2018年1月31日水曜日

小林良彰(歴史学者東大卒)の西郷隆盛論 廃藩置県は名誉革命に似ている。

イギリス人は名誉革命を強調して、ピユーリタン革命のことを避ける傾向がある。そこで、イギリス人と話をしていると、平和革命を自慢して、フランス革命を暴力的だといい、それを国民性のように言う。それはちがうので、約40年前の革命では、フランス革命と同じような流血を伴い、国王の処刑も行った。以後100年間、イギリスは過激な国として、ヨーロッパ中で嫌われていたのである。
だからますます名誉革命だけを強調する。この中身を見ると、確かに平和的ではあるが、中身は革命的であって、劇的な変化が起きている。クロムウエルが死ぬと、短い期間彼の息子が後を継いだ。そういう意味では、護国卿制度は半ば王制に似ていたのである。しかし、長老派将軍のクーデターがあり、革命前の王制に戻して、チャールズ2世の復位が実現した。この段階で、イギリスは、国王の行政軍事の権力、議会の立法権が共存する国になった。つまり、前時代と近代国家の間で揺れていた状態であった。この時代をレストレーションという。だから「明治レストレーション」という英語は「誤訳」である。もし徳川将軍の復位があれば、それがレストレーションというべきものになる。
イギリスで、ジェームス2世の時代になると、国王を取り巻く貴族たち(戦士、騎士)が権力独占を目指して議会に攻勢をかけた。議会の抵抗にあうと、議会への進軍を命令した。ここで軍隊がためらった。こうなると国王個人の命が危ない。国王は逃亡し、代わって、国王の女婿オレンジー公爵を次期国王に迎え、前国王の権力を議会の手に戻したのであった。立憲君主制が成立した。本質を言うと、中世以来権力を独占していた貴族階級から権力を奪ったことになる。ただし奪ったから、追放したというとそうではない。軍隊の幹部は貴族で固めている。政治家に貴族が出てくる。それは容認し、奨励する。問題は、前時代のように、「平民を馬鹿にし、そのうえに立たなければ収まらない」という気風を捨ててくれるかどうかである。
つまりは、古い時代の貴族が、新しい貴族、ブルジョア的貴族になってくれればよいのである。これ以後長い時間をかけて、イギリス貴族はそうなっていくので、これをジェントルマン資本主義などという言葉も出てきた。日本の女性ガイドが、「何がジェントルマンですか。ゼニトルマンですよ」といったが、よく本質をついていると思う。
この変化を、廃藩置県が実現した。無血革命で。それまでは、全国の4分の1で武士階級が支配していた。旧幕府領だけの革命だから、あとはそのままであった。たとえ藩主(藩知事)が東京へ呼び出されても、城代家老(ご城代と呼ばれている)を頂点に家老、重臣、ご重役以下、ピラミッド型に役職があり、上級武士、中級武士、下級武士が役職に就いた。役得という言葉もある。役職手当とともに、わいろ、袖の下の収入がある。豊かな生活を送っている。役職のない武士のことを「無役の武士」という。これは家禄だけの生活で、みじめと思われていた。お城勤めが権力を表現していた。地方には代官が派遣される。数人、数十人の部下の武士を抱えている。地方では全権力を握っていた。
こうした集団、これは例えていえば、今の北朝鮮の首都にいる集団のようなもの、土地の集団所有の上に立つ支配者集団であったといえる。もっとも、今の集団所有は、国営企業を足場としているが。150年前の日本では、土地の集団所有であった。
これを一撃で破壊する。無血ではあるが効果は絶大。この意味をほとんどの日本人は感じない。しかし荒城の月を思い浮かべてほしい。昔の栄華今いずこである。それが一日で実現した。明日からは、お城勤めはない。仕事がない。代官も解雇だ。家禄だけは年金のように与える。役職収入は消える。城は見捨てられる。壊されたのもあった。新しく派遣された県令は、その土地とは関係のないものであった。
東京に残された旧大名は、家禄を藩収入の十分の一と見立てて、その分の収入を保証するとした。つまりは、大金融融資産家に転化した。ラファイエット侯爵のような待遇だと思えばよい。
このような無血革命を実行するにあたり、西郷隆盛は、戦争を想定して、渋沢栄一に相談した。「戦争になったら、金は出ましょうか」、ずばりこういう質問であった。この時渋沢が政府の財政を担当していたからである。「どのようにでもなる」という返事を聞いて、帰っていったという。ここでも、西郷は、武力と資金の同盟を作り出した。
渋沢は、のちに第一銀行を作り、これは現代のみずほ銀行の一部になっている。武士的気質を持ちながら、お金のことも分かっている人であった。

