重要なことであった。また、ロベール・ランデが食糧問題担当の公安委員になるが、彼をモンタニヤールに分類した勘定の仕方で「約半々」というのであるが、正確には、彼はジロンド派支持者であって、この時期になって、モンタニヤール支持者になったという、いわくつきの人物であった。
また平原派からここに入ってきたエロー・ド・セシェルは名門貴族、外国人銀行家とも親しく、デスパニャック(貴族、聖職者、武器商人)から金を借り、亡命貴族の伯爵の妻、を愛人にしていた。これを見て、「なんだこれは」と思うのが普通だろう。これがサンキュロットの代表者かね、というのが出てこないとおかしい。
サンキュロットとは、上流階級のはく半ズボン(キュロット)が「無い」という意味であり、つまりは働いている人たちを指す言葉であった。
サンキュロットが権力についたというのに、そこに働かない貴族、それもブルジョアジーとも関係の深い、伯爵夫人を愛人にしている貴族を迎え入れている。「これは何だ」というべきだろう。
もう一人、モンタニヤールからサン・ジュストという貴族が入ってきた。「恐怖政治の大天使」などともいわれる。恐怖政治を語るときの重要人物であるが、彼も貴族であって、サンキュロットではないことに注目するべきであろう。ぎゃくの見方をすれば、貴族だから、平民の犯罪者に対して、厳しい断罪を下すことについて、ためらいがないともいえる。日本でも、武士には切り捨て御免という習慣があった。だから明治維新直後では、武士出身の官僚は、平民に対して威張っていたのである。サン・ジュストの立場はこのようなものと思えばよい。
いずれにしても、ジロンド派追放によって、サンキュロットの政権ができたなどとは、ナンセンス極まりない理論であった。

2018年5月27日日曜日

いわゆるジロンド派はなぜ追放されたのか

1793年6月2日いわつるジロンド派、当時の言葉でいえばロランの党派とブリッソの党派が追放された。約150人であった。追放とはいっても、殺されたわけではない。大多数は自宅軟禁であった。
なぜこういうことになったのか、この説明が従来のフランス革命史では明らかにされていない。経済のことをよく知らない、文学者的歴史家が書いたから、やむを得ない。
国王ルイ16世の処刑を巡ってだとほのめかした古い歴史家がいるが、これは違う。平原派が二つに割れたからだ。
経済が歴史解釈に入ってくると、最高価格制を巡る論争が激しくなったことがしょうかいされ、これがその原因であるかのように書く歴史観もあった。私も、若いころ、そのように思いこまされていた時期があった。しかし、詳しく調べてみると、追放の直前、ぎりぎりの段階で、いわゆるジロンド派の議員が、やむを得ず受け入れると発言したことを知った。どんなに激しく抵抗しても、多数決を認めたら、追放する必要はない。だから、これも違うのだ。
「たとえ命をとられても賛成できない」、こういう論争点はないか、「命ばかりはお助けを」が通用しない問題点、これは何か、このように考えていくと、簡単に回答が出てくる。命の次に必要なものは、時には命がけで、となると、「お金」が出てくる。つまりお金の問題なのです。
議題は、「10億リーブルの強制公債」といわれ、「累進強制公債」「革命税」とも言われた。公債という言葉を使うが、公債を発行するのではない、公債台帳に登録するだけ、つまりは国家の借金帳簿に書き込むだけのもので、「そんなもの、この非常事態に返してもらえるあてはないよ」というのが、人々の本音であった。だから、だれも登録したがらない。
だから、公債といわれながら、革命税ともいわれたのである。さらなる問題は、これが累進的であったという点にある。これは今日の日本、あるいは先進国では当然と受け止められるが、この当時の世界では、「びっくり仰天するような」話であった。日本でも、戦前の社会で累進税を口にすると、「赤の思想家」といわれるほどのものであった。税金は一律、これが常識であった。
その常識を破って、税率を累進的とし、収入の上限を設定して、それ以上は無条件没収とした。この原則を国民公会が公布し、具体的な適用は、各地方に派遣された派遣委員と地方行政当局に一任した。
5月20日、いわゆるジロンド派の反対を押し切って、この法令が可決された。提案者は財政委員会議長カンボン、これに平原派議員とモンタニヤール議員が賛成した。
さっそく地方で徴収が始まった。リヨンでは派遣委員のデュボワ・ド・クランセが厳格に徴収し、3000万リーブルになった。一人の商人が6万リーブル支払わされたという。(1リーブル約1万円)。5月29日、衝突、内乱となった。マルセイユでも同じことが起きた。
パリにもマルセイユ代表が来て、国民公会で脅迫的な反対演説を行った。10か月前には、マルセイユの若者がパリを守ったという自負もある。しかし、ジャコバンクラブの中には彼らの暗殺を狙っているものもいるというので、ジロンド派議員が彼らを匿い、決定的対立に向かって進んだ。
これが対立の本質であるが、「お金の問題」は表に出しにくい。そこでいわゆるジロンド派議員は、過激派の運動家に攻撃の的を絞り、それをモンタニヤールの議員が応援しているとして、その勢力を削ぎ、平原派を自分のほうに引き付ける作戦に出た。その第一歩として、エベール、ヴァルレという二人の過激派指導者を逮捕した。逮捕する権限は、「12人委員会」というジロンド派系議員の組織するものであった。この時の国民公会は、出席者の変動が大きく、60人程度の議員が派遣委員として前線に出かけていたので、時にジロンド派が採決で有利に立つときがあった。
これが5月20日の事であった。これに対して、抗議運動が起きた。5月27日ロベスピエールがジャコバンクラブで武装蜂起を呼び掛けた。すると、国民公会は、二人の釈放、12人委員会の廃止を決定した。しかし翌日、また12人委員会の復活が決定された。出席者の人数が違うからこうなったのである。
これで、ジャコバンクラブ、パリ・コミューン、モンタニヤール議員、過激派の運動家に危機感が高まり、武装蜂起へと向かった。5月31日、国民公会を包囲し、12人委員会の廃止、ジロンド派議員の追放を要求した。しかし、12人委員会の廃止は決めたが、議員の追放は決まらなかった。翌日の6月1日、再度の武装蜂起が計画された。今度は22人の議員の逮捕の要求が追加された。その筆頭に前内務大臣ロランがあげられ、次に銀行家、財務大臣のクラヴィエールが加えられた。ロランは素早く逃げたが、途中で自殺した。6月2日国民衛兵と武装市民が議事堂を包囲した。
平原派議員の中には、両者の調停をしようとするものもいた。いわゆるジロンド派議員に辞職を進めたものもいる。しかし、議員の職を死守するという。平原派議員には、武装蜂起の指導者を批判するものもいた。バレールやダントンもそうであった。累進強制公債の提案者カンボンもそうであり、このようなことをすれば誰も発言しなくなるといった。採決でジロンド派を押し切ったとしても、追放には反対、これが平原派の考えであった。しかし、結局は群衆に押し切られた。
この時、マルセイユ、リヨンで反乱がおきて、ジャコバンクラブ員が殺され、ブルターニュ、ノルマンデイーというパリに近い州の地方政府が離反し、ヴァンデーの反革命暴動の群衆がナント市に向かっているという報告が来た。もちろん、マルセイユ、リヨンの反乱も起きている。それに加えて、オーストリア、プロイセン、イギリス、スペインの軍隊が四方から押し寄せている。国家滅亡の危機に瀕して、すべての人間が殺気立っていたのである。

2018年5月21日月曜日

いわゆるジロンド派とジャコバン派がそろって野党になった時期がある

このような言葉は、中学、高校の教科書で、「ジロンド派対ジャコバン派の対立」と習ってきた人たち、もちろん私もそうではあるが、まず全員にとって「びっくり仰天」であり、受け入れがたいものであろう。しかし事実はそうである。1793年4月から、同年6月までの短い期間ではあるが、相対立する両派を退けて、何が残るのかと質問してもらいた。そうすれば待ってましたとばかり「それは平原派だ」と答えることになる。左右両派を排除して、中央派が権力をになう、こういうことは議会政治でよくある図式であるから、驚くに値しない。
半年間は、いわゆるジロンド派の時代であった。厳密には、ジロンド派と平原派の連立政権であった。政党政治はまだ確立していない。ほどんどが一人一党主義、是々非々主義であった。その中にあって、ロランとブリッソを中心にまとまっていたいわゆるジロンド派が、何かと有利になっていただけのことであった。しかし、やがて、平原派の議員が慣れてくると、発言力も強まる。
ロランが内務大臣を辞任すると、後任に平原派のガラがなった。学者、教授、ダントンの友人、のちにロベスピエールを倒した後、公安委員会に入った。ナポレオンのもとでは貴族院議員になった。ロランの後任になると、自由主義経済政策を修正した。この中身を詳しくやりだすと、読者が退屈するであろうから、大まかな定義にとどめておきます。
ロラン派がいわゆるジロンド派の約半分を占めていて、あと半分がブリッソ派であった。このブリッソ派に対する批判がジャコバンクラブで行われた。
「ブリッソ派は何をしたか。彼らは金持ち、商人、大資産家の貴族政治を樹立しようとしたのである。これらあの人間が人類の禍であり、利己主義と欲望のためにすべてを犠牲にするような人間で…もし選ぶことができるなら、、旧体制のほうをとりたい。貴族と宗教家は多少の人徳があったが、これらの人間はそれすら持ち合わせない」。
ブリッソ派の本質を見事に表している。この集団は、ベルギー戦線の敗北、軍需物資調達を巡る大規模な汚職、軍事費の横領、兵士の士気低下の原因になったことを追及され、政権から外された。
この場合は、罷免、辞職ではなく、公安委員会を組織して、内閣をその下に置くという形で、平原派がブリッソ派を支配することになった。公安委員会といえば、モンタニヤール、ジャコバンクラブだと思っている人には、認めたくない事実ではあるが。
その後、財政委員会が組織され、独立した権限を持って、国家財政をジロンド派から切り離してしまう。
いわゆるジロンド派と平原派を分けるものは何か。共通点は、ブルジョアジー上層の代表者であることだ。相違点は、強欲資本主義か、常識的なビジネス一筋か、けちな金持ちか、儲けてもきれいに使う、あるいは一部を貧者に還元するか、国家の利益に反しても儲けるのか、国家の利益を優先しようとするのか、この違いである。これはどこの国、どの時代にもあることで、どちらが優勢になるかは時と条件によって決まる。

2018年5月19日土曜日

いわゆるジロンド派の全盛期は短い

1793年1月21日、国王ルイ16世の処刑があり、22日内務大臣ロラン・ド・ラ・プラチエールが辞職した。穀物商業の全面的自由が、ブリッソ、クラヴィエールの派閥とも衝突したからである。つまりこれは、いわゆるジロンド派の内部分裂を現している。
ブリッソ、クラヴィエールは、軍隊に対する食糧調達に際しては自由を優先するわけにはいかないという立場であった。自由主義経済学が現実と衝突した瞬間であった。
次にデュムーリエ将軍の反逆事件が起こった。1793年3月18日、ネールウィンデン(ベルギー領)の敗戦が出発点であった。フランス軍はオーストリア軍に大敗し、敵国軍は国境に近づいてきた。3月29日、国民公会はデユムーリエ将軍の罷免、逮捕を決議した。しかし将軍は逆に、政府から派遣されてきた陸軍大臣と派遣委員を逮捕して、オーストリア側に引き渡した。さらに軍をパリに向けて進軍させる命令を出した。つまり、敵国軍と共同作戦を立て、一緒になってパリを占領しようとした。ここで軍隊が分裂して、将軍に敵対してフランスを守るという将校たちの抵抗にあい、デュムーリエは将軍国外に逃亡した。
何とも奇妙な事件ではあったが、これには、オルレアン公爵の息子ルイ・フィリップと国民公会議員で大貴族のシルリー侯爵も絡んでいて、のちにオルレアン公爵の処刑にまで発展する。
またこの事件で、軍需物資調達に絡む大規模な汚職、収賄、国庫横領が表面化して、大問題になった。これは普通のフランス革命史には出てこない。裏面史、または経済史には出てくる。大軍が動き始めると、軍隊への物資供給が重要になってくる。まして国外への遠征ともなると、あらゆる必需品を軍隊の隅々にまで届ける必要に迫られる。そこで、この仕事を請け負う業者が花形になり、利益がそこに集中する。あらゆる人たちがそこに参入したといわれているが、ベルギー戦線ではデスパニャック僧正という新規参入者がデュムーリエ将軍と組んで、取引を独占した。若い美男子の大貴族であったといわれる。
カトリックの国では、貴族の次男、三男、あるいは長男でも何かの事情で教会に入れられ、聖職者になる。日本でいう、門跡寺院の長になる。こういう人たちは、「えらい」けれども、「坊主の不信心」みたいなところがある。デスパニャック僧正は、それを絵にかいたような人物、すぐに商売人に鞍替えして、デュムーリエ将軍にリベートを出し、適正価格の2,3倍の値段で軍需物資を供給した。
そこで、国民公会の側からすると、国家財政の資金は出したのに、それに見合う物資が下まで届いていないということが判明した。兵士の待遇が悪くなった。これが特に義勇兵の不満に結びつき、帰郷するものが増えた。もともとボランティアであるからそれは当然の事であった。これも敗戦の原因だとされた。このような意見を出したのが、カンボン、ドルニエなどの平原派議員、反対して、汚職はないとしたのがいわゆるジロンド派議員、ダントンはその調査に派遣されたが、汚職はないという立場であった。この段階では、ジロンド派と組んでいた。
このようなことがあって、1793年4月一つの転機が起こった。公安委員会の設立である。後世から、恐怖政治の執行機関とみなされている。国防についての権力を与えられた。のちに大臣を指揮監督する権限を持つに至った。たとえて言うならば、公安委員が大臣で、大臣が次官になるくらいのものであった。しかしよく見ると、今の日本の議院内閣制はそれになっているではないか。とすればさほど驚くべくことではない。
重要なことは、この公安委員会に選出されたものが、いわゆるジロンド派議員には皆無であったことである。これは重要なことであって、これを強調するのは、世界でも私だけだと思ってもらいた。事実を書いた人は少数ながらいる。しかし評価をしない。なぜなら、ジロンド派追放とともにジロンド派権力が消滅したという、従来の理論に縛られているからである。
実際には、4月の時点で、ジロンド派は権力から排除された。ただし、モンタニヤールは権力を握っていない。誰かといえば、平原派しかないだろう。少数ながら、ジロンド派寄りから、平原派あるいはモンタニヤール派に移行した人物がいた。9人中3人がそうであり、ランデ、ダントン、ドラクロアであった。
この段階で、いわゆるジロンド派は権力から離れたといってよい。ただしモンタニヤールもまだだという段階、つまりは平原派の権力ができたといえる。だから、ジロンド派の権力は1792年10月から1793年4月まで、約半年だけであった。

2018年5月11日金曜日

小林良彰(歴史学者、東大卒)のフランス革命論、ブルジョアジーの権力に大貴族が協力した

いわゆるジロンド派政権は、ブルジョアジーの政権であった。1792年の夏から93年の夏に至る一年間のことになる。これは誰もが認める真理である。ならば、ブルジョアジー一色であっただろうなと、暗黙の裡に思うだろう。この先入観が、他国と比較するときに誤解を生む。特にわが日本との比較になると、「日本では下級武士出身の官僚が支配し、明治維新の初期には、旧大名、公家が権力に参加した。これこのように古い体質が残っている」。これで議論が打ち切りになる。そこで、「あれ、フランスでもそうだが」と私は言いたい。
まず内務大臣ロラン・ド・ラ・プラチエールが法服貴族であることは前にも書いた。
コンドルセ侯爵有名な思想家、ヴォルテール学派の学者であり、国民公会の書記に選ばれた。この段階では、彼の存在が国民公会に名誉を与えたといわれた。
イザルン・ド・ヴァラデイ侯爵も名門貴族であったが、国民公会ではいわゆるジロンド派と行動を共にした。
シルリー侯爵はルイ15世の外務大臣の甥という権力に近い人物であったが、国民公会では、いわゆるジロンド派に参加していた。彼の妻はジャンリ伯爵夫人、マダム・ド・ジャンリという名で、文筆家で有名であった。
最大の協力者は、オルレアン公爵家であった。王族で、最大級の大領主であった。この段階では公爵の名を捨てて、「平等」だと称していたので。「フィリップ・エガリテ」と呼ばれた。日本では「平等公」を訳しているが、正確にいえば平等だけする必要がある。日本に例えていえば、御三家の徳川の藩主が新政権に参加したようなものである。この息子のルイ・フィリップがジロンド派将軍デュムーリエと協力し、ベルギー戦線に出動し、のちに外国に逃亡するが、ずっとのちの七月革命でフランスの王になった。
つまりフランス革命でも。常に貴族、前時代の一部の影が見えるのである。

2018年5月10日木曜日

いわゆるジロンド派の時代・何をしたか?

1792年9月20日ヴァルミーの会戦で勝った日、国民公会の招集があり、この日から新政権の誕生になる。とはいえ、行政権としての臨時行政会議続いている。形式的には国王ルイ16世によって任命され、国王が投獄されてからは、立法議会の承認によって、仮に認められていたものが、国民公会によって、正式に承認されたことになる。
国民公会の派閥は、いわゆるジロンド派、中間の平原派、左派のモンタニヤール(派)となる。ジロンド派という言葉は当時にはなかった。ブリッソの党派、ロランの党派という言葉で当時は表現されていた。ブリッソはパリ銀行業界の利害を代表し、個人的には銀行家で、財務大臣をしているクラヴィエールと親しかった。ロランはリヨンの絹織物業界の利益代表者であった。
これから約一年間は、モンタニヤールが野党で、その他が与党という色分けで政権が運営される。だからジロンド派政権という言葉は、文学、小説の中ではよいが、科学的には正しくない。正しくは、ブリッソ派、ロラン派、平原派(無党派の集団)と言い換えるべきだ。
この権力、前年からの政争を引き継ぎ、封建貢租の無償廃止を実現した。これで領主権は完全に消滅した。これが重要なことで、今までは、これが一年後に実現したと書いてきたのである。領主権の完全廃止であるが、貴族の直領地は残る。だから、城付きの大土地所有は残るのである。
ただし、亡命貴族については、この城付き大土地所有が、没収売却の対象になった。国有化された後、競売に付された。それを誰かが買う。買った人が新しい城主になり、その周囲の大地主になる。メルラン・ド・チオンヴィルというモンタニヤール議員が、「今朝は鹿狩りをしてきた。君は貴族の土地を持っているか。いいものだぞ」といったが、このような変化をもたらした。
財務大臣クラヴィエールはかねての主張、旧体制のもとでの国庫に対する債権、つまり特権商人グループが、王権に対して高利貸し的な貸し付けをしていた場合、これを切り捨てないで保証すること、これをフイヤン派の政権がが続けていたことへの批判、その批判をいよいよ実行した。10000リーブル以上の債権は切り捨てというものであった。現在なら、一億円以上は切り捨てというものであった。
こうしてブルジョアジーが、前時代への寄生的性格を薄めていった。
内務大臣ロランの主張で穀物商業の自由が実現した。これは、当時盛んになっていた経済的自由主義の思想を実現したものであった。レッセフェール、レッセパッセの主張であり、すでに旧体制のもとで唱えられていた。旧体制のもとではがんじがらめであったから、ブルジョアジーの権力が確立した今、かねての理想、自由主義を実現したのである。自由が旗印であるから、当面はビジネスマン、フランス語ではオム・ダフェールが経営に熱中するだけに時代になった。
もう一つ、国王の裁判があった。国王と王妃が、フランス軍の作戦計画を、敵国オーストリア皇帝に知らせていたことが明るみに出た。これは裏切り行為であるから、死刑か助命かが論点になった。平原派が二つに割れ、小差で死刑になった。この問題では、平原派が分裂した。いわゆるジロンド派でも、死刑論者が出た。

