2022年3月25日金曜日

24-フランス革命史入門 第六章の一 ダントン派とエベール派の没落

第六章 フランス革命の終結


一 ダントン派とエベール派の没落


革命政権の腐敗

歴史の表面だけをながめると、フランス革命の政争は理念と理念の闘争にみえる。恐怖政治の時期では、自由、平等、友愛、サンキュロット主義、祖国愛が高く掲げられ、革命家は情熱と献身をもって生きぬいたように思える。

すべての革命家が理想を説いた。しかし、一歩裏にまわると、革命を利用して私腹を把やした。理想を語り、反革命との命がけの闘争をおこなったからといって、その人が清廉潔白のまま身を処していくとはかぎらない。

アナトール・フランスの小説に『神々は渇く』というのがある。ここで扱われているのは、革命家達が、欲望に渇いた狼のように財産、地位、女にむかって突進した姿である。これを読むと、革命に悪意をもっているのではないかと思うほどであるが、そこに書かれている姿は意外に事実を反映しているのである。

革命権力に入りこんだ者は、多かれ少なかれ腐敗した。ロペスピエールが「腐敗しない人」と呼ばれ、プリュール(マルヌ出身)が「清廉の士」と呼ばれて尊敬されたのは、それだけ、腐敗しない人が稀少価値をもっていたからである。

一連の革命的政策は、たしかに革命フランスの危機を救った。それは無条件で認めなければならない。ただ、それが文字通り正義の方面ばかりに動いていたというわけではない。革命的政策を逆用して私腹をこやした人間は無数であり、一年すぎてみると、得体の知れない新興成金が雨後のたけのこのごとく現われたのである。

強制徴発に出かけて必要以上の牛を殺し、これを投機業者に売ったり、商人から最高価格で取上げた品物をヤミ価格で転売してもうけたり、亡命貴族やジロンド派系の商人の財産を没収して、倉庫に入れておきながら、その品物を横領した者もいた。

ジロンド派系の商人を捕えて親族からわいろを受取り、釈放した派遣委員や行政官がいた。有名な革命家が、同じような方法で財産を蓄えた。エベールは、一〇〇万リープル以上を手に人れた。ショーメット(靴屋の息子で、パリコミューンの検事になる)や保安委員のバジール、シャボも腐敗汚職で有名になり、財産を蓄えた。九月二日の虐殺に活躍したセルジャンとパニは、獄中で殺された者の宝石を奪い、総徴税請負人や特権会社の理事がもっていた有価証券を手に入れた。

八月一〇日の英雖ダントンは、英雄的行為をしていたときでも宮廷から金をもらい、亡命貴族を保護してやり、御用商人デスパニヤックと結びついてたちまちのうちに巨大な財産をつくった。成功すると、一六歳の娘を妻に迎えた。しかもこの娘は王党派系であったという。

トップがこれであるから、ダントン派議員はとくに腐敗議員の集合体であった。御用商人に転身したファーブル・デグランチーヌ、肉屋あがりの新興成金ルジャンドルなど、彼らは革命政策を利用して、一攫千金のチャンスにありついた。

大砲で反革命容疑者を撃ち殺した派遣委員フーシェは、同時に反革命容疑者の財産を徹底的に横領し、フランス有数の大財産家になった。その財産を基礎に、ナポレオン時代にはオトラント公爵になる。

派遣委員としてトイツ軍と勇敢に闘い、ドイツ側から「火の悪魔」と呼ばれたメルラン(チオンヴィル出身)は、大御用商人ランシェールと結託して大規模な土地を手に入れた。やがて、国民公会で、友人にたいしてその土地で鹿を追いまわすことを自慢するようになった。このように、有名な革命家の多くが、私腹をこやすことでもまた能力を示したのである。


ダントン派の寛大政策

ダントン派は、モンクニヤールから平原派にかけて、ダントンのまわりに集まって来た議員でつくられていた。実業家議員と呼ばれるほど営利的な行為が目だっていた。ダントンが公安委員から除かれて以後、御用商人デスパニヤックの不正取引が追及され、その契約が国民公会によって破棄された。それでもまだ、派遣委員のジュリアン(ツールーズ出身)に保護されていたから安全であった。そのジュリアンが九月、保安委員会から追放されると、デスパニヤックが逮捕された。ジュリアンもダントン派である。

