2017年10月30日月曜日

恐怖政治 ロベスピエールの政策 敗北への道

ロベスピエールは公安委員会を欠席し始めた。しかしジャコバンクラブには通った。まだ議員・人民代表としての資格はあるから、「暴君どもと死闘を演じるであろう」といった。暴君と呼ばれた人たちは、彼のことを独裁者といった。彼の一番弟子サン・ジュストは貴族出身の革命家・派遣委員であったが、「革命は凍り付いた」と書いたが、公安委員のメンバーとつかみ合いの喧嘩をした。この間,ルクツーは投獄されて処刑を待つ身の上であった。(ナポレオンのクーデターを実現させた人物)。もう一人の銀行家ぺルゴは告発されたが、カンボン(財政委員会議長)が国民公会で大演説をして、拍手喝さいを浴びて、安全を確保した。ぺルゴはこの時期公安委員会の銀行家と言われていたが、のちにはナポレオンのクーデターを演出した。
この時の対立はすべて、ヴァントウーズ法をまじめに実行するか、それともこれを口先だけの公約にとどめるかという点を巡るものであった。ロベスピエール派議員は約10人,これだけがまじめにやろうとするものであった。残り数百人は「あれは口約束」、エベール派の脅威が去った今となっては、廃案にすればよいと思っている。カンボン財政の立場から、無料はよくないといっていた。公務員の規律違反については、ほとんどの議員が身にやましいものを抱えていた。ただ一人、ロベスピエールが腐敗しない人と呼ばれていたということは、他の議員はそうではないということだから、今やロベスピエールは迷惑な存在になってきた。
五百数十人対十人、これで十人が簡単に無視されなかった理由とは、当時の特殊な事情によるものであった。パリの治安がジャコバンクラブに依存していた。これを敵に回せば、議員の身の上も危ない。そのジャコバンクラブがこのときロベスピエール支持で固まっていた。いざとなれば、数十万人の武装した群衆を集めることができる。このクラブの指導者は何者か。それは小ブルジョアジーと呼ばれた、今でいう中産階級であった。商店主、工房の親方、芸術家、などなど大金持ちではないが、貧しくもない、まじめに働いて、そこそこの収入を持つ、こういう階層であった。一人サンプルを挙げると、ダヴィッドという画家がいる。誰でも知っている。ナポレオンの戴冠式を描いた。彼もこのとき議員であり、「ロベスピエール君毒を飲むか。それなら僕も毒を飲む」といった。こういう階層だから、腐敗に対しては敏感であり、独特の正義感が出てくる。腐敗議員と言われた人たちが釈明に来た時、「ギロチンへ」という叫び声で追い返された。こうなってくると対決は避けられない。
財政委員会議長カンボンは「明日私か、ロベスピエールか、どちらかが死ぬだろう」と父親に手紙を書き送った。これが対立の要点であり、このように整理した歴史家はいない。

2017年10月25日水曜日

恐怖政治の第2期 ダントン派とエベール派の策動

1793年の年末までに穀物の事情は危機を脱して、騒ぎは静まり、過激派は抑えられた。外敵との闘い、ヴァンデー暴動との戦いも、絶望的な状態を脱した。これで穏やかになるかと思われたが、1794年の初めから深刻な肉不足がはきまった。冬の寒さを乗り切るのには、深刻な問題であった。これで人心が動揺したとき、エベールが先頭に立って、買占め人をギロチンにかけよという運動を展開した。獄中の囚人を食ってしまえとも書いた。大商人も小商人も容赦しないとも書いた。大衆運動が高まると、国民公会の全員が良くない、自分はクロムウエルになりたいと言い出して、武装蜂起を呼び掛けた。エベールの足場はコルドリェクラブであり、ジャコバンクラブよりはもう一段下層の人々の集まりであった。エベールの告発によって、多くの人たちが逮捕、処刑された。
ダントン派の人々も攻撃の的になった。旧体制の時代からの国策会社インド会社の清算を巡って、ダントン派の議員たちが私腹を肥やしているというのである。約十人のダントン派議員が逮捕されたが、こちらも反撃して、エベールの背後に外国人銀行家がいる、と暴露した。これを言い出すと一つの論文ができるほどのものであるが、ここではこれが事実であったというだけにしておこう。こうした騒ぎの中で、公安委員会と保安委員会は結束して、ダントン派とエベール派を処刑してしまう。これも恐怖政治ではあるが、まだロベスピエール個人の突出した役割は出てこない。