2018年5月7日月曜日

ジロンド派と平原派の共通点と相違点

いわゆるジロンド派と平原派はそれぞれ約150名と400名、合わせてともにブルジョアジーの利害を代表するものとして、国民公会の議論を指導した。ブルジョアジーの党派、これが共通点であった。こうはっきり定義するのは、世界で初めてであることを知ってください。今までのフランス革命史家は、ジロンド派がブルジョアジーの党派だと書いていた。それではジロンド派が負けた時、ブルジョアジーガ負けることになる。
そう思い込むから、日本の大塚史学のように、ジロンド派の敗北、モンタニヤールの勝利で、巨大企業アンザン会社,クルゾー会社が圧伏されたとか、廃棄されたとかいう理論が作り出された。それからそれへと前期的商業資本の理論が作り出されて、それが東大、名大で講義され、日本のエリート集団に固定観念を植え付けた。特にクルゾー会社は横須賀の造船所を作った企業であるから、「フランス革命で圧伏、廃棄されたものが、数十年後に日本の造船所を作るとはどういうことか」、と疑問を出しても、そうだそうだという声は全く聞こえなくて、はじめは屁理屈をつけて反論し、負けそうになると、異端視して、無視する、こういうことで今まで来たしまった。
もし平原派の存在と役割を認識しているならば、ジロンド派の敗北は、ブルジョアジーの一部の敗北であり、それも半分よりも少ないと考えるだろう。平原派は2倍以上いる。つまり、ブルジョアジーは恐怖政治の全期間を通じて健在であった。だから、クルゾー会社も残る。これが事実だ。この事実だけでも、明治維新が市民革命であるかどうかの議論に根本的な変化を起こす。こういうことを背景に、今ジロンド派と平原派の問題を扱っている。
ならば両者をわかつ相違点とは何か。累進強制公債が、どうしても認められないという立場の相違であった。それ以前の税金体型は、一律の課税が原則であった。十分の一税に見られるように、富める者も貧しい者も同じ率でというわけだ。しかし、国家が滅亡の淵に立った時、金持ちが多くを出して、軍事費を賄おうという意見、これが平原派から出てきた。財政委員会のカンボンがこれを代表した。しかし、ジロンド派はどうしても容認できなかった。それならば、武力で反抗をという姿勢であった。
ジロンド派の一般的な信念は経済的自由主義の堅持であった。これは旧体制の王権と戦うときには立派な理論になった。しかし、自分たちが権力をとったとき、しかもそれが危機に瀕した時、ある程度の統制経済、非常手段と取る必要に迫られる。その変化に対する適応力、それは平原派にあったので、ジロンド派は頑固であった。これが敗北の理由である。それをさらに推し進めると、ビジネスの在り方の相違に行き着く。
統制経済、非常手段のもとでも利益を上げる見込みのあるものと、それでは損失が多すぎると思うもの、その差であろう。この時点のフランスは軍事経済に移行している。それで儲かるものと損をするもの、こういえば、第二次大戦の日本を振かえると、だれもが「ああ」と納得するだろう。リヨンの絹織物、ボルドーのワインというと、一目瞭然、どうも損失が大きい。ボルドーの県がジロンドという。ここ出身の議員がジロンド派で目立っていた。それでその名が後世になって付いた。
こういうわけで、。両派の分裂はビジネス界の分裂を反映した。したがって、ジロンド派の追放はあったとしても、ブルジョアジーの政権は続いたのである。

2018年5月4日金曜日

カンボン・財産のロベスピエールといわれた平原派議員

カンボンがなぜ財産のロベスピエールといわれるのか、そこからフランス革命の本質と、ブルジョアジーのある部分の動向を知ることができる。今の日本でも、財務省、旧大蔵省を抜きにしては、政府を語ることはできない。政府の中の政府、エリート中のエリートだ。この頂点にカンボンがいた。しかも恐怖政治のさなかにである。ならばロベスピエールの子分であったのか。そうではない。独立していた。また派閥が違う。ロベスピエールはモンタニヤール、カンボンは平原派である。
平原派はあまりしゃべらない、うおさおする。日和見主義者、「蛙」とかるくみられているが、このカンボンは違う。よく発言する。しかも戦闘的に。そこで私はこの人物に着目し、50年以上前から調べてきた。
彼は南フランスの大商人の息子であり、父親と息子は文通をしていた。「明日、ロベスピエールか、私か、どちらかが死ぬでしょう」。これは、テルミドールの反革命の前日、息子が父親に送った手紙であった。当日、「名誉を傷つけられる前に、発言をしたい」といって、ロベスピエールに対して反論とした。これが国民公会の審議の流れを変えた。前日までは満場一致でロベスピエールに賛成、今度はロベスピエール逮捕の決議と流れが変わった。カンボンは金持ちの住宅街の若者を武装させて、護衛兵として連れてきた。こういうことは、カンボンがブルジョアジーの戦闘的な指導者であることを物語っている。何を巡ってロベスピエールと対立したのか。それは、亡命貴族財産を没収したことでできた国有財産を、無料で貧しい愛国者に与えるという法令に反対したからである。カンボンの意見は、国有財産は売られなければ財政問題の解決にならないというものであった。
しかし、ならばなぜ財産のロベスピエールといわれるのか。彼はまず、いわゆるジロンド派内閣のころ、デユムーリエ将軍と巨大政商になったデスパニャック僧正の不正取引、国庫略奪を告発した。この問題で、ダントンが調査のために派遣されたが、あいまいな結論になった。のちに、ダントンの収賄も疑われるようになった。この腐敗のために軍隊の士気が低下し、オーストリア軍に対する敗戦につながった。
やがて、国境が危なくなり、国家存亡の危機に直面すると、国民公会の財政委員会が財政問題の全権力を握ることになった。その議長がカンボンであった。公安委員かからは独立している。したがって、カンボンの上がない。財政問題に関しては独裁者ということになる。
カンボンは危機の際して、様々な手を打ってくる。その手段の多くがいわゆるジロンド派の反対に出会った。紙幣としてのアシニアの強制流通、貴金属との交換停止、違反者に対する罰則、累進強制公債(実質的な累進課税)などである。現在の日本からすると、まあそういうこともありうると思われるだろう。しかし当時これはとんでもないことだと思われた。そこで意見が分かれ、死闘になった。
国民公会では、平原派とモンタニヤールが賛成、いわゆるジロンド派が反対となった。議決だけなら問題がなかったが、ジロンド派は武力をかき集めて反抗を試みた。それに対する反発として、パリ市民の大群が国民公会を包囲して、ジロンド派議員の追放、逮捕を要求した。カンボンは、追放には反対した。意見を表明したからといって、追放するのでは、誰も意見を言わなくなってしまうというものであった。こうして、カンボンと平原派議員は、追放に抵抗し、最後に議員だけで強行突破しようとして、「砲手、砲につけ」という有名なアンリオーの号令に屈して引き返した。カンボンはこの復讐はいずれしてやるといったという。
カンボンは、政策としてはジロンド派の反対を押し切っている。しかし、ジロンド派の追放には体を張ってまで反対をした。したがって、モンタニヤールとも対立する。両派と対立して身が持つのかというと、両派合わせて約300人、平原派だけで400人、成り立つのである。これがわからなければならない。
ならば、いわゆるジロンド派とカンボンのような平原派との違いは何かということになる。一口で言うと、非常手段は絶対ダメだというブルジョアとやむを得ないだろうというブルジョアの相違ということになり、非常手段のもとでも儲けられるものは、賛成ということになる。軍需産業、軍隊への納入業者、など今でも考えられる。累進課税は、今の社会では当たり前で、それでも儲かるところもある。こう考えると、平原派が多数であることも理解できるであろう。つまり、恐怖政治の時代もブルジョアジーの権力の時代であった。
ただ一つ、カンボンは高額年金の切り捨てという政策を強行した。これで、高額年金の受給者の恨みを買った。これが財産のロベスピエールといわれる理由である。これはそこまでする必要があったのかどうかわからない。

2018年5月2日水曜日

恐怖政治の平原派議員、無名であってもビジネス界の有力者

政治の表舞台では、いわゆるジロンド派、ジャコバン派が華々しく活躍するから、歴史の舞台では平原派議員はかすんでしまう。いやそれ以上に、無視され、ゼロとみなされる。しかし実際の社会性生活では、ブルジョアジーの成功者として、こちらの方が上になる。フランス革命がブルジョアの革命であるからだ。
実例を挙げよう。ドルニエは鉄鋼業者、大土地所有者、大砲を原価で国家に提供して、「誠実の人」といわれた。つまり恐怖政治の政府に全面協力をした。財政委員会の委員のひとりであった。この時期の財政委員会は、財務省を指揮する権限を持ったから、事実上の財務次官に相当する。ジロンド派将軍デュムーリエと巨大武器商人デスパニャックの不正取引、汚職を告発して戦った。こういう正義の士ではあったが、この時期に立派な城を買い入れた。つまりは、亡命貴族財産の没収・売却の制度を利用して、成り上がりものになったのだ。正義感ではあるが自分の利益は忘れない、これ、良い意味でのブルジョアジーというべきであろうか。
もう一人の、財政委員ジョアノはもともと、王立ウェッセルラン・マニュファクチュア(繊維、染色)の実力経営者であった。大塚史学の定義によれば、特権的、前期的商業資本の組織する大工業で、こうしたものは恐怖政治の時代に廃棄されるものと定義されるが、実際にはその経営者が国家の財政を握っていたこと、これを知る必要だある。
ギュィトン・モルヴォーは法服貴族、領主、工場主、鉱山開発業者、ラヴォアジエと協力して、化学研究を行い、発明の工業化も行った。ジロンド派の追放には反対した。しかし、ジロンド派が追放され、友人のラヴォアジエが処刑されたとしても、彼は公安委員会に残っていた。一度やめて、公安委員会からモンタニヤールが追放された後、またここに入ってきた。恐怖政治の時期、パリで武器工場を経営していた。
この人物と親しかったのが、同じ平原派議員のバレールであった。公安委員会で外交を担当し、名演説家、ギロチンのアナクレオンと呼ばれる。最後までロベスピエールを支持して、土壇場で態度を変えた。カメレオンともいわれる。
平原派は一つの意見にまとまっているわけではないが、ブルジョアジーの上層を代表し、その時に合わせて意見を変える。こうして激動の時期を乗り切る。信念の為に殉死することはなく、保身の術にはたけている。こういう集団がフランス革命の荒波を乗り切ったとみると、ジロンド派対ジャコバン派の対立でフランス革命を論じてきた従来に歴史観とは、また別な結論が出てくるだろう。

2018年5月1日火曜日

恐怖政治の平原派指導者カンバセレス、政・財・官を一人で代表する

フランス革命の本質を一人で体現するような人物がいる。南仏モンペリエ出身のカンバセレスである。フランス革命の出発点では、これという活躍をしていない。国民公会に選出されたが、いわゆるジロンド派にもジャコバン派にもつかない。
国王ルイ16世の裁判が始まり、死刑か助命かの投票が行われた時、一人独特の理論を展開して、有罪ではあるが、裁く権利がないという法律論を展開した。当時は死刑反対論者だと思われたが、のちに王制が復活した時は、国王を殺した側だとされて国外追放となり、のちに論旨が見直されて帰国を許されるという独特の運命を多たどった。いかにも平原派的な行動に見えるが、少なくとも、「定見を持たない、日和見主義者、強い方についてうろうろする」という侮蔑には値しないことは分かる。むしろ、一人一党主義、是々非々主義というべきか。
国民公会では立法委員会議長をを務めた。というのは、彼が法服貴族であり、法律の学校を卒業してきたからである。三部会の選挙の時は貴族部会の候補に挙がり、補欠のような形で議員にはなれなかった。
ロベスピエールの失脚ののち、一時的には公安委員会に名を連ねるが、昔ほどの権力ななかった。ナポレオンがクーデターを起こして権力を握ったとき、シェイエスの後を受けて第二統領になった。ナポレオンは戦争のために国外に出ることが多い。その時は、実質的にカンバセレスが最高権力者になる。さらにナポレオン法典の編纂の最高責任者であった。法律は彼の専門であり、ナポレオンにはよくわからない。つまり、フランス革命で起こったことを明文化した、そこに彼が最大の貢献をしたのである。
ナポレオンが皇帝になると、彼は貴族院議長(元老院)になり、パルマ(パルム)公爵として、占領地イタリアの、小国の君主になった。征服型の市民革命を代表している。
ナポレオンが敗北し、王制が復活すると、国外追放になり、すぐに帰国が許された。
ここまでは調べると、だれでもわかることではあるが、これでは本質がわからない。カンバセレスがおとなしい、イエスマンだという人もいる。そんな状態でここまで上り詰められるのか。
重要で、人に知られないことが二つある。まず一つ、彼はウヴラールの顧問弁護士であった。ウヴラールは最大の政商、軍需物資の調達者、さらにその人たちに対して金を貸す金融業者でもあった。中小企業者から一気に巨大ビジネスマンにのし上がった。それが恐怖政治の時に一致する。政治的には総裁バラスと癒着していた。それが行き過ぎて、ナポレオンのクーデターの直後、自宅軟禁のなった。その後、両者の手打ちがあり、値引きして協力することになった。併せて、カンバセレスが第二統領になる。これを見ると、カンバセレスの実力も想像できるだろう。イエスマンだけというわけではない。
もう一つ、彼はアンザン会社の大株主になった。この事実と意味を日本人に説明するだけでも一苦労する。この会社は、北フランスからベルギーに広がる、当時最大の炭鉱を開発していた巨大企業であり、国王から特権を認められていた、巨大特権会社であった。当時、エネルギーの基本は石炭であった。十数人の株主の中に、この地方の大貴族がいた。ヴェルサイユ城でも高位に位置付けられた。そこで、彼らが亡命した。亡命貴族財産の没収、売却が恐怖政治のころに進められた。終わってみると、カンバセレスがアンザン会社の大株主になっていたのである。つまり、カンバセレスは財界の最高位に位置づけられることになった。これでは第二統領になっても、当たり前のことというべきだろう。つまりフランス革命はブルジョアの革命であったというべきだろう。
ナポレオン権力は、ペルゴ、ルクツーのような銀行家、カンバセレスが代表する大工業にささえられてせいりつしたものであった。
これを強調するのは、従来の学説の誤りを指摘することにつながる。アンザン会社は大塚史学によると、恐怖政治で破壊されたと書かれた。高橋幸八郎、中木康夫の両教授がそう書き、東京大学と名古屋大学で講義した。当時はこの影響が強かった。東大、名大の卒業生はこれを真理と思い込んだ。私がいくら事実ではないといっても、この年代の人は絶対に聞き入れない。中木康夫教授は、私と出会ったとき、自分の間違いを認められた。ただし「あなた東大ですか、私は京大かと思っていました」などといわれた。東大ならばすべて大塚史学だろうという感覚であった。
そんな身びいきの問題ではなくて、つぶれてもいないものをつぶれたと書くのがけしからんことでしょう、それに炭鉱をつぶしたのは敵国のオーストリア軍であった。当然のことでしょう。撃退するとすぐに再建が始まる。これも当然のこと。その時所有権の変動があった。旧時代の支配者から、新時代の支配者へである。
カンバセレスはナポレオンの恩寵がなくても、アンザン会社からの利益が入り、ウヴラールからの謝礼が入る。つねに豪奢な生活をしていたといわれる。ただし品行は方正、バラスとは違う。

2018年4月29日日曜日

恐怖政治の平原派指導者シェイエス

フランス革命の恐怖政治の時期、所謂ジロンド派でもなく、モンタニヤールでもない中間派としての平原派約400人、これが最終的に勝ち残った勢力であり、この背後にいるものが何か、これこそがフランス革命の果実を手に入れや者である。そういう問題意識の下で、バラスに次いで、シェイエスを取り上げる。
シエース、シェイエース、その他でも呼ばれる。アベ(聖職者に対する敬称)でも呼ばれるが、最高位ではない。副司教、徴税請負人の息子、貴族ではない。その上に司教、大司教、枢機卿がいたので、これが貴族出身であった。身分としては平民、第三身分であったが、宗教家であるから、第一身分でもあった。最高権力者のその下くらいの立場であり、その意味ではバラスとも似ている。確かに、革命家はこのあたりから出てくることが多い。
シェイエスはフランス革命直前、「第三身分とは何か」を出版し、これが今までは「無」であったが、これからは「何者かになる」といった。これは銀行家ネッケルが娘をスエーデン貴族と結婚させたとき、「何者でもないものが、何者かになるためには娘が必要だ」と貴族社会で揶揄されたことにつながる。
バスチーユ占領のころは、華々しく活躍したが、次第に穏健となり、フイヤン派に属し、国民公会では平原派の中にいた。しかし、発言をしない。後日「あの時何をしていたのか」と揶揄されると、「生き残ることに努めていましたよ」といったので、これは名言とされ有名になった。ただし、取り巻きを持っていて、何か常に陰謀を企てていたといわれている。
イギリスのスパイの報告では、シェイエスがロベスピエール、公安委員会に影響力を行使しているといわれている。まさかと思うだろうが、ロベスピエールの最後の演説は平原派に対して呼びかけたものであり、つまり死の直前まで、平原派を当てにしていたのであり、それはとりもなおさずシェイエスを当てにしていたということである。
しかし、シェイエスはその日にロベスピエールを切り捨てることにしていたのである。その後、シェイエスは公安委員会に入る。つまり、ロベスピエールを倒した後の権力者になった。
総裁政府の末期、総裁の一人に入り、バラスと肩を並べた。しかし、ナポレオンのがわに
つき、クーデターの後、第二統領になった。第一帝政では元老院(貴族院)議長になり、革命フランスの最高の成功者になったといってもよい。
この人物の背景としては、ルクツー・ド・カントルー(銀行家、貿易商人、法服貴族)が目につく。国民議会では財政委員会で活躍した。ただし常に同じ道を歩いたというわけではない。国王の処刑に反対して、救出の努力をした。これで投獄され、処刑を待つ身になった。その時、シェイエスは何もせずに、沈黙していた。
ナポレオンの時には、ルクツーがナポレオンを呼び戻して援助し、そのあとシエイエスが第二統領になった。王制が復活すると、国外追放となり、7月革命で帰国した。こう見ると、シェイエスはフランス革命そのものを象徴しているように見える。

2018年4月28日土曜日

恐怖政治を学ぶなら、もっと平原派を知るべきである

前回の続きであるが、私が出てくるまでのフランス革命史は、いわゆるジロンド派対ジャコバン派の対立で歴史を語っていたのである。それ以外はないという態度で語る人、もうひとつは、あることは認めても、どうせくだらないもので無視するに足りるというものであった。つまり中間派は受動的なもので、「ついてこい」といわれる類のものであり、決定的役割は能動的なもの、すなわち、左右の両派閥でなければならぬという態度であった。
しかし、最後まで無傷で残ったものは、中間派であったので、この本質を知らずして、フランス革命を理解することはできないはずである。その観点から、平原派議員を調べ始めたが、こういう研究をしたのも世界では初めてであった。
まず、バラ子爵から始めよう。バラスとも発音する。アメリカにコーキー・バラスというダンスの名手がいる。だからここではバラスにしておこう。南フランスの中流の貴族、フランス革命以前、時の海軍大臣の部屋で、大臣の頭を本でたたいた。その後、インドへ派遣され、イギリス軍とたたかった。帰国して、国民公会の議員となり、中間派、平原派として、目立たない存在であった。
マルセイユでいわゆるジロンド派の反乱があり、この地域が反政府勢力に支配された。すぐ近くのツーロン軍港がイギリス海軍に占領された。これでは南フランスを経由する輸出入が途絶してしまう。フランス国家としての死活問題になった。この時、国民公会から、バラスが派遣委員として、全権力を委任された。彼の指揮する軍隊がマルセイユを鎮圧した。つぎにツーロン奪回に向かい、ここではイギリス海軍との砲撃戦が主体になった。この時、下級将校であったナポレオン・ボナパルトを引き立てて、砲兵司令官とし、その活躍によってイギリス海軍を追い出した。これはその時のフランスにとって、最大の功績になった。後世、これはナポレオンの功績として語り伝えられるが、当時は、バラスの功績と思われた。
バラスは最大の名誉に包まれてパリに凱旋してくる。ところがである。彼は最大級の富豪になっていた。その巨万の富は、賄賂と横領によって作られたといわれた。死刑になるべき人間から賄賂をとって助命し、軍隊につぎ込まれた資金の一部を私物化した。
ウヴラールという政商、御用商人、当時は、フル二スール・オー・ザルメー(軍隊に対する供給者)といわれたものだが、これと組んだ腐敗汚職もひどいものであった。さらに、毎日のように繰り返される夜の豪遊が有名になった。自分が愛人にした貴婦人を、妊娠中に、この御用商人に下げ渡したというのも話題になった。「背徳」という字がついて語られる人物であった。
ロベスピエールが公務員の腐敗粛清を主張した時、このバラスは真っ先に該当するものであった。そこで、テルミドールの反革命の日、ロベスピエールが市会議事堂にこもり、ジャコバンクラブの群衆に守られていた時、少数の兵力を動員して、群衆をすり抜け、急襲を加えてロベスピエールを銃撃した。これでジャコバンクラブは全滅した。
こうなると、バラスは二度の勝利を実現したものとして、最高の英雄になった。その延長として、総裁政府の事実上のトップになり、「バラスの王」といわれた。ナポレオンのクーデターによってその職を追われるが、巨万の富はそのままであった。彼の相棒のウヴラールはナポレオンの下でもビジネスを続けた。ナポレオンが失脚しても、妻が貴婦人であるから、バラスの子供を育てながら、ブルジョア的貴族として社会の上層にとどまった。
バラスを基準にしてみると、フランス革命とはこの程度のものであったのかとも思われる。旧体制、アンシャン・レジームとは、バラスが頭をたたいた海軍大臣(大貴族)が国王直属で支配する社会、新時代は、旧体制の変わり者、時代劇でいうと旗本退屈男のようなものが、商人、日本の町人、を引き立てて、新時代の支配者になる。
この子孫が現代でも、ブルジョア的貴族、貴族的ブルジョアとして支配者の集団を形成している。このことは日本人のほとんどが知らない。しかしこれが事実なのであるから、これを基準にして明治維新と比較するべきであると私は言う。
ただ、バラスはいかにも不道徳であるから、だれもこの人物について語りたくないのである。そういうことも歴史解釈をゆがめてしまう理由になるのかもしれない。これを思うとため息が出る。