他方でインド会社事件がおこった。これは、革命中の最大の疑獄事件である。特権会社インド会社は、特権を奪われたとはいえ莫大な資産をもっていた。その株が高値を維持していたので、アシニアの価値下落を気にしていた財政委員会のカンボンはインド会社を目の敵にしていた。

ジロンド派追放以後、インド会社の立場が危うくなると、ダントン派義ーのシャボ、バジール、ドローネ、ジュリアンが共謀し、複雑な汚職事件を仕組んだ。彼らは先手を打ってインド会社を告発、インド会社の清算委員に入りこんだ。そのつぎに、インド会社理事と裏で交渉して、有利な清算条件を作る代償としてわいろをとった。そのかたわら、バッツ男爵、銀行家ブノワと組んで、インド会社の株を買叩き、大もうけをたくらんだ。バッツ男爵は革命前の宮廷貴族、財界の世話役、国王と王妃の救出作戦をおこなった王党派の活動家である。極端な王党派と極端な革命家とが結合している姿である。

これに、ダントンのスポークスマンのような立場にあったファーブル・デグランチーヌが加わった。こうして、インド会社清算委員会は、委員六人のうち、カンボンとラメルを除く四人がインド会社ぐるみの陰謀に加担した。その結果、一時会社に有利な清算条件が作られたが、内輸もめから、一一月に入って疑獄事件として露見した。

ドローネ、シャボ、バジールが逮捕された。ただし、ジュリアンは黒慕のバッツ男爵、ブノワとともに逃亡に成功した。この疑獄事件の審理が進むにつれて、ダントンやファーブル・デグランチーヌの身辺が危険になってきた。

彼らは、早急に恐怖政治を撤廃させる必要に迫られた。その第一歩として、最高価格制の廃止を要求し、エベール派の叩ぎ落しをはかった。一七九三年一二月五日、カーミュ・デムーランは新聞『コルドリエクラブの老兵士』を発行して、徴発政策のいきすぎや、革命軍の盗賊行為を非難し、恐怖政治の廃止、エベール派の排除を宣

伝し、公安委員会の改選を要求した。その影響により、一二月一七日、エベール派のロンサン、ヴァンサン、マイヤールが逮捕された。


エべール派の極端政策

ダントン派から目の敵にされたエベール派は、恐怖政治を極限にまで押しすすめようとする傾向を示した。彼らを支持した貧民の本能的な要求が、それに一致したからである。エベールは、「商人には祖国がない」とか「大商人から小商人にいたるまですべてが買占め人である」から、彼らにギロチソを発動せよと主張していた。

エベール派の活動家は、買占め摘発の運動に熱心であった。ダントン派議員のロヴェールが酒類を買占めていたエベール派の検査官、デュクロケが摘発したこともある。こうして、両者は敵対関係に入った。

エベール派は、九月五日の事件で国民公会に恐怖政治を押しつけて以来、つねに一歩過激な政策をうちだして、政府に圧力をかけていた。王妃とジロンド派の処刑にも、エべール派の圧力が大きく作用した。その後、旧体制の裁判官、検事、弁護士を反輩命容疑者にせよと要求した。

食料事情が好転して貧民の経済要求がおさまると、非キリスト教化の大衆運動をまきおこした。僧侶財産の国有化は、カトリックの教会にたいする攻撃の第一歩であったか、まだ信仰そのものは尊重され、僧侶にたいしては国家から俸給が支払われていた。しかし、戦争と革命が激しくなるにつれて、宗教そのものにたいする攻撃が盛んになった。すでに一七九二年九月、教会の銀器を徴発したが、一七九三年七月二二日、教会の鐘を徴収し、これを大砲に作り変えることが命令された。

こうして、宗教心の低下を国民公会がすすめた。この年の九月一八日、僧侶の俸給はさらに引下げられた。もはや僧侶は官吏ではないと、財政委員会のカンボンがいった。

キリスト教そのものにたいする否定をまっ先におこなったのは、僧侶出身の派遣委員であり、彼は派遣先で宗教上の祭りに代るものとして共和祭をおこなった。エべール派はこの動きに乗って、キリスト教の否定と唯物論的思想を極限にまですすめようとした。一一月六日エベール、ショーメット、モモロ、クローツ、レオナール・ブルドン、ペレーラがパリ司教ゴベルに面会し、僧侶の職を辞職して寺院を閉鎖することを迫った。