2018年1月29日月曜日

小林良彰(歴史学者東大卒)の西郷隆盛論 廃藩置県は第2の市民革命

1871年7月14日、奇しくもフランス革命記念日の日、バステイーユ占領の日、廃藩置県が断行された。これが第2の市民革命となり、全国が商人支配の国家になった。それまでは、幕府の旧領地のみがそうであり、それは全国の収入の約4分の1で,700万石に相当した。基本的部分が関東に集中し、あとは天領として各地に散在した。これが新政府に没収されて、ここの支配者集団である旗本、御家人は静岡に移され、全体の収入は十分の一に圧縮された。もちろん、関東における居住権は、完全消滅であった。豪華を極めた旗本屋敷の消滅、これこそ革命というべきものであろう。天領の代官職は、旗本から任命されたものであった。今後は新政府からの任命に変わった。武士ではあったが、藩主からの任命ではない。そこが、旧時代とは違うところ。
ところが、幕府領以外の土地では、何事も変わっていなかった。大名(殿様)が頂点にいて、家老をはじめとした重臣、重役の上級武士が支配し、中級武士が管理職、下級武士が下級の役職についていた。農、工、商には権力がない。つまり、近代国家と前近代国家の併存、これが約4年間続いた。
これでは、改革が不十分であろうという意見が出てくる。財政を担当した井上薫は、「大名の財政をとる必要」について強調した。しかし、財政をとる、権力をとると言い出すと、武力による抵抗に出会う。それを撃破する武力は、新政府にはない。加えて、新政府の官僚の豪奢に対する批判が出始めていた。そんな人間のために、命がけで協力するものがいるのか。
ここで、新政府は西郷隆盛に協力を求めることになった。長州の木戸、土佐の板垣を代表者として、三藩の藩兵を集めて中央政府の軍隊とし、これを各地の鎮台に駐屯させた。どこかで武士階級の反乱がおきた場合、それを鎮圧する構えであった。
中央政府では、この三人に加え、大隈重信の4人が参議として、最高指導部を構成した。
この人選、重要なところは、大隈重信の人選であった。この意味を知る人は少ない。ただし、先入観を抜きにすれば容易に理解できる。彼は薩摩、長州、土佐の藩兵に基盤を持たない。つまりは、この段階で、武士階級の代表者ではない。西郷隆盛周辺の武士たちは、大隈を嫌っていた。西郷は手紙の中で「この度は俗吏もぬれねずみのようになり愉快」と書いた。そのあと、「しかし何分選別がうまくいかなかないので残念」というような文章を書いた。つまり、大隈を一時排除したが、巻き返しにあって、自分と対等の立場に立つことを認めたという。
これは何を意味しているか。大隈が大商人の集団から支持されていることを示している。つまり、武力ではなく、資本の力なのである。このころになると、大隈は三井の大番頭三野村利左エ門と親密になり、「みのり、みのり」と呼んでいたが、みのりもまた常に大隈亭に詰めて、関係を深めた。最初に西郷が関係をつけた三井が、大隈に乗り換えたということである。
それにしても1対3ではないかと思うが、大隈に言わせると、西郷、板垣は「戦争の話ばかりして、印鑑をお前に任せるというので」実務は自分の判断で進行したという。これが重要なところ、経済界と政府の関係は大隈重信の判断で仕切られたことになる。こうして、大商人の勢力と、3藩兵の武力の同盟で、廃藩置県を断行した。反乱は起きなかった。
この事件の意味を言うと、打撃の目標は、全国の収入の約4分の3を占める大名領、ここを支配している武士集団、西洋流にいうと、貴族階級による土地の集団所有、この権力を消滅させることに尽きる。攻撃する側は、大商人を代表する官僚と、三藩の下級武士の集団だと定義できる。下級武士一般ではない。これを間違えてはいけない。そうでないと、「下級武士革命論」などという、でたらめな誤解につながる。ほんのわずかな、特別な勢力が協力したのだ。薩、長の2藩は、関ヶ原以来、長年の冷遇に対する恨みがある。土佐の下級武士は、長年差別を続けられた上級武士への恨みがある。そういう原動力が中央政府支持への原動力になる。他藩の下級武士にはそれがない。だから、武士一般ではない。
そこで、この勢力で全国の大名領を廃止することは、商人勢力による全国統一になり、征服型の市民革命になる。市民革命といえば下からだけではないかと反論する人もいるだろうが、フランス革命で、周辺諸国を占領した時、北イタリア、西ドイツでそのモデルが作られている。アメリカ南北戦争でも、南部諸州で独立国家を作った時期がある。この時は、古代ローマ帝国のような前近代国家が出現した。それを北側が撃破、占領して、市民革命の完成に導いた。廃藩置県はこういうものの、無血革命だと思えばよい。無血だから名誉革命といってもよい。

2018年1月26日金曜日

小林良彰(歴史学者東大卒)の西郷隆盛論、理想国家は十年続いた

あまり意識されていないが、西郷隆盛の目指す理想国家は、鹿児島県で約十年続いた。世界史的な目で定義すると、中間層支配の理想国家であった。そのようなものが他にあるかというと、アメリカ合衆国の内部にいくつかあり、今なお残っているところと、昔はあったがやがて周のに資本主義に飲み込まれてしまった場合とに分かれる。
クロムウエルのイギリスでは、パンとともに信仰を食べさせられたといわれ、ピューリタンの厳格な信念が国民に強制された。このカルヴァンの思想の中には、ぜいたく、投機、を罪悪とみなす、反資本主義の思想が強い。だからロンドンに密集している大商人、銀行家にとっては迷惑な思想になる。それでも我慢したのは、王党派の巻き返しが怖かったからである。この脅威が薄れると、今度はクロムウエル排除の動きが出てくる。その微妙なところで、彼は死んだ。
西南戦争までの十年間は、鹿児島に中間層支配の理想国家が独立してあり、東京を中心に、商人支配の新政府があった。新政府のもとで、商人支配は急速に進化して、新興企業家が肩を並べ始めた。三菱の岩崎、銀行の安田、生糸の田中平八、鉱山業の五代などなど、強力な基盤を持ち始めた。やがて自信をつけた新政府は、自分の軍事力を持って国土の完全統一に乗り出す。これが事の本質である。

2018年1月25日木曜日

小林良彰(歴史学者東大卒)の西郷隆盛論、ワシントン、ラファイエットとともに2度目がある

クロムウエルは死んだので、一回限りであったが、他の3人には2度の出番があった。ラファイエット侯爵はオーストリアの牢獄から解放されて、帰国し、妻の城に住んだ。妻は公爵家の相続人、女性公爵であったから、ナポレオンの時代も、王政復古の時代も何不自由のない貴族的生活を続けた。彼の土地と城は売り払われたが、それに相当する補償金を政府から受け取ったので、莫大な金融資産の所有者になった。
つまり、本人がブルジョア的貴族になったのである。1830年7月革命の時、彼は議員の選挙に打って出て、当選した。当然、昔と同じく自由主義者であって、時の政権の絶対主義的傾向に抵抗した。革命運動には参加しなかったが、復古王政が倒れると、大統領に推挙する声が上がった。大統領ならラファイエット、王政ならルイ・フィリップ十言われ、結局王制に落ち着き、ラファイエットの出番は消え、しばらくして死んだ。
ワシントンは戦勝とともに、辞職した。功労金を提供されたが辞退した。西郷隆盛に似たところがある。引退しても大農園がある。それに比べると、西郷の土地は小さい。そのうえ、「子孫のために美田を買わず」という漢詩を残している立派な人物である。
ワシントンは十年後アメリカ合衆国連邦の成立で、初代大統領に擁立された。この最大の目的が、どこかの州で反乱がおきたとき、中央政府が鎮圧するというものであったから、日本に例えていうと、ワシントンは西郷隆盛の路線ではなく、大久保利通の路線を進んだものということができる。
二度目に登場した西郷隆盛は、フランス革命のロベスピールに似ている。中間層の革命理論を実現しようとするが、それが失敗する。政府官僚の腐敗に憤慨し、批判する。後輩からは煙ったがられる。後輩の利権争奪戦を、「脱出す、人間虎豹の群れ」と漢詩に書いて批判した。こういう傾向がロベスピールに似ている。こうして西南戦争に殉じる。その胸中を察すると、これ以上は書けない。

