2018年4月29日日曜日

恐怖政治の平原派指導者シェイエス

フランス革命の恐怖政治の時期、所謂ジロンド派でもなく、モンタニヤールでもない中間派としての平原派約400人、これが最終的に勝ち残った勢力であり、この背後にいるものが何か、これこそがフランス革命の果実を手に入れや者である。そういう問題意識の下で、バラスに次いで、シェイエスを取り上げる。
シエース、シェイエース、その他でも呼ばれる。アベ(聖職者に対する敬称)でも呼ばれるが、最高位ではない。副司教、徴税請負人の息子、貴族ではない。その上に司教、大司教、枢機卿がいたので、これが貴族出身であった。身分としては平民、第三身分であったが、宗教家であるから、第一身分でもあった。最高権力者のその下くらいの立場であり、その意味ではバラスとも似ている。確かに、革命家はこのあたりから出てくることが多い。
シェイエスはフランス革命直前、「第三身分とは何か」を出版し、これが今までは「無」であったが、これからは「何者かになる」といった。これは銀行家ネッケルが娘をスエーデン貴族と結婚させたとき、「何者でもないものが、何者かになるためには娘が必要だ」と貴族社会で揶揄されたことにつながる。
バスチーユ占領のころは、華々しく活躍したが、次第に穏健となり、フイヤン派に属し、国民公会では平原派の中にいた。しかし、発言をしない。後日「あの時何をしていたのか」と揶揄されると、「生き残ることに努めていましたよ」といったので、これは名言とされ有名になった。ただし、取り巻きを持っていて、何か常に陰謀を企てていたといわれている。
イギリスのスパイの報告では、シェイエスがロベスピエール、公安委員会に影響力を行使しているといわれている。まさかと思うだろうが、ロベスピエールの最後の演説は平原派に対して呼びかけたものであり、つまり死の直前まで、平原派を当てにしていたのであり、それはとりもなおさずシェイエスを当てにしていたということである。
しかし、シェイエスはその日にロベスピエールを切り捨てることにしていたのである。その後、シェイエスは公安委員会に入る。つまり、ロベスピエールを倒した後の権力者になった。
総裁政府の末期、総裁の一人に入り、バラスと肩を並べた。しかし、ナポレオンのがわに
つき、クーデターの後、第二統領になった。第一帝政では元老院(貴族院)議長になり、革命フランスの最高の成功者になったといってもよい。
この人物の背景としては、ルクツー・ド・カントルー(銀行家、貿易商人、法服貴族)が目につく。国民議会では財政委員会で活躍した。ただし常に同じ道を歩いたというわけではない。国王の処刑に反対して、救出の努力をした。これで投獄され、処刑を待つ身になった。その時、シェイエスは何もせずに、沈黙していた。
ナポレオンの時には、ルクツーがナポレオンを呼び戻して援助し、そのあとシエイエスが第二統領になった。王制が復活すると、国外追放となり、7月革命で帰国した。こう見ると、シェイエスはフランス革命そのものを象徴しているように見える。

2018年4月28日土曜日

恐怖政治を学ぶなら、もっと平原派を知るべきである

前回の続きであるが、私が出てくるまでのフランス革命史は、いわゆるジロンド派対ジャコバン派の対立で歴史を語っていたのである。それ以外はないという態度で語る人、もうひとつは、あることは認めても、どうせくだらないもので無視するに足りるというものであった。つまり中間派は受動的なもので、「ついてこい」といわれる類のものであり、決定的役割は能動的なもの、すなわち、左右の両派閥でなければならぬという態度であった。
しかし、最後まで無傷で残ったものは、中間派であったので、この本質を知らずして、フランス革命を理解することはできないはずである。その観点から、平原派議員を調べ始めたが、こういう研究をしたのも世界では初めてであった。
まず、バラ子爵から始めよう。バラスとも発音する。アメリカにコーキー・バラスというダンスの名手がいる。だからここではバラスにしておこう。南フランスの中流の貴族、フランス革命以前、時の海軍大臣の部屋で、大臣の頭を本でたたいた。その後、インドへ派遣され、イギリス軍とたたかった。帰国して、国民公会の議員となり、中間派、平原派として、目立たない存在であった。
マルセイユでいわゆるジロンド派の反乱があり、この地域が反政府勢力に支配された。すぐ近くのツーロン軍港がイギリス海軍に占領された。これでは南フランスを経由する輸出入が途絶してしまう。フランス国家としての死活問題になった。この時、国民公会から、バラスが派遣委員として、全権力を委任された。彼の指揮する軍隊がマルセイユを鎮圧した。つぎにツーロン奪回に向かい、ここではイギリス海軍との砲撃戦が主体になった。この時、下級将校であったナポレオン・ボナパルトを引き立てて、砲兵司令官とし、その活躍によってイギリス海軍を追い出した。これはその時のフランスにとって、最大の功績になった。後世、これはナポレオンの功績として語り伝えられるが、当時は、バラスの功績と思われた。
バラスは最大の名誉に包まれてパリに凱旋してくる。ところがである。彼は最大級の富豪になっていた。その巨万の富は、賄賂と横領によって作られたといわれた。死刑になるべき人間から賄賂をとって助命し、軍隊につぎ込まれた資金の一部を私物化した。
ウヴラールという政商、御用商人、当時は、フル二スール・オー・ザルメー(軍隊に対する供給者)といわれたものだが、これと組んだ腐敗汚職もひどいものであった。さらに、毎日のように繰り返される夜の豪遊が有名になった。自分が愛人にした貴婦人を、妊娠中に、この御用商人に下げ渡したというのも話題になった。「背徳」という字がついて語られる人物であった。
ロベスピエールが公務員の腐敗粛清を主張した時、このバラスは真っ先に該当するものであった。そこで、テルミドールの反革命の日、ロベスピエールが市会議事堂にこもり、ジャコバンクラブの群衆に守られていた時、少数の兵力を動員して、群衆をすり抜け、急襲を加えてロベスピエールを銃撃した。これでジャコバンクラブは全滅した。
こうなると、バラスは二度の勝利を実現したものとして、最高の英雄になった。その延長として、総裁政府の事実上のトップになり、「バラスの王」といわれた。ナポレオンのクーデターによってその職を追われるが、巨万の富はそのままであった。彼の相棒のウヴラールはナポレオンの下でもビジネスを続けた。ナポレオンが失脚しても、妻が貴婦人であるから、バラスの子供を育てながら、ブルジョア的貴族として社会の上層にとどまった。
バラスを基準にしてみると、フランス革命とはこの程度のものであったのかとも思われる。旧体制、アンシャン・レジームとは、バラスが頭をたたいた海軍大臣(大貴族)が国王直属で支配する社会、新時代は、旧体制の変わり者、時代劇でいうと旗本退屈男のようなものが、商人、日本の町人、を引き立てて、新時代の支配者になる。
この子孫が現代でも、ブルジョア的貴族、貴族的ブルジョアとして支配者の集団を形成している。このことは日本人のほとんどが知らない。しかしこれが事実なのであるから、これを基準にして明治維新と比較するべきであると私は言う。
ただ、バラスはいかにも不道徳であるから、だれもこの人物について語りたくないのである。そういうことも歴史解釈をゆがめてしまう理由になるのかもしれない。これを思うとため息が出る。