2017年10月24日火曜日

恐怖政治はなぜ起きたか

ヴァンデー王党派農民の反乱 この時期、もう一つの困難がフランス西部に起きた。それがヴァンデーの深い森を根拠地にした農民の反乱であった。これは王党派であって、フランス革命そのものに反対していた。市民革命はブルジョアジーと農民の同盟によるという理論とは相いれないものである。なぜかというと、それは、この地方では農民の多くが革命がはじまると生活水準が低下したと感じるようになったことにある。宗教領つまり協会、修道院の直領地が国有化され、アシニアと呼ばれる政府紙幣をもったものがこれを買い取ることができるようになった。商人が修道院の建物を買い取り、ワインの貯蔵庫に変えた。パリのノートルダム寺院もそうなった。宗教心の熱い農民にとっては悪魔の仕業と思われただろう。それに加えて、新しく土地の所有者になったものは、利潤追求に熱心で、労働条件は悪くなった。つまりフランス革命で土地をもらうことがなかった農民の大群、これが国王、大貴族を懐かしんで引き起こした反乱であった。大義名分もあるから、迷いがない。革命派の皆殺しが起こり、普通の農婦が殺せ、殺せと叫んで殺戮をしたという。負けかかると、森に逃げ込み、ゲリラ戦に持ち込んだ。この大群がパリに近づいてきた。これも政府とパリ市民の恐怖の的であった。政府軍も血みどろの戦い続け、平原派議員といえども、穏健といえる態度ではなかったといわれている。ここにも、もう一つの恐怖政治があった。大領主の支配を倒したと思ったところ、農民相手の血みどろの戦いになったということである。

2017年10月23日月曜日

恐怖政治はなぜ起きたか ジロンド派の反乱、これを鎮圧した派遣委員

6月ジロンド派は追放された。しかし大多数の議員は自宅軟禁程度で、これなら恐怖政治にはならない。やがて数十人の議員が脱走して郷里に帰り、そこで反乱を組織した。これを「連邦派」の反乱ともいう。ジロンド派が連邦制を主張したからである。マルセイユ、リヨン、ボルドー,ナントなど主要都市というようになったが参加したから、これは一大脅威になった。政府はすぐに派遣委員に全権力をあたえて、鎮圧に向かわせた。これも年末までにほぼ成功した。この時、派遣委員たちが大量虐殺を実行した。大砲刑、溺死刑などの名が残っている。彼らのことをテロリストというようになった。ついでながら、フランス語ではテロのことを「テルール」といい、恐怖政治もこの言葉の日本語訳である。
これら派遣委員には山岳派も平原派もいたので、テロは山岳派のものというわけにはいかない。なぜここまでこじれたのか。ジロンド派はなにをめぐって命がけで抵抗したのか。それは、「累進強制公債」を受け入れることができなかったからである。その内容を要約しよう。財政破綻、戦費調達のため、一年間だけ金持ちは我慢して、累進税を払い上限を中産階級の上程度にとどめる。それ以上の年収を公債のかたちで政府に収めるというものであった。実際には、公債台帳に登録するというものであった。これが返してもらえるのか、事実上の没収になるのかは誰にも分らない。しかし戦争に負けてすべてを失うよりは良いではないか、というのが政府の論理であった。平原派についたブルジョアジーはこれでよいとした。ジロンド派の側の人々は絶対に容認できなかった。これが財界、ブルジョアジーの分裂を作り出した。この背景をさらに分析すると、業種や立場によって、之でも得をする立場と、丸々損をする立場に分かれるが、今それを詳しく分析するだけの紙面はない。こうして、これは一種のブルジョアジーの共食いになった。
こうした共食いはこんごの世界史に登場してくる。もうひとつ、このテロリスト議員には、収賄、略奪、腐敗、汚職の性格が目立っていた。なかには、下層出身で、帰ってきたときには貴婦人を愛人にしていた者もいた。
こうして、この局面については、フランス革命は評判が悪いのである。その中にあって、ロベスピエールは「腐敗しない人」というあだ名をもらっていた。このあたりが、テルミドールの反革命に結びついていく。

