2022年3月25日金曜日

21-フランス革命史入門 第五章の一 過激派の攻勢と敗北

第五章 恐怖政治の展開


一 過激派の攻勢と敗北


旧公安委員会への不満

一七九三年六月二日、ジロンド派議員が追放されたとしても、恐怖政治がすぐに出現したというわけではなかった。これは、内外の情勢に押されて、段階的にきびしくなっていくものである。さしあたり六月二日から七月一〇日までは、これという厳格な政策は打ちだされていない。ジロンド派追放の効果としては、累進強制公債が全国的に実施されたことであった。これだけは全面的におこなわれた。

つづいて六月二四日、「一七九三年憲法」を可決した。ただし、この憲法は精神論的な効果しかなく、実施されたこともない。穀物の最高価格制は、原則として決定されただけで、実施されてはいなかった。国民公会も公安委員会も、できればこの実施を引きのばしたかった。このときの公安委員会は、累進強制公債の政策だけで外国との戦争に勝ち、反革命暴動を鎮圧しようとした。たしかに、六月二九日、革命軍はナントを包囲していたヴァンデーの反乱軍に反撃し、これを撃破することに成功した。

しかし、足もとのパリその他の大都市の状態は危険なものになった。六月の末、過激派のジャック・ルーに煽動された洗濯女が男達をけしかけて、パリの港で石けんの箱を奪い取り、これを勝手に値段をつけて分配した。この騒動は、アシニアの下落、物価の暴騰を反映したものであった。アシニアは三〇パーセントに下落したといわれているが、ところによっては二〇パーセントに下落した。それに応じて物価が上昇した。買占めの影響もあって、上昇率はまちまちであった。

この時期の価格を、一七九〇年六月の価格とくらべてみると、もっとも暴騰したのがじゃがいもで八倍となっていた。牛肉は二倍以上となり、小麦は三分の一程度の上昇であった。

労働者や職人の不平が深刻になった。が、公安委員会は何もしなかったので、七月四日、マラが公安委員会の字をもじって、「政策を失った委員会」と非難した。同じくモンタニヤール議員ヴァディエは、ジャコバンクラブで公安委員会が眠っていると批判した。ジロンド派議員にたいする逮捕令がだされても、厳格には実施されず、イスナールやランジュイネのように逃亡に成功した者もいた。平原派的色彩の強い公安委員会であったから、これは当然であった。


公安委員会の改選

公安委員会にたいする批判が強くなり、七月一〇日、この改選がおこなわれた。ここで平原派の多数とダントンが姿を消した。八月一〇日の英雄グントンは、デュムーリエの反逆のときは巧妙に身をかわして、まだ革命の英雄としての名声を保ったが、彼のまわりにただよう腐敗と反革命陰謀の輸に疑いが深まったのである。

新公安委員は九人で、バレール、ガスパラン、チュリオ、ランデ、ジャンボン・サンタンドレ、エロー・ド・セシェル、プリュール(マルヌ県出身)、クートン、サン・ジュストであった。この中で本来のジャコバン派を代表する者はジャンボン・サンタンドレ、プリュール、ランデ、サン・ジュスト、クートンだけであった。チュリオはダントン派である。バレールとガスパランは平原派で、エロー・ド・セシェルは、前にものべたように名門の貴族でありながらあらゆる派閥と関係をもち、御用商人のデスパニヤックからも金を借り、外国人銀行家とも親しく、亡命貴族の夫人(伯爵夫人)を愛人にしていた。こういうわけであるから、新公安委員会は、約半分がジャコバン派的性格をもっていたといえよう。

