2018年4月18日水曜日

ジャコバン派は国民公会に存在しない

ジロンド派対ジャコバン派の対立で、フランス革命を説明することが当然のように行われてきました。しかし国民公会の中にジャコバン派という団体は存在しない。だから出発点において、従来のフランス革命史は間違っていたのです。
ジャコバンクラブはフイヤンクラブ、コルドリエクラブとともに存在した。1792年8月10日に事件で、フイヤンクラブは消滅した。ジャコバンクラブは全国的な組織として活動した。しかしいわゆるジロンド派政権が成立したのち、ジャコバンクラブの性格が急速に変化した。10月10日、ジャコバンクラブの議長はぺチヨンであり、彼はジロンド派の議員であった。10月12日ブリッソがジャコバンクラブから除名された。これ以後脱退するものが相次いだ。こうして、いわゆるジロンド派議員はジャコバンクラブからいなくなった。国民公会召集の22日後の事であった。
ジャコバンクラブに所属しながら、国民公会の議員であったものは、議事堂の端の小高い場所に集まった。当時はあだ名をつけることがはやっていたので、彼らのことを「山」に住んでいるという意味で「モンターニュ」と呼んだ。英語でいえば、マウンテンとなる。そこで、モンタニヤールとも呼ばれた。日本語では「山岳派」となる。どれを使うべきか、常に迷うところであるが、ここではモンタニヤールにしておきましょう。
ジャコバンクラブはこれを支持したけれども、今の政党政治でのように常に一致していたというわけではない。有力議員の中には、ジャコバンクラブに行ったことがないという人もいた。
だから国民公会の中の対立は、いわゆるジロンド派対モンタニヤールの対立であり、ジャコバンクラブは院外団体で、全国組織を持ちながら緩やかな形でモンタニヤールを支持していたというべきである。
ジャコバンクラブでは粛清投票というものがあった。腐敗、汚職の疑いがあると告発される。それについて、投票が行われる。これを嫌がって、いわゆるジロンド派が脱退した。フランス革命は素晴らしいものと思われているが、同時に贈収賄が多かったことも事実であり、「腐敗しないであろう人」はロベスピエールだけと思われていたので、このフランス語を頭文字大文字にすると、彼のあだ名になった。それくらい、疑いは多くの人にかけられていた。
約一年間、「清濁併せ呑む」と言う感じの団体で推移し、最終的にロベスピエール一人を信頼する団体になったとき、テルミドールの反革命で、ジャコバンクラブも全滅する。世界史的にみても、清廉潔白の代表者は、西郷隆盛、スイスのカルヴァン(カルヴィン)イギリスのクロムウエルくらいになるのだろう。
モンタニヤールは、中規模の事業者、地方の中小商人、パリなどの親方、工房の主人、豊かな自営業者などの利益代表者であった。

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