2018年4月20日金曜日

国民公会の中間派に注目するべきである、これこそフランス革命の万年与党

このようにはっきりと声を上げたのは、私が初めてであります。それも、約60年前のことです。当時は、ジロンド派対ジャコバン派の対立、これが学問の世界と文学、小説の世界で花盛りでした。社会科学の分野では、ジロンド派がブルジョアジー、ジャコバン派が中小ブルジョアジーまたはその下、を代表すると定義されていた。
しかしこれではジロンド派が没落し、次にジャコバン派が粛清され、何も残らないではないか。それはナンセンスだ。そこで、間に中間派があったと言い出した。それは正しい。しかし扱いがよくなかった。この集団を能動的なものとみなさず、極めて受動的な、ろくでもない集団のように扱った。実際に、革命の当事者が、「沼の蛙」といった。バカにしていたわけです。
正確な状態を言いましょう。小高い議席に陣取ったのが、いわゆる「ジロンド派」であった。約160名、当時は今のような政党があったのではない。なんとなく気の合いそうなものたちがまとまっただけ、「党員数が何名」と数えるような時代ではない。だから約です。
いわゆるジャコバン派、正確には「モンタニヤール」は反対側の高い議席に陣取った。低いところから見れば「山」に見える。当時は「あだ名」をつけることが盛んで、山をモンターニュといったのです。これが約150名。反対派とほぼ同数です。
真ん中の低いところに、約400人が座った。そこでこれを「平原」プレーヌと呼んだ。もう一つ、マレつまり沼とも呼んだ。そこで日本語に翻訳するとき、平原派、沼沢派ともいう。ここに一つの誤解の種がある。派をつけて呼ぶと、意見が一致しているかのように思える。実は意見がばらばらで、一人一党主義、是々非々主義、日和見主義、ご都合主義、順応主義なんでもあるわけです。
そこで数は多いがまとまりがない、強い方になびく、ろくでもない群衆というので、蛙などと呼んだ人もいる。長らく歴史家もそのようにみていて、大したものではないという書き方をしていた。果たしてそうかと思いだしたのが私です。
国民公会の議事録を読んでいた時のこと、意外に平原派議員の発言が多い。発言内容もなかなか勇敢なものもある。さらに、いわゆる「ジャコバン派独裁」の時代に、財政委員会議長カンボン、同委員にカンバセレスを出し、しかもこの委員会は独立していて、公安委員会とは対等であることを知った。なーんだ、財務省、大蔵省を平原派がとっているじゃないか、「これでジャコバン派独裁といえるのか」、こうはっきり思い、それを世間に発表したのは私が初めてです。
さらにカンバセレスに注目し、彼が第二統領として、ナポレオン法典の実質的な責任者であり、革命前から大工業の所有者県経営者、法服貴族であったことを突き止めました。これすなわち、フランス革命の万年与党ではないか。
何処まで行っても、フランス革命はブルジョアジーの革命であり、かつ貴族の政治家、官僚の協力を伴う、このような解釈と観察眼をもって、我が国の明治維新を見るべきだはないか、そうすると、明治維新がフランス革命と同じものだということができるのです。

2018年4月19日木曜日

いわゆるジャコバン派がジャコバンクラブと対立して消滅させた

これはショッキングな見出しで、著者が狂ったのではないかと思うだろう。しかし正しいのである。もちろん条件があって、昔の教科書の書き方ならばというものです。つまり、ジロンド派対ジャコバン派の対立でフランス革命を展開するならばということです。
実際はモンタニヤールですよね。これを昔はジャコバン派と呼んでいたのです。さて、ジャコバンクラブは、モンタニヤールを支持していたと前回は書きました。これは間違いではないのですが、これを支持母体として固定的にとらえてはいけないということなのです。確かに支持母体ではあった。しかし、それはモンタニヤールが野党的存在で、権力に到達しえないときのことであったのです。
その時はいわゆるジロンド派がジャコバンクラブから脱退している。なぜか、権力をとり、すぐに腐敗、汚職が始まったためです。そこをジャコバンクラブで追及されたので、脱退した。ということは、ジャコバンクラブは腐敗、汚職、権力乱用に厳しいということであった。スクリュタン・エピラトワールというものがあった。清潔にするための投票というものであり、粛清投票といってよいが、今は粛清という言葉が、上が下を排除するために使う傾向があるので、そうではないという意味でこれは使わない。キリスト教にはピユューリタンの伝統があり、清廉潔白に生活をしようという伝統がある。こういう趣旨だと思えばよい。
他方で、権力をとったものは、とにかく腐敗をしたがった。今まで控えめに、つましく暮らしていても、権力機構に入ると、一日で人柄が変わる。フランス革命でもこの実例は多かった。ということは、モンタニヤールの議員も、権力と取ってからは、いわゆるジロンド派、その前のフイヤン派議員と同じことを始めたのである。
これにジャコバンクラブの多数が失望と怒りを表明した。対立がぎりぎりになった段階では、モンタニヤールの議員が釈明に来た時、「ギロチンへ」という叫び声を浴びせられた退場した。この時、ジャコバンクラブはロベスピエール派約10人だけを支持する団体に変わっていた。そこで対立は、国民公会対パリのジャコバンクラブとなり、モンタニヤールはジャコバンクラブを全滅させることに奮闘したのである。これがテルミドールの反革命であった。