2018年4月20日金曜日

国民公会の中間派に注目するべきである、これこそフランス革命の万年与党

このようにはっきりと声を上げたのは、私が初めてであります。それも、約60年前のことです。当時は、ジロンド派対ジャコバン派の対立、これが学問の世界と文学、小説の世界で花盛りでした。社会科学の分野では、ジロンド派がブルジョアジー、ジャコバン派が中小ブルジョアジーまたはその下、を代表すると定義されていた。
しかしこれではジロンド派が没落し、次にジャコバン派が粛清され、何も残らないではないか。それはナンセンスだ。そこで、間に中間派があったと言い出した。それは正しい。しかし扱いがよくなかった。この集団を能動的なものとみなさず、極めて受動的な、ろくでもない集団のように扱った。実際に、革命の当事者が、「沼の蛙」といった。バカにしていたわけです。
正確な状態を言いましょう。小高い議席に陣取ったのが、いわゆる「ジロンド派」であった。約160名、当時は今のような政党があったのではない。なんとなく気の合いそうなものたちがまとまっただけ、「党員数が何名」と数えるような時代ではない。だから約です。
いわゆるジャコバン派、正確には「モンタニヤール」は反対側の高い議席に陣取った。低いところから見れば「山」に見える。当時は「あだ名」をつけることが盛んで、山をモンターニュといったのです。これが約150名。反対派とほぼ同数です。
真ん中の低いところに、約400人が座った。そこでこれを「平原」プレーヌと呼んだ。もう一つ、マレつまり沼とも呼んだ。そこで日本語に翻訳するとき、平原派、沼沢派ともいう。ここに一つの誤解の種がある。派をつけて呼ぶと、意見が一致しているかのように思える。実は意見がばらばらで、一人一党主義、是々非々主義、日和見主義、ご都合主義、順応主義なんでもあるわけです。
そこで数は多いがまとまりがない、強い方になびく、ろくでもない群衆というので、蛙などと呼んだ人もいる。長らく歴史家もそのようにみていて、大したものではないという書き方をしていた。果たしてそうかと思いだしたのが私です。
国民公会の議事録を読んでいた時のこと、意外に平原派議員の発言が多い。発言内容もなかなか勇敢なものもある。さらに、いわゆる「ジャコバン派独裁」の時代に、財政委員会議長カンボン、同委員にカンバセレスを出し、しかもこの委員会は独立していて、公安委員会とは対等であることを知った。なーんだ、財務省、大蔵省を平原派がとっているじゃないか、「これでジャコバン派独裁といえるのか」、こうはっきり思い、それを世間に発表したのは私が初めてです。
さらにカンバセレスに注目し、彼が第二統領として、ナポレオン法典の実質的な責任者であり、革命前から大工業の所有者県経営者、法服貴族であったことを突き止めました。これすなわち、フランス革命の万年与党ではないか。
何処まで行っても、フランス革命はブルジョアジーの革命であり、かつ貴族の政治家、官僚の協力を伴う、このような解釈と観察眼をもって、我が国の明治維新を見るべきだはないか、そうすると、明治維新がフランス革命と同じものだということができるのです。

2018年4月19日木曜日

いわゆるジャコバン派がジャコバンクラブと対立して消滅させた

これはショッキングな見出しで、著者が狂ったのではないかと思うだろう。しかし正しいのである。もちろん条件があって、昔の教科書の書き方ならばというものです。つまり、ジロンド派対ジャコバン派の対立でフランス革命を展開するならばということです。
実際はモンタニヤールですよね。これを昔はジャコバン派と呼んでいたのです。さて、ジャコバンクラブは、モンタニヤールを支持していたと前回は書きました。これは間違いではないのですが、これを支持母体として固定的にとらえてはいけないということなのです。確かに支持母体ではあった。しかし、それはモンタニヤールが野党的存在で、権力に到達しえないときのことであったのです。
その時はいわゆるジロンド派がジャコバンクラブから脱退している。なぜか、権力をとり、すぐに腐敗、汚職が始まったためです。そこをジャコバンクラブで追及されたので、脱退した。ということは、ジャコバンクラブは腐敗、汚職、権力乱用に厳しいということであった。スクリュタン・エピラトワールというものがあった。清潔にするための投票というものであり、粛清投票といってよいが、今は粛清という言葉が、上が下を排除するために使う傾向があるので、そうではないという意味でこれは使わない。キリスト教にはピユューリタンの伝統があり、清廉潔白に生活をしようという伝統がある。こういう趣旨だと思えばよい。
他方で、権力をとったものは、とにかく腐敗をしたがった。今まで控えめに、つましく暮らしていても、権力機構に入ると、一日で人柄が変わる。フランス革命でもこの実例は多かった。ということは、モンタニヤールの議員も、権力と取ってからは、いわゆるジロンド派、その前のフイヤン派議員と同じことを始めたのである。
これにジャコバンクラブの多数が失望と怒りを表明した。対立がぎりぎりになった段階では、モンタニヤールの議員が釈明に来た時、「ギロチンへ」という叫び声を浴びせられた退場した。この時、ジャコバンクラブはロベスピエール派約10人だけを支持する団体に変わっていた。そこで対立は、国民公会対パリのジャコバンクラブとなり、モンタニヤールはジャコバンクラブを全滅させることに奮闘したのである。これがテルミドールの反革命であった。

2018年4月18日水曜日

ジャコバン派は国民公会に存在しない

ジロンド派対ジャコバン派の対立で、フランス革命を説明することが当然のように行われてきました。しかし国民公会の中にジャコバン派という団体は存在しない。だから出発点において、従来のフランス革命史は間違っていたのです。
ジャコバンクラブはフイヤンクラブ、コルドリエクラブとともに存在した。1792年8月10日に事件で、フイヤンクラブは消滅した。ジャコバンクラブは全国的な組織として活動した。しかしいわゆるジロンド派政権が成立したのち、ジャコバンクラブの性格が急速に変化した。10月10日、ジャコバンクラブの議長はぺチヨンであり、彼はジロンド派の議員であった。10月12日ブリッソがジャコバンクラブから除名された。これ以後脱退するものが相次いだ。こうして、いわゆるジロンド派議員はジャコバンクラブからいなくなった。国民公会召集の22日後の事であった。
ジャコバンクラブに所属しながら、国民公会の議員であったものは、議事堂の端の小高い場所に集まった。当時はあだ名をつけることがはやっていたので、彼らのことを「山」に住んでいるという意味で「モンターニュ」と呼んだ。英語でいえば、マウンテンとなる。そこで、モンタニヤールとも呼ばれた。日本語では「山岳派」となる。どれを使うべきか、常に迷うところであるが、ここではモンタニヤールにしておきましょう。
ジャコバンクラブはこれを支持したけれども、今の政党政治でのように常に一致していたというわけではない。有力議員の中には、ジャコバンクラブに行ったことがないという人もいた。
だから国民公会の中の対立は、いわゆるジロンド派対モンタニヤールの対立であり、ジャコバンクラブは院外団体で、全国組織を持ちながら緩やかな形でモンタニヤールを支持していたというべきである。
ジャコバンクラブでは粛清投票というものがあった。腐敗、汚職の疑いがあると告発される。それについて、投票が行われる。これを嫌がって、いわゆるジロンド派が脱退した。フランス革命は素晴らしいものと思われているが、同時に贈収賄が多かったことも事実であり、「腐敗しないであろう人」はロベスピエールだけと思われていたので、このフランス語を頭文字大文字にすると、彼のあだ名になった。それくらい、疑いは多くの人にかけられていた。
約一年間、「清濁併せ呑む」と言う感じの団体で推移し、最終的にロベスピエール一人を信頼する団体になったとき、テルミドールの反革命で、ジャコバンクラブも全滅する。世界史的にみても、清廉潔白の代表者は、西郷隆盛、スイスのカルヴァン(カルヴィン)イギリスのクロムウエルくらいになるのだろう。
モンタニヤールは、中規模の事業者、地方の中小商人、パリなどの親方、工房の主人、豊かな自営業者などの利益代表者であった。

国民公会の党派、ジロンド派対ジャコバン派で説明するのは古くて、間違い

ヴァルミーの会戦、9月20日、この日に国民公会が招集された。これが新しい権力機関になる。今まで暴れまわったパリ・コミューンは、国民代表に従うと表明した。マラーは,これ以後新しいコースをとると表明した。マラーとタリアンは議員に選出された。こうして今後約1年間は、国民公会が名実ともに最高の権力を握ることになった。
行政機関としての臨時行政会議は、国王を持たない内閣で、首相もない。それぞれの担当大臣が命令を出す。それを国民公会が黙認しているような状態であった。
その国民公会であるが、この説明が古くから、でたらめ極まるものになっていた。だからフランス革命が誤解される。それを今から一つ一つ解説していくが、これについてくるだけの頭をもつ人がどれだけいるのか、その点に私は自信がなくなるのである。つまり、高等数学を子供に分からせるようにしゃべる、しかしわからせる自信はないと、数学者は思うであろう。これと同じことである。本では書けないけれども、ネットだから書きました。何とか理解してくださることを期待します。
さて、古くから、ジロンド派対ジャコバン派の対立と書かれてきました。私が中学校の教科書で読んだのもこれです。しかしジロンド派という呼び名は正確ではない。これは、フランス革命から数十年たってからつけられた、あだ名のようなもので、フランス革命当時では、ブリッソの党派、ロランの党派、と呼ばれていた。この違いだけでどれだけのイメージが違ってくるか、これが問題です。ジロンドというと、ボルドーが中心、スペイン国境に近い大西洋側、ジロンド川をさかのぼったところにある。ワイン、ボルドー酒の輸出基地、豊かな貿易商人の多いところである。
彼らの代表者が選出されてきて、華々しく活躍したので、ジロンド派の名がついた。しかし実名を言うと、日本人は知らない人たちばかりです。日本人のフランス革命史家でも知りません。ジャンソネ、ヴェルニヨー、ガデ、グランジュヌーヴは弁護士またはそれの卵、ボワイエ・フォンフレード、デュコは本人達が大商人、大船主、繊維の大工場主であった。
しかしこれをもって全フランスの代表とするのは無理がある。地方の大商人ばかりだからである。また、銀行はどうなる。ボルドーに大銀行、これはないのである。やはりパリでなければならない。パリというと、ブリッソの党派となる。彼が銀行業界の代表者であることは、一般に認められている。しかも、スイスから来た銀行家のクラヴィエールが財務大臣になっている。
内務大臣ロラン・ド・ラ・プラチエールは法服貴族の父と、本来の貴族の母を持っていた。つまり、ブルジョア貴族と純粋貴族の融合であり、日本的にいうと、商人が「名字帯刀を許された」として、妻が純粋の武士で、その間に生まれたものということになる。ロランは領地も持つていた。旧体制の下でマニュファクチュア検査官の官職を持ち、そのまま新体制でもリヨン絹織物業界の代表者になっていた。パリの彫刻家の娘と結婚して、ロラン夫人のサロンは特に社交界で有名になった。各地から集まるいわゆるジロンド派議員が出入りした。
こう見てくると、固定的にジロンド派と呼ぶのは誤解を招くので、「いわゆるジロンド派」というのが正しいことになる。そして、その背景は、ブルジョアジーの本流といってよい。

2018年4月16日月曜日

小林良彰(歴史学者東大卒のフランス革命論)戦勝が征服型の市民革命をもたらした。

ヴァルミーの会戦以後、プロイセン軍はドイツ領に後退し、やがて帰国してしまった。フランスの義勇兵、正規軍、国民衛兵は、それぞれの地域で、国境の外へ進出した。大きな戦闘は、北方のジェマップの会戦で、オーストリアが大敗北をして撤退した。これでベルギーがフランスの領土に入った。中部では、マインツ、フランクフルト、などライン川沿いの重要都市を占領した。南部ではニースを含む地域を占領した。
予想外の成功に気をよくしたので、フランスの政府は11月19日諸国民の解放戦争を支持するとの声明を発表した。イギリスはオランダが危ないと感じてフランスと対立を深め、その結果として、1793年2月1日、フランスがイギリスに対して宣戦布告をした。
ただし、フランス内部においては、征服に対する賛否両論があった。これは党派に関係なく、両論があった。ジロンド派では、ブリッソ、クラヴィエールが好戦的、ラスルス、ルーヴェが反対、左派の山岳派、モンタニヤールではロベスピエールが反対した。ほどほどのところで止めておけというものであった。歴史を後から見れば、これが正しい。しかし、ダントンは拡大論者で、占領地で支配者を追放し、自由を実現するとした。ロベスピールとともに公安委員になったバレールは、敵国が一つ増えると、自由の勝利が一つ増えると演説し、熱狂のうちにスペインに対する宣戦布告を実現した。
これは革命の輸出であり、征服地に革命を実現することである。前時代の支配者が政権から追放され、ブルジョアジーが権力を握る。それをフランスが合併する。こういう形の市民各目もありうるということで、革命必ずしも反乱の形をとるものではないことを知っておくことが重要である。
これは何を言っているかというと、わが国の廃藩置県がこれに相当するというのである。フランスに相当するのが明治新政府、まだ旧幕府領だけを支配する、その他の大名領が、ライン川沿いの中小諸国の相当する。もし東北諸藩の連合を外国が応援した場合、例えば欧米諸国、もしくはロシアがそちらを応援したとする、実はこれはありうる話であったが、こういうことになると、まさにフランス対オーストリアの対立と同じになる。
西ドイツ諸国は中世封建制度と変わらない体制のもとにあり、近代的な統一国家を特っていなかった。フランス革命軍は小国家を各個撃破する形で進んだ。さらにフランクフルトのような都市国家があり、これらは抵抗することができない。
こうして、フランス革命軍の下で市民革命の政策が実施された。それに慣れたころ、フランスが敗北して、押し戻され、元の旧体制に戻る。ナポレオン支配下では、西ドイツ諸国はライン同盟にまとめられた。ナポレオンが敗北すると、プロイセン王国に合併される。市民革命から、絶対主義への逆戻りである。これが1815年から1848年の3月革命まで続く。3月革命でライン州プロイセンのブルジョアジーの影響力が強まり、プロイセンは市民革命の国になる。1871年その力でもって、他のドイツ諸国を強制的に合併して統一したドイツ帝国を作った。こういう形でドイツの市民革命は完成する。これがちょうど日本の廃藩置県の年と一致するのもまた、数奇な運命であるというべきだ。

2018年4月13日金曜日

ヴァルミーの会戦

「この日、この場所から、世界史の新しい時代が始まる」。これが、文豪ゲーテの書き残した言葉である。彼が、革命に賛成の人物であったのではないだけに、この文章には説得力がある。文学者らしい、鋭い観察眼のなせる業であった。
9月20日、ヴァルミーの丘で、両軍が対戦した。プロイセン軍はヴェルダンからさらに進んで、国境から3分の1くらいにまで達していた。ほとんど抵抗を受けずに前進してきた。ここで、プロイセン軍の司令官ブラウンシュヴァイヒ公爵は、奇妙な軍隊を見た。雑然としている。つまり義勇兵であった。ただし指揮官は貴族であった。しかし兵隊がばらばらであった。今日の言葉でいえばボランティアであるから、制服も整えられていないし、見たことも聞いたこともない軍隊ということになる。
当然一押しすれば崩れると思った。また、今までのフランス軍は、抵抗らしい抵抗はしていない。そこで前進命令を出し、いよいよ開戦となったとき、相手が鬨の声を上げて前進してきた。その様子を見て、この相手とぶつかると、血みどろの戦いになると予想した。そこで後退の命令を出した。フランス軍は、これをゆっくりと追撃していった。
この戦争は、こうして国境まで、ほとんど戦闘らしい戦闘をせずに追い出したことになる。それでも世界史的に有名なのは、ゲーテの言葉通りである。ただし、「庶民の軍隊が貴族の軍隊に勝った」という通説を妄信してはいけない。義勇兵はブルジョアの、即席の、その場しのぎの軍隊であった。指揮官には貴族がなった。これは重要で、兵隊には戦闘経験がなかったからである。
勝った理由にはまだ多くの条件がある。将軍の多くが逃亡、亡命し、そのあとを戦う気のある将軍、将校が埋めたことがある。ナポレオン・ボナパルトもこうした条件の下で少しずつ昇進していった。
国王夫妻が投獄され、作戦計画がオーストリア側にもれなくなったこともある。
プロイセン軍の兵士がブドウ畑からブドウをとって食べたため、赤痢がはやり、ゲーテもかかり、戦争どころでなくなったことも響いた。
プロイセンがオーストリアほどこの戦争に熱心ではなかったことも影響している。
このあたりの地形が騎兵軍団の突撃にむいていなかったことも義勇兵にとって有利であった。義勇兵は歩兵中心、。馬術の訓練には時間がかかる。だから、この時両者の軍隊の速度は極めてゆっくりしたものになった。

2018年4月11日水曜日

9月2日の虐殺に関与した銀行家パーシュ

この人物の役割を取り上げるのは、私一人です。まず事件の概要から。王権は転覆、立法議会は解散、国民公会の選挙は、選挙運動のさなか、臨時行政会議は仮の政府、極端にいえばこの時のフランスは無政府状態でありました。しかしプロイセン軍はますます前進している。
9月2日、ヴェルダンが包囲された。ここは国境の重要都市、パリから約200キロメートル離れている。もうすぐパリ攻撃が始まる。占領地では、人馬の死体があふれ、川や井戸に投げ込んでいるという。亡命貴族が一緒に帰ってきて、革命派の処罰、領主権の徴収をすると宣言した。パリは恐慌状態になった。ジロンド派の一部はパリ退却案を口にした。しかしパリを死守するという意見が勝った。この時のダントンの演説が有名になった。「1にも勇気、2にも勇気、3にも勇気だ」。
これでダントンは救国の英雄になったが、マラーは不十分と見た。防衛戦をしているときに、内部で王党派の反乱を起こされては勝ち目がない。しかもこれらの人物は身分の高い影響力の強い人たちである。ヴェルサイユ城ではトップクラスで知名度も高い人たちであった。プロイセン軍の接近に合わせて革命政府を攻撃するであろう。しかも貴族であるから武術、格闘術には優れている。
マラーはパリ・コミューンの監視委員会に入って、約3000人のこれら反革命容疑者を処刑してから、敵国との戦争に出発するべきだと主張した。この時、事実上のパリ市議会であったパリ・コミューンが唯一の権力機関になってたという状態が、マラーの主張を実現することになった。パリ市民と義勇兵が協力して、約半分の反革命容疑者を殺した。この殺害を象徴するものが、ランバル公爵夫人(王妃付き女官長)の虐殺であった。
この事件が、フランス革命におけるテロリズムの始まりとされる。マラーがテロリストの元祖のように言われる。ここまではその通りであるが、マラーの資金源はどうなっているか。これを問題にした人は日本にはいない。
スイス人銀行家のパーシュであった。マラーもスイス人であった。マラーはイギリスで医学を学び、国王の弟アルトワ伯爵の侍医を務めていた。国際派であり、インテリで科学者であった。しかしフランス革命直前から革命運動をはじめ、コルドリエクラブに参加し、貧民に大きな影響力を持った。9月2日の虐殺を指導して有名になったタリアン、マイヤールなどとともに、このパーシュの取り巻きになった。そのおかげで急に豊かな生活を始めるようになった。
パーシュはその後パリ市長となり、のちの恐怖政治の時期に「パパ・パーシュ」といわれて貧民の間で人気を得ていた。あまり詳しくは書けないけれども、スイス人銀行家はフランス革命の全期間にわたって、大きな影響を与えた。ネッケル、クラヴィエール、パーシュ、ペルゴであり、これを見ると、フランス革命はどこまで行ってもブルジョアの革命であったという思いがするのである。

