2022年3月25日金曜日

23-フランス革命史入門 第五章の三 恐怖政治の効果

 三 恐怖政治の効果


外国人銀行家の迫害

パリには多くの外国人銀行家が集まり、外国人との取引をおこなっていた。彼らの多くは革命に協力し、積極的に革命運動の第一線に立った者も多かった。しかし、思想は思想、商売は商売と割切っている者が多く、一方

で革命政権に協力しながら、他方で亡命貴族にフランスから金、銀を送ったり、交戦国政府のスパイの役割を果したりしていた。

また、もともと外国から巨額の貴金属を持ちこんでいるので、これでアシニアを買叩き、安く手に入れたアシニアで国有財産への投機をおこなった。彼らの投機行為は、アシニアの価値下落を促進した。また、スイス人銀行家ペルゴにたいしては、イギリス外務省から、ジャコバンクラブに放火せよという手紙が来た。後に、これが発見された。こうした外国人銀行家の反革命的行為がつぎつぎに告発された。

ただし、外国人銀行家は国民公会のあらゆる派閥にわたってつながりをもっていた。まったく無関係な派閥は、ロベスピエール派だけといってもよい。さしあたり、九月五日までは、彼らは安全であり、逮捕されてもすぐに釈放された。九月七日、国民公会がすべての交戦国国民を逮捕し、財産を接収すると決議した。これにたいして、平原派のラメルは、財政委員の立場から、これが国際間の決済を傷つけるといって反対した。

保安委員会のシャボは、コルドリエクラブ出身で過激な革命家のように思われていたが、このころドイツ人銀行家フライ(ドイツ語で自由という意味、革命に迎合するために、こう自称した)の妹と結婚したばかりなので、この処置に抗議した。

このため、国民公会は外国人銀行家の逮捕を取り消し、封印を撤去した。これにたいして、革命的共和主義婦人クラブが熱心に抗議運動をおこなった。ロベスピエールもまた、外国人銀行家の逮捕を主張し、シャボを非難した。シャボはこのころ、昼のサンキュロット、夜の粋な王党派といわれていて、革命政権の腐敗を代表する人物になっていた。シャボが過激派攻撃に熱心だったのは、こうした事情による。彼は九月一四日、保安委員会から追放された。

一〇月一六日、再び交戦国の逮捕、財産の差押えが可決された。このため、外国人銀行家のある者は逃亡し、ある者は逮捕された。逮捕された者でも、すべての者が処刑、財産没収のうきめに合ったというわけではない。

アツベマというオランダ人銀行家は、逮捕されたが、食料調達に必要だというので食料委員会が釈放を要求し、公安委員の・バレール、カルノー、プリュール、ランデが共同署名で釈放を要求した。このため、彼は釈放され、公安委員会の保護のもとに食料調達に活躍した。

スイス人銀行家ペルゴにも逮浦令がだされたが、公安委員のランデ、財産委員会のカンボンが保護し、スイスへ食料調達に行くという名目で帰国させた。イギリス人銀行家ボイドは、シャボのおかげで逃亡することができた。ドイツ人銀行家フライ、ヴィーデンフェルト、オランダ人銀行家ファンデンヴェルなどは処刑された。

このように、外国人銀行家の運命は多様であった、ただ、一時的にしろ、無制限な投機行為が押えられ、活動を許された場合でも、それは革命政府に協力するというかぎりにおいてであった。そのため、これも経済危機の緩和に一役買ったのである。


危機からの脱出

革命政府のとった一連の非常手段が、一時的にしろ効果をあらわした。累進強制公債、金属貨幣の流通停止、アシニアの強制流通、証券取引の停止により、唯一の紙幣としてのアシニアの価値が上昇にむかった。外国人銀行家の迫害も有利に作用した。一般最高価格制と強制徴発、買占め禁止、違反者にたいする厳罰の効果もあがった。

そこで、九月からアシニアの下落はとまり、一一月から上昇にむかって、一二月には約五〇パーセントの水準に回復した。七月と八月、ひどいばあいは二〇パーセントに下っていたのであるから、かなりの回復であった。一般的な物価がこれを反映して安定し、生活必需品は最高価格で供給されたから、下層民の生活は安定した。

足もとを安定させた国民公会と公女委員会は、全力をあげて外敵と反革命軍との戦闘にむかった。すでに八月の末、マルセイユのジロンド派反乱を鎮圧した。九月はじめにはボルドーの鎮圧に成功した。九月八日、ベルギー国境オンドスコット村で、フランス革命軍はイギリス、ドイツの連合軍と闘い、これを敗走させた。港町ダンケルクが救われた。

この戦勝は、これまで敗北を重ね、外国軍が四日でパリに入ることがでぎるといわれたほど絶望的な状態から、フランスを救った。一〇月九日、リヨンのジロンド派反乱軍が撃破された。一〇月一六日、ワッチニーの戦勝があり、この日パリでは王妃の処刑がおこなわれた。王妃の処刑も大間題であったはずだが、当時のフランス人の関心は、むしろこの北部国境地帯の勝利であった。