2018年1月24日水曜日

小林良彰(歴史学者、東大卒)の西郷隆盛論、ワシントン、ラファイエット、クロムウエルと比較すると

小林良彰(歴史学者)の解釈では、この4人が同じだということになる。共通点は、旧体制、アンシアン・レジーム、大土地所有者の支配を打破する。そのために、ある種の武装勢力(これはその国の特殊事情によって、多様性がある)と、大商人、金融業者(一般的に動産の所有者、フランスではブルジョアジーと呼ばれ、イギリスでは、東インド会社などの貿易商人が優勢、アメリカでは密貿易商人として犯罪者扱い、日本では素町人と呼ばれて、また士、農、工、商の位置づけで最下級となっている)、の同盟を一人で代表する。この同盟の力で、旧体制を打破する。
打破した後では、新時代が来るが、これは動産所有者が指導権を握る社会である。当時ならば、大商人、銀行家(金融業者が進化する)になり、工業はまだ規模が小さい。ただし、むき出しの支配にはならない。まだ武装勢力の大群が指導者を立てて政府に影響を与える。彼らは命がけで戦ってきたのであるから、必ずしも拝金主義者ではない。
こういう状況の下で、この時の指導者は独特の信念の持ち主になる。これが市民革命の英雄の姿であり、ワシントン、ラファイエット、クロムウエル、西郷隆盛になる。
しかし二つの勢力はやがて分裂する。その分裂を象徴する日本版は、大村益次郎(兵部大輔)の言う「今の兵には、1大隊に2大隊の見張りをつけておかないと、何をしでかすかわからぬ」という言葉で表されている。同じような状況が、英、米、仏にも起きた。
イギリス革命では、その分裂の寸前にクロムウエルが病死した。インフルエンザだといわれているが、まさか毒殺ではあるまいなと思う。アメリカ革命では、ワシントンが、大商人の側に立ち、武装勢力の不満には同調しなかった。見捨てられた幹部で反乱を起こした者もいるが、今となっては歴史に出てこない。これが西南戦争のようなものだと思う。
フランス革命のラファイエットは、3年後に、革命政府に対する反乱を起こし、脱出し、敵国にとらえられた。彼は、領主権の無償廃止など、革命政府が貴族に対して、さらなる打撃を与えようとすることに反対したのである。つまり、貴族政治に反対して革命を起こしながら、「もうこのあたりでやめておけ」といいだしたといってよい。
西郷隆盛は江戸城を目指して静岡まで来た。そこで山岡鉄舟と面会する。その内容を軸に、品川で勝海舟と合意に達し、寛大処分、徳川本家を十分の一に圧縮して静岡に移し、江戸城の無血開城で討幕戦を終わらせた。外国軍の介入もありうるから、、日本人同士の戦争は早期終結が必要であった。
この後の西郷隆盛の行動は、不可解なものになる。彰義隊が上野寛永寺に立てこもった。輪王寺の宮を立てて別政府だという。これに対して、説得の努力を続け、討伐しない。京都の新政府から大村益次郎、大隈重信(財政担当)が来て、諸藩藩兵、最新式の大砲の効果も併せて、彰義隊を鎮圧した。西郷隆盛の指導的な役割は後退した。
彼は帰郷し、頭を丸めた。西郷入道といわれた。北越戦争に出かけたが、正式の司令官ではない。しかし実質的な方針を示すことはできた。ここでは寛大処分であったため、庄内藩の藩士は彼を尊敬した。
鹿児島に帰ると、藩政の改革に努め、上級武士の高額の禄を引き下げ、下級武士の状況を改善し、農民の負担を軽くした。商人の暴利は戒めていた。つまりは、中間層としての中・下級武士が戦士、官僚となる小国家を作ったといえる。
その間、新政府は批判勢力が郷里に帰ったので、大商人、新興企業家の政府になってしまった。批判は強くなった。もう一つ、諸大名の領地は独立している。新政府の財源は少ない。全国3000万国のうち、700万国のみが新政府のものであった。全部取ってしまわなければ、新政府とは言えない。ここで、批判的な西郷隆盛を引っ張り出すことになる。西郷隆盛は自分の理想を全国で実現できないかと考えている。
ここで両者が再び提携して、廃藩置県を実現した。これで武士の支配の時代は終わり、新政府の全国支配が完成した。日本における市民革命の完成である。だから、日本革命は、1868年に始まり、1871年で完成するという結論になる。

2018年1月21日日曜日

初期の市民革命は古い伝統的権威にすがろうとする

市民革命の本質をズバリ表した歌がある。
「なにごとも ひっくり返る世の中や 田安の屋敷 安田めが買う」
田安は江戸時代、三家、三卿の一つ、徳川将軍の世継ぎがないとき、ここから出すと決められた家柄、事実、最後の将軍慶喜が引退した後、田安亀之助が後を継いだ。つまりは旧支配者を代表するもの。この屋敷を安田が買い取った。
安田は新興銀行家、のちの富士銀行、現在のみずほ銀行の3ぶんの1をしめる。幕末安田善次郎が、小商人から出発して、銀行業で成功した。のちに東大の安田講堂を寄贈した。
これが革命の結果だというと、「なあんだ」ということになり、「やる気なし」となる人が多いだろう。西郷隆盛は「今となれば、戦死者に対して申し訳がない」と「しきりに涙をこぼされける」と書かれている。
西洋諸国でも同じで、早いころに市民革命を実現した国は、その本質を出さないように努めた。つまり実質はともかく、外見は変わりませんと訴える。そのため、古い伝統的権威を探し出して、それを押し立てる。
クロムウエルの護国卿は、摂政のような地位が中世にあったので、それを採用したもの、同じく中世にあった三部会を復活させようとしたフランスの試みもそうであった。アメリカ独立革命で成立した合衆国憲法が古代ローマ帝国の体制の復活であった。
ナポレオン・ボナパルトがクー・デターで権力を握ったとき、はじめはコンスルの制度を採用した。これは古代ローマの三頭政治の形式であった。そのあと皇帝に即位するが、それは古代ローマそのものであった。この場合、アメリカでも、フランスでも上院は古代ローマのセナトゥスの名をとり、フランスでセナ、アメリカでシネイト(議員をシネター)という。
こう見てくると、日本が日本の伝統的権威を持ち出してきたのは、当然のことといえよう。