2018年4月8日日曜日

マラー、ダントン、ロベスピエールの役割

昔はマラー、やがてマラになった。それはともかく、この3人がフランス革命を代表する巨頭とされた来た。私が最後の旧制一高を受験した時も、この問題が出されていた。世界史の教科書には必ず出ていた。
そのうち、マラがまず消えた。次にダントンが消え、今ロベスピエールが消えようとしている。オールドジェネレーションとしては寂しい限りではあるが、それなりの理由があるのだろうし、又あるようにも思う。そこで消え去る前に、その役割を明確にしておこうと思う。
フランス革命の発生について、この3人が決定的な役割を持ったのかというとそうではない。この3人がいなくてもフランス革命は起きている。その点、日本革命・明治維新は、西郷隆盛なしには違った進行になっただろうとは、だれもが考える。つまり、決定的な役割を持っていた。西郷隆盛に相当する人物といえば、フランス革命ではラファイエット侯爵であろう。それでも、ラファイエット侯爵が計画して、あらかじめ勝つようにもっていったというものではない。むしろ担がれたといってよい。
さて、ラファイエットを頂点にして、フランス革命政府は市民革命としての成果を確定した。指導権はフイヤンクラブにあった。これで3年間は過ぎた。野党のジャコバンクラブはまだ勝てない。そのジャコバンクラブにおいても、まだダントン、ロベスピエールはほとんど目立たない状態であった。華々しく活躍したのは、のちにジロンド派と呼ばれるようになった集団であった。マラはさらに野党的なコルドリエクラブを足場とし、選挙権も与えられなかった貧しい地区の住民に同情的な論陣を張っていた。
この野党の野党のような人物が急浮上するのは、オーストリア・プロイセン軍の侵入、敗戦、パリ破壊の宣言という極めて例外的な条件によるものであった。この時パリを守りながら戦争に勝ちたいとするならば、この3人の路線が生きてくる。もう一つは地方都市に退去する案であったが、これは採用されなかった。
そうすると、貧民と掻き立て、選挙権を与え、総力戦に持ち込む以外にない。この道を3人が進み、王権を転覆した。そうすると、国王の行政権の独立が消滅した。拒否権も消滅した。これが重要なところ、領主権の無償廃止、亡命貴族財産の募集売却という政策は、国王の拒否権にあって、効力が停止されている。加えて立法議会ではフイヤン派がわずかにではあるが優勢になりかかっている。再決議でひっくり返されるかもしれない。この時に王権停止が実現した。代わって臨時行政会議が、新内閣となり、それを立法議会が承認した。ほぼジロンド派で固められており、ダントンが法務大臣になった。国王の拒否権は無効とされ、領主権の無償廃止は実行された。
こう見てくると、領主権の無償廃止は、作成までをジロンド派が推進し、実行段階をマラー、ダントン、ロベスピエールが推進したというべきことになる。だからこの3人の役割は大きいであるが、領主権廃止の役割がたいしたものではないとなると、この3人の役割も小さくなるので、歴史書から消えるのかなと思っている。

2018年4月7日土曜日

チュイルリー宮殿襲撃事件の真相

1792年8月10日、チュイルリー宮殿襲撃事件が起きた。その結果、王政廃止、共和国宣言、国王夫妻の投獄、立法議会の解散、普通選挙制に基づく国民公会の選出が実現した。
このような劇的な変化が起きるための伏線が、敗戦と領主権無償廃止の政策によるものであることは詳しく述べた。立法議会の右派がフイヤンクラブに支持されて、左派がジャコバンクラブに支持されている。中間派が左右に揺れている。大詰めを迎えた時、だまし討ちのような形で、領主権の無償廃止が可決された。フイヤンクラブは怒った。ラファイエット将軍は前線から離れてパリに帰り、抗議活動を行った。これを反対派は、将軍の戦線離脱だと批判した。確かに、これでは、フランス軍はますます負ける。
他方で、全国から義勇兵が出発していた。マルセイユ連盟兵が中心であった。ヴォロンテールというが、英語ではヴォランティアのことである。若者が武器弾薬を親から買い与えられてきた。貧しい若者は、その地区の献金を受けて、武器、旅費を整えた。義勇兵の実態は、地方ブルジョアジーの私兵、傭兵に相当し、それが首都の防衛にあたることになった。しかし、国王ルイ16世は、義勇兵のパリ駐屯を認めなかった。国民衛兵が反対していた。これは、ラファイエット、フイヤンクラブの影響下にある。立法議会が急遽宿を用意した。
6月13日、国王は左派系の大臣を罷免した。代わって、フイヤン派系の大臣を任命した。話は前後するが、領主権の無償廃止はこの翌日に可決された。
7月6日、プロイセン軍が国境に近づいた。7月10日、フイヤン派の大臣が罷免された。7がつ11日、立法議会が「祖国は危機にあり」という有名な宣言を出した。7月13日、義勇兵の招集が正式に発表され、国王が拒否し、その拒否を無視して議会が呼びかけるという形で、国王の行政権と議会の立法権の対立が激化した。
7月25日前にも書いたが、パリを破壊するという宣言が出された。7月30日までに、義勇兵が集まってきた。しかし国王に拒否され、宿舎はないよという扱いを受けた。8月8日ラファイエット将軍がフイヤン派を代表してパリに帰ってきたことを非難する決議案に対して、最終的に決着がつき、戦線離脱を許すということになった。
これは重大なことで、立法議会もフイヤン派に対する支持者が多数派になったということを意味する。これで、左派、ジャコバンクラブ系は策を失った。行政権も立法権も、フイヤンクラブに握られた。議会の言論で勝つ見込みはない。フイヤン派に従っていて、戦争に勝てるのか。将軍にフイヤン派が多いが、フランス軍が負けてばかりいるので信用ができない。
実はここに今一つ敗戦についての問題があった。王妃マリー・アントアネットが国王から聞いた作戦計画の内容を、スイス経由で、兄のオ-ストリア皇帝に知らせていた。これでは、常に不意打ちとなり、フランス軍は意表を突かれる。こんな戦争で勝てるわけはない。このことはずっと後になってわかるのだが、この時は分からず、これも将軍のせいだと思われていた。
ジャコバンクラブ系の指導者(のちにジロンド派と呼ばれるもの)も意見が分かれて、地方都市に後退して、外国軍との長期戦に持ち込もうというもの、パリに残って徹底抗戦をするというものに分かれた。
この混迷の中で、今まで少数派の扱いを受けていた人物がにわかに浮上してきた。ロベスピエールが武装蜂起を主張した。ダントンが雄弁をふるい、「一にも勇気…」といって、士気を鼓舞した。マラは、コルドリエクラブ(入会金の安い庶民的な団体)を動かして、国王に対する抗議活動に行こうと提案した。パリが破壊されることを恐れた住民の多くがこの運動に合流した。
8月9日の夜パリに警鐘が鳴り響き、群衆が集まってきた。義勇兵とともにチュイルリー宮殿に押し寄せた。宮殿にはスイス人傭兵隊とともに、この服だけを着用した貴族軍人の集団が待ち構えていた。はじめ門を開けて、友好的な態度を示した。距離を縮めた時、一斉射撃があり、400人ばかりが死んだ。これであとは血みどろの戦いとなり、宮殿側は全滅した。現在この場所には庭園があるだけで、建物は残っていない。国王は脱出して議会に保護された。

2018年4月4日水曜日

小林良彰東大卒のフランス革命論 地主所有地の比率は日・仏両国でほぼ同じ

地主所有地の比率はどれくらいか、裏返すと、自作農創設という政策がどこまで功を奏していたのか。「フランス革命では自作農が大量に作られたので、これがボナパルテイズムの基礎になった、つまりナポレオン3世の政権基盤になった」といいう学説が広く普及した。マルクスの名著といわれる「ルイ・ボナパルトのブリューメール18日」がその原点のようになっている。
こういう学問がまず日本に入ってきたので、日本人は、フランス社会はそのようなものであろうと思っている。その尺度で戦前の日本を見る。すると、地主所有地が約半分、自作農民の土地所有が約半分となる。「地主所有地が多いではないか」、「フランスとは違う」、「この地主が約半分の小作料をとる」、「取りすぎではないか」、「これでは封建社会と同じだ」、このような義憤から出発した学問が、戦前戦後の経済学の主流をなした。
その代表的な著作が、山田盛太郎(東京大学経済学部教授)著『日本資本主義分析』岩波書店であり、ここでは日本の地主制度がいかに半封建的、農奴主的なものであるかが詳しく論じられていた。私が入学したころ、東京大学では経済学部の学生たちが、この本をバイブルのように扱っていた。また経済史学会にも圧倒的な影響力があり、この学説に沿って「土地制度史学会」という独立した学会ができた。ここに所属していれば、学者としての夢と希望があるという雰囲気があった。私も経済学部の友人を通じてその影響を受けた。多くの若い研究者が、各地の古文書を調べて、地主制についての論文を書いた。
ところがである。これは、フランス革命以後、自作農が圧倒的に多くなったという暗黙の前提があって成り立つ理論であった。「果たしてそうか」と疑問を出すものは一人もいなかった。当時、講座派対労農派の論争といって、二大流派が対立し、明治維新が市民革命かそれとも絶対主義を作ったものかについて論争していた。ところが、どちらの陣営もこの点についての疑問を出すことはなかった。
そこに私が口を出し始めたのである。フランス革命直後でも、地主制は残っている。その比率は約半々、小作料率も約半々、つまり戦前の日本社会と同じということになる。これは多くのフランスの研究者が実証的に導き出した結論であった。もちろん、フランスの学者はフランスの事実だけを書くのみで、それが他国の歴史解釈にどう影響するかは、関心を持たない。実証的研究を評価されて、博士号を取り、教授への道を進む。
しかし、日本でこの事実を紹介するものは大変であった。学会の異端児、悪くすれば追放、こういう危険があった。そういう無謀なことを私はしたのであった。多数の研究者の結論を紹介した。全員同じ意見であった。このフランスで当然のことになった意見を、日本の学者はなかなか受け入れない。
正しい結論を書こう。フランス革命の結果、地主制の土地と自作農の土地は約半々として続き、小作料も約半々であった。戦前の日本でも、地主制の土地と自作農の土地は約半々で、小作料率も約半々であった。つまりほぼ同じ条件の下にあり、取り立てて日本が遅れているというものではなかった。
なお、日本では、明治維新直後は、約3割の土地が地主所有地で、残りが自作農のものであった。それが、戦前の約5割に上昇した。フランスでは、フランス革命直後でも約5割のままであった。
またもう一つの違いを。フランスでは地主に3種類がある。貴族地主、ブルジョア地主、農民身分の地主である。この分類で行けば、日本の地主はほとんど農民身分の地主になる。
貴族地主にも2種類がある。領主直領地がそのまま本人に残る場合、フランス革命以前の大領主の領地の一角に下級貴族が土地を持っていた場合、である。後者は領主権廃止によって得をした貴族である。このような複雑な相違があるとしても、フランスだけが特別に自作農を多く持つという理論は、空想の産物であった。マルクスのボナパルテイズム論も間違いだということです。今なおこれを信じている人が多いので、一言付け加えておきます。

2018年4月2日月曜日

亡命貴族財産の国有化、売却は土地革命にならない。

土地革命を巡る論争の中で、領主権廃止が土地革命にならないと私が証明すると、相手は「ならば亡命貴族の財産没収はどうだ」と反論する。何十人かの学者相手にこれをやってきた。だから、今度はこれを扱う必要がある。
オーストリア・プロイセン連合軍が侵入してくる。こうなるように頼み込んだのは、亡命貴族の一団で、革命前の最高権力者の集団であった。大貴族、大領主の頂点に立っていたものである。フランスの革命政府の側は、この戦争に要する戦費を、責任者の亡命貴族に支払わせる必要があるとの理由で、彼らの財産を没収し、売却することにした。ここで重要なことは、あくまでお金に換えるということで、ただで誰かに渡すという目的があったのではない。
だからこれは常に入札、競売の方法で売却し、売上代金を国庫に入れた。手続きは地方公共団体が行った。はじめは一括売却、難しいときは分割売却、これで競り落としていくのであるが、ここに土地を持たない貧民が参入して落札することができるかどうかである。それはあり得ない。買い取っていくのは金持ちに決まっている。これをもって、自作農の創設というのはナンセンスであろう。新しく、金持ちの大土地所有者を作り出しただけのことである。
1年後の1793年、細分競売という方針が実現した。以前よりは自作農創設に近い。しかしあくまでも競売であるから、金持ちが競り落とすことが多い。貧民にはそもそも金がない。
この年の後半、土地購入の証券を貧民に与えるという法令が出た。この証券を持って競売に参加せよというものであった。良い方法に見えるが、あくまでも競売であるから、自作農が常に創設されたというものではない。貧民の中に不満が鬱積した。
こうしてさいごに、いきつくものが来た。1794年ロベスピエール派が残った土地を「貧しい愛国者に無償で与える」という法令を可決させた。ヴァントウーズ法という。これが実行されたら、土地革命になったであろう。しかしこれは実行段階で、公安委員会の多数からも抵抗された。財政委員会議長カンボンは財政収入にならないという理由で大反対した。
対立の行く先は、テルミドールの反革命で、ロベスピエール派は失脚し、この法案は消滅した。つまりは、土地革命は起こらなかった。
領主権無償廃止も、亡命貴族財産の没収売却も、自作農創設を目標としたものではない。
フランス革命では土地革命は行われていない、これが最終的結論である。百数十年間、世界中の学者がこれを信じ込んできたのであるが、マルクス、エンゲルス、レーニン、毛沢東などもこれを信じてきたのであるが、この倒錯の歴史観はいったい何であったのか、不思議に思う。

2018年4月1日日曜日

明治維新は西郷と俺でやったようなものだと勝海舟は言うが?

これはよく議論の的になる言葉ではあるが、確かに重大な歴史観の問題を含んでいる。勝海舟が誇るべき業績とは、江戸城の無血開城、将軍慶喜に対する寛大処分、大政奉還に対する知恵、さらにはそれ以前の西郷に対する助言などであろう。確かに西郷は、いざというときには「この勝先生と、ひどくほれ込み申し候」と書いている。様々な貴重な助言をもらったことをうかがわせる。立派な人物であり、幕府の欠点もよく承知している。「かの国のことを一言で言え」といわれて、「その地位にいる人はそれなりの人物であるが、我が国ではそうではない」と言い、老中に「控えおろう」と叱られたという。亜米利加のことである。
立場が違えば、確かに何事かを成し遂げたかもしれぬが、惜しいかな幕臣の枠を超えられなかった。生まれがそうだから仕方がない。旗本の下、御家人を含めた幕臣の中では中級の武士、この枠からは出られない。
大政奉還に対する功績は、坂本龍馬を通じてあり得ただろうが、ここで止まれば明治維新はない。将軍家は諸大名会議の議長、その足元には、上級旗本がピラミッド型に控えている。勝海舟はその末端くらいのものだ。大奥はそのまま、譜代大名の発言力もそのままとなる。これでは、何も変わらない。
そこで、薩摩から、辞官、納地が主張された。これこそが革命になる。であるがゆえに、幕府の側も大軍を集めて、京都を占領しようとした。しかし、勝海舟はどちらの側に立つのか。幕府の領地がすべて新政府に差し出されたら、彼の収入もなくなる。これが因果関係というもの、もろ手を挙げて賛成とはいかないだろう。
幕府の側は、薩・長の連合軍の三倍の兵力を持っていた。負けるとは決まっていない。むしろ逆であった。もし勝っていたら、安政の大獄が待っていたはずだ。だから、明治維新の基本は、鳥羽・伏見の戦いにあった。これで勝ったから明治維新があり、負けると安政の大獄になる。
これを勝つようにもっていった人物は、西郷隆盛をおいて見当たらない。薩摩の戦力、長州との同盟、三井の資金力の保証、これに加えて、江戸における騒乱を掻き立て、早期開戦に誘導したこと。この四つの重大な役割は、西郷隆盛が担っていた。朝廷、公家衆に対する工作だけは、大久保利通が担当した。ここに勝海舟の役割はない。
決定的瞬間には、勝海舟はお役御免で江戸にいた。将軍が逃げ帰り、敗残の兵が集まってくる中で、対決か恭順かの議論が江戸城の大会議で行われた。ここで、降伏と決めた。この時、勝海舟の個人的役割は決定的なのもではなかった。残務整理には大いに尽力した。徳川家の存続には、山岡鉄舟の役割も大きい。勝海舟一人の功績ではない。こう見てくると、明治維新の功績としては、西郷隆盛のほどのものにはならない。

領主権廃止は自作農を創設したものではない

ともかくフランス革命で領主権は無償で廃止された。それが、従来は、つまり私が言うまでは、1793年だとされていたが、正しくは1792年のことであった。
さて、両主権が廃止されると、自作農が創設されたことになる。これが従来の学説であった。フランスでは、革命によって、大量の自作農が創設された。これは全世界的に承認された学説であった。こういうものを土地革命という。「我が国にも土地革命を」、「あの国には土地革命があったかなかったか」、こういうことが議論されたものである。
本当にそうか。私は研究しているうちに疑問を感じ始めた。というのは、フランスの研究者が実証的に研究した結果、その逆の結論を出していたからであった。この時期、だれもが、自作農創設の理論を実証することに学問的情熱を傾けた。特定の地域の土地台帳を調べ上げ、どれだけの自作農が作り出されたかを実証する。やってみると逆の結果が出る。思ったほどの自作農が作り出されていないという。フランスは実証主義の国、事実が理論にあわないと、事実を優先する。大多数の学者の結論がこうなった。ごく一部の学者が、「それでも自作農は創設された」と事実からは飛び離れて、「理論ありき」の結論を発表をした。
その両方の学説が、戦後の日本にどっと持ち込まれた。日本のフランス革命史家はまず全員、今までの理論に合わせて事実だけを自分の都合の良いように紹介して、フランスの研究者の名前だけを利用して、「つまりこのように自作農の大群が作り出された」というような結論をを書いていた。はっきり言うと、「インチキ極まりない引用の仕方」であった。
私は、事実を調べて見ると、「どうも違う」という意見が多いのだから、理論を優先するか、事実、実験の結果を優先するかといえば、残念ながら実験の結果を優先せざるを得ないだろうという、自然科学の態度を堅持するべきであろうと考えた。
実は私は理科から文転してきた人物で、他の研究者が文科系オリジナルであるのとでは気質が違うことを痛感していたのであります。そこで、私はこの文章を書きながらも、理科系で、社会科学に興味を持つという人たちに期待をかけているのです。これが私の本音です。
さて、そこで事実を優先すると、以下のようになります。一つの領地があるとする。城の周りの直領地、馬で走り回れる場所、これが約半分とする。その外側に、領民に貸している保有地がある。その保有地の封建貢租がかけられている。これを領主権という。収入の約一割程度。これに加えて、不動産売買税があるけれども、これは売らなければかからないから、今は論外とする。この領主権が無償で廃止された。これをもって、自作農の創設といえるかどうか。「言えないでしょう」。ただ負担が軽くなっただけでしょう。自作農の創設というのは、昔は土地持ちでなかったが、今は生活できるだけの土地を持てるようになった人たちが大量にできたということです。そういう土地所有権の移動という現象は起こっていないのです。これを冷徹にみることなしに、感覚的に理論だけを優先させる、こういうやり方は非科学的だといわざるを得ません。

