2022年3月25日金曜日

30-フランス革命史入門 フランス革命史関係文献一覧

 フランス革命史関係文献一覧

訳書

カウッキー,フランス革命時代に於ける階級対立 宗道太訳,叢文閣,昭3

カウツキー、フランス革命時代に於ける階級対立 堀江・山口共訳,岩波書店,29

ガクソット,フランス革命(上・下) 松尾邦之助訳,読売新聞社,25

カアライル,仏国革命史1ー4,国民文庫刊行会,大正6

",フランス革命史(一・二) 柳田泉訳,春秋社,昭4ー5

",フランス革命史1ー6 柳田泉訳,",22

カルヴェ,ナポレオン 井上幸治訳,白水社,28

グーチ,ドイツとフランス革命 柴田明徳訳,三省堂,18

クーパー,クレイラン評法 曾村得信訳,中央公論社,38

クロポトキン,フランス革命史(上・中・下) 淡徳三郎訳,青木文庫,27

コンドルセ,革命議会における教育計画,渡辺誠訳,岩波書店,24

コンドルセ,人間精神進歩の歴史 前川貞次郎訳,創元社,24

シェィエス,第三階級とは何か 大岩誠訳,岩波書店,25

ジョレス,仏蘭西大革命史(一~八) 村松,平凡社,5-7,21再版


正俊訳

スタイン,仏蘭西革命史論 綿貫哲雄訳,興亡史論刊行会,大正7

ソブール,フランス革命(上・下) 小場瀬・渡辺共訳,岩波書店,28

タルモン,フランス革命と左翼全体主義の源流 市川貞治郎訳,拓大海外事情研究所,39

",人権宣言集 高木・未延・宮沢編,32

タレイラン他,フランス革命期の教育改革構想 志村鏡一郎訳,明治図書出版,47

ツワイク,ジョセフ・フーシェ,みすず書房,44

テーヌ,大革命前の仏国 松本信広訳,国民図書,大正13

"近代フランスの起源 仏蘭西革命史論1・2 岡田真吉訳,斉藤書店,22

"近代フランスの起源上・下 岡田真吉訳,角川書店,38

ドウンカー他二氏編,仏蘭西大革命 国際労働者運動史1 北島武夫訳,中外書房,6

トクヴィル,アンシャン・レジームとフランス革命 樋口謹一訳,そせい書房,51

トムソン,ロベスピエールとフランス革命 樋口謹一訳,岩波新書,30

ニコル,フランス革命 金沢・山上共訳,白水社,26

バーク,フランス革命論 鍋島能正訳,理想者,42

ブリントン,革命解剖 岡・篠原共訳,岩波書店,27

ブーロワゾ,ロベスピエール 遅塚忠窮訳,白水社,33

ブロック,フランスの農村史の基本的性格 河野健二・飯沼二郎訳,創文社,34

マチューズ,フランス大革命1 ねずまさし訳,日本橋書店,21

マチエ,フランス大革命上・下 ねず・市原共訳,岩波文庫,33ー34

ミシュレー,フランス革命史1 後藤達雄・喜久雄共訳,日本評論社,25

ミシュレー,フランス革命の女たち三宅・山上共訳 河出文庫,27

ミニエ,仏国革命史1ー4 河津祐之訳,加納久宣出版明,9ー11

"フランス革命史 桑原武夫訳,中央公論社,43

ラスキ,フランス革命と社会主義 石上・安藤共訳,創文社,31

リッター,ヘーゲルとフランス革命,山口純夫訳,理想社,42

リューデ,フランス革命と群衆 前川貞次郎・野口名隆・服部春彦訳,ミネルヴァ書房,38

ルツチスキー,革命前夜のフランス農民 遠藤輝明訳,未来社,32

ルートヴィッセ(エミール),ナポレオン伝 金沢誠訳,角川書店,41

ルフェーヴル,フランス革命 鈴木泰平訳,世界書院,27.36

"フランス革命と農民 柴田三千雄訳,未来社,31

"1789ーフランス革命序論 高橋幸八郎・柴田三千雄・遅塚忠窮訳,岩波書店,50

著書

井上幸治,ミラボーとフランス革命,木水社,昭24

",ロベスピエール ルソーの血ぬられた斗い,誠文堂新光社,37

井上すず,ジャコバン独裁の政治構造,お茶の水書房,47

占部百太郎,仏蘭西革命史論,巌松堂書店,大12

加瀬俊一,ナポレオン,文芸春秋社,44

河野健二,絶対主義の構造,日本評論社,25

"市民革命論,創元社,31

"革命思想の形成,ミネルヴァ書房,31

"フランス革命小史,岩波新書,34

"フランス革命とその思想,岩波書店,39

"フランス革命と明治維新,日本放送出版協会,41

"フランス革命の指導者(上・下),創元社,31

"フランス革命の研究,岩波書店,34

"世界の歴史10 フランス革命とナポレオン,中央公論社,36

"フランス革命とナポレオン,中央公論社,43

小林良彰,フランス革命経済史研究,ミネルヴァ書房,42

"明治維新の考え方一東洋のフランス革命として一,三一書房,42

"フランス革命の経済構造,千倉書房,47

小牧近江,ふらんす大革命,黄土社,24

斉藤清太郎,仏国革命及びナポレオン時代講話,明治書院

坂田太郎,イデオロギー論の系譜,法律タイム社,29

佐藤賢司,ナポレオンの政戦両略研究,愛宕書房,19

新明正道(編),イデオロギーの系譜学,大畑書店,8

白杉庄一郎,絶対主義論批判,三一書房,25

柴田三千雄,フランス絶対王政論,お茶の水書房,35

"パブーフの陰謀,岩波書店,43

鈴木正四,民主主義革命,岩波書店,23

杉原泰雄,国民主権の研究,岩波書店,46

十河佑貞,フランス革命とドイツ思想,白水社,24

高橋幸八郎,近代社会成立史論,日本評論社,22

"市民革命の構造 増補,お茶の水書房,42

辰野隆,フランス革命夜話,朝日新聞社,33

"ボーマルシエとフランス革命,筑摩書房,37

田村秀夫,フランス革命史,大東出版センター,49

時野谷常三郎他八氏,フランス革命とナポレオン時代 世界文化史大系第15巻,新光社,9

豊田堯,フランス革命,弘文堂,31

"バブーフとその時代,創文社,33

中木康夫,フランス絶対王制の構造,未来社,38

中江兆民,革命前法朗西二世紀事,集成社,明治19

中村善太郎,仏薗西革命前後,改造社,10

ねずまさし,フランス革命史,ナウカ社,24

長谷川正安,フランス革命と憲法,日本評論社,28

林健太郎堀米庸三編,ナポレオンと国民戦争,人物往来社,42

本田喜代治,フランス革命史,小石川書房,23

"近代フランス社会思想の成立,日本評論社,24

"フランス革命史,法大出版,43

"フランス革命と社会思想,法大出版,45

前川貞次郎,フランス革命史研究,創文社,31

箕作元八,仏蘭西大革命史1・2,富山房,大正8ー9

箕作元八・大類伸校訂,ナポレオン時代史1・2,富山房,21

諸井忠一,農民革命の諸問題,日曜書房,21

吉田静一,フランス重商主義論,未来社,37

"市民革命と資本主義,未来社,39

"近代フランスの社会と経済,未来社,50

渡辺誠,コンドルセーフランス革命教育史,岩波新書,24

"フランス革命期の教育,福村書店,28

論文

赤井彰,フランスに公ける近代新聞の発生,歴史学研究119昭19

"フランス銀行の成立について,西洋史学 特輯フランス革命,27

赤羽裕,フランス・アンシアンレジーム社会の解体岩波書店「世界史」,17

井伊玄太郎,バブーフの共産主義と革命的活動(I),早稲田政経学雑誌,164

飯塚二郎,ブルジョア革命と地主制ー比較革命史的研究 思想439,36

"戦後における市民革命論の動向ーフランスを中心として一,歴史教育10ー1,37

"同時代のみたフランス革命,歴史教育12ー4,39

池田栄,ルソーの思想とフランス革命,関大法学論集6,31

稲本洋之助,ナポレオン民法典(1804年)における家族法,社会科学研究12-2,35

"フランス革命期における相続法改革についてI・Ⅱ",17ー3.5 40 41

"フランス革命初期民事陪審論","20ー3.4,44

"フランス革命初期における検察の構造,24ー2,47

"フランス革命初期の裁判官送選論",23-2,46

"フランス革命初期における治安判事の創設,"25-2.3,49

井上幸治,フランス革命ー発端と展望ー,歴史評論4-3,25

",フランス革命,歴史学研究166,28

",ピューリタン革命とフランス革命,講座近代思想史3 弘文堂,34

",18世紀におけるノール県の織物工業,井上編「ヨーロッパ近代工業の成立」,36

",近代史「市民革命」一フランス史部会総活,西洋史学31,21

",フランス革命研究の反省,史苑29ー1,43

井上すず,ジャコバン独裁の政治構造IⅡⅢ,国史学会雑誌82-3.4.5.6.9.10,44

井上堯裕,フランス革命期のデモクラシー,歴史教育12ー11,39

井上泰男,フランス農民の存在形態,近代資本主義の成立,東大協同出版,25

",アンシアン・レジームにおける新地主経営の成立,北大史学1

今井光太郎,フランス革命研究史上におけるジャン・ジヨオレス,ロマンロラン研究16

",「封建制から資本主義への移行」問題とフランス革命,経済経営論集15,34

",ロベスピエールの社会思想についてI,"19 35

",フランス大革命の発端,国学院大政経論叢1ー2,28

今井義夫,啓蒙思想としてのカラムヂーンとフランス革命,一橋論叢60ー3,43

岩根典夫,チェルゴーの自由交易思想の展開についての実証的考案,西南学院大商学論集7ー2,35

",コンドルセの商業自由思想についての一試論,12-3,40

岩本勲,F.N.バプーフの政治思想,阪大法学79,46

",フランス革命的社会主義とマルクス主義,三重法経28,47

上山春平,フランス革命と明治維新,京大・人文学報10

"ブルジョア革命と封建制ー比較史的考察,歴史学研究252,36

ヴォルギン,18世紀フランスにおける革命的イデオロギー,世界史研究34.35.36合併号,39

梅中雅比古,フランス絶対王政の財政についての素描,和光経済7-1,48

",18世紀フランス財政の確立,",8-1.2,50

浦田一郎,1789年におけるシ=イエスの主権理論,一橋研究23

",革命初期シェイエスの憲法思想,一橋論叢73-2,50

瓜生洋一,ロベスピエールの政治思想研究序説,九大政治研究19-20,46

"フランス革命とサンジュストの社会構造,"22,50

遠藤輝明,フランス革命といわゆる「地主的 歴史学研究195土地所有」について,31

",18世紀フランスにおける共同体的諸規制の制限・廃棄について,横浜国立大学・経学部紀要3

",18世紀フランスにおける綜劃の諸類型,経済学論集23-4,30

",フランス産業革命史研究序説,エコノミア6-3.4,30

",フランス革命の分折視角について,歴史学研究249,36

",柴田三千雄「フランス絶対王制論」,土地制度史学3-1,35

",フランス革命史研究の再検討,近代革命の研究上,48

大場勝,フランス革命と土地改革,歴史評論115,35

大淵利男,ルソーの「社会契約説」と課税の論理I・Ⅱ,日本法学29-4.6,38.39

大谷瑞郎,ブルジョワ革命の経済過程に関する一考察,武蔵大論集6-3,33

",ブルジョワ革命おぼえがき,"8-3,35

",絶対王制小論,"8-5,36

",ブルジョワ革命論 二つの道論,"13-6,41

",ブルジョワ革命の類型に関する一試論,"23-5,41

",政治史と経済史ーフランス革命論によせる,22-4,49

大山聴,ヘルダーとフランス革命,ドイツ文学8,27

岡本明,ジャコバン主義とサンキュロット,史林51ー4,43

",サンキュロット運動とその理念,西洋史学76,43

",ジャコバン国家論,社会思想2-1,47

",三月蜂起とアンラージェ,史林56ー3,48

",井上すず「ジャコバン独裁の政治構造」,西洋史学92,49

小栗了之,最高価降法LeMaximumをめぐって,人文論究6,27

",フランス革命と農民運動",8,28

",フランス革命における反キリスト教運動,",16,31

",フランス革命政府の財政対策,歴史2,25

",R.M.ブレイス将軍デュムリエとジロンド党,人文論究9,28

",ジロンダンと国王裁判,"22"37

",ヴァンデーの反乱について,北海道教育大紀,要18-1,42

小野重雄,93年2月の騒乱について,商経法論叢6-3,31

小場瀬卓三,啓蒙時代及びフランス革命時代における「祖国」の観念,都立大・人文学報1

片岡敬直,アンシャンレジーム末期の農業問題,史泉16・17,34

加藤祥子,アンタンダンと近代官僚,史艸7,41

加藤正男,フランス革命における土地立法と農民,同志社法学15,28

金沢誠,フランス革命と貴族,西洋史学特輯フランス革命研究,27

",フランス革命,西洋史学16,27

",中木康夫「フランス絶対王制の構造」,社会経済史学30-5,40

河野健二,フランス革命における「封建的権利」の問題,京大・人文学報7,32

",アンシャンレジーム下の「地主的」改革,京大・人文研紀要7,27

",フランス革命における政治的対立,歴史評論86,32

",啓蒙思想と市民革命,歴史教育5-11.12,32

",ブルジョア革命の二,三の問題,法律時報29-4,32

",フランス古典経済学の系譜,経済論叢80-6,32

",フランス革命と経済学,京大・人文学報9,33

",ジャコバン主義について,歴史評論109,34

",フランス革命と資本主義,経済論叢86-3,35

カーン,1789-1794年の革命におけるパリーの労働者 林基訳,歴史評論8-2,31

小井高志,ジャコバンとサン・キュロット,史苑32-1,47

",革命期リヨン住民の社会構成I,"36-2,51

後藤敏雄,7月革命とVigny,人文(京大)8,37

小林馨,仏蘭西革命とフリー・メーソン,歴史4,27

",仏蘭西王后マリー・アントワネットの演じた二つの劇,秋大史学1,27

",仏蘭西革命(中期)とフロパガンダ,"2,28

",ロベスピュールの失脚をめぐる2.3の女性像,世界史研究19,33

",フランス革命とキリスト教,歴史教育8-12,35

",セントヘレナ,秋大史学14,42

小林良彰,上層ブルジョアとフランス革命ーペリエの場合ー,西洋史学72

",フランス革命と明治維新の対比における土地革命論の再検討,社会経済史学33-1,42

",テルールの諸問題とその明治維新史に対して持つ意義,宮本又次還歴記念論集,42

",フランス革命におけるオート・ブルジョアジーの連続性,ヒストリア48,42

",フランス絶対王制における領地所有の実態,同志社商学20-12,43

",フランス革命における貴族土地所有の残存,"20周年号,43

",フランスにおけるインド会社の成立と清算,"20-3.4,44

",フランス革命と大商人―ボスカリ家の場合-,"21-2,44

",フランス銀行の起源,",21-2,44

",フランス命革の経済政策-1793-,",21-4,45

",フランス革命の経済政策-恐怖政治の後期1・2,",21-5.6,22-1,45

",バスチーユ襲撃の経済的原因,"22-2,45

",ヴァンデー反乱の経済的原因,",22-3,45

",フランス絶対主義における貴族と僧侶1・2,",22-4,23-1,46

小牧近江,フランス革命における労働問題,労働問題研究48,26

是永東彦,アンシャン・レジーム期フランス農業における資本主義的生産上・下,農業総合研究28,2.3,49

権上康男,18世紀後半におけるノルマンディ綿業生産の展開,土地制度36,42

斉藤孝,フランス革命の意義I・Ⅱ,国際問題91.92,42

坂清,フランス革命とカルノーの軍政改革,軍事史学11,42

佐竹寛,LaRegenceにおけるモンテスキューの政治理念1・2,法学新報(中央大)68-4.5,36

佐藤進,ナポレオン戦線の財政とリカアドの組税論,武蔵大論集10-1,37

志垣嘉夫,フランス絶対王制期における借地小作農の諸問題,西洋史学論集14,40

",フランス絶対王制成立期における領主の「所有」,西洋史学73,42

",アンシアン・レジーム期におけるフランスの交通と流通機構,歴史教育17-1,44

柴田三千雄,ヴァントーズ法について,都立大・人文学報8,28

",フランス革命における共同地の問題,史学雑誌64-12,30

",アンシヤン・レジームにおける農民層分解,歴史学研究185,30

",フランスにおける分割地農民の成立,『変革期における地代範時』岩波書店,31

",封建的土地所有の解体-フランスの場合-,西洋経済史講座4,35

",フランス革命前夜における農民層分解の地域的類型,社会経済史大系6,35

",フランス革命論の再検討,歴史学研究253,36

",最近におけるパリの「サンキュロット」運動の研究,史学雑誌71-10,37

",フランス革命とブルジョワジー,77-1,43

",フランス絶対王政の特質,岩波講座「世界史」15,44

",フランス革命とヨーロッパ,",17,45

",井上すず「ジャコバン独裁の政治構造」,史学雑誌82ー9,48

白井浩司,フランス大革命について,真実5-4,25

鈴木昭一郎,スターダールと七月革命,立命館文学182,35

鈴木泰平,フランス革命の世界史的地位,ニュー・ヒストリー1-2,25

",フランス革命における「独占禁止」の問題,史学25-1,26

",ロベスピエール研究序説(一),西洋史学特輯フランス革命研究,27

",ダニエル・ゲラン「フランス革命史研究に関するノート」,史学26-1.2,28

",ロベスピエール「憲法の擁護者」,法学研究26-7,28

",L'AnⅡに於けるApprovisionne-mentの問題,史学29-3,32

",CommissiondesSubsistancesの食料補給政策を廻る諸問題,史学30-3,33

",ラザール・カルノー断考上,史学32-1,34

","下,"32-2,"