オーストリアの大軍が、国境近くのモーブージを包囲していた。ここを救うために公安委員カルノーがジュルダン将軍とともに軍を率いてかけつけ、付近のワッチニー村でオーストリア軍を撃破し、モーブージを救った。このとき、陣頭に立って奮戦したカルノーの名声が高まった。

つぎの一〇月一七日、フランス革命軍がヴァンデーのショレ市で反革命軍を敗走させた。このころまでに、スペイン軍を国境の外に撃退し、イタリア方面ではピエモンテ軍を追いだすことに成功した。最後に残っていたツーロン軍港では、イギリス軍との激戦を続けていたが、一二月一九日、イギリス軍から奪回した。このとき、ナポレオン・ボナパルドが軍功を立て、将校から将軍に昇進した。一七九三年の末までに、フランス革命政府は内外の危機から解放され、自信を取りもどした。


反資本主義的政策かどうか

一七九三年九月五日から年末にかけての恐怖政治は反ブルジョア的で、サンキュロット的であるのか、それともブルジョア的であるのか、この解釈がむずかしい。多くの理論家が恐怖政治の反ブルジョア的性格を強調してきた。事実、反ブルジョア的な政策があいついで打ちだされた。最高価格制や強制徴発、買占め禁止法、貴金属の流通禁止、外国人銀行家の迫害などは、ブルジョアジーにたいする打撃になるはずである。

そのうえ、まだいくつかの反資本主義的政策がおこなわれている。たとえば、八月二四日、財政委員会を代表してカンボンが株式会社の廃止を提案し、可決された。これによって、ケース・デスコントをはじめ株式会社は廃止されることになった。インド会社にたいする告発は盛んとなり、八月から一〇月にかけて論争が続けられたのち、インド会社の清算が決議された。このような政策もまた、上層ブルジョアジーにたいする打撃である。

インド会社は、もっとも特権的な会社であるから別としても、株式会社が全面的に禁止されるのは、資本主義経済をくつがえすものであるかのようにみえる。なぜ禁止したかといえば、アシニアの下落をよそに、これらの会社の株が価値を維持していたからである。そのような証券が流通していると、アシニアと競合し、その価値の下落を見せつけることになる。そこで、モンタニヤールのみならず平原派のカンボンですらも、この廃止に熱心

だったのである。

こうした政策を見るかぎり、恐怖政治の政策は反ブルジョア的であるように見える。ところが、別な角度からみれば、国民公会と公安委員会が、ブルジョアジーの保護育成に積極的であったことがうかがわれる。そのまず第一は、航海条令であり、つぎは重工業、とくに軍需工業の育成政策であった。

航海条令は九月二一日に可決された。すでに五月、バレールがその必要を説いていた。自由貿易主義のジロンド派が追放されて以来、この法令について積極的な取り組みがなされた。航海条令は、植民地と外国との直接貿易を禁止して、フランスと植民地を結びつけ、本国と植民地の間には、フランス国籍の船だけを使用するべきことを規定した。これによって、植民地を本国にたいする原料供給地として確保しながら、本国の工業製品の販売市場として独占することになった。航海条令にさきだって、本国と植民地との間の関税が撤廃された。その面からも、植民地が本国に固く結びつけられた。

これらの政策によって打撃を受けた者は、仲介貿易で利益をあげていた外国の貿易会社、貿易商人であり、さらには、これと結びついて取引をしていた、フランスの商人であった。フイヤン派からジロンド脈にまたがって自由貿易主義を主張していた貿易商人は、このような勢力であった。今後は、これら貿易商人の利益よりも、フランスの工業家の利益が優先されるようになった。


工業の振興政策

革命政権による工業の育成政策も重要な問題である。フランス革命とくに恐怖政治といえば、流血、ギロチン、破壊を連想し、建設的なものは何一つないと思われがちであるが、これは誤解もはなはだしい。むしろ、この時期が、いままでのどの時期よりも、工業の振興にたいして政府の努力がなされた時期である。政府は、アシニアの価値が暴落するほど増発し、これを軍事費につぎこんだが、その中の相当部分が、軍需工業とその関連部門に投じられた。それと並行して、強制累進公債が徴収されたのであるから、金の流れを大まかにいえば、大商人その他の金持から資金を吸上げて、これを工業への投資に振りむけたといえる。商業を犠牲にした工業の育成策であった。

なぜこのようなことをしたかといえば、当寺の戦争に勝ち抜くためには、よにはともあれ武器、弾薬が必要であり、それを自国で生産しなければならなかったからである。そのためには、関連産業のすべてを育成する必要があった。そこで工業の全面的な振興が必要とされた。

ル・クルゾーの経営が一時悪化し、国有化論までだされたが、カルノーと軍需担当公安委員プリュールは国有化を否定し、支配人を督促して再建をすすめた。このため、一七九四年七月派遣委員が称賛するほど立ちなおり、大砲、弾丸を製造した。

