2018年5月28日月曜日

いわゆるジロンド派議員が追放されても、ジャコバン派独裁は成立しない

ジロンド派の追放がジャコバン派の独裁を実現し、恐怖政治、テルール(フランス語)、(英語でテロ)を実行することになる。これが約150年続いたフランス革命史の定説であった。最後に出てきた、最も科学的歴史観だと、自他ともに称する人たちの意見を紹介しておこう。
アルベール・ソブール(パリ大学ソルボンヌの教授)は言う。「こうして山岳等を擁して、、サンキュロットが権力についた。ジロンド党を擁して、ひたすら自分に有利なように統治しようとした大ブルジョアジーが一時政治舞台から姿を消したのである」
アルベール・マチエは言う。「サンキュロットがひっくり返したものは、ただに一党派だけではなく、ある点までは一つの社会階級であった。大ブルジョア階級が倒されたのである」。
河野健二教授は言う。「ブルジョアジーの代表は陣地を明け渡して、小ブルジョアの代表たるモンターニュ派に譲った」。
私が彼らを批判して出てきて、十数年後、ソブール教授と河野教授に出会ったことがある。ソブール教授とは夕食をともにしながらの雑談になった。しかし、「あなたの意見は間違っているよ」という言葉はなかった。個人的には非常に好意的であったという印象を持っている。
しかしながら、学問の分野では厳しいことを言わねばならない。つまり、これらの意見は、文学的なフランス革命史であり、科学的には「ナンセンス」の一言に尽きる。追放したのは150人程度、まだ400人が残っているではないか。400をゼロとみなした歴史観が、上記3人の意見に集約されている。
もちろん、150年間これでやってきたのであるから、上記3人を個人的に批判するつもりはないが、とにかくこの理論は間違いであり、ジロンド派追放は、大ブルジョアジーの一部を敵に回して、排除したということである。大ブルジョアジーの残りの部分は平原派の背後でやっていくのであり、時には本人そのものが大ブルジョアジーの一員であった。
この段階では、まだ公安委員会も平原派中心で固められていた。だから、いきなりモンタニタールが権力を握ったことにはならない。
7月10日、公安委員会の改選があった。つまり約1か月のちの事であり、この時、平原派とモンタニヤールの議員が約半々になった。とはいえ、ダントンが落選した。これは重要なことであった。また、ロベール・ランデが食糧問題担当の公安委員になるが、彼をモンタニヤールに分類した勘定の仕方で「約半々」というのであるが、正確には、彼はジロンド派支持者であって、この時期になって、モンタニヤール支持者になったという、いわくつきの人物であった。
また平原派からここに入ってきたエロー・ド・セシェルは名門貴族、外国人銀行家とも親しく、デスパニャック(貴族、聖職者、武器商人)から金を借り、亡命貴族の伯爵の妻、を愛人にしていた。これを見て、「なんだこれは」と思うのが普通だろう。これがサンキュロットの代表者かね、というのが出てこないとおかしい。
サンキュロットとは、上流階級のはく半ズボン(キュロット)が「無い」という意味であり、つまりは働いている人たちを指す言葉であった。
サンキュロットが権力についたというのに、そこに働かない貴族、それもブルジョアジーとも関係の深い、伯爵夫人を愛人にしている貴族を迎え入れている。「これは何だ」というべきだろう。
もう一人、モンタニヤールからサン・ジュストという貴族が入ってきた。「恐怖政治の大天使」などともいわれる。恐怖政治を語るときの重要人物であるが、彼も貴族であって、サンキュロットではないことに注目するべきであろう。ぎゃくの見方をすれば、貴族だから、平民の犯罪者に対して、厳しい断罪を下すことについて、ためらいがないともいえる。日本でも、武士には切り捨て御免という習慣があった。だから明治維新直後では、武士出身の官僚は、平民に対して威張っていたのである。サン・ジュストの立場はこのようなものと思えばよい。
いずれにしても、ジロンド派追放によって、サンキュロットの政権ができたなどとは、ナンセンス極まりない理論であった。