2018年1月20日土曜日

小林良彰(歴史学者、東大卒)の西郷隆盛論、クロムウエルと比較する

まずは共通点を。市民革命の指導者として、動産の所有者の上層(この場合大商人、金融業者)と、様々な武装勢力の同盟を一人で代表する。撃破する相手は、大土地所有者の上層、大領主、正し支配するための形式は違う。実質は同じ。
撃破する相手は、日本では、幕府軍(徳川本家の旗本、御家人、旗本八万騎というが、実質三万程度)(当日の参加者はもっと少ない)と、最も特権的な地位にあった会津、桑名の藩兵であり、国際用語でいうと、日本貴族の最上層というべきものであった。
イギリス国王が代表するものは、領主、ランド・ロードの最強の部分、日本人になじみのあるものといえば、バッキンガム公爵、スペンサー伯爵(ダイアナ妃の実家)、サンドウィッチ公爵、ノーフォーク公爵、イギリス革命寸前の実力者は、ストラフォード伯爵(首相、ロード(財務大臣、カンタベリー大主教、教会は大領主)、革命前の強権政治を、ロード・ストラフォード体制という。
日本では、短期決戦で勝負がついた。負けた側は再び反撃するだけの能力を失った。イギリス国王は、ほとんど無傷の状態で撤退し、支持者の貴族を集めると、またロンドンを攻めた。ロンドンの中では負けるが、農村部と地方では強いという図式が出来上がった。だから、イギリス革命では、革命の出発点が頼りないものであって、いつひっくり返るかわからないと思われていた。「我々が99回戦って勝ったとしても、国王は国王であるし、一回負けるとしばり首にされてしまう」という悲観的な言葉も残っている。その点、日本では古代天皇制の復活という大義名分があったので、革命の側は意気盛んであった。
ロンドン、議会の中からクロムウエルが急速に頭角を現す。身分の低い地方貴族、しかし周辺の富農の若者を集め、騎兵隊を養成し、歩兵、砲兵を組み合わせて、ニューモデル軍を作った。これに、ロンドン大商人を代表して、議員のピムという人物が協力した。クロムウエルの騎兵隊はピューリタンの信念で理論武装されていて、「鉄騎兵隊」と呼ばれるほど勇猛果敢な集団になった。こうなると、国王を超える、神のご加護を背景にする集団ができた。その源流はスイス・カルヴァンの宗教改革から来る。こうなると、イギリス革命は宗教戦争の様相を呈してきた。これは強い。
ネースビの会戦で国王軍を撃破して以来、議会側がほぼ全土を支配することができた。しかし、クロムウエルは議会の手下になったわけではない。上院を廃止し、下院でも粛清を行い、実質的な独裁政権を作り、全国の権力は軍隊の将校が動かした。下級貴族の集団が権力の指導権を握ったといえる。1653年ロード・プロテクターの称号で、独裁者になった。これは古代ローマの「護民官」(ガイウス・グラックスの伝統)、日本では「護国卿」と翻訳する。国王にといわれたときに断って、こうしたのである。
しかし、5年後、彼は死ぬ。インフルエンザといわれているが、消耗しつくしたのかもしれない。死後すぐにクーデターが起こり、国王に融和的な長老派が権力を回復し、チャールズ2世を迎えて、復位を決定する。これが王制の復活であり、日本のいわゆる「王政復古」とは違う。日本では革命政権が、古代天皇制の復活と称した。革命で敗れたものが復活したという例は日本にはない。ところがこのレストレーションという言葉を、日本の明治維新に当てはめて、メイジ・レストレーションというから、国際的には、相互理解が不可能になってしまってる。
大商人と下級貴族の一時的同盟が分裂する。その時、クロムウエルは死んだ。西郷隆盛は生き残った。生き残るとどうなるか。答えは出ているだろう。
日本にもクロムウエルのように死んだ人もいる。小松帯刀、高杉晋作、坂本竜馬、中岡慎太郎、こういうところがそれになる。これは永遠に考えさせられる問題です。

2018年1月17日水曜日

討幕戦の西郷隆盛はフランス革命のラファイエットに似ている

討幕戦の出発点では、西郷隆盛が討幕戦力と商人層の同盟を、一身に体現した。フランス革命において、1789年7月14日、バスチーユ占領の直後、ラファイエットは国民衛兵司令官となり、フランス革命の軍事力を代表する存在になった。
国民衛兵とはフランス王国の軍隊とは別物であって、正規の軍隊はヴェルサイユに大軍をなして駐屯していた。その分隊として、フランス衛兵というのがパリ市内に駐屯していたが、これが反乱を起こして民衆の側についた。砲兵隊もこれに合流した。だからバスチーユが陥落した。これは要塞監獄、堀に囲まれ、高い石造りの外壁、上に砲台が据え付けられている。民衆が攻撃したくらいでは、陥落しない。砲兵隊が発砲の構えを見せたので、降伏した。
だから、国民議会議長ラ・ロシュフーコー・リヤンクール公爵が国王ルイ16世に「陛下、バスチーユが陥落しました」、「何、それは暴動だろう」、「いや、革命です」と返事をしたのである。
普通のフランス革命の概説書では、民衆の暴動、蜂起が決定的な要因であるかのように書いているが、これはナンセンスであって、軍隊の合流があって初めて革命になった。下士官、兵士、が動く。下級将校は動揺、上級将校は国王の命令通り動こうとする。ナポレオンはどのあたりにいたかというと、中立であった。
こうした形で、勝利した武装勢力が国民衛兵を作るとなれば、下士官、下級将校の発言力は大きい。そして彼らは貴族であった。田舎に帰れば、大きな邸宅があり、村一番の大地主であり、幕末の日本に例えると郷士であった。つまりこの時代、平民の指揮する軍隊はあり得なかったのだ。そこで新しい国民衛兵も、その長に貴族のラファイエットを担ぎだした。
ラファイエットは侯爵、マルキ・ド・ラファイエットという。大貴族の序列では、大公、公爵、侯爵となる。大公はプランス(英語でプリンス)と発音されるが、皇太子ではなく、赤の他人で、最大の領地所有者、例えばというと、現在の、モナコ大公、ルクセンブルグ大公だと思えばよい。この二人は当時ヴェルサイユにも来ていた。ランベスク大公というのは、ロレーヌの大領主、パリを攻撃した司令官であった。そうすると、見た目にはバスチーユ占領はランベスク大公と、ラファイエット侯爵の対決のようにも見える。どちらも自分の郷里に帰ると、殿様である。
これだけ見ると、西郷隆盛は役不足のように見える。小松帯刀が生きていたなら、ラファイエットに近い。いや、島津斉彬が薩摩軍を指揮していたら、まさにラファイエット侯爵と同じといえよう。そしてこれは、藤田東湖が夢見ていた姿であった。
ここまでは貴族の部分であって、ブルジョアジーの部分がこれから入る。パリの騒乱が始まると、ルクツーという商人、貿易業者が兵営に出かけて、月給を保証するといった。こうして一大隊丸ごと反乱の側に引き付けた。ボスカリという大商人は自分の地区で住民を武装させ戦闘に参加した。
だから、パリの反乱はブルジョアジーが組織したものともいえる。それを反映して、ラファイエットの副官に、ぺルゴなどの銀行家の名が出てくる。この人物、のちにナポレオンを担いでクーデターを起こさせる。
つまり、ラファイエットの権力は、武装勢力と商人銀行家の一時的同盟であり、それを彼が一身に体現したものであった。日本の明治維新には民衆の部分がないという人がいるが、これも極論で、薩摩の郷士は半ば農民であり、長州の奇兵隊は、武士と平民の混合であった。いままでの人々の議論は、フランスについては民衆の部分だけをすべてとし、日本については武士だけの要素をすべてとして、極論と極論を対立させてきたのであった。
結論を言えば、西郷隆盛とラファイエットは同じであって、身分、家柄は違うということである。