2017年10月22日日曜日

恐怖政治、9月5日の事件、穀物の強制調達をめぐって

この事件は年末まで続いたが、重要なことが歴史の上で語られていない。まず、この「革命軍」がどれだけ残虐なことをしたか、はっきりと書いた人はいない。ギロチンを引っ張て行ったことは確かであるが、何人の首を切ったかは書かれていない。ここでの恐怖政治は証明できないのである。これは無理もない。はじめの頃は裕福な農家つまり地主や貴族は漫然と家宅捜査をされ、処刑されたであろう。しかし、その次の村では、情報が伝わっているから、自家消費分を残して、捨てるだろう。革命軍はそれを拾い集めたら目的を達成する。後は早くパリに帰ればよい。当時は荷車での移動であるから、それほど遠くへはいけない。つまりこの影響は限定的であった。
ただし、農業政策という意味では、深刻な結果を残した。この時期が小麦をまく時期であったから、誰もが自家消費分だけをまいて、それ以外の農地を荒れたままにしたのである。本来なら小麦の青い芽がでてきて、畑は一面真っ青になる。そこが黒々としている。誰が見ても来年の食糧不足は目に見えている。ロベスピエールはそれをジャコバンクラブで訴えて、過激派反対の潮流を作り出した。過激派指導者が孤立したところで、保安委員会が彼らの逮捕、処刑を実行した。自殺した人もいる。ラコンブは投獄され、のちに釈放されて、屋台を引いたといわれる。年末になると、ロベスピエールの任期は絶大なものになった。国民公会の議員からすれば、彼が守護神のように見えたのであった。現在はロベスピエールが極左のテロリストのように思われているが、そのテロリストから国民公会をまもったことで人気を博したのであった。

2017年10月21日土曜日

恐怖政治はなぜ起きたか 続 9月2日以後

ともかく、ラコンブ率いる女性の大群の圧力と、ダントンの発言、議長ロベスピエールのまとめで、ある政策の実行が進められることになった。それが、穀物の強制徴発、家宅捜査、物資隠匿と買占め、売り惜しみに対する死刑の実行を含むものになった。それを実行する集団として「革命軍」が即席で組織された。これはフランス革命軍とは別物であったから、ここのところをはっきりさせないで論じる人は、フランス革命の本質を間違えることになる。軍隊はすべて前線に出ているから、いわゆる「革命軍」は急ごしらえの別組織であった。幹部は過激派の指導者、兵士は貧民街の住民出身であった。これが付近の農村に到着すると、「まず大きな家に行け。間違いなく買い占めにんだ。余分な穀物を見つけたら、買占め人としてギロチンにかけろ」という方針をしめされたので、このようにしたのである。これはエベールの書いたものである。これでは恐怖政治になってしまう。これは貧民の側からする恐怖政治であった。