その直後、七月一三日マラが暗殺された。暗殺者は貴族の娘シャルロット・ド・コルデーであったが、彼女がジロンド派の影響を受けており、バルバルーと面会していたことから、ジロンド派の復讐であると思われた。これに関連して、ジロンド派議員のフォシエが逮捕された。「人民の友」といわれて、下層民の間で絶対的な人気をもっていたから、マラの暗殺はジロンド派にたいする敵意を激しくさせた。ジロンド派にたいする追求、報復が進行した。ただし、マラの政治的立場はこのとき微妙であった。彼はジロンド派追求のために、もっとも激しく行動した。その後もますます急進的な政策を主張し、貴族、僧侶を公職から追放せよといった。これをコルドリエクラブがとり上げて請願をおこなったが、ジャコバンクラブは熱心ではなく、ただ声明書をだしただけであった。マラは、ジャコバンクラブよりも過激とみられていた。

しかし、同時に、ジャック・ルーの運動にたいしては激烈に反対した。マラは最高価格制にたいして反対し、これを要求する運動に対決してまわった。その助けをかりて、公安委員会も最高価格制を放置することがでぎた。この法令の精神に反して、七月五日、各県当局に個人から自由に穀物を買入れる許可が与えられた。最高価格制を要求する運動は退潮していった。ジャック・ルーとマラはこの問題で決裂し、ジャック・ルーが脅迫の言葉を残して立ち去った。その四日後にマラが暗殺されたので、はじめは、暗殺がジロンド派の手によるものではなくて、過激派の手によるものであろうと思われたほどであった。


過激派の闘争と買占め禁止法

七月二七日、ロペスピエールが公安委員会に参加を求められて加わった。新公安委員会の成立から約二週間の間、まだ目だった変化が起こっていない。国民公会は封建貢租の無償廃止をあらためて確認し、貢租の徴収を禁止した。これは、前年の八月一〇日に無償で廃止されたものの再確認にすぎなかったが、廃止されたものの、所によっては事実上徴収された場合があったので、これを禁止することによって徹底したのである。ただ、そうではあっても、全体的にみれば前年の廃止令が画期的な変化であることにはまちがいがない。

亡命貴族財産の売却について、七月二五日あらためて布告したが、これも根本的な変化を見せたわけではなかった。重大な変化は、七月二七日ロペスピエールの公安委員会入りと前後して審議され、翌日に可決された買占め禁止法であった。ここにいたる過程は、過激派の攻勢、貧民の騒動、これにたいする国民公会の対応が複雑に絡んでいる。

ジロンド派追放の六月二日にはロペスピエールもマラも過激派と歩調を合せて、ジロンド派追放の大衆行動を起こした。しかし、その直後ロペスピエールは過激派との闘争をはじめた。ロペスピエールは、六月一〇日のジャコバンクラブでジャック・ルーを非難し、ルーの愛国主義は疑わしいと言った。ところが、ダントンのまわりに集まる議員が、投機的にルーを保護した。その一人シャボの発言に喝采が集まり、ロペスピエールの発言には冷やかな反応がみられた。ロペスピエールは、過激派との苦しい闘いをはじめたのである。このころ、彼は公安委員会を過激派の攻勢から守る側に立っていた。

七月二〇日、パリの食料事情が悪化した。パン屋の店先に行列がつくられ、パン屋は小麦粉がなくなって閉店した。もうすこしで、全般的な暴動に発展しそうな気配を示した。

この危機を利用して、過激派は攻勢に転じた。ジャック・ルーは、投機業者と買占め人にたいする戦争を宣言せよといい、銀行家の逮捕を要求した。ルクレールは買占め人を死刑にせよと主張した。最高価格制を要求する代表が、各地からパリに派遣されて米た。国民公会と公安委員会は、そのような過激な方法を採用する気はなかった。食料事情を好転させるために、食料担当の公安委員ランデが、必死になってパリにたいする食料の供給に奮闘した。