このため、パリ司教は、パリコミューンと国民公会に僧職の辞退を申し出て、十字架をはずし、赤帽子をかぶった。これが非キリスト教化運動のはじまりである。パリコミューンはこの運動を全国に広めた。各地の立憲僧が僧職を辞退し、それとともに寺院の破壊、略奪がまきおこった。この運動は、異常ともいえるほどの熱狂の中でおこなわれた。

僧侶とキリスト教を否定したあとに、理性の崇拝が置きかえられた。一一月一〇日、パリコミューンはノートル・ダム寺院を「理性の神殿」と命名して、「自由と理性の祭典」がおこなわれた。神にかわるものは三色旗を着た女優であった。新しい神「理性」の前にはあらゆる宗教が姿を消さねばならぬというわけで、プロテスタントも解散させられた。宗教的儀式は禁止され、葬式からも僧侶が排除され、赤帽子の官吏が儀式をおこない、遺体に三色旗をかぶせることにした。

一一月一一日、国民公会では僧侶の俸給全廃論がとりあげられ、キリスト教徒と国家の分離が討論された。その一環として、一一月二四日、従来のグレゴリウス暦にかわるものとして「革命暦」を公布した。二月から三月にかけては風が強く吹くので「風の月」(ヴァントゥーズ)、七月から八月にかけては熱いので「熱月」(テルミドール)などと呼んだ。

それにしても、この理性崇拝、非キリスト教化運動は爆発的に盛り上ったので、公安委員会、保安委員会も不安を感じながら、しばらくは静観していた。まだまだ宗教心が根強くのこっているのに、宗教を捨てることを大衆に強制するのは、宗教的反乱を招く。ただでさえ内外の敵にかこまれているのである。これ以上敵をふやすことは、革命政権を危うくすると心配したのである。


エべール派は人民の前衛か

エべール派の極端な運動をどのように評価するかも、フランス革命の解釈の中で重要な位置を占める。ある人はこれを人民運動の前衛といい、そこに後年のプロレタリア革命の原形をみる。そこまでいかなくても、エベール派を、方法は過激にすぎたが、とにかく公安委員会よりは革命的であり、公安委員会よりも左翼であると解釈する。

しかし、エベール派には裏面があった。その裏面をみるならば、人民の前衛ではなくて、ブルジョアジーの一分派であることが理解できる。もちろん、エベール派はサンキュロット、とくにもっとも貧しい人民の中に強い支持をもっていた。それだけに、貧民の本能的な要求を、生の形で政治的スローガンに掲げ、大衆運動をまきおこした。そのかぎり、人民運動の前衛とみえる。

ところが、目を一歩転じて、エベールを取りまく指導者集団をみるならば、サンキュロットとほど遠い一群の上層ブルジョアがめだつのである。しかも、外国人銀行家が多い。

非キリスト教化運動をすすめたクローツは、国民公会の議員でもあったが、もともとプロシアの貴族で、大船主で、国際的な大財産家であった。莫大な資金力で国民公会の有力者となり、ジロンド派政権のときに、占領地の合併、征服戦争の拡大をめざして奮闘した。世界共和国の主張を宣伝し、無神論を説いてまわった。ロベスピエールがクローツの意図を疑い、クローツを弾劾し、のちにジャコバンクラブから除名させた。こうして、彼は

一二月二八日に逮捕されることになる。

エベール派にプロリという銀行家がいた。プロリはオーストリアの貴族で、パリに銀行を作っていた。戦争のはじまったころ、『世界主義』という新聞を発行して、一種の世界革命運動を宣伝していた。公安委員のエロー・ド・セシェルは、プロリを秘書に使うほど信用していた。マラも、プロリを「国民が耳をかたむけるべき人民の友」とほめた。しかし、このころになると、プロリは各区で毎晩集会がおこなわれている「人民協会」を作り、この人民協会を中央委員会にまとめて、これを指導した。そして、人民協会中央委員会の請願運動によってパリの非キリスト教化運動がまきおこされた。ロベスピエールはプロリのことを、革命的共和主義婦人クラブを裏で指導している「見えざる妖精」だと非難した。