2017年10月13日金曜日

恐怖政治はなぜ起きたか 続

ジロンド派追放が実現しても、まだ恐怖政治は始まらなかった。公安委員会も「眠っている」委員会だとマラーがからかったほどであった。9月5日の事件、これが「恐怖政治が日程に上った」とあるフランス革命史家が書いたが、その意見はあまり活かされていない。この事件、正確に伝えた概説書は見当たらないので、すこし詳述します。フランス軍は国境で敗北を重ねた。ジロンド派の反乱でリヨン、マルセイユ、ボルドーなど主な地方都市は反政府側になった。西部のヴァンデー地方で、王党派の反乱が起こり、それに農民が合流して、パリ目指して攻めてきた。これでは物流が途絶える。それを見越して、買い占め、売り惜しみが進む。ついに穀物が店頭に出なくなり、パン屋はパンを焼けなくなり、主婦は家族に食べさせられなくなった。特に貧困層にしわよせがきて、飢え死に瀕した大群が出現した。この階層を支持者に持って政治指導者になったものが、「アンラジェー」という。怒り狂ったものという意味である。議員の中にはいない。
この指導者たちに率いられて、大群衆が議会・国民公会に向かった。今までになかった現象としては、包丁を持った女性の大群が、クレール・ラコンブという美人女優の指導者とともに、赤い三角帽子をかぶうて議事堂の中へ入ってきたことであった。制止しようとした何人かが刺された。彼女らが議員のそばに座り込む。その力を背景に、ラコンブが議長を押しのけて演説をした。当日の持ち回り議長がロベスピエールであった。しかしこの状況の下で、彼も指導力は発揮できない。彼女の演説の内容が、恐怖政治の実行を要求するものであった。しかし議員は誰も賛成できない。硬直状態に入ったところで、ダントンが賛成を口にした。後ごく少数のコルドリェクラブ出身の議員が賛成した。これで流れが変わって、賛成多数となり、議長が代表として成立を宣言した。
そうすると、腹はともかく、ダントンが提案し、ロベスピエールが宣言したことになる。また、これを貧困者の指導者は大義名分に使う。こうしてこの二人が恐怖政治の指導者として、後世に伝えられたのである。実際は、大衆運動の圧力に屈して、一時的に譲歩した政策であった。ただし、権力を明け渡したのではない。ここが重要なところである。

2017年10月9日月曜日

二十三 恐怖政治はなぜ起きたのか

1793年6月2日ジロンド派追放の後、ジャコバン独裁、ロベスピエール指導、恐怖政治と書くのがすべての解説です。私はこれを訂正しようと思う。まず、次の政権は、平原派と山岳派の連立政権で、山岳派の支持母体がこの時点ではジャコバンクラブになっていた。それ以前、ジロンド派もジャコバンクラブの会員であった。財政委員会を平原派に握られていたのでは、独裁はできない。次に、ロベスピエールは、それから約一か月遅れで公安委員会に入る。その間ロベスピェールの恐怖政治はないのです。次に、どういう権限を持っていたか。目立ったものはないので、公安委員会の政策をジャコバンクラブで説明し、その支持を取り付けることが役割であった。なぜこれが必要か。当時ヨーロッパ諸国との戦争で、軍隊が前線に出払っていて、パリの治安はジャコバンクラブの武装勢力に頼っていたという事情がある。国家の権力機関は他の公安委員が担当していて、二人の副署で有効とされた。つまりロベスピールに関係なく、国家権力は行使されていたのです。もちろん、彼が議長であったというのではない。
というわけで、9月5日までは、まだ恐怖政治らしいものは現れなかった。通常どこの国にでもある犯罪の取り締まりと処罰であった。ジロンド派に対する弾圧が取り上げられるが、反乱を起こした場合だけで、そうでなければ、軟禁状態で、約半数が生き残った。ロベスピエールに対して、「君は三回も私の命を助けてくれた」と書いた手紙も残っているくらいである。つまり「血に飢えた暴君」というイメージは後世の作り話である。それにしても、だれもが知っている「恐怖政治」はなぜ起きたのか。

