2018年4月1日日曜日

明治維新は西郷と俺でやったようなものだと勝海舟は言うが?

これはよく議論の的になる言葉ではあるが、確かに重大な歴史観の問題を含んでいる。勝海舟が誇るべき業績とは、江戸城の無血開城、将軍慶喜に対する寛大処分、大政奉還に対する知恵、さらにはそれ以前の西郷に対する助言などであろう。確かに西郷は、いざというときには「この勝先生と、ひどくほれ込み申し候」と書いている。様々な貴重な助言をもらったことをうかがわせる。立派な人物であり、幕府の欠点もよく承知している。「かの国のことを一言で言え」といわれて、「その地位にいる人はそれなりの人物であるが、我が国ではそうではない」と言い、老中に「控えおろう」と叱られたという。亜米利加のことである。
立場が違えば、確かに何事かを成し遂げたかもしれぬが、惜しいかな幕臣の枠を超えられなかった。生まれがそうだから仕方がない。旗本の下、御家人を含めた幕臣の中では中級の武士、この枠からは出られない。
大政奉還に対する功績は、坂本龍馬を通じてあり得ただろうが、ここで止まれば明治維新はない。将軍家は諸大名会議の議長、その足元には、上級旗本がピラミッド型に控えている。勝海舟はその末端くらいのものだ。大奥はそのまま、譜代大名の発言力もそのままとなる。これでは、何も変わらない。
そこで、薩摩から、辞官、納地が主張された。これこそが革命になる。であるがゆえに、幕府の側も大軍を集めて、京都を占領しようとした。しかし、勝海舟はどちらの側に立つのか。幕府の領地がすべて新政府に差し出されたら、彼の収入もなくなる。これが因果関係というもの、もろ手を挙げて賛成とはいかないだろう。
幕府の側は、薩・長の連合軍の三倍の兵力を持っていた。負けるとは決まっていない。むしろ逆であった。もし勝っていたら、安政の大獄が待っていたはずだ。だから、明治維新の基本は、鳥羽・伏見の戦いにあった。これで勝ったから明治維新があり、負けると安政の大獄になる。
これを勝つようにもっていった人物は、西郷隆盛をおいて見当たらない。薩摩の戦力、長州との同盟、三井の資金力の保証、これに加えて、江戸における騒乱を掻き立て、早期開戦に誘導したこと。この四つの重大な役割は、西郷隆盛が担っていた。朝廷、公家衆に対する工作だけは、大久保利通が担当した。ここに勝海舟の役割はない。
決定的瞬間には、勝海舟はお役御免で江戸にいた。将軍が逃げ帰り、敗残の兵が集まってくる中で、対決か恭順かの議論が江戸城の大会議で行われた。ここで、降伏と決めた。この時、勝海舟の個人的役割は決定的なのもではなかった。残務整理には大いに尽力した。徳川家の存続には、山岡鉄舟の役割も大きい。勝海舟一人の功績ではない。こう見てくると、明治維新の功績としては、西郷隆盛のほどのものにはならない。

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