いわゆるジロンド派議員が追放されても、ジャコバン派独裁は成立しない

ジロンド派の追放がジャコバン派の独裁を実現し、恐怖政治、テルール(フランス語)、(英語でテロ)を実行することになる。これが約150年続いたフランス革命史の定説であった。最後に出てきた、最も科学的歴史観だと、自他ともに称する人たちの意見を紹介しておこう。
アルベール・ソブール(パリ大学ソルボンヌの教授)は言う。「こうして山岳等を擁して、、サンキュロットが権力についた。ジロンド党を擁して、ひたすら自分に有利なように統治しようとした大ブルジョアジーが一時政治舞台から姿を消したのである」
アルベール・マチエは言う。「サンキュロットがひっくり返したものは、ただに一党派だけではなく、ある点までは一つの社会階級であった。大ブルジョア階級が倒されたのである」。
河野健二教授は言う。「ブルジョアジーの代表は陣地を明け渡して、小ブルジョアの代表たるモンターニュ派に譲った」。
私が彼らを批判して出てきて、十数年後、ソブール教授と河野教授に出会ったことがある。ソブール教授とは夕食をともにしながらの雑談になった。しかし、「あなたの意見は間違っているよ」という言葉はなかった。個人的には非常に好意的であったという印象を持っている。
しかしながら、学問の分野では厳しいことを言わねばならない。つまり、これらの意見は、文学的なフランス革命史であり、科学的には「ナンセンス」の一言に尽きる。追放したのは150人程度、まだ400人が残っているではないか。400をゼロとみなした歴史観が、上記3人の意見に集約されている。
もちろん、150年間これでやってきたのであるから、上記3人を個人的に批判するつもりはないが、とにかくこの理論は間違いであり、ジロンド派追放は、大ブルジョアジーの一部を敵に回して、排除したということである。大ブルジョアジーの残りの部分は平原派の背後でやっていくのであり、時には本人そのものが大ブルジョアジーの一員であった。
この段階では、まだ公安委員会も平原派中心で固められていた。だから、いきなりモンタニタールが権力を握ったことにはならない。
7月10日、公安委員会の改選があった。つまり約1か月のちの事であり、この時、平原派とモンタニヤールの議員が約半々になった。とはいえ、ダントンが落選した。これは重要なことであった。また、ロベール・ランデが食糧問題担当の公安委員になるが、彼をモンタニヤールに分類した勘定の仕方で「約半々」というのであるが、正確には、彼はジロンド派支持者であって、この時期になって、モンタニヤール支持者になったという、いわくつきの人物であった。
また平原派からここに入ってきたエロー・ド・セシェルは名門貴族、外国人銀行家とも親しく、デスパニャック(貴族、聖職者、武器商人)から金を借り、亡命貴族の伯爵の妻、を愛人にしていた。これを見て、「なんだこれは」と思うのが普通だろう。これがサンキュロットの代表者かね、というのが出てこないとおかしい。
サンキュロットとは、上流階級のはく半ズボン(キュロット)が「無い」という意味であり、つまりは働いている人たちを指す言葉であった。
サンキュロットが権力についたというのに、そこに働かない貴族、それもブルジョアジーとも関係の深い、伯爵夫人を愛人にしている貴族を迎え入れている。「これは何だ」というべきだろう。
もう一人、モンタニヤールからサン・ジュストという貴族が入ってきた。「恐怖政治の大天使」などともいわれる。恐怖政治を語るときの重要人物であるが、彼も貴族であって、サンキュロットではないことに注目するべきであろう。ぎゃくの見方をすれば、貴族だから、平民の犯罪者に対して、厳しい断罪を下すことについて、ためらいがないともいえる。日本でも、武士には切り捨て御免という習慣があった。だから明治維新直後では、武士出身の官僚は、平民に対して威張っていたのである。サン・ジュストの立場はこのようなものと思えばよい。
いずれにしても、ジロンド派追放によって、サンキュロットの政権ができたなどとは、ナンセンス極まりない理論であった。