2017年10月7日土曜日

二十二 ジャコバン派独裁は無かった

フランス革命史では、ジャコバン独裁、山岳派・モンタニヤール独裁、ロベスピエール独裁、公安委員会独裁などという言葉が出てくるが、すべておどおどろろしい印象を与える割には実体がない。これもボナパルテイズム論と同じく、市民革命の解釈に対して誤解、混乱を招く。だからこれを訂正しなければならない。まず、ジャコバンはクラブの名前で、議会の党派の名前ではない。これにたいおうする党派は、モンタニヤール・山岳派と呼ばれる。議会の小高い場所に陣取ったから、このあだ名になった。約150人で、その反対側にジロンド派と呼ばれる議員の集団が陣取った。この派は当時「ブリッソ」の党、「ロラン」の党と呼ばれていて、ジロンド派という言葉は後世につけられたものである。これも約150人であった。その真ん中に約400人の議員がいて、これが「平原」とか「沼、沼沢」と呼ばれていた。これに派をつけて呼ぶには、ためらいが出てくる。なぜなら、まとまりがないからである。「一人一党主義者」の集まりというべきである。普通のフランス革命史では、これを信念のない、ふらふらした日和見主義者のように書くけれども、実際に議事録を読んでみると、そうではない。よく発言している。最終的にこの400人が生き残り、ジロンド派は半減し、山岳派はほぼ全滅した。平原派が万年与党であり、最終的な勝者だといってよい。
それでも、1793年ジロンド派を追放した後、政権は山岳派の手中に入り、いわゆるジャコバン政権となり、独裁を許したのではないかと反論されそうである。そうではない。議会から、正式には国民公会から三つの委員会を選出し、これが臨時行政機関・内閣を指揮するものとした。つまり、委員会が大臣で、今までの大臣が次官に格下げされたようなものになった。三つの委員会は対等で、これをたばねる首相の地位はなかった。公安委員会、保安委員会、財政委員会であり、前二ryは誰でも知っている。しかし財政委員会を知る者はいないのみならず、これを取り上げる歴史書もない。つまり、財務省のない政府というものを論じているのである。そして、財政委員会こそは平原派から選出されたのであった。これをどう見ますか。続きは後で。

2017年10月6日金曜日

続 ナポレオンがクーデターで倒したもの

ナポレオンの背後、支持者に銀行家、産業資本があったことは分かったとして、ならば彼の攻撃の矛先は誰に向けられたのか、この点についての説明が、どの書物や論文にも出てこないのである。だから訳が分からないのである。この上となると、大貴族だけになるが、それはヴァンデミエールの反乱事件で、ナポレオンがこれに砲撃を加えたので、そうではないことが分かる。ならば誰か。これを解明しないことには、ボナパルテイズムの謎は解けない。だからへんてこな理論が出てくる。
この時代、ヨーロッパの強国相手の大戦争が長引き、軍隊への物資供給が一大ビジネスに成長した。そこにあらゆる階層から参入者が現れた。フランス語で「フルニスール・オ・ザルメー」という。軍隊に対する供給者という意味であり、日本語では「御用商人」と言ってもよいが、この言葉には「卑屈」な響きかあるので、この場合は使うと誤解を招く。したがって、「武器商人」と言い換えて、食糧も含むことにしたい。また莫大な「戦利品」の輸送も含むから、その時の「横領」も考慮、想像する必要がある。こうしてこの集団が財界を圧倒するような力を持ち始め、政界トップとの癒着が深刻な問題になった。この頂点に立ったのが、「ウヴラール」という巨大武器商人であった。中小企業者から身を起こし、総裁政府の時には第一総裁バラとの個人的交友関係を深めて、巨利をむさぼったといわれる。この集団の連日連夜の豪遊、腐敗、堕落は後世有名になる。その影響で、軍隊に対する物資供給が滞り、フランス軍の戦力が低下した。これもフランス軍が敗北を重ね始めた理由の一つと言われる。各地の軍司令官から苦情が寄せられるようになった。
さらに財政状態も悪化し、影響が市民生活にも出始めた。この不満を背景に下院では反政府政党が進出し、ジャコバン・クラブが再建され、恐怖政治の公安委員ロベール・ランデが指導者として出てきた。
ナポレオンのクーデターはこの二つの勢力に向けられた。普通の歴史書では後者のほうへの打撃だけが書かれている。しかし、現政権に対する反逆という意味がクーデターであるから、総裁バラと巨大武器商人の複合体制を打倒しなければ、意味がない。バラは圧倒的な武力の前で、ていこうの余地なく退場した。ウヴラールは軟禁された。しかしここからが問題、処罰しようとしても、軍隊への供給が途絶えると困る。両者困ったところで、妥協が成立し、値引きが提案されて、以後正常な活動に戻った。ここで、ナポレオンはイタリアに向かって出動し,マレンゴの戦いで成功する。
この筋書きを見ると、財界の分裂と妥協、これがボナパルテイズムの本質であることが証明できる。

