2018年1月8日月曜日

小林良彰(歴史学者、東大卒)の西郷隆盛論、大政奉還か武力討幕か

1868年、大政奉還が実現した。二条城にその模型がある。「これで良し」と考えた人は多い。坂本竜馬もそうだといわれている。盟友中岡慎太郎(陸援隊長でこの時京都東山に陣を敷いていた)が「近頃竜馬すこぶるあいまいなり。ご油断あるまじく」と書いた。この二人が会談中に、刺客に襲われて死んだ。中岡は激烈な武力討幕論者、西洋列強は革命、動乱の中から生まれたと書いた。
小松帯刀(薩摩藩の重臣、西郷の上司)もこれでよいと思ったであろうと、何人かの歴史家が言う。証拠はないが、小松の立場からすると、それはありうる。しかし急死した。
こうした中で、西郷、大久保、岩倉具視の線で、武力討幕への努力が進められる。そこまでしなくてもよかったのではないかという意見が、現在でも蒸し返される。なぜ武力討幕にこだわったのか。ここが突き詰めたところの最大の問題になる。
武力討幕は現在の用語であって、当時は「辞官、納地」であった。征夷大将軍の官職を辞退する、幕府直轄領700万石を返上するというものである。中心は関東平野にある。結局討幕戦の後こうなった。徳川本家は静岡藩として、約十分の一の領地を相続した。これが重要な変化で、たとえば9000石取りの上級旗本は、900石取りになる。小栗上野介などは、高杉晋作の家禄とほぼ同等に引き下げられる。大奥の費用は全廃される。余った費用が新政府の財源になる。
これが討幕の経済学で、こういうことを論じた人がいたのかどうかである。大政奉還のまま立ち止まると、上級旗本の権利はそのまま、諸藩の上級武士の権利もそのまま、徳川本家が諸大名会議の議長、その議長を譜代大名の名家と上級旗本が補佐する。誰が逆らえるかというのである。これで統一国家を作る。これが幕府中心の統一国家の構想で、小栗上野介などが進めていた。
もしこれが成功していたとしよう。西洋諸国に例えると、当時のロシア、オーストリアその他の絶対主義国家、1848年以前のプロイセン(プロシア)に相当する。これも強国のモデルではあった。この場合は、大土地所有の権利を保存したままの近代化、統一国家であった。
辞官納地は幕府の領地に革命を起こすものであった。旗本から権利を取り上げて、静岡藩に押し込めてしまう。十分の九を新政府がとる。その政府は討幕戦力と大商人の代表で構成される。もしここが新たな大土地所者によって構成されるならば、絶対主義の再来だが、そうはならなかった。
したがって、大政奉還か、武力討幕かは、絶対主義か、フランス革命かの分岐点に相当するものであった。

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