2018年5月27日日曜日

いわゆるジロンド派はなぜ追放されたのか

1793年6月2日いわつるジロンド派、当時の言葉でいえばロランの党派とブリッソの党派が追放された。約150人であった。追放とはいっても、殺されたわけではない。大多数は自宅軟禁であった。
なぜこういうことになったのか、この説明が従来のフランス革命史では明らかにされていない。経済のことをよく知らない、文学者的歴史家が書いたから、やむを得ない。
国王ルイ16世の処刑を巡ってだとほのめかした古い歴史家がいるが、これは違う。平原派が二つに割れたからだ。
経済が歴史解釈に入ってくると、最高価格制を巡る論争が激しくなったことがしょうかいされ、これがその原因であるかのように書く歴史観もあった。私も、若いころ、そのように思いこまされていた時期があった。しかし、詳しく調べてみると、追放の直前、ぎりぎりの段階で、いわゆるジロンド派の議員が、やむを得ず受け入れると発言したことを知った。どんなに激しく抵抗しても、多数決を認めたら、追放する必要はない。だから、これも違うのだ。
「たとえ命をとられても賛成できない」、こういう論争点はないか、「命ばかりはお助けを」が通用しない問題点、これは何か、このように考えていくと、簡単に回答が出てくる。命の次に必要なものは、時には命がけで、となると、「お金」が出てくる。つまりお金の問題なのです。
議題は、「10億リーブルの強制公債」といわれ、「累進強制公債」「革命税」とも言われた。公債という言葉を使うが、公債を発行するのではない、公債台帳に登録するだけ、つまりは国家の借金帳簿に書き込むだけのもので、「そんなもの、この非常事態に返してもらえるあてはないよ」というのが、人々の本音であった。だから、だれも登録したがらない。
だから、公債といわれながら、革命税ともいわれたのである。さらなる問題は、これが累進的であったという点にある。これは今日の日本、あるいは先進国では当然と受け止められるが、この当時の世界では、「びっくり仰天するような」話であった。日本でも、戦前の社会で累進税を口にすると、「赤の思想家」といわれるほどのものであった。税金は一律、これが常識であった。
その常識を破って、税率を累進的とし、収入の上限を設定して、それ以上は無条件没収とした。この原則を国民公会が公布し、具体的な適用は、各地方に派遣された派遣委員と地方行政当局に一任した。
5月20日、いわゆるジロンド派の反対を押し切って、この法令が可決された。提案者は財政委員会議長カンボン、これに平原派議員とモンタニヤール議員が賛成した。
さっそく地方で徴収が始まった。リヨンでは派遣委員のデュボワ・ド・クランセが厳格に徴収し、3000万リーブルになった。一人の商人が6万リーブル支払わされたという。(1リーブル約1万円)。5月29日、衝突、内乱となった。マルセイユでも同じことが起きた。
パリにもマルセイユ代表が来て、国民公会で脅迫的な反対演説を行った。10か月前には、マルセイユの若者がパリを守ったという自負もある。しかし、ジャコバンクラブの中には彼らの暗殺を狙っているものもいるというので、ジロンド派議員が彼らを匿い、決定的対立に向かって進んだ。
これが対立の本質であるが、「お金の問題」は表に出しにくい。そこでいわゆるジロンド派議員は、過激派の運動家に攻撃の的を絞り、それをモンタニヤールの議員が応援しているとして、その勢力を削ぎ、平原派を自分のほうに引き付ける作戦に出た。その第一歩として、エベール、ヴァルレという二人の過激派指導者を逮捕した。逮捕する権限は、「12人委員会」というジロンド派系議員の組織するものであった。この時の国民公会は、出席者の変動が大きく、60人程度の議員が派遣委員として前線に出かけていたので、時にジロンド派が採決で有利に立つときがあった。
これが5月20日の事であった。これに対して、抗議運動が起きた。5月27日ロベスピエールがジャコバンクラブで武装蜂起を呼び掛けた。すると、国民公会は、二人の釈放、12人委員会の廃止を決定した。しかし翌日、また12人委員会の復活が決定された。出席者の人数が違うからこうなったのである。
これで、ジャコバンクラブ、パリ・コミューン、モンタニヤール議員、過激派の運動家に危機感が高まり、武装蜂起へと向かった。5月31日、国民公会を包囲し、12人委員会の廃止、ジロンド派議員の追放を要求した。しかし、12人委員会の廃止は決めたが、議員の追放は決まらなかった。翌日の6月1日、再度の武装蜂起が計画された。今度は22人の議員の逮捕の要求が追加された。その筆頭に前内務大臣ロランがあげられ、次に銀行家、財務大臣のクラヴィエールが加えられた。ロランは素早く逃げたが、途中で自殺した。6月2日国民衛兵と武装市民が議事堂を包囲した。
平原派議員の中には、両者の調停をしようとするものもいた。いわゆるジロンド派議員に辞職を進めたものもいる。しかし、議員の職を死守するという。平原派議員には、武装蜂起の指導者を批判するものもいた。バレールやダントンもそうであった。累進強制公債の提案者カンボンもそうであり、このようなことをすれば誰も発言しなくなるといった。採決でジロンド派を押し切ったとしても、追放には反対、これが平原派の考えであった。しかし、結局は群衆に押し切られた。
この時、マルセイユ、リヨンで反乱がおきて、ジャコバンクラブ員が殺され、ブルターニュ、ノルマンデイーというパリに近い州の地方政府が離反し、ヴァンデーの反革命暴動の群衆がナント市に向かっているという報告が来た。もちろん、マルセイユ、リヨンの反乱も起きている。それに加えて、オーストリア、プロイセン、イギリス、スペインの軍隊が四方から押し寄せている。国家滅亡の危機に瀕して、すべての人間が殺気立っていたのである。

2018年5月21日月曜日

いわゆるジロンド派とジャコバン派がそろって野党になった時期がある

このような言葉は、中学、高校の教科書で、「ジロンド派対ジャコバン派の対立」と習ってきた人たち、もちろん私もそうではあるが、まず全員にとって「びっくり仰天」であり、受け入れがたいものであろう。しかし事実はそうである。1793年4月から、同年6月までの短い期間ではあるが、相対立する両派を退けて、何が残るのかと質問してもらいた。そうすれば待ってましたとばかり「それは平原派だ」と答えることになる。左右両派を排除して、中央派が権力をになう、こういうことは議会政治でよくある図式であるから、驚くに値しない。
半年間は、いわゆるジロンド派の時代であった。厳密には、ジロンド派と平原派の連立政権であった。政党政治はまだ確立していない。ほどんどが一人一党主義、是々非々主義であった。その中にあって、ロランとブリッソを中心にまとまっていたいわゆるジロンド派が、何かと有利になっていただけのことであった。しかし、やがて、平原派の議員が慣れてくると、発言力も強まる。
ロランが内務大臣を辞任すると、後任に平原派のガラがなった。学者、教授、ダントンの友人、のちにロベスピエールを倒した後、公安委員会に入った。ナポレオンのもとでは貴族院議員になった。ロランの後任になると、自由主義経済政策を修正した。この中身を詳しくやりだすと、読者が退屈するであろうから、大まかな定義にとどめておきます。
ロラン派がいわゆるジロンド派の約半分を占めていて、あと半分がブリッソ派であった。このブリッソ派に対する批判がジャコバンクラブで行われた。
「ブリッソ派は何をしたか。彼らは金持ち、商人、大資産家の貴族政治を樹立しようとしたのである。これらあの人間が人類の禍であり、利己主義と欲望のためにすべてを犠牲にするような人間で…もし選ぶことができるなら、、旧体制のほうをとりたい。貴族と宗教家は多少の人徳があったが、これらの人間はそれすら持ち合わせない」。
ブリッソ派の本質を見事に表している。この集団は、ベルギー戦線の敗北、軍需物資調達を巡る大規模な汚職、軍事費の横領、兵士の士気低下の原因になったことを追及され、政権から外された。
この場合は、罷免、辞職ではなく、公安委員会を組織して、内閣をその下に置くという形で、平原派がブリッソ派を支配することになった。公安委員会といえば、モンタニヤール、ジャコバンクラブだと思っている人には、認めたくない事実ではあるが。
その後、財政委員会が組織され、独立した権限を持って、国家財政をジロンド派から切り離してしまう。
いわゆるジロンド派と平原派を分けるものは何か。共通点は、ブルジョアジー上層の代表者であることだ。相違点は、強欲資本主義か、常識的なビジネス一筋か、けちな金持ちか、儲けてもきれいに使う、あるいは一部を貧者に還元するか、国家の利益に反しても儲けるのか、国家の利益を優先しようとするのか、この違いである。これはどこの国、どの時代にもあることで、どちらが優勢になるかは時と条件によって決まる。