2018年3月27日火曜日

領主権の無償廃止でも貴族は大地主として残る

領主権の無償廃止はロランの党派(のちのジロンド派)が推進したことを説明したが、そこに貴族が多数参加していたことも紹介した。当然、日本人のほとんどの人から、「自分が破滅する政策に、貴族がどうして参加するのか」という質問が出される。「無償廃止なら、明日からは無一文、無収入のはず」、「貧民への転落が待っている」、「命がけでこれに抵抗するはず」、にもかかわらず積極的賛成、これは何かである。
日本人は領主権といえば、幕藩体制の領主権を思い出す。それぞれの藩で領主権は藩主一人に集約されている。いわば領主権の共有、「社会主義的領地所有」である。この状態で領主権が無償で廃止されると、それにぶら下がっている集団は一気に貧民となる。そこでずいぶん思い切った政策をするものだと感心する。日本では有償廃止であったから、日本は妥協的、フランスは徹底的という図式が出来上がった。
しかし、そもそもの前提条件が違うので、フランスの領主権は個人所有であり、しかもその個人所有の領地の中に、領主権に服している土地と、服していない土地があり、領主権の無償廃止は前者についてのみ行われ、後者については関係がなかったのである。
これでもまだ何を言っているのかわからぬといわれるだろう。城、館の周りに大きな土地がある。貴族は馬に乗って門から走り出て、全力疾走する。そこはすべて自分の土地である。ド・ゴール元大統領は、一日中走り回っても自分の土地だといっていた。はるか彼方に集落があり、そこには耕地が広がっている。そこまでの土地が貴族の直領地で、これは個人の所有地であり、領主権に服すはずのものではない。だから、無償廃止の影響は受けない。
つまり、たとえて言えば、無一文にならず、「財産半減」になるのである。それでも良いと覚悟を決めた。なぜなら、外国軍が侵入してくる。すべてを失うかもしれない。命すら危ない。今、領民と対立している暇はない。これが決断であった。戦争が終わってみると、それでもまだ貴族が多額納税者に名を連ねるという状態であった。
ブロイ公爵の子孫は、代々村の村長で、20世紀に入ってもそれが変わらない。村一番大地主だからである。ある伯爵はブドウの栽培、ワイン醸造と家業とし、地下にトンネルを掘って貯蔵庫とし、その長さは東京横浜間に相当するとテレビ解説者が言っていた。大屋政子という日本の女性が、ある伯爵から土地を買い、そこでゴルフをしながら、遠くの海岸線まで自分の土地になったといっていた。これもテレビであるが、こういう直領地の実態は、シャーロック・ホームズ、ポワロ、アガサ・クリスティーなど多くの映画で、今の日本人なら見ているはずである。
だから今なら、これを素直り理解してもらえると思う。

2018年3月26日月曜日

領主権無償廃止はジロンド派の功績

前回領主権の無償廃止に至る過程を、立法議会の議事録に従って解説し、賛否はほぼ互角、若干フイヤン派の優勢、すなわち無償廃止論者の劣勢、であったところ、相手側が安心して退出した時、審議続行して可決してしまったことを説明しました。この出所は、小林良彰著『フランス革命史入門』、『フランス革命経済史研究』、『フランス革命の経済構造』です。
これが正しい史実であって、一年後の1793年の「封建貢租徴収の禁止令」は外国軍の占領地で、亡命貴族が帰国して、昔通りの貢租徴収をしたことについて、禁止を徹底したものであった。この時に、ジロンド派が領主権を守ろうとして奮闘したという記録はない。ジロンド派が守ろうとして失敗した政策は別にある。
くどいようだが、もう一度確認すると、領主権の無償廃止はジロンド派が推進したものであり、当時は彼らがジャコバンクラブの指導権を握っていて、「ロランの党派、ブリッソの党派」と呼ばれていた。ブリッソはパリ銀行業界の代弁者だと思われていたから、内務大臣ロラン、外務大臣ブリッソ、これに銀行家クラヴィエールの財務大臣を加えると、ジロンド派政権はブルジョージーのむき出しの権力と思われていた。このブルジョア政権が「領主権の無償廃止」を実現した。
このようにいうと、多くの社会科学の学者が、自分の足元が崩れていくことを感じるのだ。あるものは黙り込み、不機嫌になり、ヒステリックな反論をした。無視、絶縁、排除の試みもあった。世界的な誤解を正すのだから、、それくらいのリスクはある。
さてここにまだ続きがある。ジロンド派の政策に賛成の貴族もいたという事実である。しかも大貴族がである。トップはオルレアン公爵ルイ・フィリップ、この時期、「フィリップ・エガリテ」と呼ばれた。日本では「平等公」と翻訳されるが、「公」をつけないことになったので、エガリテすなわち平等という言葉にしたから、正確には「平等」と呼ぶべきである。国王に次ぐ大領主、王族の一人、財産は握りながら、、平等だといって革命に参加している。それ以下、コンドルセ侯爵、シルリー侯爵、その夫人ジャンリ女性伯爵(伯爵領を女性が相続していて、作家として有名)、その他多くの貴族が参加していた。
これを見ると、日本の明治維新で下級武士出身の官僚が政権を運営したから、保守的封建的だという理屈は崩れる。「フランスも負けず劣らず、保守的、封建的だぞ」、「それでも市民革命なのだ」といえばよい。
これで私が18歳の時、最初の授業で隣の座席から聞こえてきた声「それで日本社会の封建的性格ですが」という質問に対して、「それを言うなら、フランスも封建的ですよ」と言い返しておしまいになる。答えは単純なのだが、ここに行き着くまでに、十数年の研究が必要であった。
ジロンド派が領主権の無償廃止を実現した、これを基本理論として、近代市民革命の理論を再構築してもらいたい。そうすると、フランス革命の1789年ー1830年に対して、日本革命の1868年ー1871年が対応することを承認できるでしょう。

2018年3月25日日曜日

領主権の無償廃止

領主権の無償廃止、こういえばフランス革命の1793年、いわゆるジャコバン派独裁、、恐怖政治、の時に宣言されたもので、領主権の有償廃止が1789年に行われたのに続き、「不徹底な部分的廃止」を改めて、完全な「無償での廃止」を実現したものとされている。これによって、農民が封建的束縛から完全に開放され、近代市民社会にふさわしい状態ができたと解釈する。
これを裏返すと、ジャコバン派独裁のようなものがない国は、不徹底な市民革命になるといえるので、特に日本人は、なんとなく引け目を感じてきたのである。
この学説、今でもネットの世界で、当然の真理のように書かれているが、実はこれが間違いである。領主権が無償で廃止された時期は、1793年ではなく、1792年であった。つまり一年早い。これは重大なことで、いわゆるジロンド派政権の時代であった。これを見ると仰天する人が多いだろう。
あるフランス革命の大家に対してこう主張し、論破したところ、不機嫌に黙り込んで、それ以後の付き合いがなくなった。これは信念の問題に直結するので、おいそれとは意見を変えられない。そのためうすうすこれに気が付いた人でも、あいまいなことを書いて、この問題でガチンコ勝負をすることを避けてきた。そうした人の中に、河野健仁、フランスのソブール、マテイエなどのフランス革命史家がいる。つまり、1792年のことを書きながら、理論的な結論の部分で1793年を書くのである。
実際に起こったことを整理しよう。1792年4月11日、封建委員会を代表して、ラツール・デユシャルテルが封建的権利の無償廃止を提案した。これに、内務大臣のロランが賛成した。フイヤン派のドウジーがロランを攻撃して、激論になった。これは重要なことで、この時は、一時的にジャコバンクラブ(この指導部はのちにジロンド派と呼ばれる)が行政権を握ったのであった。その内務大臣はロラン・ド・ラ・プラチエール、プラチエールに大領地を持つ貴族、法服貴族、インド会社の重役、すなわちブルジョア貴族の上層であった。ジロンド派の指導者として有名であるが、この時はまだジロンド派という言葉はなかったので、ロランの党派と呼ばれていた。
つまり、いわゆるジロンド派の指導者が「封建的権利の無償廃止」に賛成して、論争したのである。領地を持ちながらなぜか、こういう疑問が出ると思うが、外国軍が侵入してくるとき、この権利にしがみつくと、二正面作戦になり、すべてを失うとの判断が多くの貴族の心中に芽生えた。封建的権利を手放しても、城とその周辺の直領地が残る。すべてを失うのではなく、たとえて言えば約半分を失うだけだ。これが、ジロンド派に理解を示した貴族たちの判断であった。
しかしそれでもだめだ、権利はすべて死守するというのが、フイヤンクラブの信念であった。ここで両者が激突する。
6月15日フイヤン派系の内閣が成立した。事実上は復活である。しかし立法議会では、封建的権利の無償廃止、(領主権の無償廃止)が激論の場になった。この時、無償廃止を修正する提案が出され、273対227で可決された。これだ安心したフイヤンクラブ系の議員が一時的に退出した。その時ジャコバンクラブ系の議員が審議続行を言い出して、「封建的権利の無償廃止」が可決され、議会は閉会した。
平たく言えば、だまし討ちである。フイヤン派は起こった。これで武力衝突に至るのであり、1792年8月10日を迎える。つまり、「ジロンド派が封建的権利の無償廃止のために戦って、成果を収めたのである」。

2018年3月23日金曜日

小林良彰(歴史学者東大卒)のフランス革命論 これが市民革命であるための理由は何か

フランス革命が市民革命であるための理由は何か。これを改めて問い直すとします。当然の答えが出るようで、意外にズバリといえないのです。世界中で盛んに主張されたことは、1793年、ジャコバン派独裁、領主権の無償廃止、農民の開放、民主主義の実現などです。この理論は右派、左派関係なく、またマルクス、エンゲルス、レーニンに至る社会科学でもそうであった。私はこれが間違っているという。
フランスの革命記念日は7月14日であり、これは1789年のことであった。7月14日を盛大に祝っておいて、基本的な成果は4年後のものであるというのは、自己矛盾も甚だしい。
7月14日の結果出てきたものは、国民議会、(のちに憲法制定議会になる)、の勝利、立法議会の選出、三権分立であるが、こうした制度上の変革が基本ではない。この時期、フイヤンクラブが支配し、ジャコバンクラブが野党の立場にあったことである。フイヤンクラブは、自由主義的大領主と最上層のブルジョアジーの党派であった。対するジャコバンクラブは、大領主の影響が少ないブルジョアジーの党派であった。そして、政争の中で、ジャコバンクラブの勢力が中間派の支持を得て、権力をとったこともある。
したがって、フランス革命は、7月14日に起こり、大領主の権力集中(ヴェルサイユに集まる)を撃破して、自由主義的大領主と上層ブルジョアジーの同盟に権力を移したことであったというべきである。
この同盟の中でどちらが指導権を維持し続けるか、見た目には貴族のように見えるが、実質はブルジョアジーの側にある。1792年3月10日フイヤン派の内閣が辞職し、ジャコバンクラブに連動する内閣が成立した。その時、閣僚名簿は国王の承認以前に議会に通知された。つまり国王の行政権すら独立していないので、「国王に行政権がある」という規定が有名無実になっている。この内閣の財務大臣クラヴィエールは銀行家であったが、フイヤン、ジャコバン両派に参加し、やがてフイヤン派を見捨てるのである。
このような進行を見ると、フランス革命はブルジョアジーの勝利を実現したものだと言い切ることができる。これが正確な答えになる。ただしブルジョアジーは表面に出ることをためらう傾向がある。また、革命の初期であればあるほど、何らかの同盟者と提携する。悪く言えば、使い捨てにする。その使い捨てにされた人たちが、ラファイエットであり、ロベスピエールであり、日本では西郷隆盛であった。ワシントンは逆に崇め奉られた。いずれにしても、一時的同盟者は、完全な仲間になるか、それとも使いすてかの運命をたどり、社会が安定した時、ブルジョアジーの勝利が実現される。これが市民各目の結果である。

2018年3月21日水曜日

小林良彰(歴史学者東大卒のフランス革命論)立法議会で市民革命は完成した

オーストリア、プロイセンによる干渉戦争がはじまり、勝てば鷹揚に構えられるが、意外に連戦連敗、パリが占領される心配がでてきた。パリは破壊されるという。これで住民は上下に関係なく恐怖にさらされた。
軍隊に頼ることができるかというと、まだ旧体制の組織のままで、多少の改革は進められたが、将軍、将校は大貴族出身、下級貴族は下士官という体制に大きな変化はなかった。憲法では、人材の登用は平等の条件にすると決めている。しかしまだすべてにいきわたっているわけではない。
特に上層部が問題になる。上層部の大貴族、大領主は、自分の親族から亡命貴族を出している。夫婦で別れた場合、親子で別れた場合もある。亡命貴族は、オーストリア・プロイセン軍とともに行動し、戦争で勝った場合、そこに自分の領地があれば、支配者として帰ってきて、昔通りの権利を行使した。
こういう複雑な関係は、今まで例を見ないものであり、フランス軍が死にもの狂いで戦うという状況を作り出すことはなかった。そのうえ、王妃マリー・アントアネットが作戦計画をオーストリア皇帝に知らせていたこともあり、フランス軍は敗北を重ねた。
パリが危機に陥った段階で、立法議会における激烈な内紛が始まった。与党としてのフイヤンクラブと野党としてのジャコバンクラブの対立であった。両者が中央の無党派層の票を取り込んでの政争になった。
亡命貴族財産の没収、領主権の無償廃止が基本であった。当然、フイヤン派は反対、ジャコバン派系は賛成であった。
この政争が、1792年8月10日の「チュイルリー宮殿の衝撃事件」で決着し、フイヤン派の敗北、国王の投獄、立法議会の解散、国民公会の招集、普通選挙の実施、共和国の宣言、など劇的な変化をもたらした。当然、領主権の無償廃止が実現した。
この事実が重大な意味を、歴史解釈の上で持っている。つまり、まず立法議会の段階で市民革命が実現していた。それは領主権を残したままの市民革命であった。外国からの干渉戦争に勝つため、領主権の廃止が実行された。
つまりは、市民革命は領主権廃止を伴わないということである。これが日本史解釈の上で特に重要になってくる。この点はさらに詳しく説明しなければならない。

2018年3月19日月曜日

小林良彰(歴史学者東大卒のフランス革命論) 干渉戦争が激烈な変化を起こした

1791年11月、立法議会が始まってすぐに、ジャコバンクラブで,レデレー(法服貴族、伯爵、高等法院判事)が、商業の繁栄、工業の全盛期を迎えたと発言した。これは重要なことで、市民革命によって、商工業が発展すること、その指導者は貴族的ブルジョアだということである。こういう穏やかなものを、激烈なものに変えた原因は外国の干渉戦争であった。
この年の8月25日ピルニッツ宣言が出された。二大強国、オーストリア帝国とプロイセン(プロシア)王国の皇帝と国王が、会見して、フランス国王ルイ16世の正当な権利を回復するために武力を行使するという意味であった。
バスチーユ占領以後、その時までフランス国王を取り巻いていた大貴族、ブロイ公爵、ポリニヤック公爵夫妻、コンデ大公などがあいつで亡命した。その多くが、オーストリアに迎え入れられた。国家は違っても、大貴族同士は古くからの付き合いがある。そのうえ、ヴェルサイユに留学してフランス語を学んだ時、貴族同士で世話になっている。
ここが当時のフランス王国の持つ特殊性であった。これは、フランス、オーストリア、プロイセン以外の国にとっては理解できないものである。わが日本では、日本から亡命して、温かく迎え入れられる場所が期待できるかどうかである。まして、武力でその地位を回復し於てやるよといってくれるものがいるかどうかである。ありえない。だから、心から同感できるものはない。
しかし、本気でフランス国王の権利を回復するという国家が出てきた。フランスに軍隊を侵入させるという。これに輪をかけて、二人の王弟が、「もし国王ルイ16世に危害を加えたら、パリを破壊する」との声明を出した。国王の弟のことで、プロヴァンス伯爵とアルトワ伯爵の名があり、ともに大領主であった。
これは余計な声明であり、戦争に関心のないパリ市民も危機感を持つものにしてしまった。「私は違います」といっても、家を壊される。
プロイセン軍の総司令官ブラウンシュヴァイク公爵は、「百年後、パリがセーヌ川の東にあったのか、西にあったのか、分からなくしてしまう」との声明を出した。これは当時有名になった言葉で、徹底的破壊を意味していた。こうなると、選挙権のない受動市民も、「自分には関係なし」とは言っておれない。ここで、この戦争が、国民的な総力戦になってきた。フランス革命が激烈になる出発点であった。

2018年3月14日水曜日

小林良彰(歴史学者東大卒のフランス革命論)立法議会で市民革命は完結する 

立法議会は約1年後に、国民公会にとってかわられる。そのため、歴史の中では影が薄い。これも、市民革命として国際比較するときの誤解の種を残している。フランス革命といえば国民公会、国民公会といえば普通選挙制、徹底した民主主義、ジロンド派対ジャコバン派の対立、領主権の無償廃止、土地革命、こういうものがなければ市民革命ではありえないと思われてきた。「フランス共和国は唯一にして不可分」、これも教科書に載っている。
まずこうした誤解を解くことから始めよう。「フランス王国は唯一にして不可分」、これが立法議会を定めた憲法に書かれている。近代的統一国家を宣言したのは、国民議会、憲法制定議会であった。これを国民公会の業績にしてしまうだけで、市民革命の国際比較が狂ってしまう。
なぜこれが問題かというと、日本人にはわからないことだが、フランス王国が絶対主義の段階にあったころ、周辺地域の有力大領主がヴェルサイユに来て、臣下の礼をとるだけで、その国はフランス王国と認められていた。例えばルクセンブルグ大公、モナコ大公、などなど、今は独立国でフランスではない。つまりフランス革命までは、フランス王国は「唯一」でもなければ、「不可分」でもなかった。「今後は、離れることがまかりならん」といっているのである。これを見ると、絶対主義必ずしも絶対的ではなく、市民社会のほうがより中央集権的であることがわかる。形式は民主主義、実質は官僚統制による中央集権、これが近代フランスの本質で、フランスに住むと肌身で感じる。
普通選挙制がなければ、市民革命ではないという固定観念がある。これも間違いで、立法議会の選挙では、約半分の住民が、選挙権を持っていなかった。制限選挙制である。一定以上の収入がなければならない。能動市民、受動市民の区別があり、工房の主人は前者、そこで働く職人は後者となる。能動市民のみが市民革命の市民であった。
このように理解すれば、日本の明治憲法もこの程度のものであり、立法議会と同じ水準であるから、フランス革命後の政権と同じといえばよい。それをそう言わないのは、立法議会に対する過小評価から来るのである。
立法議会は、その他多くの改革を伴った。近代社会に必要な制度を作った。度量衡の統一の努力、郡県制、地方自治体の制限選挙制など、多くの改革で近代国家としての体制を作り上げた。
ただし、もう一つの問題は抱えている。領主権収入である。中心は貢租、年貢、封建地代であった。これは財産権を解釈された。自由、平等、財産の時代、財産権は貴重であり、神聖なものとされた。そこでもし、フランス革命がこのまま収まるのであれば、以後のフランス社会は、イギリス型の資本主義になったであろうと想像される。イギリスは今なおこれだからである。こういうと、「その通り」という人と、仰天する人に分かれるだろうが、実際はこうなのである。これでも市民革命たりうるのであり、そこのところを正確に押さえておきたいのである。

小林良彰(歴史学者東大卒のフランス革命論) フイヤン派対ジャコバン派の立法議会

1791年9月30日憲法制定議会(国民議会)は解散し、立法議会が10月1日に召集された。当時は政党政治ではないから、派閥の勢力関係ははっきりしない。概算、フイヤン派が267、左派(ジャコバン派)が136とフイヤン派が、多数のように見えるが、中央に無党派層が345存在した。ほとんど初対面、一人一党主義であるから、この票を獲得しなければ、投票で多数をとれない。
後世の歴史家はこの点を軽視してきた。そのうち、その存在すら忘れ、次の世代は、無いものとして説明した。だから説明が不自然になる。
はじめのうちは、フイヤンクラブの議員が華々しく活躍して、無党派層の票を獲得した。野党のジャコバンクラブの議員は、現在「ジャコバン派」の名で想像される人たちとは違う。この点も世界的に誤解されている。では何か。ズバリ言うと、ジロンド派の議員であった。つまり、この時点では、ジロンド派がジャコバン派の多数派であった。そして、ジロンド派がブルジョアジーの代表であることは世界的に認知されており、そこに間違いがあるわけではない。後世ジャコバン派といわれる人は、カルノー、ランデ、クートンなどごく少数であった。
だから立法議会での対立の構図は、自由主義的大貴族と前期的特権商人の同盟に対して、本来の実業家としてのブルジョアジーが対立しているものになった。

