2022年3月25日金曜日

26-フランス革命史入門 第六章の三 モンタニヤールの消滅

 三 モンタニヤールの消減


ジャコバンクラブの終末

ロベスピエール派が敗北したあと、たちまち効果があらわれた。人民委員会は解散させられ、そのメンバーは逮捕された。反革命容疑者の釈放を拡大する法令が、八月にだされた。

「反革命容疑者は大群をなして牢獄からでていった」といわれた。投獄されていたインド会社役は、テルミドール事件を「正義の日」といった。パリコミューンは国民公会の統制下におかれ、パリの官吏は国民公会から任命されることになった。ロベスピエール派の社会政策は、日の目をみることなしに消え去った。

多くの革命史では、このテルミドールの反革命をもって恐怖政治の終了、あるいはフランス革命の終結とみなしている。しかし、まだ恐怖政治の政策は完全には廃止されていない。最高価格制も穀物徴発政策も廃止されていない。それらが終るのは、もうすこし後のことである。まだ、モンタニヤールのほとんどは政権の座にいる。その意味では、テルミドールの反革命は、せいぜいのところ、ジロンド派追放以後の時点にもどしただけである。まだ恐怖政治の執行者の勢力は残存している。

これにたいして、平原派の実力者とモンタニヤールからの転向者が攻撃を加え、政権の座からモンタニヤール主流を引きずりおろした。その闘争が約二年続く。

七月二九日、ジャコバンクラブが再開された。ロベスピエール派が消えたとはいえ、まだジャコバンクラブは力をもっていた。これを指導したのはカリエであった。彼はナントへの派遣委員となり、そこでヴァンデーの反乱者にたいする極刑をおこない、僧侶を川に沈める「溺死刑」で有名になった。パリに呼びもどされるとエベール派に接近したが、追求はされなかった。カリエは、ジャコバンクラブから、タリヤンなどの転向者を除名した。

カリエはロベスピエールの後継者、ギロチンの騎士と呼ばれた。それでいながら、ロベスピエール打倒には活躍し、「暴君を殺せ」というカリエの呼び声がとくにめだっていたのである。ロベスピエール打倒といっても、いろいろな立場からの打倒があった。

完全に転向したタリヤン、メルラン(チオンヴィル出身)、フレロンなどの腐敗議員は、ブルジョアの子弟を集めて「金ピカ青年隊」を組織し、ジャコバンクラブ員を襲撃させた。この争いを続けさせておいて、国民公会でジャコバンクラブの解散を提案した。結局、一一月二二日、国民公会はジャコバンクラブの閉鎖を決議した。

カリエは告発され逮捕された。ここでジャコバンクラブは終りを告げた。


ジロンド派の復帰

七月二八日、国民公会の諸委員会を、一カ月ごとに四分の一ずつ改選することにした。八月二五日、カンボンの提案で行政権を一二の委員会に分散させることにした。これによって、公安委員会に集中していた行政権が奪われた。軍事委員会が軍隊を動かし、立法委員会が法律の作成と執行に大きな権限をもつようになった。立法委員会が、以後とくに大きな権限をもつが、議長はカンバセレスで、ここの委員は一人を除いてあとはすべて平原派であった。

九月一日、公安委員会が改選され、バレールと二人のエベール派の保護者ビュー・ヴァレンヌ、コロー・デルボアが除かれた。バレールは平原派議員で公安委員会の実力者であった。しかし、カメレオンというあだ名があるように、日和見をきめこみすぎた。ロベスピエールの全盛期に、ロベスピエール派に接近しすぎたために、平原派の信用を失ったのである。

かわって公安委員会に入った者は、ギュイトン・モルヴォー、フルクロワ、メルラン(ドウエ出身)である。ギュイトンはジロンド派追放の前後にわたって公安委員であったから、九三年春の段階にもどったことになる。翌年に入ると、公安委員会はモンタニヤールを完全に排除した。

こうした動きと並行して、モンタニヤールにたいする攻撃が、平原派やモンタニヤールからの転向者によっておこなわれた。すでに八月二九日、コワントル(ヴェルサイユ出身)が、コロー、ビョー、アマール、ヴァディエなど旧保安委員会と旧公安委員会のメンバーを、ロベスピエールの共犯者として告発した。この告発が続いて、バレールも共犯者に加えられ、彼らを未決拘留とするかどうかが審議された。

ジロンド派議員の呼びもどしもおこなわれた。一〇月二二日、これをめぐって激論がおこなわれた。モンタニヤールのグージョンが反対したが押しきられ、翌日からジロンド派議員が釈放され、一二月八日には国民公会に復帰した。