2018年4月18日水曜日

ジャコバン派は国民公会に存在しない

ジロンド派対ジャコバン派の対立で、フランス革命を説明することが当然のように行われてきました。しかし国民公会の中にジャコバン派という団体は存在しない。だから出発点において、従来のフランス革命史は間違っていたのです。
ジャコバンクラブはフイヤンクラブ、コルドリエクラブとともに存在した。1792年8月10日に事件で、フイヤンクラブは消滅した。ジャコバンクラブは全国的な組織として活動した。しかしいわゆるジロンド派政権が成立したのち、ジャコバンクラブの性格が急速に変化した。10月10日、ジャコバンクラブの議長はぺチヨンであり、彼はジロンド派の議員であった。10月12日ブリッソがジャコバンクラブから除名された。これ以後脱退するものが相次いだ。こうして、いわゆるジロンド派議員はジャコバンクラブからいなくなった。国民公会召集の22日後の事であった。
ジャコバンクラブに所属しながら、国民公会の議員であったものは、議事堂の端の小高い場所に集まった。当時はあだ名をつけることがはやっていたので、彼らのことを「山」に住んでいるという意味で「モンターニュ」と呼んだ。英語でいえば、マウンテンとなる。そこで、モンタニヤールとも呼ばれた。日本語では「山岳派」となる。どれを使うべきか、常に迷うところであるが、ここではモンタニヤールにしておきましょう。
ジャコバンクラブはこれを支持したけれども、今の政党政治でのように常に一致していたというわけではない。有力議員の中には、ジャコバンクラブに行ったことがないという人もいた。
だから国民公会の中の対立は、いわゆるジロンド派対モンタニヤールの対立であり、ジャコバンクラブは院外団体で、全国組織を持ちながら緩やかな形でモンタニヤールを支持していたというべきである。
ジャコバンクラブでは粛清投票というものがあった。腐敗、汚職の疑いがあると告発される。それについて、投票が行われる。これを嫌がって、いわゆるジロンド派が脱退した。フランス革命は素晴らしいものと思われているが、同時に贈収賄が多かったことも事実であり、「腐敗しないであろう人」はロベスピエールだけと思われていたので、このフランス語を頭文字大文字にすると、彼のあだ名になった。それくらい、疑いは多くの人にかけられていた。
約一年間、「清濁併せ呑む」と言う感じの団体で推移し、最終的にロベスピエール一人を信頼する団体になったとき、テルミドールの反革命で、ジャコバンクラブも全滅する。世界史的にみても、清廉潔白の代表者は、西郷隆盛、スイスのカルヴァン(カルヴィン)イギリスのクロムウエルくらいになるのだろう。
モンタニヤールは、中規模の事業者、地方の中小商人、パリなどの親方、工房の主人、豊かな自営業者などの利益代表者であった。

国民公会の党派、ジロンド派対ジャコバン派で説明するのは古くて、間違い

ヴァルミーの会戦、9月20日、この日に国民公会が招集された。これが新しい権力機関になる。今まで暴れまわったパリ・コミューンは、国民代表に従うと表明した。マラーは,これ以後新しいコースをとると表明した。マラーとタリアンは議員に選出された。こうして今後約1年間は、国民公会が名実ともに最高の権力を握ることになった。
行政機関としての臨時行政会議は、国王を持たない内閣で、首相もない。それぞれの担当大臣が命令を出す。それを国民公会が黙認しているような状態であった。
その国民公会であるが、この説明が古くから、でたらめ極まるものになっていた。だからフランス革命が誤解される。それを今から一つ一つ解説していくが、これについてくるだけの頭をもつ人がどれだけいるのか、その点に私は自信がなくなるのである。つまり、高等数学を子供に分からせるようにしゃべる、しかしわからせる自信はないと、数学者は思うであろう。これと同じことである。本では書けないけれども、ネットだから書きました。何とか理解してくださることを期待します。
さて、古くから、ジロンド派対ジャコバン派の対立と書かれてきました。私が中学校の教科書で読んだのもこれです。しかしジロンド派という呼び名は正確ではない。これは、フランス革命から数十年たってからつけられた、あだ名のようなもので、フランス革命当時では、ブリッソの党派、ロランの党派、と呼ばれていた。この違いだけでどれだけのイメージが違ってくるか、これが問題です。ジロンドというと、ボルドーが中心、スペイン国境に近い大西洋側、ジロンド川をさかのぼったところにある。ワイン、ボルドー酒の輸出基地、豊かな貿易商人の多いところである。
彼らの代表者が選出されてきて、華々しく活躍したので、ジロンド派の名がついた。しかし実名を言うと、日本人は知らない人たちばかりです。日本人のフランス革命史家でも知りません。ジャンソネ、ヴェルニヨー、ガデ、グランジュヌーヴは弁護士またはそれの卵、ボワイエ・フォンフレード、デュコは本人達が大商人、大船主、繊維の大工場主であった。
しかしこれをもって全フランスの代表とするのは無理がある。地方の大商人ばかりだからである。また、銀行はどうなる。ボルドーに大銀行、これはないのである。やはりパリでなければならない。パリというと、ブリッソの党派となる。彼が銀行業界の代表者であることは、一般に認められている。しかも、スイスから来た銀行家のクラヴィエールが財務大臣になっている。
内務大臣ロラン・ド・ラ・プラチエールは法服貴族の父と、本来の貴族の母を持っていた。つまり、ブルジョア貴族と純粋貴族の融合であり、日本的にいうと、商人が「名字帯刀を許された」として、妻が純粋の武士で、その間に生まれたものということになる。ロランは領地も持つていた。旧体制の下でマニュファクチュア検査官の官職を持ち、そのまま新体制でもリヨン絹織物業界の代表者になっていた。パリの彫刻家の娘と結婚して、ロラン夫人のサロンは特に社交界で有名になった。各地から集まるいわゆるジロンド派議員が出入りした。
こう見てくると、固定的にジロンド派と呼ぶのは誤解を招くので、「いわゆるジロンド派」というのが正しいことになる。そして、その背景は、ブルジョアジーの本流といってよい。

