2022年3月25日金曜日

22-フランス革命史入門 第五章の二 恐怖政治の推進力

二 恐怖政治の推進力


エべール派と過激派残党の提携

過激派の勢力が後退したのは、ほんのわずかの時期だけであった。九月のはじめになると、突然エべール派が過激派の生き残りと提携して、攻勢に転じた。エベールは八月一〇日以来パリコミューンに参加し、マラが暗殺された後、自分がマラの後継者であると自称していた。そのため、彼の新聞『ペール・デュシエーヌ』でジャック・ルー批判をおこなった。エべール派のデフィユーはジャコバンクラブの有力者であったが、ジャック・ルーにたいする告発委員会を組織した。こうしてジャック・ルーはロペスピエール、マラからエベールにいたるまでを敵にまわしたのである。またデフィユーは過激派ルクレールにたいする告発委員会を作れと要求した。

ところが急に向きを変えて、過激派と提携し、国民公会と公安委員会に圧力をかける側にまわった。エべール派の転向をもたらした事情はいくつかある。九月二日、ツーロン軍港がイギリス軍の手に落ちたという報道が伝わり、フランスに衝撃を与えた。内務大臣の地位をめぐってエベール派とダントン派の候補が争い、ダントン派のパレが任命されたため、政争に敗れて反体制の姿勢を強めた。

もう一つ、八月末に食料事情が絶望的になり、エベール派の意見を変えさせた。パリでは一日四五〇〇袋の小麦粉を消費するのに、一日四〇〇袋しか到着しなくなった。この食料不足のため、九月四日パリで騒動が引きおこされた。国立軍事工場の労働者、国立印刷工場の労働者、大工が街頭にでて騒いだ。アシニアで賃金をもらうが、これでは生きていけないというのであった。国民公会は、この運動を押えるために、印刷工場の全労働者を逮捕すると布告した。

こうした状態のもとでの国民公会が、労働運動の抑圧ばかりに目がむくことにも注目しておかなければならない。ジロンド派を追放したからといって、国民公会が労働者の側に立ったというものではない。国民公会は、できれば労働者をそのままの状態で働かせておきたかった。労働者のために、なにごとかの対策を立てるとするならば、大規模な大衆運動の圧力をうけて、やむをえずいやいやながら、つきつけられた要求について決議するだけであった。

そうした事態があらわれた。もはや逮捕の脅迫では運動を静めることはできなかった。なぜなら、労働者が飢え死に寸前に追い込まれたからである。約二〇〇〇人の男女がパリコミューン議事堂の前に押しよせた。彼らはパン屋でパンを手に入れることができず、飢えのために集まったといった。彼らは昼も夜も働きながら、パンが手に入らないといった。パリ市長と群集の代表とが食料について討論をしている間に、群集があふれ、「パンを!パンを!」という叫び声で満たされた。

パリコミューン検事ショーメットが、群集と国民公会の間に立って奔走した。彼は国民公会にかけつけ、事件の重大さを知らせた。しかし、この日国民公会の議長をしていたロペスピエールですら、群集の状態については軽く考えていた。

「国民公会は食料問題に没頭しており、それが人民の幸福を実現するだろう」

と答えて、一般最高価格について国民公会が投票したばかりであるといい、法令の抜粋を与えた。ショーメットがこれを持ち帰り、群集の前で読み上げたが、反応はよくなかった。

「われわれに必要なのは約束ではない。必要なのはパンだ。そしていますぐ」。


九月五日の事件-恐怖政治の出発点

ショーメットはここで機転をきかせた。彼が国民公会の側に立って発言していると、群集から完全に離れるおそれがあった。彼はすかさず机の上に飛び上った。

「私もかつては貧乏だった。それで貧乏人とはどういうものかは知っている。いまここに金持と貧乏人との闘争がある」

という前おきで、群集を沈黙させておいて、革命軍を編成して小麦の輸送と徴発をおこなわせ、金持の策動を止める法令を要求するために国民公会へ行こうと演説した。この演説で、ショーメットは群集を押える立場を捨てて、群集を率いて国民公会に圧力をかける側にまわった。

エベールは、すでに革命的共和主義婦人クラブのクレール・ラコンブやルクレールと提携していたが、この運動に乗って、八月一〇日の武装蜂起やジロンド派追放のような大衆運動を、もう一度引きおこそうとした。