首藤助四郎,アンシャン・レジーム,西日本史学14,28

",アンシャン・レジーム末期におけるフランスの教育と社会,佐賀大・研究論文集3

十河佑貞,フランス革命戦争に関する一考察,史観34-35,26

",フランス革命戦争とイギリスの参戦について,",38,27

ソブール,フランス革命における階級と階級 闘争遠藤・柴田共訳,歴史学研究165,28

",人民民主主義の起源について 遠藤輝明訳,"197,31

",フランス革命下のルソー主義と民衆階級,西洋史学53,37

",フランス革命における農民運動,『近代革命の研究』上,48

平実,フランス絶対王政の成立過程,(大市大)経済史雑誌44-2,36

",フランス絶対主義王政下の「同職組合」に対する労働者政策,経済学年報(大市大)14,36

",フランス革命後の救貧政策について,経済学雑誌46-6,37

",フランス革命後の反動的労働者政策,経済学雑誌55-34,41

高野直澄,ジロンド・ジャコバン両憲法における人民主権実現の構想,尾道短大紀要16,42

高橋幸八郎,フランス革命と農村,社会経済史学9-5,14

",フランス革命,世界歴史6河出書房,16

",フランス革命,『西洋史学入門』下巻大月書店,23

",市民革命の諸問題,歴史学研究196,29

",封建制から資本主義への移行,経済研究2-2,26

",フランス革命と明治維新,駿台史学10,35

",絶対王制から市民革命へ,西洋経済史講座3,35

",ジャコビニズムと日本の歴史学,大塚久雄「還暦記念論集」,43

",フランス革命,早稲田商学246,49

武本竹生,ノルマンディにおけるマニファクチュアの形成,井上編「ヨーロッパ近代工業の成立」,36

",ノルマンディにおける都市工業と農村工業,史苑25-1,39

多田道太郎・山田稔,フランス革命下のコミュニケイション,京大・人文学報6,31

辰野隆,ルイ16世の最後,心7-9,29

丹沢知重,革命に関する一考察,中大・学術論叢4,29

遅塚忠窮,「農民革命」という概念について,歴史評論80,31

",北部フランスにおける農民革命の特質,歴史学研究199,31

",フランス革命史をめぐって,机7-2,31

",アンシャン・レジームにおける大借地農の成立とその基本性格,社会科学研究10-6,34

",絶対王制の経済的基礎の動揺-土地問題,西洋経済史講座3,35

",フランスにおける土地制度史関係史料について,社会科学研13-1,36

",柴田三千雄「フランス絶対王政論」,史学雑誌70-3,36

",フランス近代社会をめぐる諸問題,歴史教育10-10,37

",18世紀フランス農民の土地所有,社会科学の基本問題上,38

",17・18世紀ルアン大司教領の経済構造I・Ⅱ,社会科学研究15-3.4.5,38.39

",フランス絶対王政期の農村社会,岩波「世界歴史」14,44

",井上すず「ジャコバン独裁の政治構造」,歴史学研究401,48

",フランス革命期における農民層の分解と農民諸階層の対抗関係,近代革命の研究上,48

千葉治男,フランス絶対王制期の官職保有者層,西洋史研究2,31

",フロンドの乱の再検討,歴史教育8-9,35

",フロンドの乱をめぐる諸問題,歴史学研究248,35

",初期国王監察官制の成立,史学雑誌65-2,41

",フランス絶対王制の官僚機構,岩波講座「世界歴史」15,44

辻山昭三,制限選挙王政の時期におけるフランス銀行の性格,史学雑誌69-1,35

津田内匠,Turgotの改革における租税の問題,経済研究(一橋大)11-3,35

津田真澂,救貧マニュファクチュール成立の歴史的意義,武蔵大論集9-4,37

恒藤武二訳,人権ならびに市民権の宣言の諸草案(1),同志社法学7-2,30

",ロベスピエールの人権宣言草案,"7-4,30

常見孝,17世紀中葉におけるフランス絶対王政の財政問題I・Ⅱ,史学雑誌82-3.4,48

角田順,一般意志の魔術ーロベスピエールの理論と革命的現実ー,自由7,35

手塚弘保,ナポレオンのロシア侵略戦(祖国戦争)研究の序説,東海短大論集6,35

",ナポレオンのロシア侵攻(1812年の祖国戦争)研究Ⅱ,軍事史学6,41

富田貞一,フランス革命期における共同地政策,文化21-1,32

豊田堯,1786年の英仏通商条約に就いて,西洋史説苑1,16

",ナポレオン戦争とフランス工業,史林29-4,20

",フランス革命発端史考,西洋史学1,23

",フランス革命と二月革命,国民の歴史2-11,23

",アナトール・フランスとフランス革命,ユマニテ2,24

",フランス革命とキリスト教,史林35-1,25

",フランス社会主義の起源,西洋史学26

",バブーフの思想について,西洋史学特輯フランス革命研究,27

",ボナパルト独裁への途,独裁の研究,32

",柴田三千雄『バブーフの陰謀』,西洋史学78,43

中木康夫,フランス革命研究の動向と展望,西洋史学86,47

",絶対王制期における産業進化の二段階について,経済学論集25-3.4,33

",フランス革命成立の基礎過程,ブルジョア革命の研究,29

",フランス特権マニュファクチュアの構成,近代資本主義の成立,25

",フランス絶対王政の成立,(名大)法政論,集23,38

",Gルフェーブル『1789年-フランス革命序論』,歴史学研究435,51

七海吉郎,フランス絶対主義下の徴税請負制度,専修大学論集1

成瀬治,シラーとフランス革命,史苑16-2,30

西海太郎,フランス市民革命の限界についての一考察,西日本史学6,26

",「恐嚇時代」における山岳党の経済政策,西洋史学特輯フランス革命研究,27

",カトリック教会とフランス革命,駒沢史学6,33

二宮宏之,フランス絶対王政の領域的人口的基礎,岩波講座「世界歴史」15,44

野口名隆,8月10日の背景,法学論叢61-2,30

",ジロンド党の「聖戦論」,",62-3,31

",フィヤン三頭派と革命戦争(1),",65-4 35.36

","(2),"67-4 72-1 37.38

 (3)(4)(5)(6)(7)(8)完," 69-7 73-2 39.44

長谷川正安,テルミドール反動と95年憲法,ブルジョア革命の研究,29

服部哲郎,ジェファスンとフランス革命,史淵60,29

服部春彦,アンシャン・レジーム末期の分益小作農について,西洋史学43,34

",フランス革命における地主制の問題,史林43-5,35

",フランス革命と「初期独占」の形体,社会経済史学28-2,37

",フランス革命における土地変革の基本性格,ブルジョア革命の比較研究,39

",フランス復古王制・七月王政,岩波講座「世界歴史」19,46

",18世紀後半におけるフランスの植民地制度,西洋史学97,50

浜忠雄,フランス革命の植民地問題,歴史学研究419,50

浜林正夫,国民主義,講座『近代思想史』,34

林健太郎,絶対主義について,歴史学研究125,22

",「絶対主義について」自己批判,"127,23

",フランス革命と3人のドイツ人,人間と思想の歴史,23

",アナカルシス・クローツ,歴史と人間像,31

原種行,AncienRegime末期のフランスにおける土地所有分布の解折的研究,岡山大法学部紀要19,39

半沢孝磨,フランス革命期のイギリス急進主義政治思想上・下,国家学会雑誌74-3.4.7.8,36

樋口謹一,フランス革命の政治家たち,京大人文創立25周年記念論文集,30

",ジロンド派人権宣言と山嶽派人権宣言,歴史教育7-6,31

",資料ロベスピエール演説選I,同志社法学9-6,33

",フランス革命憲法における半直接民主制,"11-3,34

",フランス革命憲法における主権思想,同志社法学45,33

ブー口ワゾー,1789年とルーアン地方における土地解放 井上幸治訳,歴史学研究197,31

前川貞次郎,歴史概念としてのAncienRegime,紀元2600年記念史学論文集,16

",フランス革命史研究の発展とその性格,サンス,23

",フランス革命と人権宣言,史林35-1,27

",アンラージェの登場,西洋史学特輯フランス革命研究,27

",柴田三千雄「ヴァントウース法について」,西洋史学19,28

",フランス革命と独裁の問題,京大人文研究紀要7,27

",フランス革命における独裁機構,18世紀フランス『独裁の研究』,32

",フランス革命期のパリ民衆運動革命起源論,西洋史学36,33

",革命起源論,歴史教育6-12,33

牧康夫,フランス革命の指導者のパースナリティ研究,人文学報(京大)12,35

松平斉光,フランス革命と権力分立思想1・2,国史学会雑誌75-3.4.5.6,37

",フランス革命と地方制度,(明大)政経論叢31-6,39

松富弘志,ヘーゲルのフランス革命観についての一考察,法経論叢(静大)30,47

松葉秀文,国際政治の関連における仏蘭西革命史論,愛知大法経論集7,28

水田洋・鶴見俊輔,桑原武夫編「フランス革命の研究」,思想432,35

水田洋,柴田三千雄「パブーフの陰謀」,史学雑誌27-11,43

宮崎洋,近世フランスの法服貴族の形成と諸様相について,史学41-2,43

",18世紀フランスにおける最高諸法院官職について,"43-4,46

宮本又次,大革命のあとをパリにたずねて,経済評論4-6,30

三輪隆,フランス革命期憲法研究の若千の問題について,理代法8,49

村岡哲,フランス革命に対する解釈の変遷,歴史教育3-12,30

森本文雄,仏蘭西に於ける「大革命研究の動向」,歴史学研究18,10

森本哲夫,エドマンド・バークのフランス革命観の研究,政治研究17,44

家名田克男,サン・キュロットについて,(香川大)経済論叢30-4,32

",西洋経済史における「半封建的」「地主制」論の帰趨,"36-1,38

山瀬善一,旧制度末期における南部フランスの新教徒=ブルジョワジーについて,94-3,31

山田稔,フランス革命と小説,国民経済学雑誌94-3,31

山本浩三訳,人権ならびに市民権宣言の諸草案1.2,同志社法学7-3,30

",1791年の憲法1.2完,"11-5,35

",1793年の憲法,",11-6,35

",ジロンド憲法1・2・3完,"12-1.2.3,35

湯浅起男,フランスにおける「近代化」と農民革命,歴史学研究309,41

",フランス革命前夜における製鉄業のいわゆる近代化について,土地制度史学31,41

",ヴァンデ反乱の社会経済的基礎,新潟史学2,45

湯村武人,ネッケルとフランス革命,九大・経済学研究16-3,25

",フランス絶対主義とブルジョワジー,"17-1,26

吉井友秋,1814年フランス第憲法の制定と修正をめぐる政情について,政治研究(九大)13,40

吉田静一,サン・ジュストの社会理論,商学論集27-1.2

",封建制から資本主義への移行論争とフランス革命研究,歴史学研究203,32

",フランス革命における経済思想の原型,京大・人文学報8,33

",フランス革命における経済政策思想,"9,33

",フランス革命における保護主義1.2,関大経済論集8-1.2,33

",モンタニヤールとロベスピエール派,歴史学研究227,34

",フランス革命における保護主義3,関大経済論集8-5,34

",経済思想史におけるフランス革命2,京大・人文学報9,34

",サン・ジュストの共和制度論,史学雑誌68-9,34

",コルベルティスム・フイジオクラシーとフランス初期産業資本,社会経済史大系5,34

",フランス重商主義,西洋経済史講座2,35

",柴田三千雄「フランス絶対王政論」,関大経済論集10-3,35

",重商主義政策とフランスの近代化,歴史教育10-10,37

",ナポレオン大陸体制,岩波講座「世界史」18,45

吉田弘夫,アンシャン・レジーム期の共同地分割について,北大史学7,35

",アンダンダン制におけるシュブデ,北海道教育大紀

レゲ官職の売買について,要22-1.2,46.47

誉田保之,19世紀前半におけるフランス農業,大塚久雄還歴記念論集,43

米田稔,ダントンの没落,駿台史学1

",イギリスとフランス革命,明大文学部・西洋史1

リース,フランス大革命時代 金子光介訳,文化史学5-7,28

渡辺国広,フランス革命と民衆運動,三田学会雑誌49-7,31

",柴田三千雄『フランス絶対王政論』,社会経済史学27-1,36

",アンシアンヌ・フランスにおける土地問題,三田学会雑誌55-11,37

",16・17世紀フランス農業史研究の問題点若干,"55-9,37

",18世紀フランスの分益制,"55-4,37

",絶対王政の土地問題ノルマンディにおける農業改革の展開,"55-2,37

",フェルムをめぐる若干の問題-17世紀フランス農業史の研究,"55-6,37

",中木康夫著「フランス絶対王制の構造」,"57-1,39

",小作関係の成立-フランス地主制史論,59-5,41

",ソロ著『フランス農業史』,"59-7,41

",18世紀フランス農業史研究の動向,社会経済史学31-1-5,41

",ガロ著『フランス革命と土地所有』,"32-5.6,42

",フランス革命の土地所有,三田学会雑誌65-8,47

",国有地とフランス革命,"65-12,47

",フランス革命と地役権,"65-5,47

",フランス革命と入会部分,",48

",フランスにおける土地制度と領主,67-12,49

渡辺泰彦,フランス革命前夜における自治的行政機構確立の試み,商学論集(福島大)4-5,48



小林良彰

こばやしよしあき

1932年 神戸市に生まれる

1956年 東京大学文学部西洋史学科卒業

現在 同志社大学商学部助教授 経済学博士

著書 『フランス革命経済史研究』(ミネルヴァ書房)

『明治維新の考え方』(三一新書)『市民革命』(三

一新書)『日本財閥の政策』(千倉書房)『戦後革

命運動論争史』(三一書房)『フランス革命の経済

構造』(千倉書房)『西洋経済史』(千倉書房)『勉

強に強くなる本』(三一書房)『昭和経済史』ソー

テック社『複眼の時代』ソーテック社『西洋経済

史の論争と成果』(三一書房)『革命の条件』(日本

工業新聞社)『宗教と経済体制』(日本工業新聞社)


現住所 鎌倉市笛田1835の72


フランス革命史入門

1978年3月15日 第1版第1刷発行

著者 小林良彰

1978年

発行者 竹村一

印刷所 文栄印刷株式会社

製本所 東京美術紙工

発行所 株式会社三一書房

東京都千代田区神田駿河台2の9

電話03(291)3131~5番

振替 東京 9ー84160番

郵便番号101

落丁・乱丁本はおとりかえいたします


29-フランス革命史入門 フランス革命史文献の解説、短評

フランス革命史文献の解説、短評


カーライル 『フランス革命史』六巻 柳田泉訳

力アライル 『佛国革命史』四巻 国民文庫刊行会 大正六年

バスチーユからナポレオンの出現までを、主として政治史中心に描いている。戦闘の模様や、処刑、虐殺の様子をくわしく、なまなましい描写でたどる。全体が美文調であるから、原文が出版された当時(一八三七年)の読者には適していたが、現在では読みにくいものになっている。

バスチーユのときの宮廷側と国民議会、パリ市民の反乱の対抗関係は現代のものよりも忠実に、物事の本質を理解できるように紹介している。ダントンを国民の英雄として扱い、ロベスピエールは流血の独裁者のように描いている。また、革命軍の行った残虐行為をくわしく書いているのも特徴である。


クロポトキン 『フランス大革命』淡徳三郎訳

アナーキストの立場から過激派の立場を評価。ジャック・ルー、ルクレール、ショーメットの逮捕を共産主義運動の衰滅という。ショーメットも共産主義者の陣列というが、エベールは政治思想のため、経済革命とは縁のない方向へ逸脱したという。新興ブルジョアジーがロベスピエールを支持し、革命の幕をとじさせ、進歩的党派を粉砕させ、そのあとジロンド派権力への復帰に道をひらいたという。これではロベスピエール自身の党派の説明がなされず、ただカイライにすぎないような叙述になる。


ガクソット 『フランス革命』松尾邦之助訳

多くのエピソードを盛り込んだ物語り風の革命史であるから、面白く読める。ただし、革命の側の行った残虐行為や、腐敗、汚職についてくわしく、外国軍や反革命の側の行為についてはさらりとふれているだけであるから、革命のいまわしさが強調されるような印象を受ける。経済問題もかなり扱っているが、全体をとおした理論的な考察はない。


ジャン・ジョレス 『佛蘭西大革命史』八巻 村松正俊訳

第一次大戦当時の社会主義者ジャン・ジョレスの著書にふさわしく、フランス革命を経済的、社会的要因から説明しようとする。テルミドールの反革命まででとめているが、長文の資料が文章の間に散在しているため、尤大な量の革命史になっている。

革命中の各党派の経済政策についての資料を紹介し、ときに「最高価格法は賃金労働者を利したか」というような論証を行っているが、政治史と経済史が並列的に置かれているので、どの党派がどの階級の代表として行動したのかという解釈が明確にされておらず、もう一度自分の頭で、文中の資料をもとに組み立てなければならないようなところがある。ロベスピエールは偉大であったが、問題解決に必要な性質に欠けていたといって、ロべスピエールの敗北の原困を個人の資質にしているが、革命の経済的因果関係をさぐろうとしながら、肝心なところで昔流の人物史のわくから出られなくなっている。

ダントンについては、ルイ一七世を王位にすえようとした王党派的傾向をもっていたといい、本人の財産は汚れていないという。ただし、ダントン派の処刑とインド会社をめぐる汚職事件の関係はくわしく描いている。このように、すべての分野が多面的に描かれているのが特徴である。


テエヌ 『近代フランスの起源・佛蘭西革命史論』二巻 岡田真吉訳

 テーヌはフランス革命を徹底的に憎み、バスチ-ユ襲撃は無政府状態であり、ジャコバン独裁は鰐のようなもので、人間を食いつくし、ついには共食いをして、自分も食われてしまうというような発想で、きめつけている。

テーヌの叙述は、全体に、このような文学的、哲学的な傾向が強く、歴史描写の中に、自分の思いついたアイディア、評論、エピソードの紹介が入りこみ、散漫な感じがする。

 日本に翻訳されたのは、そのうちの最初の部分「旧制度」のみである。この中で、宮廷の生活作法、貴族のサロンの実例について、エピソード風の紹介がある。理論的に整然としたものではないが、当時の宮廷貴族の実態が読みとれるという意味では、意味がある。現在、宮廷貴族の権力と財力を過小評価するフランス革命史が盛んであるだけに、そのことがいえる。


カウツキー『フランス革命時代における階級対立』堀江英一・山口和男訳

 岩波文庫の文庫本である。カウツキーがマルクスとエンゲルスの理論をフランス革命の具体的事実に適用するために書いたものである。当時としては、階級的なものの見方、経済的因果関係に注目した先進的な歴史理論であった。それだけに、マルクス主義史学に大きな影響を与えた。とくにフランス絶対主義を貴族とブルジョアジーの均衡であると規定したところが、絶対主義の理論にたいして決定的な権威をもつに至った。

 彼の均衡論は世界的に普及した。ルフェーブル、マチエ、ソブールすべてその影響を受け、貴族を描くときはその没落の傾向を、ブルジョアジーを描くときは、事実以上に強い立場を主張するようになった。テーヌにまでさかのぼらなければ、貴族が強力であったという解釈には、お目にかかれなくなっている。

 均衡論は、日本にも重大な影響を及ぼした。三二年テーゼにみられる天皇制絶対主義説であり、地主と財閥の均衡を根拠にしたものである。その意味で、カウツキーは日本の現代史に生きている。

しかし、これは誤りである。フランス絶対主義の王権を構成したものは宮廷貴族であった。王権が、これから独立したり超越したことはなかった。事実を描くときは、国家権力に対する宮廷貴族の特権をとりあげているが、理論をのべるときは、そうした事実からとび離れて均衡論に走るのである。

 均衡論から脱け出すこと、これが第一の重要課題であり、私が宮廷貴族の実態について多くの紙面を使った理由である。


トムソン『ロベスピエールとフランス革命』樋口謹一訳

 流血と恐怖政治を代表する人物として嫌われているロベスピエールについて、積極的に弁護しようとする書物である。革命の第一原則をこれほど潔癖に尊重して生きとおしたものはほかにいないという。ロベスピエールが中産階級下層すなわち小ブルジョアジーのスポークスマンに自分を仕立てあげ、徳の共和国を理想として、その実現に奮闘したことを強調する。ただし、ロベスピエール派の孤立にいたる過程を、最高存在の祭典、プレリアル法を中心に説明し、ヴァントゥーズ法については、囚人の財産で貧乏人への補助金をまかなうと解釈して、簡単に飛ばしているので、社会改革の理想も、敗北にいたる必然性も十分な説明を受けているとはいえない。それにしても、ロベスピエールへの偏見を解こうと努めているところは評価するべきものがある。


ニコル『フランス革命』金沢誠・山上正太郎訳

 小さな本であるが、分析的な内容のものである。時代を追って叙述する前に、革命の性格についての理論的要約を行っている。その傾向は、「マチエとルフェーブルの理論の融合といえる性質のものである。革命前夜における王権と特権階級の対立を強調し、特権階級の反抗が三部会の召集を実現させたといって、王権もまた貴族の権力であったことを重視している。

ジロンド派追放の事件をサンキュロットの革命といいながら、山岳派は市民出身者から構成されているが、その政策の実施にあたっては第四階級の希望の実現を熱心に追求したという。また、ロベスピエールの孤立については、個人的な成功にたいする疑いであるとしているが、事件は正確に、しかも口ベスピエールに同情的に描いている。


ミシュレ『フランス革命史』桑原武夫他訳

 当時に書かれた革命史としては、人民史観の側に立った進歩的なものである。豊富な事実、文学的な表現が特徴である。この訳書は尨大な原文を要約したものである。革命と反革命の闘争に加えて、外国軍を相手にした絶望的な戦争の進行が立体的に組み立てられていて、当時の状態を理解するのに役立つ。王妃の処刑が、リヨンの反乱、北部軍の絶望的状態のため、ほとんど反響を呼ばなかったという描き方は、正確な描写である。

 ただし、経済的な因果関係、階級的な分析方法はほとんど見られない。バスチーユを陥落させるまでのいきさつはくわしく紹介され、誰がどのようにして殺されたかもくわしい。しかし、敗者と勝者が、どのような階級のものであるかについてはあまりいわない。どちらかといえば、指導者の個人的な性格や行為を中心にした史観である。


ソブール『フランス革命』小場瀬卓三・渡辺淳訳

 フランス革命を、政治史中心主義から脱皮して、経済的、社会的な観点から見なおし、また階級関係をつねに分析の中心に据えて見ながら、絶対主義の時期から、ナポレオンの時期までを綜合的に叙述している。そういう意味では、翻訳された当時では画期的な意味をもち、標準的な通史として扱われた。現在でも手軽に読める入門書としての価値はある。

ただし、理論的解釈に無理のあるところが目立つ。その点についてはすでにのべてきたとおりである。革命により「市民的土地所有は他のどの階級よりも大きくなり、貴族的土地所有は消減しなかったし、農民的土地所有は前進した」という書き方でまとめる。他方で「旧制度の貴族階級は」「決定的な打撃をうけた」として、これに代って、階級関係がブルジョアジーに有利にかわったという。また農民が分解して、一方に農村ブルジョアジーを形成し、反面農民大衆は旧制度下と同じような重大な危機を経験しつづけ、貧農のかなりがプロレタリヤ化するという。

こうした意見からは農民革命論が出てくる余地がないように見える。その同一人物がのちに農民革命論を大きく評価するようになるのはふしぎなことである。


マチエ 『フランス大革命』ねづまさし・市原豊太訳

原書はソブールのものよりも先に書かれたが、日本には、後まわしの形で紹介された。通史にしては尨大な内容をもち、登場人物も多彩であり、しかも政治家たけでなく、ブルジョア、小市民、貴族の中からふんだんにひき出されてくる。訳書には人物について注が施されているから、この多数の人物とその注を記憶すれば、相当の知識になる。ただし、事件の描写はテルミドールの反革命までである。

マチエの理論的解釈についても、私はすでに疑問を出してきた。それは別として、彼の長所は、ダントン派やエべール派と銀行家、御用商人その他ブルジョアとの結合を実証し、とくに、久しく革命の英雄として評価されてきたダントンについて、その裏面をえぐり、腐敗議員の列に分類したことである。これは正しい。

その反面、ロベスピエールの思想行動を高く評価し、テルミドールの反革命へいたる経過は公平に描かれている。もっとも科学的な通史である。ただし、ルフェーブルにいわせると、マチエの革命史には農民が自律性をもって登場してこない。それは、たしかに欠けたところである。だから、これを読みとおしても、土地問題はどうなったか整理することができないだろう。工業や商業についてもそうである。全体がこまぎれで叙述されているから、もう一度自分なりにつないでいかなければならない。

また、テルミドールで終っているから、その後恐怖政治が廃止されていく過程が明らかにされないまま、ロベスピエールの死に余韻を残して終っている。


ルッチスキー 『革命前夜のフランス農民』遠藤輝明訳

ロシア革命前のロシア人学者によるフランス農民史の研究である。直接なまの史料から領地の実態、土地所有の分布状態を導き出している。革命前夜において、農民の土地が約半分以上を占める地域が多かったことを主張している。また、農民の土地の増加が少しずつ行われたので、これがフランスと他のヨーロッパ諸国とを区別するものだという。このように、農民の土地を強調することは、ルッチスキーとフランスの実証主義的学者との意見の分れ目になっている。

ルッチスキーは、この土地所有農民が、領主権の重圧に反抗して、フランス革命のときの農民運動に発展するといい、農民運動が直接絶対王政に対して向けられたといえるものではないといういい方をしている。ただし自分の意見としてではなく、慎重に他人の意見を引用して結論にかえている。

これとは別に、彼はフランスの領地の構造を正確に紹介している。領主の直領地があること、別な貴族が領主権に服していることを指摘している。これは重要な指摘である。


ルフェーブル 『フランス革命と農民』柴田三千雄訳

ルフェーブルの二つの論文がおさめられている。はじめの「フランス革命と農民」では、三部会の召集までを貴族革命といいながら、これは流産したという。

また、ジョレス、マチエの分析では、農民革命の自律性が評価されていないから、不完全だという。しかもその農民革命が反資本主義的な傾向を帯びていたということを強調する。そこから、フランス革命が農民の大多数の層を満足させるものではなかったという。これは正しい指摘である。

領主権の無償廃止は小作農の利益にならず、国有財産の売却も「貧民」や「貧農」を土地所有者にしなかったことを強調する。このあたり、事実に忠実な分析である。彼は、ブルジョアジーと農民の同盟という図式を固定的に考えることに反対し、とくに貧民の行動がフランス革命の政策と敵対関係にあることを指摘する。農民問題についての、すぐれた論文であるが、これを素直に解釈すると、土地革命論の否定に通じる。

もう一つの「ロベスピエールの政治思想について」では、ロベスピエールの社会的理想が小生産者の社会であり、社会的民主主義であったことを論証している。


ルフェーブル『一七八九年-フランス革命序論』高橋幸八郎・遅塚忠躬・柴田三千雄共訳

『フランス革命ー八九年-』鈴木泰平訳

フランス革命を複合的な革命として、貴族の革命、ブルジョアジーの革命、民衆の革命、農民の革命に分類し、三部会召集からヴェルサイユ行進までを描いている。史実の紹介は実証的であるが、解釈が独特である。高等法院が王権に抵抗したことを貴族の革命といい、この時の対抗関係を貴族対王権に整理している。そうすると、王権は貴族の権力ではなかったということになり、宙に浮いてしまう。農民の革命という形で、八月四日の封建権利廃止の宣言を出させる原動力になった農民反乱を、自律的な農民運動として扱ったことは、フランス革命史の進歩をあらわすものであった。

ただ、ルフェーブルは反乱や反抗を革命と名付けるのである。一七八九年八月の時点ではブルジョアジーが社会を支配したことを認めているのであるから、民衆や農民は革命に成功したのではなかった。そのところの区別がつけられていないから、革命と革命運動の混同がおこなわれているといわなければならない。

高橋、柴田、遅塚訳では貴族の革命といわずに、アリストクラートの革命と訳し、アリストクラートの語を貴族および高位聖職者を含むものとしている。このような説明つきで読むならば、高級僧侶と貴族が王に反抗して三部会召集を強要したかのように見える。しかし、最高級の貴族と僧侶は三部会召集そのものにも反対していたのである。アリストクラートが分裂したことが重要であるのに、これをひとまとめにして反抗、革命の側に立ったというところに、ルフェーブルの解釈の見当ちがいなところが出てくる。

巻末にソブールの論文「現代世界史におけるフランス革命」をのせている。ソブールも同じく王権とアリストクラート層の対立から説明をはじめている。王権そのものも、アリストクラート層の上層であることを、なぜ認めようとしないのであろうか。

ソブールの論文は、土地問題を中核にして、フランス革命と明治維新の対比を行っている。ところが、その対比の仕方が、日本で積み重ねられた誤解を逆輸入した方法で、極端化している。領主制の廃止が、フランスの無償に、日本の有償が対比するという。そこで、日本の土地所有農民(本百姓)は、旧年貢と変らない重さの地租を負担しつづけたという。しかし、これは間違いである。地租改正の時点はそうだが、明治一〇年から一四年にかけては、ぐんと減って、軽くなった。長期的に見ると、減少したのであるから、固定的に見すぎている。

つぎに、地主小作関係が残り、これが半封建的土地所有であるといい、これが農民を従属させたから、明治維新が絶対王政を形成したとして、これが戦後の農地改革まで続くという。高橋幸八郎氏の理論を、そのままひき写したようなものである。それでは、もう一度、フランス革命で地主・小作制度が消減したかと問い直さなければならない。ソブールは、そうしたことについては、何もふれず、ただ、国有財産の売却で農民が土地を獲得したという。しかし、国有財産売却を、ただ農民だけに限定して評価することが一面的であることは、すでに見たとおりである。

別なところで、この農民を富農だといっている。これが所有地を増大させたという。これは正しい。この富農はすなわち地主であり、そのもとで小作農や日雇農が働いたのである。地主・小作制の残存を暗に含んだ表現である。それならば、日本と大して異なるところはない。

ソブールは、純粋にフランスのことをいうときには、このようにいいながら、日本との対比の場所では、突然、その「農民」の適用範囲を変化させ、中農か貧農にあてはめる。そして、日本には、フランスで見られた中農がないと極論する。

彼は、フランスのことをいうときは、中農や標準的な農民のことばかりをいい、ブルジョア地主や貴族大土地所有者の残存については知らん顔をしている。知らぬわけはないのだが、理論を説くときには都合が悪いから切り捨ててしまうのである。そこに、彼の理論と事実の分裂がある。


リューデ 『フランス革命と群衆』前川貞次郎・野口名隆・服部春彦訳

フランス革命の過程に起こった暴動、内戦、武装蜂起について、下からの役割を中心にして、体系的に描いたという点で、独特の価値をもっている。ほとんどの革命史が、まず上部での政争を描き、その結果、群衆がどこそこを襲撃したという表現をする。リューデはその群衆がどのような人間で構成されていたかを中心にして事件を描いている。

たとえば、バスチーユを攻撃した人びとは八〇〇人から九〇〇人の間で、そのうち、リストに残ったものが約六〇〇人であり、このうちの約五〇〇人は小商人、手工業者、賃金労働者であるという。このうち、賃金労働者の数は少なく、約一五〇人くらいであったというように紹介している。約一〇〇人近くが、製造業者、富裕な商店主、ブルジョアと呼ばれる人、軍人などであったことを指摘している。

このような方法で、主な事件を追跡していく。そして、細民、サンキュロットすなわち婦人、賃金労働者、手工業者、職人、小商人、または作業場の親方はふつうの男女からなっていたのであり、それが経済的危機、政治的大変動に反応して、独自の苦情を満足させようとする衝動から「革命的群衆」になったとしている。こうした群衆の独自性を評価しながら、他方でこれらの群衆が、さまざまな外部からの煽動、指導によって動かされたことを認める。その場合でも、最高指導者と下層民衆の参加者の間の連絡が維持されたのは、マイヤール、クレール・ラコンプのような二次的指導者を通じてであったという見解を示している。


ミニエ 『佛国革命史』河津祐之訳 四巻

文語調の読みにくい翻訳である。革命直前からナポレオンの没落までを、政治史、軍事史中心に描いている。訳語が現在とひじょうに違う。僧侶のことは教徒と訳し、宮廷貴族は朝臣、法服貴族は長形の人などという。革命の財政的原因についてもふれているが、断片的であり、首尾一貫した説明にはなっていない。そのかわり、反乱、内戦、殺人についての具体的描写は現代のものにくらべてくわしい。ジロンド派を高く評価し、「賤民」の圧力のためにジロンド派を逮捕した時から、フランスの議会は自由を失ったといっている。


箕作元八 『フランス大革命史』二巻 富山房 大正八、九年

この時代に、日本人の書いた革命史としては、もっとも進歩的で、内容の豊富なものである。貴族やジロンド派に同情する革命史から、人民の側に立つ史観へと著者自身が変化したという。とくにオーラールから大きな影響を受けたといっている。

そのため、ダントンを高く評価し、ロベスピエールを狭量といい、両者の対立を個人の気質のせいにして、社会的背景や経済政策の相違にまで考察を進めていない。

ジロンド派の没落、ロベスピエールの処刑についても、政治史的な説明が多く、政変の理由が個人の思想、性格から説明されている。ただし、国民公会の派閥を正しく分析し、平原派の役割を正確に、革命後まで追跡しているが、これは、戦後の革命史に欠けたところであり、それだけに評価できるものである。土地問題についての理解は低い水準であり、領地と土地の区別もつけられていない。


本田喜代治 『フランス革命』昭和二三年、昭和四八年新装版

革命前夜から、テルミドールまででとめている。それ以後の白色テロは革命に入ってこないという。反動の勝利に終るが、旧制度は復活しなかったという。七月王政でブルジョアジーの権力が確立し、その下でプロレタリアートが成育し、二月革命で対立するという見方である。

事実関係はかなりくわしいが、七月一四日から封建的権利廃止の農民の行動を評価し、完全廃止をジロンド派没落の時点(一七九三年)とし、ブルジョアジーと民衆の対立の図式にもってくる。しかし、他方でこの撤廃は八月十日(一七九二年)に行われたと叙述する。事実と総論の背離である。著者は、明治維新がほんとうの革命でなく、上からの改革であったとする立場から、フランスの大恐怖と封建権利廃止の運動を、人民の力による廃止であると評価する立場で説明する。

恐怖政治の段階では、政治史的叙述の傾向が強まり、それだけに何のためにジャコバンが分裂し闘ったか分らなくなり、「過激」「穏健」の分類で、ロベスピエールがその間にあり、人民からはなれたところでテロの歯車をまわしてやたらと処刑していったという。古い史観と、新しい人民史観が混合して正確に結びついていないから、因果関係が理解されないはずである。

土地を得た農民が反動化し、何一つ得るところがなかった下層労働者とのあいだに一種の対立が生じ、革命の前進をくいとめようとしたブルジョアジーのために、農民を基盤としたナポレオンが民衆から革命の果実を横どりしたという。この時期の日本の公式的見解である。

新装版は著者が二〇年前に出版した革命史の改版である。知識の点ではもう必要ないといえるかもしれないが、日本社会の民主的変革との対比に焦点をあわせての実践的アプローチからすると、まだ不要になっていないという立場で改版した。革命にともなう反革命の動きに注目し、日本民主化を阻もうとする力があり、事態が深刻だという評価から、フランス革命を見直すという立場である。


高橋幸八郎 『近代社会成立史論』

フランス革命の経済的内容の分析が約半分を占めている。とくに封建的土地所有の廃棄、小農土地所有の成立を軸にして考察し、アンシャン・レジーム末期の農村には、「農民民主的な型と寡頭専制的に地主=商人的な型」との「二つの対向的な」近代的進化の方向があり、フランス革命でこれが「古典的に決済」をつけるという。

八月四日の宣言、封建権利の有償廃棄は後者の方向であり、これを「封建制度の部分的改造」と理解する。そして、この線が、フイヤン党、ジロンド党の支柱としての「上層市民」によって維持されるが、これを九三年の「社会革命」すなわち「ジャコバンの小市民的独裁」が「圧伏」して、「封建寡頭的な全機構を清掃し去る」ことにより、近代社会創造の課題を果したとする。

