2022年3月25日金曜日

28-フランス革命史入門 第七章の二 フランス革命と明治維新の比較

二 フランス革命と明治維新の比較


フランス革命に土地革命はなかった

フランス革命で土地命がおこなわれたという学説が、有力である。土地革命をどのように解釈するかはまちまちであるが、一応貴族の土地を没収して農民に与えるもの、あるいは、領主権を廃止して自作農民(分割地農民)を作りだすものと規定される。

フランス革命が典型的なブルジョア革命(市民革命)であるから、ブルジョア革命といわれるためには土地革命がなければならないという法則が、歴史家家の頭を強く縛りつけている。しかし、私は、ここまでのフランス革命の分析によって、極論すればフランス革命に土地革命はなかったといわなければならない。そうだとするならば、世界各国の歴史、とくに明治維新の解釈に重大な変化を与えることになる。

フランス革命では土地革命がおこなわれたのに、明治維新以後の日本では地主が残っているではないかとか、大名が公債をもって没落していないではないかというような対比がなされる。しかし、フランス革命でも大貴族は残った。ある者は直領地を保存したままで大地主であり、取上げられた者は、それに相当する公債を手に入れた。つまり後者の場合は、日本の華族と同じである。

領主権の廃止はたしかに無償であった。しかし直領地が残った。また、土地保有者としての貴族もいたので、これは土地所有貴族に上昇した。この点、日本の武士階級はそうしたものを持たず、完全に土地から引きはなされたから、日本の方が徹底的であった。土地から引きはなされたところは有償廃止であり、土地を残してらったところでは無償廃止である。プラス、マイナスを差引くと、同じようなものになる。

つぎに農民の側から土地革命がおこなわれたかどうかをみよう。これも第一章第三節の図を見なおすとわかるように、領主権の無償廃止をおこなったとしても、それによって完全な自作農になる農民の数も、土地もかぎられたものである。領主権の廃止で完全な土地所有者になるのは中農だけではなくて、商人地主も農民地主もそうである。

だから、領主権の廃止を農民革命と限定することはできない。ブルジョア地主、農民地主の地主革命ともいえる側面もあり、農民革命だけがフランスにおこなわれたわけではなかった。しかも中農以下の自小作農、小作農、日雇農、農業労働者の大群が、なんら土地所有者に生れかわることなく続いた。地主小作関係は依然として続いている。貴族の直領地、貴族あるいはブルジョアの地主の土地、大農民の土地においてである。これでは土地革命といえるものではない。

ちょうど日本で、明治維新以後、地主小作関係の土地が、約三分の一から約二分の一へと増加していった現象と同じである。

それでは、国有財産の売却が土地革命を作りだしたといえるだろうか。実はこれも、そうはいえないのである。この土地を買受けた者をブルジョアと農民と二つに区別してみると、ブルジョアの買取った土地の方が、農民の買取った土地より多い。しかも農民といっても大、中、小に分れており、大農民が大きな土地を買取った。入札竸売である以上、以前からもっている財産に比例して買取りの規模が決まるのは当然である。そのため、貧農が土地を買取って自作農に上昇するような機会はほとんどなかった。これでは、土地革命とはいえない。どこからみても土地革命といえるようなものはない。

ただ一つ、ロベスピエール派の政策、すなわちヴァントゥーズ法が実行されたならば、これこそ土地革命といえる事態がおこったはずである。そこでもう一度まとめると、フランス革命では土地革命の理念は提起された。だが、土地革命はおこらなかったのである。

まして、恐怖政治による封建貢租の無償廃止を強調することは論外である。封建貢租の廃止はジロンド派が基本的に達成した。多くの歴史家が、貢租の無償廃止を過大評価したのである。フランス革命以後、旧貴族の大土地所有が続き、彼らが昔の城に住み、ナポレオン時代や王政の復活の時代に、皇帝や国王のまわりを取りまいていたことをもっと考えるべきである。