しかし、それだけでは下層民の憤満を押えきれず、なんらかの譲歩をしなければ暴動を誘発する恐れがでてきた。

ここにいたって、最高価格制に代る提案として、ビョー・ヴァレンヌが「買占め禁止法」を提案した。買占め人にたいして、死刑を適用することにより物資を放出させようというのである、買占め禁止の対象になる品物については、コロー・デルボアがより詳しい法案を提出し、可決させた。この法案で、ビョー・ヴァレンヌとコロー・デルボアはロペスピエールより左翼というイメージを植えつけ、のちに公安委員会に加盟する足場を築いた。

同じ七月二七日、ロペスピエールが公安委員会に入ったが、彼の役割は過激派との闘争であった。彼は、とくにジャック・ルーとルクレールを徹底的に攻撃し、群集をその影響から引きはなした。彼の活動とパリの食料供給が成功したことが相まって、多くの区が過激派の影響からはなれ、国民公会と公安委員会に忠誠を誓うようになった。こうして一時的に過激派は孤立した。


過激派の弾圧

しかし危機の緩和は一時的なものであった。七月三一日ベルギーとの国境にあるヴァランシェンヌが陥落した。オーストリアの大軍がパリをめざして南下の気配を見せはじめた。ジロンド派の反乱が広がり、またブルターニュ、ノルマンディー、フランシュ・コンテの各地方がパリから離反したので、パリへの食糧輸送が停止された。こうした効果が重なって、八月の末にかけて食料不足が深刻なものになった。

こうした危機的状態の中で、戦争問題と軍需工業の振興を担当する者として、カルノーとプリュール(コート・ドール出身)がバレールの紹介で公安委員会に迎えられた。このときは異常な情勢のもとであったから、公安委員の任命も、かなりおざなりなものであった。人選はバレールにまかせきりの状態である。プリュールが公安委員会入りをすすめられたとき、カルノーを推薦して断わった。ところが、バレールは「そうか、それでは二人とも」といって、国民公会に提案した。国民公会は、なんらの討議もなしにこれを可決した。そのような形で入った者が、大臣を指揮して、独裁的な権力を振ったのである。二人とも、ジャコバンクラブには加盟していない。

他方で、過激派の弾圧がすすめられた。ジャック・ルーはある程度孤立したが、彼の拠点グラヴィリエ区では、区の総会の議長になり、「サンキュロット万歳、ジャック・ルー万歳」の歓声で迎えられた。八月一八日から政府を攻撃し、各地で騒動を引きおこしたので、二七日パリコミューンの命令で逮捕された。一度釈放されたが、九月五日に再逮捕され、革命裁判所に送られようとした。この時、ナイフで身体を突きさし、自殺を試み、この傷がもとで死んだ。もっとも激烈な過激派がまず消減した。奇妙なことに、ジック・ルーにたいするパリコミューンの告発は、「王党派的思想で人民をまどわした」というものであった。彼の方針が適切であったかどうかは別としても、少なくとも王党派とのつながりは立証されていない。それでも、過激派が王党派とみられるのは注目すべきことである。

 

要約 第五章 恐怖政治の展開 一 過激派の攻勢と敗北

この節でいうことは、「ジロンド派追放で、すぐに恐怖政治になったのではない」ということです。6月から9月までは穏やかであった。マラですら生ぬるいと批判する有様であった。マラが暗殺されても、まだ復讐に立ち上がるというものではなかった。この点は、古くからの情緒的なフランス革命史とは違う

ロベスピエールの公安委員会入りが遅かったということも書いている。俗説では最初から実力者であるかのように書いているが、実は「新入り」なのだ。しかも「無任所大臣」のようなものだ。これが頼りにされていくのは、過激派の攻勢に立ち向かったからである。とはいうものの、彼も過激派に突き上げられて、もたもたした時期がある。その結果、過激派の要求を認めざるを得なくなる。この点は国民公会議員全体の責任になる。これがいわゆる恐怖政治の実行だ。

しかし、過激派の要求を聞いていたのでは,フランス国家は成り立たない。時期を見て過激派を抑圧した。まずはジャック・ルーの逮捕、自殺があった。これで一度は抑えたかと思われた。

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