2018年9月20日木曜日

坂本竜馬は明治維新の商人的性格の第一号

明治維新で勝ったのは商人階級で、負けたのは武士階級であった。同じくフランス革命で勝ったのはブルジョアジーで、負けたのは貴族階級であった。前者はビジネス、後者は土地の上に立っている。だから市民革命になる。時期でいうと、1830年がフランス革命の、1871年が日本のそれに当たる。
さて、そうはいっても、ビジネスの側の人間は、控えめな形で、旧支配者の衣もかぶっているから、はっきりと指摘しない限り分かりにくいのである。こういうことは約50年前から私が書き残してきたことである。しかし、人々は、明治維新となると薩摩、長州の武士出身者ばかりに目が行って、それが勝ったものであるから、つまりは、武士が武士にかったものだと思い込んでいる。
これが間違いなのだといても、「それなら、商人が関与したという現象を示してくれ」といわれると、「例えば」というところで躓く。誰もいないといおうわけだ。これで困ることになる。
「坂本竜馬がいるではないか」。これが私の答えになる。「彼も武士ではないか」という反論が来る。これに対する反論をしなければならない。彼は土佐藩の下級武士である。これは間違いがない。しかし、彼の家系は、才谷屋という商人であった。ガから、彼は一時、「才谷梅太郎」という別名を使っていた。土佐藩に献金をして、その功績で、「苗字、帯刀」を許される。こういう商人上がりの武士は、全国的にかなりいて、下級武士の扱いであるが、商人としての資産があるので、生活はよい方であった。坂本龍馬はその家の次男であった。これでは、武士階級の中の地位という意味では、あるのかないのかわからない。つまり、本物の武士というのは、家禄が生活の中心でなければならない。その家禄は、藩主を代表者とする、領地の集団所有にあやかる権利であった。坂本龍馬はその資格を持っていない。
そのうえ脱藩した。悪くすると、投獄、切腹になる。取柄としては、勝海舟に入門して、軍艦の操縦術を会得したことであった。西郷隆盛に保護され、長崎に住んで、海援隊を組織した。これが何かというと、商社のはしりであった。諸藩からの脱藩の士を集め、蒸気船を動かし、利益も追及するという規約を作った。つまりは、元武士を集めて、商売の組織を作ったのである。
つまり坂本竜馬は商社の社長であった。最大の商売が、武器弾薬の輸入であり、売り込み先が長州藩であった。その後、土佐藩にも売り込んだ。土佐藩兵は板垣退助に率いられて、四国を平定し、京都から甲府に進んで新選組と対戦し、これを撃破して、新宿に達した。ここまで成功した基本は、坂本龍馬の調達した新式銃の威力であった。これがなくて、旧来の武器では、途中で敗北し、消滅していただろう。そういう意味では、海援隊という商社社長の坂本龍馬の役割は、決定的なものであった。もちろんその前の第二次長州征伐に際しての、新式銃の威力にも貢献した。これなしには長州が勝つことは難しかった。
だから、西郷隆盛、桂小五郎、の間に、策士坂本龍馬がいるのだ。新興商人、武士的商人が新政府樹立に決定的役割を演じた。
彼一人に目を奪われてはいけない。彼を資金的に支えた商人がいる。長崎の密貿易女商人「大浦のお慶」,「小曽根英四郎」などの名が残っている。研究されることがないが、重要人物である。また、またのちの陸奥宗光が協力した。もと紀州藩士、三井の隠密(忍者の姿で写真を撮ったものが残っている)、のちの外務大臣、であるが、こういうところにも、大商人三井とのかかわりあいがある。
フランス革命でも、ルクツーという貴族的商人、銀行家、財政委員会議長、カジミール・ド・ペリエという貴族、産業資本家、銀行家、首相兼内務大臣のような人物が出てくる。つまり両者が似ているのだ。