「人民は明日群をなして国民公会に行こう。そして八月一〇日や五月三一日のように国民公会を取りまき、公会議員がわれわれを救うために適切な法令を可決するまでとどまろう。革命軍は法令が可決されるやいなや出発し、ギロチンがこの軍隊のあらゆる部隊についていくことを要求しよう」。

これで、飢えに苦しむ群集がエベール派の指導権のもとに入った。ロベスピエールは、ジャコバンクラブでこの行進にたいして反対した。しかし、止めることはできなかった。ロベスピエールとしては、この貧民の運動にいかに対処するかが主な課題となった。

翌日の九月五日、パリ市長パーシュと検事ショーメットを先頭にした群集が「暴君と闘え、貴族主義者と闘え、買占め人と闘え」というプラカードを立てて、大群をなして国民公会に行進した。群集の代表が傍聴席を埋めた。ショーメットが請願書を読上げ、食料問題を解決するための革命軍の編成を要求した。

群集の支持を頼んだ一群の議員が積極的に発言した。ビョー・ヴァレンヌが革命軍の編成、反革命容疑者の即時逮捕を要求してくいさがった。ダントン派義員がこれに賛成した。しかし、モンタニヤール議員の中でも、このような形で、群集の圧力に譲歩することは反対だという者が多かった。彼らは、別な議題をもちだして議事をそらそうとした。ロベスピエールもそうであり、ジャンボン・サンタンドレ、バジール、ロムなどがそのように動いた。傍聴席の群集は、それに不満のつぶやきを示した。このときは、平原派議員はほとんど発言しなかった。彼らは、このような群集には支持者をもたないので、発言すると危険であった。

ついに群集の圧力が勝ち、革命軍の創設と反革命容疑者の逮捕が可決された。反革命容疑者の逮捕の権限は、各区の革命委員会に与えられたから、国民公会は、権限を下部に移譲したことになった。


大公安委員会の権限

つぎの九月六日、前日に群集の側に立って大きな役割を果したビョー・ヴァレンヌとコロー・デルボアが公安委員会に入った。彼らはエベール派を攴持し、九月二日の虐殺をはじめ、革命中のいくつかの虐殺をおこなわせたテロリストであり、コルドリエクラブで影響力をもっていた。このとき以来、エベール派の力が公安委員会の中に入りこんだ。

この日以後の公安委員会が大公安委員会と呼ばれ、恐怖政治の推進者とみなされている。委員は一二人で、エロー・ド・セシェル、バレールが平原派からモンタニヤールに接近した者であり、とくにバレールが雄弁と抜群

の記億力で全体の上に力をもっていた。

カルノーは正式の族ではないが、弁護士の家に生れ、軍隊に入って技術将校になった。軍人と技術者の両方を兼ねていた。軍事担当の公安委員として戦争を指導し、勝利の組織者と呼ばれるようになる。

プリュール(コート・ドール出身)は軍需工業を担当し、ランデは食料を担当した。ジャンボン・サンタンドレは海軍を担当した。

プリュール(マルヌ県出身)は「清廉の士」と呼ばれ、ロベスピエールとともに腐敗行為のぜんぜんなかった数少ない革命家の一人であるが、ヴァンデー暴動の鎮圧とか、ブレスト、ナントへの派遣委員をしていたために、ほとんど公安委員会に出席しなかった。

ロベスピエール、サン・ジュスト、クートンがロベスピエール派三人組であり、ジャコバンクラブを足場にしていた。それにくらべると、カルノーとプリュール(コート・ドール出身)はジャコバンクラブに加盟せず、ランデは加盟してもぜんぜん行かなかった。

ビョー・ヴァレンヌとコロー・デルボアはコルドリエクラブを代表し、ニベール派の支持者であった。大公安委員会は一種の寄せ集めであり、さまざまな党派の集合体であった。

この公安委員会が、九月一三日権限を強化した。財政委員会と保安委員会を除くすべての委員会を監視、指導できるものと定められ、臨時行政会議(内閣)は公安委員会に従属して、たえず報告をおこなう義務を課せられた。ここで公安委員会の独裁が出現したといわれる。

公安委員会の独裁は、そのままロベスピエールの独裁で、ロベスピエール派はサンキュロットあるいは小ブルジョアの代表であるから、サンキュロットあるいは小ブルジョアの権力ができたという説が多い。しかしそれは早合点である。あくまで、財政委員会と保安委員会は独立している。この事情は、意外に強調されないのである。