2018年1月15日月曜日

小林良彰(歴史学者、東大卒)の西郷隆盛論、討幕戦をアメリカ革命に例えると

討幕戦で西の商人国家東の大土地所有国家に分裂した。同じような経過はアメリカ独立革命にもみられる。1775年4月19日レキシントン、コンコードでイギリス軍と地元の住民の戦闘が始まり、翌年の3月17日ボストン港からイギリス軍を撤退させて、実質的な独立を達成した。
ボストンを州都とするマサチュセッツ州の新知事にジョン・ハンコックが就任した。この人物が新政府の商人的性格を見事に表現している。貿易商人、造船業者、しかしイギリス当局からは密貿易商人とみられていた。イギリスは当時東インド会社に貿易独占権を与えていたからである。ハンコックが輸入した商品が、イギリス当局に差し押さえられたことがあった。彼はボストン茶事件その他の反抗運動の財政的支援者となり、イギリス当局から追及され、内陸に逃げた。
第2回大陸会議の議長となり、独立宣言に最初に署名した。その直後、ジョージ・ワシントンが大陸軍総司令官に任命された。ワシントンは中部地方のヴァージニア州出身、中土地所有者で軍人経験者、彼が北部のボストンにやってきて、様々な民兵を正規軍にまとめ上げ、この兵力でイギリス軍を撃退してボストンを解放した。ハンコックは州知事に就任して死ぬまで続けたが、まだ連邦政府がないころであるから、実質的に小国家の独裁者のようなものであった。日本語で知事を訳すが、英語ではガヴァナーで、独立前の名も、同じ発音であるから、総督といい、知事というがどちらも同じものである。
そうすると、新政権は大商人と中土地所有者から小時所有者の武装勢力の同盟、これで南部のイギリス側との戦争を続けることになったといえる。対するイギリス側は、大土地所有者の集合体であった。この点が日本ではほとんど意識されていない。ボストンには、昔の豊かな王党派の屋敷跡が残っていて、これが一つの歴史的遺跡になっている。州内の大土地所有者が、州都ボストンに集中して住み、これがイギリス国王に忠誠を誓っていたのである。これが植民地支配の足場であった。だから、独立は、王党派の権力を破壊し、商人の権力に変えたことになる。つまりは市民革命であり、討幕戦と同じ効果を持つのである。

2018年1月13日土曜日

討幕戦を英、米、仏の革命に例えると

幕府軍は江戸に敗退した。京都、大坂は解放された。ここでの新政府は商人層の支持が固い。西日本についての不安はない。しかし東日本、東北日本はまだ徳川幕府の支配下にある。旗本領は同じ、大奥も同じ、各藩の武士階級(日本の貴族)の領地、俸禄の権利も同じである。ここは前近代社会のままである。
討幕戦直後は、西日本が、フランス革命後のフランス、東日本が旧体制、アンシャンレジーム、絶対主義のフランスとなり、この時点でのヨーロッパに例えると、西日本がイギリス、フランスとなり、東日本がオーストリア、ロシアとなる。
こうした状態をイギリス革命についてみると、1642年、国王チャールズ1世がロンドンから退去して北西部に移り、貴族の騎馬軍団を集めてロンドン攻撃を繰り返した時に似ている。ロンドンは防戦にはつよい。貿易商人と船員は船内での格闘にはすぐれているが。しかし、大平原での戦闘は今一つとなる。店員その他では役に立たないと、クロムウエルがいった。
クロムウエルはジェントリ、小領主、小貴族、悪く言えば田舎貴族、日本でいえば郷士、ただ大叔父が昔国王側近で活躍したことがある、没落名家であった。彼が私財を投じて小規模な軍隊を作った。指揮官が貴族、騎兵が豊かな農民層、ヨーマンといわれたもの、これを中核にして、歩兵、砲兵を組み合わせる。ニューモデル軍といわれた。はじめは地方の民兵のようなものであったが、やがて勢力を伸ばして、議会側の軍隊の副司令官になった。
これまでは国王側と革命側・議会側は決定打なしの勝負を続けていたが、ネースビの戦いでクロムウエルのニューモデル軍が勝利して、議会の優勢が確立した。
この段階が、鳥羽伏見の戦いで幕府軍を破った直後の西郷隆盛と似ている。実質的な実力者ではあるが、まだ旧社会の名門を上に置いている。クロムウエルはフェアファクス卿という上級貴族をうえにもち、西郷隆盛は、総督参謀となり、総督は宮様であった。クロムウエルには東インド会社などロンドン大商人の集団が支持者として集まった。商人と下級貴族の同盟、この点が二人の類似点である。市民革命の出だしはこのようなものである。