ここでは、バスチーユ、八月四日の宣言、八月十日(ジンド派政権)はすべて封建制の改造ととらえられている。これをジャコバンが圧伏して社会革命になったというが、これでは、王権、フイヤン派、ジロンド派の間にある相違が無視されて、ひとまとめにして反革命の方向に押しやられている。それでは、何のために、これら三つの勢力が、それぞれの時期に死闘を演じたのか説明できない。また、領主権の無償廃止がジロンド派政権で行われたことが無視され、ジロンド派も領主権の維持に熱心であったかのように受取られる。これでは誤解をつくる。

また、この二つの対抗関係が工業にも結びつくという。農村マニュファクチュアと巨大特権マニュファクチュアの対抗関係である。前者は「独立農民層=小市民層」の自主的成長、後者は「封建貴族、独占商人、金融貴族の産業支配」で上から育成されたとして、前者が後者を革命の過程で圧伏していくという図式を提起する。

その実例に炭鉱の「アンザン会社」、鉄鋼の「クルウゾ会社」をあげ、これがフランス革命の過程で圧伏されていったという。これが大塚史学の公式のはじまりであった。当時日本のだれもが実例をよく知らなかった。そこで多くの人が、これを引用し、フランス革命で大工業が減んだといい、これが一つの真理になってしまった。

しかし、事実は反対であることは、すでにのべたとおりである。そうしたことはあるにしても、終戦直後の状態では、最大限に、経済的内容をともない、農民問題を軸にしてフランス革命を考えた進歩的著書であり、高橋理論はフランス革命の研究を志ざすものは一度は通るべき道になったのである。


高橋幸八郎 『市民革命の構造』昭和二五年版と増補版

市民革命の一般論であるが、フランス革命の研究史の整理から入り、プルジョア革命として、土地問題、農民解放を中心課題であるとしている。ここでは、領地所有と土地所有のあり方は、事実にそってのべられている。領主権の廃止もジロンド派政権の時点といわれている。ただし、それでいながら、九三年の無償廃止も加え、後者に力点を置いている。この効果としては、農民を領主制土地所有から解放し、分割地農民に転化したことを強調し、商人地主や農民地主の解放についてはあまりふれない。

また、国有財産の売却も、土地所有分布に大きな変化をもたらし、農民にも「多かれ少なかれ、新たに土地を賦与」したという形で紹介する。ただし、小農土地所有は国有財産の売却によって生じたのではなく、あくまで、革命前に農民的土地所有が存在していて、これが領主権の無償廃止で分割地農民になったとして、後者の効果を第一におく。これをフランス革命の成果として強調するが、事実を紹介するところでは、革命以後も、土地のない農民、土地不足農民が多数いることを書いている。他方で革命後の農村ブルジョアの存在をいいながら、大土地所有(権)は革命によって破壊されたともいう。事実を描くときは公平だが理論を説くときは農民革命論一色になるという特徴をもっている。

増補版では「封建制から資本主義への移行」がつけ加えられている。ここでも、西ヨーロッパでは「生産者→商人」の道をすすみ、プロシア、日本では「商人→産業家」の第二の道を進むという理論が確認されている。ただし『市民革命の構造』では『近代社会成立史論』にあるような、アンザン会社、クルウゾ会社の実例は引用されなくなっている。


豊田堯 『フランス革命』

アテネ文庫の本である。ジロンド党と山岳党の中間に、第三党の平原党のあったことを忘れてはならないと指摘し、平原党が大体において地方出身のブルジョア議員であり、自由主義経済を支持し、心底では人民の暴力行為と流血沙汰に不信の情をいだいていたという。

その点でジロンド党と共通しながら、他方で、いかなる犠牲を払っても革命を守らなければならないと考えたから、山岳党に合流したという。

こうした勢力を無視して、ジロンド党と山岳党との対立だけで考えることに批判的であり、むしろ、平原党の向背がジロンド党の追放、山岳党の排除を決めたという見方を提起している。


河野健二 『フランス革命小史』

フランス絶対主義の説明は、カウツキーの均衡論によって説明している。革命の出発点は、ルフェーブルの貴族革命論で説明し、ブリエンヌが貴族の反抗の前に屈服したと書いている。しかし、そのブリエンスも貴族であることにはふれていないから、王権の側に立つブリエンヌの性格があいまいになってしまう。

バスチーユ占領のあと、すぐに農村の革命にふれ、農民が封建制度の根源である領主権に反抗したとして、この闘いこそがブルジョア革命の成否を決めるという。領主権を封建制と同一視する理論からくる見方である。

そこで、八月十日を第二次革命といい、封建制の完全な一掃が行われたという。

ロベスピエール派の没落について、その社会政策を評価しながら、これが巨大な錯覚であったという。


前川貞次郎 『フランス革命史研究』

フランス革命の歴史というよりは、むしろフランス革命史家の歴史である。いうなれば、フランス革命史学史である。王政復古の時期を「歴史の洪水」といって、フランス革命史学の上で、最初の、しかももっとも実りの多い時期とみなされているという。以後七月王政、第二帝制、第三共和制の時期にわけて、それぞれの革命史学について紹介、論評している。

その中で、オーラールからフランス革命に関する客観的科学的な研究がはじまったとする一般的評価について、これを認めながら、そのことがオーラール個人の才能によるだけではなく、ちょうどフランス革命の百年記念を迎え、しかも第三共和制の確立といった条件の上に、研究、出版が活発になったという時代的背景によるものであるとしている。

また、オーラールの研究をさらに発展させ、独創的な見解を提出したのはマチエであるとし、ダントンの評価をめぐって両者が対立していく過程を紹介している。オーラールをはじめ当時の革命史学がダントンを革命の英雄として高く評価していた。当然、ダントンを粛清したロベスピエールは野心家、独裁者ときめつけられていた。

しかし、マチエは、ダントンの裏面に気がつき、これをえぐった。御用商人との結びつき、腐敗議員との交際などである。

ただ、マチエのロベスピエール解釈が不偏不党なものであるかについては、やや疑問であるとし、ルフェーブルが指摘するように農民問題がほとんどとりあげられていないといいながら、今日のフランス革命史研究の出発点は、マチエにあり、マチエをどのようにのりこえていくかが、最大の課題であるといっている。


桑原武夫編 『フランス革命の研究』

京大人文研の共同研究の成果である。参加者の文集である。序論「フランス革命の構造」は河野健二、「上山春平、樋口謹一の諸氏によるもので、フランス革命が「史上その類例をみないほど徹底的に封建制を打破し」「封建国家を近代国家に転化」させたという観点でまとめている。

以下、桑原武夫「ナショナリスムの展開」、樋口謹一「権力機構」、河野健二「土地改革」、河野健二「経済思想」、上山春平「哲学思想」、森口美都男「キリスト教と国家」、山田稔「革命と芸術」、吉田静一「産業保護主義」、前川貞次郎「ジロンド派とモンターニュ派の対立」、牧康夫「ダントンとロベスピエールのパースナリテイ」、井上清「日本人のフランス革命観」の論文よりなり、巻末に人物略伝、年表がくわしく掲載されている。


大塚久雄・高橋幸八郎・松田智雄編著 『西洋経済史講座』五巻 岩波書店

昭和三五年にもフランス革命関係の論文が多数ある。中木康夫「マニュファクチャーの成長と市場深化」、誉田保之「問屋制度とマニュファクチャーの絡みあい-とくにフランス絶対王制におけるリヨンのばあい-」、遠藤輝明「資本主義の発達に伴う土地制度の変容」、吉田静一「フランス重商主義-コルベルティスム、重農主義との関連において-」、二宮宏之「領主制の『危機』と半封建的土地所有の形成」、中木康夫「問屋制度と特権マニュファクチャー」、遅塚忠躬「絶対王制の経済的基礎の動揺-土地問題-」、柴田三千雄「封建的土地所有の解体-フランスのばあい-」である。

このうち、中木康夫「問屋制度と特権マニュファクチャー」においては、絶対主義下の特権工業の実例を、アンザン会社、クルーゾ会社だけではなくて、もっと範囲を広げ、ヴァンデル、アンドレ火砲鋳造会社、リュエル造兵工場を実例としてあげ、これらが「中・小生産者たちの暴動によって破壊されて」しまい、モンタニヤール独裁制のもとで特権会社は根底から廃棄されたという。この図式を後進国の上からのなしくずしの資本制大工業への進化と対比する。大塚史学の基本的なテーマである。しかし、第五章第三節でみるように、これら大工業は、むしろ恐怖政治の頃革命政府の援助をうけ、武器増産に協力し、破壊されることがないのである。


河野健二 『フランス革命とその思想』

思想史から経済史までを含む論文集であるが、基本的な観点は、著者のブルジョワ革命についての結論である。それは、ブルジョワ革命が封建制の撤去をなしとげたものであり、それ以後の地主制は「近代的土地所有」の一形態であるという認識である。

この立場から、明治維新を資本主義的な革命であるといい、日本の地主制とフランス革命以後のブルジョア的地主制が類似しているという。

ただし、封建的土地所有の廃止のされ方がちがい、フランスの無償廃止にたいして、日本の賠償をともなう廃止が対置されるものとしている。このように対立させながら、フランス革命と明治維新の同一性を主張することには、多少無理がある。

この無理は、フランス革命の結果として、封建的土地所有の無償廃止をもってきたところである。そうではなくて、バスチーユ襲撃の直後、まだ領主権の有償廃止が行われた時点でも、すでにブルジョア革命が実現されたといえる。領主権の廃止は、七月一四日の反乱の主な目標ではなかったという私の指摘を読み返してほしい。


河野健二 『フランス革命と明治維新』

日本における明治維新論争をふまえたうえでの、フランス革命の分析であり、つねに、両者の比較が軸になっている。そして、両者をともにブルジョア革命としながら、ブルジョア革命が封建制の廃止を眼目とはするが、それは消極的な成果であるという。

その場合の封建制とは、もっぱら領主権のことであり、領主と農民のことに比較観察の範囲が限られていて、ブルジョアジーと領主の関係は重視されていない。

また、貴族革命説を採用し、王権と貴族の対立から三部会の召集を説明しているところは、ルフェーブルと同じである。その延長として、王権が議会を押しつぶそうとしたから、バスチーユ攻撃と農民蜂起が起こり、この危機を救ったとしているが、王権を宮廷貴族から離れたものとしたり、バスチーユ襲撃と農民反乱を同質のものとして理解するべきではないだろう。

井上すゞ『ジャコバン独裁の政治構造』

前半が、フランス革命史の著者なりの整理、後半が、ジャコバン独裁の政治構造である。恐怖政治を、はっきりジャコバン独裁といって、国民公会の中の平原派の役割を評価しない。カルノー、ランデをブルジョアジーの政治的・社会的優位を確保しようとする一派といい、ロベスピエール派をサンキュロットの側とする図式で解明しようとする。過激派の運動を民衆運動といい、もっとも熱意をもって革命を支持し、推進した勢力と評価し、エベール、ダントンが裏でブルジョアと結んでいたことは問題にしない。エベール派、ダントン派の粛清もロベスピエール派の仕事と規定し、以後を口ベスピエール独裁という。その独裁がブルジョアに反対され、民衆から孤立して減んだと解釈するが、それでは、ロベスピエール派の足場が何であったかが説明できない。


小林良彰『フランス革命経済史研究』

商業資本と産業資本について、具体的にフランス革命における動向をとりあげ、大工業が断絶せず、かえって恐怖政治の頃は育成されていることを示している。また、大商人、銀行家、大工業の実例を紹介し、革命をくぐりぬけて生きつづけている姿を示している。

土地間題では、貴族の大土地所有、ブルジョアの大土地所有、農民地主の大土地所有が残る必然性を説き、単純な農民革命論に疑問を出している。

絶対主義の構造については均衡論への批判からはじまり、王権の支柱は宮廷貴族であり、これがその時点での領主であると強調している。そこから、フランス革命の原因結果を財政問題としてとらえ、それを証明するための多くの実例を紹介している。


小林良彰『フランス革命の経済構造』

フランス革命の前提、展開、結論に沿ってすすむが、それぞれの部分での実証をくわしく入れている。とくに、宮廷貴族の実例と実態、法服貴族の状態、領地や土地の分布、革命後の貴族大土地所有の残存の実例が豊富である。

恐怖政治の解釈をくわしく扱い、ジロンド派追放の基本的問題は累進強制公債であるとして、そこから、恐怖政治=サンキュロット権力、あるいは小ブルジョア独裁の学説を批判している。

巻末にケース・デスコントとフランス銀行、インド会社とフランス革命の関係を扱い、大商人ボスカリの革命中の動向を紹介する論文がある。


岡田与好編『近代革命の研究』

昭和四八年にもフランス革命関係の論文の比重が多い。二宮宏之「『印紙税一揆』覚え書-アンシァン・レジーム下の農民反乱」、遅塚忠躬「フランス革命期における農民層の分解と農民諸階層の対抗関係」、遠藤輝明「フランス革命史研究の再検討」である。

遅塚氏の論文は一つの村をとりあげて、革命前の農民層の分解のあり方と社会諸階層の対抗関係との関連を追跡している。その結果、富裕なラブルウルすなわち富農または地主の利害が終局的に貫徹されたという。また、国有財産の売却について、亡命貴族の財産は旧所有者の親族によって買戻されたこと、僧侶財産は、最も重要な部分を都市の商人と都市ブルジョアに転形途上の農民が買い、つぎに富裕なラブルウル、土地の工業家が買ったという。これでは、国有財産の売却も、農民革命とはいえない。農村ブルジョアジー、富農(地主)の利益貫徹を分析した事実からいわざるをえない。

ところが結論の部分で突然表現をかえて、多数の住民が革命期に住民集会に参加し、その意志を直接に表明したことに意味があり、デモクラシーへの一道標としての「九三年の太陽」がこの村に輝いていたという。延々と土地問題の実証をしておいて、結論は政治的経験で終る。論旨の飛躍に首をかしげざるをえない。貧農が住民集会に参加し、発言しても、土地が手に入らなければ太陽にはならない。

なぜこのような結論になるかといえば、農民革命論へのこだわりがあるからだ。この実証からは、地主制の根強い残存が自然に結論として引き出せる。ところが、そう言いたくないし、言うと具合が悪いのである。そこで多数住民の政治的経験に話をすりかえる。逆にいうと、農民革命論を主張しようとしても政治的経験くらいしか言うことがなくなった現状を反映している。農民革命論の理論的破産を示す一例である。

遠藤輝明氏の「再検討」では、日本のフランス革命史の研究をあとづけながら、その主な変化として、市民社会から資本主義社会へ研究の視座が移行し、小ブルジョアジーの反資本主義的性格が確認され、農民革命をフランス革命展開の基動と位置づけてきたことが、一つの契機として位置づけられるようになり、ジャコバン独裁が本来の目標でなく、ブルジョア革命からの逸脱であったとされるようになったと整理する。

これらの変化を高橋説への修正意見として受けとめるべきだろうという。 

28-フランス革命史入門 第七章の二 フランス革命と明治維新の比較

二 フランス革命と明治維新の比較


フランス革命に土地革命はなかった

フランス革命で土地命がおこなわれたという学説が、有力である。土地革命をどのように解釈するかはまちまちであるが、一応貴族の土地を没収して農民に与えるもの、あるいは、領主権を廃止して自作農民(分割地農民)を作りだすものと規定される。

フランス革命が典型的なブルジョア革命(市民革命)であるから、ブルジョア革命といわれるためには土地革命がなければならないという法則が、歴史家家の頭を強く縛りつけている。しかし、私は、ここまでのフランス革命の分析によって、極論すればフランス革命に土地革命はなかったといわなければならない。そうだとするならば、世界各国の歴史、とくに明治維新の解釈に重大な変化を与えることになる。

フランス革命では土地革命がおこなわれたのに、明治維新以後の日本では地主が残っているではないかとか、大名が公債をもって没落していないではないかというような対比がなされる。しかし、フランス革命でも大貴族は残った。ある者は直領地を保存したままで大地主であり、取上げられた者は、それに相当する公債を手に入れた。つまり後者の場合は、日本の華族と同じである。

領主権の廃止はたしかに無償であった。しかし直領地が残った。また、土地保有者としての貴族もいたので、これは土地所有貴族に上昇した。この点、日本の武士階級はそうしたものを持たず、完全に土地から引きはなされたから、日本の方が徹底的であった。土地から引きはなされたところは有償廃止であり、土地を残してらったところでは無償廃止である。プラス、マイナスを差引くと、同じようなものになる。

つぎに農民の側から土地革命がおこなわれたかどうかをみよう。これも第一章第三節の図を見なおすとわかるように、領主権の無償廃止をおこなったとしても、それによって完全な自作農になる農民の数も、土地もかぎられたものである。領主権の廃止で完全な土地所有者になるのは中農だけではなくて、商人地主も農民地主もそうである。

だから、領主権の廃止を農民革命と限定することはできない。ブルジョア地主、農民地主の地主革命ともいえる側面もあり、農民革命だけがフランスにおこなわれたわけではなかった。しかも中農以下の自小作農、小作農、日雇農、農業労働者の大群が、なんら土地所有者に生れかわることなく続いた。地主小作関係は依然として続いている。貴族の直領地、貴族あるいはブルジョアの地主の土地、大農民の土地においてである。これでは土地革命といえるものではない。

ちょうど日本で、明治維新以後、地主小作関係の土地が、約三分の一から約二分の一へと増加していった現象と同じである。

それでは、国有財産の売却が土地革命を作りだしたといえるだろうか。実はこれも、そうはいえないのである。この土地を買受けた者をブルジョアと農民と二つに区別してみると、ブルジョアの買取った土地の方が、農民の買取った土地より多い。しかも農民といっても大、中、小に分れており、大農民が大きな土地を買取った。入札竸売である以上、以前からもっている財産に比例して買取りの規模が決まるのは当然である。そのため、貧農が土地を買取って自作農に上昇するような機会はほとんどなかった。これでは、土地革命とはいえない。どこからみても土地革命といえるようなものはない。

ただ一つ、ロベスピエール派の政策、すなわちヴァントゥーズ法が実行されたならば、これこそ土地革命といえる事態がおこったはずである。そこでもう一度まとめると、フランス革命では土地革命の理念は提起された。だが、土地革命はおこらなかったのである。

まして、恐怖政治による封建貢租の無償廃止を強調することは論外である。封建貢租の廃止はジロンド派が基本的に達成した。多くの歴史家が、貢租の無償廃止を過大評価したのである。フランス革命以後、旧貴族の大土地所有が続き、彼らが昔の城に住み、ナポレオン時代や王政の復活の時代に、皇帝や国王のまわりを取りまいていたことをもっと考えるべきである。

もし土地革命がおこなわれていたのであれば、そのような大土地所有貴族が革命後も残っているはすがないではないか。このような簡単なことすら無視されているのは、不思議なことである。ただ、日本では、貴族大土地所有の残存について紹介されたものはまったくなかった。そこで私は、その実例について、多数のものを集め、これを紹介したことがある(『フランス革命の経済構造』五二七頁)。その一例だけを示すと、ツールーズ郡では貴族所有地約二万二六〇〇ヘクタールのうち、約一割だけが革命で失われ、残りの九割は無傷で残っていた。その中では、一〇〇〇ヘクタールとか、数百ヘクタールの土地所有者が多く見られる。


大工業は断絶しなかった

フランス革命で、アンシャン・レジームの特権工業、大工業が断絶したと主張する学説が日本で盛んである。これを主張したのは、大塚史学の側である。大塚久雄、高橋幸八郎、中木康夫の諸氏であるが、吉田静一氏もそのように書いている。実例としては、アンザン会社、ル・クルゾーその他がもちだされる。

日本では、これらの大工業が、フランス革命以後は存在しないと思われていた。しかし実際にフランスの工業やブルジョアジーの歴史を調べていくと、それらはれっきとして現代に続いているのである。ル・クルゾーを三分の一の規模に縮小して作ったのが、日本の横須賀海軍工廠であるから、日本にも深いかかわりあいがある。これをフランス革命で断絶したといい切っていたのであるから、この理論がいかに奇妙なものであったかがわかるはずである。

本書を読めば、こうした特権工業が、旧体制での特権は失ったにしても、公安委員会の手で積極的に再建育成され、フランスの国防力の強化に役立てられたことが理解できるはずである。

アンザン会社は革命によって破壊されたのではなく、オーストリア軍によって破壊されたのである。それを公安委員会の協力によって再建をはじめた。ところが、大塚史学では、こうした大鉱山がフランス革命で徹底的につぶされてしまうといっている。これが、大塚史学の理論的支柱になっている。しかし事実はそうではない。

大工業がフランス革命を通じて連続していることを、私は約一〇年前に『フランス革命経済史研究』で証明した。そこで、私の理論を断絶論にたいする連続論だという人があるが、連続論そのものを唱えるつもりはないのである。ただ、断絶もしないものを断絶したといって、フランス革命の基本的結果にもちこみ、これをブルジョア革命の一般法則にまで引きのばしていくやり方に反対したのである。いいたいことは、「そういうところにフランス革命の結果はなかった」という一点につきる。

フランス革命のときに、実際につぶれてしまった大工業もないことはない。すべてがすべて連続するのだとはいっていない。激動の時期であるから、当然断絶するものもありうることは否定しない。この問題についていえることは、あるものは断絶し、あるものは連続するというものであって、どちらか一方に偏した結論は非現実的である。

ただ、どちらかといえば、大工業とくに重工業に関しては、断絶しているものは少ない。それは、当時の戦争の必要からしても当然であり、ヨーロッパ最強のフランス革命軍の背景をなすものでもあった。

こうしたことをなぜ強調するかといえば、大塚史学のテーマでは、フランスの断絶にたいして日本の連続が対比されて、両者がまったく逆の立場におかれるからである。

フランス革命では特権工業が断絶した。革命は徹底的であった。日本では、三井、住友のような特権的ブルジョアが明治維新を通して連続している。だから日本の資本主義は封建的性格を残す。そのため、フランス革命はブルジョア革命であったが、明治維新は絶対主義をつくりだしたものにすぎない。

このように、大塚史学が日本の歴史とフランス革命を対比する。その理論的な土台にたいして、誤謬を指摘しているだけのことである。


恐怖政治の過大評価をいましめる

これとかかわりあいにあるのが、恐怖政治の解釈である。これをサンキュロット支配と解釈する説が有力である。サンキュロット支配のもとで、大工業をつぶし、土地革命を実現したというテーマは、古くから常識のようになってきた。本書での結論はまったくちがう。

恐怖政治はサンキュロット支配ではなく、平原派が集まる大ブルジョアジーの一派と、モンタニヤール主流に代表される中流のブルジョアジーと、ロベスピエール派に代表される小ブルジョアジーの連合政権であり、とくに経済的に重要な部署は、平原派とモンタニヤール主流で押えていた。そのため、サンキュロット支配ではないというのが結論になる。

また、恐怖政治の政策で、のちに成果として残ったものはなにもない。あくまでも、恐怖政治は、異常な状態のもとにおける一つのモデルを作りだしたものである。危機が去るとともに、その政策はすべて撤廃された。まして、恐怖政治が土地革命をおこなったわけではないし、特権工業を断絶させたわけでもない。この点ははっきりとさせておかなければならない。

ただ、それではフランス革命を他の諸国のブルジョア革命とまったく同列に引き下げてしまうべきかというと、そうではない。もっとも徹底的な条件のもとで、徹底的な政策がおこなわれ、この時代に、普通選挙制までが一時的にしろ実現したのであるから、やはりもっとも急進的な内容を含むブルジョア革命であったというべきである。

このことを否定するつもりはないが、ただその急進的な部分がのちにくつがえされたことを考え合せなければならないというのである。ナポレオン時代は一種の独裁制であり、王政復活は、それよりもさらに貴族的となり、七月王政すら普通選挙制を採用しない。第二帝政もそうである。フランスの民主主義が、国民公会の理念を再現するのは、一八七一年以後のことである。かれこれ八〇年のちということになる。フランス革命の民主主義的性格を、固定的なものとして過大評価することはできない。


政治革命論への逆戻りも正しくない

土地革命論や特権工業の断絶論、あるいは恐怖政治のサンキュロット支配を主張する学説は、いわばフランス革命の中に経済的内容をみようとする立場である。しかし、この三つの解釈は事実に合わない。

ところで日本はともかく、本国のフランスでは、学風が実証主義であることも手伝って、あまり経済的法則性を問題にしない。マチエ、ソブールのような解釈は一般的ではない。むしろ、フランスでの一般的な風潮としては、フランス革命が純粋に政治革命であって、経済的革命はなにもないのだという意見が強く見られる。

フランスの学者の最大公約数は純粋政治革命論であり、マチエ、ソブールのような立場は少数派であるとみてよい。ただし、それでは、政治革命論を唱える者はあらゆる角度から経済関係を綿密に調べあげ、いろいろ考えた結果なにもなくて、政治革命だけが残ると結論を下したのかどうかといえば、そうではない。フランスの学者には実証主義者が多いから、理論的な解釈には反感をもつのである。そのため、フランス革命は政治革命で、産業革命が経済的な変化をもたらしたという簡単な理屈ですませてしまい、そのことについて、あまり深く考えないのである。

イギリスやアメリカのフランス革命史家も、それに似ている。コバン、テイラーが代表的な者である。アメリカのテイラーにいわせると、社会的内容と称されるものは実現されていないから、結局は、フランス革命で政治的革命がおこなわれたにすぎないことになる。イギリスのコバンは、フランス革命で大土地所有が残ったことを強調し、「保守的大地主層の勝利」と規定した。そこから、フランス革命をブルジョア革命として評価することにも、否定的な立場をとっている。しかし、彼には、領地と土地の区別がつけられていない。そのため、奇妙な結論が出てくる。正確にいうならば、大領主は敗北し、勝利したブルジョアジーは同時に大土地所有者でもあり、貴族の大土地所有も残ったのである。いずれにしても、問題はもとにもどって、経済的内容の否定、あるとすれば政治的革命、せいぜい法制史的革命が加わる程度のもの、すなわち身分的平等、議会制度、近代的な裁判制度、郡県制などが、フランス革命の内容として評価される。


財政問題を忘れてはならない

これでよいかといえば、それでは古い歴史観に逆もどりしただけのことである。もともと古い歴史観は政治史中心で、経済的因果関係は抜きであった。しかし今日、社会の大変動は経済的因果関係を基本的な原因としておこるということが、常識になっている。そういう時代に、古い政治史中心の歴史観に逆もどりして、それでよいとするのは時代遅れである。

フランス革命に、基本的な経済的原因、結果が無かったのかと、もう一度問い直してみるべきである。ただし、土地革命、特権工業の断絶、サンキュロット支配はちがうものとしてである。

実は、この三つを否定したのちでも、経済的因果関係の最大のものが残っている。このことに気の付く人が少ないのである。最大のものとは、財政問題である。もともと、フランス革命の原因として財政間題があげられている。これはどの本でも、誰でもそうである。それでいながら、フランス革命の展開とともに、これを脇に押しやって、その他のことを論じることに熱中している。そこに、理論の断絶があった。

財政問題としてはじまったものは、財政問題として結着がつけられなければならない。この単純なことを多くの歴史家が忘れている。

本書の最大の特徴は、そこに焦点を当てたところである。そして、財政問題が、政治革命としての権力の問題に密接に結びついている。バスチーユ占領直後の財政政策をふりかえってもらうならば、それが理解できるはずである。