2018年4月16日月曜日

小林良彰(歴史学者東大卒のフランス革命論)戦勝が征服型の市民革命をもたらした。

ヴァルミーの会戦以後、プロイセン軍はドイツ領に後退し、やがて帰国してしまった。フランスの義勇兵、正規軍、国民衛兵は、それぞれの地域で、国境の外へ進出した。大きな戦闘は、北方のジェマップの会戦で、オーストリアが大敗北をして撤退した。これでベルギーがフランスの領土に入った。中部では、マインツ、フランクフルト、などライン川沿いの重要都市を占領した。南部ではニースを含む地域を占領した。
予想外の成功に気をよくしたので、フランスの政府は11月19日諸国民の解放戦争を支持するとの声明を発表した。イギリスはオランダが危ないと感じてフランスと対立を深め、その結果として、1793年2月1日、フランスがイギリスに対して宣戦布告をした。
ただし、フランス内部においては、征服に対する賛否両論があった。これは党派に関係なく、両論があった。ジロンド派では、ブリッソ、クラヴィエールが好戦的、ラスルス、ルーヴェが反対、左派の山岳派、モンタニヤールではロベスピエールが反対した。ほどほどのところで止めておけというものであった。歴史を後から見れば、これが正しい。しかし、ダントンは拡大論者で、占領地で支配者を追放し、自由を実現するとした。ロベスピールとともに公安委員になったバレールは、敵国が一つ増えると、自由の勝利が一つ増えると演説し、熱狂のうちにスペインに対する宣戦布告を実現した。
これは革命の輸出であり、征服地に革命を実現することである。前時代の支配者が政権から追放され、ブルジョアジーが権力を握る。それをフランスが合併する。こういう形の市民各目もありうるということで、革命必ずしも反乱の形をとるものではないことを知っておくことが重要である。
これは何を言っているかというと、わが国の廃藩置県がこれに相当するというのである。フランスに相当するのが明治新政府、まだ旧幕府領だけを支配する、その他の大名領が、ライン川沿いの中小諸国の相当する。もし東北諸藩の連合を外国が応援した場合、例えば欧米諸国、もしくはロシアがそちらを応援したとする、実はこれはありうる話であったが、こういうことになると、まさにフランス対オーストリアの対立と同じになる。
西ドイツ諸国は中世封建制度と変わらない体制のもとにあり、近代的な統一国家を特っていなかった。フランス革命軍は小国家を各個撃破する形で進んだ。さらにフランクフルトのような都市国家があり、これらは抵抗することができない。
こうして、フランス革命軍の下で市民革命の政策が実施された。それに慣れたころ、フランスが敗北して、押し戻され、元の旧体制に戻る。ナポレオン支配下では、西ドイツ諸国はライン同盟にまとめられた。ナポレオンが敗北すると、プロイセン王国に合併される。市民革命から、絶対主義への逆戻りである。これが1815年から1848年の3月革命まで続く。3月革命でライン州プロイセンのブルジョアジーの影響力が強まり、プロイセンは市民革命の国になる。1871年その力でもって、他のドイツ諸国を強制的に合併して統一したドイツ帝国を作った。こういう形でドイツの市民革命は完成する。これがちょうど日本の廃藩置県の年と一致するのもまた、数奇な運命であるというべきだ。

2018年4月13日金曜日

ヴァルミーの会戦

「この日、この場所から、世界史の新しい時代が始まる」。これが、文豪ゲーテの書き残した言葉である。彼が、革命に賛成の人物であったのではないだけに、この文章には説得力がある。文学者らしい、鋭い観察眼のなせる業であった。
9月20日、ヴァルミーの丘で、両軍が対戦した。プロイセン軍はヴェルダンからさらに進んで、国境から3分の1くらいにまで達していた。ほとんど抵抗を受けずに前進してきた。ここで、プロイセン軍の司令官ブラウンシュヴァイヒ公爵は、奇妙な軍隊を見た。雑然としている。つまり義勇兵であった。ただし指揮官は貴族であった。しかし兵隊がばらばらであった。今日の言葉でいえばボランティアであるから、制服も整えられていないし、見たことも聞いたこともない軍隊ということになる。
当然一押しすれば崩れると思った。また、今までのフランス軍は、抵抗らしい抵抗はしていない。そこで前進命令を出し、いよいよ開戦となったとき、相手が鬨の声を上げて前進してきた。その様子を見て、この相手とぶつかると、血みどろの戦いになると予想した。そこで後退の命令を出した。フランス軍は、これをゆっくりと追撃していった。
この戦争は、こうして国境まで、ほとんど戦闘らしい戦闘をせずに追い出したことになる。それでも世界史的に有名なのは、ゲーテの言葉通りである。ただし、「庶民の軍隊が貴族の軍隊に勝った」という通説を妄信してはいけない。義勇兵はブルジョアの、即席の、その場しのぎの軍隊であった。指揮官には貴族がなった。これは重要で、兵隊には戦闘経験がなかったからである。
勝った理由にはまだ多くの条件がある。将軍の多くが逃亡、亡命し、そのあとを戦う気のある将軍、将校が埋めたことがある。ナポレオン・ボナパルトもこうした条件の下で少しずつ昇進していった。
国王夫妻が投獄され、作戦計画がオーストリア側にもれなくなったこともある。
プロイセン軍の兵士がブドウ畑からブドウをとって食べたため、赤痢がはやり、ゲーテもかかり、戦争どころでなくなったことも響いた。
プロイセンがオーストリアほどこの戦争に熱心ではなかったことも影響している。
このあたりの地形が騎兵軍団の突撃にむいていなかったことも義勇兵にとって有利であった。義勇兵は歩兵中心、。馬術の訓練には時間がかかる。だから、この時両者の軍隊の速度は極めてゆっくりしたものになった。