つぎに、公安委員会の中で、ロベスピエールはそれほど大きな力をもっていない。この二つは記億にとめておく必要がある。


内外の危機と革命裁判所の活動

九月五日の行進を転機に、大公安委員会が成立して本来の恐怖政治が推進された。このとき以来、経済的にも政治的にも、恐怖政治といわれる内容のものがいっせいに動きだした。それを押し進めたのは、貧民の大衆行動を背景としたニべール派の圧力であった。

普通の時代区分では、ジロンド派の追放が恐怖政治を実現する時期とされているが、それは正確ではない。変化が大きいのは、九月五日以後のことであり、六月二日から九月五日までは、まだ目だった変化を示していない。変化といわれるものはただ一つ、強制公債の徴収だけであった。九月五日以後、恐怖政治がすすめられた。

情勢が絶望的になって、群集が半狂乱の状態になり、食料を求めてかけまわった。しかも、オーストリアの大軍がベルギー国境からパリをおびやかし、フランス海軍の根拠地ツーロン軍港がイギリス軍に占領され、スペイン軍がピレネー山脈を越えて侵入した。ヴァンデーの反革命軍が荒れ狂い、ジロンド派の反乱が広がって、国民公会の支配する地域はフランス全土の約半分になった。

その事情も加わってパリへの食料が入ってこなくなった。この事情を見越して、商人や大農民が穀物を買占めた。人民は、餓死寸前の中で、敵国軍と反革命による占領、虐殺を予感した。恐怖政治は、それを押し進める側の絶望感、恐怖感からひきおこされたのである。

恐怖政治の代名詞にされる革命裁判所も、九月五日以米急速に活動をはじめた。革命裁判所は一七九三年三月一〇日、フランス軍が敗北をはじめたときに設立され、判事と陪審員が国民公会から任命された。しかし、裁判所の活動はゆっくりしていて、しかも寛大であった。死刑を宣告したばあいは少なく、反革命容疑者をあいついで釈放した。ここにマラもジロンド派から告発されて立ったが、無罪となった。しかもマラを暗殺したシャルロット・ド・コルデーについても、裁判長モンタネが救おうとつとめた。

このようであったから、九月五日までは、革命裁判所はその名に価するほどの活動はおこなわず、ロベスピエールが、革命裁判所の仕事の遅さをジャコバンクラブで批判するほどであった。しかし、九月五日以後事態は変った。判事と陪審員が補充、増加され、四つに分れて、そのうちの二つが常に動くようになった。

これ以後、革命裁判所はつぎつぎと反革命容疑者に死刑を宣告していく。革命裁判所の判事と陪審員には、職人、労働者はいない。ブルジョアジーに属する者から、せいぜい職人の親方、中小承認までであり、ロベスピエールが下宿をしていた指物師デュプレーも参加していた。僧侶や貴族も何人か参加している。貴族の中には侯

爵の爵位をもつ高級貴族が二人もいる。貴族を公職から追放せよという過激派やエベール派の主張は、結局、革命の全期間を通じて実現されなかったのである。階級的にみれば、革命裁判所も国民公会も、公安委員会も、ほぼ同じ性格をもちつづけていた。


一般最高価格制の効果

懸案の一般最高価格制は、九月二九日やっと布告された。それまで、たびたび請願がおこなわれても、国民公会では議事の引きのばしがおこなわれた。平原派議員はもちろん反対であるが、モンタニヤール議員の多くも乗り気ではない。しかし、結局は決定せざるをえなくなった。

生活必需品の品目を定め、これの最高価格を決定した。違反したばあいは罰金を課し、違反者は反革命容疑者のリストに載せられる。告発者には賞金が与えられる。最高価格は品目によってちがったが、だいたい一七九〇分の一を加えたものとされた。しかも、労働者が労働を拒否したばあい三日間の禁固に処すと決められたから、労働者にたいしては寛大な法律とはいえなかった。

待望の最高価格が実施されると、生活必需品の価格が引下げられた。そうすると、群衆が商店に押しかけ、ついに商店は空になった。群集もまた、安い値段で買占めたのである。一〇月の末になると、酒類、パンがなくなった。パリコミューンはパンの切符販売制を実施したが、多くの市がこのまねをした。肉、砂糖の配給制も実施された。商人は、最高価格で売ればもうけにならないから、商売をやめた。買占めていた者は、時期を待つつもりで商品を隠した。