2018年1月12日金曜日

小林良彰(歴史学者、東大卒)の西郷隆盛論、討幕運動の源流

慶応三年末の西郷隆盛は激烈な討幕論者であった。優しくて、おおらかでという一般的な印象とはまるで違う。ともかく、これなしでは何事も始まらないという信念を持ったいた。それはどこから来るか。実は多くの先輩たちがその考えを持ちながら、その時期に出会わずに終わったのである。
寛政三奇士といわれる人たちがいる。三奇人ともいう。林子平、高山彦九郎、蒲生君平であるが、奇妙な人たちで、何をしようとしたのかわからぬというものであった。林子平は海国兵談で外国の軍艦の脅威を力説したから、今ならわかる。後二人はとなるが、高山彦九郎については、京都三条、京阪電鉄駅前にある彼の像、「何事のおわしますかは知らねども、ただ有難さにぞ、涙こぼるる」という歌で、御所の方向を向いて平伏している姿が残っている。彼の伝記を書いた人が解説で、「王を尊ばんとするには幕府を倒さねばならぬという戦乱的革命思想を持って」と書いている。大規模な農民一揆がおきたと聞くと、そこに駆け付け、これを討幕戦力にしようと努めた。このようなことが、奇人といわれた理由であった。しかし世は太平、何事もなく一生を終わる。そこのところを蒲生君平は「ただ泰平、恩沢の厚きによりて、自ら章句を持って、青吟に託す」と書いている。彼らは蘭学者前野良沢などと親交があり、外国のことも知っていた。偏狭な攘夷論者ではない。むしろ開明的であった。つまり、討幕開国論の原型であった。幕末の志士たちは、この三人を仰ぎ見ていたから、討幕論の原型はこのあたりにあるのである。
水戸藩の藤田東湖は藩主徳川斉昭の懐刀、この人物は攘夷論者だと思われているが、「なかなかそうではない」ともいわれ、ややあいまいと思われているが、討幕論については、終始一貫激烈なものを持っていた。土佐藩主山内容堂が「なにをすればよいのか」と聞くと「ご謀反が最上」と答えた。これには危険を感じて「先生酔って大言するか」とたしなめた。薩摩藩士の一人に、「自分は島津斉彬公に着目している。薩摩の軍隊で京都に上り、天皇を擁し、統一国家を作り全国に号令する」、「天子親政の実にして上がれば、自余の小問題はおのずから定まる」といった。「我が藩などは親藩だから、そういう意気込みはない」と嘆いた。藤田東湖の討幕論であるが、それを西郷隆盛が実現したことになる。
三岡八郎(坂本龍馬の推薦で新政府の会計官となり由利公正と改名・東京府知事・元越前藩士)は言う。「西洋流を勉強して、外国に対抗するために必要な武器艦船の費用を計算し、これが幕府にあるかどうかを調べると、幕府は貧乏なもので、とても出せない。これでは幕府を倒してしまわなければならないと知った」と。これは経済学から、討幕論を唱えたことになる。当時は三岡経済学などといわれていて、この延長の改革論が坂本龍馬の注目するところとなり、新政府への登用につながった。

2018年1月10日水曜日

小林良彰(歴史学者、東大卒)の西郷隆盛論、商人の討幕・続の続

三井の主人にはもう一つの動機がある。寛政の改革の時、ぜいたく禁止令に違反したというので、手錠をかけられたことである。これは権力が幕府にあったから起こったことで、権力を持たない悲しさを思い知らされた事件であった。同様の思いが薩摩藩にもあった。藩財政が豊かであると幕府に思われると、大規模な土木工事を命じられた。この悲惨な状態は語り伝えられている。こうして、三井と薩摩には、幕府に対する恨み骨髄が残り、幕府が続く限り、いつまたそのようなことになるかもしれないという恐怖を持ち続けていた。
次に、幕府軍が大坂に退いてから起こった特殊な現象がある。将軍徳川慶喜は会津藩主など少数の部下をつれ、外国の軍艦に乗って江戸に帰った。幕府の軍人・ほとんどは旗本には軍資金がなかった。これでは江戸へ帰ることもできない。そこで、「金は天下の金なり。押し借りなり」といって商人から金を奪い、借用書だけを残して去った。天下というのは幕府の意味を持つ。これで大阪商人は一気に反幕府の立場に立った。新政府はこれを補償するといったので、大阪商人は挙げて新政府支持に回った。
前に戻って、討幕運動が地方に散在していたころ、その地方の商人の中で志士を守ったものがいた。これが侠商と呼ばれた人たちで、今思いつくだけでも、かなりいる。下関の海運業者白石正一郎、長崎の密貿易女主人大浦のお慶、博多の対馬問屋石蔵屋卯平、薩摩の海上王浜崎太平治(この四天王の一人に川崎正蔵がいて現在の川崎重工のもとを作った)、讃岐丸亀の小橋安蔵、桂小五郎(木戸孝允)をかくまった但馬出石の商店主・金物屋などが思いつく。はじめはわずかな商人の支持、それが大きなうねりになって、商人の権力へと成長した。

小林良彰(歴史学者、東大卒)の西郷隆盛論、商人の討幕・続

御用金には規則、ルールがない。この点では西洋も同じで、イギリス革命はまさにこの問題を巡って始まった。幕末の御用金は急ピッチで上昇し、三井などもそれを値切るのに苦労していた。幕府は内外の必要からだといっているが、商人にしてみると、大奥、上級旗本の豪奢な生活をそのままにしての「出資強要」は納得がいかない。このままではつぶされてしまう。さりとて、反抗すると、殺されてしまう。
そこでひそかに、反幕府の運動をする人間を支援する。支援しながら、天下の情勢を知らせてもらう。三井は、伊達小次郎(紀州藩士)を隠密として、全国の情勢を探らせていた。のちの陸奥宗光(外務大臣)であった。頭巾をかぶり、刀を落とし差しにした忍者のような姿の写真も残っている。常陸笠間藩の重臣加藤有隣も三井と親しく、高杉晋作とも親しい。幕府から疑われて逃亡し、長州に逃げ延び、高杉の縁でかくまわれた。この高杉は、西郷と二度にわたってひそかに面会したという伝説が残っている。面会の後、高杉は、いわゆる「奇兵隊の決起」(功山寺挙兵)を行い、長州藩の佐幕派政権を打倒した。これを危険と考えた新選組などは、踏み込んで叩けと主張したが、西郷は藩内のことだといって長州征伐軍を解散させた。
つまりこのように、三井の姿は見え隠れし討幕にまでいたる。

2018年1月9日火曜日

小林良彰(歴史学者、東大卒)の西郷隆盛論、商人の討幕

当時三都の大商人といわれたものが、三井組、小野組、、島田組であった。大阪、京都、江戸に店を持った。このうち三井がひそかに薩摩の側についた。新政府ができると、その会計官由利公正(三岡八郎)は小野組の小野善助を呼び出して、政府への協力を取り付けた。大隈重信(佐賀藩士)は鴻池、住友の資金を持って政府に名入り、会計官の次官になった。のちに「島田は大隈さんの何だったから」と井上薫が言ったが、世間には知られていないが、政府の中で走る人ぞ知る間柄だった。
なぜこのように商人層が新政府の側についたのか。それは御用金の問題があったからである。「近頃商人が集まれば御用金の話ばかりしている」との幕府内の報告が残されている。