もし土地革命がおこなわれていたのであれば、そのような大土地所有貴族が革命後も残っているはすがないではないか。このような簡単なことすら無視されているのは、不思議なことである。ただ、日本では、貴族大土地所有の残存について紹介されたものはまったくなかった。そこで私は、その実例について、多数のものを集め、これを紹介したことがある(『フランス革命の経済構造』五二七頁)。その一例だけを示すと、ツールーズ郡では貴族所有地約二万二六〇〇ヘクタールのうち、約一割だけが革命で失われ、残りの九割は無傷で残っていた。その中では、一〇〇〇ヘクタールとか、数百ヘクタールの土地所有者が多く見られる。


大工業は断絶しなかった

フランス革命で、アンシャン・レジームの特権工業、大工業が断絶したと主張する学説が日本で盛んである。これを主張したのは、大塚史学の側である。大塚久雄、高橋幸八郎、中木康夫の諸氏であるが、吉田静一氏もそのように書いている。実例としては、アンザン会社、ル・クルゾーその他がもちだされる。

日本では、これらの大工業が、フランス革命以後は存在しないと思われていた。しかし実際にフランスの工業やブルジョアジーの歴史を調べていくと、それらはれっきとして現代に続いているのである。ル・クルゾーを三分の一の規模に縮小して作ったのが、日本の横須賀海軍工廠であるから、日本にも深いかかわりあいがある。これをフランス革命で断絶したといい切っていたのであるから、この理論がいかに奇妙なものであったかがわかるはずである。

本書を読めば、こうした特権工業が、旧体制での特権は失ったにしても、公安委員会の手で積極的に再建育成され、フランスの国防力の強化に役立てられたことが理解できるはずである。

アンザン会社は革命によって破壊されたのではなく、オーストリア軍によって破壊されたのである。それを公安委員会の協力によって再建をはじめた。ところが、大塚史学では、こうした大鉱山がフランス革命で徹底的につぶされてしまうといっている。これが、大塚史学の理論的支柱になっている。しかし事実はそうではない。

大工業がフランス革命を通じて連続していることを、私は約一〇年前に『フランス革命経済史研究』で証明した。そこで、私の理論を断絶論にたいする連続論だという人があるが、連続論そのものを唱えるつもりはないのである。ただ、断絶もしないものを断絶したといって、フランス革命の基本的結果にもちこみ、これをブルジョア革命の一般法則にまで引きのばしていくやり方に反対したのである。いいたいことは、「そういうところにフランス革命の結果はなかった」という一点につきる。

フランス革命のときに、実際につぶれてしまった大工業もないことはない。すべてがすべて連続するのだとはいっていない。激動の時期であるから、当然断絶するものもありうることは否定しない。この問題についていえることは、あるものは断絶し、あるものは連続するというものであって、どちらか一方に偏した結論は非現実的である。

ただ、どちらかといえば、大工業とくに重工業に関しては、断絶しているものは少ない。それは、当時の戦争の必要からしても当然であり、ヨーロッパ最強のフランス革命軍の背景をなすものでもあった。

こうしたことをなぜ強調するかといえば、大塚史学のテーマでは、フランスの断絶にたいして日本の連続が対比されて、両者がまったく逆の立場におかれるからである。

フランス革命では特権工業が断絶した。革命は徹底的であった。日本では、三井、住友のような特権的ブルジョアが明治維新を通して連続している。だから日本の資本主義は封建的性格を残す。そのため、フランス革命はブルジョア革命であったが、明治維新は絶対主義をつくりだしたものにすぎない。

このように、大塚史学が日本の歴史とフランス革命を対比する。その理論的な土台にたいして、誤謬を指摘しているだけのことである。


恐怖政治の過大評価をいましめる

これとかかわりあいにあるのが、恐怖政治の解釈である。これをサンキュロット支配と解釈する説が有力である。サンキュロット支配のもとで、大工業をつぶし、土地革命を実現したというテーマは、古くから常識のようになってきた。本書での結論はまったくちがう。

恐怖政治はサンキュロット支配ではなく、平原派が集まる大ブルジョアジーの一派と、モンタニヤール主流に代表される中流のブルジョアジーと、ロベスピエール派に代表される小ブルジョアジーの連合政権であり、とくに経済的に重要な部署は、平原派とモンタニヤール主流で押えていた。そのため、サンキュロット支配ではないというのが結論になる。