2018年4月11日水曜日

9月2日の虐殺に関与した銀行家パーシュ

この人物の役割を取り上げるのは、私一人です。まず事件の概要から。王権は転覆、立法議会は解散、国民公会の選挙は、選挙運動のさなか、臨時行政会議は仮の政府、極端にいえばこの時のフランスは無政府状態でありました。しかしプロイセン軍はますます前進している。
9月2日、ヴェルダンが包囲された。ここは国境の重要都市、パリから約200キロメートル離れている。もうすぐパリ攻撃が始まる。占領地では、人馬の死体があふれ、川や井戸に投げ込んでいるという。亡命貴族が一緒に帰ってきて、革命派の処罰、領主権の徴収をすると宣言した。パリは恐慌状態になった。ジロンド派の一部はパリ退却案を口にした。しかしパリを死守するという意見が勝った。この時のダントンの演説が有名になった。「1にも勇気、2にも勇気、3にも勇気だ」。
これでダントンは救国の英雄になったが、マラーは不十分と見た。防衛戦をしているときに、内部で王党派の反乱を起こされては勝ち目がない。しかもこれらの人物は身分の高い影響力の強い人たちである。ヴェルサイユ城ではトップクラスで知名度も高い人たちであった。プロイセン軍の接近に合わせて革命政府を攻撃するであろう。しかも貴族であるから武術、格闘術には優れている。
マラーはパリ・コミューンの監視委員会に入って、約3000人のこれら反革命容疑者を処刑してから、敵国との戦争に出発するべきだと主張した。この時、事実上のパリ市議会であったパリ・コミューンが唯一の権力機関になってたという状態が、マラーの主張を実現することになった。パリ市民と義勇兵が協力して、約半分の反革命容疑者を殺した。この殺害を象徴するものが、ランバル公爵夫人(王妃付き女官長)の虐殺であった。
この事件が、フランス革命におけるテロリズムの始まりとされる。マラーがテロリストの元祖のように言われる。ここまではその通りであるが、マラーの資金源はどうなっているか。これを問題にした人は日本にはいない。
スイス人銀行家のパーシュであった。マラーもスイス人であった。マラーはイギリスで医学を学び、国王の弟アルトワ伯爵の侍医を務めていた。国際派であり、インテリで科学者であった。しかしフランス革命直前から革命運動をはじめ、コルドリエクラブに参加し、貧民に大きな影響力を持った。9月2日の虐殺を指導して有名になったタリアン、マイヤールなどとともに、このパーシュの取り巻きになった。そのおかげで急に豊かな生活を始めるようになった。
パーシュはその後パリ市長となり、のちの恐怖政治の時期に「パパ・パーシュ」といわれて貧民の間で人気を得ていた。あまり詳しくは書けないけれども、スイス人銀行家はフランス革命の全期間にわたって、大きな影響を与えた。ネッケル、クラヴィエール、パーシュ、ペルゴであり、これを見ると、フランス革命はどこまで行ってもブルジョアの革命であったという思いがするのである。

2018年4月8日日曜日

マラー、ダントン、ロベスピエールの役割

昔はマラー、やがてマラになった。それはともかく、この3人がフランス革命を代表する巨頭とされた来た。私が最後の旧制一高を受験した時も、この問題が出されていた。世界史の教科書には必ず出ていた。
そのうち、マラがまず消えた。次にダントンが消え、今ロベスピエールが消えようとしている。オールドジェネレーションとしては寂しい限りではあるが、それなりの理由があるのだろうし、又あるようにも思う。そこで消え去る前に、その役割を明確にしておこうと思う。
フランス革命の発生について、この3人が決定的な役割を持ったのかというとそうではない。この3人がいなくてもフランス革命は起きている。その点、日本革命・明治維新は、西郷隆盛なしには違った進行になっただろうとは、だれもが考える。つまり、決定的な役割を持っていた。西郷隆盛に相当する人物といえば、フランス革命ではラファイエット侯爵であろう。それでも、ラファイエット侯爵が計画して、あらかじめ勝つようにもっていったというものではない。むしろ担がれたといってよい。
さて、ラファイエットを頂点にして、フランス革命政府は市民革命としての成果を確定した。指導権はフイヤンクラブにあった。これで3年間は過ぎた。野党のジャコバンクラブはまだ勝てない。そのジャコバンクラブにおいても、まだダントン、ロベスピエールはほとんど目立たない状態であった。華々しく活躍したのは、のちにジロンド派と呼ばれるようになった集団であった。マラはさらに野党的なコルドリエクラブを足場とし、選挙権も与えられなかった貧しい地区の住民に同情的な論陣を張っていた。
この野党の野党のような人物が急浮上するのは、オーストリア・プロイセン軍の侵入、敗戦、パリ破壊の宣言という極めて例外的な条件によるものであった。この時パリを守りながら戦争に勝ちたいとするならば、この3人の路線が生きてくる。もう一つは地方都市に退去する案であったが、これは採用されなかった。
そうすると、貧民と掻き立て、選挙権を与え、総力戦に持ち込む以外にない。この道を3人が進み、王権を転覆した。そうすると、国王の行政権の独立が消滅した。拒否権も消滅した。これが重要なところ、領主権の無償廃止、亡命貴族財産の募集売却という政策は、国王の拒否権にあって、効力が停止されている。加えて立法議会ではフイヤン派がわずかにではあるが優勢になりかかっている。再決議でひっくり返されるかもしれない。この時に王権停止が実現した。代わって臨時行政会議が、新内閣となり、それを立法議会が承認した。ほぼジロンド派で固められており、ダントンが法務大臣になった。国王の拒否権は無効とされ、領主権の無償廃止は実行された。
こう見てくると、領主権の無償廃止は、作成までをジロンド派が推進し、実行段階をマラー、ダントン、ロベスピエールが推進したというべきことになる。だからこの3人の役割は大きいであるが、領主権廃止の役割がたいしたものではないとなると、この3人の役割も小さくなるので、歴史書から消えるのかなと思っている。