2017年10月4日水曜日

続 第二統領カンバセレスは大工業の経営者

ナポレオンが帰国し、クーデターを起こし、統領政府を樹立した。1799年11月10日のことである。ひと月のちに人選が固まり、第二統領カンバセレスに落ち着いた。これで1804年帝政まで続くことになるが、ナポレオンは戦争に出るから、内政という意味ではこの人物の存在は重要であろう。ジャン・ジャック・レジ・ド・カンバセレス、普通の歴史書にはほとんど登場しないが、ボナパルテイズムの本質をいうときには重要な役割を示すことになる。名前のとおり貴族ではあるが、法服貴族であり、ナポレオン法典の責任者であった。ナポレオンが法典を編纂するわけではない。これは誰でもわかることである。
もう一つの性格、これはどの論文、本にも書かれていない。かれは、繊維工業の王立マニュファクチュアの経営者であった。もちろん実力経営者であって、サラリーマン経営者ではない。こういうのを大塚史学では「前期的商業資本」による「特権的大工業」に分類し、市民革命で打倒されるものというが、なかなかそうではない。つまり、大工業家兼貴族兼法律家の性格を兼ね備えていて、恐怖政治の時は、穏健派議員でありながら、政府からは攻撃されなかったという、不思議な人物であった。ペルゴの万年与党、ルクツーの貴族兼法服貴族と似ている。ナポレオンの権力はこういう方向に落ち着いたといえよう。これで、ボナパルテイズムが財界、経済界の政権であることが証明できる。

2017年10月2日月曜日

続 ナポレオンを擁立した銀行家、ペルゴとルクツー

この二人の銀行家がナポレオンの権力を作り出したといってよい。これは命を懸けた問題であって、一つ間違えば敵前逃亡とみなされ、銃殺に値する行為であった。それを成功に導くように本国でお膳立てしたこの二人は、どういう人物であったのか。
ペルゴは旧体制の下でパリの銀行家として成功していた。個人の投資銀行であるが、年下の共同経営者を持っていた。それがラフィットで、1830年7月革命のあと首相になり、いよいよ銀行家の天下だといった人である。ペルゴはフランス革命がはじまると、ラファイエットの副官になって、革命政権の中枢に入り込んだ。ラファイエットは侯爵・大領主、16歳でヴェルサイユ城にデビュー、王妃マリー・アントアネットがダンスの相手をしてやろうといってくれたくらいの名門貴族ではあるが、この時は革命の側に就いた。国民衛兵司令官と言って、国王軍の攻撃に対してパリを守るために組織された市民軍であった。つまりいきなり権力を握るのではなくて、まずは旧体制の名門で理解のある大貴族を立てて、影に隠れて実権を握るというやり方である。その後はどのような政権が出てきても、常に協力する。最も過激な政権ができた時でも、全面協力した。そのため公安委員会の銀行家ともいわれた。それでいて、失脚、粛清されることがない。珍しい人物である。
ルクツーは二人いて、ルクツー・ド・カントルー、ルクツー・ド・ラ・ノレーとなる。一族でそれぞれ領地を持っていて、領地の名が後ろについている。つまり貴族であるが、本来は銀行家、貿易商人とくにアメリカニユー・オーリンズとのあいだに貿易船を動かしていた。つまりブルジョア貴族であった。ヴェルサイユ城には入れない。生涯に一、二回大貴族の紹介で王に面会できる程度であった。今問題になるのは、カントルーのほうである。フランス革命の出発点は、国王軍がパリ制圧を目指して侵入したとき、市民軍がこれを迎え撃って撃退したときであるといわれる。この時、ルクツーはパリ守備隊の兵舎に出向いて、自分らの側についてくれたら給料を払うと演説した。じつはこの時、兵舎にはお金がなくて、飢え死にしそうな状態であった。こうして職業軍人を革命の側に合流させた。こういうものがないと、戦闘にはなかなか勝てない。フランス革命というと民衆の蜂起だと思われているが、ルクツーの行為は軍人と銀行家の結合という側面になる。1792年王宮の襲撃、ルイ16世の逮捕という事件のときも、銃を持って参加したというから、なかなか戦士としての性格も持っている。こういうのを日本語では侠商という。しかしその後、こんどは国王の処刑に反対するような言動がたたって、逮捕投獄され、処刑を待つ身になった。運よくテルミドールの変があり釈放された。その何年かのち,ナポレオンと出会うことになる。「たぶんイタリア人であろうが、今後はああいうことはしないといっていた」と書いている。つまり恐怖政治はしないというのである。これがナポレオンに期待した理由であろう。こうして、二人の銀行家が、ナポレオンに期待したのであった。