また、恐怖政治の政策で、のちに成果として残ったものはなにもない。あくまでも、恐怖政治は、異常な状態のもとにおける一つのモデルを作りだしたものである。危機が去るとともに、その政策はすべて撤廃された。まして、恐怖政治が土地革命をおこなったわけではないし、特権工業を断絶させたわけでもない。この点ははっきりとさせておかなければならない。

ただ、それではフランス革命を他の諸国のブルジョア革命とまったく同列に引き下げてしまうべきかというと、そうではない。もっとも徹底的な条件のもとで、徹底的な政策がおこなわれ、この時代に、普通選挙制までが一時的にしろ実現したのであるから、やはりもっとも急進的な内容を含むブルジョア革命であったというべきである。

このことを否定するつもりはないが、ただその急進的な部分がのちにくつがえされたことを考え合せなければならないというのである。ナポレオン時代は一種の独裁制であり、王政復活は、それよりもさらに貴族的となり、七月王政すら普通選挙制を採用しない。第二帝政もそうである。フランスの民主主義が、国民公会の理念を再現するのは、一八七一年以後のことである。かれこれ八〇年のちということになる。フランス革命の民主主義的性格を、固定的なものとして過大評価することはできない。


政治革命論への逆戻りも正しくない

土地革命論や特権工業の断絶論、あるいは恐怖政治のサンキュロット支配を主張する学説は、いわばフランス革命の中に経済的内容をみようとする立場である。しかし、この三つの解釈は事実に合わない。

ところで日本はともかく、本国のフランスでは、学風が実証主義であることも手伝って、あまり経済的法則性を問題にしない。マチエ、ソブールのような解釈は一般的ではない。むしろ、フランスでの一般的な風潮としては、フランス革命が純粋に政治革命であって、経済的革命はなにもないのだという意見が強く見られる。

フランスの学者の最大公約数は純粋政治革命論であり、マチエ、ソブールのような立場は少数派であるとみてよい。ただし、それでは、政治革命論を唱える者はあらゆる角度から経済関係を綿密に調べあげ、いろいろ考えた結果なにもなくて、政治革命だけが残ると結論を下したのかどうかといえば、そうではない。フランスの学者には実証主義者が多いから、理論的な解釈には反感をもつのである。そのため、フランス革命は政治革命で、産業革命が経済的な変化をもたらしたという簡単な理屈ですませてしまい、そのことについて、あまり深く考えないのである。

イギリスやアメリカのフランス革命史家も、それに似ている。コバン、テイラーが代表的な者である。アメリカのテイラーにいわせると、社会的内容と称されるものは実現されていないから、結局は、フランス革命で政治的革命がおこなわれたにすぎないことになる。イギリスのコバンは、フランス革命で大土地所有が残ったことを強調し、「保守的大地主層の勝利」と規定した。そこから、フランス革命をブルジョア革命として評価することにも、否定的な立場をとっている。しかし、彼には、領地と土地の区別がつけられていない。そのため、奇妙な結論が出てくる。正確にいうならば、大領主は敗北し、勝利したブルジョアジーは同時に大土地所有者でもあり、貴族の大土地所有も残ったのである。いずれにしても、問題はもとにもどって、経済的内容の否定、あるとすれば政治的革命、せいぜい法制史的革命が加わる程度のもの、すなわち身分的平等、議会制度、近代的な裁判制度、郡県制などが、フランス革命の内容として評価される。


財政問題を忘れてはならない

これでよいかといえば、それでは古い歴史観に逆もどりしただけのことである。もともと古い歴史観は政治史中心で、経済的因果関係は抜きであった。しかし今日、社会の大変動は経済的因果関係を基本的な原因としておこるということが、常識になっている。そういう時代に、古い政治史中心の歴史観に逆もどりして、それでよいとするのは時代遅れである。

フランス革命に、基本的な経済的原因、結果が無かったのかと、もう一度問い直してみるべきである。ただし、土地革命、特権工業の断絶、サンキュロット支配はちがうものとしてである。

実は、この三つを否定したのちでも、経済的因果関係の最大のものが残っている。このことに気の付く人が少ないのである。最大のものとは、財政問題である。もともと、フランス革命の原因として財政間題があげられている。これはどの本でも、誰でもそうである。それでいながら、フランス革命の展開とともに、これを脇に押しやって、その他のことを論じることに熱中している。そこに、理論の断絶があった。