こうなると、最高価格制そのものが、かえって商品流通を妨げ、品不足を引きおこし、食料不足をすすめる。このことは、当時の官吏も指摘していることである。国民公会議員が最高価格制をしぶったのも、そのためである。しかし、だからといってもう後もどりすることはできない。

残るところは、買占め人を摘発するための強制徴発と隠匿物資摘発の家宅捜査であり、違反者にたいする厳罰しかなかった。ここで経済的な恐怖政治につきすすむことになる。これを、クレール・ラコンブが革命的共和主義婦人クラブを代表してパリコミューン総会に提案した。パリコミューン総会は、一〇月四日ショーメットの提案を受入れ、革命軍の後に巡回裁判所とギロチンをついて行かせ、買占め人を即席裁判で裁き、処刑する案を国民公会に提案した。一〇月一五日、店を閉めた食料品店にたいする家宅捜査が決められた。


食料委員会と革命軍

一〇月半ばから品不足が深刻になり、一日に二〇〇〇袋必要であるのに市の倉庫にも小麦粉が一〇〇袋しかないという事態になった。この食料危機の対策として、食料委員会が組織され、食料問題のすべての権力を握った。

これは、一〇月二七日バレールの提案で決定され、食料委員会の最高指揮権は公安委員会のランデが握った。この委員会には三人の大ブルジョアが顧間として入った。大銀行家ムートン、食料品商人レギリエ、穀物の大商人ヴィユモランの三人であった。食料委員会が、パリをはじめとする大都市への食料供給に活躍したが、正規の買付けだけでは食料を集めることができない。

農村に出かけて穀物を徴発し、この食料を安全に守って都市へ運びこまなければならない。そのためには、武力の背景が必要である。しかし、正規軍はすべて国境にいる。そのため、革命軍が新しく編成された。革命軍は正規の軍隊とも義勇兵ともちがって、食料間題の解決のために編成されたものであった。革命軍の行動は、まさに恐怖政治そのものであった。

ブリシエのジャコバンクラブでの発言は、それを象徴している。彼はフェルミエ(大農民)の買占め、売りおしみについての演説のあとにいった。

「その観察は正しい。しかし革命軍が出発するやいなや、その不安は消えるだろう。革命軍の行動方針はフェルミエの財産であるべきだ。村に着いたなら『フェルミエは金をもっているか』と尋ね、そうだという答ならば、彼をギロチンにかけてよい。彼が買占め人であることはたしかである」。

これに示されるように、革命軍は農村をまわって食料を徴発し、家宅捜査をおこない、違反者を処刑してまわった。経済法則を無視した荒っぽいやり方ではあったが、一時的には、食料を調達して都市における食料不足をやわらげた。

この革命軍の人的資源は、地方によってまちまちであるが、一般的な傾向としては、兵士は職人、労働者から小商人、職人の親方、自家営業者の階層で構成されていた。しかし、混乱の中で編成されたのであるから、不純なものも大量にまぎれこんだ。最高価格制のために商売ができなくなった者が、仕事をやめる口実に革命軍に入った。山賊や行商人、失業者も入隊し、亡命貴族の下僕が世問の目をそらせるために入隊した。貴族や僧侶がまぎれこんだこともあった。そのため、革命軍の家宅捜査が、そのまま盗賊行為になったことも多い。

革命軍の指揮官をみると、サンキュロット出身者の数は少なくなり、法律家、公証人のような知識人からはじまって、ブルジョア、大土地所有者の階層が多数を占めていた。そして、ブルジョア出身の指揮官の中に激烈な者が多かった。恐怖政治、必ずしもサンキュロット的でなくて、ブルジョア的でもあったのである。

パリの革命軍司令部の顔ぶれをみると、革命軍のブルジョア的性格がよくわかる。可令官のロンサンはエベール派の闘士であったが、革命軍を指揮して流血の弾圧をおこない、有名なテロリストになった。しかし、この間に財産を蓄え、オランダ人銀行家ド・コックの食卓にエベールとともに常連として招かれていた。革命軍司令官として激烈な行動をしながら、大銀行家の家に出入りしていたのである。

