2017年10月24日火曜日

恐怖政治はなぜ起きたか

ヴァンデー王党派農民の反乱 この時期、もう一つの困難がフランス西部に起きた。それがヴァンデーの深い森を根拠地にした農民の反乱であった。これは王党派であって、フランス革命そのものに反対していた。市民革命はブルジョアジーと農民の同盟によるという理論とは相いれないものである。なぜかというと、それは、この地方では農民の多くが革命がはじまると生活水準が低下したと感じるようになったことにある。宗教領つまり協会、修道院の直領地が国有化され、アシニアと呼ばれる政府紙幣をもったものがこれを買い取ることができるようになった。商人が修道院の建物を買い取り、ワインの貯蔵庫に変えた。パリのノートルダム寺院もそうなった。宗教心の熱い農民にとっては悪魔の仕業と思われただろう。それに加えて、新しく土地の所有者になったものは、利潤追求に熱心で、労働条件は悪くなった。つまりフランス革命で土地をもらうことがなかった農民の大群、これが国王、大貴族を懐かしんで引き起こした反乱であった。大義名分もあるから、迷いがない。革命派の皆殺しが起こり、普通の農婦が殺せ、殺せと叫んで殺戮をしたという。負けかかると、森に逃げ込み、ゲリラ戦に持ち込んだ。この大群がパリに近づいてきた。これも政府とパリ市民の恐怖の的であった。政府軍も血みどろの戦い続け、平原派議員といえども、穏健といえる態度ではなかったといわれている。ここにも、もう一つの恐怖政治があった。大領主の支配を倒したと思ったところ、農民相手の血みどろの戦いになったということである。

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