権力と財政政策の逆転をもう少し具体的にいうならば、国家権力を宮廷貴族が握るかブルジョアジーが握るかの争奪戦である。革命前は宮廷貴族(領主、貴族の最強の勢力)が、財政の実権をにぎってブルジョアジー以下を収奪していたのに、革命でブルジョアジーが国家の主人となり、貴族を含めた他の階層を支配収奪する立場に上昇したという一点につきる。これを純粋な政治革命というべきだろうか。租税政策、公債政策は、政治問題でなくて経済問題である。その意味で、政治と経済は密接に絡み合っている。


フランス史への誤解が日本史への誤解を生む

フランス革命の基本的な原因、結果は権力と財政の問題であり、貴族(領主)の権力をブルジョアジーの権力に置きかえ、財政政策を逆転させたことである。土地革命、特権工業の敗北、サンキュロット支配などは実現していない。議会制民主主義、身分的平等、郡県制、法律的改革などは、副次的なものである。その中には永続したものと、革命後逆もどりしたものとがある。副次的なものは、フランス革命の特殊性と考え、基本的な原因、結果が、ジョルジョア革命としての基本的法則と考えるべきである。これが科学的なものの見方である。

これをもって各国のブルジョア革命をみるならば、従来の学説とはちがった結果にたどりつくはずである。そのために、フランス革命の正確な理解がなによりも必要である。本書の意図するところもそこにある。

とくに我国の歴史解釈は、いままで、フランス革命の間違った解釈を当てはめていたために、でたらめな解釈で埋められてきた。たとえば、フランスの宮延貴族が、土地も領地ももっていないと思い込んで、これを日本の華族に当てはめ、日本の華族とフランスの宮廷貴族が同じであるから、天皇制は絶対主義だと主張した人があった。しかし、フランスの宮廷貴族は大領主であったとなると、この理屈は一挙にくずれる。

フランス絶対主義の国王が唯一最高の領主であるから、天皇も唯一最高の領主であるので、天皇制は絶対主義だと主張した人もいる。しかし、フランス国王は最高の領主であっても、唯一の領主ではなかった。これは第一章にくわしく書いてある。多数の領主の中の最大の者であったというにすぎない。そうすると、この理屈もこわれる。もし天皇制を絶対主義といいたいのであれば、多数の領主がいたことを証明しなければならないが、これは不可能である。

絶対主義的均衡論というのがある。絶対主義は貴族とブルジョアジーの勢力均衡のうえに、国王が独自の勢力として絶対的権力をふるうという図式である。これをカウツキーがフランス革命に適用して有名になり、戦前から戦後一〇年くらいまでは、まさに絶対的な真理のようにもてはやされたものである。これを日本に適用して、地主と財閥の勢力均衡のうえに、天皇が絶対的な権力をふるうという解釈で、天皇制を絶対主義であると規定する学説が有力であった。

しかし、フランス絶対主義は均衡ではない。王権を組織した者は貴族・領主の最大勢力としての宮廷貴族であった。ブルジョアジーは彼らに支配されていたのである。勢力均衡は、地方貴族とブルジョアジーの間にあっただけである。そのため、均衡論そのものの土台がくずれてしまう。

そうすると、均衡論の上に立つ天皇制絶対主義説もくずれる。天皇制を絶対主義だといいたいのであれば、天皇を取りまく高級官僚が、その時点での領主であることを証明しなければならないが、これも不可能である。

大塚史学では、フランス絶対主義の王権の支柱を、商人出身あるいはブルジョア出身の地主(または領主)であるといい、市民的土地所有が絶対主義の支柱であるという。これを日本にもって来て、日本の地主や財閥がそれに相当するといういい方で、天皇制絶対主義説を補強している。しかし第一章第一節でみるように、ブルジョア出身の領主やブルジョア出身の地主は、まだ被支配者である。

国王を取りまき、高級官職を独占したのは、古くから続く名門の貴族(領主)である。大塚史学の理論では、ブルジョアジーの最上層は、ブルジョア革命の前、絶対主義の時代にすでに支配者になったかのようにいわれる。

これは誤解である。特権商人層はまだ被支配者であった。だからこそ、彼らはバスチーユ占領に動いたのである。

その意味が、大塚史学では忘れられている。このように整理すると、日本の財閥や地主の存在を、絶対主義の証拠にする根拠もくずれる。


日本におけるフランス革命史研究の意味

領主権の廃止を比較して、フランスは無償であり、日本は有償であるから、日本は封建制の廃止という点では不徹底であるという意見が根強い。しかし、これも、両国のおかれた前提条件のちがいを考えずに作った理屈である。

第一章第三節にみたように、フランスの貴族は、領主権とともに直領地の土地所有権をもっていた。片方が無償で廃止されても、片方は居城とともに残る。日本の武士はそうしたものをっていない。だからこそ、フランスの無償と日本の有償がつり合うのである。貴族、武士をある程度のこしながら、妥協的に地位を低下させるという意味では、フランスも日本も同じである。

もし日本の武士を無償で解体させなければならないというのであれば、フランスでも直領地と城を取上げてしまわなければならない。そうしてはじめて、両国が徹底的であるといえる。日本だけに徹底さを要求し、不徹底だから封建制が残っているというのも、見当ちがいである。

また、バスチーユ占領の直後、すでにブルジョアジーが権力に達したときにも、フランスの領主権は一部維持された。もしこの時点で、革命が停止したとしても、十分ブルジョア革命としての意味があった。八月一〇日で領主権が完全に無償廃止となるが、バスチーユの時点でも、すでにブルジョア革命としての基本的成果は達成されている。領主権と封建制度あるいは絶対主義を混同してはいけない。これを混同するから、領主権の有償廃止は封建制の残存であり、したがって絶対主義であるという理屈になる。このようなことをいうならば、イギリスなどは領主権がそのまま残ったから、現代でも封建制度であるといわなければならないがそういう人はいない。

地主小作度が日本に続き、半封建的関係が続いたと強調する人がいる。フランス革命以後でも、地主小作関係が同じようなきびしさで続いたことを知らなかった段階で、しきりに唱えられた理論である。これもフランスのことを知らないために生れた理論である。

特権工業や特権的商業資本の連続や断絶を問題にして、日本は連続で、フランスは断絶だといっていたが、これも間違いである。むしろ、私が事実を調べたところによると、フランスに連続が多く、日本は三井、住友をのぞけば、鴻池と川崎銀行程度のものである。日本の側にむしろ断絶が多いことが指摘できる。

そういうと、日本の新興財閥は政商だといって反駁する人がいるが、それに対しては、フランスにもウヴラールのような政商が多数いたことを反証としてあげなければならない。

このように、フランス革命の正しい認識をもち、積み重ねられてきた誤解を解くことが、日本の歴史を正しく解釈する上で、決定的な意味をもっているのである。

このように説明してくると、勘のよい読者は、たとえ日本史についての概説書程度の知識しかなくても、明治維新がフランス革命と同じくブルジョア革命であったのではないかと思い直すだろう。少なくとも、明治維新がブルジョア革命でなかったと、フランス革命を根拠にして主張していた学説は、その根拠を失うことになる。

要約 第七章 フランス革命をどのように理解するべきか 二 フランス革命と明治維新の比較

フランス革命を正しく見る。そのうえで明治維新を解釈する。これが重要で、今までの学者たちの意見は、フランス革命を正しく理解していなかったから、その論争は、「暗闇の中のたたき合い」のようなものであったという。その要点は、土地革命論、特権的商業資本、大工業の断絶という大塚史学の理論、恐怖政治の過大評価、政治革命論、などの分野に及ぶ。私は、財政問題を忘れるなという。

結論。フランス革命についての正しい知識を持つと、明治維新が市民革命ではないという学説は、すべて間違いだということに気がつくはずである。 

27-フランス革命史入門 第七章の一 革命史を長期的にみると

 第七章 フランス革命をどのように理解するべきか


一 革命史を長期的に見ると


総裁政府からナポレオンの帝政へ

ここでフランス革命が終ったといえる。ちょうど八月一〇日以後の時代にもどった。それはブルジョア共和国であった。それにふさわしい憲法が、八月二二日「共和国憲法」として制定された。普通選挙から制限選挙に逆戻りした。選挙人は約三万人に限定された。議会は上院の古老院と下院の五百人会議にわかれ、議会から五人の総裁が選出され、総裁が行政権を握った。議院内閣制であったが、こういう制度のもとでは、ブルジョアジーと大土地所有者の代表者が絶対的に有利であった。

一〇月、総裁政府が成立した。総裁の顔ぶれを見よう。バラはマルセイユへの派遣委員の時代はテロリストであったが、公金横領で新興成金となり、ウヴラールを保護した。名門貴族出身の新興成金として特異な存在であり、「バラの王」といわれた。

ルーベルは弁護士出身でモンタニヤールに属し、派遣委員のころに新興成金となった。御用商人との結託がもっともあきらかな人物であり、無節操とはいわれていたが、総裁政府では信用があった。

カルノーは「勝利の組織者」であり、恐怖政治の生き残りではあるが、純軍事的な意味からその地位に残った。

ラ・ルヴリエール・レポーはジロンド派議員の生き残りである。ルツルヌールは平原派の有力者であった。総裁政府は、モンタニヤールからの転向者と平原派、ジロンド派の抱き合せであった。

この年の八月には、フラン銀貨を木位貨幣と定め、リーブルの呼称をフランにかえた。翌年の三月にはアシニアが廃止された。こうして革命の紙幣が消滅した。

一七九五年一〇月三日、ヴァンデミエール事件が起こった。これは王党派貴族が反革命暴動を起こし、三日間にわたって議会を襲撃した事件である。このころになると、下層民の中に革命への幻減が広がり、王政をなつかしむ傾向がでていた。そのため、貴族の反乱も強力なものになった。議会と政府が危うくなったので、総裁バラは、かつての友人ナポレオン・ボナパルトに軍隊をまかせ、その手腕によって鎮圧させた。ここで、ブルジョアジーの救世主としてのナポレオンの名声が上った。ナポレオンはロペスピエール派として一時投獄され、釈放されてからは地位を求めてバラに接近していたのである。

翌年の五月、ジャコバン残党を組織して、平等主義あるいは一種の共産主義的思想で反乱を起こそうとする計画が発覚した。これをバプーフの陰謀という。しかし、警察を握るフーシュの手腕によって、未然に摘発された。

総裁政府のはじめは国外で戦勝を続けた。フランス軍は革命初期の精神をすてて、征服地の略奪、搾取をおこなった。兵士の貧困をその方向にそらせたのであるが、同時に将軍や将校はこのため大財産家になった。ナポレオンもそうして大財産家になり、文字通り、ブルジョアジーの将軍ができあがった。

総裁政府の末期、一七九九年敗戦がはじまり、議会でジャコバン派が勢力を増した。六月に累進強制公債の徴収が布出口され、ランデが総裁に選出され、ジャコバンクラブが再建された。ジャコバン派は、昔の夢の再現に張りきったが、ブルジョアジーは過去の悪夢に恐怖した。そのうえ、今度のブルジョアジーは、革命の鉄火をくぐりぬけて来たしたたか者で強化されている。彼らは「切れ味の良いサーベル」を求めて、この危機をさけようとした。

銀行家ペルゴとルクツーは、手紙をエジプトにいるナポレオン・ボナパルトに送った。ナポレオンは帰国し、彼らと密談をしたうえで一七九九年一一月九日(プリュメール一八日)のクーデターを敢行した。ジャコバン派を追放し、議会を解散し、統領政治を実現した。ペルゴ、ルクツーをはじめ大ブルジョアが献金して、このクーデターを支援した。本質的には、大ブルジョアジーの軍事的独裁であった。その政権のもとで再び戦争に勝ち、一八〇四年五月にはナポレオンの第一帝政が出現した。


王政復活から七月革命へ

第一帝政の本質はブルジョア政権であったが、中世的なヨーロッパ諸国を支配する必要もあって貴族的権威で権力をかざる必要に迫られた。この必要からも、亡命貴族にたいして積極的に帰国をうながした。亡命貴族も、財産を取り戻す必要からあいついで帰国した。主としてフイヤン派系の名門貴族が帰って来た。彼らは、ブルジョアジーと縁組その他で混合していった。ウヴラールの娘は、ロシュシャール公爵の息子(リシュリュー公爵家の相続人)と結婚した。もと司教のタレイラン公爵は外務大臣になった。上院として元老院がおかれ、ここに昔の名門貴族とブルジョアが同居した。

貴族的色彩の強いブルジョア帝政が実現した。貴族の爵位は復活し、旧貴族は昔のとおりに呼ばれたが、そこにブルジョアが仲間入りした。フーシェはオトラント公爵となった。皇帝のまわりをフイヤン派系の高級貴族が取りまき、昔の王室に似た形式が復活した。ただ、皇帝の宮廷生活の中にブルジョアが入りこんだので、新しい、ブルジョア出身の貴婦人ができた。彼女らは行儀が悪く、人前でガスをだしたので、「マダム・サンジェーヌ」(無遠慮な婦人)と呼ばれた。宮廷貴族の官廷から、ブルジョアと貴族の混合する宮廷への変化である。

ナポレオンが敗北して外国軍がフランスを占領し、亡命貴族が帰国した。この亡命貴族は、バスチーユ占領のときに亡命した宮廷貴族の本流である。王位を復活させたルイ一八世は、亡命貴族にかこまれて権力の座についた。亡命貴族と高級僧侶は、領主権の復活、十分の一税の復活、国有財産売却の破棄、旧所有者への返還を主張した。要するに絶対主義の復活である。

こうすれば、またもや革命がおきるという教訓を忘れていたのである。ただ、自分の利益だけは忘れなかった。これをタレイランが、「彼らは何事も学ばす、何ものも忘れなかった」と批評した。

ブルジョアジーから中間層にいたるまでの反感が高まった。銀行家や工業家がナポレオンの復活を援助し、百日天下になった。しかしワーテルローの会戦で敗れ、第二王政復活がおこなわれた。またもや、ブルジョアジーの力が後退して、再び旧貴族の権力が復活した。しかし百日天下の教訓もあり、亡命貴族の無制限な要求は阻止された。外国も、ルイ一八世も、慢性的な騒乱を恐れて、現状維持につとめた。いわば妥協の産物であり、旧貴族とブルジョアの連立政権のような性格になった。

領主権や十分の一税は復活させず、国有財産売却の有効性を認めた。絶対主義への完全復帰を要求する亡命貴族の一派は、野党的な立場となり、極端王党(ウルトラ)を組織して、国王に対立したままであった。「王よりも王党的な」野党になった。ただ、亡命貴族にたいして没収売却された土地の買受価格を基準にした補償がおこなわれた。これで、亡命貴族が土地(主として直領地)を失ったとしても、それに相当する公債の所有者となり、大貴族は大ブルジョアにかわった。

ルイ一八世が死に、王弟アルトワ伯が即位して、シャルル一〇世になると極端王党の勢力が強まった。この中心はポリニャック太公であった。マリーアントワネットの寵臣ポリニャック公爵夫人の息子である。彼は絶対主義再建をめざす宮廷貴族に支持されて、議会の権限を削減しようとした。ここで一八三〇年、七月革命がおこり、シャルル一〇世は退位させられた。かわって王位についたのはオルレアン公ルイ・フィリップであった。彼のかつぎだしに尽力したのは、タレイラン公爵とラファイエット侯爵であった。いわば、バスチーユ占領直後のような状態になった。

このまわりをラフィット(ペルゴの後継者)、カジミール・ド・ペリエ(クロード・ペリエの子)のような銀行家、大工業家が固めた。彼らは革命的銀行家と呼ばれていたが、まずラフィットが首相になり、つぎにカジミール・ド・ペリエが首相兼内務大臣になった。「オート・バンクの支配人」が実現し、宮廷貴族の力は最終的に排除された。フランス革命の成果は、七月革命で完全に落着いたといえる。

要約 第七章 フランス革命をどのように理解するべきか 一 革命史を長期的にみると

モンタニヤールの消滅と並行して、恐怖政治の政策は全廃された。共和国憲法は制限選挙制に戻り、普通選挙制は廃止された。総裁政府は、ジロンド派、平原派、モンタニヤールの生き残りで構成された。この政権は、王党派反乱の撃滅、アンギアン公爵の処刑でコンデ大公家を断絶させた。他方でバブーフの陰謀を摘発して、左翼の運動を抑えた。ブルジョアジーの権力を安定させたが、産業構造の変化、ビジネス環境の変化があり、実業家の中で、軍需物資調達業者の急成長がみられた。これと組んで、将軍たちの中から新興成金が出てきた。この両者の癒着、汚職が軍事力の弱体化を招いた。

そこにナポレオンが登場した。彼を呼び戻して統領政治に押し上げた人達が、ペルゴとルクツーだと説いて、この二人の経歴、役割を説明する、こういう歴史の説明をしたのは私一人である。フランス人でも知る人はいない。

ナポレオンが敗北して、王政が復活し、七月革命で銀行家の支配と言われる時代を作り出した。フランス革命の成果は七月革命で完全に落ち着いたと書いている。これで間違いはないと思うが、フランス革命はナポレオンの出現で終わるという人も多い。フランス革命に七月革命を含める人はいない。だから常識に従って、そのように定義すると、言いにくいことだが、「フランス革命は未完の市民革命、敗北した市民革命、フロンドの乱と同じ」というしかない。(これを聞くとフランス人は怒るだろう)。どちらを取るかという問題です。


26-フランス革命史入門 第六章の三 モンタニヤールの消滅

 三 モンタニヤールの消減


ジャコバンクラブの終末

ロベスピエール派が敗北したあと、たちまち効果があらわれた。人民委員会は解散させられ、そのメンバーは逮捕された。反革命容疑者の釈放を拡大する法令が、八月にだされた。

「反革命容疑者は大群をなして牢獄からでていった」といわれた。投獄されていたインド会社役は、テルミドール事件を「正義の日」といった。パリコミューンは国民公会の統制下におかれ、パリの官吏は国民公会から任命されることになった。ロベスピエール派の社会政策は、日の目をみることなしに消え去った。

多くの革命史では、このテルミドールの反革命をもって恐怖政治の終了、あるいはフランス革命の終結とみなしている。しかし、まだ恐怖政治の政策は完全には廃止されていない。最高価格制も穀物徴発政策も廃止されていない。それらが終るのは、もうすこし後のことである。まだ、モンタニヤールのほとんどは政権の座にいる。その意味では、テルミドールの反革命は、せいぜいのところ、ジロンド派追放以後の時点にもどしただけである。まだ恐怖政治の執行者の勢力は残存している。

これにたいして、平原派の実力者とモンタニヤールからの転向者が攻撃を加え、政権の座からモンタニヤール主流を引きずりおろした。その闘争が約二年続く。

七月二九日、ジャコバンクラブが再開された。ロベスピエール派が消えたとはいえ、まだジャコバンクラブは力をもっていた。これを指導したのはカリエであった。彼はナントへの派遣委員となり、そこでヴァンデーの反乱者にたいする極刑をおこない、僧侶を川に沈める「溺死刑」で有名になった。パリに呼びもどされるとエベール派に接近したが、追求はされなかった。カリエは、ジャコバンクラブから、タリヤンなどの転向者を除名した。

カリエはロベスピエールの後継者、ギロチンの騎士と呼ばれた。それでいながら、ロベスピエール打倒には活躍し、「暴君を殺せ」というカリエの呼び声がとくにめだっていたのである。ロベスピエール打倒といっても、いろいろな立場からの打倒があった。

完全に転向したタリヤン、メルラン(チオンヴィル出身)、フレロンなどの腐敗議員は、ブルジョアの子弟を集めて「金ピカ青年隊」を組織し、ジャコバンクラブ員を襲撃させた。この争いを続けさせておいて、国民公会でジャコバンクラブの解散を提案した。結局、一一月二二日、国民公会はジャコバンクラブの閉鎖を決議した。

カリエは告発され逮捕された。ここでジャコバンクラブは終りを告げた。


ジロンド派の復帰

七月二八日、国民公会の諸委員会を、一カ月ごとに四分の一ずつ改選することにした。八月二五日、カンボンの提案で行政権を一二の委員会に分散させることにした。これによって、公安委員会に集中していた行政権が奪われた。軍事委員会が軍隊を動かし、立法委員会が法律の作成と執行に大きな権限をもつようになった。立法委員会が、以後とくに大きな権限をもつが、議長はカンバセレスで、ここの委員は一人を除いてあとはすべて平原派であった。

九月一日、公安委員会が改選され、バレールと二人のエベール派の保護者ビュー・ヴァレンヌ、コロー・デルボアが除かれた。バレールは平原派議員で公安委員会の実力者であった。しかし、カメレオンというあだ名があるように、日和見をきめこみすぎた。ロベスピエールの全盛期に、ロベスピエール派に接近しすぎたために、平原派の信用を失ったのである。

かわって公安委員会に入った者は、ギュイトン・モルヴォー、フルクロワ、メルラン(ドウエ出身)である。ギュイトンはジロンド派追放の前後にわたって公安委員であったから、九三年春の段階にもどったことになる。翌年に入ると、公安委員会はモンタニヤールを完全に排除した。

こうした動きと並行して、モンタニヤールにたいする攻撃が、平原派やモンタニヤールからの転向者によっておこなわれた。すでに八月二九日、コワントル(ヴェルサイユ出身)が、コロー、ビョー、アマール、ヴァディエなど旧保安委員会と旧公安委員会のメンバーを、ロベスピエールの共犯者として告発した。この告発が続いて、バレールも共犯者に加えられ、彼らを未決拘留とするかどうかが審議された。

ジロンド派議員の呼びもどしもおこなわれた。一〇月二二日、これをめぐって激論がおこなわれた。モンタニヤールのグージョンが反対したが押しきられ、翌日からジロンド派議員が釈放され、一二月八日には国民公会に復帰した。

いまや立場が逆になり、旧公安、保安委員会のメンバーを告発する委員会の議長に、ジロンド派のサラダンがなった。一一月、ランデが穀物最高価格制の新体系を提出したが、タリヤンが反対し、ルジャンドルも反対を続け、一二月二四日、最高価格制と統制の廃止が決議された。これで商業は自由となった。買占め禁止法や穀物の徴発政策は撤廃された。

政府は食料の供給について、御用商人を保護するとともに、有力銀行家ペルゴを、商工業と輸入の振興のための審議会に迎え入れた。ペルゴは恐怖政治の時代スイスへ逃げていた反革命容疑者である。これに政府をまかせることは危険だと、モンタニヤールのデュアム、グージョンが反対したが、押しきられた。

平原派のボワシ・ダングラは、一七九四年一二月二七日、経済統制解除とともに、それに従事していた官吏を大幅に削減することをうちだした。人件費を節減して、商工業にまわすというのである。こうして、多くの革命家が失業した。

財政委員会では、カンボンにかわってジョアノが実権をにぎった。カンボンは地方商人であったが、ジョアノは大工業家、パリの大商人であった。ジョアノは交戦国国民の財産を返還することを打ちだした。こうして、平原派の中でも勢力の交代が起こり、カンボンのすすめてきた方針までも撤廃し、いわばジロンド派時代の政策にたちもどることがすすめられた。


ジェルミナルの暴動

全面的に恐怖政治の経済政策を廃止しようとする平原派の本流と、これに対抗するモンタニヤールの主流、平原派の中でのモンタニヤールの同調者(バレール、カンボン)が対立した。ただ、この闘争は、もはやブルジョアジー対サンキュロットの闘争というべきものではなくなった。大ブルジョアジーにたいする、中流のブルジョアジーの闘争であった。

モンタニヤールが押されて、ついに旧公安、保安両委員の起訴について討議がおこなわれているとき、またもや飢餓暴動がおきた。統制が解除されたために、物価が暴騰した。国立軍事工場が民間に払下げられたために、人員整理がおこなわれて、失業者が増えた。パリから燃料と食料が無くなった。ただし、今度は絶対的に無くなったのではなくて、金をだせば手に入れることができたのである。食料不足は下町だけにおこった。飢えと寒さから自殺者が相ついだ。これが一七九五年の冬から春にかけてのことであった。

この群集を、モンタニヤール議員が煽動した。一七九五年四月一日(ジェルミナル一二日)、パリの貧民が国民公会に侵入し、議事堂の外にも群集があふれた。彼らが「パンを!パンを!」と叫んだ。これを背景に、デュアム、シュディユーなどモンタニヤール議員が、平原派の政策に反対する演説をおこなった。

しかし、平原派の握る保安委員会と軍事委員会が軍隊を議事堂のまわりに集結した。タリヤン、ルジャンドル、ケレヴェルガン(ジロンド派)などに率いられた軍隊が銃剣で群集を解散させた。これがジェルミナルの暴動であり、これは失敗に終った。このあと、モンタニヤールにたいする追い撃ちがかけられた。

バレール、ビョー、コロー、ヴァディエの流刑が決定された。ヴァディエは逃亡した。約一〇人のモンタニヤール議員の逮捕が決定された。カンボンは逃亡、潜伏した。この事件のあと、国民衛兵の中で反乱に加わった者から武器を取上げた。これ以後の国民衛兵は自費で武装するものと定めて、完全なブルジョアジーの軍隊に作りかえた。

対決は約一カ月半のちに、もう一度おこなわれた。同年の五月二〇日(プレリアル一日)におこなわれたので、プレリアルの武装蜂起と呼ばれる。このときのスローガンが、「パンと九三年憲法」であった。

このころ憲法の審議がおこなわれており、こののちに来る総裁政府の政治体制が作られていた。モンタニヤールの残党は、九三年憲法の完全実施を主張して抵抗した。ロム、グージョン、デュケノワ、チュリオ、デュアムなどであった。これにたいして、メルラン(チオンヴィル出身)は「まだやっつけるべき四〇人ばかりのゴロツキがいる」といった。


プレリアルの暴動、パンと九三年憲法

食料不足があいかわらず続いた。とくに下町のサン・タントワーヌ街の労働者が、革命への幻減をあらわした。

「われわれは革命のためにささげた儀牲のすべてについて、後悔しはじめている」

「商業で盗賊行為をおこなう数千の投機業者の支配下にあるよりは、一人の王の専制政治の方がまだましだ」

「革命以来、貧しい階級の者が手に入れた成果はなんであったか。金持の軽蔑と、憲法にもとづく政府の抑圧である」。

この意見がパリの貧民の最後の政治的結論であった。五月二〇日、指物師のリシエが宣言した。

「ロベスピエールの支配の時期は血は流れたが、パンに不足はなかった。今は血は流れないがパンはない。パンを手に入れるために、血は流されなければならない」。

五月二〇日、警鐘がサン・タントワーヌ街とサン・マルセル街に鳴らされた。婦人がかけまわって武装した男を呼び集め、国民公会に行進した。彼らは国民公会に乱入して、抵抗した一人の議員の首を切り、議長のボワシ・ダングラにつきつけた。

この群集を背景に、モンタニヤール議員が、さきに逮捕されているモンタニヤール議員の釈放を要求し、平原派中心の保安委員会の解散を要求した。多くの議員は、帽子をあげてモンタニヤールに賛成した。