財政問題としてはじまったものは、財政問題として結着がつけられなければならない。この単純なことを多くの歴史家が忘れている。

本書の最大の特徴は、そこに焦点を当てたところである。そして、財政問題が、政治革命としての権力の問題に密接に結びついている。バスチーユ占領直後の財政政策をふりかえってもらうならば、それが理解できるはずである。

権力と財政政策の逆転をもう少し具体的にいうならば、国家権力を宮廷貴族が握るかブルジョアジーが握るかの争奪戦である。革命前は宮廷貴族(領主、貴族の最強の勢力)が、財政の実権をにぎってブルジョアジー以下を収奪していたのに、革命でブルジョアジーが国家の主人となり、貴族を含めた他の階層を支配収奪する立場に上昇したという一点につきる。これを純粋な政治革命というべきだろうか。租税政策、公債政策は、政治問題でなくて経済問題である。その意味で、政治と経済は密接に絡み合っている。


フランス史への誤解が日本史への誤解を生む

フランス革命の基本的な原因、結果は権力と財政の問題であり、貴族(領主)の権力をブルジョアジーの権力に置きかえ、財政政策を逆転させたことである。土地革命、特権工業の敗北、サンキュロット支配などは実現していない。議会制民主主義、身分的平等、郡県制、法律的改革などは、副次的なものである。その中には永続したものと、革命後逆もどりしたものとがある。副次的なものは、フランス革命の特殊性と考え、基本的な原因、結果が、ジョルジョア革命としての基本的法則と考えるべきである。これが科学的なものの見方である。

これをもって各国のブルジョア革命をみるならば、従来の学説とはちがった結果にたどりつくはずである。そのために、フランス革命の正確な理解がなによりも必要である。本書の意図するところもそこにある。

とくに我国の歴史解釈は、いままで、フランス革命の間違った解釈を当てはめていたために、でたらめな解釈で埋められてきた。たとえば、フランスの宮延貴族が、土地も領地ももっていないと思い込んで、これを日本の華族に当てはめ、日本の華族とフランスの宮廷貴族が同じであるから、天皇制は絶対主義だと主張した人があった。しかし、フランスの宮廷貴族は大領主であったとなると、この理屈は一挙にくずれる。

フランス絶対主義の国王が唯一最高の領主であるから、天皇も唯一最高の領主であるので、天皇制は絶対主義だと主張した人もいる。しかし、フランス国王は最高の領主であっても、唯一の領主ではなかった。これは第一章にくわしく書いてある。多数の領主の中の最大の者であったというにすぎない。そうすると、この理屈もこわれる。もし天皇制を絶対主義といいたいのであれば、多数の領主がいたことを証明しなければならないが、これは不可能である。

絶対主義的均衡論というのがある。絶対主義は貴族とブルジョアジーの勢力均衡のうえに、国王が独自の勢力として絶対的権力をふるうという図式である。これをカウツキーがフランス革命に適用して有名になり、戦前から戦後一〇年くらいまでは、まさに絶対的な真理のようにもてはやされたものである。これを日本に適用して、地主と財閥の勢力均衡のうえに、天皇が絶対的な権力をふるうという解釈で、天皇制を絶対主義であると規定する学説が有力であった。

しかし、フランス絶対主義は均衡ではない。王権を組織した者は貴族・領主の最大勢力としての宮廷貴族であった。ブルジョアジーは彼らに支配されていたのである。勢力均衡は、地方貴族とブルジョアジーの間にあっただけである。そのため、均衡論そのものの土台がくずれてしまう。

そうすると、均衡論の上に立つ天皇制絶対主義説もくずれる。天皇制を絶対主義だといいたいのであれば、天皇を取りまく高級官僚が、その時点での領主であることを証明しなければならないが、これも不可能である。

大塚史学では、フランス絶対主義の王権の支柱を、商人出身あるいはブルジョア出身の地主(または領主)であるといい、市民的土地所有が絶対主義の支柱であるという。これを日本にもって来て、日本の地主や財閥がそれに相当するといういい方で、天皇制絶対主義説を補強している。しかし第一章第一節でみるように、ブルジョア出身の領主やブルジョア出身の地主は、まだ被支配者である。