アンドレ大砲製造所も生産が低下したが、一七九三年八月派遣委員がこれを国有化し、経営者を任命した。その結果経営が立ちなおり、海軍に大砲の供給をつづけ、一七九四年五月には立派に再建された。

シャルルヴィーユ武器工場は、派遣委員のプリュール(マルヌ県出身)の努力によって生産を増加させ、小銃、ピストルの生産を続けた。

鉄鋼業者ヴァンデルは亡命したが、一族の者が残って大砲の生産を続けた。アンザン会社はオーストリア軍の侵入によって破壊された。一七九三年一〇月、敵国軍を撃退したあと再建がはじまった。ただし、株主の多くが亡命したので、亡命者の株は売却され、その結果、貴族中心の株主から上層ブルジョアの株主へと移行した。鉱山そのものは戦争で一時破壊されただけで、のち回復し、所有権だけが移転したのである。

革命前から蒸気機関を製造していたペリエのシャイヨーエ場は、公安委員会のプリュール(軍需工場担当)の援助を受けて武器を増産し、武器工場のための機械製作にも活躍した。またペリエは、軍需工業のための技術教育に活躍した。そのためペリエと労働者が対立したとき、公安委員会はペリエを守って労働者の統制に努力した。

ドーフィネの城に非合法の三部会を召集して革命のロ火をきったクロード・ペリエは、この時期小銃を供給するための会社を設立し、これを「共和主義サンキュロット会社」と名づけた。そのために、ジロンド派反乱にも加担していたが、革命政府に有用な人物ということで保護された。

公安委員のプリュールとカルノーは科学者、技術者でもあったので、一流の科学者を公安委員会のまわりに組織して、発明実験、工業化をおこなわせた。そうした学者のうち、ペリエ以外にモンジュ、シャプタル、フルクロワ、ベルトレなど、多くの有名な学者がいた。旧公安委員、ギュイトン・モルヴォー(平原派)も科学者、発明家、企業家であり、プリュールに協力した。

彼らの活躍で、フランスの武器が質、量ともに向上していった。フランス革命と科学者の関係といえば、ラヴォアジエの例がすぐにもちだされる。革命に学者はいらないという方向に解釈されがちであるが、彼には徴税請負人という特殊事情があったためである。革命政権が保護した学者の実例もまた多い。とくにシャプタルは、このころ火薬製造に活躍し、その後ナポレオンのもとでも内務大臣となり、王政が復活しても失脚せずに、工業行政を担当している。科学者の中での万年与党の実例である。ラヴォアジエの例だけが、フランス革命の性格を示すものではない。


恐怖政治が大工業を滅ぼしたことはない

恐怖政治の時期に工業の育成がおこなわれたことを確認するのは、日本におけるフランス革命史にとっては非常に重要なことである。日本でのフランス革命研究の中で、大塚史学の解釈が強力な影響力をもっているからである。その最大の主張は、フランス革命で、大工業がサンキュロットの攻撃を受け、軒並み減んでしまったという図式である。大塚史学では、これを特殊工業の断絶とかオート・ブルジョアジー(上層ブルジョアジー)の断絶とか、前期的商業資本の敗北とかいう。

その実例としてもちだされるのが炭鉱のアンザン会社、鉄鋼のル・クルゾー、ヴァンデルなどである。これらの大会社、大工業が恐怖政治のときにジャコバン=サンキュロットの攻撃を受けて減んでしまったというのである。(『大塚久雄著作集』第五巻、三二七ー三二八頁、高橋幸八郎『近代社会成立史論』二〇二頁、中木康夫「問屋制度と特権マニュファクチャー」『西洋経済史講座』第三巻、岩波書店、二一七ー二二〇頁)

この意見は、フランス革命の通史の中で説かれることはないが、多くの学術書の中で説かれ、また支持されているから、学者や研究者を通じて大きな影響力をもっている。ただし、フランスでは、この意見を誰も主張しない。なぜなら、自分の国にアンザン会社やル・クルゾー、ヴァンデルが現代でも存在していることを知っているからである。

恐怖政治の解釈については、かなり大塚史学と似た意見を唱えても、これら大工業がフランス革命で断絶したとはいいきれない。ところが事実を知らない日本の学者は、「知らない者ほど強い者はない」の通り、大工場の断絶論を唱えてきたのである。

この意見はまだ根強くのこり、明治維新の解釈の上に大きな影響力をもっている。だから恐怖政治の時代にでも大工業が保護育成されることがあり、破壊されたとしても、敵軍との戦闘によるものであったことを確認しておかなければならない。だいたい、ヨーロッパ諸国を相手に戦争をしている国が、軍需工場に関連のある大工業を破壊して、戦争が続けられるかと考えるべきである。大塚史学は、農村工業、中小マニュファクチュアの力を極端に重視するが、それでまともな武器、弾薬が作られるかどうかと考えるべきである。フランス革命で大工業がつぶれたという理論は、技術的条件を無視した現実離れの傾向が強い。フランス革命は、外国との必死の戦争をともなった革命である。大工業の減亡を唱える人は、そうした外部的な条件も忘れている。

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