しかし、その間に政府の側は軍隊をかき集めた。議員のルジャンドルとケレヴェルガンが、司令官ラッフェとともに兵を率いて議場に突入した。ラッフェは倒れ、ケレヴェルガンは負傷したが、群衆は追い出された。群衆が追いだされると、モンタニヤール議員にたいして逮捕令が可決された。

翌日、サン・タントワーヌ街でもう一度武装蜂起がおきたが、もはや指導者も組織も不十分で、うやむやのうちに解散した。つぎの五月二二日、国民公会の側は財産をもっている者一人一人を選別して軍隊を編成し、五万人の大軍と三〇〇〇人の騎兵を集結して、サン・タントワーヌ街を包囲した。

「パリはこの瞬間一つの兵営と化した」。

サン・タントワーヌ街は陥落し、反乱の指導者としてサンテール(ビール醸造業者、二年前の国民衛兵司令官が逮捕された。牢獄は満員となった。モンタニヤール議員の処刑が続いた。こうして、ついにモンタニヤールが滅んだのである。

この反乱は、カンボン、チュリオ、デュアムが計画したものであるといわれたが、はっきりとした目標をもった反乱ではなかった。貧民の自然発生的な暴動がおこり、これが成功しそうになったときに、それに乗ろうとしただけであった。もはや、あいつぐ粛清で組織が弱体化し、一流の人物はつぎつぎと姿を消したので、運動も整然としたものにはならなかった。


恐怖政治の全廃

モンタニヤールが一掃されたので、社会制度は完全に逆もどりした。財政委員会のジョアノの努力で、株式市場の再開、商業取引所の再開がおこなわれた。処刑された者の財産が返還されることになった。処刑されたジロンド派議員の遺族にたいしても、補助金が与えられた。カンボンが国債利子の支払を停止し、三〇〇〇リーブル以上の年金を切捨てたが、これも撤回されて元どおりになった。

こうした政策により、大ブルジョアジーの財産は回復され、彼らの活動は昔どおりにおこなわれるようになった。五月三一日、革命裁判所が廃止された。恐怖政治の検事総長フーキエ・タンヴィルが処刑された。ジロンド派の反乱に参加して亡命していた者が、続々と帰国した。帰国した者は亡命者リストからはずされ、接収された財産は返還された。また、帰国しない者についても大赦令をだした。

この政策で、とくに貿易商人、問屋商人、工業家が多数もとの財産を回復した。財産がすでに横領されたり国家によって使われてしまったばあいには、それに相当する補償金が与えられた。ジロンド派議員イスナールは逃亡潜伏して死んだといわれていたが、国民公会に復帰した。彼の商店と工場にたいする補償として、約一五万リーブルが交付された。

こうして大ブルジョアジーの社会的存在は続いた。決して、恐怖政治によって断絶させられたわけではない。

ただし絶対主義にもどったわけではないから、亡命貴族のほとんどは帰国しなかった。亡命貴族の財産は国有財産としてまだ売りにだされていたが、これを正貨を基準にして売却することにした。もはや、アシニアの価値を維持することはどうでもよくなった。この政策で、国有財産は大財産の所有者でなければ手に入れることができなくなった。

六月に入ると、アシニアの切下げをおこなった。政府自身がアシニアの価値下落を公認したことになり、これでいままでは潜在的に進行していた物価上昇が公然としたものになった。物価は暴騰した。

これをおおまかな数字でとらえてみると、小麦の値段が、一七九三年八月つまり恐怖政治のはじまるころを基準にすると、一七九五年の四月すなわちジェルミナルの暴動のときには約四倍に上っている。しかし、それから半年後の一〇月には三二倍に上り、翌年の一月には三二〇倍へと暴騰している。ジェルミナル暴動のときから、九ヵ月で八〇倍の物価上昇である。猛烈なインフレーションが恐怖政治の終了とともに発生した。

国民公会は、こうしたインフレをおこしながら、国庫と大土地所有者をインフレーションから守ろうとした。

そのため租税と小作料の現物支払を命令し、官吏の給料は物価上昇率に合せて引上げた。こうした政策で、ブルジョアジーと大土地所有者は保護されたが、その犠牲は中間層から以下に伝嫁された。当然、不満暴動がおこるはずであるが、それよりもさきに、ブルジョアジーの側からするジャコバン派への迫害がはげしくなった。各地でジャコバン派の活動家が大量に虐殺された。ジャコバン派への迫害については、平原派議員もジロンド派の生き残りもともに熱心であった。昔商人を非難したという告発だけでも、迫害の対象になった。


大ブルジョアジーの完全支配

こうして、大ブルジョアジーの完全支配がもどって来た。ただし、この大ブルジョアジーは、革命前とまったく同じというわけではなかった。ある者は引き続き上昇し、ある者は革命中、あるいはその後の身の処し方でつまずいたり、脱落した。なにしろ激動の時代である。ブルジョアといえども、本人の才覚によって経営に成功しなければならない。

ペルゴ、ルクツーのような銀行家はますます成功した。ヴァンデル、ディートリックの遺族は工場を取戻し、鉄鋼王として発展した。しかし、大商人ビデルマンの経営は失敗して下り坂になった。その反面、ビデルマンの協力者ジョアノ、オディエ、ダヴィリエは成功し、とくにオディエは大工業家、銀行家となり、ダヴィリエの銀行はオート・バンク(上層銀行)に発展した。ラヴォアジエの財産は未亡人に返還された。彼女は上流階級の人間として残ったが、ラヴォアジエの事業は止まった。

他方、旧来の大ブルジョアと肩を並べるほどに、新興成金が上昇してきた。革命中のどさくさにまぎれて、一攫千金のチャンスを握った者である。政治家ではフーシェ、バラ、タリヤン、メルラン(チォンヴィル出身)、カンバセレスなど多くの者がいる。彼らは、たとえ昔恐怖政治をおこなったとしても、大財産をもち、ブルジョアとして生活をしているかぎり安全であった。そこには割切ったものがあった。

政治家以外にも新興成金が無数に現れた。その最大の者はウヴラールであった。彼は紙工場主から出発して投機で莫大な財産を作り、タリヤン、バラと結びついて軍隊の御用商人となり、最大級のブルジョアになった。

テレザ・カバリュスは、はじめクリヤン夫人となり、バラの愛人となり、つぎにウヴラールの夫人になった。

彼女は美人であり、社交界の花形であったから、「テルミドールの聖母」といわれた。モンタニヤールのデュアムはいった。「作家のいい方を使うなら、つぎのようにいうことができる。すべては、カバリュス夫人の閨房に結びついている。彼女の父は、サン・シャルル銀行の創設者で、われわれの財政を支配し、タリヤンをして、最高の愛国者を攻撃させた。」そのタリヤンが落ち目になり、総裁政府の時代「バラの王」といわれた総裁バラの全盛期には、バラの愛人となった。つぎに最大級の財産家、御用商人ウヴラールへと、割切った転身をつづけた。最大の御用商人と、カバリュスのサン・シャルル銀行の結合である。新興成金と旧来の大銀行の結合の象徴ともいえる。

「カンボンの世紀が終り、ウヴラールの時代がはじまった」

といわれた。カンボンは地方的な中流ブルジョアを代表していて、恐怖政治の財政政策を指導した。これが退陣して、巨大なブルジョアジーが国家を動かす時代になったという意味である。

要約 第六章 フランス革命の終結 三 モンタニヤールの消滅

多くのフランス革命史が、教科書も含めて、テルミドールの変で終わりにしているが、そうではなくて、続きがあるという。テルミドールの事件では、ロベスピエール派議員10名だけが消え去っただけで、モンタニヤール議員約140名はまだ健在であり、公安委員会その他の委員会で今まで通の地位にいた。彼らは今まで通りの権限が振るえるものと期待していた。だから正確に言うと、テルミドールの事件でモンタニヤールが消滅したと書くのは正しくない。ジャコバンクラブは、一度消滅し、すぐ再建され、それから消滅した。それでもモンタニヤールは残っていた。

やがて、平原派からの攻撃が始まる。これを見ると、平原派が「愚図、のろま、臆病、日和見」とぼろくそに言われてきた歴史観は、正しくないように見える。平原派もやるときはやる。まず公安委員会など重要な委員会のメンバーを入れ替えた。また公安委員会の権限を縮小した。これでモンタニヤールは元の野党に戻った。それだけではなくて、ジロンド派議員を呼び戻し、モンタニヤールに対する復讐戦を始めた。その結果、モンタニヤールは全滅した。ただし平原派に転向したものは残った。意外なことに、テロリストと呼ばれたものは残った。彼らは、億万長者になっていた。



25-フランス革命史入門 第六章の二 ロベスピエール派の敗北

 二 ロベスピエール派の敗北


モンタニヤールの分裂

エベール派とダントン派を排除して、公安委員会は当面の危険をさけることができた。この二つの党派と闘い、かつ外敵、ヴァンデー暴動と闘うためには、一致団結してあたらなければならなかった。そのため、内部の対立はまだ小さく、エロー・ド・セシュルが排除されただけであった。公安委員会と保安委員会の多数はモンタニヤール議員であり、さしあたりうまくいっているようにみえた。

ところが、二つの党派を排除した直後から亀裂が入り、公安委員会もモンタニヤールも分裂した。ロベスピエール派と反ロベスピエール派にわかれるが、反ロベスピエール派の方がモンタニヤールの多数を占めるので、これをモンタニヤール主流と名づけよう。公安委員の中ではカルノー、ランデ、二人のプリュール、ジャンボン・サンタンドレである。

保安委員会では、二人の実力者アマール、ヴァディエである。ロベスピエール派は、公安委員会ではサン・ジュスト、クートンを含める三人であり、保安委員会ではル・バと、人数からいえばごく少数派になっている。し

かし少数派とはいえ、これが一時多数派を威圧し、表面的にみると、公安委員会はロベスピエールによって動かされているかのようにみえはじめた。ロベスピエールの権成は大きくなった。

ロベスピエールはダントンとちがって、はなばなしい演説をしない。むしろ、理論的な、本質をつく演説家である。品行方正、清廉潔白で民衆に人気があったが、最高価格制に抵抗し、過激派に正面から敵対し、エベール派の非キリスト教化連動に反対した。自分の主義主張を守って、民衆運動に迎合することはなかった。そのため、ときにはジャコバンクラブで孤立するときもあった。しかし、最終的に彼の判断力と人格が理解され、エベール派を排除したあと、ジャコバンクラブでの人気は絶対的なものになった。

それを背景として公安委員会の中における権威が高まり、カルノーやランデすらも一目おかざるをえないような形になった。そのこと自体が、自由と平等を信念とする他の公安委員にとってみれば、不愉快なものになった。

「独裁者」の非難が投げつけられた理由である。ロベスピエールがこのような権威をもってきた過程をながめてみよう。

彼はアラス高等法院弁護士から三部会議員となり、バスチーユ占領、ヴェルサイユ行進を支持する演説をおこない、選挙問題では普通選挙制を主張した。戦争問題では反戦論を展開した。八月一〇日では、武装蜂起の必要を連盟兵に説いた。ただし、戦闘には参加しなかった。九月二日の虐殺でも、直接運動を指導することはなかった。それにはふれないで、ジロンド派のブリッソが、宮廷や外国と通謀していることを告発した。ジロンド派追放のときには、武蜂起の必要を力説した。

その後、過激派が公安委員会を攻撃しはじめると、彼はむしろこれを弁護する側にまわった。公安委員会に入ってからの彼の主な活躍ぶりは、過激派との闘争にみられる。最高価格側や買占め禁止法は、彼よりもむしろ、他の議員の活躍で成立している。もちろん、彼も恐怖政治の諸方策を推進した一人ではあるが、あくまで、集団の中の一人としての役盟にとどまっている。

彼個人の影響力は、ダントン派とエベール派の排除で大きく発揮された。エベール派のように、職人、労働者の本能的な要求を掲げて公安委員会と国民公会を攻撃してくる党派にたいしては、ロベスピエールのように、本人が清廉潔白で、人民大衆に信頼のある革命家を表面に立てなければ、動揺している民衆をエベール派から引きはなすことがでぎない。ロベスピエールは、エベール派の攻勢から、国民公会と公安委員会を守ってやったのである。

ダントン派にたいする闘いも同じである。ダントンのような伝説的名声をもちながら、極端な腐敗行為をしているものにたいしては、ロベスピエールのように、清廉潔白な革命家を対抗させるのがもっとも有効である。ロベスピエールがダントンの逮捕をしぶったにもかかわらず、国民公会でダントン派議員がさわいだとき、ロベスピエールの発言で押えられてしまった。こうして、ロベスピエール個人の権威は絶対的なほどに高まったが、そのときにまだ、ロベスエール自身の社会的プログラムは、なにひとっ打ちだされていない。これが肝心なところである。


ヴァントゥーズ法

ロベスピエールの社会的プログラムとは、一口にいえば、小市民の共和国である。彼はルソーの信奉者であるが、フランス革命の中で、しだいに小所有者の自由な共和国を理想とするようになった。フランスで最大の金持といえども、三〇〇〇リーブル以上の利子収入をもつことはよくないという。財産の上限を切捨てようというのであるが、これではブルジョアジーを根絶してしまうことになる。

そこで「国民の危険はブルジョアよりくる。ブルジョアに勝っためには人民を結集しなければならない。誰が敵か、悪徳者と金持だ」と書いた。

また、人民と金持の利益が一致することは決してないともいっている。ここではっきりすることは、ロベスピエールの思想が、反ブルジョア的だということである。

サン・ジュストは、最年少の公安委員で、一七九三年にはニ六歳であった。下級貴族・騎士の子で法律を学んだが、国民公会で国王の裁判に活躍して有名になった。ダントンが公安委員会からしりぞけられた後に入り、一七九三年一〇月、東部国境の派遣委員となった。ここで、彼は兵士とともに奮闘をおこないながら、厳格な革命的政策を実行した。累進強制公債を容赦なく徴収し、履行しなかった者をギロチンに縛りつけた。軍需物資を調達するために、金持から物資を調達した。裏切りの告発を受けた将軍を処刑した。

こうしてフランス革命軍の強化に大きな役割を果してパリに帰った。彼の思想は、すべての人間が働き、すべての人間がある一定限度の財産をもつように、最高限と最低限を決めるべきだというものである。すべての人間が小土地所有者となり、職人、公務員以外の者は土地を耕さなければならないともいう。銀行や船舶の私有は禁止し、金、銀は貨幣以外に使うべきではないともいう。これが彼の理想社会である。農業を標準とした小市民の共和国で、ぜいたくと腐敗堕落を排除する理想国家というべきであろう。

このような理想国家をフランスに作ろうとする計画が、ヴァントゥーズ法として提案され、国民公会で可決された。一七九四年ニ月ニ六日のことであった。これによると、反革命容疑者の財産を没収し、これを貧しい人の

ために無償で分配することになっていた。財産の中心は土地であり、反革命容疑者とは大財産の所有者であったから、ブルジョアジーの絶滅を意味していた。

「もし諸君が、すべての反逆者から土地を取上げるならば、諸君は一個の革命をおこなったというべきであろう」。

このヴァントゥーズ法は大きな反響をよびおこし、パリをはじめ各地のサンキュロットの集会から称賛、祝福の声が集まった。ナンシーの人民協会は、国民公会にあてて請願を送った。

「反革命容疑者の財産をただちにサンキュロットの手に渡すために、反革命容疑者の裁判をできるだけ早くおこなうように」。

このヴァントゥーズ法が、エベール派の武装蜂起計画の最中に決定された意味を考える必要がある。この法令にサンキュロットが熱中し、国民公会がこれを実行してくれるという期待をもった瞬間、彼らはエベール派の企画する食料暴動から身を引いていったのである。ヴァントゥーズ法は、エベール派から民衆を引きはなす効果をもったのである。

三月一三日エベール派を逮捕したとき、「外国人徒党についての報告」の中で、サン・ジュストは、反革命容疑者の裁判をおこなうために人民委員会をもうけ、これを公安委員会と保安委員会が援助するものと規定した。

反革命容疑者については、「市民を腐敗させようと共謀し、革命政府を転覆しようとし、パリに食料が届くのを妨げ、不安を拡大し、亡命貴族をかくまい、人民と自由を圧殺するためにパリに武器をもちこんだ者」と規定した。

この中での食料についての規定は、エべール派の行動を指している。ここでのサン・ジュストの報告は、二重の性格をもっていた。彼の理想論としての社会改革論と、エべール派断罪とを絡み合せたものである。それは、エベール派逮捕の衝撃で、エベール派を支持してきた貧民達が国民公会にたいして立ち上るかもしれないので、国民公会の改革案を示すことによって騒動を未然に防止する役目である。この報告がタンプル区の総会で読まれたとき、「陰謀家」の文章がでてくると、人々が「それはエべールだ、ならず者め」といった。そこに、エベール派への対策としての効果が見られる。


土地革命への接近

ロベスピエール派の社会政策は、これを機会に急速に前進した。四月一五日、サン・ジュストは「一般警察、裁判、商業、立法、徒党の犯罪についての報告」をおこなった。ここで、人民委員会は五月四日までに設立されること、公安委員会の中に一般警察局を組織し、これが公務員と行政機関を監視し、公務員の行動を調査して、陰謀、権力濫用を摘発し、革命裁判所に引渡す権限をもつものと定めた。

この一般警察局は保安委員会とは別に、特別警察となり、ロベスピエール、サン・ジェスト、クートンの三人が牛耳った。これが活動をはじめると、腐敗、汚職をしている官吏や不正取引をして利益をあげた商人、銀行家、工業家が摘発され、革命裁判所に引渡されることになる。有罪と決まれば、その財産が没収されて、貧民に与え

られる。当時多くの議員が腐敗し、多くのブルジョアがこれと結託をしていたから、この法律が厳正に実行されるならば、ロベスピエール、サン・ジュストの社会的プログラムの実現にむかって進むはずであった。

もしこれが実行されるならば、まさに反ブルジョア的革命の第一歩が出現することになる。また、土地間題からみるならば、土地革命と呼ばれるべきものが出現することになる。

それ以前の僧侶財産と亡命貴族財産の没収、売却は、所有権の移転は実現したが、土地革命といえるような事態を作らなかった。あくまで競売に付したので、大財産家が大規模な土地を手に入れ、貧民はこれを買入れる能力がなかった。

一七九三年九月一三日、恐怖政治の一環として、貧民に五〇〇リーブルの証券を与え、土地買受けに参加する機会を与えたが、現実には、貧民が土地を手に入れることはできなかった。貧民を土地所有者にするためには、無料で土地を与えなければならなかった。

そこで、土地所有の階層別分布は、ほとんど変化がなかったとみてよい。ロベスピエール派の計画が、はじめてこれを一転させようとしたのである。この法令と並行して、保安委員会の官吏エロンが、ロベスピエールと協力して

多くの銀行家を反革命罪で告発し、逮捕させた。ロベスピエール派は、エロンの功績を高く評価していた。こうした現実と、サン・ジュストの法律が結びつけば、一大社会改革となるはずであった。


反対派の抵抗

急ピッチに進んでいく口ベスピエール派の社会政策について、公安委員会の多数や保安委員会、あるいは国民

公会の多数は、心から賛成したのであろうか。彼らのほとんどがブルジョアジーの代表者である以上、本気でこ

のような政策を実行するつもりはなかった。食料担当のランデは、エロンの告発で逮捕された銀行家をかばって

釈放させ、ロベスピエールと対立した。

保安委員会のアマール、ヴァディエは、一般警察局が保安委員会の権限を横取りしたことに不満をいだいた。

しかも、逮捕する者と釈放する者が逆になったばあいが多かった。この対立が尖鋭化して、ついに全面的対決となり、テルミドールの反革命へつながるのである。

さしあたり、エベール派の脅威を受けている間は、国民公会も公安、保安両委員の多数も、ヴァントゥーズ法に賛成した。これを本気で実行する気はないが、エベール派から貧民大衆を切りはなすための公約と解釈したのである。エべール派の脅成が去ると、そろそろその法令を無効にしたいと考えだした。ただ依然としてエベール派の基盤となりうる貧民大衆がパリにあふれ、さらにロベスピエールを支持するジャコバンクラブの力が強大である。そこで、真向から彼らの社会政策に反対することはできない。そこで、これに賛成しながら、実施を引きのばし、別にもっと穏健な改革案を発表することによって、ロベスピエール派の政策をうやむやにしてしまおうと考えた。

三月四日、ダントン派のメルラン(チオンヴィル出身)、チュリオなどが、貧民を救済するために五〇万リーブルをあて、これを内務大臣の使用にまかせることを国民公会に可決させた。これはヴァントゥーズ法にかわる貧民の一時的救済政策であった。五月一一日、バレールが「まだ売られていない国有財産」の状態を調査し、これを貧民にたいして救貧の意味で分配するという法案を可決させた。これならば、僧侶の土地と亡命貴族の土地の売れ残ったものを無料で分配するのであるから、ブルジョアジーにたいする打撃にはならない。ヴァントゥーズ法を、こちらの方向にすりかえようというのである。また、労働のできない貧困者のためには、国家から仕事場を与えることを提案した。

この年の三月から四月、とくに極貧層の男女が乞食になって町角にあふれ、彼らの中から、旧体制をなつかしむ声がでてきた。また、ラファイエットを口にする者が多くなった。貧民にたいして革命政府がなにもしなければ、彼らを反革命的集団にしてしまう可能性があり、乞食の間題は、政府にとって重大なものになった。このような状態のうえに、ロベスピエール派の政策と、チュリオやバレールの政策が打ちだされたのである。

それにしても、ロベスビエール派は本気で貧民を土地所有者にして社会正義を実現しようとした。これにたいして、反ロベスピエール派は、ヴァントゥーズ法を一時的な口約束と理解した。そこで一応賛成しておいたが意外に相手が本気でやり抜くかまえをみせたので、それにブレーキをかけながら、別な政治的譲歩の手段を打ちだしたのである。ヴァントゥーズ法にたいする抵抗は、とくに腐敗議員の一団から強力に行われた。彼らの取引相手の銀行家や商人が、まっ先に反革命容疑者とされる可能性があったからである。

その一例は、五月二二日、一般警察局が、ロベスピエールの命令でテレザ・カバリュスを逮捕したことである。スペイン人銀行家カバリュスの娘で、ボルドーへの派遣委員で、テロリストのタリヤンと結婚した。カバリュスは、革命権力に接近しながら大もうけをした。こうした人物を、ロベスピエールが反革命容疑者とみなした。当然タリヤンは、ロベスピエール打倒の側にまわる。そのタリヤンですら、一応ヴァントウーズ法に賛成はしたのである。こうした状態であるから、腐敗議員の抵抗を排除する必要があった。

このために「プレリアル法」がクートンによって提案された。六月一〇日のことである。これは「人民の敵を死刑にする」というが、人民の敵の中に、腐敗した者までも含め、国民公会議員にたいする例外を認めず、被告に弁護人をつける必要もなく、公安委員会の判断で革命裁判所に引きたすことができるというものであった。

公安委員会とはいうものの、実際はロベスピエール派の三人がにぎる一般警察局である。これについて、身にやましいところのある議員は大きな恐怖を感じた。弁護人もなく、いきなり過去の腐敗、汚職、公金横領の罪状を洗いたてられ、たちまち革命裁判所にひきだされ、処刑され、財産は貧民に分配されてしまう。ここで多くの議員が反対した。しかしまだ、ロベスピエールの力は強かった。国民公会はこの法案を可決させられた。しかし、ロベスピエールへの恐怖と反感がひそかに高まった。


戦勝とロベスピエール派の孤立

ちょうどこのころ、戦線では全面的にフランス軍の優勢が示された。正規軍と義勇兵の区別がなくなり、貴族将校のあとを平民出身の将校が埋めた。彼らは能力もあり勇敢でもあり、下士官兵士からでてきたので、兵士の苦労がわかり、信頼を得ていた。暴利をむさぼった御用商人が粛清されて、軍隊の装備がよくなった。公安委員会の振興した重工業が、フル回転をはじめ、武器弾薬がふんだんに供給された。陸軍に関しては、ヨーロッパ最強の軍隊に生れ変った。イギリスに押されぎみの海軍にしても、ブレスト軍港で軍艦の増産が進められた。

こうしたフランス軍の強化が、まずフルーリュスの戦勝となってみのった。六月二六日、ベルギー領のフルーリュスで、フランス革命軍は激戦の末オーストリアの大軍を破った。その前後から、すべての戦線から、あいつぐ戦勝の報道が入ってきた。七月八日、ブリュッセルを占領した。もはやフランス共和国は安泰となり、戦争はすべて国境の外でおこなわれ、順調に征服戦争がすすみつつあった。

国民公会が戦勝の報告にわきたっているとき、ロベスピエールの立場は悪くなっていた。ジャコバンクラブで、彼は公安委員会の中で無力になったと打ちあけた。七月一日、ジャコバンクラブで絶望的なことをいった。

「私はやむをえず自分のもっている官職から辞任したとしても、まだ人民の代表という資格が残っている。だから私は、暴君や陰謀家と死闘を演じるつもりである」。

この二日後に、彼は公安委員会に出席しなくなった。これは驚くべき変化であった。

その約一カ月前の六月四日には、満場一致で国民公会議長に選ばれ、六月八日には、「最高存在」の大祭典を彼が司会したのである。このときは、平原派議員の多くまでが、ロベスピエールの「最高存在」の哲学にたいして称讃の言葉を送った。突如として現われた「最高存在」の理念は、非キリスト教化運動の行きすぎを是正しながら、カトリック教会を廃止したあとにかわる、新しい宗教的規範として打ちだされたものである。

なんといっても、宗教心を国民全体から取り払うことはむずかしかった。それではカトリック教会を復活させるかといえば、僧侶のほとんどは反革命であった。そこで、自然と神を融合した「最高存在」を仮定し、これが道徳的原理を教えるという形で、新しい国家的宗教を作ろうとして、絶大な支持を集めたのである。ところがその一カ月後に、彼はまったく無力な存在になったという。

この突然の孤立は、二つの大きな理由から起こった。ロベスピエールの反ブルジョア的政策が本気のものであることを、国民公会の多数が知ったことである。それまでのロベスピエールは、過激派やエベール派から国民公会を守ってくれる存在でもあった。だから、平原派は、それなりにロベスピエールを評価していた。これが、一変したのである。もうひとつは、戦勝がつづいて国境が安泰になったことである。もはや、ブルジョアジーにとって、譲歩の政策は不要となった。恐怖政治の政策は廃止してしまいたい。そのときに、ロベスピエールは、ブルジョア絶滅の政策を打ち出した。これでは対決はさけられない。


反ロベスピエールの陰謀

ロベスピエールが公安委員会を去ってから約一カ月の間、ロベスピエール派と反ロベスビエール派との武力対決が静かに準備された。ロベスピエールはジャコバンクラブを固めることに専念し、ここから反対派を除いた。

貴族出身の軍事委員デュボア・ド・クランセ、僧侶出身のテロリストで新興成金になったフーシェを除名した。

また、パリコミューンを自派で固めた。彼を支持するペイヤンは、パリコミューンに諸区の革命委員を召集した。こうして、新しい武装蜂起の計画が進められた。

反対派は、ロベスピエールのいないことを利用して一連の政策を実施した。すでに人民委員会の組織をできるだけ遅らせ、六つのうち二つしか作らせなかったが、ロベスピエールが去った翌日、この人民委員会を公安委員会の統下におき、反革命容疑者の選別について、厳重な報告を要求した。また、反革命容疑者の財産差押えを延期した。