いまや立場が逆になり、旧公安、保安委員会のメンバーを告発する委員会の議長に、ジロンド派のサラダンがなった。一一月、ランデが穀物最高価格制の新体系を提出したが、タリヤンが反対し、ルジャンドルも反対を続け、一二月二四日、最高価格制と統制の廃止が決議された。これで商業は自由となった。買占め禁止法や穀物の徴発政策は撤廃された。

政府は食料の供給について、御用商人を保護するとともに、有力銀行家ペルゴを、商工業と輸入の振興のための審議会に迎え入れた。ペルゴは恐怖政治の時代スイスへ逃げていた反革命容疑者である。これに政府をまかせることは危険だと、モンタニヤールのデュアム、グージョンが反対したが、押しきられた。

平原派のボワシ・ダングラは、一七九四年一二月二七日、経済統制解除とともに、それに従事していた官吏を大幅に削減することをうちだした。人件費を節減して、商工業にまわすというのである。こうして、多くの革命家が失業した。

財政委員会では、カンボンにかわってジョアノが実権をにぎった。カンボンは地方商人であったが、ジョアノは大工業家、パリの大商人であった。ジョアノは交戦国国民の財産を返還することを打ちだした。こうして、平原派の中でも勢力の交代が起こり、カンボンのすすめてきた方針までも撤廃し、いわばジロンド派時代の政策にたちもどることがすすめられた。


ジェルミナルの暴動

全面的に恐怖政治の経済政策を廃止しようとする平原派の本流と、これに対抗するモンタニヤールの主流、平原派の中でのモンタニヤールの同調者(バレール、カンボン)が対立した。ただ、この闘争は、もはやブルジョアジー対サンキュロットの闘争というべきものではなくなった。大ブルジョアジーにたいする、中流のブルジョアジーの闘争であった。

モンタニヤールが押されて、ついに旧公安、保安両委員の起訴について討議がおこなわれているとき、またもや飢餓暴動がおきた。統制が解除されたために、物価が暴騰した。国立軍事工場が民間に払下げられたために、人員整理がおこなわれて、失業者が増えた。パリから燃料と食料が無くなった。ただし、今度は絶対的に無くなったのではなくて、金をだせば手に入れることができたのである。食料不足は下町だけにおこった。飢えと寒さから自殺者が相ついだ。これが一七九五年の冬から春にかけてのことであった。

この群集を、モンタニヤール議員が煽動した。一七九五年四月一日(ジェルミナル一二日)、パリの貧民が国民公会に侵入し、議事堂の外にも群集があふれた。彼らが「パンを!パンを!」と叫んだ。これを背景に、デュアム、シュディユーなどモンタニヤール議員が、平原派の政策に反対する演説をおこなった。

しかし、平原派の握る保安委員会と軍事委員会が軍隊を議事堂のまわりに集結した。タリヤン、ルジャンドル、ケレヴェルガン(ジロンド派)などに率いられた軍隊が銃剣で群集を解散させた。これがジェルミナルの暴動であり、これは失敗に終った。このあと、モンタニヤールにたいする追い撃ちがかけられた。

バレール、ビョー、コロー、ヴァディエの流刑が決定された。ヴァディエは逃亡した。約一〇人のモンタニヤール議員の逮捕が決定された。カンボンは逃亡、潜伏した。この事件のあと、国民衛兵の中で反乱に加わった者から武器を取上げた。これ以後の国民衛兵は自費で武装するものと定めて、完全なブルジョアジーの軍隊に作りかえた。

対決は約一カ月半のちに、もう一度おこなわれた。同年の五月二〇日(プレリアル一日)におこなわれたので、プレリアルの武装蜂起と呼ばれる。このときのスローガンが、「パンと九三年憲法」であった。

このころ憲法の審議がおこなわれており、こののちに来る総裁政府の政治体制が作られていた。モンタニヤールの残党は、九三年憲法の完全実施を主張して抵抗した。ロム、グージョン、デュケノワ、チュリオ、デュアムなどであった。これにたいして、メルラン(チオンヴィル出身)は「まだやっつけるべき四〇人ばかりのゴロツキがいる」といった。


プレリアルの暴動、パンと九三年憲法

食料不足があいかわらず続いた。とくに下町のサン・タントワーヌ街の労働者が、革命への幻減をあらわした。

「われわれは革命のためにささげた儀牲のすべてについて、後悔しはじめている」

「商業で盗賊行為をおこなう数千の投機業者の支配下にあるよりは、一人の王の専制政治の方がまだましだ」

「革命以来、貧しい階級の者が手に入れた成果はなんであったか。金持の軽蔑と、憲法にもとづく政府の抑圧である」。

この意見がパリの貧民の最後の政治的結論であった。五月二〇日、指物師のリシエが宣言した。

「ロベスピエールの支配の時期は血は流れたが、パンに不足はなかった。今は血は流れないがパンはない。パンを手に入れるために、血は流されなければならない」。

五月二〇日、警鐘がサン・タントワーヌ街とサン・マルセル街に鳴らされた。婦人がかけまわって武装した男を呼び集め、国民公会に行進した。彼らは国民公会に乱入して、抵抗した一人の議員の首を切り、議長のボワシ・ダングラにつきつけた。