2018年4月7日土曜日

チュイルリー宮殿襲撃事件の真相

1792年8月10日、チュイルリー宮殿襲撃事件が起きた。その結果、王政廃止、共和国宣言、国王夫妻の投獄、立法議会の解散、普通選挙制に基づく国民公会の選出が実現した。
このような劇的な変化が起きるための伏線が、敗戦と領主権無償廃止の政策によるものであることは詳しく述べた。立法議会の右派がフイヤンクラブに支持されて、左派がジャコバンクラブに支持されている。中間派が左右に揺れている。大詰めを迎えた時、だまし討ちのような形で、領主権の無償廃止が可決された。フイヤンクラブは怒った。ラファイエット将軍は前線から離れてパリに帰り、抗議活動を行った。これを反対派は、将軍の戦線離脱だと批判した。確かに、これでは、フランス軍はますます負ける。
他方で、全国から義勇兵が出発していた。マルセイユ連盟兵が中心であった。ヴォロンテールというが、英語ではヴォランティアのことである。若者が武器弾薬を親から買い与えられてきた。貧しい若者は、その地区の献金を受けて、武器、旅費を整えた。義勇兵の実態は、地方ブルジョアジーの私兵、傭兵に相当し、それが首都の防衛にあたることになった。しかし、国王ルイ16世は、義勇兵のパリ駐屯を認めなかった。国民衛兵が反対していた。これは、ラファイエット、フイヤンクラブの影響下にある。立法議会が急遽宿を用意した。
6月13日、国王は左派系の大臣を罷免した。代わって、フイヤン派系の大臣を任命した。話は前後するが、領主権の無償廃止はこの翌日に可決された。
7月6日、プロイセン軍が国境に近づいた。7月10日、フイヤン派の大臣が罷免された。7がつ11日、立法議会が「祖国は危機にあり」という有名な宣言を出した。7月13日、義勇兵の招集が正式に発表され、国王が拒否し、その拒否を無視して議会が呼びかけるという形で、国王の行政権と議会の立法権の対立が激化した。
7月25日前にも書いたが、パリを破壊するという宣言が出された。7月30日までに、義勇兵が集まってきた。しかし国王に拒否され、宿舎はないよという扱いを受けた。8月8日ラファイエット将軍がフイヤン派を代表してパリに帰ってきたことを非難する決議案に対して、最終的に決着がつき、戦線離脱を許すということになった。
これは重大なことで、立法議会もフイヤン派に対する支持者が多数派になったということを意味する。これで、左派、ジャコバンクラブ系は策を失った。行政権も立法権も、フイヤンクラブに握られた。議会の言論で勝つ見込みはない。フイヤン派に従っていて、戦争に勝てるのか。将軍にフイヤン派が多いが、フランス軍が負けてばかりいるので信用ができない。
実はここに今一つ敗戦についての問題があった。王妃マリー・アントアネットが国王から聞いた作戦計画の内容を、スイス経由で、兄のオ-ストリア皇帝に知らせていた。これでは、常に不意打ちとなり、フランス軍は意表を突かれる。こんな戦争で勝てるわけはない。このことはずっと後になってわかるのだが、この時は分からず、これも将軍のせいだと思われていた。
ジャコバンクラブ系の指導者(のちにジロンド派と呼ばれるもの)も意見が分かれて、地方都市に後退して、外国軍との長期戦に持ち込もうというもの、パリに残って徹底抗戦をするというものに分かれた。
この混迷の中で、今まで少数派の扱いを受けていた人物がにわかに浮上してきた。ロベスピエールが武装蜂起を主張した。ダントンが雄弁をふるい、「一にも勇気…」といって、士気を鼓舞した。マラは、コルドリエクラブ(入会金の安い庶民的な団体)を動かして、国王に対する抗議活動に行こうと提案した。パリが破壊されることを恐れた住民の多くがこの運動に合流した。
8月9日の夜パリに警鐘が鳴り響き、群衆が集まってきた。義勇兵とともにチュイルリー宮殿に押し寄せた。宮殿にはスイス人傭兵隊とともに、この服だけを着用した貴族軍人の集団が待ち構えていた。はじめ門を開けて、友好的な態度を示した。距離を縮めた時、一斉射撃があり、400人ばかりが死んだ。これであとは血みどろの戦いとなり、宮殿側は全滅した。現在この場所には庭園があるだけで、建物は残っていない。国王は脱出して議会に保護された。

