2018年1月6日土曜日

小林良彰(歴史学者、東大卒)の西郷隆盛論、大商人との同盟

第二次長州征伐は幕府の敗北に終わり、勝海舟が幕府を代表して,以後は長州を攻撃しないと約束した。その後、幕府では勘定奉行、陸軍奉行の小栗上野介の力が強まり、フランスから、武器、艦船を購入し、西洋流の軍制に改め、その武力で薩摩、長州を打ち、諸大名の領地を削減し、幕府中心の統一国家を作るという構想を立てた。勝海舟はこれを西郷に伝えた。薩摩、長州の側は危機感を持った。
そのころ、西郷隆盛は小松帯刀とともに大商人三井の主人三井八郎右衛門を訪ね会談した。二人とも、平伏するような態度であったと当時の番頭が書き残している。これが重要なところ、武士が町人に丁寧にする、何が問題か,金以外にはありえない。これが現実化して、討幕戦が始まると、大山巌(のちの陸軍大臣)が「おいどんも三井の穴倉に金を受け取りに行ったもんじゃ」といった。
こうして、戦力としての薩摩、長州の武士団、軍資金としての三井の出資金が合体して、討幕戦力となった。どちらが欠けても勝てない。もし負けると、三井も店はつぶされ、大量処刑が待っている。つまり商人の側も命がけの勝負に打って出たわけである。三井の祖先ももとは武士であったから、驚くには値しないかもしれない。
小松帯刀の役割は重要なものであった。薩摩の上級武士、重臣、青年貴族とでもいういで立ち、京都の娘たちがその姿を見ると騒いだという。この時点において、薩摩藩の信用を代表するのは、三井にとっては小松になるだろう。ただ偶然というか、討幕戦直前に死去したから、歴史から消え去った。こうして、西郷隆盛一人が、討幕戦力と大商人の同盟を体現した。
これで勝ったから、討幕戦とフランス革命のバステイーユ占領とは同じであると私は言うのである。

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