2017年10月9日月曜日

二十三 恐怖政治はなぜ起きたのか

1793年6月2日ジロンド派追放の後、ジャコバン独裁、ロベスピエール指導、恐怖政治と書くのがすべての解説です。私はこれを訂正しようと思う。まず、次の政権は、平原派と山岳派の連立政権で、山岳派の支持母体がこの時点ではジャコバンクラブになっていた。それ以前、ジロンド派もジャコバンクラブの会員であった。財政委員会を平原派に握られていたのでは、独裁はできない。次に、ロベスピエールは、それから約一か月遅れで公安委員会に入る。その間ロベスピェールの恐怖政治はないのです。次に、どういう権限を持っていたか。目立ったものはないので、公安委員会の政策をジャコバンクラブで説明し、その支持を取り付けることが役割であった。なぜこれが必要か。当時ヨーロッパ諸国との戦争で、軍隊が前線に出払っていて、パリの治安はジャコバンクラブの武装勢力に頼っていたという事情がある。国家の権力機関は他の公安委員が担当していて、二人の副署で有効とされた。つまりロベスピールに関係なく、国家権力は行使されていたのです。もちろん、彼が議長であったというのではない。
というわけで、9月5日までは、まだ恐怖政治らしいものは現れなかった。通常どこの国にでもある犯罪の取り締まりと処罰であった。ジロンド派に対する弾圧が取り上げられるが、反乱を起こした場合だけで、そうでなければ、軟禁状態で、約半数が生き残った。ロベスピエールに対して、「君は三回も私の命を助けてくれた」と書いた手紙も残っているくらいである。つまり「血に飢えた暴君」というイメージは後世の作り話である。それにしても、だれもが知っている「恐怖政治」はなぜ起きたのか。

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