2018年5月19日土曜日

いわゆるジロンド派の全盛期は短い

1793年1月21日、国王ルイ16世の処刑があり、22日内務大臣ロラン・ド・ラ・プラチエールが辞職した。穀物商業の全面的自由が、ブリッソ、クラヴィエールの派閥とも衝突したからである。つまりこれは、いわゆるジロンド派の内部分裂を現している。
ブリッソ、クラヴィエールは、軍隊に対する食糧調達に際しては自由を優先するわけにはいかないという立場であった。自由主義経済学が現実と衝突した瞬間であった。
次にデュムーリエ将軍の反逆事件が起こった。1793年3月18日、ネールウィンデン(ベルギー領)の敗戦が出発点であった。フランス軍はオーストリア軍に大敗し、敵国軍は国境に近づいてきた。3月29日、国民公会はデユムーリエ将軍の罷免、逮捕を決議した。しかし将軍は逆に、政府から派遣されてきた陸軍大臣と派遣委員を逮捕して、オーストリア側に引き渡した。さらに軍をパリに向けて進軍させる命令を出した。つまり、敵国軍と共同作戦を立て、一緒になってパリを占領しようとした。ここで軍隊が分裂して、将軍に敵対してフランスを守るという将校たちの抵抗にあい、デュムーリエは将軍国外に逃亡した。
何とも奇妙な事件ではあったが、これには、オルレアン公爵の息子ルイ・フィリップと国民公会議員で大貴族のシルリー侯爵も絡んでいて、のちにオルレアン公爵の処刑にまで発展する。
またこの事件で、軍需物資調達に絡む大規模な汚職、収賄、国庫横領が表面化して、大問題になった。これは普通のフランス革命史には出てこない。裏面史、または経済史には出てくる。大軍が動き始めると、軍隊への物資供給が重要になってくる。まして国外への遠征ともなると、あらゆる必需品を軍隊の隅々にまで届ける必要に迫られる。そこで、この仕事を請け負う業者が花形になり、利益がそこに集中する。あらゆる人たちがそこに参入したといわれているが、ベルギー戦線ではデスパニャック僧正という新規参入者がデュムーリエ将軍と組んで、取引を独占した。若い美男子の大貴族であったといわれる。
カトリックの国では、貴族の次男、三男、あるいは長男でも何かの事情で教会に入れられ、聖職者になる。日本でいう、門跡寺院の長になる。こういう人たちは、「えらい」けれども、「坊主の不信心」みたいなところがある。デスパニャック僧正は、それを絵にかいたような人物、すぐに商売人に鞍替えして、デュムーリエ将軍にリベートを出し、適正価格の2,3倍の値段で軍需物資を供給した。
そこで、国民公会の側からすると、国家財政の資金は出したのに、それに見合う物資が下まで届いていないということが判明した。兵士の待遇が悪くなった。これが特に義勇兵の不満に結びつき、帰郷するものが増えた。もともとボランティアであるからそれは当然の事であった。これも敗戦の原因だとされた。このような意見を出したのが、カンボン、ドルニエなどの平原派議員、反対して、汚職はないとしたのがいわゆるジロンド派議員、ダントンはその調査に派遣されたが、汚職はないという立場であった。この段階では、ジロンド派と組んでいた。
このようなことがあって、1793年4月一つの転機が起こった。公安委員会の設立である。後世から、恐怖政治の執行機関とみなされている。国防についての権力を与えられた。のちに大臣を指揮監督する権限を持つに至った。たとえて言うならば、公安委員が大臣で、大臣が次官になるくらいのものであった。しかしよく見ると、今の日本の議院内閣制はそれになっているではないか。とすればさほど驚くべくことではない。
重要なことは、この公安委員会に選出されたものが、いわゆるジロンド派議員には皆無であったことである。これは重要なことであって、これを強調するのは、世界でも私だけだと思ってもらいた。事実を書いた人は少数ながらいる。しかし評価をしない。なぜなら、ジロンド派追放とともにジロンド派権力が消滅したという、従来の理論に縛られているからである。
実際には、4月の時点で、ジロンド派は権力から排除された。ただし、モンタニヤールは権力を握っていない。誰かといえば、平原派しかないだろう。少数ながら、ジロンド派寄りから、平原派あるいはモンタニヤール派に移行した人物がいた。9人中3人がそうであり、ランデ、ダントン、ドラクロアであった。
この段階で、いわゆるジロンド派は権力から離れたといってよい。ただしモンタニヤールもまだだという段階、つまりは平原派の権力ができたといえる。だから、ジロンド派の権力は1792年10月から1793年4月まで、約半年だけであった。