司令官付副官のヌリは俳優であったがダントン派であり、自分の友達の俳優を引き入れ、司令部が楽屋のようになり、売春婦でにぎわっていた。

副官マジュエルはエベール派であったが、豊かな絹商人の一族であった。革命騎兵軍司令官になりながら、ぜいたくな堕落した生活を送り、多くの女に囲まれていた。のちに逮捕されたときにも、四輪馬車にニ人の女を同乗させていた。このような例が多いので、革命軍もまたどこまでもブルジョア的なものであった。


過激派の消滅

国民公会と公安委員会は群集の圧力に応じて恐怖政治をすすめていったが、同時に、群集を煽動した過激派にたいしては弾圧をつづけた。クレール・ラコンプにたいしては、九月一六日ジャコバンクラブで激しい非難が加えられた。彼女がでて答えようとすると、ヤジにつつまれた。

もう一人の過激派ヴァルレにたいしても、王党派であるとかジャック・ルーの一味であるという批判がおこな

われ九月一八日保安委員会が彼を逮捕した。保安委員会の中で過激派攻撃に熱心だったのは、シャボとバジールである。しかし、ヴァルレは、パリコミューンの請願があったため、一一月一四日釈放された。

九月二二日、クレール・ラコンプの革命的共和主義婦人クラブが新しい運動をおこそうとした。彼女らは革命裁判所の増設、貴族の二四時間以内の裁判、王妃とジロンド派の処刑を要求するとともに、パリの諸区の代表からなる中央委員会を設置せよと要求した。この最後の要求はパリコミューンや国民公会にかわる、新しいパリの権力機関を、彼女らの指導権のもとに作ろうとしたものである。

国民公会では、彼女らにたいする批判が集中し、別な婦人団体や革命的男子のクラブと自称する者が、革命的共和主義婦人クラブを攻撃した。一〇月三〇日、国民公会は革命的共和主義婦人クラブの解散を布告した。一一月一七日、クレール・ラコンブを先頭にした婦人の団体が、赤帽子をつけてパリコミューン総会の議事堂に押しいった。このあと、クレール・ラコンブが逮捕された。これ以後、婦人の革命運動は急速に冷えていった。彼女は一度釈放されてから、翌年の四月エベール派逮浦に関連して再逮捕された。しかし多くの婦人からの釈放の請願があり、その翌年に釈放された。しかし、もはや活動の場はなく、屋台屋をして細々と暮し、やがてパリを離れて消息を断った。

ヴァルレも、釈放されてからもう一度政治活動をしようとしたが失敗し、その後の消息は絶えた。ルクレールも翌年に逮捕され、消息が絶えた。こうして、一時はなばなしく連動の表面に立った過激派指導者は、一七九四年の一〇月から一一月にかけて弾圧を受け、その後大衆運動の基盤を失った。あまりにもあっけない最後というべきである。

食料危機が一段落して人心が静まり、しかも敗戦からそろそろ戦勝に向いつつあって、危機感が薄れていったという事情が背後にある。彼らの運動は、危機の産物であったから、危機が去れば消滅する。彼らは、大衆の本能的な要求を、生の形で代表したのであるが、その大衆は、政治経済的な危機のときだけ動いたのである。 

要約 第五章 恐怖政治の展開 一 過激派の攻勢と敗北

この節でいうことは、「ジロンド派追放で、すぐに恐怖政治になったのではない」ということです。6月から9月までは穏やかであった。マラですら生ぬるいと批判する有様であった。マラが暗殺されても、まだ復讐に立ち上がるというものではなかった。この点は、古くからの情緒的なフランス革命史とは違う

ロベスピエールの公安委員会入りが遅かったということも書いている。俗説では最初から実力者であるかのように書いているが、実は「新入り」なのだ。しかも「無任所大臣」のようなものだ。これが頼りにされていくのは、過激派の攻勢に立ち向かったからである。とはいうものの、彼も過激派に突き上げられて、もたもたした時期がある。その結果、過激派の要求を認めざるを得なくなる。この点は国民公会議員全体の責任になる。これがいわゆる恐怖政治の実行だ。

しかし、過激派の要求を聞いていたのでは,フランス国家は成り立たない。時期を見て過激派を抑圧した。まずはジャック・ルーの逮捕、自殺があった。これで一度は抑えたかと思われた。


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