コックはオランダ人銀行家であり、エベールと同じ区に事務所をもっていた。エベールや革命軍司令官のロンサン、そのほかエべール派の指導者が、彼の家や別荘に出入し、ぜいたくな食事を取り、宴会を開いていた。

ペレーラは、ボルドーに住むユダヤ系ポルトガル人の宝石商人であり、パリでタバコ工場を経営していた。彼も非キリスト教化運動の推進者であった。

デフューはボルドーから来たブドウ酒商人で、ジャコバンクラブ通信委員会議長にもなり、エベール派の出資者でもあった。しかし、彼も王党派のバッツ男爵をかくまい、インド会社事件の黒慕にもなった。デフューを除けば外国人銀行家が多いので、エベール派の行動が、「外国人銀行家の陰謀」と呼ばれたほどである。ここにエベール派の本質があった。

彼ら外国人銀行家は、外国から貴金属を持ちこみ、これでアシニアを買い叩き、アシニアを集めて国有財産を買込み、これを転売して巨利を得ていた。ところが、国民公会の政策でそれが止められ、そのうえ交戦国国民の財産没収がおこなわれたので、窮地にたった。彼ら外国人銀行家は、公安委員会を敵視し、さらには国民公会そのものをも敵と考えるようになった。そこで、貧民の運動を煽動して、これを国民公会に対立させ、革命権力そのものをほうむり去ろうとしたのである。ここにエベール派の本質があった。


エべール派の粛清

まず外国人銀行家が先に逮捕された。クローツ、プロリ、デフューが年末までに逮捕された。コックは翌年の三月一四日、エベール派とともに逮捕されたが、仲間が先に捕えられたことがエベール派の危機感を高め、反乱の計画を早めさせた。

ちょうど、反乱がうまくいくのではないかと思われるような情勢が出現した。一七九三年の末までは、食料事情は一応落着いていた。ところが、一七九四年に入ると、今度は肉の欠乏がめだってきた。肉屋の前に行列が作られ、婦人達が食べるものを求めて走りまわった。行列に男が割り込み、喧嘩がおこり、食料の取り合いがおこって、毎日多くの婦人達が傷ついた。牛乳もなくなり、バターを手に入れるために、一人の婦人が命をおとしそうになった。農村から乳牛が到着すると、人間が殺到して食いつくしてしまった。

三月一日、パリの武器工場の労働者が「食べるものが無いから働く必要もない」といって暴動をおこしそうになった。国民衛兵が、これをかろうじて解散させ、治安を維持していた。こうした情勢をみて、エべールは武器を取って新しい「五月三一日」を再現すること、すなわち国民公会の包囲を唱えた。エベールは、大商人から小商人まで売手の側に同盟があり、これに勝つにはギロチンしかないと宣言した。三月四日、エベールの提案で、コルドリエクラブが「聖なる反乱」を宣言した。三月七日、つぎのような張紙がだされた。

「兄弟よ、いまや諸君が大群をなして立ち上り、敵をくだき、諸君の食料を確保し、不当に逮捕されている愛国者を救いだすべきときがきた」。

このようにしてエベール派の反乱計画が宜言されたが、食料間題と獄中の愛国者の救出が結びつけられているところに、問題がある。獄中の愛国者とは、プロリ、クローツ、デフューが連想される。エベール派の呼びかけた武装蜂起は不発に終った。大衆運動は意外なほどおこらなかった。エベールはパリコミューンを巻きこもうとしたが、議長のリュバンが反対した。ジャコバンクラブも反対した。

国民公会の議員は一致して反対し、エベール派の保護者であった公安委員のビョー・ヴァレンヌですら反乱計画を非難した。そこで、エベール派からは、彼にたいしてクロムウェル派という非難が投げ返された。エべール派のロンサンが、

「私は二四時間クロムウェルになりたい。国民公会の構成は良くない。一人も正直な人間はいない。私は全員を殺してしまいたい」

といったと証言する者が現われた。エベール派の反乱計画は、国民公会全体に対立したものであった。三月一三日、サン・ジュストが公安委員会を代表して、「外国人陰謀家についての報告」を国民公会に提出した。