2018年5月11日金曜日

小林良彰(歴史学者、東大卒)のフランス革命論、ブルジョアジーの権力に大貴族が協力した

いわゆるジロンド派政権は、ブルジョアジーの政権であった。1792年の夏から93年の夏に至る一年間のことになる。これは誰もが認める真理である。ならば、ブルジョアジー一色であっただろうなと、暗黙の裡に思うだろう。この先入観が、他国と比較するときに誤解を生む。特にわが日本との比較になると、「日本では下級武士出身の官僚が支配し、明治維新の初期には、旧大名、公家が権力に参加した。これこのように古い体質が残っている」。これで議論が打ち切りになる。そこで、「あれ、フランスでもそうだが」と私は言いたい。
まず内務大臣ロラン・ド・ラ・プラチエールが法服貴族であることは前にも書いた。
コンドルセ侯爵有名な思想家、ヴォルテール学派の学者であり、国民公会の書記に選ばれた。この段階では、彼の存在が国民公会に名誉を与えたといわれた。
イザルン・ド・ヴァラデイ侯爵も名門貴族であったが、国民公会ではいわゆるジロンド派と行動を共にした。
シルリー侯爵はルイ15世の外務大臣の甥という権力に近い人物であったが、国民公会では、いわゆるジロンド派に参加していた。彼の妻はジャンリ伯爵夫人、マダム・ド・ジャンリという名で、文筆家で有名であった。
最大の協力者は、オルレアン公爵家であった。王族で、最大級の大領主であった。この段階では公爵の名を捨てて、「平等」だと称していたので。「フィリップ・エガリテ」と呼ばれた。日本では「平等公」を訳しているが、正確にいえば平等だけする必要がある。日本に例えていえば、御三家の徳川の藩主が新政権に参加したようなものである。この息子のルイ・フィリップがジロンド派将軍デュムーリエと協力し、ベルギー戦線に出動し、のちに外国に逃亡するが、ずっとのちの七月革命でフランスの王になった。
つまりフランス革命でも。常に貴族、前時代の一部の影が見えるのである。

2018年5月10日木曜日

いわゆるジロンド派の時代・何をしたか?

1792年9月20日ヴァルミーの会戦で勝った日、国民公会の招集があり、この日から新政権の誕生になる。とはいえ、行政権としての臨時行政会議続いている。形式的には国王ルイ16世によって任命され、国王が投獄されてからは、立法議会の承認によって、仮に認められていたものが、国民公会によって、正式に承認されたことになる。
国民公会の派閥は、いわゆるジロンド派、中間の平原派、左派のモンタニヤール(派)となる。ジロンド派という言葉は当時にはなかった。ブリッソの党派、ロランの党派という言葉で当時は表現されていた。ブリッソはパリ銀行業界の利害を代表し、個人的には銀行家で、財務大臣をしているクラヴィエールと親しかった。ロランはリヨンの絹織物業界の利益代表者であった。
これから約一年間は、モンタニヤールが野党で、その他が与党という色分けで政権が運営される。だからジロンド派政権という言葉は、文学、小説の中ではよいが、科学的には正しくない。正しくは、ブリッソ派、ロラン派、平原派(無党派の集団)と言い換えるべきだ。
この権力、前年からの政争を引き継ぎ、封建貢租の無償廃止を実現した。これで領主権は完全に消滅した。これが重要なことで、今までは、これが一年後に実現したと書いてきたのである。領主権の完全廃止であるが、貴族の直領地は残る。だから、城付きの大土地所有は残るのである。
ただし、亡命貴族については、この城付き大土地所有が、没収売却の対象になった。国有化された後、競売に付された。それを誰かが買う。買った人が新しい城主になり、その周囲の大地主になる。メルラン・ド・チオンヴィルというモンタニヤール議員が、「今朝は鹿狩りをしてきた。君は貴族の土地を持っているか。いいものだぞ」といったが、このような変化をもたらした。
財務大臣クラヴィエールはかねての主張、旧体制のもとでの国庫に対する債権、つまり特権商人グループが、王権に対して高利貸し的な貸し付けをしていた場合、これを切り捨てないで保証すること、これをフイヤン派の政権がが続けていたことへの批判、その批判をいよいよ実行した。10000リーブル以上の債権は切り捨てというものであった。現在なら、一億円以上は切り捨てというものであった。
こうしてブルジョアジーが、前時代への寄生的性格を薄めていった。
内務大臣ロランの主張で穀物商業の自由が実現した。これは、当時盛んになっていた経済的自由主義の思想を実現したものであった。レッセフェール、レッセパッセの主張であり、すでに旧体制のもとで唱えられていた。旧体制のもとではがんじがらめであったから、ブルジョアジーの権力が確立した今、かねての理想、自由主義を実現したのである。自由が旗印であるから、当面はビジネスマン、フランス語ではオム・ダフェールが経営に熱中するだけに時代になった。
もう一つ、国王の裁判があった。国王と王妃が、フランス軍の作戦計画を、敵国オーストリア皇帝に知らせていたことが明るみに出た。これは裏切り行為であるから、死刑か助命かが論点になった。平原派が二つに割れ、小差で死刑になった。この問題では、平原派が分裂した。いわゆるジロンド派でも、死刑論者が出た。