この群集を背景に、モンタニヤール議員が、さきに逮捕されているモンタニヤール議員の釈放を要求し、平原派中心の保安委員会の解散を要求した。多くの議員は、帽子をあげてモンタニヤールに賛成した。

しかし、その間に政府の側は軍隊をかき集めた。議員のルジャンドルとケレヴェルガンが、司令官ラッフェとともに兵を率いて議場に突入した。ラッフェは倒れ、ケレヴェルガンは負傷したが、群衆は追い出された。群衆が追いだされると、モンタニヤール議員にたいして逮捕令が可決された。

翌日、サン・タントワーヌ街でもう一度武装蜂起がおきたが、もはや指導者も組織も不十分で、うやむやのうちに解散した。つぎの五月二二日、国民公会の側は財産をもっている者一人一人を選別して軍隊を編成し、五万人の大軍と三〇〇〇人の騎兵を集結して、サン・タントワーヌ街を包囲した。

「パリはこの瞬間一つの兵営と化した」。

サン・タントワーヌ街は陥落し、反乱の指導者としてサンテール(ビール醸造業者、二年前の国民衛兵司令官が逮捕された。牢獄は満員となった。モンタニヤール議員の処刑が続いた。こうして、ついにモンタニヤールが滅んだのである。

この反乱は、カンボン、チュリオ、デュアムが計画したものであるといわれたが、はっきりとした目標をもった反乱ではなかった。貧民の自然発生的な暴動がおこり、これが成功しそうになったときに、それに乗ろうとしただけであった。もはや、あいつぐ粛清で組織が弱体化し、一流の人物はつぎつぎと姿を消したので、運動も整然としたものにはならなかった。


恐怖政治の全廃

モンタニヤールが一掃されたので、社会制度は完全に逆もどりした。財政委員会のジョアノの努力で、株式市場の再開、商業取引所の再開がおこなわれた。処刑された者の財産が返還されることになった。処刑されたジロンド派議員の遺族にたいしても、補助金が与えられた。カンボンが国債利子の支払を停止し、三〇〇〇リーブル以上の年金を切捨てたが、これも撤回されて元どおりになった。

こうした政策により、大ブルジョアジーの財産は回復され、彼らの活動は昔どおりにおこなわれるようになった。五月三一日、革命裁判所が廃止された。恐怖政治の検事総長フーキエ・タンヴィルが処刑された。ジロンド派の反乱に参加して亡命していた者が、続々と帰国した。帰国した者は亡命者リストからはずされ、接収された財産は返還された。また、帰国しない者についても大赦令をだした。

この政策で、とくに貿易商人、問屋商人、工業家が多数もとの財産を回復した。財産がすでに横領されたり国家によって使われてしまったばあいには、それに相当する補償金が与えられた。ジロンド派議員イスナールは逃亡潜伏して死んだといわれていたが、国民公会に復帰した。彼の商店と工場にたいする補償として、約一五万リーブルが交付された。

こうして大ブルジョアジーの社会的存在は続いた。決して、恐怖政治によって断絶させられたわけではない。

ただし絶対主義にもどったわけではないから、亡命貴族のほとんどは帰国しなかった。亡命貴族の財産は国有財産としてまだ売りにだされていたが、これを正貨を基準にして売却することにした。もはや、アシニアの価値を維持することはどうでもよくなった。この政策で、国有財産は大財産の所有者でなければ手に入れることができなくなった。

六月に入ると、アシニアの切下げをおこなった。政府自身がアシニアの価値下落を公認したことになり、これでいままでは潜在的に進行していた物価上昇が公然としたものになった。物価は暴騰した。

これをおおまかな数字でとらえてみると、小麦の値段が、一七九三年八月つまり恐怖政治のはじまるころを基準にすると、一七九五年の四月すなわちジェルミナルの暴動のときには約四倍に上っている。しかし、それから半年後の一〇月には三二倍に上り、翌年の一月には三二〇倍へと暴騰している。ジェルミナル暴動のときから、九ヵ月で八〇倍の物価上昇である。猛烈なインフレーションが恐怖政治の終了とともに発生した。