七月九日、保安委員会のヴァディエは、地方で投獄されている反革命容疑者のうち、耕作者、自作農、専門の職人などを仮釈放する法令を可決させた。これはプレリアル法と矛盾するもので、反革命容疑者の釈放を、保安委員会が公安委員会の一般警察局を無視して釈放できることになった。この法令にたいして、ロベスピエールは、貴族を耕作者といいかえることによって、反革命容疑者を助けようとするものであると批判した。

対決の時期が迫ると、公安委員会、保安委員会の主流は腐敗議員の一団と組んで、平原派議員の獲得に必死の奔走をはじめた。腐敗議員がもっとも戦闘的であった。タリヤン、フーシェ、バラ、メルラン、フレロンなどで、彼らは、ロベスピエールが勝てばまっ先に粛清されるはずであった。とくにタリヤンは、妻のテレザ・カバリュスが革命裁判所に引きだされることになったので、死にもの狂いになった。

彼らは、平原派の実力議員シエース、ボワシ・ダングラ、デュラン・マイヤンヌなどに頼みこみ、ロベスピエールを倒せば恐怖政治を中止すると約束して、支持をとり付けた。公安委員のカルノーは、ロベスピエールの影響下にあったパリ砲兵隊を地方に移転させた。七月末になると、両陣営とも、武装して護衛付きでひんぱんに会合を重ねた。

七月二六日、ロベスピエールは国民議会で大演説をおこない、政敵を徹底的に攻撃した。彼はまだ、平原派議員が彼の主張を聞いてくれると思ったのである。このときになると、彼はモンタニヤールを信頼しなくなり、かえって平原派議員をあてにしたのである。これは誤算であった。ただし、彼があてにしたのも無理からぬところもある。

ロベスピエールは、エベール派の圧力から平原派を守り、ジロンド派議員の裁判をエベール派が要求したときにも、公然と反対して、六七人のジロンド派議員の命を助けた。平原派の実力者デュラン・マイヤンヌは、手紙を出してロベスピエールに感謝した。ボワシ・ダングラも、「最高存在」の祭典について、ロベスピエールを文明と道徳のオルフェにたとえてほめた。彼ら平原派議員がロベスピエール派の政策に恐れをいだいて、腐敗議員と結んだことは、ロベスピエールの気づかないことであった。


テルミドールの反革命

七月二六日の大演説で、彼はタリヤン、フーシェなどテロリストの恐怖政治のいきすぎと、腐敗、横領、ダントン派議員の汚職、公安委員のカルノーが貴族軍人を保護していること、保安委員会が反革命容疑者を保護していることなどを、洗いざらいとりあげた。そのうえ、財政委員会のカンボンの財政政策を徹底的に批判した。財政委員会が貧困な人民を冷遇し、貴族主義者を保護する投機業者であり、反革命者であるといった。

ここで、ロベスピエールの非難は、公安、保安、財政の三大委員会すべてにたいする攻撃になった。この演説は国民公会にたいして強烈な影響を与えた。この演説を印刷して、市町村に送ることが一度は可決された。そのときまで、まだロベスピエールの力が国民公会を圧していた。

突然、名指しで批判された財政委員会のカンボンが、ロベスピエールにたいして激しく反論した。カンボンもこの対決を覚悟していて、その夜、父親にたいして「明日ロベスピエールか私か、そのどちらかが死ぬだろう」と書いたほどである。カンボンはロベスピエールを独裁者と批判した。これに続いて、反対派の議員がつぎつぎ立って口ベスピエールを批判した。演説を市町村に送る案は、逆転して否決された。

国民公会で敗北すると、ロベスピエールはジャコバンクラブにかけつけて同じ演説を読上げ、大喝采をうけた。

ビョー.ヴァレンヌ、コロー・デルボアが反論しようとしたが、「ギロチンへ!」との叫び声をうけて退場させられた。革命裁判所議長デュマは、「政府は反革命だ」と宣言した。パリコミューンとの間に同盟が成立し、武装蜂起の宣言がおこなわれた。反対派も武力の集結に奔走した。カンボンは、騎兵隊の指揮官エスマールを味方にひき入れた。

翌日の七月二七日(テルミドール九日)、ロベスピエール、サン・ジュストの発言は妨害され、「暴君を打倒せよ!」の叫び声の中で逮捕が可決された。これをテルミドールの反革命という。ロベスピエール派の国民衛兵司令官アンリオーの解任が決議され、後任にエスマールが任命された。アンリオーは少数の兵士を連れて口ベスピエール救出に乗りこみ、逆に逮捕された。革命裁判所副議長コッファナルが砲兵隊を率いて進み、アンリオーとロベスピエール派議員を奪回し、パリコミューン議事堂に集まった。

こうして、国民公会とパリコミューンの全面的対決になった。両派は軍隊を集めたが、ロベスピール派の側には予想通りの軍隊が集まらなかった。レオナール。ブルドンが二五〇〇人の小銃隊を集めてきた。彼の指揮のもとに、国民公会側の軍隊がパリコミューンを急襲し、ロベスピエールは自殺未遂のまま逮捕され、ル・バは。ピストル自殺した。その翌日、ロベスピエール派約一〇〇人が処刑された。


ロベスピエール敗北の理由

ロベスピエール派は、対決になると意外に弱かった。なぜ弱かったかといえば、これを支持する階層が思ったより少なく、孤立していたからである。彼らの政策は、徹底して反ブルジョア的であった。そのため、貴族はもとよりブルジョアジー全体を敵にまわした。農村では、中農以上を敵にまわすことになる。

それでは、それ以下の大衆を、貧民にいたるまで全て味方にしたかというとそうではない。ロベスピエール派は労働運動の抑圧に熱心であり、貧民の本能的な要求にたいしては、頑固な反対派であり、その抑圧の先頭に立った。エべール派の排除からテルミドール事件の日まで、パリで多くの労働運動が盛り上った。労働者や職人の最高賃金制反対のストライキ、肉の買占めに反対する婦人運動などであった。これらの運動にたいして、パリコミューンも公安委員会も、反革命運動として弾圧をおこない、ストライキをおこした労働者は逮捕された。

パリの貧民と労働者からみれば、最高賃金の責任がロベスピエール派にあると思われた。事実、ロベスピエール派が処刑されるときに、労働者が「最高賃金制のちくしようめ」という叫び声で見送った。最高賃金制は、公安委員会のバレールの指導下で七月二三日改正され、これが従来よりも賃下げになった。だから、必ずしも口ベスピエール派の責任ではなかった。しかし、ロベスピエール派も労働運動にたいしてきびしい立場をとっていたから職人、労働者にとっては、ロベスピエール派が没落すれば、あるいは賃上げが実現するのではないかと思ったのである。

ブルジョアジーと下層民を敵にしたロベスピエール派とは、どのような階層を支持者にしていたのだろうか。それは、手工業者の親方層、小工業の経営者、小商人、文筆家、医者、芸術家、自由業者など、いわば中間層といえる階層であった。彼らはブルショアジーにたいしても敵意をもつが、少数の職人、労働者を使うために、最高賃金制も必要とする。ロベスピエールとともに死んだ者の職業をみると、そのような性格が示されている。それだけに、彼らはブルジョアジーと貧民のはさみ打ちに会ったのである。

それにしても、彼らはパリで強力な武装集団を作り、国民公会への圧力になっていた。軍隊のほとんどが国境外にいたことも、彼らの力を相対的に強くした。そのうえ、当時の軍事技術の水準では、彼らが武器をもてば、正現の軍隊と市街戦で互角に戦える。国民公会がロベスピエールをおそれていたのは、そうした事情のもとにあったからである。

要約 第六章フランス革命の終結 二 ロベスピエール派の敗北

ここがフランス革命のもっともわかりにくいところであり、私も学生時代、いろいろと読んだけれども、納得のいくものに出会ったことはない。ヴァントゥーズ法までは書く人が出てきたが、その先がはっきりしない。この法案は、「反革命容疑者の財産を没収して、貧しい愛国者に無料で与える」というものであった。これがジャコバンクラブで歓迎され、国民公会で満場一致で可決された。この時、ロベスピエール派の人気は絶頂にまで高まった。そのおかげで、エベール派の人気に陰りが出てきた。食料不足ばかりを批判し、反乱に持っていこうとしたからである。

エベール派の脅威が消滅した途端に、ヴァントゥーズ法の実行に対して、熱意の差が生まれた。「さあいよいよ」という人と、「もうしなくても良いのでは」という意見の差になった。この差が大きくなるための外部条件もある。それは相次ぐ戦勝であった。国境は安泰となり、兵士が帰還し、首都の警備もジャコバンクラブに頼らなくてもよくなるという見通しであった。元々この問題があったので、ロベスピエールの公安委員会入りが実現した。この問題が消えていくと、清廉潔白なロベスピエールは迷惑な存在になる。このように説明するとわかってもらえるだろうか。 

ところがロベスピエール派はさらに突き進んだ。一般警察局を別組織として作り、保安委員会と敵対した。(これが説明のしにくいものであり、例えば、今の東京地検特捜部を独立させて、首相直属にするというようなもの)。また財産の無料分配のために人民委員会を作り、受取人の名簿を作るとした。この作業を公安委員会の多数派がサボタージュで妨害した。こういう暗闘の末についに敗北した。

この事件で、私は重要な世界史上の理論に言及したい。『フランス革命で、農民に土地を与えた』という理論は、普遍的な心理として、教科書にも書かれてきた。しかし、「土地を与える」という法令は、ヴァントゥーズ法が初めてであり、それまでは競売であった。この法案の実行に反対して強力に対立したカンボン(財政委員会議長)は、無料にすると、財政破綻になるといって反対した。最後にカンボンが勝ったのであるから、フランス革命で土地が無料で与えられたことはないのである。つまりロベスピエール派の敗北から、「フランス革命に土地革命はなかった」という結論が導き出されるべきである。これを私は繰り返し書いている。その結果、むかし「土地制度史学会」という東大経済学部中心の学会が大勢力を持っていたが、今は消滅している。この学会の根拠は、「フランス革命では土地革命があった。では我が国はどうか」という基本姿勢がよりどころであった。しかし、「フランス革命でも、土地をタダでという政策はなかった」となると、学界の論争は根拠なしになる。・こういう重大な問題を含んでいる。日本だけではなく、アメリカ、イギリスの市民革命を論じる時も同じことが起こる。


24-フランス革命史入門 第六章の一 ダントン派とエベール派の没落

第六章 フランス革命の終結


一 ダントン派とエベール派の没落


革命政権の腐敗

歴史の表面だけをながめると、フランス革命の政争は理念と理念の闘争にみえる。恐怖政治の時期では、自由、平等、友愛、サンキュロット主義、祖国愛が高く掲げられ、革命家は情熱と献身をもって生きぬいたように思える。

すべての革命家が理想を説いた。しかし、一歩裏にまわると、革命を利用して私腹を把やした。理想を語り、反革命との命がけの闘争をおこなったからといって、その人が清廉潔白のまま身を処していくとはかぎらない。

アナトール・フランスの小説に『神々は渇く』というのがある。ここで扱われているのは、革命家達が、欲望に渇いた狼のように財産、地位、女にむかって突進した姿である。これを読むと、革命に悪意をもっているのではないかと思うほどであるが、そこに書かれている姿は意外に事実を反映しているのである。

革命権力に入りこんだ者は、多かれ少なかれ腐敗した。ロペスピエールが「腐敗しない人」と呼ばれ、プリュール(マルヌ出身)が「清廉の士」と呼ばれて尊敬されたのは、それだけ、腐敗しない人が稀少価値をもっていたからである。

一連の革命的政策は、たしかに革命フランスの危機を救った。それは無条件で認めなければならない。ただ、それが文字通り正義の方面ばかりに動いていたというわけではない。革命的政策を逆用して私腹をこやした人間は無数であり、一年すぎてみると、得体の知れない新興成金が雨後のたけのこのごとく現われたのである。

強制徴発に出かけて必要以上の牛を殺し、これを投機業者に売ったり、商人から最高価格で取上げた品物をヤミ価格で転売してもうけたり、亡命貴族やジロンド派系の商人の財産を没収して、倉庫に入れておきながら、その品物を横領した者もいた。

ジロンド派系の商人を捕えて親族からわいろを受取り、釈放した派遣委員や行政官がいた。有名な革命家が、同じような方法で財産を蓄えた。エベールは、一〇〇万リープル以上を手に人れた。ショーメット(靴屋の息子で、パリコミューンの検事になる)や保安委員のバジール、シャボも腐敗汚職で有名になり、財産を蓄えた。九月二日の虐殺に活躍したセルジャンとパニは、獄中で殺された者の宝石を奪い、総徴税請負人や特権会社の理事がもっていた有価証券を手に入れた。

八月一〇日の英雖ダントンは、英雄的行為をしていたときでも宮廷から金をもらい、亡命貴族を保護してやり、御用商人デスパニヤックと結びついてたちまちのうちに巨大な財産をつくった。成功すると、一六歳の娘を妻に迎えた。しかもこの娘は王党派系であったという。

トップがこれであるから、ダントン派議員はとくに腐敗議員の集合体であった。御用商人に転身したファーブル・デグランチーヌ、肉屋あがりの新興成金ルジャンドルなど、彼らは革命政策を利用して、一攫千金のチャンスにありついた。

大砲で反革命容疑者を撃ち殺した派遣委員フーシェは、同時に反革命容疑者の財産を徹底的に横領し、フランス有数の大財産家になった。その財産を基礎に、ナポレオン時代にはオトラント公爵になる。

派遣委員としてトイツ軍と勇敢に闘い、ドイツ側から「火の悪魔」と呼ばれたメルラン(チオンヴィル出身)は、大御用商人ランシェールと結託して大規模な土地を手に入れた。やがて、国民公会で、友人にたいしてその土地で鹿を追いまわすことを自慢するようになった。このように、有名な革命家の多くが、私腹をこやすことでもまた能力を示したのである。


ダントン派の寛大政策

ダントン派は、モンクニヤールから平原派にかけて、ダントンのまわりに集まって来た議員でつくられていた。実業家議員と呼ばれるほど営利的な行為が目だっていた。ダントンが公安委員から除かれて以後、御用商人デスパニヤックの不正取引が追及され、その契約が国民公会によって破棄された。それでもまだ、派遣委員のジュリアン(ツールーズ出身)に保護されていたから安全であった。そのジュリアンが九月、保安委員会から追放されると、デスパニヤックが逮捕された。ジュリアンもダントン派である。

他方でインド会社事件がおこった。これは、革命中の最大の疑獄事件である。特権会社インド会社は、特権を奪われたとはいえ莫大な資産をもっていた。その株が高値を維持していたので、アシニアの価値下落を気にしていた財政委員会のカンボンはインド会社を目の敵にしていた。

ジロンド派追放以後、インド会社の立場が危うくなると、ダントン派義ーのシャボ、バジール、ドローネ、ジュリアンが共謀し、複雑な汚職事件を仕組んだ。彼らは先手を打ってインド会社を告発、インド会社の清算委員に入りこんだ。そのつぎに、インド会社理事と裏で交渉して、有利な清算条件を作る代償としてわいろをとった。そのかたわら、バッツ男爵、銀行家ブノワと組んで、インド会社の株を買叩き、大もうけをたくらんだ。バッツ男爵は革命前の宮廷貴族、財界の世話役、国王と王妃の救出作戦をおこなった王党派の活動家である。極端な王党派と極端な革命家とが結合している姿である。

これに、ダントンのスポークスマンのような立場にあったファーブル・デグランチーヌが加わった。こうして、インド会社清算委員会は、委員六人のうち、カンボンとラメルを除く四人がインド会社ぐるみの陰謀に加担した。その結果、一時会社に有利な清算条件が作られたが、内輸もめから、一一月に入って疑獄事件として露見した。

ドローネ、シャボ、バジールが逮捕された。ただし、ジュリアンは黒慕のバッツ男爵、ブノワとともに逃亡に成功した。この疑獄事件の審理が進むにつれて、ダントンやファーブル・デグランチーヌの身辺が危険になってきた。

彼らは、早急に恐怖政治を撤廃させる必要に迫られた。その第一歩として、最高価格制の廃止を要求し、エベール派の叩ぎ落しをはかった。一七九三年一二月五日、カーミュ・デムーランは新聞『コルドリエクラブの老兵士』を発行して、徴発政策のいきすぎや、革命軍の盗賊行為を非難し、恐怖政治の廃止、エベール派の排除を宣

伝し、公安委員会の改選を要求した。その影響により、一二月一七日、エベール派のロンサン、ヴァンサン、マイヤールが逮捕された。


エべール派の極端政策

ダントン派から目の敵にされたエベール派は、恐怖政治を極限にまで押しすすめようとする傾向を示した。彼らを支持した貧民の本能的な要求が、それに一致したからである。エベールは、「商人には祖国がない」とか「大商人から小商人にいたるまですべてが買占め人である」から、彼らにギロチソを発動せよと主張していた。

エベール派の活動家は、買占め摘発の運動に熱心であった。ダントン派議員のロヴェールが酒類を買占めていたエベール派の検査官、デュクロケが摘発したこともある。こうして、両者は敵対関係に入った。

エベール派は、九月五日の事件で国民公会に恐怖政治を押しつけて以来、つねに一歩過激な政策をうちだして、政府に圧力をかけていた。王妃とジロンド派の処刑にも、エべール派の圧力が大きく作用した。その後、旧体制の裁判官、検事、弁護士を反輩命容疑者にせよと要求した。

食料事情が好転して貧民の経済要求がおさまると、非キリスト教化の大衆運動をまきおこした。僧侶財産の国有化は、カトリックの教会にたいする攻撃の第一歩であったか、まだ信仰そのものは尊重され、僧侶にたいしては国家から俸給が支払われていた。しかし、戦争と革命が激しくなるにつれて、宗教そのものにたいする攻撃が盛んになった。すでに一七九二年九月、教会の銀器を徴発したが、一七九三年七月二二日、教会の鐘を徴収し、これを大砲に作り変えることが命令された。

こうして、宗教心の低下を国民公会がすすめた。この年の九月一八日、僧侶の俸給はさらに引下げられた。もはや僧侶は官吏ではないと、財政委員会のカンボンがいった。

キリスト教そのものにたいする否定をまっ先におこなったのは、僧侶出身の派遣委員であり、彼は派遣先で宗教上の祭りに代るものとして共和祭をおこなった。エべール派はこの動きに乗って、キリスト教の否定と唯物論的思想を極限にまですすめようとした。一一月六日エベール、ショーメット、モモロ、クローツ、レオナール・ブルドン、ペレーラがパリ司教ゴベルに面会し、僧侶の職を辞職して寺院を閉鎖することを迫った。

このため、パリ司教は、パリコミューンと国民公会に僧職の辞退を申し出て、十字架をはずし、赤帽子をかぶった。これが非キリスト教化運動のはじまりである。パリコミューンはこの運動を全国に広めた。各地の立憲僧が僧職を辞退し、それとともに寺院の破壊、略奪がまきおこった。この運動は、異常ともいえるほどの熱狂の中でおこなわれた。

僧侶とキリスト教を否定したあとに、理性の崇拝が置きかえられた。一一月一〇日、パリコミューンはノートル・ダム寺院を「理性の神殿」と命名して、「自由と理性の祭典」がおこなわれた。神にかわるものは三色旗を着た女優であった。新しい神「理性」の前にはあらゆる宗教が姿を消さねばならぬというわけで、プロテスタントも解散させられた。宗教的儀式は禁止され、葬式からも僧侶が排除され、赤帽子の官吏が儀式をおこない、遺体に三色旗をかぶせることにした。

一一月一一日、国民公会では僧侶の俸給全廃論がとりあげられ、キリスト教徒と国家の分離が討論された。その一環として、一一月二四日、従来のグレゴリウス暦にかわるものとして「革命暦」を公布した。二月から三月にかけては風が強く吹くので「風の月」(ヴァントゥーズ)、七月から八月にかけては熱いので「熱月」(テルミドール)などと呼んだ。

それにしても、この理性崇拝、非キリスト教化運動は爆発的に盛り上ったので、公安委員会、保安委員会も不安を感じながら、しばらくは静観していた。まだまだ宗教心が根強くのこっているのに、宗教を捨てることを大衆に強制するのは、宗教的反乱を招く。ただでさえ内外の敵にかこまれているのである。これ以上敵をふやすことは、革命政権を危うくすると心配したのである。


エべール派は人民の前衛か

エべール派の極端な運動をどのように評価するかも、フランス革命の解釈の中で重要な位置を占める。ある人はこれを人民運動の前衛といい、そこに後年のプロレタリア革命の原形をみる。そこまでいかなくても、エベール派を、方法は過激にすぎたが、とにかく公安委員会よりは革命的であり、公安委員会よりも左翼であると解釈する。

しかし、エベール派には裏面があった。その裏面をみるならば、人民の前衛ではなくて、ブルジョアジーの一分派であることが理解できる。もちろん、エベール派はサンキュロット、とくにもっとも貧しい人民の中に強い支持をもっていた。それだけに、貧民の本能的な要求を、生の形で政治的スローガンに掲げ、大衆運動をまきおこした。そのかぎり、人民運動の前衛とみえる。

ところが、目を一歩転じて、エベールを取りまく指導者集団をみるならば、サンキュロットとほど遠い一群の上層ブルジョアがめだつのである。しかも、外国人銀行家が多い。

非キリスト教化運動をすすめたクローツは、国民公会の議員でもあったが、もともとプロシアの貴族で、大船主で、国際的な大財産家であった。莫大な資金力で国民公会の有力者となり、ジロンド派政権のときに、占領地の合併、征服戦争の拡大をめざして奮闘した。世界共和国の主張を宣伝し、無神論を説いてまわった。ロベスピエールがクローツの意図を疑い、クローツを弾劾し、のちにジャコバンクラブから除名させた。こうして、彼は

一二月二八日に逮捕されることになる。

エベール派にプロリという銀行家がいた。プロリはオーストリアの貴族で、パリに銀行を作っていた。戦争のはじまったころ、『世界主義』という新聞を発行して、一種の世界革命運動を宣伝していた。公安委員のエロー・ド・セシェルは、プロリを秘書に使うほど信用していた。マラも、プロリを「国民が耳をかたむけるべき人民の友」とほめた。しかし、このころになると、プロリは各区で毎晩集会がおこなわれている「人民協会」を作り、この人民協会を中央委員会にまとめて、これを指導した。そして、人民協会中央委員会の請願運動によってパリの非キリスト教化運動がまきおこされた。ロベスピエールはプロリのことを、革命的共和主義婦人クラブを裏で指導している「見えざる妖精」だと非難した。

コックはオランダ人銀行家であり、エベールと同じ区に事務所をもっていた。エベールや革命軍司令官のロンサン、そのほかエべール派の指導者が、彼の家や別荘に出入し、ぜいたくな食事を取り、宴会を開いていた。

ペレーラは、ボルドーに住むユダヤ系ポルトガル人の宝石商人であり、パリでタバコ工場を経営していた。彼も非キリスト教化運動の推進者であった。

デフューはボルドーから来たブドウ酒商人で、ジャコバンクラブ通信委員会議長にもなり、エベール派の出資者でもあった。しかし、彼も王党派のバッツ男爵をかくまい、インド会社事件の黒慕にもなった。デフューを除けば外国人銀行家が多いので、エベール派の行動が、「外国人銀行家の陰謀」と呼ばれたほどである。ここにエベール派の本質があった。

彼ら外国人銀行家は、外国から貴金属を持ちこみ、これでアシニアを買い叩き、アシニアを集めて国有財産を買込み、これを転売して巨利を得ていた。ところが、国民公会の政策でそれが止められ、そのうえ交戦国国民の財産没収がおこなわれたので、窮地にたった。彼ら外国人銀行家は、公安委員会を敵視し、さらには国民公会そのものをも敵と考えるようになった。そこで、貧民の運動を煽動して、これを国民公会に対立させ、革命権力そのものをほうむり去ろうとしたのである。ここにエベール派の本質があった。


エべール派の粛清

まず外国人銀行家が先に逮捕された。クローツ、プロリ、デフューが年末までに逮捕された。コックは翌年の三月一四日、エベール派とともに逮捕されたが、仲間が先に捕えられたことがエベール派の危機感を高め、反乱の計画を早めさせた。

ちょうど、反乱がうまくいくのではないかと思われるような情勢が出現した。一七九三年の末までは、食料事情は一応落着いていた。ところが、一七九四年に入ると、今度は肉の欠乏がめだってきた。肉屋の前に行列が作られ、婦人達が食べるものを求めて走りまわった。行列に男が割り込み、喧嘩がおこり、食料の取り合いがおこって、毎日多くの婦人達が傷ついた。牛乳もなくなり、バターを手に入れるために、一人の婦人が命をおとしそうになった。農村から乳牛が到着すると、人間が殺到して食いつくしてしまった。

三月一日、パリの武器工場の労働者が「食べるものが無いから働く必要もない」といって暴動をおこしそうになった。国民衛兵が、これをかろうじて解散させ、治安を維持していた。こうした情勢をみて、エべールは武器を取って新しい「五月三一日」を再現すること、すなわち国民公会の包囲を唱えた。エベールは、大商人から小商人まで売手の側に同盟があり、これに勝つにはギロチンしかないと宣言した。三月四日、エベールの提案で、コルドリエクラブが「聖なる反乱」を宣言した。三月七日、つぎのような張紙がだされた。

「兄弟よ、いまや諸君が大群をなして立ち上り、敵をくだき、諸君の食料を確保し、不当に逮捕されている愛国者を救いだすべきときがきた」。

このようにしてエベール派の反乱計画が宜言されたが、食料間題と獄中の愛国者の救出が結びつけられているところに、問題がある。獄中の愛国者とは、プロリ、クローツ、デフューが連想される。エベール派の呼びかけた武装蜂起は不発に終った。大衆運動は意外なほどおこらなかった。エベールはパリコミューンを巻きこもうとしたが、議長のリュバンが反対した。ジャコバンクラブも反対した。

国民公会の議員は一致して反対し、エベール派の保護者であった公安委員のビョー・ヴァレンヌですら反乱計画を非難した。そこで、エベール派からは、彼にたいしてクロムウェル派という非難が投げ返された。エべール派のロンサンが、

「私は二四時間クロムウェルになりたい。国民公会の構成は良くない。一人も正直な人間はいない。私は全員を殺してしまいたい」

といったと証言する者が現われた。エベール派の反乱計画は、国民公会全体に対立したものであった。三月一三日、サン・ジュストが公安委員会を代表して、「外国人陰謀家についての報告」を国民公会に提出した。

ここで、エベール派と革命軍の指導者が公金を略奪し、囚人を解放し、革命政権を転覆しようとしたと弾劾された。またエベール派が商業を混乱させたために、パリの食料不足が深刻になったといって、エベール派の極端な政策そのものが、食料危機の京囚になったときめつけた。