2018年5月7日月曜日

ジロンド派と平原派の共通点と相違点

いわゆるジロンド派と平原派はそれぞれ約150名と400名、合わせてともにブルジョアジーの利害を代表するものとして、国民公会の議論を指導した。ブルジョアジーの党派、これが共通点であった。こうはっきり定義するのは、世界で初めてであることを知ってください。今までのフランス革命史家は、ジロンド派がブルジョアジーの党派だと書いていた。それではジロンド派が負けた時、ブルジョアジーガ負けることになる。
そう思い込むから、日本の大塚史学のように、ジロンド派の敗北、モンタニヤールの勝利で、巨大企業アンザン会社,クルゾー会社が圧伏されたとか、廃棄されたとかいう理論が作り出された。それからそれへと前期的商業資本の理論が作り出されて、それが東大、名大で講義され、日本のエリート集団に固定観念を植え付けた。特にクルゾー会社は横須賀の造船所を作った企業であるから、「フランス革命で圧伏、廃棄されたものが、数十年後に日本の造船所を作るとはどういうことか」、と疑問を出しても、そうだそうだという声は全く聞こえなくて、はじめは屁理屈をつけて反論し、負けそうになると、異端視して、無視する、こういうことで今まで来たしまった。
もし平原派の存在と役割を認識しているならば、ジロンド派の敗北は、ブルジョアジーの一部の敗北であり、それも半分よりも少ないと考えるだろう。平原派は2倍以上いる。つまり、ブルジョアジーは恐怖政治の全期間を通じて健在であった。だから、クルゾー会社も残る。これが事実だ。この事実だけでも、明治維新が市民革命であるかどうかの議論に根本的な変化を起こす。こういうことを背景に、今ジロンド派と平原派の問題を扱っている。
ならば両者をわかつ相違点とは何か。累進強制公債が、どうしても認められないという立場の相違であった。それ以前の税金体型は、一律の課税が原則であった。十分の一税に見られるように、富める者も貧しい者も同じ率でというわけだ。しかし、国家が滅亡の淵に立った時、金持ちが多くを出して、軍事費を賄おうという意見、これが平原派から出てきた。財政委員会のカンボンがこれを代表した。しかし、ジロンド派はどうしても容認できなかった。それならば、武力で反抗をという姿勢であった。
ジロンド派の一般的な信念は経済的自由主義の堅持であった。これは旧体制の王権と戦うときには立派な理論になった。しかし、自分たちが権力をとったとき、しかもそれが危機に瀕した時、ある程度の統制経済、非常手段と取る必要に迫られる。その変化に対する適応力、それは平原派にあったので、ジロンド派は頑固であった。これが敗北の理由である。それをさらに推し進めると、ビジネスの在り方の相違に行き着く。
統制経済、非常手段のもとでも利益を上げる見込みのあるものと、それでは損失が多すぎると思うもの、その差であろう。この時点のフランスは軍事経済に移行している。それで儲かるものと損をするもの、こういえば、第二次大戦の日本を振かえると、だれもが「ああ」と納得するだろう。リヨンの絹織物、ボルドーのワインというと、一目瞭然、どうも損失が大きい。ボルドーの県がジロンドという。ここ出身の議員がジロンド派で目立っていた。それでその名が後世になって付いた。
こういうわけで、。両派の分裂はビジネス界の分裂を反映した。したがって、ジロンド派の追放はあったとしても、ブルジョアジーの政権は続いたのである。