2018年3月12日月曜日

小林良彰(歴史学者東大卒のフランス革命論 初期はフイヤン派の支配

国民議会は憲法制定議会と改称し、憲法を制定し、自ら解散した。新議会は一院制の立法議会とし、旧議員は立候補しないことにした。行政権は国王にあると定めた。三権分立の原則を実行したことになる。
それより以前、院外団体としては、ラファイエット派が与党の立場にたち、大臣の多数派を占めた。しかし、すぐに反対派の活動により、政争が始まった。ジャコバン派の反対である。ジャコバン修道院を会場にしたので、この名がついたが、別に過激なものではなかった。入会金12リーブル、ラファイエット派より一桁少ないが、それでもこの入会金を出せるのは中間層以上になる。
ジャコバンクラブのトップはオルレアン公爵ルイ・フィリップ(この時点では息子のほうであったから、シャルトル公爵と呼ばれ、のちに1830年7月の革命でフランス国王になった人物)、その下に、ミラボー伯爵、ラメット伯爵兄弟、コンドルセ侯爵などの自由主義的大貴族がいる。
これだけならばラファイエット派と同じであるが、その他の会員の性格に違いがあって、それを一口で言うと、「ブルジョアジーの性格」であった。つまり、市場で利益を上げる、これが本来のブルジョアジーであるが、もう一つは、国家権力に取り入って儲けるという方向がある。革命前までの国家権力は大土地支配者の支配であったから、このブルジョアジーは、前期的、寄生的、特権的、などと呼ばれた。特にフランスでは、彼らが大領地を手に入れ、本当の貴族のように暮らしていた。この、「貴族的ブルジョアジーではないよ」というブルジョアたち、これが多数を占めるようになった。
ただし、商人、銀行家本人が議員として出てくることは少ない。大多数は、弁護士であった。この集団の中で、特にボルドー出身の政治家たちが華々しく活動したので、その県の名前をとって、ジロンド派(ジロンダン)という言葉が定着した。ボルドーの大商人を代表する弁護士たちであった。
パリ出身では、クラヴィエールという銀行家がのちに財務大臣になる。
これらの勢力に押されて、初期はラメット派がラファイエット派に対立した。対立の要点は、旧支配者に対する温情的な対策はやめろというものであった。具体的に書くと読者が退屈してしまうであろうと思うから、これは結論だけにしておく。
1791年6月、国王一家の逃亡事件があった。失敗して連れ戻されたが、この事件で、ジャコバンクラブは国王ルイ16世の退位、オルレアン公爵の摂政を要求した。ラメット派の貴族たちはジャコバンクラブを離れ、ラファイエット派に合流した。こうして、7月、新しいクラブとして、フイヤンクラブが成立した。自由主義貴族の指導権は強いものになった。
ここにもうひっつのクラブがあった。コルドリヱ・クラブという。入会金数千円程度、極貧でなければ誰でも入れる。ただし、指導者は中間層の教養ある人物であった。ロベール、マラ、エベールなどであり、ロベールが王制廃止、共和制樹立の請願を発表した。
フイヤンクラブが結成された翌日、1791年7月17日、バスチーユ占領の約二年後、シャン・ド・マルス広場でコルドリヱ・クラブの主催する集会が開かれた。そこへ国民衛兵が来て、発砲した。数百名の死傷者という。その後、共和主義者に対する追及が激しくなり、ジャコバンクラブにも捜査の手が伸びて、ダントンはオルレアン公爵の摂政を言っただけであるが逃亡せざるをえなくなった。
これでしばらくはフイヤンクラブの支配が安定し、これは自由主義的大貴族の指導権が確立したことを意味する。これに協力するものは、いわゆる「前期的商業資本」に分類される最上層のブルジョアジーであった。
シャン・ド・マルスの虐殺といわれるが、これはそれ以前の小競り合いとは違って、本格的な殺人であったからで、目的が国王を守ろうというものであったところに、フランス革命の保守的な性格がみられる。フイヤン派は国王が誘拐されたと主張して、国王一家を守った。

2018年3月9日金曜日

小林良彰(歴史学者東大卒)のフランス革命論 初期政権は上流階級

バスチーユ占領の一年後、ネッケルとネッケル派大臣の辞職があって初めて、革命勢力が政権を握ることになった。これはいったい何者か。庶民の味方か。そうではない。
派閥でいえばラファイエット派、正式の名称は、「1789年協会」が政権を動かす集団であったが、入会金100リーブル、これは現在の100万円に相当するが、当時の貧富の差を考慮すると、はるかにおおきな価値をもっている。当然、普通の人間では入れない。
まず自由主義的大貴族が参加した。ラファイエット侯爵、ラ・ロシュフーコー・リヤンクール公爵、ミラボー伯爵、コンドルセ侯爵など、高級聖職者ではタレイラン司教、シエース副司教(この二人、のちにナポレオンの外務大臣、第3統領になる)などである。
もう一つの集団は、ブルジョアジーの最上層、大商人、銀行家、徴税請負人(国王に税金分を収め、あとから徴収する権利を行使する高利貸的金融業者)であった。サンレオン、ぺルゴ、ドレッセール、ボスカリ、ラヴォアジエ、ルクツー、ジョージ、コッタンなど。ルクツー、ボスカリ、ドレッセールはパリの反乱を組織したパリのブルジョアであった。ラヴォアジエは徴税請負人、科学者、メートル法などの制定に貢献した。
また大貴族とブルジョアと学者の抱き合わせのような人物もいる。天文学者バイイ、弁護士ツール、経済学者デュポン・ド・ヌムール(アメリカの財閥デュポンの祖先)など。
法服貴族のレデレ伯爵、ダンドレ伯爵など、法律家兼大貴族というものもいる。
こういう勢力がフランス革命第一期に権力を握った。自由主義的大貴族と最上層のブルジョアの同盟であった。
こういう局面は、日本で見ることができない。日本では、「バカ殿さま」、「高貴のお方はうかつにて」、「名君といわれた人は、普通の人だった」という言葉がある。島津斉彬だけが違うかもしれない。フランスでは、なかなかの人物が輩出している。自由主義貴族の多くは、アメリカ独立戦争に参加して、戦ってきている。歴戦の勇士だ。こういうものを日本の大名に見ることはできない。であるがゆえに、新時代には登場しない。
こう見てくると、どこに庶民が出てくるのか。あるのは、上層部の変革に過ぎなかった。それでも革命であった。自由主義貴族は、ヴェルサイユで冷遇され、少数野党のようになっていた。法服貴族は、ヴェルサイユ城に入れない。ブルジョアは金があっても権力に到達することはできない。もちろんヴェルサイユ城には入れない。それが、政権を組織する団体を作ることになった。すなわち革命である。これがフランス革命の基本的結果である。これを明治維新に適用すればよいのである。

小林良彰(歴史学者東大卒のフランス革命論 1年後に市民革命の政権ができる

1789年7月14日は間違いなくフランス革命の記念日である。これに間違いがあるわけではない。間違い、思い違いは、そこですぐに民衆の要素を持つ政権ができたであろうと期待し、誤解し、それを固定観念に仕立て上げ、後世に伝えた歴史家の理論の中に含まれていた。これは間違いであり、民衆の部分はまだない。これをはっきりと表現したのは、私が初めてである。
まず、最初の1年間、王権の側の大臣と国民議会の改革派との間の、ぐずぐずしたせめぎあいが続けられていた。ここに、民衆の影はどこにもない。食糧難の騒乱が起きても、今度は国民衛兵が抑えて回った。
1年後のネッケル派大臣の辞職によって、初めてフランス革命を目指す行政権が成立した。これで、行政、立法の権力が革命勢力のものとなる。司法はまだ独立していない。旧体制の高等法院判事、検事、弁護士は、官職売買の制度によって国王から任命されたものであり、上層部は貴族であった。これはいよいよ解体されることになり、補償付きで罷免されることになった。
貴族議員の亡命が続き、国民議会は第三身分代表が多数派になった。こうして、革命後1年でフランス革命と呼べる体制になったのである。
こうして、フランス革命の革命政権が安定するが、これはいったい何者であるか、それについての正しい認識が、大多数の歴史家の頭の中にないのである。何か、民衆的なものではないかと思い込んでいる。そうではない。そこを今から説明しよう。

2018年3月7日水曜日

小林良彰(歴史学者東大卒のフランス革命論 初期一年は極めて穏健

フランス革命は徹底的、急進的、過激の印象を持たれているが、実際に時期を追って調べてみると、他の国の革命よりも進行が遅いように思われる。バスチーユ占領の効果といえば、内閣の水準を1789年7月11日に戻しただけであって、その中心は財務総監ネッケルの復職にあった。他の大臣もこれと連動した。つまり、旧体制、アンシャンレジームの行政権はそのまま居座っているのである。これが約1年間続いた。これを他国と比較するとどうか。イギリス革命では、国王と側近が西北に退去したので、行政権が二つに分かれた。アメリカ独立では、イギリス国王のものはない。日本では、幕府の官僚は江戸に、新政府の官僚は京都に、それぞれまじりあうことはない。
フランスでは昔の儘を残しながら、立法権としての国民議会で改革が議論されている状態が続いた。その国民議会でも、出発点では第三身分代表は約半数、亡命者が出たので多数派になっただけのこと、まだ抵抗する力も強かった。人権宣言、封建的特権の廃止など、威勢の良いものを発布した割には、財政改革では停滞したままであった。
約一年後までに、国民議会多数派の発言力が強まり、ネッケルが辞職し、ネッケル派の大臣が辞任した。代わって、ルクツー・ド・・カントルーの指導権が発揮され、旧体制の役職収入は廃止され、国王が独断で貴族に資金を与える権利も廃止された。教会財産の国有化、それを担保とする新紙幣(アシニア)の発行、こうした財政再建政策、が実行されたが、これが権力と財政の中心問題であった。これで名実ともにフランス革命が定まったのである。
ついでながら、このルクツーという人物、兵営に出かけて軍隊を寝返らせた人物であり、ナポレオンのクーデターと立案した人物、財務大臣を頼まれると、辞退して、ゴーダンを推薦して実現した。革命前から、貿易商人、船主、銀行家、領主、法服貴族であった。アメリカニューオーリンズに向かうとの貿易船を持っていた。
ブルジョア的貴族の代表的な人物、フランス革命の1年目に、こういう社会的存在が権力に到達したといってよい。

小林良彰(歴史学者東大卒)のフランス革命論 初期の改革は保守的

フランス革命といえばきわめて徹底的、急進的、民主主義的と思われている。これが世界中の常識であるが、この常識が間違いのもとだといいたい。初期のフランス革命は、妥協的、保守的な性格を維持している。それが約3年間続く。それでも革命は革命、市民革命に分類される。7月14日(1789年)は革命記念日である。
もともと、バスチーユ占領に至る騒乱は、財務総監ネッケルの追放に反対した大衆運動から始まった。革命が成功すると、ネッケルが復職した。彼は7月11日までその職にあった。つまり旧体制の財政担当者だあった。それが、わずかの期間追放されて、革命のおかげで戻ってきた。なんだかおかしいと思わないか。
国民衛兵兵司令官ラファイエット侯爵は、16歳でヴェルサイユ城にデビューし、その時、王妃マリーアントアネットがダンスを踊ってやろうといった。旧体制の、名門中の名門ではないか。
「民衆が蜂起し」と教科書では書かれているが、出てきた結果はこうなるので、この結果の部分を重大に考えなければならない。それは微温的な変化、大貴族の頂点に立っていた超保守的な部分を権力から退けて、強引な政策はとらせないようにした、これが結果であった。
したがって、「それならどうする」を巡って、革命派の中で議論が始まった。詳しい内容は私の本の中で紹介しているが、結果だけを言うと、ネッケルの提案は否定された。彼は大貴族の既得権益を残そうとした。これに反対する側からは、大貴族の役職手当は廃止し、教会財産を国有化し、これを担保とする新紙幣を発行して、財政赤字を解消するという案が提出された。これを提案した人が、タレイラン司教であった。これは仰天するような話であったが、実行された。新紙幣を手にしたものは、教会の土地、建物を買い取ることができる。こうして、教会、修道院が商人の手にわたり、ワインの貯蔵庫に変わったのである。こうして財政赤字は解消された。このタレイラン司教の父親は、タレイラン・ペリゴール大司教、公爵、国王の戴冠式で王冠をかぶせる役目を持ってた。夫婦で亡命したが、母親が「どうして、あの悪魔を生むことができたのか」と嘆いた。親子の断絶であり、革命であるが、このタレイラン司教は次男、足を故障して、馬に乗れない。貴族としてはそれだけで負い目がある。のちにナポレオンの下で外務大臣になり、その後も外務大臣になってウイーン会議で活躍した。
タレイラン司教の提案を基に、、国民議会財政委員会を代表して、ルクツー・ド・カントルーが全般的な財政改革案を提出して、可決された。この人物、ただものではない。

2018年3月3日土曜日

小林良彰(歴史学者東大卒)の西郷隆盛論 江戸開城はフランス革命よりも急進的 続

フランス革命の封建的特権の廃止については、世界中でこの言葉に騙されるというか、酔わされる傾向がある。もし日本ならば、この言葉で、武士階級、つまり大名から足軽に至るまで、一気に没落させられると想像する。思い切った近代化だと称賛する。それに比べて我が国はなどというのが昔からのやり方である。
しかし実態は違う。国民議会による封建的特権の廃止とは、領地の中で、領主が領民に貸している部分(これを保有地という)について、特権を廃止するが、人心にまつわるものは無料で、土地にまつわるものは買い取ることができるとしたものである。
これは日本人にはわかりにくい。説明する側が分からせることに無力感を感じるものである。まず無料で廃止されたものといえば、領主裁判権、領地内での狩猟権、鳩小屋の権利、通行税、水車小屋、パン焼きかまど、圧搾機(ブドウの)など、共同体的権利の使用権、このようなものを無料で廃止するというものであった。
これはそれなりに近代国家に近づくものであったが、土地にまつわるものは、買い取ることができるというのは、買い取らなければ今まで通りといっているのである。封建地代、地租、貢租などと翻訳されるが、収入の10分の1程度を領主におさめる。これが無条件廃止ではなくて、20-25年分の一括払いで、廃止しようというのである。これでは大多数の農民は払えない。一種のごまかしではあるが、これで一時的に騒ぎは収まった。この程度の改革で現在まで来ている近代国家がある。それはイギリスであるが、これを認識する人が日本には少ない。
もう一つ、城や館の周りに広大な土地がある。そこで馬を乗り回す。貴族はここで武術、馬術の鍛錬をする。森林もついていて、狩猟もする。これは領主の個人財産であって、廃止の対象にならない。日本人は、こういうものも廃止されるだろうと思っている。
こう見てくると、封建的特権の廃止は、勇ましく聞こえるけれども、大したことはしていないのである。土地所有関係については、何一つ変化がないといってよい。
これとは対照的に、日本では、江戸開城はフランス革命よりも劇的、急進的、徹底的な改革が行われたのであって、無血開城と自賛されるが、本来なら死にもの狂いの流血になるべきものであった。江戸城の周囲に、旗本、御家人の住宅がある。大名屋敷もある。旗本、御家人は静岡へどうぞというわけだ。大名は郷里に帰れとなる。上級旗本は関東平野に領地を持ち、立派な屋敷を持っていた。それも全部捨てて静岡にという。旗本八万騎といわれる。実態は約3万程度、これが静岡藩に押し込められた。中でどうなったかは誰も関心を持たない。彰義隊戦争で傷ついたものは極貧の中で死に、5000石取りの旗本が車引きに張り、旗本の妻が女中になり娘が芸者になったなど、哀れな状態になった。なぜ反抗しなかったのか、それは鳥羽、伏見の戦いで負けたからである。つまり大戦争で負けたからこうなったのである。
フランス革命では、当初小競り合いで決着がついたというべきであり、だから寛大でもあった。やがて、大戦争が起きてひどいことになる。
もう一つ、日仏両国の置かれた条件の相違がある。フランスは大国であり、外国からの脅威はなかった。日本は開国したばかりの小国が、西洋列強の侵略にさらされていた。軍艦、大砲、小銃、近代的軍隊、鉄道、産業革命など、急ごしらえで追いつかなければならない。そこに、巨大な資金をつぎ込む必要がある。フランス革命では、財政赤字を解消することだけが、新政府の課題になった。日本では、それだけではだめなので、新政府の手段がより厳しいものになった。
もう一つの問題がある。騎兵軍団の必要である。日本の国土では、これが必要なしと思われる。歩兵、砲兵は、武士階級の軍団よりも、徴兵による兵士がいて、そのうえの指揮官が武士的素養、貴族的素養を持つものになっていることがのぞましい。だから少数の旧武士だけが必要で、あとは解体した方が、となる。この道を新政府がとった。

2018年3月2日金曜日

小林良彰(歴史学者東大卒)の西郷隆盛論 江戸開城はフランス革命よりも急進的改革になった

日本での常識は、フランス革命は徹底的、日本のものは妥協的というものである。日本だけではなくて、世界的にも通用している。これが思い違いだというのである。
フランス革命で、バスチーユ占領があり、ヴェルサイユ行進があり、国王一家と国民議会はパリに移転した。ヴェルサイユは捨てられ、パリの郊外になった。権力は交代した。しかし何が変わったのか。人権宣言、封建的特権(領主権)の廃止、これくらいが教科書には載っている。しかし、自由、平等、友愛というスローガンは後に出てきたもので、この時は「自由、平等、財産」であった。つまり、この時点での財産権の変化はない、むしろ、個人財産は死守するという決意がみなぎっている。したがって、だれの財産も傷つけられなかった。
この意味を考えてほしい。もとはといえば、大商人、銀行家の財産を国王が取り上げることを許さないという決意を示したものであるが、同時に、大領主の財産権も没収はされないといっているのだ。ブルジョアジーもまた古くから領地を買い取り、領主になっていたから、この方針でよかったのである。
だからフランス革命の初期、社会構成は何も変わっていない。ただに突、封建的特権の廃止という言葉が勇ましく聞こえる。しかしこれに騙されてはいけない。これは国民議会が喜び勇んで出した法令ではない。全国で、領民(農民といわれるが、それ以外にも土地持ちの都市市民がいた)の反乱がおこり、領主の城が襲撃された。これを大恐怖という。パリの反乱とは別物で、自律的に起きた。幕末のええじゃないか騒動、百姓一揆、砲兵隊の反乱などに似ている。「鎮圧のために軍隊を」という声はあったが、どちらの側も出動できない。

2018年3月1日木曜日

小林良彰(歴史学者東大卒)の西郷隆盛論 初期の変化は基本的変革のみ

一般的に、市民革命の変革は、出だしがごく目立たない、基本的な変革にとどまる。権力と財政の問題だからである。もっと絞り込むと、財政の問題であるが、財政政策を自由に進めるには、権力をとらなければならないので、この二つになるのである。それにしても、これだけの内容ならば、平和革命というのもありうる。
平和革命のモデルは、イギリスの名誉革命、日本の廃藩置県である。戦争と平和の中間もありうる。クー・デターのようなものである。日本の廃藩置県をクーデターだという歴史家もいる。イギリスの名誉革命の時でも、国王は軍隊に対して、議会めがけて進軍せよとの命令は出した。しかし、軍隊がためらった。そこで国王が逃げ出した。これで平和革命になった。これをあえて言うのは、2017年に起きたサウジアラビアの事件、これがおそらく世界の最後の市民革命になるであろうという予測を踏まえているからである。
それはさておき、日本の場合、大政奉還だけでは革命にならなかった。だから幕府側も応じたといえる。辞官、納地を薩摩が要求し、これに幕府側が憤激して戦争が始まった。もし幕府がこれも受け入れたならば戦争はなかった。平和革命である。
その場合どうなっただろうか。幕府の領地約700万石、これが新政府の手に入る。旗本、御家人の家禄もそのまま、徳川本家は約70万石の個人資産を残される。では新政府の実収入はどれだけ増えるのか。大奥廃止、江戸城の官職収入廃止、つまり、譜代大名と旗本の、男女にわたる官職収入が、新政府の側にわたり、これが新政府の官職手当と新規事業につぎ込まれる。当時、西洋列強の脅威にさらされて、国防費は重要な課題であった。
これくらいが予想される変化であった。
フランス革命も似たようなもので、当初は、ヴェルサイユ城の官職収入の削減、廃止、新規増税は回避、商人に対する借金踏み倒し政策はとらない、これくらいが革命の側の目標であった。国民議会が、商人を破産させるような政策はとらないと宣言している。
そこでもし、この程度の方針に対して、逆らうことなく、貴族たちが郷里に帰ったならば、、後年に起きた激烈な騒乱は起き中たはずである。それが起きたのは、旧支配者の側からする抵抗が大きくなり、それを外国が援助したからであった。それに伴って、様々な改革が持ちだされるので、市民革命の改革、結果というものが誤解されるようになったのである。