同じ日、検事総長フーキエ・タンヴィルが逮捕状を作成し、エベール派が逮捕された。エベール、モモロ(コルドリエクラブ議長)、ロンサン(革命軍司令官)、ヴァンサン(陸軍大臣秘書長)、デュクロケ(買占め検査官)、マジュエル(革命騎兵軍司令官)などであった。

エベール派は、三月二四日、さきに逮捕されていたクローツなどと、このときに逮捕されたコックなど外国人銀行家とともに処刑された。これ以後、エベール派残党に対する粛清がすすんだ。エベール派処刑の二〇日のちに、エベール派でパリコミューン検事のショーメットが処刑された。エベールとショーメットの処刑以後、商人にたいする迫害がやんだ。

ブリシエは陸軍大臣書記官をしていて、大フェルミエをギロチンにかけろと演説したり、国民公会から平原派のひきがえるを追放せよと要求した人物であるが、七月に処刑された。

エベール派の保護者とみられた陸軍大臣ブーショットとパリ市長パーシュが投獄された。しかしまだ、エベール派的な勢力は根強く残っていた。パーシュはパリ民衆に人気があり、「パパ、パーシュ」といわれていた。五月一日のパーシュ解任について、パリコミューンは賛成を表明せず、沈黙を守っていた。国民公会はこれに不安をいだいて、パリコミューンを政府の支配下におき、以後選出されて来た者については、公安委員会に任命権があるものとした。


ダントン派の処刑

エベール派の逮捕処刑については、ダントン派の力が強く作用した。ダントン派は、恐怖政治の早期終結をめざして、まずエべール派の叩き落しを狙った。ダントン派はエベール派とちがって、議員の中に、末広がりに支持者をもっていた。そのため、言論と国民公会の決議を、主な武器にした。ファーブル・デグランチーヌが革命軍指揮官の腐敗、堕落、不正行為を告発して、すでに一七九三年一二月一七日、エベール派のロンサン、ヴァンサン、マイヤールを逮捕させた。

しかし、彼がインド会社疑獄事件に関連したことがわかると、ジャコバンクラブから除名され、やがて投獄された。そうすると、入れかわりに、逮捕されていたエベール派が釈放された。このとき、公安委員のコロー・デルボアが、ダントン派にたいする猛烈な批判をはじめて、彼らの不正行為をあばきたてた。こうして、ダントン派とエベール派が闘って、傷つけ合った。公安委員会と保安委員会は、両方の党派を警戒しはじめた。すると、どたん場になって、両派の提携が実現するかにみえた。ダントンは、ロンサン達の釈放を支持しながら、ファーブル・デグランチーヌの釈放も要求した。

この戦術的な提携が、公安委員会転覆の陰謀へ発展しそうになった。そのときに、三月一三日エベール派が粛清された。ダントン派も危機感を感じたが、なにもしなかった。

ダントン派の将軍ヴェステルマンは、先手を打って武力行動にでようとすすめたらしいが、ダントンはそれに応じなかった。自分の名声と、国民公会における力を過信していたのか、エべール派の蜂起宣言に大衆が反応しなかったのをみて、強気になれなかったのかはわからない。ただ、新聞でカーミュ・デムーランが公安委員会を批判して、最後の反撃を試みただけである。

三月十六日、インド会社事件の報告が保安委員会から発表された。公安委員会の中では、ビョー・ヴァレンヌとコロー・デルボアがダントン派の逮捕を熱心に主張した。ほかの委員も賛成したが、ロベスピエールが反対して抵抗した。そのために逮捕令が遅れて、三月三〇日ダントン派にたいする逮捕令がだされた。ロベスピエールが積極的でなかったことも、注目すべきことである。

概説書の水準では、ロベスピエールで公安委員会を代表させ、ロベスピエールの意志でダントンの首を切ったという形で説明し、彼を血に飢えたテロリストであるかのように描いているものが多い。ダントンの陽性にたいするロベスピエールの陰性、前者の不道徳にたいする後者の道徳性など、個人の気質、性質をダントン派粛清の理山にする本が多い。そのような説明は便利でよいかもしれないが、事実ではない。実際に熱心であったのは、他の公安委員であり、とくにコローとビョーであった。

三月三〇日ダントン派捕された。ダントン、カミュー・デムーラン、ドラクロア、フィリッポーであり、以前に捕えられていたファーブル・デグランチーヌ、シャボ、バジールも裁判に引きだされた。これに、公安委員のエロー・ド・セシェルが加えられた。エローはダントン派たけではなく、エベール派のプロリとも親しく、王党派ともっき合いがあった。彼の無節操な行為が問題になったのである。

これに大御用商人のデスパニヤック、オーストリア銀行家のフライ、スペイン人のグスマン、ヴェステルマン将軍が加えられて、四月五日処刑された。

グスマンはスペインの貴族で、パリでは得体のしれない事業で財産を作っていた。ドラクロワ、シャボなどグントン派と親しい反面、プロリとともに『世界主義』を編集し、エベール派とも結んでいた。ジロンド派追放の武装蜂起で、まっ先に警報を鳴らしたので、「警鐘」というあだ名で通っていた。彼はすでに一七九三年九月投獄されていた。彼の意見によると、ジロンド派追放の武装蜂起のとき、ロベスピエール、マラをジロンド派とともに消し去るつもりであったという。

ダントンを支持する議員の一団、チュリオ、ルジャンドル、バラ、タリアン、メラン(チオンヴィル出身)などはグントンを救おうと努力した。タリヤン、ルジャンドルは国民公会で積極的に抗議をおこなった。しかし暴露されたダントン達の不正行為は、誰も否定できないものであった。ダントン派の逮捕処刑は、重大な抵抗に合わずに終った。

最後の段階になって、ダントンを支持する議員と将軍達は、武力でダントンを取り返そうとする陰謀をめぐらしたが、結局は失敗した。ダントンは、一方で八月一〇日の英雄になりながら、他方で汚職、公金横領、反革命的勢力との内通をしていたので、ついに身を滅した。国民公会の大多数がブルジョアジーの代表者であったとしても、ダントンのやり方には、ブルジョア社会の規範を越えた悪らつさがあり、汚職事件として摘発されるべき性質のものであった。そのために、国民公会全体からも見はなされたのである。

要約 第六章 フランス革命の終結 一 ダントン派とエベール派の没落

エベール派はコルドリエクラブと地盤にして、貧民の要求をくみ上げ、ジャコバンクラブよりもさらに急進的な政策を要求し、パリの市役所、区役所に相当する行政機関に進出して、恐怖政治の政策を実行した。その時、肉不足が深刻になり、それをエベール派が利用して、権力奪取に動いた。国民公会ではエベール派の支持者は二人しかいない。ビヨー・ヴァレンヌ、コロー・デルボアであった。だから事実上、成功すれば、国民公会議員の全員追放になる。殺してしまうという言葉も使われた。国民公会議員は生死の境に立たされた。

ダントン派は平原派の中で作られたダントンの取り巻きであって、恐怖政治の早期終結を主張し始めた。汚職議員が多かったので、そろそろ危ないと思い始め、汚職暴露に熱心なエベール派をたたこうとした。双方が相手の手の内を知っているので、暴露した事実は正確であった。それを保安委員会がつかんで、捜査を始めた。これに気が付いたエベ-ル派とダントン派が、土壇場で、手を握り、クーデーターを起こして、国民公会を転覆しようとした。保安委員会と公安委員会が協力して、機先を制して、両派の指導者を逮捕、処刑した。これが事件の真相である。  その時、ロベスピエールは、ジャコバンクラブでエベール派の影響力が拡大しないように努力した。その一環として、ヴァントゥ―スー法を提案し、国民公会で可決させた。その内容は後で説明する。エベール派の排除という意味では、ロベスピエール個人の役割は非常に大きかった。ダントン個人の死刑については、反対したようだ。公安委員会で、みんなで説得して、半日くらい署名が遅れたが、その署名も小さく書かれたという。ところが、後世の文学的歴史観では、ロベスピエールが英雄ダントンの首を切り、血がどっと流れ出たというような書き方になった。

23-フランス革命史入門 第五章の三 恐怖政治の効果

 三 恐怖政治の効果


外国人銀行家の迫害

パリには多くの外国人銀行家が集まり、外国人との取引をおこなっていた。彼らの多くは革命に協力し、積極的に革命運動の第一線に立った者も多かった。しかし、思想は思想、商売は商売と割切っている者が多く、一方

で革命政権に協力しながら、他方で亡命貴族にフランスから金、銀を送ったり、交戦国政府のスパイの役割を果したりしていた。

また、もともと外国から巨額の貴金属を持ちこんでいるので、これでアシニアを買叩き、安く手に入れたアシニアで国有財産への投機をおこなった。彼らの投機行為は、アシニアの価値下落を促進した。また、スイス人銀行家ペルゴにたいしては、イギリス外務省から、ジャコバンクラブに放火せよという手紙が来た。後に、これが発見された。こうした外国人銀行家の反革命的行為がつぎつぎに告発された。

ただし、外国人銀行家は国民公会のあらゆる派閥にわたってつながりをもっていた。まったく無関係な派閥は、ロベスピエール派だけといってもよい。さしあたり、九月五日までは、彼らは安全であり、逮捕されてもすぐに釈放された。九月七日、国民公会がすべての交戦国国民を逮捕し、財産を接収すると決議した。これにたいして、平原派のラメルは、財政委員の立場から、これが国際間の決済を傷つけるといって反対した。

保安委員会のシャボは、コルドリエクラブ出身で過激な革命家のように思われていたが、このころドイツ人銀行家フライ(ドイツ語で自由という意味、革命に迎合するために、こう自称した)の妹と結婚したばかりなので、この処置に抗議した。

このため、国民公会は外国人銀行家の逮捕を取り消し、封印を撤去した。これにたいして、革命的共和主義婦人クラブが熱心に抗議運動をおこなった。ロベスピエールもまた、外国人銀行家の逮捕を主張し、シャボを非難した。シャボはこのころ、昼のサンキュロット、夜の粋な王党派といわれていて、革命政権の腐敗を代表する人物になっていた。シャボが過激派攻撃に熱心だったのは、こうした事情による。彼は九月一四日、保安委員会から追放された。

一〇月一六日、再び交戦国の逮捕、財産の差押えが可決された。このため、外国人銀行家のある者は逃亡し、ある者は逮捕された。逮捕された者でも、すべての者が処刑、財産没収のうきめに合ったというわけではない。

アツベマというオランダ人銀行家は、逮捕されたが、食料調達に必要だというので食料委員会が釈放を要求し、公安委員の・バレール、カルノー、プリュール、ランデが共同署名で釈放を要求した。このため、彼は釈放され、公安委員会の保護のもとに食料調達に活躍した。

スイス人銀行家ペルゴにも逮浦令がだされたが、公安委員のランデ、財産委員会のカンボンが保護し、スイスへ食料調達に行くという名目で帰国させた。イギリス人銀行家ボイドは、シャボのおかげで逃亡することができた。ドイツ人銀行家フライ、ヴィーデンフェルト、オランダ人銀行家ファンデンヴェルなどは処刑された。

このように、外国人銀行家の運命は多様であった、ただ、一時的にしろ、無制限な投機行為が押えられ、活動を許された場合でも、それは革命政府に協力するというかぎりにおいてであった。そのため、これも経済危機の緩和に一役買ったのである。


危機からの脱出

革命政府のとった一連の非常手段が、一時的にしろ効果をあらわした。累進強制公債、金属貨幣の流通停止、アシニアの強制流通、証券取引の停止により、唯一の紙幣としてのアシニアの価値が上昇にむかった。外国人銀行家の迫害も有利に作用した。一般最高価格制と強制徴発、買占め禁止、違反者にたいする厳罰の効果もあがった。

そこで、九月からアシニアの下落はとまり、一一月から上昇にむかって、一二月には約五〇パーセントの水準に回復した。七月と八月、ひどいばあいは二〇パーセントに下っていたのであるから、かなりの回復であった。一般的な物価がこれを反映して安定し、生活必需品は最高価格で供給されたから、下層民の生活は安定した。

足もとを安定させた国民公会と公女委員会は、全力をあげて外敵と反革命軍との戦闘にむかった。すでに八月の末、マルセイユのジロンド派反乱を鎮圧した。九月はじめにはボルドーの鎮圧に成功した。九月八日、ベルギー国境オンドスコット村で、フランス革命軍はイギリス、ドイツの連合軍と闘い、これを敗走させた。港町ダンケルクが救われた。

この戦勝は、これまで敗北を重ね、外国軍が四日でパリに入ることがでぎるといわれたほど絶望的な状態から、フランスを救った。一〇月九日、リヨンのジロンド派反乱軍が撃破された。一〇月一六日、ワッチニーの戦勝があり、この日パリでは王妃の処刑がおこなわれた。王妃の処刑も大間題であったはずだが、当時のフランス人の関心は、むしろこの北部国境地帯の勝利であった。

オーストリアの大軍が、国境近くのモーブージを包囲していた。ここを救うために公安委員カルノーがジュルダン将軍とともに軍を率いてかけつけ、付近のワッチニー村でオーストリア軍を撃破し、モーブージを救った。このとき、陣頭に立って奮戦したカルノーの名声が高まった。

つぎの一〇月一七日、フランス革命軍がヴァンデーのショレ市で反革命軍を敗走させた。このころまでに、スペイン軍を国境の外に撃退し、イタリア方面ではピエモンテ軍を追いだすことに成功した。最後に残っていたツーロン軍港では、イギリス軍との激戦を続けていたが、一二月一九日、イギリス軍から奪回した。このとき、ナポレオン・ボナパルドが軍功を立て、将校から将軍に昇進した。一七九三年の末までに、フランス革命政府は内外の危機から解放され、自信を取りもどした。


反資本主義的政策かどうか

一七九三年九月五日から年末にかけての恐怖政治は反ブルジョア的で、サンキュロット的であるのか、それともブルジョア的であるのか、この解釈がむずかしい。多くの理論家が恐怖政治の反ブルジョア的性格を強調してきた。事実、反ブルジョア的な政策があいついで打ちだされた。最高価格制や強制徴発、買占め禁止法、貴金属の流通禁止、外国人銀行家の迫害などは、ブルジョアジーにたいする打撃になるはずである。

そのうえ、まだいくつかの反資本主義的政策がおこなわれている。たとえば、八月二四日、財政委員会を代表してカンボンが株式会社の廃止を提案し、可決された。これによって、ケース・デスコントをはじめ株式会社は廃止されることになった。インド会社にたいする告発は盛んとなり、八月から一〇月にかけて論争が続けられたのち、インド会社の清算が決議された。このような政策もまた、上層ブルジョアジーにたいする打撃である。

インド会社は、もっとも特権的な会社であるから別としても、株式会社が全面的に禁止されるのは、資本主義経済をくつがえすものであるかのようにみえる。なぜ禁止したかといえば、アシニアの下落をよそに、これらの会社の株が価値を維持していたからである。そのような証券が流通していると、アシニアと競合し、その価値の下落を見せつけることになる。そこで、モンタニヤールのみならず平原派のカンボンですらも、この廃止に熱心

だったのである。

こうした政策を見るかぎり、恐怖政治の政策は反ブルジョア的であるように見える。ところが、別な角度からみれば、国民公会と公安委員会が、ブルジョアジーの保護育成に積極的であったことがうかがわれる。そのまず第一は、航海条令であり、つぎは重工業、とくに軍需工業の育成政策であった。

航海条令は九月二一日に可決された。すでに五月、バレールがその必要を説いていた。自由貿易主義のジロンド派が追放されて以来、この法令について積極的な取り組みがなされた。航海条令は、植民地と外国との直接貿易を禁止して、フランスと植民地を結びつけ、本国と植民地の間には、フランス国籍の船だけを使用するべきことを規定した。これによって、植民地を本国にたいする原料供給地として確保しながら、本国の工業製品の販売市場として独占することになった。航海条令にさきだって、本国と植民地との間の関税が撤廃された。その面からも、植民地が本国に固く結びつけられた。

これらの政策によって打撃を受けた者は、仲介貿易で利益をあげていた外国の貿易会社、貿易商人であり、さらには、これと結びついて取引をしていた、フランスの商人であった。フイヤン派からジロンド脈にまたがって自由貿易主義を主張していた貿易商人は、このような勢力であった。今後は、これら貿易商人の利益よりも、フランスの工業家の利益が優先されるようになった。


工業の振興政策

革命政権による工業の育成政策も重要な問題である。フランス革命とくに恐怖政治といえば、流血、ギロチン、破壊を連想し、建設的なものは何一つないと思われがちであるが、これは誤解もはなはだしい。むしろ、この時期が、いままでのどの時期よりも、工業の振興にたいして政府の努力がなされた時期である。政府は、アシニアの価値が暴落するほど増発し、これを軍事費につぎこんだが、その中の相当部分が、軍需工業とその関連部門に投じられた。それと並行して、強制累進公債が徴収されたのであるから、金の流れを大まかにいえば、大商人その他の金持から資金を吸上げて、これを工業への投資に振りむけたといえる。商業を犠牲にした工業の育成策であった。

なぜこのようなことをしたかといえば、当寺の戦争に勝ち抜くためには、よにはともあれ武器、弾薬が必要であり、それを自国で生産しなければならなかったからである。そのためには、関連産業のすべてを育成する必要があった。そこで工業の全面的な振興が必要とされた。

ル・クルゾーの経営が一時悪化し、国有化論までだされたが、カルノーと軍需担当公安委員プリュールは国有化を否定し、支配人を督促して再建をすすめた。このため、一七九四年七月派遣委員が称賛するほど立ちなおり、大砲、弾丸を製造した。

アンドレ大砲製造所も生産が低下したが、一七九三年八月派遣委員がこれを国有化し、経営者を任命した。その結果経営が立ちなおり、海軍に大砲の供給をつづけ、一七九四年五月には立派に再建された。

シャルルヴィーユ武器工場は、派遣委員のプリュール(マルヌ県出身)の努力によって生産を増加させ、小銃、ピストルの生産を続けた。

鉄鋼業者ヴァンデルは亡命したが、一族の者が残って大砲の生産を続けた。アンザン会社はオーストリア軍の侵入によって破壊された。一七九三年一〇月、敵国軍を撃退したあと再建がはじまった。ただし、株主の多くが亡命したので、亡命者の株は売却され、その結果、貴族中心の株主から上層ブルジョアの株主へと移行した。鉱山そのものは戦争で一時破壊されただけで、のち回復し、所有権だけが移転したのである。

革命前から蒸気機関を製造していたペリエのシャイヨーエ場は、公安委員会のプリュール(軍需工場担当)の援助を受けて武器を増産し、武器工場のための機械製作にも活躍した。またペリエは、軍需工業のための技術教育に活躍した。そのためペリエと労働者が対立したとき、公安委員会はペリエを守って労働者の統制に努力した。

ドーフィネの城に非合法の三部会を召集して革命のロ火をきったクロード・ペリエは、この時期小銃を供給するための会社を設立し、これを「共和主義サンキュロット会社」と名づけた。そのために、ジロンド派反乱にも加担していたが、革命政府に有用な人物ということで保護された。

公安委員のプリュールとカルノーは科学者、技術者でもあったので、一流の科学者を公安委員会のまわりに組織して、発明実験、工業化をおこなわせた。そうした学者のうち、ペリエ以外にモンジュ、シャプタル、フルクロワ、ベルトレなど、多くの有名な学者がいた。旧公安委員、ギュイトン・モルヴォー(平原派)も科学者、発明家、企業家であり、プリュールに協力した。

彼らの活躍で、フランスの武器が質、量ともに向上していった。フランス革命と科学者の関係といえば、ラヴォアジエの例がすぐにもちだされる。革命に学者はいらないという方向に解釈されがちであるが、彼には徴税請負人という特殊事情があったためである。革命政権が保護した学者の実例もまた多い。とくにシャプタルは、このころ火薬製造に活躍し、その後ナポレオンのもとでも内務大臣となり、王政が復活しても失脚せずに、工業行政を担当している。科学者の中での万年与党の実例である。ラヴォアジエの例だけが、フランス革命の性格を示すものではない。


恐怖政治が大工業を滅ぼしたことはない

恐怖政治の時期に工業の育成がおこなわれたことを確認するのは、日本におけるフランス革命史にとっては非常に重要なことである。日本でのフランス革命研究の中で、大塚史学の解釈が強力な影響力をもっているからである。その最大の主張は、フランス革命で、大工業がサンキュロットの攻撃を受け、軒並み減んでしまったという図式である。大塚史学では、これを特殊工業の断絶とかオート・ブルジョアジー(上層ブルジョアジー)の断絶とか、前期的商業資本の敗北とかいう。

その実例としてもちだされるのが炭鉱のアンザン会社、鉄鋼のル・クルゾー、ヴァンデルなどである。これらの大会社、大工業が恐怖政治のときにジャコバン=サンキュロットの攻撃を受けて減んでしまったというのである。(『大塚久雄著作集』第五巻、三二七ー三二八頁、高橋幸八郎『近代社会成立史論』二〇二頁、中木康夫「問屋制度と特権マニュファクチャー」『西洋経済史講座』第三巻、岩波書店、二一七ー二二〇頁)

この意見は、フランス革命の通史の中で説かれることはないが、多くの学術書の中で説かれ、また支持されているから、学者や研究者を通じて大きな影響力をもっている。ただし、フランスでは、この意見を誰も主張しない。なぜなら、自分の国にアンザン会社やル・クルゾー、ヴァンデルが現代でも存在していることを知っているからである。

恐怖政治の解釈については、かなり大塚史学と似た意見を唱えても、これら大工業がフランス革命で断絶したとはいいきれない。ところが事実を知らない日本の学者は、「知らない者ほど強い者はない」の通り、大工場の断絶論を唱えてきたのである。

この意見はまだ根強くのこり、明治維新の解釈の上に大きな影響力をもっている。だから恐怖政治の時代にでも大工業が保護育成されることがあり、破壊されたとしても、敵軍との戦闘によるものであったことを確認しておかなければならない。だいたい、ヨーロッパ諸国を相手に戦争をしている国が、軍需工場に関連のある大工業を破壊して、戦争が続けられるかと考えるべきである。大塚史学は、農村工業、中小マニュファクチュアの力を極端に重視するが、それでまともな武器、弾薬が作られるかどうかと考えるべきである。フランス革命で大工業がつぶれたという理論は、技術的条件を無視した現実離れの傾向が強い。フランス革命は、外国との必死の戦争をともなった革命である。大工業の減亡を唱える人は、そうした外部的な条件も忘れている。

22-フランス革命史入門 第五章の二 恐怖政治の推進力

二 恐怖政治の推進力


エべール派と過激派残党の提携

過激派の勢力が後退したのは、ほんのわずかの時期だけであった。九月のはじめになると、突然エべール派が過激派の生き残りと提携して、攻勢に転じた。エベールは八月一〇日以来パリコミューンに参加し、マラが暗殺された後、自分がマラの後継者であると自称していた。そのため、彼の新聞『ペール・デュシエーヌ』でジャック・ルー批判をおこなった。エべール派のデフィユーはジャコバンクラブの有力者であったが、ジャック・ルーにたいする告発委員会を組織した。こうしてジャック・ルーはロペスピエール、マラからエベールにいたるまでを敵にまわしたのである。またデフィユーは過激派ルクレールにたいする告発委員会を作れと要求した。

ところが急に向きを変えて、過激派と提携し、国民公会と公安委員会に圧力をかける側にまわった。エべール派の転向をもたらした事情はいくつかある。九月二日、ツーロン軍港がイギリス軍の手に落ちたという報道が伝わり、フランスに衝撃を与えた。内務大臣の地位をめぐってエベール派とダントン派の候補が争い、ダントン派のパレが任命されたため、政争に敗れて反体制の姿勢を強めた。

もう一つ、八月末に食料事情が絶望的になり、エベール派の意見を変えさせた。パリでは一日四五〇〇袋の小麦粉を消費するのに、一日四〇〇袋しか到着しなくなった。この食料不足のため、九月四日パリで騒動が引きおこされた。国立軍事工場の労働者、国立印刷工場の労働者、大工が街頭にでて騒いだ。アシニアで賃金をもらうが、これでは生きていけないというのであった。国民公会は、この運動を押えるために、印刷工場の全労働者を逮捕すると布告した。

こうした状態のもとでの国民公会が、労働運動の抑圧ばかりに目がむくことにも注目しておかなければならない。ジロンド派を追放したからといって、国民公会が労働者の側に立ったというものではない。国民公会は、できれば労働者をそのままの状態で働かせておきたかった。労働者のために、なにごとかの対策を立てるとするならば、大規模な大衆運動の圧力をうけて、やむをえずいやいやながら、つきつけられた要求について決議するだけであった。

そうした事態があらわれた。もはや逮捕の脅迫では運動を静めることはできなかった。なぜなら、労働者が飢え死に寸前に追い込まれたからである。約二〇〇〇人の男女がパリコミューン議事堂の前に押しよせた。彼らはパン屋でパンを手に入れることができず、飢えのために集まったといった。彼らは昼も夜も働きながら、パンが手に入らないといった。パリ市長と群集の代表とが食料について討論をしている間に、群集があふれ、「パンを!パンを!」という叫び声で満たされた。

パリコミューン検事ショーメットが、群集と国民公会の間に立って奔走した。彼は国民公会にかけつけ、事件の重大さを知らせた。しかし、この日国民公会の議長をしていたロペスピエールですら、群集の状態については軽く考えていた。

「国民公会は食料問題に没頭しており、それが人民の幸福を実現するだろう」

と答えて、一般最高価格について国民公会が投票したばかりであるといい、法令の抜粋を与えた。ショーメットがこれを持ち帰り、群集の前で読み上げたが、反応はよくなかった。

「われわれに必要なのは約束ではない。必要なのはパンだ。そしていますぐ」。


九月五日の事件-恐怖政治の出発点

ショーメットはここで機転をきかせた。彼が国民公会の側に立って発言していると、群集から完全に離れるおそれがあった。彼はすかさず机の上に飛び上った。

「私もかつては貧乏だった。それで貧乏人とはどういうものかは知っている。いまここに金持と貧乏人との闘争がある」

という前おきで、群集を沈黙させておいて、革命軍を編成して小麦の輸送と徴発をおこなわせ、金持の策動を止める法令を要求するために国民公会へ行こうと演説した。この演説で、ショーメットは群集を押える立場を捨てて、群集を率いて国民公会に圧力をかける側にまわった。

エベールは、すでに革命的共和主義婦人クラブのクレール・ラコンブやルクレールと提携していたが、この運動に乗って、八月一〇日の武装蜂起やジロンド派追放のような大衆運動を、もう一度引きおこそうとした。

「人民は明日群をなして国民公会に行こう。そして八月一〇日や五月三一日のように国民公会を取りまき、公会議員がわれわれを救うために適切な法令を可決するまでとどまろう。革命軍は法令が可決されるやいなや出発し、ギロチンがこの軍隊のあらゆる部隊についていくことを要求しよう」。

これで、飢えに苦しむ群集がエベール派の指導権のもとに入った。ロベスピエールは、ジャコバンクラブでこの行進にたいして反対した。しかし、止めることはできなかった。ロベスピエールとしては、この貧民の運動にいかに対処するかが主な課題となった。