2018年5月4日金曜日

カンボン・財産のロベスピエールといわれた平原派議員

カンボンがなぜ財産のロベスピエールといわれるのか、そこからフランス革命の本質と、ブルジョアジーのある部分の動向を知ることができる。今の日本でも、財務省、旧大蔵省を抜きにしては、政府を語ることはできない。政府の中の政府、エリート中のエリートだ。この頂点にカンボンがいた。しかも恐怖政治のさなかにである。ならばロベスピエールの子分であったのか。そうではない。独立していた。また派閥が違う。ロベスピエールはモンタニヤール、カンボンは平原派である。
平原派はあまりしゃべらない、うおさおする。日和見主義者、「蛙」とかるくみられているが、このカンボンは違う。よく発言する。しかも戦闘的に。そこで私はこの人物に着目し、50年以上前から調べてきた。
彼は南フランスの大商人の息子であり、父親と息子は文通をしていた。「明日、ロベスピエールか、私か、どちらかが死ぬでしょう」。これは、テルミドールの反革命の前日、息子が父親に送った手紙であった。当日、「名誉を傷つけられる前に、発言をしたい」といって、ロベスピエールに対して反論とした。これが国民公会の審議の流れを変えた。前日までは満場一致でロベスピエールに賛成、今度はロベスピエール逮捕の決議と流れが変わった。カンボンは金持ちの住宅街の若者を武装させて、護衛兵として連れてきた。こういうことは、カンボンがブルジョアジーの戦闘的な指導者であることを物語っている。何を巡ってロベスピエールと対立したのか。それは、亡命貴族財産を没収したことでできた国有財産を、無料で貧しい愛国者に与えるという法令に反対したからである。カンボンの意見は、国有財産は売られなければ財政問題の解決にならないというものであった。
しかし、ならばなぜ財産のロベスピエールといわれるのか。彼はまず、いわゆるジロンド派内閣のころ、デユムーリエ将軍と巨大政商になったデスパニャック僧正の不正取引、国庫略奪を告発した。この問題で、ダントンが調査のために派遣されたが、あいまいな結論になった。のちに、ダントンの収賄も疑われるようになった。この腐敗のために軍隊の士気が低下し、オーストリア軍に対する敗戦につながった。
やがて、国境が危なくなり、国家存亡の危機に直面すると、国民公会の財政委員会が財政問題の全権力を握ることになった。その議長がカンボンであった。公安委員かからは独立している。したがって、カンボンの上がない。財政問題に関しては独裁者ということになる。
カンボンは危機の際して、様々な手を打ってくる。その手段の多くがいわゆるジロンド派の反対に出会った。紙幣としてのアシニアの強制流通、貴金属との交換停止、違反者に対する罰則、累進強制公債(実質的な累進課税)などである。現在の日本からすると、まあそういうこともありうると思われるだろう。しかし当時これはとんでもないことだと思われた。そこで意見が分かれ、死闘になった。
国民公会では、平原派とモンタニヤールが賛成、いわゆるジロンド派が反対となった。議決だけなら問題がなかったが、ジロンド派は武力をかき集めて反抗を試みた。それに対する反発として、パリ市民の大群が国民公会を包囲して、ジロンド派議員の追放、逮捕を要求した。カンボンは、追放には反対した。意見を表明したからといって、追放するのでは、誰も意見を言わなくなってしまうというものであった。こうして、カンボンと平原派議員は、追放に抵抗し、最後に議員だけで強行突破しようとして、「砲手、砲につけ」という有名なアンリオーの号令に屈して引き返した。カンボンはこの復讐はいずれしてやるといったという。
カンボンは、政策としてはジロンド派の反対を押し切っている。しかし、ジロンド派の追放には体を張ってまで反対をした。したがって、モンタニヤールとも対立する。両派と対立して身が持つのかというと、両派合わせて約300人、平原派だけで400人、成り立つのである。これがわからなければならない。
ならば、いわゆるジロンド派とカンボンのような平原派との違いは何かということになる。一口で言うと、非常手段は絶対ダメだというブルジョアとやむを得ないだろうというブルジョアの相違ということになり、非常手段のもとでも儲けられるものは、賛成ということになる。軍需産業、軍隊への納入業者、など今でも考えられる。累進課税は、今の社会では当たり前で、それでも儲かるところもある。こう考えると、平原派が多数であることも理解できるであろう。つまり、恐怖政治の時代もブルジョアジーの権力の時代であった。
ただ一つ、カンボンは高額年金の切り捨てという政策を強行した。これで、高額年金の受給者の恨みを買った。これが財産のロベスピエールといわれる理由である。これはそこまでする必要があったのかどうかわからない。

2018年5月2日水曜日

恐怖政治の平原派議員、無名であってもビジネス界の有力者

政治の表舞台では、いわゆるジロンド派、ジャコバン派が華々しく活躍するから、歴史の舞台では平原派議員はかすんでしまう。いやそれ以上に、無視され、ゼロとみなされる。しかし実際の社会性生活では、ブルジョアジーの成功者として、こちらの方が上になる。フランス革命がブルジョアの革命であるからだ。
実例を挙げよう。ドルニエは鉄鋼業者、大土地所有者、大砲を原価で国家に提供して、「誠実の人」といわれた。つまり恐怖政治の政府に全面協力をした。財政委員会の委員のひとりであった。この時期の財政委員会は、財務省を指揮する権限を持ったから、事実上の財務次官に相当する。ジロンド派将軍デュムーリエと巨大武器商人デスパニャックの不正取引、汚職を告発して戦った。こういう正義の士ではあったが、この時期に立派な城を買い入れた。つまりは、亡命貴族財産の没収・売却の制度を利用して、成り上がりものになったのだ。正義感ではあるが自分の利益は忘れない、これ、良い意味でのブルジョアジーというべきであろうか。
もう一人の、財政委員ジョアノはもともと、王立ウェッセルラン・マニュファクチュア(繊維、染色)の実力経営者であった。大塚史学の定義によれば、特権的、前期的商業資本の組織する大工業で、こうしたものは恐怖政治の時代に廃棄されるものと定義されるが、実際にはその経営者が国家の財政を握っていたこと、これを知る必要だある。
ギュィトン・モルヴォーは法服貴族、領主、工場主、鉱山開発業者、ラヴォアジエと協力して、化学研究を行い、発明の工業化も行った。ジロンド派の追放には反対した。しかし、ジロンド派が追放され、友人のラヴォアジエが処刑されたとしても、彼は公安委員会に残っていた。一度やめて、公安委員会からモンタニヤールが追放された後、またここに入ってきた。恐怖政治の時期、パリで武器工場を経営していた。
この人物と親しかったのが、同じ平原派議員のバレールであった。公安委員会で外交を担当し、名演説家、ギロチンのアナクレオンと呼ばれる。最後までロベスピエールを支持して、土壇場で態度を変えた。カメレオンともいわれる。
平原派は一つの意見にまとまっているわけではないが、ブルジョアジーの上層を代表し、その時に合わせて意見を変える。こうして激動の時期を乗り切る。信念の為に殉死することはなく、保身の術にはたけている。こういう集団がフランス革命の荒波を乗り切ったとみると、ジロンド派対ジャコバン派の対立でフランス革命を論じてきた従来に歴史観とは、また別な結論が出てくるだろう。