2018年2月28日水曜日

小林良彰(歴史学者東大卒)の西郷隆盛論 変革の初期、商人の役割は目に見えない

変革の時期には、英雄、武人、戦士が旧悪と戦うことになり、歴史はその物語で進行していく。せいぜいのところ、その英雄が「出入りの町人が」とか、「商人がいじめられている」などのセリフで、保護の対象にしている話が出てくるていどである。しかしやがて主客転倒が起きる。西郷隆盛のうしろで、ひかえめに協力した三井組は、のちに「財閥権勢に奢れども」という歌に出てくるようになった。
実利をとる人間は、表面に出られないのであろう。これは、西郷隆盛についてもいえる。今でこそ、討幕といえば彼の名が出る。しかし当時は、天皇の復権、その代理としての親王、その下の参与(上級公家、有名大名または旧大名)の名が全面に出て、討幕の志士たちの名は影に隠れている。江戸開城を実現した時もまだ参謀に過ぎない。表向きの功績は総督としての親王のものになる。
甲府で新選組を撃破した板垣退助も参謀に過ぎず、そのうえ名前すら乾から板垣に代えて京都を出発した。戦国時代の武田氏の家臣に板垣がいて、遠い祖先だということで、この地を通るときには都合がよいとの配慮であった。
しかし、官軍は軍資金不足で時々立ち止まった。そのたびに、京都に軍資金を要求し、三井が融資をして、出発した。これでは、留守政府は商人に頭が上がらなくなってしまう。こういうことを書く歴史家は、私しかいないので、事実ではあるが、なかなか受け入れられないのである。
京都では、少数の武士たちが残っているだけで、薩、長、土三藩の主力は関東に向かっている。今と違って、簡単に連絡はできない。商人と下級武士の同盟とは言っても、片方が不在のままだというべきだろう。その留守政府で一年後に会計官が交代することになった。由利公正から大隈重信へである。これは重大な意味を持っているが、この意義を取り上げる歴史家もいない。
一人は越前藩士、他は佐賀藩士、ともに薩摩長州ぁらは外れた人たちである。しかし、商人にかかわりがあることは前に述べた。特に由利公正は坂本竜馬の推薦を受けていた。ところが、由利公正が辞職して、大隈重信が昇格して実権を握った。ことの本質は何か。由利公正はまだ武士の気質を持って、商人を引き立ててやるから、言うことに従えという感じであった。大隈重信は、商人層の意見を代弁してやろうという感じであった。それが、政府紙幣の強制流通か、時価流通かを巡る問題であった。由利公正と意見を同じくする者に西郷隆盛がいて、強制流通、受け取り拒否に対しては処罰するべしという意見であった。いかにも、まだ武士としての気質を引きずっていることがわかる。
由利公正は辞職し、のちに東京府知事になる。京都の新政府は、商人の言うことに耳を傾けてやろうという「薩、長以外の武士、大隈重信」の指導権のもとに入った。これと連動するものが、大村益次郎であって、長州出身ではあるが、武士ではない。医者で蘭学を勉強してきた。その中で軍事技術も学んだ。書物と実践は違うといわれるが、この人に限っては、紙の上の知識が、見事に実戦の役に立った。受験英語で、英会話ができるとでもいうものであろう。第二次長州征伐の時、近代戦法を指導して最大の成果を収めた。
しかし武士ではないのだから、武士としての連帯感はない。政府から高級をもらうと、郷里に仕送りをして、この金で土地を買っておけなどと書いた。現代庶民の感覚である。これに反して、西郷隆盛は「子孫のために美田を買わず」という漢詩を書いた。「えらい」と思い、大村は「人物が小さい」と思う。
しかし、大村路線が勝つのであって、彰義隊討伐の時には、大村が全軍を指揮し、大隈が財政を握り、西郷は薩摩軍団だけの参謀として参加するのみになった。その後西郷は郷里に帰る。大村は東北の戦争を指揮する半面、新しく政府直属の近代的軍隊を組織しようとした。下級武士軍団の影響力を排除しようとしたのであった。

2018年2月24日土曜日

小林良彰(歴史学者東大卒)の西郷隆盛論 武士階級の解体はフランスよりも急進的

フランス革命は徹底的、日本の明治維新の改革は不徹底、これは常識のように古くから言われてきた。私はそれに反対してきた。問題の焦点の一つが、武士階級の解体の評価を巡ってである。フランスの貴族階級が日本の武士に相当するとして、日本の武士階級は、秩禄公債をもらって、金利生活者になって、階級としては消滅した。ただし、約260の旧大名は、藩収入の10分の1をもらい、個人の金利生活者となり、昔の家臣、部下とは切り離された。この集団に貴族としての称号を与えた。ヨーロッパに倣って、公、侯、伯、子、男の爵位を与え、貴族院の中核にした。改革が不徹底、妥協的といわれる理由である。
しかし、目を家臣団に向けると、哀れなほど叩き落された集団がある。上級旗本、中級旗本、上は9000石取り、中級でも数百石取り、彼らは250石取りに引き下げられ、さらに3割3分の租税を課された。旧大名領で、一門、重臣、重役と呼ばれたものにも、1万石取り上級武士がいた。もちろんそれから段階的に下がっていくのであるが、彼らもまた、同じ水準に引き下げられた。旗本の中には、車引きになったり、娘が芸者になったりして、貧民の水準に転落したものもいる。勝った側の長州藩でも同じこと、萩の城下町は打ち捨てられ、住民は夏みかんを栽培して、活路を見出した。
さらに秩禄公債で、年金支給打ち切りとしたので、不満が一気に爆発した。これが士族の反乱の原因になる。しかし、全国的に下級武士という階級が、連帯意識を持って行動するという条件がなかった。それぞれの藩で、藩主の命令の下で行動するものとされていて、その藩主は人質同然で東京にいる。ではだれを指導者に立てるか、その時点で政府の要職にあったものとなるしかない。そこで、江藤新平、前原一誠などが押し立てられたが、横の連絡ができない。時期もバラバラ、これで各個撃破された。
最後に残ったのが薩摩の士族であった。これも下からの動きが上を突き上げたもので、西郷隆盛個人は反乱に至る若者の暴走を厳しく叱責したものの、もはやそれで平和的に収まるものではないことを知っていた。県令の大山綱吉は申し開きで解決しようとして、出頭するが、政府の側は、処刑してしまった。仕方がない、「おいどんの体をあげましょう」ということになって、西南戦争が起きた。
振り返って、フランスの貴族階級はどうなったか。実は革命のどの時期にも、貴族が指導者の一部に入っていたことは、前にも述べた。ナポレオンも貴族であり、貴族はフランスにとって重要だといっている。なぜ重要か。それは当時の戦争、国防にとって不可欠のものであったからである。ヨーロッパは大平原での戦争になる。そこでは、銃陣を作る歩兵、砲兵隊と並んで、騎兵集団の突撃が不可欠となり、騎兵が貴族の担うものになっていた。貴族は自分の城、館のそばに馬を乗り回すだけの土地を野たなければならない。ド・ゴール元大統領も、一日中乗り回しても自分の土地だといっている。モーパッサンの小説の中にも、貴族、貴婦人が馬に乗って、遠くの場所で密会しているという場面がある。
これは当たり前のことなのだが、日本の社会科学の中では、その反対、貴族は土地を失ったかのように思い込む風潮があった。
どのようにして、貴族は土地を維持したか、その因果関係は以前に説明している。この貴族の集団は第一次大戦まで、国防の花形であった。だから消滅させることはできない。日本の武士はどうか。基本的に歩兵であった。日本の国土ではそうなる。それにくわえて、変革に時期が、新式小銃の段階に来た。そうすると基本は歩兵と砲兵、これでは武士の大半はいらないことになる。指揮者だけでよいことになる。
つまり、日本では武士階級の解体が徹底され、フランスでは温存された。じゅうらいのたいひとはぎゃくなのである。
これをさらに進めると、どちらが妥協的かは、議論する必要もないのである。要点は、ブルジョアジーが権力の指導権を握ればよいので、農村部がどうなっているかは、些細な問題になるからである。農村部は千差万別でよい。ところが日本では、「土地制度史学会」などを作って、市民革命と土地制度の関係を論じてきた。随分、見当違いなことをしてきたものだといいたい。

2018年2月23日金曜日

小林良彰(歴史学者東大卒)の西郷隆盛論 日仏の革命は軍資金問題に尽きる

日仏両国の革命を引き起こした基本的要因は財政問題、それを成功に導いたのも、つまりは「金の問題」であります。日本の薩摩、長州は違うぞといってはいけません。この両藩は、絞るだけ絞られて、もらうものはなかったから、その恨みが募り募っていたのです。
財政問題の基本は、金庫の中にどれだけの金、銀が残っていたのかです。当時は、まだ紙幣が流通していたのではありません。ヨーロッパ下は、銀が主流であった。
さて、両国に共通したことは、この時点で、「国庫は空になった」という報告がフランスで行われ、日本では、勝海舟が「江戸城を任されて調べてみると、金がなかった」と書き残していることに尽きる。つまり軍資金がなかった。これなしに軍隊を動かすとどうなるか、、それは大坂における幕臣たちのおしかり(押し借り)で分かり、これは証文は残すが、強盗と同じこと、民心は一気に離反する。つまり大軍を持っていても動かせない。これで、旧体制側は負けたのである。
ではなぜ軍資金がなくなったのか。一つは、外国がらみ、フランスはアメリカ独立戦争の支援に使った。日本の幕府は、軍艦、大砲、小銃、弾薬を買い込んだ。ともに巨額の支出、しかし得るものがない。幕府の軍艦などは、大島沖で、高杉晋作の指揮する小型蒸気船、それに大砲を積んだもの、これに砲撃されて退却した。
もう一つは、これが革命を必要としたものではあるが、「金はない、しかし出すところには出して、節約しない」、この体質が滅びるまで続いたことである。つまりは、滅ぼさない限り続くというものであった。例えば、大奥の贅沢は江戸開城の寸前まで続いた。あきれるのは、将軍個人が大奥嫌いであったのに、大奥が続いたという点である。新選組に大砲まで持たせて、甲府に進軍させた。もし勝っていたら、どうする。上級旗本の高額な禄は保証されている。彼らが江戸城に詰めると、上等の食事が出される。こういうところをけずれば軍資金はでる。しかし、だれも身を切る提案はしない。
同じく、フランスでは、ヴェルサイユ城での大領主たちの豪奢な生活、これは切り詰めない。国民議会の給料は遅配が続いた。兵士に対する給料も遅れ始めた。パリでは兵営の中で「飢えていた」といわれ、、そこに銀行家が現れて給料を出すといったので、反乱がおきた。もし大領主たちを郷里に返し、彼らに献金させるなら、お金は出てくる。しかし彼らは、自分の特権を手放そうとはしない。革命後、「彼らは何一つ忘れず、何一つ覚えなかった」といわれた。つまり旧体制での特権を忘れない、それにしがみつくと、どんなにひどい目にあうかという教訓を覚えることはないというものである。
つまり、革命は軍資金の問題であり、それは徴税問題と財政支出の問題であった。そこに旧支配者、、土地所有の上に立つ集団、彼らの特権、これが行き詰まりを招いた。彼らが、身を切る改革をすれば生き延びることができたのだろうが、彼らは「何事も忘れない」のだ。そこに彼らを打倒する指導者が現れる。それが日本では、西郷隆盛であった。その先駆者といえば高杉晋作であり、藤田東湖、高山彦九郎につながるのである。

2018年2月21日水曜日

小林良彰(歴史学者東大卒)の西郷隆盛論、江戸開城とヴェルサイユ行進を比較する

日本では、京都、大阪を中心とした新政府ができたものの、江戸ではまだ幕府の統治が続いている。東日本、北日本には変化が起きていない。つまり、いつひっくり返されるかわからない。関ヶ原の戦いの再現である。
同じく、フランスでは、パリで新政権が成立したが、ヴェルサイユでは今まで通り、大領主たちが集まり、国王の軍隊が駐屯している。いつ再攻撃が行われるかわからない。事実、フランドル連隊という、反乱の心配がないとされた軍隊を呼び寄せた。これで再攻撃をするか、または守られて地方に遷都をするか、そういう選択肢はあった。約100年前の、フロンドの乱の再現である。この時は、最終的に国王と大領主の側が勝ち、、パリを制圧した。これでフランス絶対主義は確立されたとされる。
こうして、どちらの国でも、革命、反革命、どの方向に揺れるかはわからない状態にあった。日本では、すぐに東征大総督に有栖川宮熾仁親王を立て、西郷隆盛がその参謀として実権を握った。東山道先鋒総督府参謀には、土佐藩士板垣退助(旧姓乾)がなり、甲府で新選組を撃破して、新宿に到達した。西郷隆盛は戦争なしに静岡、品川と進み、この間、江戸開城、徳川家の処遇、旗本たちを静岡藩に移すことなど、戦後処理を決めた。これで揺り戻しの危険はなくなった。
フランスでは、10月5日のヴェルサイユ行進があった。その背景は非常に複雑、説明は要点だけになってしまうが、まずパリの新政権には全国的な権力の正当性を証明するものがなかった。その点、日本には古代天皇制というものがあった。フランスにはそういうものがない。パリの新政権が全国に号令をかけるためには、やはり国王ルイ16世の名が必要であった。
その国王はヴェルサイユ城にいて、大領主、大貴族に囲まれている。ブルジョアジーの代表者はそばによることもできない。国民議会ができたけれども、これは旧三部会の衣替えであって、第一身分、第二身分、第三身分の合同会議であった。この中から、貴族と高級聖職者(カトリック教会と修道院のトップ)の一部が亡命して、欠員になっていた。国民議会が相次いで改革法案を決議した。領主権(封建的権利)の廃止、人権宣言、教会、修道院の財産を国有化する(これを担保にして新紙幣を発行して債務返済に充てる)などであった。すべてブルジョアジーの側からの改革案であった。
国王は貴族と高級聖職者の意見を受け入れ、改革案を拒否した。これに危機感を感じたパリのブルジョアジーは、ヴェルサイユへ行こうと言い出した。その時、食糧危機が起きた。パン屋に小麦が入ってこなくなった。今のようにおかずは多くない。パンがないと、飢え死にになる。市民が騒ぎ始めた。ヴェルサイユへ行けば、パン、小麦はあるという意見が広がり、まず女性の大群、次に男たち、国民衛兵が行進した。
この結果、国王夫妻をパリに連れ帰り、国民議会もパリにうつり、国王の名で改革案を全国に公布した。ヴェルサイユに集中していた大領主たちは、居場所を失い、多くは郷里に帰り、一部がパリに移住した。国王の周りは、自由主義的貴族と、銀行家、大商人で固められた。
フランスでは、国王個人を貴族から切り離して、ブルジョアジーと自由主義貴族の連合体の代表者にして、これで新時代を乗り切ろうとしたのである。フランス革命は、出発点において、このような穏健な改革から出発したものである。

2018年2月19日月曜日

小林良彰(歴史学者東大卒)の西郷隆盛論 バスチーユ占領と比較すると

フランス革命と明治維新が同じだというと、鳥羽、伏見の戦いと、バスチーユ占領に同じ局面があることを証明しなければならない。
日本では、京都に小さな新政権が誕生し、その財政担当者に由利公正が就任した。遅れて大隈重信が参加した。大商人の側の協力者は、三井、小野、住友、鴻池などであった。しかし、大軍を撃破した直後のこと、軍事指導者の頂点には西郷隆盛が立っていた。
フランス革命では、バスチーユ占領の直後、パリで国民衛兵が組織され、ラファイエット侯爵が司令官になった。これは反乱を起こしたパリ市の軍隊、日本では民衆の軍隊のように思われているが、それは誤解で、砲兵隊とパリ守備隊(フランス衛兵)は下士官に率いられていたので、下級貴族の指揮下にあった。民衆と称される部分は、その地区の銀行家、大商人の指導下にあった。ルクツーという銀行家、大商人は兵営に出向いて、給料を保証するといって、軍隊を寝返らせた。ボスカリという大商人は,一族全体で居住地区の民衆を武装させて指揮を執った。つまりは、下級貴族とブルジョアジーの同盟であった。それをラファイエットが象徴していた。ラファイエット侯爵の副官には、ぺルゴその他の銀行家が名を連ねている。
ブルジョアジーと旧支配者層の一部(自由主義、リベラル、革新派)が協力する、そこに共通点がある。
相違点もある。日本の場合、新政権の権力はごく小さな地域だけに通用するのみであった。京都を中心に約十万石。全国収入の約300分の1、これに関西から西の天領、大和、生野、琴平、日田など。そこには代官を派遣したが、この代官は、幕府のためにではなく、また自分の出身藩のためにでもなく、新政権のために働いた。つまりは、新しくできた商人の政府のために働いてくことになる。
この地域以外は、まだ旧体制のままであった。関東もそうであった。江戸幕府は存在している。大奥は敗戦に関係なく、今まで通りの豪奢な生活を続けている。毎日登城する旗本も同じことであった。これでは革命とは言えない。第二の関ヶ原になるかもしれない。
フランス革命では、パリを革命派がとった。しかしそれだけのこと、地方に出ると、旧体制のままであった。パリ郊外のヴェルサイユ城には、大軍が集められている。しかし、軍資金がなかった。陸軍大臣ブロイ公爵は軍隊に守られて地方に移動する提案をしたが、ずばり「金がない」ので、「泣いて」とどまることにした。そうすると、大領主の最強部分、それの保守強硬派、これが危機感を感じた。
というのは、この騒乱を引き起こした責任が彼らにあったからである。1789年7月11日彼ら強硬派が政権をとり、それ以前の政権を覆し、特に財政を指揮する財務総監ネッケルとその支持者を罷免したところに問題があった。目指したところは、公債の利払い停止、公債の調査をする(事実上難癖をつけて無効にする)、新しい強制公債、または増税、これに対して、ネッケルは抵抗したので、罷免された。だから、パリの群衆は「ネッケル」と叫び、ネッケルに理解を示した王族オルレアン公爵ルイ・フィリップの胸像を掲げて行進したのであった。7月14日バスチーユ占領で革命派が勝つと、ネッケルは復職した。つまりこの騒乱は、4日前まであった政権を、元に戻してやったものということができる。
だから見た目には、大した政変ではないかのように見える。だが、勝った側は、報復に出た。保守強硬派の大領主の首に懸賞金をかけた。陸軍大臣ブロイ公爵、パりを攻撃したランベスク大公(ロレーヌ公爵)、ブルツイユ男爵(財政担当者)、コンデ大公、ポリニヤック公爵夫妻など、商人、銀行家を抑圧しようとするものと、財政赤字を作り出した責任者とみなされるものが標的にされた。彼らは、オーストリアに向かって逃げ出した。ここが日本とは違うところ、日本人には逃げるところがなかったが、フランス大貴族は、外国の貴族によって、手厚くもてなされたのであった。
このように違うところもあるけれども、土地所有の上に立つものが、財政困難に直面して、商人、銀行家に負担をかぶせる、つまり、借りたものを返さない、新しく金を取り上げる、こういう政策をとったとき、革命が起きて、商人、銀行家が権力をとる、この点で共通点がある。

2018年2月2日金曜日

小林良彰(歴史学者東大卒)の市民革命論 英米仏日を比較する

これまで長々と論証してきたことを踏まえて、私の言いたいことを一言でまとめます。
イギリス革命 ピユーリタン革命と名誉革命 1642年ー1688年
アメリカ革命 独立戦争と南北戦争     1775年ー1865年
フランス革命 大革命と七月革命      1789年ー1830年
日本革命   討幕戦と廃藩置県      1868年ー1871年   
英語でいうと以下のようになります。
English Revolution The Puritan Revolution-The Glorious Revolution
American Revolution   The Independent  War-The Civil War
French   Revolution     Attack  on  the Bastille-The July Revolution
Japanese Revolution   War in the suburbs of Kyoto-Dismissal of Lords ,Japanese
                                                                          Nobles became rentiers.
                                in Japanese Toubakusen -Haihantiken

                                War in 1868 is called the Meiji Restoration in English but
                               it is a mistake,misunderstanding,misinterpretation.Only
                               English Revolution and French Revolution have the period of
                               the Restoration.
           Japanese nobles are  called the samurai  of Japan. It is                                  a mistake. The samurai means middle or lower class of                                        nobles in Japan.
この英語には苦労しました。日本独特の表現が世界で通用しない。数十年前、「世界には先進国、後進国、それにアルゼンチン、日本がある」いわれていましたが、世界史の中で比較すると、比較不可能とも思える困難さでした。それでも、この努力は今後も続けたい。
いいたいことは、日本が英、米、仏の後を追い、ドイツ、イタリアと並んで近代国家を確立し、フランス、アメリカとの差は数十年に過ぎず、これが現代の状態を作り出した基礎であるということです。
英語の注釈の部分を日本語にしておきます。1868年京都近郊での戦争は、英語で明治の王政復古といわれているが、これは間違い、誤解、誤訳である。イギリス革命、フランス革命のみが王政復古の時期を持っている。日本の貴族は日本のサムライと呼ばれているが、これは間違いである。サムライは中間または下級の貴族のことを言う。(ほんとうは武士といいたいのですが、どうにもならない)。
こう書いたところで、だれが読むのかという思いもありますが、日本在住の外国人、日本人で外国に対する知識が豊富な人、こういう方がたが将来読んでくれるかなという期待を込めて書き続けます。                  