国民公会は、こうしたインフレをおこしながら、国庫と大土地所有者をインフレーションから守ろうとした。

そのため租税と小作料の現物支払を命令し、官吏の給料は物価上昇率に合せて引上げた。こうした政策で、ブルジョアジーと大土地所有者は保護されたが、その犠牲は中間層から以下に伝嫁された。当然、不満暴動がおこるはずであるが、それよりもさきに、ブルジョアジーの側からするジャコバン派への迫害がはげしくなった。各地でジャコバン派の活動家が大量に虐殺された。ジャコバン派への迫害については、平原派議員もジロンド派の生き残りもともに熱心であった。昔商人を非難したという告発だけでも、迫害の対象になった。


大ブルジョアジーの完全支配

こうして、大ブルジョアジーの完全支配がもどって来た。ただし、この大ブルジョアジーは、革命前とまったく同じというわけではなかった。ある者は引き続き上昇し、ある者は革命中、あるいはその後の身の処し方でつまずいたり、脱落した。なにしろ激動の時代である。ブルジョアといえども、本人の才覚によって経営に成功しなければならない。

ペルゴ、ルクツーのような銀行家はますます成功した。ヴァンデル、ディートリックの遺族は工場を取戻し、鉄鋼王として発展した。しかし、大商人ビデルマンの経営は失敗して下り坂になった。その反面、ビデルマンの協力者ジョアノ、オディエ、ダヴィリエは成功し、とくにオディエは大工業家、銀行家となり、ダヴィリエの銀行はオート・バンク(上層銀行)に発展した。ラヴォアジエの財産は未亡人に返還された。彼女は上流階級の人間として残ったが、ラヴォアジエの事業は止まった。

他方、旧来の大ブルジョアと肩を並べるほどに、新興成金が上昇してきた。革命中のどさくさにまぎれて、一攫千金のチャンスを握った者である。政治家ではフーシェ、バラ、タリヤン、メルラン(チォンヴィル出身)、カンバセレスなど多くの者がいる。彼らは、たとえ昔恐怖政治をおこなったとしても、大財産をもち、ブルジョアとして生活をしているかぎり安全であった。そこには割切ったものがあった。

政治家以外にも新興成金が無数に現れた。その最大の者はウヴラールであった。彼は紙工場主から出発して投機で莫大な財産を作り、タリヤン、バラと結びついて軍隊の御用商人となり、最大級のブルジョアになった。

テレザ・カバリュスは、はじめクリヤン夫人となり、バラの愛人となり、つぎにウヴラールの夫人になった。

彼女は美人であり、社交界の花形であったから、「テルミドールの聖母」といわれた。モンタニヤールのデュアムはいった。「作家のいい方を使うなら、つぎのようにいうことができる。すべては、カバリュス夫人の閨房に結びついている。彼女の父は、サン・シャルル銀行の創設者で、われわれの財政を支配し、タリヤンをして、最高の愛国者を攻撃させた。」そのタリヤンが落ち目になり、総裁政府の時代「バラの王」といわれた総裁バラの全盛期には、バラの愛人となった。つぎに最大級の財産家、御用商人ウヴラールへと、割切った転身をつづけた。最大の御用商人と、カバリュスのサン・シャルル銀行の結合である。新興成金と旧来の大銀行の結合の象徴ともいえる。

「カンボンの世紀が終り、ウヴラールの時代がはじまった」

といわれた。カンボンは地方的な中流ブルジョアを代表していて、恐怖政治の財政政策を指導した。これが退陣して、巨大なブルジョアジーが国家を動かす時代になったという意味である。

要約 第六章 フランス革命の終結 三 モンタニヤールの消滅

多くのフランス革命史が、教科書も含めて、テルミドールの変で終わりにしているが、そうではなくて、続きがあるという。テルミドールの事件では、ロベスピエール派議員10名だけが消え去っただけで、モンタニヤール議員約140名はまだ健在であり、公安委員会その他の委員会で今まで通の地位にいた。彼らは今まで通りの権限が振るえるものと期待していた。だから正確に言うと、テルミドールの事件でモンタニヤールが消滅したと書くのは正しくない。ジャコバンクラブは、一度消滅し、すぐ再建され、それから消滅した。それでもモンタニヤールは残っていた。

やがて、平原派からの攻撃が始まる。これを見ると、平原派が「愚図、のろま、臆病、日和見」とぼろくそに言われてきた歴史観は、正しくないように見える。平原派もやるときはやる。まず公安委員会など重要な委員会のメンバーを入れ替えた。また公安委員会の権限を縮小した。これでモンタニヤールは元の野党に戻った。それだけではなくて、ジロンド派議員を呼び戻し、モンタニヤールに対する復讐戦を始めた。その結果、モンタニヤールは全滅した。ただし平原派に転向したものは残った。意外なことに、テロリストと呼ばれたものは残った。彼らは、億万長者になっていた。



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