2018年5月1日火曜日

恐怖政治の平原派指導者カンバセレス、政・財・官を一人で代表する

フランス革命の本質を一人で体現するような人物がいる。南仏モンペリエ出身のカンバセレスである。フランス革命の出発点では、これという活躍をしていない。国民公会に選出されたが、いわゆるジロンド派にもジャコバン派にもつかない。
国王ルイ16世の裁判が始まり、死刑か助命かの投票が行われた時、一人独特の理論を展開して、有罪ではあるが、裁く権利がないという法律論を展開した。当時は死刑反対論者だと思われたが、のちに王制が復活した時は、国王を殺した側だとされて国外追放となり、のちに論旨が見直されて帰国を許されるという独特の運命を多たどった。いかにも平原派的な行動に見えるが、少なくとも、「定見を持たない、日和見主義者、強い方についてうろうろする」という侮蔑には値しないことは分かる。むしろ、一人一党主義、是々非々主義というべきか。
国民公会では立法委員会議長をを務めた。というのは、彼が法服貴族であり、法律の学校を卒業してきたからである。三部会の選挙の時は貴族部会の候補に挙がり、補欠のような形で議員にはなれなかった。
ロベスピエールの失脚ののち、一時的には公安委員会に名を連ねるが、昔ほどの権力ななかった。ナポレオンがクーデターを起こして権力を握ったとき、シェイエスの後を受けて第二統領になった。ナポレオンは戦争のために国外に出ることが多い。その時は、実質的にカンバセレスが最高権力者になる。さらにナポレオン法典の編纂の最高責任者であった。法律は彼の専門であり、ナポレオンにはよくわからない。つまり、フランス革命で起こったことを明文化した、そこに彼が最大の貢献をしたのである。
ナポレオンが皇帝になると、彼は貴族院議長(元老院)になり、パルマ(パルム)公爵として、占領地イタリアの、小国の君主になった。征服型の市民革命を代表している。
ナポレオンが敗北し、王制が復活すると、国外追放になり、すぐに帰国が許された。
ここまでは調べると、だれでもわかることではあるが、これでは本質がわからない。カンバセレスがおとなしい、イエスマンだという人もいる。そんな状態でここまで上り詰められるのか。
重要で、人に知られないことが二つある。まず一つ、彼はウヴラールの顧問弁護士であった。ウヴラールは最大の政商、軍需物資の調達者、さらにその人たちに対して金を貸す金融業者でもあった。中小企業者から一気に巨大ビジネスマンにのし上がった。それが恐怖政治の時に一致する。政治的には総裁バラスと癒着していた。それが行き過ぎて、ナポレオンのクーデターの直後、自宅軟禁のなった。その後、両者の手打ちがあり、値引きして協力することになった。併せて、カンバセレスが第二統領になる。これを見ると、カンバセレスの実力も想像できるだろう。イエスマンだけというわけではない。
もう一つ、彼はアンザン会社の大株主になった。この事実と意味を日本人に説明するだけでも一苦労する。この会社は、北フランスからベルギーに広がる、当時最大の炭鉱を開発していた巨大企業であり、国王から特権を認められていた、巨大特権会社であった。当時、エネルギーの基本は石炭であった。十数人の株主の中に、この地方の大貴族がいた。ヴェルサイユ城でも高位に位置付けられた。そこで、彼らが亡命した。亡命貴族財産の没収、売却が恐怖政治のころに進められた。終わってみると、カンバセレスがアンザン会社の大株主になっていたのである。つまり、カンバセレスは財界の最高位に位置づけられることになった。これでは第二統領になっても、当たり前のことというべきだろう。つまりフランス革命はブルジョアの革命であったというべきだろう。
ナポレオン権力は、ペルゴ、ルクツーのような銀行家、カンバセレスが代表する大工業にささえられてせいりつしたものであった。
これを強調するのは、従来の学説の誤りを指摘することにつながる。アンザン会社は大塚史学によると、恐怖政治で破壊されたと書かれた。高橋幸八郎、中木康夫の両教授がそう書き、東京大学と名古屋大学で講義した。当時はこの影響が強かった。東大、名大の卒業生はこれを真理と思い込んだ。私がいくら事実ではないといっても、この年代の人は絶対に聞き入れない。中木康夫教授は、私と出会ったとき、自分の間違いを認められた。ただし「あなた東大ですか、私は京大かと思っていました」などといわれた。東大ならばすべて大塚史学だろうという感覚であった。
そんな身びいきの問題ではなくて、つぶれてもいないものをつぶれたと書くのがけしからんことでしょう、それに炭鉱をつぶしたのは敵国のオーストリア軍であった。当然のことでしょう。撃退するとすぐに再建が始まる。これも当然のこと。その時所有権の変動があった。旧時代の支配者から、新時代の支配者へである。
カンバセレスはナポレオンの恩寵がなくても、アンザン会社からの利益が入り、ウヴラールからの謝礼が入る。つねに豪奢な生活をしていたといわれる。ただし品行は方正、バラスとは違う。