2017年10月1日日曜日

続 ナポレオンを呼び戻した二人の銀行家

ナポレオンは北イタリアからウィーンに迫り、オーストリアを屈服させ、戦争を終わらせた。これで最も強力な敵国を対仏大同盟から離脱させた。これでナポレオンはフランスの英雄になった。1798年エジプト遠征に出発した。陸上の戦争ではかったが、海戦では敗北した。このとき手紙が本国から届いた。フランスが危機にあるので、本人だけが帰ってきてほしいというのである。そこでわずかな供回りを連れて帰国した。
この手紙の差出人はだれか。これがボナパルテイズムの本質を表しているが、ほとんどの歴史書には書かれていない。二人は銀行家であるが、この頃は個人銀行家であり、普通預金の銀行家ではなく投資銀行家であった。ペルゴ、ルクツーという。

続 

ナポレオンは出獄してからしばらくは失業状態であった。しかし、1776年にはイタリア方面軍の司令官になって、遠征し、成功した。彼の軍事的な才能、ツーロン軍港時代の上官・派遣委員バラ・バラ引き立てがてがあった。しかしもう一つの要素はあまり人々が取り上げないものである。彼のイタリア語の名前は、ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテである。イタリアでは由緒正しい貴族であって、フランスでの扱いとは違ってくる。この名前「良いところのナポリ」さんという意味になる。ジョークの様な話なるが、民心掌握には強力な武器になる。フランスに行って出世した貴族が帰ってきたという感じになって、封建支配者以外は好意を持つ。ここに市民革命を武力でうえからひろめたという意味になる。こういう市民革命の実現のしかたがありうることも、理論化の過程で考慮するべきである。
その前にはヴァンデミエール将軍と言われるようになる。この名は「革命暦」からくるもので、1795年その月に王党派貴族つまり旧上流貴族・名門貴族が反乱を起こし、もうすこしで勝つかもしれないというとこにまで攻めてきたという事件であった。仮にもしこれが成功していたとすると、フランスには旧体制、絶対主義が復活したであろうというものであった。政府の側には、総裁政府のトップにバラがいて、副官にナポレオンがなり、反乱を鎮圧した。ナポレオンはますます成功したが、アンギアン公爵は銃殺された。コンデ大公の孫、フランス王国の最高の貴族、ヴェルサイユ城を取り仕切っていた人物の唯一の孫で、これをもってコンデ家の家系は絶えたというので、フランス人にとっては一大事件になった。だからナポレオンのことを悪く言う人たちもまた、フランスには一定数いる。これもまた、市民革命の一つの側面である。