小林良彰(歴史学者東大卒)の西郷隆盛論 廃藩置県はアメリカ南北戦争に似ている。

1861年に始まり、1865年に終わったアメリカの南北戦争は、奴隷解放のための戦争だとか、連邦維持のための戦争だとか、見当違いな解釈がなされたままであった。私はこれが第二の市民革命であり、アメリカの市民革命はこれでもって終結すると主張している。アメリカにおいても、自国の歴史については世界史的な見方ができていないのである。
約100年前に独立を達成した時、合衆国連邦の規模でみると、それは市民革命であった。ニューヨークを中心とした貿易商人、銀行家、南部の大土地所有者(プランター)の連立政権のようなものであったが、各州の独立性が強いので、、中央政府も南部諸州の内政問題には、介入できなかった。
このような状況の下で、戦争の直前に経済恐慌が起きた。21世紀のリーマンショックのようなものである。商業資本、金融資本が大打撃を受けた。成長し始めた工業資本も需要激減に悩まされた。失業者は増加した。結成されたばかりの共和党は、保護貿易、自作農創設、大陸横断鉄道の建設を公約に掲げ、エイブラハム・リンカーン(リンカン)を大統領に押し出した。共和党政権は今まで存在しなかったものであり、足場にするのは、下から成長してきた産業資本と自作農民あるいは自作農民たらんとするものであった。というのは、西部において、これ以上奴隷州を拡大することに反対し、公有地に自作農民になろうとする希望者を送り込もうという、ホームステッド法を実施するつもりであったからである。大陸横断鉄道の建設は、巨大な公共事業であり、五大湖周辺の工業経営者に対して膨大な注文をもたらす。
南部諸州は反対した。アメリカ連合を結成して、独立国家を作った。この瞬間、南部諸州に古代ローマ帝国の再来というべき国家が成立した。前近代国家への逆戻りである。ここでは奴隷所有者である大農園主(プランター)が州権力を維持している。その頂点にプランターのジェファーソン・デーヴィスを大統領として擁立した。
この対立の構造が、廃藩置県の寸前の日本と似ている。中央政府ができたばかりのブルジョア国家、対立するものが、何百年の伝統を持つ前近代国家、この対立が、日本では無血革命で解消され、アメリカでは戦争で解決された。中心になる人を一人挙げよといわれると、西郷隆盛とリンカーンになるだろう。奴隷解放の問題を前面に出すと、議論の方向が狂ってしまうが、リンカーンは奴隷制に賛成はしなかったが、政治家としては、奴隷解放論を唱えることはなかった。合衆国連邦の維持を前面に出していたので、戦争が終わったときに解放宣言を出したのである。
南北戦争の成功で急激に成長したのが、北部産業資本家であり、アメリカの国力の基礎になった。それから50年後になると、鉄鋼生産は日本の100倍になった。今その地域は、「錆びた地帯」(ラスト・ベルト)といわれて、落ちぶれていく中間層、トランプ大統領の支持基盤になっている。

2018年1月31日水曜日

小林良彰(歴史学者東大卒)の西郷隆盛論 廃藩置県は名誉革命に似ている。

イギリス人は名誉革命を強調して、ピユーリタン革命のことを避ける傾向がある。そこで、イギリス人と話をしていると、平和革命を自慢して、フランス革命を暴力的だといい、それを国民性のように言う。それはちがうので、約40年前の革命では、フランス革命と同じような流血を伴い、国王の処刑も行った。以後100年間、イギリスは過激な国として、ヨーロッパ中で嫌われていたのである。
だからますます名誉革命だけを強調する。この中身を見ると、確かに平和的ではあるが、中身は革命的であって、劇的な変化が起きている。クロムウエルが死ぬと、短い期間彼の息子が後を継いだ。そういう意味では、護国卿制度は半ば王制に似ていたのである。しかし、長老派将軍のクーデターがあり、革命前の王制に戻して、チャールズ2世の復位が実現した。この段階で、イギリスは、国王の行政軍事の権力、議会の立法権が共存する国になった。つまり、前時代と近代国家の間で揺れていた状態であった。この時代をレストレーションという。だから「明治レストレーション」という英語は「誤訳」である。もし徳川将軍の復位があれば、それがレストレーションというべきものになる。
イギリスで、ジェームス2世の時代になると、国王を取り巻く貴族たち(戦士、騎士)が権力独占を目指して議会に攻勢をかけた。議会の抵抗にあうと、議会への進軍を命令した。ここで軍隊がためらった。こうなると国王個人の命が危ない。国王は逃亡し、代わって、国王の女婿オレンジー公爵を次期国王に迎え、前国王の権力を議会の手に戻したのであった。立憲君主制が成立した。本質を言うと、中世以来権力を独占していた貴族階級から権力を奪ったことになる。ただし奪ったから、追放したというとそうではない。軍隊の幹部は貴族で固めている。政治家に貴族が出てくる。それは容認し、奨励する。問題は、前時代のように、「平民を馬鹿にし、そのうえに立たなければ収まらない」という気風を捨ててくれるかどうかである。
つまりは、古い時代の貴族が、新しい貴族、ブルジョア的貴族になってくれればよいのである。これ以後長い時間をかけて、イギリス貴族はそうなっていくので、これをジェントルマン資本主義などという言葉も出てきた。日本の女性ガイドが、「何がジェントルマンですか。ゼニトルマンですよ」といったが、よく本質をついていると思う。
この変化を、廃藩置県が実現した。無血革命で。それまでは、全国の4分の1で武士階級が支配していた。旧幕府領だけの革命だから、あとはそのままであった。たとえ藩主(藩知事)が東京へ呼び出されても、城代家老(ご城代と呼ばれている)を頂点に家老、重臣、ご重役以下、ピラミッド型に役職があり、上級武士、中級武士、下級武士が役職に就いた。役得という言葉もある。役職手当とともに、わいろ、袖の下の収入がある。豊かな生活を送っている。役職のない武士のことを「無役の武士」という。これは家禄だけの生活で、みじめと思われていた。お城勤めが権力を表現していた。地方には代官が派遣される。数人、数十人の部下の武士を抱えている。地方では全権力を握っていた。
こうした集団、これは例えていえば、今の北朝鮮の首都にいる集団のようなもの、土地の集団所有の上に立つ支配者集団であったといえる。もっとも、今の集団所有は、国営企業を足場としているが。150年前の日本では、土地の集団所有であった。
これを一撃で破壊する。無血ではあるが効果は絶大。この意味をほとんどの日本人は感じない。しかし荒城の月を思い浮かべてほしい。昔の栄華今いずこである。それが一日で実現した。明日からは、お城勤めはない。仕事がない。代官も解雇だ。家禄だけは年金のように与える。役職収入は消える。城は見捨てられる。壊されたのもあった。新しく派遣された県令は、その土地とは関係のないものであった。
東京に残された旧大名は、家禄を藩収入の十分の一と見立てて、その分の収入を保証するとした。つまりは、大金融融資産家に転化した。ラファイエット侯爵のような待遇だと思えばよい。
このような無血革命を実行するにあたり、西郷隆盛は、戦争を想定して、渋沢栄一に相談した。「戦争になったら、金は出ましょうか」、ずばりこういう質問であった。この時渋沢が政府の財政を担当していたからである。「どのようにでもなる」という返事を聞いて、帰っていったという。ここでも、西郷は、武力と資金の同盟を作り出した。
渋沢は、のちに第一銀行を作り、これは現代のみずほ銀行の一部になっている。武士的気質を持ちながら、お金のことも分かっている人であった。

2018年1月29日月曜日

小林良彰(歴史学者東大卒)の西郷隆盛論 廃藩置県は第2の市民革命

1871年7月14日、奇しくもフランス革命記念日の日、バステイーユ占領の日、廃藩置県が断行された。これが第2の市民革命となり、全国が商人支配の国家になった。それまでは、幕府の旧領地のみがそうであり、それは全国の収入の約4分の1で,700万石に相当した。基本的部分が関東に集中し、あとは天領として各地に散在した。これが新政府に没収されて、ここの支配者集団である旗本、御家人は静岡に移され、全体の収入は十分の一に圧縮された。もちろん、関東における居住権は、完全消滅であった。豪華を極めた旗本屋敷の消滅、これこそ革命というべきものであろう。天領の代官職は、旗本から任命されたものであった。今後は新政府からの任命に変わった。武士ではあったが、藩主からの任命ではない。そこが、旧時代とは違うところ。
ところが、幕府領以外の土地では、何事も変わっていなかった。大名(殿様)が頂点にいて、家老をはじめとした重臣、重役の上級武士が支配し、中級武士が管理職、下級武士が下級の役職についていた。農、工、商には権力がない。つまり、近代国家と前近代国家の併存、これが約4年間続いた。
これでは、改革が不十分であろうという意見が出てくる。財政を担当した井上薫は、「大名の財政をとる必要」について強調した。しかし、財政をとる、権力をとると言い出すと、武力による抵抗に出会う。それを撃破する武力は、新政府にはない。加えて、新政府の官僚の豪奢に対する批判が出始めていた。そんな人間のために、命がけで協力するものがいるのか。
ここで、新政府は西郷隆盛に協力を求めることになった。長州の木戸、土佐の板垣を代表者として、三藩の藩兵を集めて中央政府の軍隊とし、これを各地の鎮台に駐屯させた。どこかで武士階級の反乱がおきた場合、それを鎮圧する構えであった。
中央政府では、この三人に加え、大隈重信の4人が参議として、最高指導部を構成した。
この人選、重要なところは、大隈重信の人選であった。この意味を知る人は少ない。ただし、先入観を抜きにすれば容易に理解できる。彼は薩摩、長州、土佐の藩兵に基盤を持たない。つまりは、この段階で、武士階級の代表者ではない。西郷隆盛周辺の武士たちは、大隈を嫌っていた。西郷は手紙の中で「この度は俗吏もぬれねずみのようになり愉快」と書いた。そのあと、「しかし何分選別がうまくいかなかないので残念」というような文章を書いた。つまり、大隈を一時排除したが、巻き返しにあって、自分と対等の立場に立つことを認めたという。
これは何を意味しているか。大隈が大商人の集団から支持されていることを示している。つまり、武力ではなく、資本の力なのである。このころになると、大隈は三井の大番頭三野村利左エ門と親密になり、「みのり、みのり」と呼んでいたが、みのりもまた常に大隈亭に詰めて、関係を深めた。最初に西郷が関係をつけた三井が、大隈に乗り換えたということである。
それにしても1対3ではないかと思うが、大隈に言わせると、西郷、板垣は「戦争の話ばかりして、印鑑をお前に任せるというので」実務は自分の判断で進行したという。これが重要なところ、経済界と政府の関係は大隈重信の判断で仕切られたことになる。こうして、大商人の勢力と、3藩兵の武力の同盟で、廃藩置県を断行した。反乱は起きなかった。
この事件の意味を言うと、打撃の目標は、全国の収入の約4分の3を占める大名領、ここを支配している武士集団、西洋流にいうと、貴族階級による土地の集団所有、この権力を消滅させることに尽きる。攻撃する側は、大商人を代表する官僚と、三藩の下級武士の集団だと定義できる。下級武士一般ではない。これを間違えてはいけない。そうでないと、「下級武士革命論」などという、でたらめな誤解につながる。ほんのわずかな、特別な勢力が協力したのだ。薩、長の2藩は、関ヶ原以来、長年の冷遇に対する恨みがある。土佐の下級武士は、長年差別を続けられた上級武士への恨みがある。そういう原動力が中央政府支持への原動力になる。他藩の下級武士にはそれがない。だから、武士一般ではない。
そこで、この勢力で全国の大名領を廃止することは、商人勢力による全国統一になり、征服型の市民革命になる。市民革命といえば下からだけではないかと反論する人もいるだろうが、フランス革命で、周辺諸国を占領した時、北イタリア、西ドイツでそのモデルが作られている。アメリカ南北戦争でも、南部諸州で独立国家を作った時期がある。この時は、古代ローマ帝国のような前近代国家が出現した。それを北側が撃破、占領して、市民革命の完成に導いた。廃藩置県はこういうものの、無血革命だと思えばよい。無血だから名誉革命といってもよい。

2018年1月26日金曜日

小林良彰(歴史学者東大卒)の西郷隆盛論、理想国家は十年続いた

あまり意識されていないが、西郷隆盛の目指す理想国家は、鹿児島県で約十年続いた。世界史的な目で定義すると、中間層支配の理想国家であった。そのようなものが他にあるかというと、アメリカ合衆国の内部にいくつかあり、今なお残っているところと、昔はあったがやがて周のに資本主義に飲み込まれてしまった場合とに分かれる。
クロムウエルのイギリスでは、パンとともに信仰を食べさせられたといわれ、ピューリタンの厳格な信念が国民に強制された。このカルヴァンの思想の中には、ぜいたく、投機、を罪悪とみなす、反資本主義の思想が強い。だからロンドンに密集している大商人、銀行家にとっては迷惑な思想になる。それでも我慢したのは、王党派の巻き返しが怖かったからである。この脅威が薄れると、今度はクロムウエル排除の動きが出てくる。その微妙なところで、彼は死んだ。
西南戦争までの十年間は、鹿児島に中間層支配の理想国家が独立してあり、東京を中心に、商人支配の新政府があった。新政府のもとで、商人支配は急速に進化して、新興企業家が肩を並べ始めた。三菱の岩崎、銀行の安田、生糸の田中平八、鉱山業の五代などなど、強力な基盤を持ち始めた。やがて自信をつけた新政府は、自分の軍事力を持って国土の完全統一に乗り出す。これが事の本質である。

2018年1月25日木曜日

小林良彰(歴史学者東大卒)の西郷隆盛論、ワシントン、ラファイエットとともに2度目がある

クロムウエルは死んだので、一回限りであったが、他の3人には2度の出番があった。ラファイエット侯爵はオーストリアの牢獄から解放されて、帰国し、妻の城に住んだ。妻は公爵家の相続人、女性公爵であったから、ナポレオンの時代も、王政復古の時代も何不自由のない貴族的生活を続けた。彼の土地と城は売り払われたが、それに相当する補償金を政府から受け取ったので、莫大な金融資産の所有者になった。
つまり、本人がブルジョア的貴族になったのである。1830年7月革命の時、彼は議員の選挙に打って出て、当選した。当然、昔と同じく自由主義者であって、時の政権の絶対主義的傾向に抵抗した。革命運動には参加しなかったが、復古王政が倒れると、大統領に推挙する声が上がった。大統領ならラファイエット、王政ならルイ・フィリップ十言われ、結局王制に落ち着き、ラファイエットの出番は消え、しばらくして死んだ。
ワシントンは戦勝とともに、辞職した。功労金を提供されたが辞退した。西郷隆盛に似たところがある。引退しても大農園がある。それに比べると、西郷の土地は小さい。そのうえ、「子孫のために美田を買わず」という漢詩を残している立派な人物である。
ワシントンは十年後アメリカ合衆国連邦の成立で、初代大統領に擁立された。この最大の目的が、どこかの州で反乱がおきたとき、中央政府が鎮圧するというものであったから、日本に例えていうと、ワシントンは西郷隆盛の路線ではなく、大久保利通の路線を進んだものということができる。
二度目に登場した西郷隆盛は、フランス革命のロベスピールに似ている。中間層の革命理論を実現しようとするが、それが失敗する。政府官僚の腐敗に憤慨し、批判する。後輩からは煙ったがられる。後輩の利権争奪戦を、「脱出す、人間虎豹の群れ」と漢詩に書いて批判した。こういう傾向がロベスピールに似ている。こうして西南戦争に殉じる。その胸中を察すると、これ以上は書けない。

2018年1月24日水曜日

小林良彰(歴史学者、東大卒)の西郷隆盛論、ワシントン、ラファイエット、クロムウエルと比較すると

小林良彰(歴史学者)の解釈では、この4人が同じだということになる。共通点は、旧体制、アンシアン・レジーム、大土地所有者の支配を打破する。そのために、ある種の武装勢力(これはその国の特殊事情によって、多様性がある)と、大商人、金融業者(一般的に動産の所有者、フランスではブルジョアジーと呼ばれ、イギリスでは、東インド会社などの貿易商人が優勢、アメリカでは密貿易商人として犯罪者扱い、日本では素町人と呼ばれて、また士、農、工、商の位置づけで最下級となっている)、の同盟を一人で代表する。この同盟の力で、旧体制を打破する。
打破した後では、新時代が来るが、これは動産所有者が指導権を握る社会である。当時ならば、大商人、銀行家(金融業者が進化する)になり、工業はまだ規模が小さい。ただし、むき出しの支配にはならない。まだ武装勢力の大群が指導者を立てて政府に影響を与える。彼らは命がけで戦ってきたのであるから、必ずしも拝金主義者ではない。
こういう状況の下で、この時の指導者は独特の信念の持ち主になる。これが市民革命の英雄の姿であり、ワシントン、ラファイエット、クロムウエル、西郷隆盛になる。
しかし二つの勢力はやがて分裂する。その分裂を象徴する日本版は、大村益次郎(兵部大輔)の言う「今の兵には、1大隊に2大隊の見張りをつけておかないと、何をしでかすかわからぬ」という言葉で表されている。同じような状況が、英、米、仏にも起きた。
イギリス革命では、その分裂の寸前にクロムウエルが病死した。インフルエンザだといわれているが、まさか毒殺ではあるまいなと思う。アメリカ革命では、ワシントンが、大商人の側に立ち、武装勢力の不満には同調しなかった。見捨てられた幹部で反乱を起こした者もいるが、今となっては歴史に出てこない。これが西南戦争のようなものだと思う。
フランス革命のラファイエットは、3年後に、革命政府に対する反乱を起こし、脱出し、敵国にとらえられた。彼は、領主権の無償廃止など、革命政府が貴族に対して、さらなる打撃を与えようとすることに反対したのである。つまり、貴族政治に反対して革命を起こしながら、「もうこのあたりでやめておけ」といいだしたといってよい。
西郷隆盛は江戸城を目指して静岡まで来た。そこで山岡鉄舟と面会する。その内容を軸に、品川で勝海舟と合意に達し、寛大処分、徳川本家を十分の一に圧縮して静岡に移し、江戸城の無血開城で討幕戦を終わらせた。外国軍の介入もありうるから、、日本人同士の戦争は早期終結が必要であった。
この後の西郷隆盛の行動は、不可解なものになる。彰義隊が上野寛永寺に立てこもった。輪王寺の宮を立てて別政府だという。これに対して、説得の努力を続け、討伐しない。京都の新政府から大村益次郎、大隈重信(財政担当)が来て、諸藩藩兵、最新式の大砲の効果も併せて、彰義隊を鎮圧した。西郷隆盛の指導的な役割は後退した。
彼は帰郷し、頭を丸めた。西郷入道といわれた。北越戦争に出かけたが、正式の司令官ではない。しかし実質的な方針を示すことはできた。ここでは寛大処分であったため、庄内藩の藩士は彼を尊敬した。
鹿児島に帰ると、藩政の改革に努め、上級武士の高額の禄を引き下げ、下級武士の状況を改善し、農民の負担を軽くした。商人の暴利は戒めていた。つまりは、中間層としての中・下級武士が戦士、官僚となる小国家を作ったといえる。
その間、新政府は批判勢力が郷里に帰ったので、大商人、新興企業家の政府になってしまった。批判は強くなった。もう一つ、諸大名の領地は独立している。新政府の財源は少ない。全国3000万国のうち、700万国のみが新政府のものであった。全部取ってしまわなければ、新政府とは言えない。ここで、批判的な西郷隆盛を引っ張り出すことになる。西郷隆盛は自分の理想を全国で実現できないかと考えている。
ここで両者が再び提携して、廃藩置県を実現した。これで武士の支配の時代は終わり、新政府の全国支配が完成した。日本における市民革命の完成である。だから、日本革命は、1868年に始まり、1871年で完成するという結論になる。