ここで、エベール派と革命軍の指導者が公金を略奪し、囚人を解放し、革命政権を転覆しようとしたと弾劾された。またエベール派が商業を混乱させたために、パリの食料不足が深刻になったといって、エベール派の極端な政策そのものが、食料危機の京囚になったときめつけた。

同じ日、検事総長フーキエ・タンヴィルが逮捕状を作成し、エベール派が逮捕された。エベール、モモロ(コルドリエクラブ議長)、ロンサン(革命軍司令官)、ヴァンサン(陸軍大臣秘書長)、デュクロケ(買占め検査官)、マジュエル(革命騎兵軍司令官)などであった。

エベール派は、三月二四日、さきに逮捕されていたクローツなどと、このときに逮捕されたコックなど外国人銀行家とともに処刑された。これ以後、エベール派残党に対する粛清がすすんだ。エベール派処刑の二〇日のちに、エベール派でパリコミューン検事のショーメットが処刑された。エベールとショーメットの処刑以後、商人にたいする迫害がやんだ。

ブリシエは陸軍大臣書記官をしていて、大フェルミエをギロチンにかけろと演説したり、国民公会から平原派のひきがえるを追放せよと要求した人物であるが、七月に処刑された。

エベール派の保護者とみられた陸軍大臣ブーショットとパリ市長パーシュが投獄された。しかしまだ、エベール派的な勢力は根強く残っていた。パーシュはパリ民衆に人気があり、「パパ、パーシュ」といわれていた。五月一日のパーシュ解任について、パリコミューンは賛成を表明せず、沈黙を守っていた。国民公会はこれに不安をいだいて、パリコミューンを政府の支配下におき、以後選出されて来た者については、公安委員会に任命権があるものとした。


ダントン派の処刑

エベール派の逮捕処刑については、ダントン派の力が強く作用した。ダントン派は、恐怖政治の早期終結をめざして、まずエべール派の叩き落しを狙った。ダントン派はエベール派とちがって、議員の中に、末広がりに支持者をもっていた。そのため、言論と国民公会の決議を、主な武器にした。ファーブル・デグランチーヌが革命軍指揮官の腐敗、堕落、不正行為を告発して、すでに一七九三年一二月一七日、エベール派のロンサン、ヴァンサン、マイヤールを逮捕させた。

しかし、彼がインド会社疑獄事件に関連したことがわかると、ジャコバンクラブから除名され、やがて投獄された。そうすると、入れかわりに、逮捕されていたエベール派が釈放された。このとき、公安委員のコロー・デルボアが、ダントン派にたいする猛烈な批判をはじめて、彼らの不正行為をあばきたてた。こうして、ダントン派とエベール派が闘って、傷つけ合った。公安委員会と保安委員会は、両方の党派を警戒しはじめた。すると、どたん場になって、両派の提携が実現するかにみえた。ダントンは、ロンサン達の釈放を支持しながら、ファーブル・デグランチーヌの釈放も要求した。

この戦術的な提携が、公安委員会転覆の陰謀へ発展しそうになった。そのときに、三月一三日エベール派が粛清された。ダントン派も危機感を感じたが、なにもしなかった。

ダントン派の将軍ヴェステルマンは、先手を打って武力行動にでようとすすめたらしいが、ダントンはそれに応じなかった。自分の名声と、国民公会における力を過信していたのか、エべール派の蜂起宣言に大衆が反応しなかったのをみて、強気になれなかったのかはわからない。ただ、新聞でカーミュ・デムーランが公安委員会を批判して、最後の反撃を試みただけである。

三月十六日、インド会社事件の報告が保安委員会から発表された。公安委員会の中では、ビョー・ヴァレンヌとコロー・デルボアがダントン派の逮捕を熱心に主張した。ほかの委員も賛成したが、ロベスピエールが反対して抵抗した。そのために逮捕令が遅れて、三月三〇日ダントン派にたいする逮捕令がだされた。ロベスピエールが積極的でなかったことも、注目すべきことである。

概説書の水準では、ロベスピエールで公安委員会を代表させ、ロベスピエールの意志でダントンの首を切ったという形で説明し、彼を血に飢えたテロリストであるかのように描いているものが多い。ダントンの陽性にたいするロベスピエールの陰性、前者の不道徳にたいする後者の道徳性など、個人の気質、性質をダントン派粛清の理山にする本が多い。そのような説明は便利でよいかもしれないが、事実ではない。実際に熱心であったのは、他の公安委員であり、とくにコローとビョーであった。