翌日の九月五日、パリ市長パーシュと検事ショーメットを先頭にした群集が「暴君と闘え、貴族主義者と闘え、買占め人と闘え」というプラカードを立てて、大群をなして国民公会に行進した。群集の代表が傍聴席を埋めた。ショーメットが請願書を読上げ、食料問題を解決するための革命軍の編成を要求した。

群集の支持を頼んだ一群の議員が積極的に発言した。ビョー・ヴァレンヌが革命軍の編成、反革命容疑者の即時逮捕を要求してくいさがった。ダントン派義員がこれに賛成した。しかし、モンタニヤール議員の中でも、このような形で、群集の圧力に譲歩することは反対だという者が多かった。彼らは、別な議題をもちだして議事をそらそうとした。ロベスピエールもそうであり、ジャンボン・サンタンドレ、バジール、ロムなどがそのように動いた。傍聴席の群集は、それに不満のつぶやきを示した。このときは、平原派議員はほとんど発言しなかった。彼らは、このような群集には支持者をもたないので、発言すると危険であった。

ついに群集の圧力が勝ち、革命軍の創設と反革命容疑者の逮捕が可決された。反革命容疑者の逮捕の権限は、各区の革命委員会に与えられたから、国民公会は、権限を下部に移譲したことになった。


大公安委員会の権限

つぎの九月六日、前日に群集の側に立って大きな役割を果したビョー・ヴァレンヌとコロー・デルボアが公安委員会に入った。彼らはエベール派を攴持し、九月二日の虐殺をはじめ、革命中のいくつかの虐殺をおこなわせたテロリストであり、コルドリエクラブで影響力をもっていた。このとき以来、エベール派の力が公安委員会の中に入りこんだ。

この日以後の公安委員会が大公安委員会と呼ばれ、恐怖政治の推進者とみなされている。委員は一二人で、エロー・ド・セシェル、バレールが平原派からモンタニヤールに接近した者であり、とくにバレールが雄弁と抜群

の記億力で全体の上に力をもっていた。

カルノーは正式の族ではないが、弁護士の家に生れ、軍隊に入って技術将校になった。軍人と技術者の両方を兼ねていた。軍事担当の公安委員として戦争を指導し、勝利の組織者と呼ばれるようになる。

プリュール(コート・ドール出身)は軍需工業を担当し、ランデは食料を担当した。ジャンボン・サンタンドレは海軍を担当した。

プリュール(マルヌ県出身)は「清廉の士」と呼ばれ、ロベスピエールとともに腐敗行為のぜんぜんなかった数少ない革命家の一人であるが、ヴァンデー暴動の鎮圧とか、ブレスト、ナントへの派遣委員をしていたために、ほとんど公安委員会に出席しなかった。

ロベスピエール、サン・ジュスト、クートンがロベスピエール派三人組であり、ジャコバンクラブを足場にしていた。それにくらべると、カルノーとプリュール(コート・ドール出身)はジャコバンクラブに加盟せず、ランデは加盟してもぜんぜん行かなかった。

ビョー・ヴァレンヌとコロー・デルボアはコルドリエクラブを代表し、ニベール派の支持者であった。大公安委員会は一種の寄せ集めであり、さまざまな党派の集合体であった。

この公安委員会が、九月一三日権限を強化した。財政委員会と保安委員会を除くすべての委員会を監視、指導できるものと定められ、臨時行政会議(内閣)は公安委員会に従属して、たえず報告をおこなう義務を課せられた。ここで公安委員会の独裁が出現したといわれる。

公安委員会の独裁は、そのままロベスピエールの独裁で、ロベスピエール派はサンキュロットあるいは小ブルジョアの代表であるから、サンキュロットあるいは小ブルジョアの権力ができたという説が多い。しかしそれは早合点である。あくまで、財政委員会と保安委員会は独立している。この事情は、意外に強調されないのである。

つぎに、公安委員会の中で、ロベスピエールはそれほど大きな力をもっていない。この二つは記億にとめておく必要がある。


内外の危機と革命裁判所の活動

九月五日の行進を転機に、大公安委員会が成立して本来の恐怖政治が推進された。このとき以来、経済的にも政治的にも、恐怖政治といわれる内容のものがいっせいに動きだした。それを押し進めたのは、貧民の大衆行動を背景としたニべール派の圧力であった。

普通の時代区分では、ジロンド派の追放が恐怖政治を実現する時期とされているが、それは正確ではない。変化が大きいのは、九月五日以後のことであり、六月二日から九月五日までは、まだ目だった変化を示していない。変化といわれるものはただ一つ、強制公債の徴収だけであった。九月五日以後、恐怖政治がすすめられた。

情勢が絶望的になって、群集が半狂乱の状態になり、食料を求めてかけまわった。しかも、オーストリアの大軍がベルギー国境からパリをおびやかし、フランス海軍の根拠地ツーロン軍港がイギリス軍に占領され、スペイン軍がピレネー山脈を越えて侵入した。ヴァンデーの反革命軍が荒れ狂い、ジロンド派の反乱が広がって、国民公会の支配する地域はフランス全土の約半分になった。

その事情も加わってパリへの食料が入ってこなくなった。この事情を見越して、商人や大農民が穀物を買占めた。人民は、餓死寸前の中で、敵国軍と反革命による占領、虐殺を予感した。恐怖政治は、それを押し進める側の絶望感、恐怖感からひきおこされたのである。

恐怖政治の代名詞にされる革命裁判所も、九月五日以米急速に活動をはじめた。革命裁判所は一七九三年三月一〇日、フランス軍が敗北をはじめたときに設立され、判事と陪審員が国民公会から任命された。しかし、裁判所の活動はゆっくりしていて、しかも寛大であった。死刑を宣告したばあいは少なく、反革命容疑者をあいついで釈放した。ここにマラもジロンド派から告発されて立ったが、無罪となった。しかもマラを暗殺したシャルロット・ド・コルデーについても、裁判長モンタネが救おうとつとめた。

このようであったから、九月五日までは、革命裁判所はその名に価するほどの活動はおこなわず、ロベスピエールが、革命裁判所の仕事の遅さをジャコバンクラブで批判するほどであった。しかし、九月五日以後事態は変った。判事と陪審員が補充、増加され、四つに分れて、そのうちの二つが常に動くようになった。

これ以後、革命裁判所はつぎつぎと反革命容疑者に死刑を宣告していく。革命裁判所の判事と陪審員には、職人、労働者はいない。ブルジョアジーに属する者から、せいぜい職人の親方、中小承認までであり、ロベスピエールが下宿をしていた指物師デュプレーも参加していた。僧侶や貴族も何人か参加している。貴族の中には侯

爵の爵位をもつ高級貴族が二人もいる。貴族を公職から追放せよという過激派やエベール派の主張は、結局、革命の全期間を通じて実現されなかったのである。階級的にみれば、革命裁判所も国民公会も、公安委員会も、ほぼ同じ性格をもちつづけていた。


一般最高価格制の効果

懸案の一般最高価格制は、九月二九日やっと布告された。それまで、たびたび請願がおこなわれても、国民公会では議事の引きのばしがおこなわれた。平原派議員はもちろん反対であるが、モンタニヤール議員の多くも乗り気ではない。しかし、結局は決定せざるをえなくなった。

生活必需品の品目を定め、これの最高価格を決定した。違反したばあいは罰金を課し、違反者は反革命容疑者のリストに載せられる。告発者には賞金が与えられる。最高価格は品目によってちがったが、だいたい一七九〇分の一を加えたものとされた。しかも、労働者が労働を拒否したばあい三日間の禁固に処すと決められたから、労働者にたいしては寛大な法律とはいえなかった。

待望の最高価格が実施されると、生活必需品の価格が引下げられた。そうすると、群衆が商店に押しかけ、ついに商店は空になった。群集もまた、安い値段で買占めたのである。一〇月の末になると、酒類、パンがなくなった。パリコミューンはパンの切符販売制を実施したが、多くの市がこのまねをした。肉、砂糖の配給制も実施された。商人は、最高価格で売ればもうけにならないから、商売をやめた。買占めていた者は、時期を待つつもりで商品を隠した。

こうなると、最高価格制そのものが、かえって商品流通を妨げ、品不足を引きおこし、食料不足をすすめる。このことは、当時の官吏も指摘していることである。国民公会議員が最高価格制をしぶったのも、そのためである。しかし、だからといってもう後もどりすることはできない。

残るところは、買占め人を摘発するための強制徴発と隠匿物資摘発の家宅捜査であり、違反者にたいする厳罰しかなかった。ここで経済的な恐怖政治につきすすむことになる。これを、クレール・ラコンブが革命的共和主義婦人クラブを代表してパリコミューン総会に提案した。パリコミューン総会は、一〇月四日ショーメットの提案を受入れ、革命軍の後に巡回裁判所とギロチンをついて行かせ、買占め人を即席裁判で裁き、処刑する案を国民公会に提案した。一〇月一五日、店を閉めた食料品店にたいする家宅捜査が決められた。


食料委員会と革命軍

一〇月半ばから品不足が深刻になり、一日に二〇〇〇袋必要であるのに市の倉庫にも小麦粉が一〇〇袋しかないという事態になった。この食料危機の対策として、食料委員会が組織され、食料問題のすべての権力を握った。

これは、一〇月二七日バレールの提案で決定され、食料委員会の最高指揮権は公安委員会のランデが握った。この委員会には三人の大ブルジョアが顧間として入った。大銀行家ムートン、食料品商人レギリエ、穀物の大商人ヴィユモランの三人であった。食料委員会が、パリをはじめとする大都市への食料供給に活躍したが、正規の買付けだけでは食料を集めることができない。

農村に出かけて穀物を徴発し、この食料を安全に守って都市へ運びこまなければならない。そのためには、武力の背景が必要である。しかし、正規軍はすべて国境にいる。そのため、革命軍が新しく編成された。革命軍は正規の軍隊とも義勇兵ともちがって、食料間題の解決のために編成されたものであった。革命軍の行動は、まさに恐怖政治そのものであった。

ブリシエのジャコバンクラブでの発言は、それを象徴している。彼はフェルミエ(大農民)の買占め、売りおしみについての演説のあとにいった。

「その観察は正しい。しかし革命軍が出発するやいなや、その不安は消えるだろう。革命軍の行動方針はフェルミエの財産であるべきだ。村に着いたなら『フェルミエは金をもっているか』と尋ね、そうだという答ならば、彼をギロチンにかけてよい。彼が買占め人であることはたしかである」。

これに示されるように、革命軍は農村をまわって食料を徴発し、家宅捜査をおこない、違反者を処刑してまわった。経済法則を無視した荒っぽいやり方ではあったが、一時的には、食料を調達して都市における食料不足をやわらげた。

この革命軍の人的資源は、地方によってまちまちであるが、一般的な傾向としては、兵士は職人、労働者から小商人、職人の親方、自家営業者の階層で構成されていた。しかし、混乱の中で編成されたのであるから、不純なものも大量にまぎれこんだ。最高価格制のために商売ができなくなった者が、仕事をやめる口実に革命軍に入った。山賊や行商人、失業者も入隊し、亡命貴族の下僕が世問の目をそらせるために入隊した。貴族や僧侶がまぎれこんだこともあった。そのため、革命軍の家宅捜査が、そのまま盗賊行為になったことも多い。

革命軍の指揮官をみると、サンキュロット出身者の数は少なくなり、法律家、公証人のような知識人からはじまって、ブルジョア、大土地所有者の階層が多数を占めていた。そして、ブルジョア出身の指揮官の中に激烈な者が多かった。恐怖政治、必ずしもサンキュロット的でなくて、ブルジョア的でもあったのである。

パリの革命軍司令部の顔ぶれをみると、革命軍のブルジョア的性格がよくわかる。可令官のロンサンはエベール派の闘士であったが、革命軍を指揮して流血の弾圧をおこない、有名なテロリストになった。しかし、この間に財産を蓄え、オランダ人銀行家ド・コックの食卓にエベールとともに常連として招かれていた。革命軍司令官として激烈な行動をしながら、大銀行家の家に出入りしていたのである。

司令官付副官のヌリは俳優であったがダントン派であり、自分の友達の俳優を引き入れ、司令部が楽屋のようになり、売春婦でにぎわっていた。

副官マジュエルはエベール派であったが、豊かな絹商人の一族であった。革命騎兵軍司令官になりながら、ぜいたくな堕落した生活を送り、多くの女に囲まれていた。のちに逮捕されたときにも、四輪馬車にニ人の女を同乗させていた。このような例が多いので、革命軍もまたどこまでもブルジョア的なものであった。


過激派の消滅

国民公会と公安委員会は群集の圧力に応じて恐怖政治をすすめていったが、同時に、群集を煽動した過激派にたいしては弾圧をつづけた。クレール・ラコンプにたいしては、九月一六日ジャコバンクラブで激しい非難が加えられた。彼女がでて答えようとすると、ヤジにつつまれた。

もう一人の過激派ヴァルレにたいしても、王党派であるとかジャック・ルーの一味であるという批判がおこな

われ九月一八日保安委員会が彼を逮捕した。保安委員会の中で過激派攻撃に熱心だったのは、シャボとバジールである。しかし、ヴァルレは、パリコミューンの請願があったため、一一月一四日釈放された。

九月二二日、クレール・ラコンプの革命的共和主義婦人クラブが新しい運動をおこそうとした。彼女らは革命裁判所の増設、貴族の二四時間以内の裁判、王妃とジロンド派の処刑を要求するとともに、パリの諸区の代表からなる中央委員会を設置せよと要求した。この最後の要求はパリコミューンや国民公会にかわる、新しいパリの権力機関を、彼女らの指導権のもとに作ろうとしたものである。

国民公会では、彼女らにたいする批判が集中し、別な婦人団体や革命的男子のクラブと自称する者が、革命的共和主義婦人クラブを攻撃した。一〇月三〇日、国民公会は革命的共和主義婦人クラブの解散を布告した。一一月一七日、クレール・ラコンブを先頭にした婦人の団体が、赤帽子をつけてパリコミューン総会の議事堂に押しいった。このあと、クレール・ラコンブが逮捕された。これ以後、婦人の革命運動は急速に冷えていった。彼女は一度釈放されてから、翌年の四月エベール派逮浦に関連して再逮捕された。しかし多くの婦人からの釈放の請願があり、その翌年に釈放された。しかし、もはや活動の場はなく、屋台屋をして細々と暮し、やがてパリを離れて消息を断った。

ヴァルレも、釈放されてからもう一度政治活動をしようとしたが失敗し、その後の消息は絶えた。ルクレールも翌年に逮捕され、消息が絶えた。こうして、一時はなばなしく連動の表面に立った過激派指導者は、一七九四年の一〇月から一一月にかけて弾圧を受け、その後大衆運動の基盤を失った。あまりにもあっけない最後というべきである。

食料危機が一段落して人心が静まり、しかも敗戦からそろそろ戦勝に向いつつあって、危機感が薄れていったという事情が背後にある。彼らの運動は、危機の産物であったから、危機が去れば消滅する。彼らは、大衆の本能的な要求を、生の形で代表したのであるが、その大衆は、政治経済的な危機のときだけ動いたのである。 

要約 第五章 恐怖政治の展開 一 過激派の攻勢と敗北

この節でいうことは、「ジロンド派追放で、すぐに恐怖政治になったのではない」ということです。6月から9月までは穏やかであった。マラですら生ぬるいと批判する有様であった。マラが暗殺されても、まだ復讐に立ち上がるというものではなかった。この点は、古くからの情緒的なフランス革命史とは違う

ロベスピエールの公安委員会入りが遅かったということも書いている。俗説では最初から実力者であるかのように書いているが、実は「新入り」なのだ。しかも「無任所大臣」のようなものだ。これが頼りにされていくのは、過激派の攻勢に立ち向かったからである。とはいうものの、彼も過激派に突き上げられて、もたもたした時期がある。その結果、過激派の要求を認めざるを得なくなる。この点は国民公会議員全体の責任になる。これがいわゆる恐怖政治の実行だ。

しかし、過激派の要求を聞いていたのでは,フランス国家は成り立たない。時期を見て過激派を抑圧した。まずはジャック・ルーの逮捕、自殺があった。これで一度は抑えたかと思われた。


21-フランス革命史入門 第五章の一 過激派の攻勢と敗北

第五章 恐怖政治の展開


一 過激派の攻勢と敗北


旧公安委員会への不満

一七九三年六月二日、ジロンド派議員が追放されたとしても、恐怖政治がすぐに出現したというわけではなかった。これは、内外の情勢に押されて、段階的にきびしくなっていくものである。さしあたり六月二日から七月一〇日までは、これという厳格な政策は打ちだされていない。ジロンド派追放の効果としては、累進強制公債が全国的に実施されたことであった。これだけは全面的におこなわれた。

つづいて六月二四日、「一七九三年憲法」を可決した。ただし、この憲法は精神論的な効果しかなく、実施されたこともない。穀物の最高価格制は、原則として決定されただけで、実施されてはいなかった。国民公会も公安委員会も、できればこの実施を引きのばしたかった。このときの公安委員会は、累進強制公債の政策だけで外国との戦争に勝ち、反革命暴動を鎮圧しようとした。たしかに、六月二九日、革命軍はナントを包囲していたヴァンデーの反乱軍に反撃し、これを撃破することに成功した。

しかし、足もとのパリその他の大都市の状態は危険なものになった。六月の末、過激派のジャック・ルーに煽動された洗濯女が男達をけしかけて、パリの港で石けんの箱を奪い取り、これを勝手に値段をつけて分配した。この騒動は、アシニアの下落、物価の暴騰を反映したものであった。アシニアは三〇パーセントに下落したといわれているが、ところによっては二〇パーセントに下落した。それに応じて物価が上昇した。買占めの影響もあって、上昇率はまちまちであった。

この時期の価格を、一七九〇年六月の価格とくらべてみると、もっとも暴騰したのがじゃがいもで八倍となっていた。牛肉は二倍以上となり、小麦は三分の一程度の上昇であった。

労働者や職人の不平が深刻になった。が、公安委員会は何もしなかったので、七月四日、マラが公安委員会の字をもじって、「政策を失った委員会」と非難した。同じくモンタニヤール議員ヴァディエは、ジャコバンクラブで公安委員会が眠っていると批判した。ジロンド派議員にたいする逮捕令がだされても、厳格には実施されず、イスナールやランジュイネのように逃亡に成功した者もいた。平原派的色彩の強い公安委員会であったから、これは当然であった。


公安委員会の改選

公安委員会にたいする批判が強くなり、七月一〇日、この改選がおこなわれた。ここで平原派の多数とダントンが姿を消した。八月一〇日の英雄グントンは、デュムーリエの反逆のときは巧妙に身をかわして、まだ革命の英雄としての名声を保ったが、彼のまわりにただよう腐敗と反革命陰謀の輸に疑いが深まったのである。

新公安委員は九人で、バレール、ガスパラン、チュリオ、ランデ、ジャンボン・サンタンドレ、エロー・ド・セシェル、プリュール(マルヌ県出身)、クートン、サン・ジュストであった。この中で本来のジャコバン派を代表する者はジャンボン・サンタンドレ、プリュール、ランデ、サン・ジュスト、クートンだけであった。チュリオはダントン派である。バレールとガスパランは平原派で、エロー・ド・セシェルは、前にものべたように名門の貴族でありながらあらゆる派閥と関係をもち、御用商人のデスパニヤックからも金を借り、外国人銀行家とも親しく、亡命貴族の夫人(伯爵夫人)を愛人にしていた。こういうわけであるから、新公安委員会は、約半分がジャコバン派的性格をもっていたといえよう。

その直後、七月一三日マラが暗殺された。暗殺者は貴族の娘シャルロット・ド・コルデーであったが、彼女がジロンド派の影響を受けており、バルバルーと面会していたことから、ジロンド派の復讐であると思われた。これに関連して、ジロンド派議員のフォシエが逮捕された。「人民の友」といわれて、下層民の間で絶対的な人気をもっていたから、マラの暗殺はジロンド派にたいする敵意を激しくさせた。ジロンド派にたいする追求、報復が進行した。ただし、マラの政治的立場はこのとき微妙であった。彼はジロンド派追求のために、もっとも激しく行動した。その後もますます急進的な政策を主張し、貴族、僧侶を公職から追放せよといった。これをコルドリエクラブがとり上げて請願をおこなったが、ジャコバンクラブは熱心ではなく、ただ声明書をだしただけであった。マラは、ジャコバンクラブよりも過激とみられていた。

しかし、同時に、ジャック・ルーの運動にたいしては激烈に反対した。マラは最高価格制にたいして反対し、これを要求する運動に対決してまわった。その助けをかりて、公安委員会も最高価格制を放置することがでぎた。この法令の精神に反して、七月五日、各県当局に個人から自由に穀物を買入れる許可が与えられた。最高価格制を要求する運動は退潮していった。ジャック・ルーとマラはこの問題で決裂し、ジャック・ルーが脅迫の言葉を残して立ち去った。その四日後にマラが暗殺されたので、はじめは、暗殺がジロンド派の手によるものではなくて、過激派の手によるものであろうと思われたほどであった。


過激派の闘争と買占め禁止法

七月二七日、ロペスピエールが公安委員会に参加を求められて加わった。新公安委員会の成立から約二週間の間、まだ目だった変化が起こっていない。国民公会は封建貢租の無償廃止をあらためて確認し、貢租の徴収を禁止した。これは、前年の八月一〇日に無償で廃止されたものの再確認にすぎなかったが、廃止されたものの、所によっては事実上徴収された場合があったので、これを禁止することによって徹底したのである。ただ、そうではあっても、全体的にみれば前年の廃止令が画期的な変化であることにはまちがいがない。

亡命貴族財産の売却について、七月二五日あらためて布告したが、これも根本的な変化を見せたわけではなかった。重大な変化は、七月二七日ロペスピエールの公安委員会入りと前後して審議され、翌日に可決された買占め禁止法であった。ここにいたる過程は、過激派の攻勢、貧民の騒動、これにたいする国民公会の対応が複雑に絡んでいる。

ジロンド派追放の六月二日にはロペスピエールもマラも過激派と歩調を合せて、ジロンド派追放の大衆行動を起こした。しかし、その直後ロペスピエールは過激派との闘争をはじめた。ロペスピエールは、六月一〇日のジャコバンクラブでジャック・ルーを非難し、ルーの愛国主義は疑わしいと言った。ところが、ダントンのまわりに集まる議員が、投機的にルーを保護した。その一人シャボの発言に喝采が集まり、ロペスピエールの発言には冷やかな反応がみられた。ロペスピエールは、過激派との苦しい闘いをはじめたのである。このころ、彼は公安委員会を過激派の攻勢から守る側に立っていた。

七月二〇日、パリの食料事情が悪化した。パン屋の店先に行列がつくられ、パン屋は小麦粉がなくなって閉店した。もうすこしで、全般的な暴動に発展しそうな気配を示した。

この危機を利用して、過激派は攻勢に転じた。ジャック・ルーは、投機業者と買占め人にたいする戦争を宣言せよといい、銀行家の逮捕を要求した。ルクレールは買占め人を死刑にせよと主張した。最高価格制を要求する代表が、各地からパリに派遣されて米た。国民公会と公安委員会は、そのような過激な方法を採用する気はなかった。食料事情を好転させるために、食料担当の公安委員ランデが、必死になってパリにたいする食料の供給に奮闘した。

しかし、それだけでは下層民の憤満を押えきれず、なんらかの譲歩をしなければ暴動を誘発する恐れがでてきた。

ここにいたって、最高価格制に代る提案として、ビョー・ヴァレンヌが「買占め禁止法」を提案した。買占め人にたいして、死刑を適用することにより物資を放出させようというのである、買占め禁止の対象になる品物については、コロー・デルボアがより詳しい法案を提出し、可決させた。この法案で、ビョー・ヴァレンヌとコロー・デルボアはロペスピエールより左翼というイメージを植えつけ、のちに公安委員会に加盟する足場を築いた。

同じ七月二七日、ロペスピエールが公安委員会に入ったが、彼の役割は過激派との闘争であった。彼は、とくにジャック・ルーとルクレールを徹底的に攻撃し、群集をその影響から引きはなした。彼の活動とパリの食料供給が成功したことが相まって、多くの区が過激派の影響からはなれ、国民公会と公安委員会に忠誠を誓うようになった。こうして一時的に過激派は孤立した。


過激派の弾圧

しかし危機の緩和は一時的なものであった。七月三一日ベルギーとの国境にあるヴァランシェンヌが陥落した。オーストリアの大軍がパリをめざして南下の気配を見せはじめた。ジロンド派の反乱が広がり、またブルターニュ、ノルマンディー、フランシュ・コンテの各地方がパリから離反したので、パリへの食糧輸送が停止された。こうした効果が重なって、八月の末にかけて食料不足が深刻なものになった。

こうした危機的状態の中で、戦争問題と軍需工業の振興を担当する者として、カルノーとプリュール(コート・ドール出身)がバレールの紹介で公安委員会に迎えられた。このときは異常な情勢のもとであったから、公安委員の任命も、かなりおざなりなものであった。人選はバレールにまかせきりの状態である。プリュールが公安委員会入りをすすめられたとき、カルノーを推薦して断わった。ところが、バレールは「そうか、それでは二人とも」といって、国民公会に提案した。国民公会は、なんらの討議もなしにこれを可決した。そのような形で入った者が、大臣を指揮して、独裁的な権力を振ったのである。二人とも、ジャコバンクラブには加盟していない。

他方で、過激派の弾圧がすすめられた。ジャック・ルーはある程度孤立したが、彼の拠点グラヴィリエ区では、区の総会の議長になり、「サンキュロット万歳、ジャック・ルー万歳」の歓声で迎えられた。八月一八日から政府を攻撃し、各地で騒動を引きおこしたので、二七日パリコミューンの命令で逮捕された。一度釈放されたが、九月五日に再逮捕され、革命裁判所に送られようとした。この時、ナイフで身体を突きさし、自殺を試み、この傷がもとで死んだ。もっとも激烈な過激派がまず消減した。奇妙なことに、ジック・ルーにたいするパリコミューンの告発は、「王党派的思想で人民をまどわした」というものであった。彼の方針が適切であったかどうかは別としても、少なくとも王党派とのつながりは立証されていない。それでも、過激派が王党派とみられるのは注目すべきことである。

 

要約 第五章 恐怖政治の展開 一 過激派の攻勢と敗北

この節でいうことは、「ジロンド派追放で、すぐに恐怖政治になったのではない」ということです。6月から9月までは穏やかであった。マラですら生ぬるいと批判する有様であった。マラが暗殺されても、まだ復讐に立ち上がるというものではなかった。この点は、古くからの情緒的なフランス革命史とは違う

ロベスピエールの公安委員会入りが遅かったということも書いている。俗説では最初から実力者であるかのように書いているが、実は「新入り」なのだ。しかも「無任所大臣」のようなものだ。これが頼りにされていくのは、過激派の攻勢に立ち向かったからである。とはいうものの、彼も過激派に突き上げられて、もたもたした時期がある。その結果、過激派の要求を認めざるを得なくなる。この点は国民公会議員全体の責任になる。これがいわゆる恐怖政治の実行だ。

しかし、過激派の要求を聞いていたのでは,フランス国家は成り立たない。時期を見て過激派を抑圧した。まずはジャック・ルーの逮捕、自殺があった。これで一度は抑えたかと思われた。