2018年1月8日月曜日

小林良彰(歴史学者、東大卒)の西郷隆盛論、大政奉還か武力討幕か

1868年、大政奉還が実現した。二条城にその模型がある。「これで良し」と考えた人は多い。坂本竜馬もそうだといわれている。盟友中岡慎太郎(陸援隊長でこの時京都東山に陣を敷いていた)が「近頃竜馬すこぶるあいまいなり。ご油断あるまじく」と書いた。この二人が会談中に、刺客に襲われて死んだ。中岡は激烈な武力討幕論者、西洋列強は革命、動乱の中から生まれたと書いた。
小松帯刀(薩摩藩の重臣、西郷の上司)もこれでよいと思ったであろうと、何人かの歴史家が言う。証拠はないが、小松の立場からすると、それはありうる。しかし急死した。
こうした中で、西郷、大久保、岩倉具視の線で、武力討幕への努力が進められる。そこまでしなくてもよかったのではないかという意見が、現在でも蒸し返される。なぜ武力討幕にこだわったのか。ここが突き詰めたところの最大の問題になる。
武力討幕は現在の用語であって、当時は「辞官、納地」であった。征夷大将軍の官職を辞退する、幕府直轄領700万石を返上するというものである。中心は関東平野にある。結局討幕戦の後こうなった。徳川本家は静岡藩として、約十分の一の領地を相続した。これが重要な変化で、たとえば9000石取りの上級旗本は、900石取りになる。小栗上野介などは、高杉晋作の家禄とほぼ同等に引き下げられる。大奥の費用は全廃される。余った費用が新政府の財源になる。
これが討幕の経済学で、こういうことを論じた人がいたのかどうかである。大政奉還のまま立ち止まると、上級旗本の権利はそのまま、諸藩の上級武士の権利もそのまま、徳川本家が諸大名会議の議長、その議長を譜代大名の名家と上級旗本が補佐する。誰が逆らえるかというのである。これで統一国家を作る。これが幕府中心の統一国家の構想で、小栗上野介などが進めていた。
もしこれが成功していたとしよう。西洋諸国に例えると、当時のロシア、オーストリアその他の絶対主義国家、1848年以前のプロイセン(プロシア)に相当する。これも強国のモデルではあった。この場合は、大土地所有の権利を保存したままの近代化、統一国家であった。
辞官納地は幕府の領地に革命を起こすものであった。旗本から権利を取り上げて、静岡藩に押し込めてしまう。十分の九を新政府がとる。その政府は討幕戦力と大商人の代表で構成される。もしここが新たな大土地所者によって構成されるならば、絶対主義の再来だが、そうはならなかった。
したがって、大政奉還か、武力討幕かは、絶対主義か、フランス革命かの分岐点に相当するものであった。

2018年1月6日土曜日

小林良彰(歴史学者、東大卒)の西郷隆盛論、大商人との同盟

第二次長州征伐は幕府の敗北に終わり、勝海舟が幕府を代表して,以後は長州を攻撃しないと約束した。その後、幕府では勘定奉行、陸軍奉行の小栗上野介の力が強まり、フランスから、武器、艦船を購入し、西洋流の軍制に改め、その武力で薩摩、長州を打ち、諸大名の領地を削減し、幕府中心の統一国家を作るという構想を立てた。勝海舟はこれを西郷に伝えた。薩摩、長州の側は危機感を持った。
そのころ、西郷隆盛は小松帯刀とともに大商人三井の主人三井八郎右衛門を訪ね会談した。二人とも、平伏するような態度であったと当時の番頭が書き残している。これが重要なところ、武士が町人に丁寧にする、何が問題か,金以外にはありえない。これが現実化して、討幕戦が始まると、大山巌(のちの陸軍大臣)が「おいどんも三井の穴倉に金を受け取りに行ったもんじゃ」といった。
こうして、戦力としての薩摩、長州の武士団、軍資金としての三井の出資金が合体して、討幕戦力となった。どちらが欠けても勝てない。もし負けると、三井も店はつぶされ、大量処刑が待っている。つまり商人の側も命がけの勝負に打って出たわけである。三井の祖先ももとは武士であったから、驚くには値しないかもしれない。
小松帯刀の役割は重要なものであった。薩摩の上級武士、重臣、青年貴族とでもいういで立ち、京都の娘たちがその姿を見ると騒いだという。この時点において、薩摩藩の信用を代表するのは、三井にとっては小松になるだろう。ただ偶然というか、討幕戦直前に死去したから、歴史から消え去った。こうして、西郷隆盛一人が、討幕戦力と大商人の同盟を体現した。
これで勝ったから、討幕戦とフランス革命のバステイーユ占領とは同じであると私は言うのである。

小林良彰(歴史学者、東大卒)の西郷隆盛論、大商人との同盟

文久2年、3年(1862年、3年)、尊王攘夷運動の最盛期、攻撃の矛先は、商人層にも向けられた。「かいや、いわしや、こんとく・・・」以下多数の商人の名が列挙され、有用品を輸出し、不要贅沢品を輸入するため、諸物価値上がりを招いた。よって天誅を加えるという張り紙がなされた。京都以外の各地でも、脅迫、殺人、放火、その他の迫害があった。そこまでいかなくても、正しいことをするのだから、協賛金をだせという要求が来た。水戸の尊王攘夷派はそれであった。
開国和親の宣言は、そういうことをやめるという意思表示でもあった。これで商人は安心する。重要なことは、この方向がすでに2,3年前からひそかに西郷隆盛にやって進められていたことである。

2018年1月5日金曜日

小林良彰(歴史学者、東大卒)の西郷隆盛論、開国和親はなぜ必要であったか

開国和親の宣言で、攘夷派は裏切られたと知った。彼らの攻撃の矛先は、新政府要人に向けられた。横井小楠、大村益次郎、広沢真臣などの暗殺、パークス襲撃事件、土佐藩兵の外国人殺害その他さまざまな形で引き起こされ、新政府は困難に直面した。
それでも開国を堅持したのは、二つの理由からであった。一つは、外国の軍隊との関係であり、新政府が攘夷を唱えると、すぐに戦争状態に入る。新政府は二正面作戦に直面して、幕府側からの反撃に対処できない。これでは全滅する。これが一つ目であるが、それにもまして重要な理由がある。
結論から言うと、商人層の支持を獲得することができることであった。これが極めて重要な意味を待っているのであるが、話は、尊王攘夷全盛期にさかのぼる。