2018年4月4日水曜日

小林良彰東大卒のフランス革命論 地主所有地の比率は日・仏両国でほぼ同じ

地主所有地の比率はどれくらいか、裏返すと、自作農創設という政策がどこまで功を奏していたのか。「フランス革命では自作農が大量に作られたので、これがボナパルテイズムの基礎になった、つまりナポレオン3世の政権基盤になった」といいう学説が広く普及した。マルクスの名著といわれる「ルイ・ボナパルトのブリューメール18日」がその原点のようになっている。
こういう学問がまず日本に入ってきたので、日本人は、フランス社会はそのようなものであろうと思っている。その尺度で戦前の日本を見る。すると、地主所有地が約半分、自作農民の土地所有が約半分となる。「地主所有地が多いではないか」、「フランスとは違う」、「この地主が約半分の小作料をとる」、「取りすぎではないか」、「これでは封建社会と同じだ」、このような義憤から出発した学問が、戦前戦後の経済学の主流をなした。
その代表的な著作が、山田盛太郎(東京大学経済学部教授)著『日本資本主義分析』岩波書店であり、ここでは日本の地主制度がいかに半封建的、農奴主的なものであるかが詳しく論じられていた。私が入学したころ、東京大学では経済学部の学生たちが、この本をバイブルのように扱っていた。また経済史学会にも圧倒的な影響力があり、この学説に沿って「土地制度史学会」という独立した学会ができた。ここに所属していれば、学者としての夢と希望があるという雰囲気があった。私も経済学部の友人を通じてその影響を受けた。多くの若い研究者が、各地の古文書を調べて、地主制についての論文を書いた。
ところがである。これは、フランス革命以後、自作農が圧倒的に多くなったという暗黙の前提があって成り立つ理論であった。「果たしてそうか」と疑問を出すものは一人もいなかった。当時、講座派対労農派の論争といって、二大流派が対立し、明治維新が市民革命かそれとも絶対主義を作ったものかについて論争していた。ところが、どちらの陣営もこの点についての疑問を出すことはなかった。
そこに私が口を出し始めたのである。フランス革命直後でも、地主制は残っている。その比率は約半々、小作料率も約半々、つまり戦前の日本社会と同じということになる。これは多くのフランスの研究者が実証的に導き出した結論であった。もちろん、フランスの学者はフランスの事実だけを書くのみで、それが他国の歴史解釈にどう影響するかは、関心を持たない。実証的研究を評価されて、博士号を取り、教授への道を進む。
しかし、日本でこの事実を紹介するものは大変であった。学会の異端児、悪くすれば追放、こういう危険があった。そういう無謀なことを私はしたのであった。多数の研究者の結論を紹介した。全員同じ意見であった。このフランスで当然のことになった意見を、日本の学者はなかなか受け入れない。
正しい結論を書こう。フランス革命の結果、地主制の土地と自作農の土地は約半々として続き、小作料も約半々であった。戦前の日本でも、地主制の土地と自作農の土地は約半々で、小作料率も約半々であった。つまりほぼ同じ条件の下にあり、取り立てて日本が遅れているというものではなかった。
なお、日本では、明治維新直後は、約3割の土地が地主所有地で、残りが自作農のものであった。それが、戦前の約5割に上昇した。フランスでは、フランス革命直後でも約5割のままであった。
またもう一つの違いを。フランスでは地主に3種類がある。貴族地主、ブルジョア地主、農民身分の地主である。この分類で行けば、日本の地主はほとんど農民身分の地主になる。
貴族地主にも2種類がある。領主直領地がそのまま本人に残る場合、フランス革命以前の大領主の領地の一角に下級貴族が土地を持っていた場合、である。後者は領主権廃止によって得をした貴族である。このような複雑な相違があるとしても、フランスだけが特別に自作農を多く持つという理論は、空想の産物であった。マルクスのボナパルテイズム論も間違いだということです。今なおこれを信じている人が多いので、一言付け加えておきます。

2018年4月2日月曜日

亡命貴族財産の国有化、売却は土地革命にならない。

土地革命を巡る論争の中で、領主権廃止が土地革命にならないと私が証明すると、相手は「ならば亡命貴族の財産没収はどうだ」と反論する。何十人かの学者相手にこれをやってきた。だから、今度はこれを扱う必要がある。
オーストリア・プロイセン連合軍が侵入してくる。こうなるように頼み込んだのは、亡命貴族の一団で、革命前の最高権力者の集団であった。大貴族、大領主の頂点に立っていたものである。フランスの革命政府の側は、この戦争に要する戦費を、責任者の亡命貴族に支払わせる必要があるとの理由で、彼らの財産を没収し、売却することにした。ここで重要なことは、あくまでお金に換えるということで、ただで誰かに渡すという目的があったのではない。
だからこれは常に入札、競売の方法で売却し、売上代金を国庫に入れた。手続きは地方公共団体が行った。はじめは一括売却、難しいときは分割売却、これで競り落としていくのであるが、ここに土地を持たない貧民が参入して落札することができるかどうかである。それはあり得ない。買い取っていくのは金持ちに決まっている。これをもって、自作農の創設というのはナンセンスであろう。新しく、金持ちの大土地所有者を作り出しただけのことである。
1年後の1793年、細分競売という方針が実現した。以前よりは自作農創設に近い。しかしあくまでも競売であるから、金持ちが競り落とすことが多い。貧民にはそもそも金がない。
この年の後半、土地購入の証券を貧民に与えるという法令が出た。この証券を持って競売に参加せよというものであった。良い方法に見えるが、あくまでも競売であるから、自作農が常に創設されたというものではない。貧民の中に不満が鬱積した。
こうしてさいごに、いきつくものが来た。1794年ロベスピエール派が残った土地を「貧しい愛国者に無償で与える」という法令を可決させた。ヴァントウーズ法という。これが実行されたら、土地革命になったであろう。しかしこれは実行段階で、公安委員会の多数からも抵抗された。財政委員会議長カンボンは財政収入にならないという理由で大反対した。
対立の行く先は、テルミドールの反革命で、ロベスピエール派は失脚し、この法案は消滅した。つまりは、土地革命は起こらなかった。
領主権無償廃止も、亡命貴族財産の没収売却も、自作農創設を目標としたものではない。
フランス革命では土地革命は行われていない、これが最終的結論である。百数十年間、世界中の学者がこれを信じ込んできたのであるが、マルクス、エンゲルス、レーニン、毛沢東などもこれを信じてきたのであるが、この倒錯の歴史観はいったい何であったのか、不思議に思う。

2018年4月1日日曜日

明治維新は西郷と俺でやったようなものだと勝海舟は言うが?