国王を取りまき、高級官職を独占したのは、古くから続く名門の貴族(領主)である。大塚史学の理論では、ブルジョアジーの最上層は、ブルジョア革命の前、絶対主義の時代にすでに支配者になったかのようにいわれる。

これは誤解である。特権商人層はまだ被支配者であった。だからこそ、彼らはバスチーユ占領に動いたのである。

その意味が、大塚史学では忘れられている。このように整理すると、日本の財閥や地主の存在を、絶対主義の証拠にする根拠もくずれる。


日本におけるフランス革命史研究の意味

領主権の廃止を比較して、フランスは無償であり、日本は有償であるから、日本は封建制の廃止という点では不徹底であるという意見が根強い。しかし、これも、両国のおかれた前提条件のちがいを考えずに作った理屈である。

第一章第三節にみたように、フランスの貴族は、領主権とともに直領地の土地所有権をもっていた。片方が無償で廃止されても、片方は居城とともに残る。日本の武士はそうしたものをっていない。だからこそ、フランスの無償と日本の有償がつり合うのである。貴族、武士をある程度のこしながら、妥協的に地位を低下させるという意味では、フランスも日本も同じである。

もし日本の武士を無償で解体させなければならないというのであれば、フランスでも直領地と城を取上げてしまわなければならない。そうしてはじめて、両国が徹底的であるといえる。日本だけに徹底さを要求し、不徹底だから封建制が残っているというのも、見当ちがいである。

また、バスチーユ占領の直後、すでにブルジョアジーが権力に達したときにも、フランスの領主権は一部維持された。もしこの時点で、革命が停止したとしても、十分ブルジョア革命としての意味があった。八月一〇日で領主権が完全に無償廃止となるが、バスチーユの時点でも、すでにブルジョア革命としての基本的成果は達成されている。領主権と封建制度あるいは絶対主義を混同してはいけない。これを混同するから、領主権の有償廃止は封建制の残存であり、したがって絶対主義であるという理屈になる。このようなことをいうならば、イギリスなどは領主権がそのまま残ったから、現代でも封建制度であるといわなければならないがそういう人はいない。

地主小作度が日本に続き、半封建的関係が続いたと強調する人がいる。フランス革命以後でも、地主小作関係が同じようなきびしさで続いたことを知らなかった段階で、しきりに唱えられた理論である。これもフランスのことを知らないために生れた理論である。

特権工業や特権的商業資本の連続や断絶を問題にして、日本は連続で、フランスは断絶だといっていたが、これも間違いである。むしろ、私が事実を調べたところによると、フランスに連続が多く、日本は三井、住友をのぞけば、鴻池と川崎銀行程度のものである。日本の側にむしろ断絶が多いことが指摘できる。

そういうと、日本の新興財閥は政商だといって反駁する人がいるが、それに対しては、フランスにもウヴラールのような政商が多数いたことを反証としてあげなければならない。

このように、フランス革命の正しい認識をもち、積み重ねられてきた誤解を解くことが、日本の歴史を正しく解釈する上で、決定的な意味をもっているのである。

このように説明してくると、勘のよい読者は、たとえ日本史についての概説書程度の知識しかなくても、明治維新がフランス革命と同じくブルジョア革命であったのではないかと思い直すだろう。少なくとも、明治維新がブルジョア革命でなかったと、フランス革命を根拠にして主張していた学説は、その根拠を失うことになる。

要約 第七章 フランス革命をどのように理解するべきか 二 フランス革命と明治維新の比較

フランス革命を正しく見る。そのうえで明治維新を解釈する。これが重要で、今までの学者たちの意見は、フランス革命を正しく理解していなかったから、その論争は、「暗闇の中のたたき合い」のようなものであったという。その要点は、土地革命論、特権的商業資本、大工業の断絶という大塚史学の理論、恐怖政治の過大評価、政治革命論、などの分野に及ぶ。私は、財政問題を忘れるなという。

結論。フランス革命についての正しい知識を持つと、明治維新が市民革命ではないという学説は、すべて間違いだということに気がつくはずである。 

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