2018年1月4日木曜日

小林良彰(歴史学者、東大卒)の西郷隆盛論、討幕寸前の開国攘夷

舞台は薩摩藩邸、今の同志社大学、幕府軍との戦争を控えて、薩摩の将兵が集まっている。大隊長の有馬藤太が西郷隆盛に質問をした。「中村の奴変なことを言う」というわけだ。中村とは「人切り半次郎」といわれた人物。剣の達人。西洋流の学問に詳しい学者が幕府に雇われると知ると、抜く手も見せずに切ったという伝説がある。この中村が、西郷の側近になっていた。
二人そろって岩倉具視に面会をした。このとき岩倉は「討幕の密勅」を朝廷に提出して採択させた。ただし彼が書いたのではない。玉松操という国学者が書いたものであった。それでも岩倉の功績にはなる。「この戦いが終わると、攘夷の準備をしなければならぬが、その手配はできているのか」という意味の質問であった。中村は「御前の口からそのような言葉を出されるべきではありません」といって、開国の方針を説明した。これを有馬藤太は「変なこと」というのである。つまりこの時期にあっても、薩摩の大隊長が討幕の後で攘夷のための戦争、つまりは外国軍と戦うものと信じていたのである。
西郷は言う。「あ、お前には言わなかったかね。言ったつもりじゃったが」。これは嘘である。こういって、相手のプライドを立てたのである。そのあと、開国の必要を説明して、相手は納得したという。
玉松操は「奸物、岩倉に諮られたり」、つまり、悪人岩倉に騙されたと怒って、政府から去った。この時期、説明して、はいそうですかというものではなかった。特に攘夷論を信じる武士の中には武術の達人が多かった。薩摩藩はすでに外国貿易をしていた。その藩士にしてこうだから、長州、土佐の藩士にはもっと強く攘夷意識が残っている。
こうした一種の烏合の衆をまとめて一点に集中させるのは、早く幕府からの攻撃が始まることであった。これに負けると、大量虐殺が待っている。水戸天狗党の乱で、幕府がどういう残虐な処刑を行ったかは、当時の武士たちはみな知っていたからである。戦いが始まると、攘夷、開国の議論は棚上げになる。とにかく幕府の戦力を撃破する、これが大目的であったから、手段を択ばぬ方法で、相手から攻めてくるように仕向けた。
これが、江戸藩邸の益満久之助に命じた江戸攪乱の手段であった。かなり非合法な部分があって、批判が出てくるが、やむを得ない。ついに幕府側が怒って、「討薩表」つまり、薩摩を討伐するための宣言を出した。徳川将軍慶喜が指揮を執ったのではない。最上級の旗本、竹中丹後の守が総司令官になって攻めてきた。戦国時代の竹中半兵衛の子孫であった。約三倍の兵力を撃破したが、簡単に勝てるものではなかった。援軍要請に対して「皆死ね。そのあとに援軍を送る」と答え、残りの数百人を率いて出ていったという。奇跡的に勝って、山崎まで幕府軍が後退した時、藤堂藩の大砲が幕府軍の上に落ち始め、大混乱の中で大阪まで敗走した。あと将軍は脱走、敗軍の将兵も散乱し、西日本は討幕勢力の支配下にはいった。ここで開国和親の方針をはっきりさせたのである。

2018年1月3日水曜日

小林良彰(歴史学者、東大卒)の西郷隆盛論・続

西郷隆盛は開国論者か攘夷論者か。尊王攘夷対開国佐幕の対立で明治維新が進行していくという一般的な常識からすると、彼の残した文章から見ると、どうもはっきりしない。それでは、そういうあいまいな人か、そうではない。ならば何か。ここから話が始まる。
彼の若いころ、潘主島津斉彬に引き立てられて、そば近く使えることができた。本来なら、そばにもよれない低い身分であった。「お前はいつも水戸のご老公のところに使いして、ご老公の開国、攘夷についてのご意見をうかがっていると思うが、どう思うか」という質問であった。(現代文に直しています)。
「それはもう、決まっています」。
「攘夷をするということか。国を閉ざすということか」
「それには間違いありません」
「まだその程度のことか」
ここで、西郷隆盛、当時の吉之助は、何か深いわけがあるのではないかと考えたという。考えていきつく先はどこだろうか。
水戸のご老公・徳川斉昭を補佐する人物は、藤田東湖は尊王攘夷論の大先輩で、「アメリカが攻めてきたら、息子を先頭に立てて、討ち死にさせます」などといっていたが、「なかなかそうではない」と、この文章を書いた人物が言う。
「なかなかそうではないのならどうなのか」ということになるが、大橋とつ庵という人物(坂下門外の変を起こした)が、攘夷戦に立ち上がってくれと誘いに来た時、「今はその時期ではない」と断った。大橋は「死ぬ死ぬといって死んだ人はいない」と、軽蔑した。
時の老中阿部正弘(幕府政治の最高指導者)が藤田に、攘夷か開国かを質問した。藤田は攘夷と答えた。阿部は「何たることを言うか」と怒った。藤田は友人に「それでどうすると聞いてきたら、策を言おうと思っていたが、突如怒ったので、この人はこの任にあらずと知り、以後なにもいわない」。
こういう話を総合すると、今戦っても負けるのだから、負けないような状態を作って、それからやるかやらないかを決める。そのためにはなにをするべきかを提案したいというところが本心であった。しかし、当時の大名、武士には、その理解に到達する人たちは少なかった。すぐに怒る。しかも権力と剣を持っている。だから分かり合えると見極めてから本心を言う。こうしないと、たとえ部下、家臣であっても危険が伴う。だから一見あいまいになる。水戸の殿様も、薩摩の殿様も、藤田東湖もそうであったので、西郷隆盛もその線で進んだのであった。それが討幕の寸前まで続く。

2018年1月2日火曜日

小林良彰(歴史学者、東大卒)の西郷隆盛論、開国か攘夷か

まず誰がこの文章を書いているのか、をお知らせしたい。私といっても同姓同名の人がいるので、私は誰でしょうということになる。そこでかっこの中に違いを書きました。嫌味かもしれませんが識別番号として理解してください。
さて、西郷隆盛は攘夷論者か開国論者か、ここから話を始めましょう。