これはよく議論の的になる言葉ではあるが、確かに重大な歴史観の問題を含んでいる。勝海舟が誇るべき業績とは、江戸城の無血開城、将軍慶喜に対する寛大処分、大政奉還に対する知恵、さらにはそれ以前の西郷に対する助言などであろう。確かに西郷は、いざというときには「この勝先生と、ひどくほれ込み申し候」と書いている。様々な貴重な助言をもらったことをうかがわせる。立派な人物であり、幕府の欠点もよく承知している。「かの国のことを一言で言え」といわれて、「その地位にいる人はそれなりの人物であるが、我が国ではそうではない」と言い、老中に「控えおろう」と叱られたという。亜米利加のことである。
立場が違えば、確かに何事かを成し遂げたかもしれぬが、惜しいかな幕臣の枠を超えられなかった。生まれがそうだから仕方がない。旗本の下、御家人を含めた幕臣の中では中級の武士、この枠からは出られない。
大政奉還に対する功績は、坂本龍馬を通じてあり得ただろうが、ここで止まれば明治維新はない。将軍家は諸大名会議の議長、その足元には、上級旗本がピラミッド型に控えている。勝海舟はその末端くらいのものだ。大奥はそのまま、譜代大名の発言力もそのままとなる。これでは、何も変わらない。
そこで、薩摩から、辞官、納地が主張された。これこそが革命になる。であるがゆえに、幕府の側も大軍を集めて、京都を占領しようとした。しかし、勝海舟はどちらの側に立つのか。幕府の領地がすべて新政府に差し出されたら、彼の収入もなくなる。これが因果関係というもの、もろ手を挙げて賛成とはいかないだろう。
幕府の側は、薩・長の連合軍の三倍の兵力を持っていた。負けるとは決まっていない。むしろ逆であった。もし勝っていたら、安政の大獄が待っていたはずだ。だから、明治維新の基本は、鳥羽・伏見の戦いにあった。これで勝ったから明治維新があり、負けると安政の大獄になる。
これを勝つようにもっていった人物は、西郷隆盛をおいて見当たらない。薩摩の戦力、長州との同盟、三井の資金力の保証、これに加えて、江戸における騒乱を掻き立て、早期開戦に誘導したこと。この四つの重大な役割は、西郷隆盛が担っていた。朝廷、公家衆に対する工作だけは、大久保利通が担当した。ここに勝海舟の役割はない。
決定的瞬間には、勝海舟はお役御免で江戸にいた。将軍が逃げ帰り、敗残の兵が集まってくる中で、対決か恭順かの議論が江戸城の大会議で行われた。ここで、降伏と決めた。この時、勝海舟の個人的役割は決定的なのもではなかった。残務整理には大いに尽力した。徳川家の存続には、山岡鉄舟の役割も大きい。勝海舟一人の功績ではない。こう見てくると、明治維新の功績としては、西郷隆盛のほどのものにはならない。

領主権廃止は自作農を創設したものではない

ともかくフランス革命で領主権は無償で廃止された。それが、従来は、つまり私が言うまでは、1793年だとされていたが、正しくは1792年のことであった。
さて、両主権が廃止されると、自作農が創設されたことになる。これが従来の学説であった。フランスでは、革命によって、大量の自作農が創設された。これは全世界的に承認された学説であった。こういうものを土地革命という。「我が国にも土地革命を」、「あの国には土地革命があったかなかったか」、こういうことが議論されたものである。
本当にそうか。私は研究しているうちに疑問を感じ始めた。というのは、フランスの研究者が実証的に研究した結果、その逆の結論を出していたからであった。この時期、だれもが、自作農創設の理論を実証することに学問的情熱を傾けた。特定の地域の土地台帳を調べ上げ、どれだけの自作農が作り出されたかを実証する。やってみると逆の結果が出る。思ったほどの自作農が作り出されていないという。フランスは実証主義の国、事実が理論にあわないと、事実を優先する。大多数の学者の結論がこうなった。ごく一部の学者が、「それでも自作農は創設された」と事実からは飛び離れて、「理論ありき」の結論を発表をした。
その両方の学説が、戦後の日本にどっと持ち込まれた。日本のフランス革命史家はまず全員、今までの理論に合わせて事実だけを自分の都合の良いように紹介して、フランスの研究者の名前だけを利用して、「つまりこのように自作農の大群が作り出された」というような結論をを書いていた。はっきり言うと、「インチキ極まりない引用の仕方」であった。
私は、事実を調べて見ると、「どうも違う」という意見が多いのだから、理論を優先するか、事実、実験の結果を優先するかといえば、残念ながら実験の結果を優先せざるを得ないだろうという、自然科学の態度を堅持するべきであろうと考えた。
実は私は理科から文転してきた人物で、他の研究者が文科系オリジナルであるのとでは気質が違うことを痛感していたのであります。そこで、私はこの文章を書きながらも、理科系で、社会科学に興味を持つという人たちに期待をかけているのです。これが私の本音です。
さて、そこで事実を優先すると、以下のようになります。一つの領地があるとする。城の周りの直領地、馬で走り回れる場所、これが約半分とする。その外側に、領民に貸している保有地がある。その保有地の封建貢租がかけられている。これを領主権という。収入の約一割程度。これに加えて、不動産売買税があるけれども、これは売らなければかからないから、今は論外とする。この領主権が無償で廃止された。これをもって、自作農の創設といえるかどうか。「言えないでしょう」。ただ負担が軽くなっただけでしょう。自作農の創設というのは、昔は土地持ちでなかったが、今は生活できるだけの土地を持てるようになった人たちが大量にできたということです。そういう土地所有権の移動という現象は起こっていないのです。これを冷徹にみることなしに、感覚的に理論だけを優先させる、こういうやり方は非科学的だといわざるを得ません。