三月三〇日ダントン派捕された。ダントン、カミュー・デムーラン、ドラクロア、フィリッポーであり、以前に捕えられていたファーブル・デグランチーヌ、シャボ、バジールも裁判に引きだされた。これに、公安委員のエロー・ド・セシェルが加えられた。エローはダントン派たけではなく、エベール派のプロリとも親しく、王党派ともっき合いがあった。彼の無節操な行為が問題になったのである。

これに大御用商人のデスパニヤック、オーストリア銀行家のフライ、スペイン人のグスマン、ヴェステルマン将軍が加えられて、四月五日処刑された。

グスマンはスペインの貴族で、パリでは得体のしれない事業で財産を作っていた。ドラクロワ、シャボなどグントン派と親しい反面、プロリとともに『世界主義』を編集し、エベール派とも結んでいた。ジロンド派追放の武装蜂起で、まっ先に警報を鳴らしたので、「警鐘」というあだ名で通っていた。彼はすでに一七九三年九月投獄されていた。彼の意見によると、ジロンド派追放の武装蜂起のとき、ロベスピエール、マラをジロンド派とともに消し去るつもりであったという。

ダントンを支持する議員の一団、チュリオ、ルジャンドル、バラ、タリアン、メラン(チオンヴィル出身)などはグントンを救おうと努力した。タリヤン、ルジャンドルは国民公会で積極的に抗議をおこなった。しかし暴露されたダントン達の不正行為は、誰も否定できないものであった。ダントン派の逮捕処刑は、重大な抵抗に合わずに終った。

最後の段階になって、ダントンを支持する議員と将軍達は、武力でダントンを取り返そうとする陰謀をめぐらしたが、結局は失敗した。ダントンは、一方で八月一〇日の英雄になりながら、他方で汚職、公金横領、反革命的勢力との内通をしていたので、ついに身を滅した。国民公会の大多数がブルジョアジーの代表者であったとしても、ダントンのやり方には、ブルジョア社会の規範を越えた悪らつさがあり、汚職事件として摘発されるべき性質のものであった。そのために、国民公会全体からも見はなされたのである。

要約 第六章 フランス革命の終結 一 ダントン派とエベール派の没落

エベール派はコルドリエクラブと地盤にして、貧民の要求をくみ上げ、ジャコバンクラブよりもさらに急進的な政策を要求し、パリの市役所、区役所に相当する行政機関に進出して、恐怖政治の政策を実行した。その時、肉不足が深刻になり、それをエベール派が利用して、権力奪取に動いた。国民公会ではエベール派の支持者は二人しかいない。ビヨー・ヴァレンヌ、コロー・デルボアであった。だから事実上、成功すれば、国民公会議員の全員追放になる。殺してしまうという言葉も使われた。国民公会議員は生死の境に立たされた。

ダントン派は平原派の中で作られたダントンの取り巻きであって、恐怖政治の早期終結を主張し始めた。汚職議員が多かったので、そろそろ危ないと思い始め、汚職暴露に熱心なエベール派をたたこうとした。双方が相手の手の内を知っているので、暴露した事実は正確であった。それを保安委員会がつかんで、捜査を始めた。これに気が付いたエベ-ル派とダントン派が、土壇場で、手を握り、クーデーターを起こして、国民公会を転覆しようとした。保安委員会と公安委員会が協力して、機先を制して、両派の指導者を逮捕、処刑した。これが事件の真相である。  その時、ロベスピエールは、ジャコバンクラブでエベール派の影響力が拡大しないように努力した。その一環として、ヴァントゥ―スー法を提案し、国民公会で可決させた。その内容は後で説明する。エベール派の排除という意味では、ロベスピエール個人の役割は非常に大きかった。ダントン個人の死刑については、反対したようだ。公安委員会で、みんなで説得して、半日くらい署名が遅れたが、その署名も小さく書かれたという。ところが、後世の文学的歴史観では、ロベスピエールが英雄ダントンの首を切り、血がどっと流れ出たというような書き方になった。

0 件のコメント:

コメントを投稿